(18)


「う〜ん…。これではもう、とても奥には進めないな……」

顔を腕で被いながら炎熱をかいくぐり、前を走っていた白い雑袍の背が、ハタと立ち止

まった。

燃え盛る皇太子宮に飛び込んだのはいいが、炎に遮られて、どうにもこれ以上は進めな

い。一階の入口から少し走ったところで、完全に火に囲まれ、彼は立ち往生した。

「てめぇ、こんな所でどーする気だよ?!」

後ろから追ってきた前鬼が、怒鳴っている。

今なら、まだ戻れる。

そう思いながらも、小角は出口を見ようとはしない。奥を睨んだまま

「前鬼!!」

と怒鳴った。

「この階に人はいるか?!」

「いるぜ。死体だけならな」

「では、上に行こう!」

「マジかよ、てめぇ……。やめとけって。行ったら最後、マトモな方法じゃ帰れねぇ

ぜ?」

「マトモ…?」

「だぁから〜……?!」

言いかけた前鬼が、小角をつかんで引き倒した。一瞬遅れて、炎をまとった柱が倒れてく

る。

「チィッ」

小角を片手で抱えたまま、前鬼は柱をかわし、そのまま天井に向かって飛び上がった。板

の割れる激しい音がする。炭化しかかっていた天井はあっけなく鬼神の拳でブチ抜かれ、

二人は近くの梁を踏み台に、破れた穴をくぐり抜け、一気に天井裏へと跳び乗った。

「お…おいっ」

「うるせえ!しっかりつかまってろ!!」

赤い爪の足が、載ったとたん、沈み込む。裏板が抜ける直前に、さらに跳んだ。

再び、凄まじい衝撃がくる。瞬間、呼吸を止め身を縮めた小角は、それから呆れた声でつ

ぶやいた。

「ひどいもんだな…。信じられんやり方だ」

気がつくと、もう二階の床板に乗っている。

「人間には考えられない非常識な突破方法だよ」

「贅沢言うんじゃねえよ!てめぇが来たがるからだろうが!!」

「それにしても………髪と顔がよごれる」

「あのなぁ!風圧で、てめーはたいしたことねーだろーが!!ひでー目に会うのはオレの

方だぜ」

「そうかね」

たて続けに飛び上がっては天井を破り抜き、ようやく三階までくると、さすがに少しは火

の手が薄らいでいる。しかし、ここも長くは居られない。

「どうだ?この階に人はいるか?」

「ん〜。何か、鼻がおかしくなっちまった。どこもかしこもコゲ臭くてよくわかんねぇ。

生き物の臭いはしねぇ気がするけど」

「じゃあ、とりあえず探そう」

「おい…」

腕からすり抜けて歩き出した彼に渋々ついて行きながら、前鬼は顔をしかめた。

「どぉでもいいけどよ〜、おめぇ、火ィ防ぐ術、何か使えねぇのか?!」

「使えない」

「キッパリ言うなよ!!んじゃ、どぉやって帰るんだよ!!」

「まあ、何とかなるだろう」

「なぁ?」

「今度は、獄界じゃないし」

「はぁ?!何とかって何だよ?!」

癇癪を起こしかけた鬼神にクス…と笑ってみせて、小角は燃えている部屋の一つに入って

ゆく。舌打ちして、前鬼もそれを追いかけた。












「鎌足−−−−−−!!」

暗がりに、物の壊れるような音が響く。

苦痛に疲れた瞳に、一瞬、中大兄皇子が必死に階を駆け降りてくるのが見えた。

その姿が、気がつくと昔の面影に擦り変わっている。

まだ子供の、翻る裾が眩しい。

(あの皇子に……私は何を夢見たのだろう?)

短刀を喉に転がり落ちる瞬間。

鎌足は、そのすべてを視界の端に縫い止めて、短く長い夢を見た。






春。もう、桜が散り終えている。

薮を越え、飛鳥川のほとりを急いで抜けると、寺が見える。

とび込むと、とっくに講議は始まっていた。

小さな講堂に何列も整然と長机を並べ、子供も大人も入り交じって座したまま、しんと話

を聞いている。

近くに空席がないので、鎌足は、邪魔にならぬよう壁際の隅にそっと座った。24年ぶり

に中国から帰ってきた、講師の僧旻は、一度だけ彼を見上げたが、気にもとめず朗々と漢

語を朗読している。

(今日は、これか…)

難解な儒書だが、内容はすでに知っているものだった。

つい退屈して、鎌足は辺りを見回した。初めて入った教室で、見知った者など誰もいな

い。自然、不規則な動きの飽いた生徒が目につく。あくびをかみ殺している者が何人もい

る。

大人と子供が入り交じっているのは、よく見ると、有力豪族や皇族の子弟とその従者だっ

た。守役付きで学びに来ている子供達は、講議よりも窓の外や、午後の遊びが気になって

いる。長机のほとんどは、そうした彼らで埋まっていて、あとは、付き合いで出ている朝

廷の役人達だった。見渡すかぎり、兄弟、主従、知人同士が連なりあい固まっている。

(仲良く、ご苦労なことだ)

その安易な結束に、鎌足は、そっと冷めた笑いを向けた。

そんなものを、自分は決して信じない。

信じられない。

それが淋しいと、自覚する前に、そういうすべてを憎んでは軽蔑していた。

(……?)

