(15)


「痛ってぇ〜」

獄界から突然冬山に放り出され、前鬼は雪の吹きだまりに尻餅をついている。濡れた

腰をさすって立ち上がると、目の前には、見たこともない山道が続いていた。

「毘沙門天のジジイ……テキトーに飛ばしやがって〜〜いってーここどこだよ?!」

どうも感じからして、都の近くではない。けれど山道のわりには広い。馬二頭ぐらい

はゆうに通れそうである。

「おもいっきり人道じゃねえか。人間どもに見つかったら大騒ぎされちまうぜ。何考

えてやがんだよ、あのジジイは〜〜」

赤い長髪をうっとうしげにかきあげながら、前鬼は牙の生えた口をとがらせた。天衣

を取られてしまったので空は飛べないが、術は使える。とりあえず隠形で身を隠す

と、前鬼は、辺りを見回した。思ったより深い山でもない。近くに人里も点々として

いる。

「都は……あっちか」

北のほうに臭いを感じて、前鬼は道を歩きだした。小角がどうなったのか気になって

いるが、とにかく都に行けば会えそうな気がする。

赤く鋭い爪をはやした裸足でサクサクと雪を踏みながら、彼はとりあえず道の通りに

進んでみた。雪は降っていないとはいえ、曇天である。今すぐ凍死するほどでもない

が、かなり寒い。

「寒いのは苦手だぜ。あ〜〜あ。天衣がありゃ〜な〜。空飛べりゃあ、あっとゆー間

なのによ。不便だったら…」

しかし、もう護法鬼神でなくなった以上、天衣は使えない。

曲がりくねった道には、白い雪が薄く積もり、所々に枯れた雑草や小さな枝の先が飛

び出している。しばらく歩いていると、飼いならされた獣の臭いがした。

(あ…。馬だぜ…)

馬が一頭、うろうろしている。よく見ると、少し離れた所に人間もいる。錦の官服を

着た、身分の高そうな男が、一人で道端にうずくまっていた。

(何やってやがんだ…?)

通りすがりに、前鬼はひょいと見下ろした。男は、錦が濡れるのもかまわず、雪の上

にヒザをつき頭を低く下げている。苦し気に、肩や髪が揺れたかと思うと、咳き込ん

で吐いた。その度に、赤黒い血が白い雪の上に点々と散っている。

(なんだ…。病気かよ)

