(17)


八経ヶ岳の渓谷から難波の自宅まで、ようよう辿り着いてみると、屋敷の中は静まり返っ

ていた。

庭に面した柱が一列に並んでいる廊下にぼんやり立って、小角は柱と柱の間に差し込む弱

い陽の光を眺めている。

とにかく、動く影が見当たらない。いったい、家人はどこに行ってしまったのだろうかと

思いながら、とりあえず、井戸へ降りて水を浴びた。

12月の風が寒さを通りこして、痛い。どうも家を空けていた間に、季節がすっかり移っ

てしまったらしい。

(まさか……百年も経ってるわけじゃなかろうな…)

なんとなく落ち着かなくなってきて、急いで傷を洗い汚れを流すと、小角は自室に行って

みた。

(………)

うっすらと塵がつもっているとはいえ、おおかたは出ていった頃とあまり変わらない。

(ともかく……)

自分で手当てをして傷をしばると、新しい雑袍に着替え、再び門の外に出てみた。

獄界に行って以来、時間の感覚があやふやなのだ。実際、向こうでは時の流れ方が違うの

だろうし、だいたい、毘沙門天に送り返された時点で、人間界のどの時刻に戻ってきたの

かもわからない。

(前鬼は……)

どこに居るのだろうと、思った。自分より先に帰ったはずだが、だからといって、先に人

間界に戻っているとは限らない。妙に困っていると、遠くのほうから、あたふたと走って

くる男が見えた。

「ちょっと!!」

慌てふためいて転がるように走り過ぎようとした一般良民らしき中年の男を呼び止めて、

小角は片手で自宅の門を指した。

「この家の者たちがどこに行ったか知らないか?」

「ええ?!」

息をきらしながら、その男は振り返っている。目の小さな太った男だ。彼は、急に立ち止

まって焦ったように口をぱくぱくさせていたが、息を整えどうにか言葉を吐き出した。

「あんた、この家の人かい?ここは、賀茂役公様のお屋敷だよ?!」

「ああ、知ってる。私の親戚が役公さまに仕えているんだけどね…久しぶりに会いにきた

ら、誰もいなくってさ。困ってるんだ」

「それは、お困りだろう」

小角のウソを真に受けて、男は、ちょっと同情の色を浮かべた。

「なにしろねぇ、役公様がね、弟君の祝い事のあった日に突然、行方不明になられてね。

神かくしにあったって噂だったけど……いつまでも帰ってこないもんだから……そのうち

に、母君のご実家の方々がいらして、家の者をいったん、お引き取りになられたそうだ

よ」

「それは……難儀なことだったな……」

「母君や弟君もお可哀想だったよ。役公様をずいぶんと、お恨みのようだった。なんでも

……」

「………?」

そこで男は、声をひそめた。

「弟君が部屋に呼びに入ったら、木簡じゃない、あの公文書用の高価な紙にね、書き置き

がしてあって……。これが、どうもご自分で出て行かれたらしいんだよ。噂では、気狂い

だって話だ」

「気狂い?!」

「そうそう。たまにあるじゃないか。役公様も何か悪霊が憑いて気が狂ってしまわれて…

…。それでどこぞへ出たまま神かくしにあって、お帰りにならなくなったんだよ」

「そうか……。いや、ありがとう」

小角は嘆息した。状況はつかめたが、どうも大変なことになっているらしい。もともと、

帰ってきてもどんな顔をされるやら、とは覚悟していたものの、ここまでいってしまう

と、かえって詫び口上も思い付かない。

(気狂いか……〜〜。そう言われるとショックだが、まあ、似たようなものだな。当たら

ずとも遠からずだ)

「おっと、こうしちゃいられない」

男は、また走り出そうとしている。小角はついでに聞いてみた。

「ずいぶん慌てているが、何かあったのか?」

「ああ。あんた、来たばかりだから知らないのか。大変なんだよ。宮殿の方に行ってみな

よ、大騒ぎだ。皇太子様の宮が燃えてるのさ」

「皇太子宮が火事?!」

「ほら、皇太子様は、蘇我の大臣様を誅殺なさっただろう。それで蘇我の大臣様が化けて

出られたとか。霊が火をつけるのを見ただの、祟りだのと、そりゃもう大騒ぎで。しか

も、そこに赤い髪の鬼神が出たっていうんで、ますます………」

「赤い髪の鬼神〜〜?!」

「鬼神が火をつけたんだって言ってる奴もいるよ」

「いや、どうも」

「あ、おい!あんた!!」

最後まで聞かないうちに踵を返した袍の背を見送って、男は唖然としている。小角は、一

度屋敷に戻って錫杖を手にすると、まっすぐ難波宮に急いだ。この時刻にしては不審なほ

ど人通りのない道を駆け、途中でたまたま外に出ている馬を見つけてとび乗った。

(無断拝借だが、この際だ……)