ふと、やや前寄りの端のほうに、一人だけポツンと離れた小さな背が見えた。

まだ、十にも満たない子供に見える。着ているものから察して、相当に身分が高い。なの

にその子供だけが、供も連れずに座している。

(珍しい。誰だろう……)

鎌足は、なぜかその背が気になった。

小さな背だ。なのに、歳に似合わない大人びた孤独を連れている。そして、それ以上に毅

然としていた。

目が離せずに、鎌足は、じっと見つめつづけている。そのうちに、休憩の合図があって、

僧旻が座を立った。一斉に、室内の緊張した空気が緩む。そのとたん、見つめていた背が

振り向いて、視線が合った。

端麗な顔だ。思っていたより瞳がずっと大きくて、不思議に澄んでいる。

慌てて、鎌足は目をそらした。

ところが、ややあって、伏せた視線の先に小さな足が映った。気配を感じて顔を上げる

と、すぐ目の前に、先程の少年が立っている。

思わず、床に手をつかねて平伏した。不躾に見ていたことを咎められるのかもしれない。

そんなふうに動揺する自分を、鎌足は不思議に思った。

「なぜ、一人でこんな所に座っている」

頭上から降りてきたのは、少年特有の高い声。

けれど案外に、涼やかな響きだ。彼は、ちょっと驚いて、つい顔を上げた。さっきの大き

な瞳が、もっと間近で見下ろしている。背同様、歳にまったく不釣り合いな落ち着きに圧

倒されて、鎌足は口ごもった。

「遅れて参りましたので……席がございませんでした」

「なら、こちらへ来ればよい。隣が空いている」

「あの…」

何と呼んで、どう応対すればよいのかわからない。そう、戸惑っているのを見透かしたよ

うに、少年は微笑した。

「私は、葛城皇子(かつらぎのみこ)と呼ばれている。乳母が、葛城氏の者達だから」

ああ、と鎌足は頭を低くした。確かに、身分が高い。今上、舒明帝の二人目の皇子だ。最

初の皇子は、今をときめく蘇我氏の女が生んだ古人皇子である。

「では……私などがお側に参るわけにはいきません。それに、古人皇子様方と御一緒なの

では?」

「兄なら、そこにいる」

やや不機嫌に、皇子は異母兄を視線で指した。一番前の真ん中に、大勢の従者に囲まれた

おとなしそうな少年が談笑している。隣には、大臣・蘇我蝦夷の子、入鹿もいる。入鹿の

従者と王家の従者に守られて、古人皇子は、ゆったりくつろいでいた。

しかし、第一皇子とはいえ庶妃の子である。

一方、葛城皇子は第二皇子だが、皇后、つまり正妻の子だった。なのに、この差は、政治

状況によるものなのだろう。帝位についた時から、舒明帝は蘇我氏に頭が上がらない。帝

の意思も国政も、蘇我の一存で決まってゆく。

「兄など、どうでもよい」

険しい視線で横を向いた葛城皇子は、やはり、年令に似合わない苦渋を浮かべている。鎌

足は、その横顔につられて立ち上がろうとした。

「………?!」

急に、首筋に手を差し入れられて、鎌足はぎょっとした。体が、反射的にすくんでいる。

こんな子供にまで、と思うと恥ずかしかったが、身体中が、他人に触れられる恐怖で震え

ている。

「やめ……」

怯えた様子で腰を崩した彼に、葛城皇子は少し不思議な顔をしたまま、髪に手を入れ耳の

辺りをかきあげた。

「………ッ」

身を硬くして、目を閉じる。けれど意に反して、その指先に、思ったほどの嫌悪はなかっ

た。

「髪に……藤の花がついている……」

皇子は、髪の奥から拾い上げた、薄紫色の小さな房を手にかざした。

「あ…」

おそらく、さっき走ってきた時についたに違いない。自宅の近所にも、一面に藤の咲き乱

れる草原がいくつもある。急に力が抜けて、鎌足はそこに座り込んだ。皇子は、しばら

く、それと鎌足とを見比べていたが、「綺麗だな」とつぶやいて、ちょっと眩し気に笑っ

た。

席につくと、葛城皇子は鎌足を隣に据えて機嫌よく書を開いた。

黄巻を広げるたびに手と手がぶつかる。けれど、それも嫌ではなく、まるで以前からずっ

と親しかったように肩を寄せて同じものをのぞきこんだ。

「この国は…大きいな」

漢語ばかりの文章を見つめながら、何気なく話し掛けるように皇子が言った。鎌足は、隣

の少年に視線を移した。

「唐が、ですか?」

「ああ。だが、その大国も、内乱で滅んで、また興る」

ほんの十数年前、随が滅んで、唐が興った。この、中国の政権交代のドサクサで、このと

