(20)


孔雀王咒。

おまえの望む、多くを救える咒法。

しかし使えば、おまえは母と弟を棄てることになるやもしれぬ。

逆に他人を、傷つけることにもなるやもしれぬ。

ただ、私はおまえに……機会を与えよう。




毘沙門天の言葉が、重い。のしかかるように、頭の中に響いている。小角は、黙って窓

の下を眺めた。母と弟が、じっとこっちを見ている。その審判のような視線に会うと、

どんな決意も砕けてしまう気がした。

(罪を…断罪される…)

そんな気がして、すくんでしまうのだ。その恐怖は、彼がずっと背負い続けているトラ

ウマなのかもしれない。

「何やってやがんだよ?!てめ〜!!」

窓際で固まっている小角をどつくように、前鬼が怒鳴った。けれど、さっきから、白地

の雑袍は石像にでもなったように動かない。しばらくして、血の気の失せた唇が、うわ

ごとじみた頼りない声でつぶやいた。

「母上が……いらっしゃる……」

「はあ?!」

「弟も……下に……」

言われて窓から覗き見た鬼神は、その瞬間にすべてを悟って、高い声を張り上げた。

「だから、どおした!!」

「いや…その……」

「あいつらが見てると術が使えねーってのか?!てめ〜……いい加減にしやがれ

よ!?」

ガッと、鬼神の強い腕が小角の襟首をつかみあげている。唇が触れそうなほど顔を近付

けると、迷った瞳を叱咤するように彼は声を荒らげた。

「ふざけてるヒマがねえことくらい、わかってんだろうな?!」

「わかってる」

「だったら!!」

「わかってるさ!!でも……」

「でも、何だ?!このまま死にてえってのか?!」

炎よりも赤い瞳が、怒りのあまり潤んでいる。それでも、それ以上の強さで、小角は怒

鳴り返していた。

「おまえには、わからない!!」

「ああ、わかんねえぜ!!オレまで巻き込みやがって、自分で首つっこんどきながら今

更、出来ませんだぁ?!ふざけるのもたいがいにしろってんだ!!それとも、てめえ

が、死にてえのか?!でなきゃ、ここにいる全員を殺してえのか?!」

「違う!!誰も…誰も殺したくなんて、ないんだ!私は…だから……」

叫んだ小角の瞳も濡れた光を宿している。それまで一度も出したことのないような大声

で、彼は叩きつけるように吐き出した。

「……だから、ここへ来たんだ!!もう二度と、目の前で、誰が死ぬのも見たくないか

ら…私は……!!」

それなのに……。

「なのに……すまない。自分でも……どうしようもなくて……」

「てめえ…」

急に伏せられた瞳に困惑して、前鬼は思わず彼を下ろした。

(いったい……何だってんだ……)

ここまで切迫した状況にすら迷っている小角が、彼にはわからない。

(いったい、何がそんなにダメだってんだ。たかが術を使うのに、何が、そんなにいけ

ねーってんだ。なんで……)

あまりにも混乱して、苛立って、白い布地の衿首をひっつかまえたまま、鬼神の牙が無

言でギリリと鳴った。






(…………?)

さっきから、ひどい耳鳴がしている。

そう思って鎌足が目を開けると、周り中から無気味な物音が響いていた。辺りは息がつ

まるほどに熱い。陽炎の奥に天井が見える。

一瞬、そこがどこかわからずに、辺りを見回した。視界が、どことなく掠れている。そ

れでも、そばで動く影が、すぐに中大兄の背とわかった。

「皇…子……」

「ん?」

振り向いてすぐ、中大兄は少し驚いて、伏している身体のそばに片手をついた。

「なんだ、目が覚めたのか?もう少し寝ていればよかったのに」

「何をして…おいでです?」

「うん。ちょっとな」

頷きながら、もう片方の手で綱の長さを確かめている。それが終わると、綱の先にフッ

クの形をした青銅を結び付け、窓枠にひっかけた。何度か引っ張って試した後、手で軽

く枠を打ち、

「………と、あとは……」

立ち上がって部屋の中に入ってゆく。追って視線を巡らした鎌足は、少し離れた所に意

外な人影を見付け、はっとした。とたんに神経が引き締まり、曖昧だった意識が覚めて

いる。

(小角と……鬼神……?!)

窓の外を見下ろしながら、鬼神と小角が言い騒いでいる。集中すると、内容が、途切れ

途切れに入ってきた。

(…………)

