(22)



突然。

黒々と塗られた空に、巨大な炎の槍が、突き上げた。

皇太子宮を焼き尽くす炎が、ひときわ大きく立ち上がり、地階から最上階まで全階吹き抜

けのようになった宮が、一本の大きな火柱と化している。

同時に、最後まで無事に残っていた最上階が、パッと炎に包まれた。

一見、絢爛豪華に見違えてしまう火の手が、宮を鷲掴みに握り潰している。次の瞬間、オ

レンジ色の光をまとったまま、シルエットになった建物が、不思議にもキレイに垂直に、

崩れはじめた。

「なんと…恐ろしい…」

「あれでは…もう…誰も助かるまい…」

口々に呟きながら、民衆も宮人も入り交じって、ただ遠巻きに、唖然と見上げている。

ところが…。

崩れる建物の中から、もっと明るい、強烈な黄金の光が現れた。吸い込まれるように人々

が視線を集めると、その頭上で、みるみうちに光は大きな珠になった。

「おお…」

畏敬のようでもあり、ただの恐怖でもあるような叫びが、あちこちから沸き上がる。

「皇太子様だ!」

と誰かが言った。闇の虚空に、金の宝珠が浮かんでいる。宝珠の中に、人が居る。金色の

ガラス玉みたいな膜の内側に、中大兄が立っている。彼の腕には、鎌足がいる。その隣に

は、鬼神が立っている。そして、彼ら3人を背負うように、一番前に、錫杖を握り印を結

んだ小角がいる。彼らの背後には、宝珠を手にのせた巨大な人の姿が、透けるように浮か

んでいた。

小角が、真言をとなえた。

すると、宝珠を手にした巨人が、見たこともない鳥に変化した。

羽が、眩しい。

鳥は、まばゆいほどの光を発したまま、空を覆うほど大きな翼を広げ、人々の頭上を旋回

する。

雷にでも打たれたように、群集は悲鳴をあげ、そして押し黙った。手を合わせる者。地面

に額をつけ、必死に経文をとなえる者。ただ、呆然と見上げる者。

人と鬼神の入った黄金の宝珠。それを戴いた巨大な鳥。それらを操る錫杖を手にした不思

議な男。

そのすべてが、ある者には美しい人影に見え、ある者には奇怪な化け物に見え……それ

は、見る者によって、怪異にも来迎にも見えたのだ。

「兄上が……」

群集に混じってぼんやり見上げながら、小純がつぶやいた。自分の兄が、あの鳥を操って

空を飛んでいる。彼の傍らでは、さっきから、母が惚けたように黙っている。

焼け落ちる宮の上をしばらく飛んで、それから、大きな鳥は宝珠をのせたまま、東の空へ

と飛び去って消えた。








「ほとんど……間一髪だったな」

中大兄が、呆気にとられているような、それでていて面白がっているような、奇妙な口調

で言っている。

黒煙に包まれ、物凄い力で空へ弾き飛ばされたとたん、何か羽のようなものに引き寄せら

れて体が浮いた。気がつくと、全員が、小角の後ろで不思議な力に守られて、空を飛んで

いたのだ。

「たくよ〜〜ハラハラさせやがって」

自分が助かった、というよりも、大荷物を降ろしたような口振りで、前鬼が文句がましく

言っている。

「たかが空飛ぶごときで、こんだけ大騒ぎたぁ、先が思いやられるぜ」

「ほぅ?それほど、簡単な術なのか?」

「なわけ、ねえだろ!コイツにとっては、ってイミだよッ」

「なるほど。鎌足が危惧したように、ひどく大掛かりな呪術者というわけか。役小角とい

う男は?」

中大兄の言葉に、前鬼はフンと顔をそむけている。皇子は軽く笑ってから

「とりあえず……」

と、真顔に戻って、目の前の背に言った。

「我々を、人の来ない場所へ降ろしてもらおうか」

黙って、小角は頷いた。

空を、飛んでいる。自分が、飛んでいるのだ。あんまり不思議すぎて、実感がわかない。

でも、確かに自分が、他の3人を連れたまま空を移動している。

高い空だ。夜で景色も見えないが、たぶん、山の峯々すら、足の下だろう。地上に張りつ

けられていた時にくらべたら、信じられないほど自由な気がする。

今なら、どこへでも行けそうな気がした。行けないと諦めていた、どんな所へも……。

けれど、そう思いながら、ついさっき見た、唖然と見上げる母と弟を思い出した。自分に

向けられていたのは、肉親を見る眼ではなかった。驚愕と恐怖を宿した黒い穴のような眼

だった。

(でも……)

それでも小角には、彼らが、異様に小さく見えたのだ。何もかもが、はるか下だ。ここへ

来た代わりに、彼らが遠くなったのだと、小角は知った。

(これから…どうしよう…)

奇妙な不安にとらわれて、ふと、そんなふうにも思う。どこへ行ったらいいのだろう?