ころ日本も穏やかなのだ。

「しかし……それでも、もしこの国と戦いが起これば、我々は勝てるかどうか」

向こうのほうが、文化が進んでいる。それは、学べば感じる。中国は、日本にとって学ぶ

べき国でもあり、脅威でもある。

「あいだにある朝鮮半島の三国は、この先どうでるかな」

「百済と高句麗は、我々と結ぶ気でしょう。でも…新羅は唐と結ぶかもしれません」

へえ、という顔を皇子はした。

「そなたとは、気が合う」

しかし驚いているのは、鎌足のほうだ。姿は子供なのに、話していると、年上かと錯覚し

てしまう。怖い…。気がつくと、目の前の皇子をそう感じている自分がいる。

「しかし……」

と皇子はつぶやいた。

「世界は、広い。仏典を持ってきたのは印度だし、その向こうにはもっとたくさんの国が

ある」

「そうですね。日本は、小さな島国にすぎません。そのうえ、内乱が後をたたない」

「だから……一つに出来ればよいと思う」

「この国を、ですか?」

「そう、思わないか?バラバラだから、弱いのだ。朝廷は、大和六県などをようやく治め

るだけで、この国には他に王を名乗る者がたくさんいる。彼らをすべてまとめ、どんな外

国にも脅かされない強い国にできたらよいと、思わないか?」

「あなたの……理想ですか?」

「ずっと探している、夢の国かもしれない」

そう言って、葛城皇子は無邪気に笑った。笑うと、子供に見える。なのに、蘇我大臣さえ

思い付きもしないことを、平然と考えている。子供とは思えない器に、確かに自分は畏怖

している。

同時に。

捨てたはずの輝きに、もう一度誘惑されるように、心が揺れた。

この皇子のそばに居られれば、もしかしたら自分も生まれかわれるかもしれない。

そんなふうに、なんとなく思ったのかもしれない。

でも、相手は子供だ。バカバカしい一時の戯れにすぎぬかもしれないではないか。戯れ

で、鎌足は言ってみた。

「もし、あなたをお手伝いできたら……あなたと一緒に、私も夢を…見れるでしょうか」

「もちろんだ」

大きな瞳が、くったくなく笑った。未来を見つめる光を宿した強い瞳。その汚れのない美

しい自信に、つい見とれた。

鈴を振るような声で、葛城皇子はもう一度笑った。

「私は今度、天皇候補の皇子になる。皇位継承権とともに名も変わる。憶えておけ」

「何と?」

「中大兄、と」






しばらくは、何が起こったのかわからない。

しんとした暗がりでおそるおそる目を開ける。短刀を握って飛び下りた。でも、生きてい

る。

喉を撃ったのは剣ではなくて中大兄の手だ。その手が、切っ先を握っている。気がつく

と、皇子のもう片方の腕が、自分の背を抱きとめていた。刃を握った指の間から、血が滲

み出している。同時に、大きな怒鳴り声が耳を叩いた。

「こ…の…バカ者!!!見損なったぞ!!何を考えているのだ?!そのようなふざけた真

似、俺は認めない!!」

大人の顔になった、でもあの時と同じ光を映した瞳が、怒りを孕ませ、じっと見つめてい

る。

「皇……子…」

急に力が抜けて、鎌足は、握っていた短剣から手を離した。

弱った手から自分の護身刀を取り上げると、階段の途中で止めた身体を引き起こし、中大

兄は玻璃の小瓶の蓋を開けて白い唇に突き付けた。

「……飲めるか?」

青ざめた頬が、小さくかぶりを振った。

「…結構です。私は、もう…」

どうせ、助からない。痛み止めは、その場しのぎにすぎない。

それに、死は天命だ。もう、逆らう気などない。

ずっと、すべてが嫌いだった。中臣の氏も、それを示す神官職も、自分自身も……なにも

かも。

だから、この国を手に入れてやろうと思ったのかもしれない。

はじめに宣旨を受けた時、神祇伯の地位をけってまで政治家を目指した。

中臣でも自分でもない、全く別な何かになりたかったのだ。

いつも、天命から逃れるために必死だった。

そしていつも………苦しかった。

耐えられなくなると、時々、あの葛城皇子の瞳を思い出した。

いつか、あの光に辿り着けば、自分も変われるのかもしれない。

そう思いながら、他の公卿に近付いては弄ばれるフリをして、その者達を操ろうとし続け

た。

(……やっと相応の力を手に入れて、再び皇子の前に現れた時も、私は……皇子を利用し

ようと思っていた…)