一応、気は引けているが、とにかく急いでいる。しかし、難波宮に近付くにつれて、人々

の混乱したざわめきが押し寄せてきて、道は人でいっぱいになり、馬でも進めず乗り捨て

た。

家財を持って逃げまどう者。家族を探す者。ただ見物に来ている者。とにかく、宮人も良

民も奴婢も入り交じってごったがえしている。お互い動いてはいるのだが、一定方向に流

れが出来ているわけでもなく、ただ押し合っている。それをかきわけ、どうにか小角は宮

門の前まで近付いた。

白塗りの門の前では、数人の武装した兵士たちが戟を構えて、集まってきた民を追い返し

ている。小角は時々人の波にさらわれそうになるのをこらえ、のびあがって奥を覗いた。

(うわ……)

いきなり、深紅の長髪が見える。おまけに、兵士たちに囲まれてモメている。どうやら彼

らは、鬼神を捕らえようとしているらしい。しばらく何事か怒鳴り合っていたが、そのう

ち、すっかり頭にきた鬼神が、腕を振り上げた。

小角は思わず、錫杖で地を蹴って高く飛び、門前の戟をかすめて中へとび込んでいる。驚

いた門兵が追ってきたが、かまわず鬼神めがけて走った。あの鋭い爪に本気で引っ掛けら

れたら、人間の首など簡単にふっとんでしまう。赤い爪先が振りおろされようする直前、

小角は、鬼神を囲んでいる兵の頭と頭の間に錫杖を割り込ませ、強く一振りした。

キィン。と、脳をかきまわすような音がする。衝撃で、その場にいた者達が耳をおさえて

しゃがみこんだ。その背を踏み台にして、小角は軽く跳んだ。

「やめろ!前鬼!!」

「あッ、おめー!!」

そのまま驚く鬼神の手をとって、走りだしている。後ろから、立ち上がった兵士たちが正

気に返って追ってきたが、振り切って走った。

見かけよりもずっと強い手にひきずられた前鬼が、まだ驚いたまま叫んでいる。

「おまえ、いつ戻ってきやがったんだよ?!」

「さっき。おまえは?!」

「オレもさっきだよ。それが、えれぇ変な山ん中にとばされちまって…都に来たら宮が燃

えてたんだ」

「まさか、おまえが、つけ火したんじゃないだろうな?!」

「なんでオレが、こんなでけーモン燃やさなきゃなんねーんだよ!!意味ねーだろーが」

「それもそうか」

「たく、てめーは会ったとたんにそれかよ。あの連中と同じこと言いやがって」

「いや、悪かった」

やけに傷ついたように腐った赤い瞳を振り返って、小角は苦笑している。

「だけどおまえ、その格好……隠形の術でも使えばいいだろうに。人が驚いている」

ぐぅと詰まった顔をして、前鬼は怒鳴った。

「オレにも事情があんだよッ」

「事情ねぇ。疑われて追い回されるよりマシだと思うが」

「フン。だから、人間は嫌ぇなんだ」

「嫌い?」

やっと建物の陰にまわりこんで二人だけになったところで、小角は立ち止まった。見る

と、隣に並んだ前鬼はひどく不機嫌に顔をそむけている。怒っているのか悲しんでいるの

かわからない顔で、彼は怒鳴った。

「オレはな、前にも言っただろーが!元々人間なんざ嫌ぇなんだよっオレの姿を見ても腰