(もう、元の場所へは帰れないだろうから……)

自由になった代わりに、アテをなくした気がする。これからは、行くべき場所を、自分で

選んで彷徨わねばならない。それが、自由ということなのかもしれない。

(これから…どこへ………?)

ところが。

その逡巡を、急に、中大兄の妙に引き絞った声が遮った。

「小角……!!」

「どう…しました?」

「降ろしてくれ。とにかく、早く……!!」






足元に黒く泡立つのは、海だ。

低く飛ぶと、波音が聞こえる。小角は、少し陸の内側に入ったところで、こんもり盛り上

がった木立の陰へ、皆を降ろした。

フワリと、全員の足が地面に着くと、同時に彼らを包んでいた光も消えている。背後に浮

かんだ巨大な孔雀明王も、孔雀の姿も、いつのまにか消えていた。

「だ〜〜っどーすんだよ、これから……」

岬を見下ろす小高い丘に立って、太い松に手をかけながら、前鬼が口をとがらせている。

木の陰とはいえ12月の末だ。とにかく寒い。海は静かだが、風はある。鬼神のくせにガタ

ガタ震えながら、前鬼は牙を鳴らした。

「もっとマシなトコに降りよーって気にならねーのか?!小角!!何だって、イキナリこ

んな所に……」

急に高度を下げて、ここに降りてしまった小角に噛みつこうとした前鬼は、気がついて

黙った。降りてすぐ、小角は駆け寄るように中大兄へ向き直っている。彼の腕の中を一目

みて、小角は首を振った。

「バカな」

と、中大兄が言った。声が、上擦っている。上擦ったまま、小角を責めるように怒鳴っ

た。

「おまえなら……どうにか出来ぬのか?!その力で……」

小角は黙っている。黙ったまま、呼吸を止めてしまった静かな鎌足の白い頬を見つめてい

る。

「どうにも、なんねぇよ」

見下ろした前鬼が、代わりに答えた。

「だから言ったろ?夜明けまでもたねーって。呪法で救えるのは、せいぜい生きてる人間

だけだぜ。死人は、閻魔天の裁可にある」

「閻魔天だと?」

「ああ。十二天の一人で、獄界を司る……」

「では…」

と言った皇太子は、どんどん冷えていく屍を抱きながらも、意外に落ち着いていた。

「その閻魔天とやらを、ここに呼んでもらおう」

「なに言ってやがんだよ……正気か?!」

「当然だ。小角……、おまえなら、呼べるのだろう?」

「呼ぶ……って……オメー……」

「さきほどのように……真言で、呼び出せるのではないか?」

中大兄の言葉につられて、思わず、前鬼は小角を見た。

小角は、黙っている。それから、小さな声で答えた。

「今なら…呼べるかもしれません」

孔雀王咒で飛空できた今なら、ここから獄界の閻魔天まで、請願の声が届くかもしれな

い。そうは思うが、自信がない。それでも、できるなら目の前で見殺しにはしたくない。

死んだ父だって、きっとそう思うに違いない。

「前鬼……父の宝珠を返してくれないか」

「あ?ああ……いいけどよ〜……」

渋々、前鬼は、宝珠を返した。受け取った珠を片手に、とりあえず小角は印を結んだ。

まず、金剛手菩薩の真言を唱え、それから、閻魔天の真言を唱えてみる。

しんとした闇の中に、風と波の音が聞こえる。しばらく、誰も口をきかなかった。

何も起こらない。

もう一度、金剛手菩薩の真言を唱えた。そして、その名を奉じて、閻魔天に請願した。

それでも、何も起こらない。

「チッ…やっぱしよ〜…ムリなんじゃねーのか?」

飽きてきた前鬼が舌打ちしている。

「無理とは?」

いぶかしんだ中大兄の瞳が非難がましく見上げている。

「小角の呪力では出来ないと?」

「ちげーよ!!死人に例外はねーってことさ。何回か会ったことあるけど、閻魔天は冷酷

だぜ?だって死人を生き返らせろなんて要求にいちいち応えていたら、キリがねえ」

それは、そうかもしれない。前鬼に言われて、皇子は黙った。小角は、まだ閻魔天の真言

を唱えつづけている。

そのうち、急に、音がした。地響きのような音だ。

「おお?!何だぁ?!」

目をこらした鬼神の前で、ぱっくり地面が割れている。

地面の裂け目から、青白い光が溢れ出した。

「マジかよ…。まさか……」

光の中から現れた姿には、見覚えがある。黒の天衣をまといドクロの錫杖を手にした美し