相手も自分を利用する。だから自分も相手を利用する…。頭には、いつもそれしかない。

自分の中で、人間とは、そういう関係でしかないはずだった。

(なのに、いつからだろう…)

手を引いていると思っていた自分が、いつのまにか手を引かれていた。

そして気がつくと、とっくに捨てたはずの夢や光や輝きを、一緒に探しているのだった。

本当に、別な何かになれそうな気がした。

(中大兄様のお役に立てれば……)

だからこそ自分という人間の本性を、この皇子にだけは決して知られたくなかった。知ら

れまいと隠し通して、それでも陰では同じことを繰り返しながら、ここまできた。

(でも、もういい……)

いくらあがいても結局、何も変わりはしなかったのだろうと、思う。だからきっと、天命

なのだ。

「もう……結構でございます」

諦めた顔で、鎌足は微笑した。

「八百万の神々が、私に死ねと命じておられる。生かしておくには、あまりにも汚れ果て

た奴だと……」

それを聞くと中大兄はカッとして、いきなり玻璃を自分の口に傾けた。薬液を口に含んだ

まま、細い顎を捉え自分に向けさせ、強引に唇を開かせる。気付いて驚き、鎌足は顔をそ

むけようとした。

「おやめ下さい!そのようなことをなさると、あなたの御身が汚れます!!私などに…

…」

言葉は、そこでふさがれた。

「………ッ……」

今度こそ正真正銘の『はしりどころ』だ。神経を麻痺させるアルカロイド系の猛毒だが、

地下茎だけは、よく痛み止めに使われる。

ぴったり重ねた唇から無理に流し込むと、腕の中で細い肩がわずかに震え、喉が動いた。

「……う…」

濡れた唇が、苦し気に息をついている。その口唇を、中大兄は少しの間見つめていたが、

次の瞬間、そっと口付けた。

(………?!)