おそらく、長時間、馬に乗るのに耐えられずに途中で降りて吐いているのだ。無関心

に、前鬼は通り過ぎようとした。

「そこの鬼神」

「お〜?」

背後から呼び止められて、前鬼は仰天した。振り向くと、白い細面の顔が、こっちを

見ている。まるで死人のような、雪よりも白い頬だ。けれど瞳は鋭い光で、確かに自

分を見つめている。前鬼は慌てた。

「だっ……誰だおまえ!何で人間のくせにオレの姿が見えるんだよ?!」

「私に、その程度の隠形はきかぬ」

「その程度ォ〜〜〜?!オレ様を誰だと思ってやがんだ!」

官服の男は、ちょっと笑った。

「そなた、小角と一緒にいた護法鬼神であろう?」

「オレ達を……知ってんのか?」

「大化改新の詔をした時に、法興寺の屋根に上っていたのを見た」

「おまえ……そーいやどっかで……」

やや首をかしげていた鬼神は、そこで大声を出した。

「あ〜〜ッ小角が後で『中臣連様』って言ってた奴だ!オレの使ってた隠形、あの時

も見破っただろう?!」

「だから言っているではないか。法興寺の屋根に二人で上がっているのを見たと」

「小角といい、てめぇといい。たく、自信なくすぜ」

小角に次いで二人目とはいえ、人間ごときに術を見破られるのは、高位の鬼神として

はかなり屈辱だ。前鬼はフテ腐れて、隠形を解いてしまった。

「おまえ、皇太子とかゆー皇子に仕えてる都の偉い奴だろ?何でこんなとこに一人で

いるんだよ」

「急用で……武庫の仮宮から難波宮に帰る途中なのだ」

実は、有間で中大兄を暗殺する謀略を聞いてから、結局、意識不明が続き、この日に

なるまで起き上がれなかった。今もこうして話しているのが精一杯で、馬に乗ったは

いいが、とてもマトモに走らせることが出来ない。ついさっきも、落馬しそうになっ

て休んでいたが、今日は、12月30日である。一刻も早く戻らなければ取りかえし

のつかぬことが起こってしまう。

しかも、薬師が枕元を離れたスキに脱け出してきたから、今頃、武庫では騒ぎになっ

ているかもしれない。誰かが追ってきては、もっと面倒になってしまう。鎌足は、

焦った瞳で鬼神を見上げた。

「そなた、私を連れて……馬より早く走れるか?」

「馬ぁ〜?!フツーのケモノと鬼神様を一緒にすんなよッ」

「では、今から私を難波宮まで連れていって欲しい」

前鬼は一瞥してから、そっけなく答えた。

「ヤだね。何で見ず知らずのおまえなんかと」

「頼む。時間がないのだ」

思わず立ち上がり、鎌足は前鬼のほうへ二、三歩進んだ。けれど、すぐにつまずいた

ように倒れて手をついてしまった。

「おまえ……病気だろ」

突っ立ったまま前鬼は、薄い肩を、まじまじと見下ろしている。

「それも……長患いを放っといたせいで、かなり重くなっちまった病だ。臓腑の中が

上から下まですっかりタダレてやがる。これ以上無理すると、ぜってぇ死ぬぜ?第一

その体じゃあ、とてもオレのスピードには耐えられねぇ。抱えて走ってみろ、途中で

くたばっちまうぜ」

「いいんだ。私は死んでも」

うつむいていた顔が上がる。伏せられていた長いまつげの下から、透明な光を宿した

瞳を見せて、鎌足は微笑んだ。

「いいんだよ。……あの方を救えるなら」

何かに打たれたように、前鬼ははっとした。あの時の小角と同じ目をしている。獄界

で前鬼をかばって閻魔天に言った小角と同じ、不思議な瞳だった。

前鬼はくるりと踵を返すと、道から外れてヤブの中をしばらくガサガサやっていた

が、しばらくすると照葉樹の枝を折って帰ってきた。それから怪訝な顔をしている鎌

足の前で、光沢のある肉厚の葉を数枚ちぎると、口元に差し出した。

「これ、噛んでろ。ちったぁマシになる」

「薬草……?」

「ああ。それから…これ抱いてろ」

小角に渡されたままずっと持っていた宝珠を、前鬼は白い手に置いた。

「かなり揺れても、てめーにダメージはこねぇはずだ。体力も一時的だが回復する。

落とすんじゃねぇぜ?!大事なモンなんだからよ!」

「それでは……」

「いいか、たまたま行く方向が同じだから、連れてってやるだけだからなっ」

荒っぽくそう叫ぶと、鬼神は片腕で無造作に体を抱えて、走り出した。






「なんか…変だぜ?」

難波に近付くにつれて、前鬼はしだいに妙な顔つきになった。道から外れ、崖や谷を

とびながら凄まじい速さで走っていた彼は、わずかに速度を緩めて辺りに耳をそばだ

てている。

「どうしたのだ?」

固く目を閉じていた鎌足が瞳を開いて、赤い髪をふさふさとなびかせた端正な頬を見

上げた。

「ん…〜〜」

前鬼のとがった耳が、ピクリと動く。ざわざわと、さっきから周囲の気が異様に騒い