い天神。ただ、今は、水牛には乗っていない。将官も、供の鬼卒も、連れていなかった。

「また、そなたか」

小角を刺すように見つめて、天神が言った。

あの時と同じ美しく恐ろしい目だ。けれど、少し驚いている。

「金剛手菩薩様の名を使い、我を呼び出すとは……。わずかの間に、ずいぶんな力をつけ

たとみえる」

「恐れ入ります」

「何用だ?くだらぬ用なら、そなたをこのまま獄界に連れ去ってもよいが?」

まんざら脅しでもない視線だ。しかし、小角が答える前に、中大兄が割り込んだ。

「待て。用があるのは、この私だ」

「ほう?」

ギロリと、閻魔天の瞳が動いている。人を審判する細く凄んだ瞳が、長い黒髪の間からギ

ラギラ赤く輝いている。もっとも、中大兄は臆すでもなく、鎌足の体を地面に置くと、立

ち上がって対峙し、淡々と口を開いた。

「根の国の王よ。私の知人が、今さっき、そちらの裁可に入ったと聞いたのだが…。御存

じか?」

「私の界に来た死人は、すべて私の記憶の中にある。名も寿命も罪歴も」

「それは良かった。では、中臣鎌足という男を知っているだろう」

「それが?」

「用件のみ簡潔に言う。鎌足を返してくれ」

「何を言うかと思えば……。そのような願いは聞けぬ」

あっさり即答したわりには、閻魔天は、皇太子を、つぶさに眺めている。中大兄は、見返

して、平然と言った。

「なら、実力行使に出てもいい」

「実力?」

「おまえを、消す」

天神はすぐに、なにをバカな、という顔をした。

「愚かなことを。人間は、たいてい、そんなことを言う。死人を返せ、自分を帰せ、と

な。だが、そう言う者にかぎって、価値のない命を惜しがっている」

「価値は、自分で決める。おまえにとやかく言われる筋合いはない」

「とやかくは言わぬが、裁きは行う。その者の罪業に照らし合わせて」

「罪?」

「そう、我々が判断した罪だ」

「なるほど…」

まったく納得しない顔で、中大兄は頷いてみせた。

「ずいぶん勝手なことを言ってくれるが………貴様は、本当は何者なのだ?人間ではない

ようだが……物怪か?それとも異国の神なのか?」

「私は…十二天の一人、閻魔天。大日如来様が統べる世界の……死者の国を司る天神。異

国…というのは当たらない。それは、人間の決めた境だ。どの国の者であろうと、我らを

信じる者は、我らの界に来る。我らを信じる者には、我らが力を貸す」

「ふーん。やはり、天竺から唐を経由してやって来た仏教神か。確かに近頃、この大和で

も、おまえたち仏神を信仰する者もいるが……鎌足は大和神官の家柄だぞ。いつ、仏神に

信心変えしたのだ?」

「その者は、我らを信じる者たちの強い怨嗟により、我らの界で裁かれることになった」

「怨嗟?」

「その者を強く恨む者達が……私の獄界には、たくさんいるということだ」

「なるほど。たしか、仏教神を最初に拝みはじめたのは蘇我氏だったな。だからと言われ

ても、迷惑な話だが」

「そなたが、そう思うのは勝手だ。しかし……」

閻魔天は、その場で何事か小声で命じ、細く長い指先を一閃した。

「……!?」

はじめて、中大兄の表情が激しく動いた。閻魔天の背後に巨大な鬼卒が現れている。その

青黒い大きな手に掴まれた、細い肩が見える。後ろ手に縛られ、地面に両膝をついた罪人

だ。ボロボロの錦を巻きつけた傷だらけの死人。もとは身分の高かった男が、地獄で、相

当な責苦にあっていたものと見える。その男の淡い色の髪をつかみ、鬼卒は容赦なく、引

きずり上げた。

「やめろ!!」

悲鳴を上げたのは、中大兄だ。その彼に、正視に耐えない姿の青ざめた唇が、それでも少

し微笑んで、「皇子…」と言った。

「余計な口をきくな!」

鬼が怒鳴った。怒鳴りながら、黒い手で髪を引きずり、地面に突き倒した。

「き…さま……」

ためらいなく柄に手をかけ、中大兄は、腰の剣を抜いた。両刃の長剣だ。皇太子宮の地下

に放ってきたものではない。宮が崩れる寸前に自室から持ち出した古剣。柄には、不思議

な文様の描かれた、奇妙な透かしが入っている。一見して、美しい。けれど、底冷えのす

る霊気を含んだ刀身が、不吉なほどに煌めいている。