聞いているうちに事情を飲み込んだ瞳は、戸惑ったような苛立ちを浮かべた。

「あれは……」

鎌足の神経質な視線に、ちょうど小さな手桶と箱を抱えて戻ってきた中大兄が、ああ、

と頷いた。

「おまえが寝ている間に来たのだ。火事は相変わらず大盛況だが、あの者達が何とかす

るらしい」

「小角は……呪術を使うと申しましたか?」

「うむ。一応な。あれはあれで面白い連中なのだが……」

「確かに使えると、申しましたか?」

「よくわからん。いずれにせよ……時間がかかりそうだ。幸い……」

と言いながら、中大兄は寝ている体のそばに腰を下ろし、水を張った手桶を床に置く。

中に浮かんだ布をすくい上げ、ジャッと絞ると、階段のほうへ視線をやった。

「どういうわけか、さっきより炎が衰えている。このまま消えてくれればいいんだが…

…」

くすぶった炎と黒い煙が、無気味に渦を巻き、静かに床に降り積もっている。このまま

おさまるというよりは、さらに猛威を振るう機会をじっと窺っているようにも、見え

る。

急いで視線を戻し、中大兄は薬の入った小箱のふたを手早く開けた。

「まぁ、あの者たちをアテに出来るのかどうかは別にして……こっちはこっちで出来る

ことをやっておく」

「ここ……一番上の階ですね…」

「見ての通り、あとがない。おまけに時間制限つきときている。だが、制限が延びたの

は良いことだ」

「そうでしょうか」

鎌足は、階段の方を見た。それから、じっと小角の後ろ姿を見つめている。中大兄は、

「とりあえず……」

と、あまり深刻でもない顔で肩をすくめ、横たわっている服の詰め襟を外し、胸をはだ

けた。

「おまえの手当てが先だ」

「ですが…私は……」

「いいから余計なことは考えるな。どうせ、なるようにしかなるまい」

「……?!」

絞った布を圧し当て傷を拭いたとたん、反射的に注意を奪われて、鎌足はビクッと体を

震わせた。そのかすかな怯えが指先に伝わると、階の途中で聞いたことを思い出し、

困ったような口元が、長いまつげの下に潜む瞳の変化を伺った。

「嫌か?しかし……」

「いえ。これも、クセみたいなもので……いまだに直りません」

ちょっと笑って、鎌足は吐息をついている。

「いいんですよ。もともと、あなたには平気でした」

「ふーん。一種の接触恐怖症ってやつか?では、俺が直してやろうか」

「どうやって?」

「たとえば……」

真面目な顔で、中大兄は言いかけた言葉を止めた。

「いや。やはり、ここではまずいな」

「まったく……何をお考えなのやら」

そう嫌な顔もせずに、やっぱり鎌足は笑っている。こんな時に、とは思うが、切羽詰ま

るほど妙に肝の座ってしまうところが、この皇子の癖だった。所詮、なるようにしかな

らないのなら、無駄に慌てても仕方ない。そう心から信じているらしいが、そういう淡

白で合理的な自信が、鎌足は好きなのだ。

もう一度彼は、横になったまま小角の方を見つめた。

小角と鬼神の会話。それに中大兄の行動から、おおよその状況は理解している。そし

て、一時的な鎮火が、この後、大規模な爆発が起こる前ぶれにすぎぬことも、経験的に

気付いていた。おそらく今は、台風の目のような限られた安全時間なのだ。

(今のうちに何とかしなければ……。どのみち私は……)

すべては、残りわずかな時間であると、よくわかっている。それでいて奇蹟を祈るよう

に、この時が少しでも長く続くように願っている自分に気付いて、彼は内心、可笑しく

なった。

(計算だけで生きていると思っていたのに…そうとばかりもいかぬらしい…)