抜かして泣きわめくか、徒党を組んで武器振りかざすしか思いつかねぇ。人間なんて……

臆病で狡賢いだけのくだらねぇ生き物だぜ。でもって、そいつらが、みょ〜に悟って強く

なると、如来や菩薩になりやがるんだ!!」

「すごい言い方だな」

「どっちみち一緒なんだよ!鬼神を闇の者として認めようとはしねえ」

「前鬼………おまえ、前にもそんなこと言ってたな」

「フン」

「…………」

しばらく詰まっていた小角は、素直に謝った。

「悪かったよ」

「いーぜ、べつに……」

プイと背を向けた鬼神に、小角は珍しく動揺した声をかけている。それをチラと横目に眺

め、前鬼は売り言葉に買い言葉の意地の悪い調子でケンカを売った。

「いーぜ、べつに。おめえは人間じゃねえからな」

小角は一瞬黙ったが、しかし今度は、むっとして言い返している。

「その言い方は、余計だ」

「へッよく言うぜ。獄界であんだけ暴れておきながら……」

「別に私は……」

が、言っている途中で、ふと考え込んだ。

「では……やはり……アレは夢や幻じゃないんだな」

「てめ〜また、そーゆーこと言うかよ。術、使えるよーになったんだろ?!」

「いや、戻ってきてから使ってないし……わからない。でも……もし使えたら……」

と言ったまま、やっぱり小角は黙っている。

冬の日は短い。曇りがちの寒空は、どんよりしたまま暗くなろうとしている。薄闇の中に

巨大な炎が浮き上がり、そこだけが恐ろしく鮮やかだった。金切り声で言い騒ぐ兵士たち

が右往左往しているのが、すぐ近くに見える。見つめながら、小角が言った。

「これでは、もう……手のつけようがないだろうに……。ずいぶん物々しいな」

ああ、と前鬼はこともなげにうなずいている。

「なんか、中にまだ人がいるらしいぜ」

「なんだって?」

「皇太子と、さっき、それを追って入った奴が、まだ中に……」

「…………」

「おい、待てよ!!」

黙って歩き出した白い雑袍を追って、前鬼は肩に手をかけた。

「どこ行くんだよ。まさか、てめぇ……」

その手を錫杖の先で軽く払うと、鬼神はぎゃっと引っ込めた。

「ああ〜〜?!てめー!!その錫杖!!何で持ってやがんだよ?!」

「気がつかなかったのか?さっきからずっとここにある。毘沙門天様にいただいた」

「なぁ?!なんで……」

「それを、確かめるのさ」

言い置いて、小角は、炎の方へ駆け出した。

「おいっ待ちやがれ!!」

慌てて前鬼もそれを追う。兵と宮人の囲みをすり抜けて、二人は皇太子宮へ走り込んだ。

「あっこら!!何だおまえたち?!」

「戻れ!!」

背後で、そんな声が聞こえる。けれど、すぐに炎と煙にかき消された。












もうすぐ、陽が落ちようとしている。

もっとも、もともと陰気な曇天は静かに闇に沈んでゆくだけだ。

皇太子宮の四階の窓から煙のかかった外を見下ろし、中大兄は吐息をついた。地面に動く

人々の姿が小さい。さすがにこの高さでは、ケガ人を背負って飛び下りるわけにいかな

い。

しかし、すでに一階どころか三階までも、完全に火が回っている。

(これでは、死にに向かうも同然だが…)