それを、両手でまっすぐに構え、中大兄は、閻魔天の喉元に剣先を突きつけた。

「何をする?」

呆れた声で、動かない表情のまま、閻魔天は中大兄を睨んだ。

「気でも触れたか、人間…?そのようなもので、私を傷つけることなど出来ない」

黙って、中大兄は、踏み込んだ。

ギャッと、叫んだのは、背後の鬼卒だ。体と同じ青黒い血飛沫をあげて、ドッと地面に倒

れている。倒れたまま、巨大な体は、すぐにグズグズに崩れだし、みるまに土の中へと

還っていった。

「……これが…実力行使ということか?」

閻魔天の目尻が、まるで人間のように、引きつった。

中大兄は、剣先を天神に向け直している。あくまで冷静な声で、彼は言った。

「そにいる赤い鬼神が、俺にも神剣が使えると教えてくれたのでな」

「神剣?」

「この国にも、神はいる。俺は一応、その末裔ということになっている」

「大和古来の神か。高天原に住むと聞いた。我らとは次元の異なる界に住む神族だな。す

でに互いに、不可侵の約束がある。……それが何故、私の鬼卒を殺す?」

「きさまの鬼が、鎌足に手を上げたからだ」

「あれは私が裁いた罪人だ。私の獄界に来た死人は、すべて私の物となる」

「だから、返せと言っている。鎌足は、俺と同じ高天原の神の裔だ。勝手に連れていかれ

ては困る」

「困る?」

「ああ!オレが困ると、言っている!無礼者め!!オレの許しもなく貴様に鎌足を自由に

などさせぬ!!」

何の躊躇も恐れ気もなく、中大兄は飛び込んだ。あるとしたら、純粋な怒りだけだ。その

鮮烈な感情を剣気に込めて、彼は、真っ正面から斬り下げた。

紙一重で飛び退った閻魔天が、固まった視線で凝視している。その青白い頬から、赤い血

が細く流れて落ちた。

「驚いた」

と、彼は言った。

「己の血など見るのは、いったい何千年ぶりであろう…」

「きさまの血なんぞ、どうでもいい。さっきから何度言わせる?鎌足を返せ!!」

「一度我らの界に来た者は返せない。また、人の寿命は決まっている。それは、私にも変

えられない」

「フン。それでも界の一つを預かる支配者か?きさまの仕事は何だ?」

「獄界の死者を統治すること。そして、人々の我らに対する信仰を集めることだ」

「ふん?…では、取り引きをしないか?」

「取り引き?」

「この国で、信仰を集めたいと言ったな?オレは、いずれこの国を支配する者だ」

「何が言いたい」

「神など、信じる人間が大勢いてはじめて、権威を持つものだ。違うか?だが、この国の

民の多くは、まだ、貴様ら以外の神を信じている。しかし、それもオレの力で左右でき

る。天竺から来た仏教の神、おまえたちがこの国に根付くのを邪魔されたいか?それとも

協力して欲しいか?」

「……………」

しばらく、閻魔天は黙っていた。それから、すっかり呆れ果てたようにつぶやいた。

「本当に…驚いた。我らを脅す人間がいるとは……」

「鎌足を返してくれたら、おまえ達のために、あちこちに仏教の寺を建てて莫大な寄進を

してやると言っているんだ。悪い話ではあるまい」

「返さなければ、我ら仏教神に対する信仰を徹底的に邪魔するわけか?」

「だから、どちらがいいかと聞いている」

「さっきも言った。命数は変えられない。ただ…」

「ただ?」

「誰かの命数を分けて、命数帳簿を改ざんすることは出来る」

「ほう?さすがは、お役所仕事だな。まあ、いい。では、オレが死んだら貴様の界に行っ

てやる。だから、オレの残りの命数を等分割りにしてくれ」

「一年ほど端数が出る」

「では、それはオレが貰う。先に死ぬと、鎌足の葬儀を出してやれなくなる。それに、

色々と面倒な後始末が残るしな。それは…オレがやる」

そこまで聞いて、閻魔天は、黙った。

それから、急に、笑い出した。高くもなく低くもなく、人ではない声音で、ひどく清浄

に、彼は笑った。

「まったく、おもしろい人間だ。役小角もおもしろいとは思ったが、そなたは、また違っ

た志向だな」

「で?返す気になったのか?」

「断わる。と言ったら?」

「この場で、きさまを消してやる」

「バカにしてもらっては困る。おまえを、このまま無理矢理、我が界に連れてゆくことも