苦痛に固く閉じられていた瞳が、一瞬、大きく見開く。

そして、静かに瞬いた。

弱々しい白い指が、手繰るように探しあて、自分の頬に添えられている相手の手に触れ

る。その力ない指を、中大兄はつかまえて強く握り返した。

暗闇に、時が過ぎてゆく。

階下から炎の燃える音が響き、窓の外には時折、オレンジ色の小さな光が、螢のように舞

い飛んだ。

腕の中に抱かれた身体は、時折くる激しい痛みをこらえて、しばらく喘いでいたが徐々に

落ち着きを取り戻している。『はしりどころ』は劇薬だ。危険だが、それだけに即効で、

効き目も強い。

それまでケガ人の手を強く握ったまま、しきりに励まそうとあれこれ言葉をかけていた中

大兄が、急に思い付いたように言った。

「思い出した!」

「?」

薬のせいで、やや瞳孔が開き、ぼんやりした瞳が見上げている。

「おまえ、あの時の藤だろう!」

「……?」

突拍子もない言い方に、見上げる瞳が戸惑った。

「おまえ、あの後、それっきり学問所に来なかっただろう?」

そこまで言われて、ようやく気付き、鎌足は少し驚いた顔をした。

「身体をこわして…」

か細い声で、彼は少し微笑んだ。

「休んで……おりましたから…」

「また来ると思っていたのに……講議のたびに探したが、見なかった。人に聞いても、誰

だったのか結局わからず終いだった」

「あの頃は……御食子について時たま宮殿に上がるだけでしたから」

「おまえと会った日、俺は宮に帰ってから歌を書いたぞ」

「?」

「今日、藤の精に会ったと」

「藤…?私が?」

「髪に花をつけていただろう?その花に似ていると、あの時は思った」

鎌足は本気にしない顔で、声をたてずに苦笑した。

けれど、中大兄は真面目に言っている。

「藤というのは、一見、花は耽美だが、幹は十メートルにもなる。蔓は強靱で、何にでも

よく役に立つ」

「なんだか……ふてぶてしいですね」

「でも、綺麗なんだ。それが全部。特に淡い紫と純白の花弁は、清楚で幻想的で……思わ

ず何もかも忘れて、見惚れてしまうほど美しい」

「女官をくどく時にも、そんなふうにおっしゃるのでしょう?」

「うん。そうだな。俺は、おまえをくどいているのかもしれん」

軽い声で笑った中大兄は、今度は真剣に腕の中を見つめた。

「おまえは……自分が嫌いか」

少し黙ってから、視線を逸らし、鎌足は溜め息のように言った。

「ええ……。嫌いです。中臣も神官も……」

「そんなに嫌なら、変えたらどうだ」

「変える?」

「俺が新しい名をつけてやろうか?」

「何を言うのですか、あなたは……」

そらしていた視線が向き直っている。それを見つめて、皇子は存外簡単な調子で言った。

「神官を継がなかった以上、わざわざ中臣を名乗ることはないだろう」

「では…何と名乗るのです?」

そうだな。と頷いて、中大兄はやけに真面目な瞳で微笑した。

「あの時は…全体の印象だけがぼんやり残って、はっきりとおまえの顔や姿を思い出せな

かったが……。今見ると…」

「………?」

「俺は昔、藤の花が一面に咲き乱れる、この世とも思えぬ美しい原を見たことがあるんだ

が。………それに、とてもよく似ている」

一瞬黙ってしまった彼に、中大兄は、強い声でささやいた。

「藤原がいい。中臣をやめて、そう名乗れ」

「そんなこと、勝手に出来るわけが…」

「できる。俺が天皇になったら、そう詔してやる」

深い瞳だ。

そして、最初に会った時と同じ未来を展望する、透き通った光を宿している。

鎌足は、惑った色で中大兄を見つめ返した。その額に、軽く唇で触れながら、中大兄がさ

さやいた。

「おまえは大事なことを忘れている。いいか?入鹿を殺したのも、蝦夷を自殺させたの

も、古人を殺したのも……命じたのは俺だ。これからも……考えるのはおまえかもしれ

ん。だが、命じて実行させるのは、俺だ。だから、今だって命を狙われている。そうだろ

う?」

「…………」

「俺だって人を殺した。一緒に、やったのだ」

「でも…」

「俺には、おまえが必要だ。前にも言った。気持ちは変わらない。ずっとそばにいてく

れ」

「でも、私は……」

「必ず、助ける。どんなことをしても、二人でここから出てみせる。だから……」

鎌足は、しばらく何も言わなかった。

それからちょっと微笑んで、香の薫る胸に頬を預けた。

「わかりました。お任せします。天命ではなく、……すべて、あなたに……」

頷いて、中大兄は確かめるように抱いている腕に力をこめた。それからすぐに、腕の身体

を床にそっと横たえると、

「少し待っていろ。上に行って使える物を探してくる。きっと何かあるはずだ。ここから

無事に出る方法が……」

それだけ言って、立ち上がった。







(19)