他に行き場がない。仕方がないので、追い上げられるように、さらに上へと上り続けてい

る。

首に回っている白い腕を見つめて、皇子はとりあえず背中に聞いた。

「大丈夫か?体は…どうだ?」

答えがない。軽い体は、さっきから自分の肩に頬をのせてみじろきもしない。少々不安に

なって、中大兄はもう一度、催促するように声を上げた。

「おい、生きてるんだろうな?たかが、蘇我の下僕ごときに火をつけられた程度で命を落

とすなよ。みっともない」

「皇子……。黒幕は、彼らではありませんよ」

それまで黙っていた声が、小さくつぶやく。ほっとしながらも、中大兄の声音はきつく

なった。硬い表情で、聞き返している。

「誰が、からんでいる?」

「改革に反対する一部の元豪族。それから……」

「それから?」

「天皇と両大臣が」

しばらくの間、中大兄は黙って階を上りつづけた。夕闇は、あっというまに暗闇に変わり

つつある。手探りのような足元が、途中の踊り場まできて立ち止まった。

「おまえ…まさか、それを調べるために……」

「もっと早くわかっていれば……有間に行かずに手を打ちました。でも……確証がなかっ

たので…」

「バカなことをした」

「……申し訳ありません」

「いや、おまえに言っているのではない」

つめた息を、中大兄は言葉と一緒に吐き出した。

「俺のせいで……おまえをこんな目に会わせてしまった……」

吸いこんだ煙が痛い。いったい、自分は鎌足の何を見ていたのかと思う。たとえ、この男

が底で何を考えていようと、陰でどんな裏切りを働いていようと、それはもうどうでもい

い気がした。ただ、今は、後悔している。

それを悟ったように、耳元にかすれた声がささやいた。

「皇子のせいではありませんよ。すべては……私の身から出たサビというものです……。

自業自得と…いうのですよ……」

それまでふたりを覆っていた白布が滑るように落ちる。もう、布の端を掴んでいる力すら

なくなった白い腕が、中大兄の肩からダラリと下がった。はっとして背後に意識をやる

と、苦痛をこらえる押し殺した呻きが、かすかに伝わってくる。

「おい!?鎌足?!」

「皇子……」

細い声が聞こえ、中大兄は焦ったように叫んだ。

「どうした?!」

「あなたは以前、私に…生まれた時のことを憶えているか?とお尋ねになったことがあり

ましたね…」

「あ?ああ…?」

めんくらった皇子に、鎌足は、どことなく微笑んでいるように囁いた。息遣いから、痛み

に苦しんでいるのが、わかる。それでも鎌足は努めて平静を装い、言葉を紡いでいた。

「私は……大和[奈良県]ではなく……遠い…常陸の国[茨城県]で生まれたんですよ」

「そんな話は後で聞く。黙っていろ」

「……聞いて下さい……」

「今はダメだ。あまり口をきくな」

「皇子……どうか、聞いて下さい…」

途切れ途切れなのに、はっきりしている。弱々しいのに、強い声だった。

中大兄は、つい黙った。

いったい何を話す気だろうと不安になる。それを聞くのが、というよりも、そんなことを

今話そうとしている鎌足が、不安だった。軽い体が、今にもここを離れてしまいそうで怖

い。

なのに、それでも止められないほど、その声には不思議な熱がこもっていた。

「私の父は…鹿島社(茨城県鹿島郡鹿島町)の神官でした。中臣御食子は……実の父では

ありません」

とっさに驚きを隠し、再びゆっくりと歩みを進めながら、中大兄はうなずいた。

「ああ、その近所にも中臣氏がいると聞いたことがある。それでは、大和の中臣氏の縁戚

か」

「ええ……。でも、父は神官といっても、私は数多い子の中の一人。しかも、身分の低い

妾の子で……」

声が、冷たい。けれど、淋しい音を含んでいた。

「居場所のない私は、いつか都に憧れて……。気がつくと大和に上る道を一人で歩いてい

た。アテにしたのは、遠縁にあたる都の中臣氏……。でも……」

「でも?」

「それがすべての過ちだったのかもしれない」

自嘲した吐息がためらっている。逡巡を押し殺して、声が続いた。

「その道中で、私は……命こそ失わなかっただけで……あらゆる恐ろしい目にあってし

まった」

どんな、と聞いていいものか中大兄が迷っている。鎌足は、それと気付いて少し笑った。

「……親切ごかした旅人に騙され、夜盗に襲われ……もちろん金も服も取られて、あげ

く、婦女の代わりにされた…。よってたかって嬲られて犯されて……最後に殺されそうに

なって、偶然はずみに夜盗の一人を殺して、逃げた……」

暗闇の下から、業火の迫る気配がわかる。それでも中大兄は、それ以上進めずに立ち止

まった。心許なく彷徨う細い声が、小さく笑っている。

「それでも…私は、まだ子供だったと思います。都に着けば、きっと助けてもらえると信