でいるのだ。

「何か……都で起こってやがる……」

「どんな……?」

鎌足は気ぜわし気に重ねて聞いた。宝珠と薬草のせいか、わずかの間に顔色がずいぶ

ん良くなっている。先刻とは違うしっかりした声で、彼は伸び上がるように鬼神の肩

を掴んだ。

「……火だ……宮の一つが燃えてるって……」

「なんだと?!」

「イデッ!何しやがんだてめ〜!?」

いきなり髪をひっぱられ、前鬼は大声をあげた。しかし牙をみせてガミガミ怒鳴ろう

とした彼は、思わずその声を飲み込んでいる。

怖いほど真剣な視線で、「早く!!」と硬い声がした。その迫力に気押されて、前鬼

は渋々頷いた。

「チッそんなに慌てなくたってな、難波宮はもうすぐだぜ」

ブツブツ言いながら更に速度を上げると、間もなく、何かが見えてくる。黒煙だ。夕

焼けのように赤く光る空に、黒い煙が巨大な柱のように立ち上っている。

人々の悲鳴とヤジが聞こえる。混乱の中で、皇太子宮が燃えていた。

集まってきた民と逃げまどう人々でごったがえしている宮門をすべりぬけると、炎上

している宮の前で、前鬼は鎌足を降ろした。

地面に足がついたとたん、鎌足は走り出している。

「おいっテメ〜!宝珠返しやがれッ」

「すまぬ!生きていたら、礼はする!!」

言うなり珠を放り、錦の官服は雑踏の中に見えなくなった。パシッと片手で宝珠を受

けて、前鬼は仏頂面で突っ立っている。

「た〜く〜何なんだアイツは〜〜」

変な拾い物をしてしまったと思ったが、とにかく目的は小角に会えればいい。右往左

往する人間たちをかきわけて、前鬼は見慣れた長い黒髪を探しはじめた。







鎌足が火炎の前まで来てみると、兵士たちは手桶を持ったまま固まって、呆然と舞い

飛ぶ火の粉を見上げている。

「何をしている!!」

鎌足は、大声で叱咤した。こんな声を出すのは、入鹿を殺した時以来だ。驚いて、兵

士たちが振り向いている。大錦冠の官服に、彼らは慌ててひざまずいた。素早く兵長

を呼びつけると、髭をたくわえた大柄な男があたふたと走ってくる。彼は低頭して、

しどろもどろに言い訳をした。

「申し訳ありません。気付いた時にはもう…手のつけられぬ有り様で……火の勢いが

強すぎて、もう、どうにもなりませぬ」

確かに、一階部分はすでに火の海だ。炎が、まるで下からつかみあげる巨大な手の平

のように二階部分にまでのびかかっている。

鎌足は唇を噛むと、「皇子は?」と言った。

「皇家の方々は全員逃れております。今夜は正殿で集まりがありましたので…皆様、

はじめからそちらに……」

「中大兄様も?御無事なのか?」

「それが………その……皇太子様だけお姿が見当たらず………」

「馬鹿者!!何故それを先に言わぬ!!」

思わず火の中に飛び込みそうになった鎌足を、兵長が抱きとめた。

「鎌足様!!危のうございます!!」

「離せ!!」

「もはや、助かる者は、中には残っておりません!おそらく皇太子様は、どこか他の

場所へあらかじめ逃れていらっしゃるかと…」

はっとして正気に返ったように、鎌足は付近を見回した。それから、兵士を二手に分

けると、テキパキと命じた。

「おまえ達は、民を宮門に近付けさせるな。それから、おまえ達は宮人を誘導して、

安全な場所へ逃れさせよ。それから……」

「はっ」

「誰か、斧か弓を持っていないか?!」

足元に控えていた兵長が、走ってきた兵士の一人から受け取って、弓をいくつか鎌足

に捧げた。その中から、自分に引けそうな弓と、一番大きな鏃のついた矢を十本選ぶ

と、

「水はあるか?」

と髭の男を見下ろした。

「は…こちらに。しかし……このような物ではもはや……」

「いいから、貸せ」

ひったくった木桶を、ためらいもせずザブリと頭からかぶる。呆気にとられた兵士た

ちが見守る中、鎌足はびしょ濡れのまままっすぐ炎の中に駆け込んだ。

「お……お待ち下さい!!」

呆然としていた兵士たちが大声を上げたときには、もう、吹き出す煙に隠されて姿が

見えない。

「馬鹿な……」

鎌足が消えた炎を見つめ、兵長は、なすすべもなくその場に立ちすくんでいる。

鎌足は、煙を吸わぬように息を止めたまま、まっすぐに走った。煙と炎で、前がよく

見えない。けれど、この皇太子宮は設計の時から立ち会っている。目をつぶっていて

も、どこに何があるのかわかっていた。

(もし、人目のつかぬ場所に閉じ込め、殺めようと思うなら……)

あそこしかない。迷わず地階を駆け降りると、突き当たった石の扉には巨大な錠が下

りている。鍵の隠し場所を探ったが、どこにも見当たらない。

(やはり……ここか)