階下が燃えて、気味の悪い熱気がたちこめているというのに、中大兄は相変わらず生真

面目な口調で言葉を続けている。ふと魔がさしたように、鎌足は、許す限り、その、な

めらかな優しい声を聞いていたい気がした。

「おまえには、色々と妙なところがある」

「色々…ですか?」

残りの時間を慈しむように、鎌足は素直に頷いた。

「前もそうだった。はしりどころさえ、あまり効かない」

「それは……」

タネ明かしでもするように、わずかに口許を歪めて笑っている。

「昔から持病が多くて……薬ばかり飲んでいたから効きにくい体になったのですよ」

「持病?」

「特に何の病というわけでもありませんが……身体がだるくて…いつもどこかしら痛む

んです。逆に具合の良い日は珍しい。それで痛み止めばかり飲んでいました」

「おまえは…何故そういうことを俺に言わない?」

「それは……」

一度言葉を濁らせた鎌足は、思い切ったように続けて、微笑んだ。

「あまり、あなたには自分のことを知られたくなかったので…」

責めるような顔をしていた中大兄が、やれやれ、という溜め息で肩をすくめた。

「おまえの秘密主義には呆れる。何も味方にまで嘘をつくことはあるまいに」

「味方だから、かもしれませんよ」

「そんなものかな」

腰帯を解きながら、中大兄はやはり腑に落ちない顔をしている。

でも…。と小さく息を吐いて、鎌足は瞼を閉じた。

「もう…何も、隠すことはありませんから…」

「そうか」

落ち着いた瞳で微笑して、中大兄は、そっと破れた官服と沓を脱がせた。あちこちに、

打撲痕と軽い火傷が目につく。白く華奢な肌に、大きな痣や固まった血のりや火ぶくれ

は、余計、痛々しく見えていた。

「おまえ…もう少し鍛えたほうがいいんじゃないのか?真夏の海で泳げとまでは言わん

が……今度、俺が剣の稽古をしてやろうか」

「私は、弓が使えれば充分です」

「うん。確かにそれは俺も勝てないな」

他愛のない会話を交わしながら、ゆっくり絞った布を圧しあてるように傷を拭くと、美

しい口許がかすかに引きつった。

「痛むか?」

「いえ。……その……はい」

ためらいがちに言い直した唇に、皇子は明るく笑っている。

「そうやって、本当のことを言えばいい」

慣れた手つきで丁寧に薬を塗り、最後に油紙を当てて、上から細長く切った麻を堅く巻

きつける。それから、骨折した足に添木をつけようかと悩んでいたが、飛び下りた時の

ことを考えてやめにした。

「そうやって……皇子のくせに、呆れるほど器用でいらっしゃる」

「まぁな」

麻の一方の端を口にくわえ、中大兄は悪戯好きの子供みたいな顔をした。

「工作や発明は、子供の頃から好きなんだ」

「あなたの作った水時計は、きっと歴史に残りますよ。ぜひ完成させて宮内に置かれる

といい」

「うん。そのつもりだ」

「趣味も多彩だし、文武の才も政治の才もある…」

「おや、珍しいな。いつもキツいことしか言わぬくせに」

「きっと、高名な天皇におなりでしょう」

「では、おまえは高名な大臣になるんだろう?」

「私は……」

言い淀んだ唇が、少し寂しげな微笑に揺れた。

その口許には、先刻のような激しい苦痛は滲まない。むしろ、回復しているように見え

る。けれど、それがただの見せかけであることが、彼にはよくわかっていた。

(もはや望むものは何もないと思っていたのに…)

この皇子と、ずっと一緒に歩いていきたい。この期に及んで、そう思ってしまったこと

が、心残りだった。

「……なれたらよいと…思います……」

鎌足は、それだけ言って探し当てるように腕をのばし、中大兄の膝に白い手を置いた。

細い指先が、かすかに震えている。それに気付いて、皇子は慌てて手を掴んだ。とっさ

に、そうしていないと、消えてしまいそうな気がした。手をとり、冷やした布で額や頬

や首筋に滲んだ汗をぬぐってやりながら、中大兄は精一杯強く囁いた。

「大丈夫だ。おまえのことは、俺がきっと守ってみせる」

「ありがとう…ございます…」

熱が冷えて、心地よい。

鎌足は、少し苦しそうに喘ぎながら、それでも微笑んで、頷いた。思えば、この率直な

心に、溶かされてしまったのに違いなかった。利用する気で近付いた皇子は、自分を本

気で信じて、泣いてくれた。そして、この皇子こそ、自分がただ一人、すべてを託して

かまわないと思った相手だったのに……。

「私などに、そこまで恩をおかけいただくのは…身に余ることです」

だから、せめて最後まで、自分がこの皇子を守らなければならない。

「中大兄様……」

「うん?」

「私を起こして下さいませんか」

「なに…?」

さすがに驚いて、皇子は手を止めた。けれど、いぶかしむ瞳を説得するように、鎌足は

努めてしっかりした声で繰り返している。

「どうか、私を起こして下さい。小角だけでは心許ない。私も手伝いましょう」

「バカを言うな。無理だ」

「大丈夫ですよ。傷を縛っていただいたおかげで、ずいぶん楽になりました。痛み止め

も、まだ効いています」

「しかし…」

「皇子……、この高さから綱を伝って降りるのは少々、無謀というものですよ。命を落

とす確率のほうが、はるかに高い」

「それは……」

一瞬つまった中大兄は、それでもどうにか切り返している。

「仕方あるまい。やらぬよりはマシだろう。オレは何もせずに諦めるほど、怠惰な人間

ではないのでな」

「それなら、もっと確実な方法にいたしましょう」

「いったい何をする気だ?」

「起こして下されば、わかりますよ」

軽く笑った鎌足に促されて、中大兄は渋々、肩に手をかけた。横たわった上半身をどう

にか助け起こし、背を支えると、柔らかい髪が頬に触れる。軽い体は、そのまま背もた

れのように中大兄の胸に身体を預けた。よりかかったまま鎌足は窓際のほうを見つめ、

一瞬周りが慌てるほど、高い声を張り上げた。

「久しぶりではないか……役君殿!」

「鎌足……殿……?!」

背後から届いた声に、とっさに振り返った小角は、率直に驚いている。つられて前鬼も

振り向き、意外な顔をした。

(無茶なことを…)