じていたのだから……。やっと辿り着いた中臣御食子の屋敷の前で…私は泣いてしまって

……。そこで家に入れてもらい、ようやく助かったと思いました」

「親戚筋から……養子に入ったのだろう?いいではないか。よくあることだ」

「でも御食子にはその時、跡目を継ぐ息子がいたのですよ」

「………?」

「彼の遊び相手として、私は家に置いてもらったのです。……その夜、その方の寝所に呼

ばれて、そこで初めて、自分の役目を知りました」

「役目?」

聞き返した中大兄に、鎌足は軽い声で笑った。

「……夜盗に強いられた同じことを、またそこで強いられた。それが、どうしてかわから

ぬまま……ただ毎日、夜の来るのが恐ろしくて……。でも考えてみれば、有力者の紹介も

なく突然やってきた子供の言葉を、誰が信じてくれるでしょう。ただはじめからそのつも

りで、私は家に置かれたのでした……。誰も私を、縁戚どころか人間とすら思ってはおら

ず……転がり込んできた生き物が、たまたま玩具に使えるからと……」

「…………」

「それを知った時、私は………いつかきっと、この中臣の家を手に入れてやろうと思っ

た。そして…それ以来、私は何を見ても、どんな目に会っても…決して泣くことが出来な

くなりました……。

……それからの私は、おとなしく慰みものにされながら、誰にもよく勤め、孝養を尽くし

……数年して、ようやく御食子の次男として養子に入ることが出来たのです。……そして

……いつものように兄に体を弄ばれていたある夜、階の上に誘い出し……突き落として、

殺しました」

風の音が聞こえる。

風に混じって、火の音と、悲鳴が聞こえる。もうすぐ、階下も焼けるだろう。それでも、

中大兄は、前に進めずにいた。

その後、長子になおされた鎌足は御食子に従って宮中に上がり、公卿や親王たちと付き合

うようになったのだと、言った。

「そこで私には、次の目的が生まれました」

中臣の家督は、いずれ自分の物になる。しかし、そんなものには、もはや興味がない。だ

からもっと、大きなものを手に入れる。

「孝徳帝が……まだ軽皇子だった時に近付いたのは、彼がもっとも皇位継承権から遠かっ

たからです」

中大兄、古人大兄、山背大兄のように大兄を名に持っていない軽皇子は、はじめから天皇

候補の皇子ではなかった。だから、当時権勢を欲しいままにしていた蘇我の敵でも味方で

もなく、近付きやすかった。

「私がこの国を手に入れようと企んだ、というのは間違ってはいませんよ。あの男を天皇

にして操ろうと…計算のうえ近付いたんですから」

「蘇我を使おうとは……思わなかったのか?」

「蘇我一族は多く、強力で、しかも相手が入鹿では私が彼を使って事を成すのは難しい。

それに、彼らはしょせん臣下です」

「叔父なら、皇族で使えると…?」

「ええ。でも私の思惑に足る人物ではなかったし…それに、この先を考えると歳がいきす

ぎている」

「…………」

「あなたに近付いたのは、一つに、あなたがお若かったからです」

「なるほど。すべて己のためか……」

ふぅと溜め息をついて、中大兄は再び階段を上りはじめる。しばらくして、背から戸惑っ

た、か細い声がした。

「………私をここに捨てて……お一人で、お逃げにならないのですか?」

「そうだな」

言いながら、中大兄は階を上っている。それから急に、話を変えた。

「おまえの生まれた常陸とは、どんな所だ」

「皇子…?」

「鹿島の神社とは、良いところか?」

戸惑っていた唇に、幼い夢を懐かしむ、かすかな微笑が浮かんだ。

「そうですね。時折、境内に……白い鹿が現れて不思議な丸石にたわむれる。神代に、タ

ケイカヅチノミコトが座したという……」

「それは面白い。……海は……あるか?」

「ええ。巨大な岩に激しい荒波が砕けて……。毎朝、遠くの波間から陽が昇る……」

「それは美しいだろうな。俺も15の歳に、父の温泉巡りに付き合って伊予に行ったこと

がある。ちょうど父が亡くなる前の年だ。皆で初めて船に乗って……生まれて初めて海を

見て……あれは、いいな」

「ええ」

はじめて無邪気な返事がかえったので、中大兄はちょっと笑って視線を向けた。

「おまえは、海が好きか?」

「あまり、好きなものはありません。でも……海は好きです」

「では、海に行こうか」

「ええ……?」

「誤解するなよ。政治行事や計略に行くんじゃない。ただ、海を見に行くんだ」

「皇子………」

驚いた、どことなくぼんやりした声に、中大兄は苦笑した。

「大丈夫か?疲れただろう。一番上に着いたら降ろしてやる。俺の部屋で横になるとい

い。薬湯もつくってやる」

「あの部屋…で……?」

「ああ」

「なぜ……私をお許しになるのです」

「さぁな」

「でも…私は…」

「では、なぜ……おまえは俺をかばったんだ?」

「それは……」