まだ、生きていてくれればいい。

ただ、それだけを念じて、鎌足は弓を持ったまま十数歩離れた。錠は頑丈で、とても

素手でなど壊せない。しかし、大きく厚みがあるとはいえその大部分は木製である。

横木の、観音開きになる扉の合わせ部分を狙って、鎌足は弓を引いた。

まっすぐに相対し、背筋を伸ばして前を見る。力業の斧や打撃系の剣はいまひとつだ

が、弓は得意だ。親王以下すべての官僚が弓を射る、今年の正月の射会でも、的を完

璧に外さなかった者は、彼の他はそういない。

つがえた矢に、弦が、キリキリ鳴る。

ひゅっと風を切る音が耳元で鳴り、放った鏃は狙い通りに食い込んだ。けれど、一本

だけではビクともしない。次々に矢をつがえ、順番にキッチリ縦に並べて打ち込んで

ゆく。十本すべてを撃ち終わって、穴だらけになったのを確認すると、扉と横木の隙

間へ、弓の端をひっかけ全体重をかけて押し下げた。




(16)


頭上が、燃えている。

あまりの熱さに、中大兄は、詰め衿を外した。さっきから天井が、無気味な轟音をた

ててギシギシ揺れている。煙も少しずつだが確実に流れてくる。そのうち燃え崩れて

落ちてくるのかもしれない。

窓はないし、扉は一ケ所だけで、いくら体当たりしても開きそうになかった。財宝を

納めてあるわけでも、天皇の棺でもないので、鉄製の錠までは使っていないから、外

側からなら何とか壊せるかもしれないが、内側からでは動きもしない。

錠が燃えれば開くだろうが、その頃にはとても出られる状態ではないだろう……。

(それも皮肉なものだがな)

溜め息をついて、中大兄は、転がっている死体を見つめた。今頃は、彼らの仲間が、

火事の中に入鹿の怨霊を見たとでも言い触らしているのかもしれない。

(蘇我の怨念か……。バカバカしい。そんなもので俺をとり殺せるものか!)

確か、子供の頃にもこんなつけ火があった。まだ11か12だったと思う。父の宮殿

が燃えた。祟りだと、その時も、そんな話で落ち着いた。

(だが、火をつけるのは、いつだって人間どもだ)

ホコリをかぶった大きな木箱によりかかり、いつものように片ヒザを立てて床に腰を

落としたまま、中大兄はさっきからじっとしている。別に、ケガをしているわけでは

ない。なのに、なんとなくこの期に及んで立ち上がり、ジタバタと努力する気がおき

ない。

そうすべきだと、わかっていながら、あがいてまで脱出を講じる気力がわかなかっ

た。

なにもかもが、面倒だ。

殺して、だまして、また殺す……。本当は、疲れているのかもしれない。

(だが…そんなことじゃない)

今まで誰にも頼ったことなどなかった。蘇我一族に蹂躙され続けた時も、殺されかけ

た時も。弟や妹は幼いし、父も母も蘇我のいいなりで、何も出来はしなかった。毎

日、首を絞められるのを、ただ待っているだけの生活の中で、せめて入鹿と刺し違え

ることしか考えていなかった自分を、ここまで連れてきたのは鎌足だ。

(なのに……)

立てた片ヒザにヒジを乗せ、中大兄は再び溜め息をついた。

一度つかんだ手を放されるほうが、最初からないよりも、ずっと辛い。

ヒジの上に額をつけて、中大兄は自嘲ぎみに苦笑した。

(天皇、両大臣とも不在の折、皇太子宮が蘇我の祟りで出火し、帰ってみれば俺が死

んでいた、というわけか)

天皇は、徳が高いから災難にはあわず、おまけにアリバイはあるし、なかなかよく出

来た芝居だ。誰が考えたのだろうかと、思う。

(鎌足かもしれない)

いずれにしろ、あの男は、これを見越して天皇とともに出掛けたのだ。そう考える

と、悔しさのあまり熱っぽい何かが目許にこみあげてきた。

(ふん。我ながら呆れたものだ……。こんなに……)

こんなに自分が脆かったとは……。

何故そうなのか、自分でもよくわからぬまま、中大兄の頬に一筋の雫が流れ落ちてい

た。

強く、唇を噛む。噛んでいないと、嗚咽が漏れてしまいそうな気がした。

乾いた空気に、ものの燃える音だけが響いてくる。

と、不意に、炎とは全く違う音に気付いた。荒れる猛威ではなく、意思を持った人間

らしい響きだ。それが、断続的に扉の向こうから伝わってくる。

(何だ……?)