「おいっ何やってやがんだよ!!」

煙に咳き込んで遅れた小角を振り返り、前鬼が怒鳴っている。

「そうは言っても……」

階段を上りながら、さっきから小角は、あちこちに視線を配っている。しかし、たまに見

えるのは黒ずんだ死体ばかりで、生きている人間が見当たらない。

「やっぱムダ足だったんじゃねえのか?!」

前鬼はずっと、がぁがぁ騒いでばかりいる。

確かに、鬼神が嫌がるのは当然だ。このままでは、来たのはいいが帰れない。

それでも小角は、何かにせっつかれるように、人影を探しつづけている。

「あ〜っ!?」

突然、前を歩いていた前鬼が、妙な大声を張り上げた。

「なんだ、いったい……」

急いで追いついて、小角も鬼神の後ろから覗き込む。

「これは……」

すぐ上の踊り場に、人が倒れている。

というより、ただ眠っているように仰向けに横たわっている。何も反応しないところをみ

ると意識はないようだったが、今まで見た炭の塊とは違う。明らかに生きた人間だった。

先にそばに立って顔を確かめた前鬼が、またわめいた。

「コイツ……!オレの隠形見破ったヤツだぜ!!」

「おまえの隠形を見破った?それはすごいな…。どこで知り合ったんだ?」

「山で拾ったんだよ。オレが都まで届けてやったんだ」

「おまえにしては珍しい。人助けとは……」

言いながら段を昇りきり、続いて顔を眺めた小角は、目にした瞬間、顔色を変えた。

「うわっ鎌足殿だよ」

「だから言ったじゃねーか。隠形を見破った奴だって。コイツじゃねえのか?皇太子を

追っかけて入ったって奴」

「………参ったなぁ」

役公(えだちのきみ)の職務で民を使役するたびに、いつも無理をふっかけられるのを思

い出し、小角は本気で困った顔をした。

「私は、この方、苦手なんだよ〜」

「だったら、そのまま通り過ぎればいいだろーが」

「そういうわけには、いかんだろう。なにしろ……」

小角は、かがんで、気を失っている汗ばんだ額に手をあてた。

「ひどい熱だ。傷も重い。もし、私に呪力が使えれば……」

「そいつぁどうかな。だってコイツもう……!?」

ぶっきらぼうに言いかけた前鬼が、急に、体を強ばらせた。あからさまに警戒した態度

で、鬼神は階段の上を見上げている。気配に、小角も視線を追った。

「うわ……」

再び、小角が顔色を変えている。

皇太子、中大兄皇子が、剣でこちらをまっすぐ指したまま、段上から、じっと見下ろして

いた。




「手を離せ」

皇太子に言われると、小角はすぐに鎌足のそばを離れた。中大兄は、まっすぐ降りてく

る。そして、しばらく二人を見つめていたが、視線はそのままに剣を腰に戻した。

「何だぁ?てめー」

「おまえ達こそ、何者だ」

呆気にとられていた前鬼がわめきだしたが、皇太子は、特に動じもせずに言い返してい

る。相手に敵意がないのを、すぐに読んだらしい。小角は、前鬼を引き戻して、とりあえ

ずその場に片膝をついた。

「私は…賀茂役公を務めております役小角と申します」

「おまえが……?」

意外な顔で、皇太子は彼を見下ろした。

「前に…鎌足から話は聞いている。なるほど…」

と言って、皇太子は軽い冗談のように笑った。

「確かに、見目のよい男だな。まるで女のようだと、聞いた通りだ。で?わざわざ何用

だ?今日はもう役公の仕事などないはずだが」

「てめぇ、こんな時にふざけてると殺すぞ!だったら、そこに転がってる奴のほーが、

もっと女みてーじゃねえかよっ!!だいたいなぁってめーらのせいで…」

「こら、やめないか前鬼!」

慌てて小角が赤い長髪の先を引っ張って止めようとする。

その時。すぐ下で爆音がした。

突風と一緒に、炎と黒煙が段の下から沸き上がってくる。

「畜生!ここも、もう危険だぜ」

小角の背を押して、前鬼は上階へ促した。しかし、立ち止まった彼は、皇太子と鎌足を気

にしている。

中大兄皇子が、横たわった鎌足を、なるべく静かに運ぼうと苦慮していた。その間にも、

炎が近付いている。

「チッどけっ」

イライラした鬼神が小角を押し退け、小さく呪文を唱えると、床の体がわずかに浮かん

だ。

体は横臥したまま、すべるように床を移動する。驚いた中大兄が駆け寄って背に手を添え

ると、まるで、重さがまったく無いように手の平に載った。そのまま階段を上り最上階ま

でくると、まっすぐ廊下を進み一番奥で止まる。そこでフワリと床に降りた。

「なるほど…。これが呪術というものか」

後についてきた小角と鬼神を振り返り、中大兄は少々感心したように言った。

「今の力で、ここから飛び下りることは出来ないのか?」

「無理だぜ。この術は、もともとトゲや水の上を歩いたりする時に使うんだ。こんなに高

いところから降りたり出来ねえよ」

「なんだ、役に立たんな」

「んだと、コラァ!!」

また怒鳴りだした鬼神を無視して、皇太子は、窓の外を見下ろした。あらゆる窓から、炎

が勢いよく吹き出している。しかし、ちょうどこの真下だけは、地面に至るまで窓が一つ

もない。長い綱があれば、一見、壁伝いに降りていけそうに見える。

「しかし……途中で火あぶりか、薫製だな。その前に飛び下りるとして……せいぜい3階

の辺りまで行けるかどうか」

「いいじゃねえか、それで。その高さなら綱放して飛び下りてもどうにかいけるぜ」