しばらく、言いあぐねてためらっている。ところがそのうちに、急に声がくぐもった。

「どうした?」

突然、激痛に突き上げられたように押さえ切れない小さな悲鳴が漏れ、身体が肩からずり

落ちる。

「おい?!」

中大兄は、すんでのところで段の一つに降ろしたその身体を、胸に抱えなおし、とりあえ

ず次の踊り場まで上げた。

苦悶している顔色は、思っていたよりずっと悪い。明らかに、容体は刻一刻悪化してい

る。目の前の階段を上れば最上階だが、そこまですら、もう動かせそうになかった。

「しっかりしろ!今…痛み止めを探してくる」

耳元に怒鳴って、一人、部屋に急ぎ上ろうとした裾を、白い指が握った。

「皇子……お待ち下さい…。どうか、このまま…ここに…」

「離せ。すぐ戻ってくる」

「…小足媛のことを…」

「なに…?」

小足媛(おたらしひめ)は、左大臣・阿倍麻呂の娘だ。孝徳天皇が軽皇子と呼ばれていた

時代からの妻であり、有間皇子の母でもある。

鎌足は、あの夜の続きを話そうとしているのだ。中大兄は、戸惑って、その場にひざをつ

いた。

疲れた瞳が、ほっとしたように見上げている。そして、途切れ途切れに話し始めた。

「孝徳帝の第一妃、小足媛は…プライドの高いお方でした。夫である男の命令に従い、私

と夜をともにするなど許せなかった。夫が天皇の地位欲しさに、長年の妃であられたご自

身に、身を売れと命じたのが恨みで……。できれば内々に復讐したいと思われた。だから

私達は…共に謀って、その夜、あったことにしたのです」

「では…有間は……」

「存じません。媛が…それは御自身で何とかなさると、おっしゃいました。ただ……有間

皇子が私の子だと思わせておけば、私にとっては、左大臣と孝徳帝を動かすのに都合がい

い…。2人を、私が絶対に裏切れないと思わせておけるので……。

それで数年間だけは、そのことを隠し通す約束をいたしました……」

「そう……か…」

うなずいて、自分の衣の裾をつかんだ細い指を両手ではずす。その手を軽く握って、中大

兄は深い瞳で微笑していた。

「わかった、もういい。もう、何も……心配するな。今、薬を取ってきてやる。飲めば

きっと楽になる」

「お待ち下さい…、最後に……もう一つだけ…」

離そうとした手が、握り返している。引き止めようと起き上がった身体が悲鳴をあげ、白

い喉がのけぞった。

「無茶なことをするな!」

慌てて支えた肩は、息切れして大きくはずんでいる。言葉を吐くのが、辛い。それでも、

これだけは伝えておかなければならない。鎌足は、歯を食いしばって、自分を支えている

皇太子を見上げた。

「私は…成り上がり者です…。他人を謀って…血に染めて…己も汚れ果て……手にした地

位。それもずっと…自分の為だけでした…」

「もういい!」

必死に声を絞り出す乱れた激しい息づかいに、たまりかねた中大兄が叫んだ。

「わかったから、もう、しゃべるな!!」

「でも私は、あなたに出会って初めて…あなたの為に途を開きたいと思った。そうすれば

…あなたと一緒に、私も…夢を…見れたから……。………でも所詮は…ただの人殺しです

……」

「もういいと、言っているだろう!!」

ふっと、半開きの唇が、微笑んだ。

「皇子は…もうお忘れでしょうけど……初めてお会いしたのは、蹴鞠の会ではなくて…

もっと前なのですよ。学問所の講議に遅れてきた私に、皇子はご自分の隣席を譲って下さ

いました。その時に…私に、ずっと探していらっしゃるという……夢の国の話をなさいま

した」

「…………おまえ……」

「どうか皇子は……ご自分の信じた道を、お進み下さい…。そして、いつか………」

うめいて、身体が、中大兄の腕から転がり落ちる。慌てて、彼は立ち上がった。

「いいか?!わずかの間だ!すぐに戻ってくる」

足音が、上に遠退いてゆく。

苦しい。

息が出来ずに、鎌足は喘いだ。傷のせいで目が霞んでよく見えない。痛みは絶叫を上げ続

けて、転がり回るほど、ひどくなっている。

しかし、思えばずっとそうだったのかもしれない。生きているということは、いつも自分

にとって、そういうことだった……。

ふと、護身用の小刀が、かすれた視界に入った。珠飾りのついた微細な細工は、皇太子

が、たった今落とした物に違いない。

とっさに手をのばし、どうにか掴む。

一気に引き抜いた。抜け落ちた鞘が、階を落ち、硬い音をたてる。

ちょうど戻ってきた中大兄が、気付いてはっとした。

「バカ!よせ!!」

もう、突き通すだけの力もない。自分の喉に切っ先をあてると、華奢な体は残った力で、

一息に頭から階を転がり落ちた。

暗闇に、引き裂くような叫び声と、激しい物音が響いた。

*その8へ*

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