座ったまま、中大兄は、首だけ巡らして扉のほうを見つめた。

ある間隔をおいて、力強く撃つ音が何度もする。それからしばらくして、厚い木の裂

ける音が響き、開かないはずの扉が、ゆっくりと動いた。

同時に、吸い込んだ煙に咳き込みながら、一人の臣下が濡れた姿で、体当たりでもす

るように転がり込んでくる。中大兄は、一瞬、目を疑った。

「おまえ……」

「皇子!!……良かった……」

安堵のあまり、その場に崩折れそうな顔をして鎌足が立っている。中大兄は、その瞬

間に我に返ると、座ったまま彼をつぶさに見つめた。

「何をしておいでです!さ、早く逃げないと……」

「おまえ……死にかけていると言ってたわりには元気だな」

「え?」

「なるほど。仮病か。………で、何しに来たのだ?俺の死を確認にか?」

「皇子……」

「でなければ……ああ、そうか。これで、忠義ヅラで俺を助けておいて恩を売り、今

までの疑いをとりあえずごまかす気なのか」

鎌足は黙った。

中大兄は座ったまま一向に動こうとしない。すると鎌足は、何を思ったか、煙が入り

込まぬよう改めて戸を閉めると、中大兄の前まで歩みより、そこに膝をそろえて端座

した。思わず逸らした皇子の瞳を見つめながら、沈んだ声で、彼は言った。

「やはり私を…もう二度と、信じては下さらないのですね」

「当然だろう。策謀家同士、疑いだしたらキリがない。どんな顔も嘘と芝居に見えて

くる。今までは…無条件で信じることを前提にしていたから、成り立っていたのだ。

もう、元には戻せん」

「私を…敵だとお思いですか」

「あたりまえだ。それは、おまえの方がよくわかっているんじゃないのか?」

「では…」

と彼は言った。

「私を、ここでお討ち下さい」

「なに?」

「もう、私はあなたの役には立ちません。そのうえ、あなたを煩わせるばかり。です

から、この首を斬って安らかな御心を取り戻されるのが良いでしょう」

不思議なほど静かな声だった。静かなまま、鎌足は微笑した。

「その代わり、どうかお約束下さい。必ず、生きてここを逃れると。火は一階に回り

きっています。ですからここからまっすぐ階を上り、二階から飛び下りるのがよろし

い。後方の草むらならば、砂地があって柔らかいので平気です。……さあ、早く」

中大兄は黙って見つめた。それからおもむろに立ち上がると、腰から長剣を抜き放っ

た。

剣先を細い顎に当てると、鎌足は斬りやすようにうなじを出し、少しうつむき加減に

頭を垂れる。一度刃を当て、位置を確かめると、中大兄は剣を握りなおして振り上げ

た。

空を、切る音がする。振り落ちた剣の刃は、しかし寸前で避けて床を突き刺した。

キン、と響いた硬い音に、鎌足は閉じていた瞳を開いて、顔を上げた。

「皇子……?」

「やめた」

そのまま剣を放り出し、中大兄は再び座りこんで両手を体の後ろについている。天井

を見つめ、彼は投げやりに言った。

「何も死ぬことはあるまい。おまえほどの男なら、誰でも手玉にとれるだろう?人形

が俺でなくとも良いわけだ。だから、他の人形を探せ」

「皇子……」

「おまえ一人で逃げるがいい。だが、俺はここに居る。もう、どこにも行かぬ」

中大兄は、座ったまま天井を見上げ続けている。鎌足は、しばらくぼんやり自失して

いたが、急に顔をそむけると、頑固なわがままを通すときの口調になった。

「では、私もここに残ります」

「今度は情にからんだ脅しか?俺にそんな手は通用せぬぞ」

「べつに。私が居たいから居るまでです。皇子もご自由になされませ」

「ふん。勝手にしろ!」

それからしばらく、二人は一言も口をきかなかった。その間も入り込んだ煙はどんど

ん濃くなり、炎の燃える強い轟音もひっきりなしに響いてくる。天井の揺れは無気味

なほど大きくなり、ひび割れた個所から、いく筋も煙が吹き出し始めた。

「おい、いつまでヤセ我慢をつづける気だ?」