できるのだぞ?」

「だったら、きさまを、きさまの界ごと滅ぼしてくれる」

「なんと…」

感心したように、閻魔天は見つめている。

それからしばらく考えていたが、おもむろに、足元に倒れていた体に指を向けた。する

と、鎌足を戒めていた縄が自然に解けて、体が、すうっと消え出した。

「何をした?」

「とりあえず、一度、戻しておこう」

神剣をかまえたままの中大兄に、閻魔天はそう言っておいて、小角のほうを見た。

「あとは…」

「え?」

「そなたがなんとかするがよい。もし助けられたら…今後は、そなたの力を認め、また力

を貸そう」

「なんとかするって……私が……?!」

再び地面が割れる。黒い天衣を翻した天神は、裂け目に吸い込まれるように、地の底へと

姿を消した。

「あ?!おい!待ちやがれ!!てめー!!毘沙門天のクソジジイから何かオレの事聞いて

んだろ?!この間のこと、説明しやがれ!!」

慌てて前鬼が怒鳴ったが、あっという間に元に戻った地面は、亀裂の跡さえ残していな

い。チッと舌打ちして、前鬼は足で土を蹴った。

「さて」

やや呆然としている小角に、中大兄が相変わらず切り替えの早い合理的な調子で剣を向け

た。

「では、早急に何とかしてもらおうか?」

「私が…呪術で……?」

「そう言われていたように、聞こえたが」

「はぁ…」

「私としては、どっちでもいいんだ。鎌足が戻ってくるなら」

神を相手にした超絶的なやりとりの後でも、中大兄は呆れるほどハッキリした性格だ。今

度は小角に剣先をつきつけて促している。

小角は、横たわった体のそばに座り、鎌足の額に手をあててみた。

(………)

わずかだが生気が戻っている。今、呪法をほどこせば、本当に助かるかもしれない。

自分に出来る事とは、孔雀王咒のことだろう。あれは、人を救う力だと、毘沙門天が言っ

ていた。

「やめとけよ!」

隣で、前鬼が不機嫌に口をはさんだ。

「そいつぁ、恩を徒で返すよーな野郎だ。賭けてもいいぜ。助けると、後で、ぜってーロ

クなことになんねーよ」

「まあ、そうかもしれないが…でも…」

呪術で、人を助ける。

それが、自分の生きる目的になるかもしれない。だから、空も飛んだ。そして、最後にま

たここで、試されている気がする。

「それも、私の生きる道かもしれないし……何より、自分のために、この力を貰ったん

だ。べつに見返りは期待しないよ」

何のために生きてゆけばよいのか。

それを、ずっと考えていた。

もし今、答えが出るのなら、試してみたい。

陶器のような冷たい肌に手を触れると、脆い命が脈打っているのがわかる。死んで当然の

ケガだ。しかも、元々病に冒されているし、そのうえ無理に無理を重ねている。

(助けることなど、できるのだろうか……?)

小角は、チラと、鎌足の体をはさんだ向側に視線を上げた。中大兄が、食い入るように、

自分の手許を見つめている。

祈るようなその瞳は、自分にも憶えがある。どんな危険を冒してもかまわない。どんな無

謀を冒しても取り戻したい、その気持は、小角にもよくわかる気がした。

助けたい。

すべての人の、その心を、代行する。それが、自分の使命でありたいと思う。できるなら

……。

強く願って、孔雀明王の真言を唱えた。何度も何度もとなえた。キリキリと張った冬の冷

たい空気の中、自分の声が、不思議なほど澄んで聞こえる。

不意に、手の平に暖かい何かが現れた気がした。

如来寿量品をとなえると、指先から淡い光が射してきて、虹色の小さな珠がいくつもいく

つも現れる。珠は鎌足の体にぶつかると、泡がはじけるように煌めいては消えた。

「………」

中大兄が、ずっと詰めていた息をようやく吐くように、深い溜め息をついた。

遠くの空が白んでいる。

もうすぐ陽が上る。

徐々に視界に浮かび上がる、入り組んだ微細な入り江は、志摩半島の辺りに違いない。

「だ〜〜寒…」

自分の両腕を抱いて、牙をガチガチいわせながら、鬼神が子供っぽい大声を上げた。

「どぉでもいいけどよ〜!!早くあったかいトコに行こうぜ!!」

重く長い、不思議な一夜が、今、明けようとしていた。





(23)