誰もがそう思っている。実際、鎌足の蒼白な頬は、みるみるうちに、いっそう蒼ざめ

て、今にも失神しそうに見えた。

なのに、瞳の光が強い。何もかも見通した視線で、まっすぐに小角を刺している。

「まだ、決心がつかぬのか?この期に及んで呪術を使うのに、何をためらっている?」

「……それは……」

戸惑って口をつぐんだ小角に、鎌足は、ふっと笑った。

「それでも、今は…そなたに頼る他はない。私には残念ながら、ここから逃れる為の術

はないからな。もし、そなたが、どうしてもやらぬというのであれば……」

「……鎌足殿?」

いぶかしんだ小角に、鎌足は、少し微笑みながら淡々と話している。淀みない口調だ

が、苦しい息を必死に隠しているのが誰の目にもよくわかる。それでも鎌足は、気丈な

声でまっすぐ続けた。

「私には…空を駈け、炎を避ける力はない。だが、異形の者を除く法は心得ている。だ

から、この力で……」

そこまで言うと、白く長い指先を、すっと前鬼の方へ向けた。

「その鬼神を……今から私が、殺してやる」

「え?」

誰もが、一瞬、言葉を疑った。小角は、息を飲んで、鎌足を凝視している。それを遮る

ように前に出た前鬼は、しかし、すぐにバカバカしい、という眼で見下ろした。

「何言ってやがんだ?てめえ……そんな体で何ができるってんだ。それとも……オレを

ナメてんのか?」

「侮っているのは、鬼神、そなたのほうであろう?」

言いながら、一度鬼神を指した指先を、そばの手桶に浸す。滴った水を握ったかと思う

と、次の瞬間、簡単な勧請の言葉とともに、軽く一振りした。

「な?!」

水滴が、前鬼の顔面を撃つ。突き出された白い指先が、ピタリと眉間を指すと、その瞬

間から、鬼神の体は術に縛られ動けなくなった。

「ウソだろ…おい…」

呆気にとられた前鬼が、半信半疑で声をあげると、白い顔がクスリと笑っている。

「私の家系は……訓練すれば、ある程度の呪術を操ることができる。なかでも、私は少

し特別なのだ」

「おいっ鎌足!?」

慌てて押し止めようとした中大兄の腕にもたれて、ほんのわずかの間だけ瞳を閉じた彼

は、細い指で一度だけ、自分を支えている手を強く握った。

「皇子……」

「どうした?!」

「今まで…ありがとう…ございました…」

「なに?」

思わず聞き返した中大兄の手を振払う。再び開いた瞳は、すべてに決別するように微笑

んでいる。一瞬、信じられない顔をした皇子を背に、鎌足は、壁につかまりながら自力

で立ち上がった。

「てめえ…」

前鬼は、さすがにぎょっとした。その場にいた誰もが、まるで幽鬼でも見るような顔

で、鎌足を見つめた。動けるはずのない人間が、よろけながらとはいえ独りで立ってい

る。水滴のような光に守られて、鎌足は、背筋を伸ばし、まっすぐに立ち、一直線に前

鬼の額に指を向けたまま、小角を見つめた。

「そなたの父の実家は、賀茂の祭司であったな」

「……はい」

「私の家は代々、天皇家に仕えた祭司だ。神の言葉を伝え、国政を占う。だが…私が操

るのは、それだけではない。妖物を祓い、人をも殺める呪力。……そなたと同じように

……」

「鎌足…殿…」

「しかし、そなたに比べれば私の力など児戯のようなものだ。そなたには…ここを無事

に脱けるだけの力もある。なのに、それを出さぬのは……そなたに切迫した緊張感が欠

けているせいであろう?だから私が、今から一つの契機を与えてやろうと思う」

引き絞った弓矢のような視線が、小角を射ている。その矢を放つように、鎌足は言っ

た。

「これから、時を競う勝負をしよう。そなたが、術を使ってここから逃れるのが先か?

それとも……私が、鬼神を縊り殺すのが先か?目の前で鬼神を殺されたくなければ…そ

なたの力を現して見事ここにいる者達を救ってみせよ」

「オイてめえ!!なに勝手なことほざいてやが……?!」

怒鳴りかけた前鬼の声が、ひきつったように止まった。赤い瞳が苦悶のあまりにカッと

見開いている。冷たい視線を流し、鎌足は乾いた声で小さく笑った。

「ほら。今、鬼神の呼吸を止めた。さて、これから、どれだけ保つのかな?助けたいの

なら、急ぐことだ」

「鎌足殿!!」

冗談でも戯れでもない。たった一つのことしか考えていない瞳が、じっと小角を見つめ

ている。どこからそんな力が出るのか不思議なほど、確実な呪力だった。あまりのこと

に呆然としていた小角は、差し迫った焦りと恐怖で、思わず唇を噛んでいる。



(21)


「あれは……生まれた時から…不思議な子供でした……」

炎と、くすぶる黒煙を見つめながら、小角の母は誰に聞かせるでもなくつぶやいてい

る。オレンジ色の照り返しで、その姿もまた、燃えているように見える。横に立って見

つめながら、小純は、何を信じていいのかわからないような困惑で、応えていた。

「兄上は……どうなさるおつもりでしょう…?」

「私には…わかりません。いつも…あの子の行動は……」

「でも兄上は、いつも僕達のためを思って…」

「おまえは…今でも、そう信じているのですか?」

そう言われると、小純は黙った。

ずっと、兄が帰ってくるのを待っていた。ある日突然どこかへ出掛けたきり戻ってこな

くなった兄を、長いこと待っていた。母は、記憶にある限り、ほとんど兄を良く言うこ

とはなかったが、それでも自分は、いつも兄を尊敬していた。

(兄上は…僕と違って何でもよく出来て……そして…)

兄は、いつも独りだった。母にどれだけ悪く言われても、決して母を悪く言うことはな

かった。どれだけ辛くあたられても、ただ俯いているだけだった。誰も、恨まなかっ

た。母のことも。自分のことも。恨んでいるとしたら、自分自身の事かもしれなかっ

た。

(だから僕は……どんなに母上が、兄上のことで恐ろしいことを聞かせても…信じな

かったんだ……)

兄が呪術を使う。使って人を殺すこともできる。そう聞いても、実際見たことはなかっ

たし、とても兄がそんな力で人を殺すようには見えなかった。ましてや父を殺すような

人間にはとうてい思えなかった。

でも、何かが憑くのだ。そう、母は言っていた。何かが兄の体に乗り移って、その瞬間

から、兄は兄でなくなって……自分たちを捨てることも、その力で人を殺めることもで

きるのだと、母は言っていた。

小純は、赤く燃える宮を見上げた。禍々しいほど鋭い炎は、上にいくほど黒くくすぶっ

ていて、余計に恐ろしく見える。その地獄のような場所に当然のようにいる兄は、まる

で人ではないかのように思えた。

(兄上は……)

やはり、自分たちを捨てられるのだろうか?人間には出来ないこともやってのけるのだ

ろうか?それは……悪霊や天魔や悪鬼神の力と同じなのだろうか?