先に口を開いたのは中大兄のほうだ。鎌足は、相変わらず黙ったまま背筋をのばして

正座している。

「もう逃げないと、死ぬぞ?」

「さようですね」

「死んだら…何もできなくなる」

「ええ、その通りです」

「おまえは、それでもいいのか?」

「皇子は、よろしいのでしょう?だったら、私もようございます」

「おまえの望みは、わが子を天皇にすることではないのか」

「それも、よろしいですね。神官の氏である臣下としては、たいそうな野望です」

「鎌足……おまえ……」

なんとなく、何かが馬鹿らしくなってきて、中大兄は出口のほうを見つめた。ここで

意地を張っても得をするのは、怨みを晴らしてせいせいする蘇我の生き残りと、改革

を邪魔する者たちだけではないか?それに、目の前の男を疑うのも、なんだか奇妙な

気がしてきている。

疑う気がなくなったわけではないが、このままでは意地の張り合い、子供のケンカの

ようだ。

鎌足は、黙って正座している。その頑な白い顔にもう一度何か言おうとしたとき、

「?!」

はっとして、中大兄は、天井を見上げた。黒い煙が、ひときわ大きく吹き出した、と

見えた瞬間、ものすごい音がしたかと思うと視界が遮られ、何も見えなくなった。

「鎌足!?」

とうとう、天井が落ちてきたのだ。幸い自分に異状はない。咳きこみながらも、慌て

て手探りで前に進み、中大兄は、反射的に届く限り手を差し伸べている。

案外近くに、彼はいた。

男にしては華奢な肩を両手でつかまえ無事を確認すると、中大兄は何故かほっとし

て、その顔を覗き込んだ。鎌足は、動きも驚きもせずに端座している。そしてチラリ

と見つめ返すと、きつい視線のまま、さっきと同じ口調で言った。

「皇子……。手をお離しください。私のことは、ほうっておいていただきたい」

さすがに呆気にとられて、中大兄は、白い頬を見つめた。鎌足は、じろりと彼を見返

したまま、ふいと横を向いてしまっている。

「ああ!!わかった!」

とうとうサジを投げたように、中大兄は大声で言った。

「わかったわ!!まったくおまえのガンコさときたら俺以上だな」

「………」

「わかったから、とりあえず一時休戦だ。ここを出る」

「皇子……」

急に薙いだ空気に、鎌足の瞳が溶けるように和らいだ。緊張が解けて少しぼうっとし

た顔で彼は中大兄を見上げている。それを無理に立たせると、皇子は、煙がいったん

おさまるのを待って、扉のほうに歩きだした。

「いいか?まだ、おまえの疑いが晴れたわけじゃない。だが、もう一度チャンスをや

る。真偽を確かめるためのな。だから……」

言いながら振り返って、中大兄ははっとした。鎌足がよろけるように近くの箱に手を

ついている。

「どうした?!」

「いえ……何でもありません…」

真っ青な顔で、鎌足は口元を押さえ、細く言った。

宝珠の力でおさまっていた病状が、ぶりかえしている。けれど、今はそれどころでは

ない。込み上げてきた嘔吐を無理に押し込めて、彼は苦笑した。

「大丈夫です。ちょっと、目眩がしただけで。さあ、早くここから…」

そう言いながら、中大兄の背を押し、ふと何の気なしに天井を見上げる。

その瞬間、

「皇子!!危ない!!」

「?!」

とっさに渾身の力で、鎌足は押していた背を突き飛ばした。同時に凄まじい爆音が響

き、先程とは比べものにならないほどの煙が、炎と一緒に部屋中に広がった。

一瞬だ。

中大兄が気がつくと、目の前に崩れた巨大な天井が重なっている。呆然と、彼は立ち

上がり、瓦礫を探った。

「鎌足……?おいっどこだ?!」

隙間から、小さな呻き声が聞こえる。彼は声のする方を辿って、両手で天井を掘り返

した。

「鎌足!おい!!」

白い手と淡い色の髪が見える。下半身は埋まっているが、胸から上は瓦礫と瓦礫の間

にはさまるように、倒れていた。

「おい!!返事をしろ!!」

「……あ…」