「やっぱり、嫌だな〜〜」

妙にゴネながら、小角が、自宅の客間に正座している。そわそわと落ち着かない様子で、

彼は、さっきから戸口のほうを窺っている。その隣で、腕を組んで立ったまま、前鬼が

唸っていた。

「たくよ〜オレがわざわざついてきてやったんだから、文句言うんじゃねーよ!!」

「誰もついてきて欲しいなんて、言ってないだろ」

「そーかな。ついてきて欲しそーな顔してたぜ?」

「余計なお世話だ。たまたま一緒にいたから、行きがかりだろ」

「んだと〜!!」

赤い瞳を光らせて鬼神が口をあけると、八重歯のような白い牙がのぞく。

その時、すっと戸が開いた。

小純だ。子供用のいい加減な衣ではなく、官吏の普段着、雑袍を着ている。彼は、衣の音

をたてながら、まっすぐ部屋に入ると、兄の正面に座った。二人の間の空気が、ピンと

張った糸のように緊張している。

あの夜から、一ヶ月以上経っている。それでも、二人が会うのは、あれ以来、はじめて

だった。

「兄上…」

最初に口火を切ったのは、小純だった。

「先日いただいた手紙では…この家で今日、母上にお目にかかりたい、ということでした

が……」

「ああ」

「母上は、お会いしたくないと。ご用があれば、僕が代わりにお伺いいたします」

「そう…か……」

小角の緊張が、途切れた。どこかほっとした顔で、彼は言った。

「でも、おまえにだけでも、会えてよかった。大事な話があったからな」

「大事な…お話?」

「ああ。これを……おまえに…」

それまで手許に置いていた絹の包みを、小角は目の前で広げた。

「これは……」

翡翠色の、美しい官服だった。赤金の飾り細工をつけ車形錦で縁取った同じ色の冠が一番

上にのっている。どちらも、艶やかな絹の光沢で、目を奪った。

「きれいだろ?」

小角は、にっこり笑った。

「今年の四月一日から、この官服に変わる。新しい官位も制定される。ウチは、黒冠だ」

「ですが……いったい……?」

「これは、今日から、おまえのものだよ」

「でも…僕は…まだ……」

うん。と頷いた瞳が、落ち着いて微笑していた。

「まだおまえは一般でいう成人ではないが……皇太子が、特にお許しになった。今後は、

おまえが賀茂役公を名乗るがいい。今年の四月一日より朝廷に仕えて俸給をもらい…この

家を守り、よく母上に仕えて欲しい」

「兄上は…どうなさるのです?」

「私は…」

そこで言葉を切り、それから小角は息を整えるようにして、もう一度声を出した。

「私は、官吏をやめる。やめて、優婆塞(うばそく)になる」

「優婆塞…」

小純は目をみはった。優婆塞とは、在家のまま修行する男性のことだ。自主的に山に入る

彼らは、戒律には縛られないが、「僧」と違って身分も俸禄もない。

「どうせなら、天皇に願い出て出家なさり、正式な僧になられたらいかがですか?皇太子

様の御命を救った今なら…それも不可能ではないでしょう?そのほうが楽だし…外聞もい

いし、身分も生活も安定しています」

「まぁ…それは、そうだろうな」

小角は苦笑した。

「でも私は、与えられた寺に安穏と住んで、机上の学問をしたいわけじゃないんだよ。

もっと実践的なことをやるつもりだ」

「山で荒行を積んで、法力をみがくおつもりですか」

「ああ」

「あの…化け物みたいな力を、さらに大きく我が物にしようと?」

「……ああ…」

「そんな事をなさって、いったい何になるというのですか?!」

「わからない。でも、私は…自分にできることをやろうと思う」

「あの夜、兄上は空を飛んでいらした。そのうえ今度は、何をしようというのですか。天

地をひっくり返そうとでもいうのですか?」

「…………」

畳み掛けるように詰め寄って、小純は、じっと兄を見つめた。兄は、もう絹の官服どころ

か雑袍すら着ていない。どこで作ったのか、簡素な、木の皮の繊維で織った白い衣を身に

つけている。土間にそろえてぬいであったのは、沓ではなく草履だ。素足には、白い布を

巻きつけていた。

「兄上は……この一ヶ月、どこで何をしておいででした?」

「皇太子殿に従って、紀伊に居た」

「…………その鬼神も一緒に?」

「ああ。鎌足殿の具合を見ながら、一緒に、薬草を詰んだり薬を作ったり。付近の住人に

頼まれて、物怪も浄化した。村人に、薬を分けたり、病人やケガ人を治したり……」

「それは、ご立派なことかもしれません。でも…僕らの事は、どうするのです?僕らは、

どうなってもかまわないと?!……もし、この家に戻って下さるのなら、母上だってお許

しになると思います。僕も、お取りなしいたします!!ですから…」

「ありがとう。でも…もう決めたんだ」

小角は、静かに微笑した。

兄の瞳から、ずっと引きずっていた迷いが消えている。それを見ると、小純は、不意に怒

りがこみあげた。

この怒りは、何だろう?