突然姿を消し、帰ってこない兄を待って、そのことばかり考えていた。とうとう諦めて

叔父の家に移った日も、やっぱり、兄が何かやむにやまれぬ事故に巻き込まれただけで

はないかと思っていた。なのに今日、たまたま一度自宅に戻ろうとして通りかかった宮

の前で、火事を見た。火事の中に、何ヶ月も行方不明だった兄の姿を見た。なぜ兄が鬼

神と一緒にそんな所に居るのか、わからない。けれど、母が言うのが本当ならば、兄は

自分たちとはかけはなれた非日常的な存在だから、どんな恐ろしい事も当然のように起

こり得るのだった。

「おまえは……知らないのです。あれの力を…」

能面のような動かない顔で、炎を凝視したまま母が言った。

「あれは…やはり…私の子ではありません。やはり…占い通り、生まれた時に、殺して

おけば良かった……。そうすれば、父上も死なずに済んだのに…」

「何度もうかがったそのお話……やっぱり本当なのですか?」

「ええ」

動かない表情に、炎を映した眼だけを光らせて、母は抑揚のない声でつぶやいた。

「だって…おまえ……。あの子は…父上の首を抱いて座っていたのですよ。首のない父

上の死体のそばで、泣きもせずに、血溜りの中で……父上の生首を抱いたまま、独りで

座っていたのですよ。ほんとうに…可愛らしい顔をして……」









印を結んだ小角のこめかみが、かすかに震えた。

術を使おうとすると、必ず甦る記憶が、やっぱり今も現れている。どうして、こんなも

のが毎回見えるのか、自分にもよくわからない。ただ、呪術を使おうとすると、きっと

この幻が、出てきて自分を責めるのだ。

今も、目の前で、業火のような激しい炎が燃えている。けれど、この火はちっとも熱く

ない。熱くないのに、触れたものを溶かしてしまう。魔物の火だった。

(どうしてなんだろう…)

記憶の中の幼い小角は、炎をくぐり、逃げまどいながら、いつも思っている。

(どうして、僕には物怪が見えるんだろう?どうして、彼らは僕の前に現れるんだろ

う?どうして、僕を見ると、襲ってくるんだろう?どうして……)