「だが鬼神、この長さの綱となると……おそらくここにあるものをつないで、1本分しか

作れない。この炎熱を考えれば、全員が使い終わるまでとてももつまい」

「だぁ〜ってめーらひ弱な人間が先に行きゃいーだろ!!オレ様が最後に降りてやるぜ」

「でもダメだ。前鬼…」

中大兄が言う前に、小角が口をはさんだ。

「なんでだよ。このせっぱつまった時に、それくらいの根性あるだろ?!」

「いや…。私たちはともかく…」

小角は、床に横たわっている人影に視線をやった。

「あの体では、とても無理だよ」

「あぁ?」

しかし鎌足を見下ろして、鬼神は呆気ないほどあっさり言った。

「いーだろ、別に。こいつは連れていってもムダだぜ。どうせ、もう助かんねえよ」

小角は一瞬焦った顔をしたが、止める間もなく、隣に不穏な空気が張りつめている。

「なぜ貴様に、そんなことがわかる」

「フン。こんなにハッキリ死相が出てやがるんだ。賭けてもいいぜ。どっちみち明日の夜

明けまでもたねぇよ」

「そのいい加減な口、今すぐ封じてやろうか?」

「おお!やってみやがれ!!」

「やめないか!前鬼!!」

小角が横から叱りつけると、前鬼はふくれて口をとがらせた。

「だって仕方ねえだろ?!こんなに無茶したら、当然だぜ。せっかくオレが忠告してやっ

たのに……」

「なに?」

言葉を聞き咎めて、中大兄は、鬼神の赤い瞳を見つめた。

「そいつはなぁ、初めっからひでぇ病気だったんだ。オレが山ん中で倒れかかってるのを

拾って、ここまで運んでやった。法力と薬草で一時的に回復させたけど、とても動ける状

態じゃなかったぜ。もともと、安静にして、すぐ治療しなきゃ死んじまうよーな体だった

んだよ!!けど…どうしても助けたい奴がいるからって……。自分は死んでもいいから、

何が何でも今すぐ都まで連れていけって…オレに…」

「……………」

取り返しのつかない顔で、中大兄は一瞬、黙り込んだ。

前鬼は舌打ちしている。

「そいつが無事なら、全員無傷で脱出できたかもしんねぇのにな」

「どういう意味だ?」

顔を上げた皇太子に、鬼神はイライラとわめいた。

「そいつが火から逃れる方法を知っているかどうかはわかんねーが……それでも小角と呪

力を合わせれば何とかなったかもって言ってんだぜ!!」

「言ってる事がよくわからんが」

鎌足を指さして、前鬼は怒鳴った。

「そいつ、すっげー呪術使いなんだよ!!ヨリシロの才能があるんだ。見ればわかるぜ。

そーゆー男か女かわかんねーよーな、しかも歳とっても全っ然老けねー野郎!!それに小

角と違ってキチンと訓練されている。本当なら…」

そこで言葉を切って、前鬼は咒をとなえながら鎌足の顔を見つめた。その間、赤い眼には

何かが映っているらしい。見ながら彼は、ブツブツ言った。

「…ん〜と……アメノコヤネノミコトと…それから、こいつ何だ?え〜と、日本の神って

よくわかんねぇんだよな。ああ、タケイカヅチノミコトの力が使えるハズだぜ」

どちらも、中臣氏に縁の神々だ。中大兄は少し驚いて、目を閉じている青白い顔を振り

返った。

「ついでに教えてやると、てめぇも、ちったぁ使えるはずだぜ」

「私が?」

「ああ」

今度は皇太子に向かって、前鬼は指をさしている。

「神剣くれぇなら、使えるんじゃねーのか?」

「………」

しばらく黙っていた中大兄は、鬼神を見て、最後に小角の方を見た。

「小角は、どうなのだ。呪力は無くしていると、以前聞いたが」

「無いのは、呪力じゃなくて、使う気だぜ。ヤル気がねえから、使えねーんだよ、あのバ

カは!!そのくせ、こんな所にのこのこ来やがって!!」

言われた当人は、困った顔をしている。

と、凄まじい音とともに、階段付近の板がハネ上がった。

炎が、もうそこまで迫っている。

「くっそ〜〜〜!!仕方ねえ!」

癇癪を起こして、前鬼が短気に怒鳴った。

「おい、皇太子!綱はてめーが使え。小角はオレが抱えて、こっから飛び下りてやる」

さすがに今度は小角が慌てた。

「ちょっと待ちなさい前鬼」

「うるせえなぁ。なんで、てめーはそう呑気なんだよ!グダグダやってられる状況かどう

か、見りゃわかんだろーが!!いいか?運が良ければてめぇだけでも助かるだろ!」

「そ…そんな…私だけ助かるなんて……」

「助かるとは言ってねえ!!あくまで運が良ければ、だ」

「だから、そんなのは御免だって!!」

「チッ……だったら、おめーがなんとかしろ」

「私がぁ?!」

「おまえが、やるんだ。もともと、そのつもりで、ここまで来たんじゃねーのか?!」

ふと押し黙って、小角は、それまで片手にずっと握っていた錫杖を見つめた。

「天部降ろしをやってみろ。その体をヨリシロにして、天神の分霊を降臨させる。体に憑

かせた天神の霊力で、ここにいる全員を助けるんだ。……おまえなら、出来るはずだぜ」

「例えば、どんなふうに?今まで使ったことのある咒は、不動明王と毘沙門天だが……

どっちも炎術系の破壊咒だよ。こんな時には使えない」

「……ん〜〜。十二天の一人、水天の分霊を降ろして、水を操り火を消す。水天の印を結

んで、真言唱えて、姿を心に念じる……三密の行って昔教えたろ?基本的には、呪法は全

部一緒だぜ」