わからない。わからないが、とにかく今は、許せない気がした。

「結局、兄上は……僕達よりもその鬼を選んだわけですね」

「小純……」

「勝手なことして…兄上はそれで良いのかもしれませんが。ご自分の夢のために、僕らを

犠牲にして…僕らを捨てることも出来るのですね」

「………」

「わかりました。僕が、家を継ぎます。そして、この家の家長として、命じます。もう二

度と、この家に足を踏み入れないで下さい。これは、母上のご意思でもあります」

「………わかっている」

「もう、母上はあなたの母ではありません。僕も弟ではありません。兄上は死にました。

そう、母上もおっしゃっています」

「わかって…いるよ…。でも…。今まで、世話になった。ありがとうございましたと、そ

れだけ、伝えてくれないか」

「………」

「おまえにも、出会えて良かったと…私は、思っている」

「…………」

他人として両手をつき、頭を低く下げて、小角は立ち上がった。

座ったまま、いつまでもじっと正面を見つめつづけている弟を残して、彼は前鬼とともに

家を出た。

風と一緒に、さくさくと、土を踏む音が聞こえる。

「いいのか?」

それまで、珍しく黙っていた前鬼が、チラと小角に視線を流した。

「何が?」

「帰れる家が……なくなっちまってさ。それって結構、辛ぇぜ?」

「おまえだってないんだろ」

肩を並べて歩きながら、小角は前を向いたまま、ちょっと説明しがたい複雑な声で吐息を

ついた。

「……かえって、ほっとした気もする。もう二度と帰らずにすむと思うと…」

「おまえ……」

「いつも……家に帰るのが怖かった。でも、帰らなければならないと思っていた。そこし

か生きる場所がないと、思っていたから……」

「………」

「全然淋しくないといったら嘘になるが……。今は、おまえがいるし」

見上げた小角の瞳が笑っている。それを見ると、前鬼は急にドキドキしてきて、わざと乱

暴に怒鳴った。

「けッオレァなぁ!ガキのおもりやってんじゃねぇんだぜ?」

「それは、こっちのセリフだ!おまえこそ…」

ムッとして言い返しかけた小角の視線は、けれど、そこで止まって、自分の白い衣を見つ

めた。

「前鬼。この……修行者の白妙の意味、知ってるか?」

前鬼は、プイと横を向いて答えた。

「知ってるぜ。死装束……だろ?」

「死と、新たな再生こそが……私の行くべき道さ。だから、淋しくなんかないんだよ」

少し笑った小角の声が、どこか泣いているように聞こえた。

「………」

「前鬼……おまえにも、やっぱり親…いるよな」

「いねーよ。前も言ったろ」

ぶっきらぼうに答えて、前鬼は言葉を吐きすてた。

「鬼はな、自分の子が自分と同じ凶暴な化物に育って自分を殺すのを恐れるから、生まれ

てすぐに捨て子にするのさ」

「でも……殺したりはしないんだな。そのほうが、安心なのに…」

「エ?」

はっとして、前鬼は小角を見た。

それから、少し救われたような不思議な穏やかさで、「ああ」と頷いた。

鬼神と人間の足は、なんとはなしに、山のほうへ向っている。家の背後、都と反対の方角

には、千メートル級の山々がダラダラと連なっている。葛木山系だ。手近な峯の一つを眺

めながら、前鬼が言った。

「これから、どーすんだ?」

「とりあえず……金峯山へ行く。閻魔天が言ってただろ。金剛手菩薩が、蔵王権現の姿に

なって、その辺を歩くって。だから蔵王権現に会って、この宝珠の由来を聞く」

「聞いて、どーすんだ?」

「何故、それが私の手にあるのか。それがわかれば、もっと自分が見えるかもしれない。

ま、一つずつ、修行しながら考えるよ」

「それも……いいかもな」

ふう。と、前鬼が息をついた。

「おまえはどうするんだ?」

「ん〜〜どーすっかな〜。天界には帰れなくなっちまったし」

組んだ両手で頭の後ろを支えながら、前鬼は空を見上げた。

「毘沙門天のヤロー、オレ様の身柄を、おまえに預ける…とかゆー勝手なこと言ってや