「強い呪術者の、強い呪力に引かれて、奴らはやってくるのだよ。だから、おまえには

天才的なすごい力があるってことさ」

若い父は、そう言っていつも慰めてくれた。

「でも…、母上はいつも嫌なお顔をするよ」

「母上は…おまえの力の本質が、よくわかってないのさ」

「でも…僕、友達も、いないんだよ」

そのたびに、小角はいつも泣きそうな顔をする。すると父は、

「大丈夫。そのうちできるよ」

そう笑って、呪力で、魔物を追い払ってくれるのだった。

けれど、あの最期の夜は……。

現れた魔物は、これまで見たこともないほど巨大で、強くて、とても父の敵ではなかっ

た。青白い炎に囲まれて、四方に逃げ場を塞がれて、小さな小角は、ただやみくもに父

の姿を探した。

「父上っ父上------っ」

叫びつづけていないと恐怖で、どうにかなってしまいそうだ。炎をくぐり、無我夢中で

走っている。そして、倒れている父を見つけた。

「父上!!」

引っ張り起こすと、父はカッコ悪いところを見られた照れ隠しのように苦笑した。

「悪いな小角…。今度ばかりは、とても私には…。もともと、本家がそうだというだけ

で、私自身は神官ではないからな」

「いいよ!そんなことより早く逃げなきゃ…」

「うん。逃げなさい……小角…おまえは早く…」

「何言ってるの?!父上と一緒じゃなきゃ僕、嫌だよ」

「でもねぇ…どうも今回、父上は…無理みたいなんだ」

「そんな……僕の呪力が呼び寄せてしまった物怪なのに……」

父は笑った。いつも優しかった父が、いつもより、もっと優しく笑っていた。

「おまえのその力、いつか万民のために役立つことがあろう。だから、おまえは逃げ

て、生きなさい」

「こんな……こんな力いらないよっ父上を傷つけ母上に疎まれて友達もいない。こんな

ことなら僕はもう…ここで死んだほうがいい!!生きてたって、どうせ誰も………」

「そんなことはない。いつかきっと現れる。おまえにも心を預ける誰かが、きっと。…

…だから生きなさい。そしていつか、その咒力を多くの人達の為に……」

優しい瞳が微笑んで、泣きじゃくっている小角の小さな肩に手をかけた。

「それから…どうか母上をよろしく頼む。心弱い方だから、おまえが守ってあげなさ

い。でも……」

ところが急に、しんとした。

「でも……?父上?……父…上………?」

次の瞬間、父の頭がゴロリと小角の膝に落ちてくる。小さな両手の中に、胴体から離れ

た血まみれの重い首が載っていた。その上から鋭い爪をギラつかせた巨大な手がぬうっ

と現れる。はるか上に、青い一つ目がぬらぬらと光っていた。

一瞬、途切れていた神経が、つながった。

「父上?」

手の中の首から、ドロリと鮮血が滴っている。

「父上---ッうあああああッ」








真っ青なまま、小角は反射的に、閉じていた瞳を開き結んでいた手印を解いた。全身に

冷や汗が流れ、肩が大きく上下している。呼吸が乱れて、まるで今そこから帰ってきた

ばかりのように、幼い瞳の恐怖が重なっていた。

「やはり…ダメだ……私には……」

床に両手をついて、小角は唇を噛んだ。

呪力を、使わないのではなくて、使えないのだ。使おうとすると、あの記憶が甦る。

甦って、心を金縛りにしてしまう。全身がガタガタ震えて、とまらない。

獄界に行ったときは、なぜかこの幻が現れなかった。だから、使えた。

でも…。

母と弟のために…この力を封印する…。

それもただの詭弁かもしれない。本当は、理屈なんてないのかもしれない。本当に、た

だ怖くて、体が動かないだけなのかもしれない……。

だからいっそ、すべてを無かったことにしたかっただけかもしれない。

己の呪力さえも……。

顔を伏せたまま、小角は、ぜえぜえ息を切らしている。それを見下ろした鎌足の眉間

が、わずかなためらいで曇った。しかし一瞬だけで、すぐにまた冷酷な瞳に戻ってい

る。事務的な声で、彼は言った。

「なにをしている。このままでは、もうすぐ鬼神が死ぬぞ?」

「うおああああッ!!」

そのとき、ものすごい叫びとともに、前鬼が、拳を上げた。

「鬼神……?!」

「ナメんじゃねえぞ!!この野郎!!」

呪力を呪力で押し返している。

「く…」

押し戻された力を、もう一度押し返そうとした鎌足の白い頬が、苦痛で歪んだ。限界を

越えた力の駆使に体中が悲鳴を上げている。それでも彼は、逆さ言葉を唱え、さらに呪

力を上げた。凄まじい力がぶつかりあい、白い光がまるで突風のように辺りを襲ってい

る。光の中から、前鬼が懸命に怒鳴った。

「おいッこのクソ小角!!」

「前鬼?!」

「ったく!!てめーはよーッ」

「ええ?!」

「マザコンだけでなくファザコンでもあるのかっ」

とたんに小角は、緊張を折られた顔をした。なんだか、いつもの調子が戻っている。

「そーゆー言い方はやめてくれって、いつも言ってるだろ!」

「うるせえ!!生首の夢なんかにうなされてるヒマがあったらなぁ、オレたちのこと考

えろ!!」

「前鬼……?!」

「てめーの世迷い事は、全部コイツに映ってやがったぜ?」

「おまえ……それ……」

自由にならない腕を無理に動かして、前鬼は必死に、持っていた宝珠を掲げてみせた。

「大事なモンなんだろーが?!返して欲しけりゃ、天部降ろしやってみやがれ!!」

「だからッ出来ないんだってッ私は…」

「てめえがやらなきゃ、皆死ぬんだ!!てゆーより、オレが先に、あのバカに殺される

だろーが!!」

「鬼神、バカは余計だ」

そのやりとりを面白そうに眺めていた鎌足が、ちょっと笑って口をはさんだ。前鬼は

散々な様子に牙を鳴らしながら、それでも余裕ありげに見返している。

「フン。ケガ人だと思って大目に見てやってりゃ調子づきやがって!!その気にな

りゃぁなあ…てめえなんざ、すぐに引き裂いてやれるんだぜ?」

「だったら、やってみたらどうだ?」

「おお!言いやがったな?!」

赤い瞳が、本気で鎌足を睨んでいる。対する鎌足の瞳は、薄く笑っている。けれど笑っ

ていながら、何もかも捨ててしまうほど真剣だった。

(本当に…殺すつもりなのだ……。残った命を、全部使って……)

鎌足の力がどれほどのものか、小角は知らない。けれど、その気迫と決意はぞっとする

ほど物凄さがあった。

(今…前鬼が…殺される?)

実感として考えた瞬間、体が凍った。

(嫌だ…。また…自分の大切な者が目の前で殺されるなんて………)

父が死んだのは、自分のせいだ。

母も周りも、そして自分も、そう思ってきた。

だからずっと、どこか遠くへ行きたかった。自分の居場所は少なくとも、この家にはな

いのだと思ってきた。

それでも自分が、母とこの家を守らねばならないと思っていた。

そして、誰かのために、何かしなければならないと思っていた。

じゃないと、父との約束を守れないから。父を死なせた償いが果たせないから。

(でも……私は……)

自分に、いったい、何が出来るというのだろう?

本当に自分には、誰かを救う力があるというのだろうか?

呪力は、人を救うのか?

自分はそれを使えるのか?

呪力を遮るあの幻は、自分を怨んだ父の怨霊ではないのか?