手を引っ張られて、鎌足はようやく気がついた。少し頬を傾け、視線を上げている。

「良かった…」

と彼はつぶやいた。中大兄は無事だったのだ。

「おまえは?!大丈夫か?!」

白い手首を握ったまま、中大兄は、乱れた髪のかかる耳元に叫んでいる。鎌足は頬を

瓦礫につけたまま、ちょっとの間、目を閉じた。

もう、わかっている。

致命傷だった。

体が完全に潰れるまでには至らなかったが、どうもそれに近い状態だ。不思議なほど

すっかり麻痺して痛みはないが、たぶん、腹から下は強打されて滅茶苦茶だ。両足も

腰骨も折れている。ここから出ても、動けない。

まつげが二三度瞬いて、瞳が開いた。

「皇子……早く……」

「わ…わかった!今、助ける!!」

「違いますよ…。早くお逃げなさい。あなたは…早く…」

呆然と、中大兄の瞳が見開くのを、鎌足は見上げて微笑んだ。

「私は…もうとても……あなたと御一緒できそうにありませんから……」

「な……?何を言っている……」

「私は………ここまでです……」

(因果だな……)

悔しいと、恨む気にもならなかった。思えば当然の報いだ。いろんな人間を陥れて、

殺して、そうして、ここまで来たのだ。こんな最期を迎えることに、どんな理不尽が

あるだろう?

「たわけたことを言うな!!」

いきなり、中大兄が怒鳴った。怒鳴りながら、彼は、懸命に瓦礫の山を掘り起こして

いる。そうして、ようやく埋まった体を引きずり出すと、屈んで背を向けた。

「腕は平気だな?俺の肩につかまれ。おまえを背負ってここを出る」

「無理です。私は……もう……」

「つべこべ言うな!いいから、早くしろ!!」

もう一度振り返って、中大兄は、ぐったりした上半身を無理に起こし、両手をつかま

えて自分の首に回させようとした。

「!?」

錦の丸衿が破れている。引っ張られた拍子に、鎌足の胸元から何かが落ちた。

「おまえ……こんなものを、ずっと持って……」

あの夜、額にのせてやった自分の手巾だ。唐錦の綾地に、いくつもの小さな円で囲ま

れた木と鹿が、左右対称に浮き織りされている。小さいが見事な織だ。鎌足は、それ

を見つめて少し微笑んだ。

「いずれお返ししようと思っておりましたが……どうか、御下賜ください。形見に

持って逝きとうございます」

中大兄は黙っている。それから、不機嫌に言った。

「やらん」

「皇子…?」

「欲しかったら、生き残ってから改めてねだれ。だいたい、逆だろう。形見というの

は、死ぬヤツが生きる者に残すんだ」

それから急に思い立ってあちこち回り、残った箱の中から二人がすっぽりかくれるほ

ど大きな白布を見付けだした。

「いいか、諦めたら許さんぞ!ふざけてないで、さっさと背につかまれ」

言いながら、戻ってきて手巾を拾い、鎌足の傷ついた手の平に巻いて結びつけた。そ

の手を首にかけ、そっと引き起こして身体を自分の背に乗せる。そうして一緒に白布

をかぶり、その端を鎌足に渡すと、悪戯っぽく笑った。

「俺は手が使えない。だから、おまえが持って火と煙を防ぐんだ。俺達は……いつ

も、こうしてきたんだろ?」

見た目よりいっそう軽い体を背負うと、中大兄は扉を肩で押し、石段を昇り始めた。

もう、そこまで炎が降りてきている。沓で踏み付けながら、中大兄は火の上を進ん

だ。時折、黒いものが転がっている。見ると人間だった。それを踏み越えて、中大兄

は更に進む。煙と炎が襲ってくるたびに、布を握った鎌足が、しっかり二人をおおっ

て守った。

(まるで、俺達そのものだな……)

そう思うと、どこからか力が湧いた。

(こんな所で負けてたまるか!)

鎌足を背負ったまま、彼は確実な足取りで進んでゆく。

しかし、一階まで出ると、いきなり火力が上がった。すべて焼き尽くすように、業火

は、すでに二人の逃げ場を塞いでいる。容赦ない炎は、さらに勢いを増しつつあっ

た。

*その7へ*
*千年前の物語 目次へ*