がったが……」

「私は、保護観察人か!」

「違うだろ!おまえと一緒にいると、とんでもねえ目にあわされるだけだぜ!!」

「良かっただろう?おかげで一緒に人助けができて。鎌足殿だって、あのままでは死んで

いた。この一ヶ月だって、おまえが手伝って薬草だの何だのと集めてきたから……」

「フン。あんな野郎助けて、どーせ後で後悔するだけだぜ。なんだって鬼神のオレ様が、

諸天の命令でもねえのに、人間のために労働してやんなきゃなんねーんだよ。ふざけんな

よ!!もう金輪際、てめえには付き合わねえ!!」

「………」

「と、思ったけどよ〜」

鬼神は、やっぱり、空を見上げている。

そのままいつまでも黙っているので、代わりに小角が言った。

「おまえ、人間が嫌いなんだろう?」

「嫌いだぜ」

「言っておくが、私は人間やめる気はないぞ」

「いーぜ、おめーはそれで。そのままいけよ」

「ああ。おまえに言われなくたって…」

「諸天もビビらせるバケモノなくせに、その往生際の悪ィとこがいいぜ」

「あのな…」

「オレぁ、てめーの『人間』は嫌いじゃねえよ。てめーといると、めちゃくちゃハラもた

つけど…」

そこで前鬼はニッと笑った。

「こんなワクワクしたのも、初めてだぜ」

「わくわく……ねえ…」

なんだか不本意な顔で、小角は肩をすくめた。

「天界は、どうなってるんだ?」

「わかんねー。だから、しばらく、ほうっておく。襲ってきたら、戦うけどな」

牙を見せて、前鬼は鬼神らしくニヤリと笑った。

「オレを殺そうって奴は、それが誰でも、叩き潰してやる」

「元仲間に追われてるってのに、なんだか楽しそうだな、おまえ」

「オレぁ……戦いは、メシと同じくれー大好きだぜ?」

「あ、そう」

「だから、もっと力が欲しい。絶対に、もっと強大な力を手に入れてやるぜ。ワケわかん

ねえまま命狙われるのもごめんだしな」

「力…か…」

それは、自分もそうだ。しばらく考えていた小角は、急に決心したように言った。

「やっぱり前鬼、ここで別れよう」

「へ?」

案外に、ひどく驚いた顔で、鬼神は立ち止まった。

「別れる……?!なんで……」

「昔、おまえとはじめて会ったのは、吉野だったよな」

「え?あ…ああ」

「今からちょうど7年後に、また、そこで会おう」

「7年…?!」

「そのくらい経ったら、お互い、もっと強くなってるだろ?」

清々しく不敵な顔で、小角が見つめていた。

「どうせ行くなら、頂点を目指す。私は、修行して、この世で一番の呪術者になる。この

世界の理を解き明かし、衆生を救い、己のすべてを超えてみせる。そして、いつか、天界

に行く」

鬼神は、さすがにドギモを抜かれたように、しばらくぼんやりしていた。その瞳が、徐々

に鮮やかに見開かれ、それから最後に、嬉しそうにニヤッと笑った。

「いいぜ?その言葉、忘れんなよ」

「おまえこそ。遅刻するなよ?」

「じゃあ、7年後の、きっかり同じ日だ。太陽が昇る瞬間に、会おうぜ。今より百万倍は

強くなってろよ」

「無論だ」

「今度は、絶対、来るんだぜ?!」

「わかってる」

瞳の奥を見合わせて、二人は、同時に笑った。

風が、吹いた。

小角の前から、鬼神が消えた。

けれど、その向こうに、道が見える。一度だけ振り返って、小角は出てきた家のほうを見

た。

(母上…小純…)

もう、この家には戻ってこないのかもしれない。彼らに会うこともないのかもしれない。

そう思うと、締めつけられるような孤独と淋しさを感じた。

(それでも…父上…。私は…自分の信じる所へ行こうと思います)

静かに、黙礼した。

冬枯れの木々が、細かく震えている。けれど、枝の向こうの空は、眩しいほど明るく澄ん

だ蒼だった。

小角は、独り、先の見えない、遥か遠い路に向って、歩きはじめた。

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