「ぐああ?!」

突然、前鬼の絶叫が、小角の逡巡を裂いた。伯仲していた力の均衡が破られている。鎌

足の呪力が、前鬼の首をねじ切るほど絞めていた。

「言ったはずだ!おまえがやらぬなら、私が鬼神を殺すと!!」

「前鬼!!…やめて下さい鎌足殿!!」

「ぐう…」

力を絞りながら、細い肩がぎゅっと寄った。ごほっと吐いた血をそのまま噛み締めて、

鎌足は更に力を上げている。

「よせ!鎌足!!」

それまで黙っていた中大兄が、とうとうたまりかねて声を上げた。

「このままでは、おまえが死んでしまう!!いいから、もう、よせ!!」

その声に、青白い唇が、わずかに微笑んだ。

「皇子…お許し下さい…」

「オレの命令が聞けぬのか?!」

「私の…最後のわがままです…」

「頼む!!やめてくれ!!」

光に飛び込んで、中大兄は、後ろから細い背を抱き止めた。腕の中で、それでも鎌足

は、まっすぐ前を向いている。そうして、自分を背後から抱きしめる体温を確かめるよ

うに、少しだけ笑っていた。

「小角……私は、中大兄様を助けたい。そのためなら、鬼神も殺せる。私の命と引き換

えに…」

「うああああッ」

その微笑に、前鬼の絶叫が重なった。

「やめろ!!鎌足!!」

「鎌足殿!!……前鬼…!!」

また、死んでしまう…。

また、自分の目の前で……。

「前鬼ィ------!!」

夢中で、小角は、印を結んだ。目を閉じて孔雀明王の姿を描き、真言を誦す。

--オンマユラキランディソワカ--

しかし唱えると、また幻が邪魔をした。

父の血と魔物の返り血を浴びて、幼い小角が呆然と座っている。魔物はなぜか、小角が

叫ぶと同時にズタズタになった。血溜りの中で、小角はそれからずっと時間が止まった

ように、父の首を抱えたまま座っている。父の手足と魔物の肉片がバラバラに混じりな

がら、周りに散らばっていた。血と肉の臭いが気持の悪いほど辺りにたちこめている。

それにも気付かないほど、黒い穴のように、小角の瞳は開かれたまま何も映してはいな

かった。

不意に、虚ろな目の前で、戸が開いた。扉の向こうに、母が立っている。やっと正気に

返って、小角は泣きそうになった。母の胸に飛び込んで、この惨劇から恐怖から救って

欲しいと思った。

「母上……」

けれど、フラフラと立ち上がった小さな体を、母の悲鳴が突き飛ばしていた。

「母…上…?」

「嫌ああああああッ来ないでッ化け物!!」

「はは……うえ……」

「嫌よ!!誰か!助けて!あの人が!!私の…あの人が……バケモノに殺されて…

…!!」

錯乱した母の金切り声が、二人の距離を引き裂いている。自分の悲鳴など、もう聞こえ

ない。もう、どこにも……。

(どうしたら、よいのだろう?)

あれからずっと、考えていた。

自分がいなければ、こんな恐ろしいことは起こらなかったのに。

僕は、どうしたら、許してもらえるのだろう?

皆のために、この恐ろしい力を役立てればよいのだろうか?

それとも、父上のご遺言の通りに、家と母上をお守りすればよいのだろうか?

僕は…どうすればよいのだろう……?父上……?

(どうすれば……)

あれからずっと、耳の奥に、いつも誰かの泣き声が聞こえていた。どこかで誰かが、大

声で泣いている。

いったい、誰なんだろう?

そう思って探すと、それはいつも、幼い自分なのだった。

(……怖い……)

父の死が怖い。あの時の、母の恐怖に歪んだ目が怖い。

呪力が、怖い。生きているのが、怖い。

それでも生きて、何かをしなければならない。

何のために……?

償いのため?許されるために?

「バカヤロー!!!」

想い出を破って、もう一度、前鬼の声が彼を呼び戻した。

「え?」

印を結んだまま我に返って、目を開くと、呪力の攻防の中から鬼神が怒鳴っている。

「どおでもいいから、なんとかしやがれ!!」

「前鬼……」

「ったく、少しはコイツを見習えよ!!」

「鎌足殿を?」

「だから、前からオレが言ってんだろーが!!おまえは、どうしてーんだよ?!おまえ

は、一体、何を望んでやがるんだ?!」

「私の……望み……」

何かに撃たれたように、小角ははっとした。

瞳に、前鬼の宝石のような赤い眼が大きく映っている。まるで、この世界には二人しか

いないかのように、とても大きく映っていた。

初めて会ったときの幼い鬼神。そして今の鬼神。どちらも、同じ眼をしている。初め

て、自分のすべてを認めてくれた瞳だった。

ずっと、人間でいたいと思っていた。けれど、人間とはいったい何なのだろう?