「しかし……一度も誦したことのない真言は……たとえ呼べても、そんなに力が出せない

よ」

「いーから、やってみやがれ!!」

「それはいいが、水天様ってどんな姿だ?」

「……………」

一瞬黙ってから、がぁっとわめくと、前鬼はがっくり疲れたように、その場に座り込ん

だ。

「あ〜あ」

「なんだ、その諦めたよーな、気のないタメ息は」

「てめぇが孔雀王咒でも使えりゃあな〜。そしたら全員連れて空飛べるのによ〜」

「孔雀王咒?」

ふと前鬼の口から漏れたその言葉に、小角はピクリと反応した。

「それ…空、飛べるのか?」

「飛べるぜ。重病や大ケガも治せるし……。でもよォ、かなり面倒だぜ?他の明王と違っ

て、孔雀明王は変わりモンだかんな〜。明王ってフツー戦神なのに、奴は戦いもメンドー

事も大嫌いだから、てめぇが気に入らねぇと、めったに降臨しやがらねえ」

「でも、獄界で毘沙門天様に習ったよ」

「習ったぁ?!」

信じられない顔で、前鬼は小角を見上げた。

「それじゃ……使えるんじゃねえのか?!」

「かもしれない」

「…………」

すると、それまで黙って話を聞いていた中大兄が急に

「なるほど」

と言いながら二人に近付いた。

「詳しい事情はわからぬが……そうだな」

ちょうど正面まで来て、立ち止まる。そして小角をまっすぐ見つめた。

「この場は、そなたにやってもらおう」

言いおいて、通り過ぎる。それから右手の扉を引き自室に入ると、工作用の太紐を探しは

じめた。

「何やってんだよ?おめぇ…」

「だから、小角に任せると言った。間に合わなければ、他に方法がない。私達は、綱を結

んでここから降りる」

「しかし…それでは……」

困惑している小角をよそに、中大兄はさっさと、見つけた太紐をつないで地面まで届く長

い綱を作りはじめた。実はさっきもそれを考えて、独りここで思案していたのだ。紐と紐

を頑丈に結び合わせながら、彼は、まるで何事もなかったように明朗な声で言った。

「鎌足は、私が抱いて降りる。どちらにせよ、ここで焼け死ぬのを待つ気はない。だが、

とりあえずは、そなたに任せておく。鬼神と相談の上、手を講じるがよい」

「たく…いい性格してやがるぜ」

やや呆気にとられた顔で、前鬼はボヤいている。

「どいつもこいつも……なんでこうマイペースなんだよ。てめーら見てるとニンゲンの認

識、変わりそーだぜ」

小角は、肩をすくめて前鬼を見下ろした。

「どーでもいーけどよ〜孔雀王咒、マジ使えるんだろーな」

「わからない。受持させる、と言われただけだから」

「アレ結構、最初に出すまで難しいぜ?」

「どう?」

「授けられたなら、カタチがすべて頭ん中にあるはずだ。精神統一して手印を結び、孔雀

明王の姿を頭に描いて、その真言を三万三千三百三十三回唱えてみやがれ」

一瞬黙った小角が、大声をあげた。

「33333回ィ〜〜〜?!」

「最初は、そーなんだよ!!」

「そんな暇あるわけないだろう!!」

「なくても、やるしかねーだろ!!」

「〜〜〜〜……」

そうしている間にも、どんどん煙が強くなり、火が迫ってくる。

ともかく、小角は窓際ギリギリに立って、目を閉じた。

不思議に、印形がすぐ浮かぶ。見えた通りに、胸の前で指を合わせ、印を結んだ。する

と、頭の中に晴朗な声が聞こえる。心を傾けると、真言だった。聞こえた通りに心で誦し

た。誦したとたんに、孔雀明王の姿が自然に頭に現れた。

懸命に、小角は、そのまま真言を誦し続ける。

しかし、その途方もない回数には、とても及ばない。その間も、どんどん辺りの温度が上

がり、まさに巨大な焚き火の上にいる有り様になってくる。たまりかねた前鬼が、またわ

めいた。

「おいッ早くしねーと全員丸コゲだぜ?!」

「………」

「まだかよ?!」

「………」

「小角!!」

「うるさいぞ前鬼!少し黙ってろ!気が散る!!」

怒鳴り返したはずみに目を開いた小角は、

「!?」

その瞬間、窓の外に釘付けになった。

どうして、そんなものが見えたのか、わからない。

ただ、燃える炎はとても大きくて、まるで真昼のような明るさを地面に投げている。照ら

し出された地上に、大勢の人間がひしめいている。その中に、二人の人間だけが、はっき

り見えた。

見えたというよりは、わかったのかもしれない。

彼らは、じっと自分を見上げている。そんなはずはないのに、互いに視線がぶつかったの

が、ハッキリわかった。

(どうして……)

困惑したまま、小角は一瞬息を止めた。

どうして、彼らがそこにいるのか、わからない。どうして、自分を見ているのか、わから

ない。でも、そこにいるのがわかってしまった。

一直線に、視線が結び合う。

母と弟が、地上から、窓際の自分を見上げていた。じっと自分の挙動を見つめている。

ふと、毘沙門天に言われた言葉が重なった。




孔雀王咒は……多くの者を救える咒

どう使うのか、それとも、果たして使うことができるのか、それはおまえに任せる

だが、それを使えば、おまえは母と弟を棄てることになるやもしれぬ

また、逆に他人を傷つけることにもなるやもしれぬ

ただ、私はおまえに……機会を与えよう

*その9へ*

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