ずっと、周囲に違和感なく溶け込むことだけを考えてきた。波風をたてず、無難な生き

方を求めてきた。それが、人間の証だと思ってきた。型にはまって、社会にはまって。

道を外さないように…。母を喜ばせるように……。弟に、良い兄と言われるように…

…。役公の仕事をこなして、社会的地位にしがみついて。

それらが、すべて苦しかったのに。己を偽ってきたのに。偽ることが、人間でいられる

証だと、思ってきたのかもしれない。

でも、本当は……。

彼らとは、信じるものが違うのだ。

鬼神の赤い瞳は、本当の自分を見てくれた。

この瞳を、自分は守らねばならないと思う。この信頼に応えなければならないと思う。

どうしても、失いたくはないと思う。

「前鬼!!私は………!!人だ。でも…人にあらぬ力を使う……」

不思議に、薙いだ暖かい風に全身を包まれた気がした。

私の望みは……。

己の信じるものを、守ること。

そして……。

不意に、もう一度、魔物の爪に裂かれる直前の父が見えた。血と汚れにまみれて地に

這ったまま、やっぱり父は、少し微笑んでいた。

「小角……おまえのその力、いつか万民のために役立つことがあろう。だから、おまえ

は生きなさい」

「こんな力は要らないと、思ってきました。父上を殺し、母上に疎まれて……誰一人友

もいない。こんなことなら私は、ここで死んだほうがいい。生きていても、私は、誰か

を悲しませることしか出来ないからと…」

「そんなことはないだろう?いつかきっと現れる。おまえにも心を預ける誰かが。だっ

てほら、もういるじゃないか?おまえの隣には…」

「……父……上?」

「だから生きなさい。そしていつか、その咒力を多くの人達の為に使いなさい」

あの時と同じ、けれど、どことなく違う優しい顔が微笑んで、今の小角の肩に手をかけ

た。

「それから母上をよろしく頼む。心弱い方だから、おまえが守ってあげなさい。でも…

…」

「でも?」

あの時聞こえなかった続きが聞こえた。

「それでも、おまえが自分で行く途を決めたなら、決めた途を進みなさい。おまえの人

生だ。おまえの信じる途を進みなさい。私は…いつでもおまえを見守っているから…

…」

優しい声だった。そしてまぎれもなく、父の声だった。

その瞬間、もう一つの目が開いた気がした。心のどこかにあって、ずっと泣いていた瞳

が。

はっとして、小角は、もう一度、我に返った。

眼前に、燃える炎が見える。前鬼が見える。中大兄を守るために命を使う鎌足がいる。

それを止めようと叫んでいる皇太子がいる。そして…窓の下に、母と弟が見えた。

(母上……。申し訳ありません。たとえ何を捨てても、どんな裏切りにあったとしても

…私はもう、あんな後悔はしたくありません。……あんな涙は、流したくありません。

もしも、私に、その力があるのなら!!)

もう一度、印を結び直す。真言をハッキリ声に出して唱え、そうして己の瞳を、今度は

閉じずに強く見開いた。

「一番大切なものは、私の手で、必ず守ってみせる!今度こそ!!」

私の望みは……。

大切なものを、この手で守ること。たとえ命にかえても。

そして……

行ってみたい。高みへ、生きる高みへ。もっと自由な場所へ。

あの、天空の彼方へ……。

と…。

フワ…と体が宙に浮いた気がした。まるで、体が空になったような気がする。気がつく

と、小角の周りには、羽のようなものがキラキラ輝き舞い飛んでいる。羽を辿ると、孔

雀がいた。

「え…?」

金色の孔雀に、美しい明王が乗っている。長い髪を高く結上げ、載せた天冠を花で飾っ

ている。胸と腕には、宝玉を嵌め込んだ瓔珞が煌めき、様々な華に彩られた裳を翻して

いる。薄い、透けるような天衣が、それらを囲んで舞っていた。

「孔雀……明王……」

半ば呆然として、小角はその名をつぶやいた。瞳は、変わらず目の前の現実を映してい

る。なのに、同時にそれが見えたのだ。

明王が、小角を見つめ、ふっと微笑んだ。この世のものではない清浄で玲瓏な声が、頭

の中に響いた。

「そなたの呼声が、天界まで聞こえた。よって、そなたに…力を貸そう」

「え……でも…ちょっと……」

絹が体をすべるように、孔雀の羽が触れ、明王が、あっという間に身体の内にすべり込

んだ。

暗い空から、雨のように金の光が降っている。

「なんだ……あれは………」

鎌足の体を抱きとめたまま、中大兄は小角の頭上を見上げた。一見女性のような肢体を

した者が神々しい光とともに現れ、透けるように小角の体と重なってゆく。それを認め

ると、鎌足は術を解いた。解くと同時に、呪力で支えていた力が失せて、体が沈むよう

に、中大兄の腕の中に倒れこんでいる。解放された前鬼は一瞬、喉を押さえ膝をついた

が、すぐに立ち上がって牙を見せ、ニヤッと笑った。

「よーやく、やりやがったな、あのバカが!!」

満足げに機嫌を直した前鬼の前で、鎌足を抱えた中大兄は、まだ少し信じがたい顔をし

ている。

「いったい…あれは…」

「小角が呼び出した……孔雀明王でしょう」

「あれが……」

中大兄は、素直に感心したように頷いた。

「ふむ。……美しいものだな」

「そうですね…」

本当に綺麗だと、鎌足も思った。黄金の翼をもつ孔雀の羽が、一枚一枚、不思議な光沢

を放って煌めいている。

(最期にこんな化生のものが見れるとは……。なかなか面白い人生だったかもしれぬ)

中大兄にぐったり身を預けた薄い唇が、微笑んでいる。やがて、瞳が二、三度瞬きした

かと思うと、力の失せた腕が静かにすべり落ちた。

その瞬間。

足下が揺れ、大きな爆音がした。一瞬にして炎と黒煙に包まれ、何も見えなくなる。そ

のまま崩れ落ちる宮とともに、全員が、闇空に投げ出された。

*その10へ*

**千年前の物語 目次へ**