(10)


「ねぇ、兄上。家の者も皆、ようやく難波に慣れたようですね」

17になったばかりの小純が、ニコニコと大きなカゴを抱えて入ってきた。部屋の窓枠に

腰掛け、片足を乗せた格好で外を眺めていた小角は、少しはっとした様子で振り向いてい

る。

目が会うと、小純は呑気に苦笑した。

「兄上ったら、またそんな姿で……母上に見つかったら叱られますよ?」

さっき朝参から帰ったばかりで、まだ小角は正装を解いていない。官服と同じ色の冠をか

ぶった綺羅な姿で、着流しの夕涼みのようなことをやっている。秋の陽を反射してきらめ

く緋色の絹が、紅葉のようで美しい。小純は重ねて言った。

「お召し物が…汚れますよ」

「まぁな。だが……来年から官服も変わるらしい」

「へぇ。どんなふうに?」

「まだ、よくわからないが……ウチの場合、今の位だと黒冠といって、緑の官服だろう。

冠は車形錦で縁どる……」

「それも綺麗ですね」

「着たいのか?」

「いえ、見たいんです。兄上がお召しになるのでしょう?きっとよくお似合いですよ」

小角は黙って、まだ木の臭いのする新しい屋敷を見回し、最後にカゴを覗いた。

「それは何だ?」

「さきほど近所の方に酪[乳製品]をいただいたんですよ。難波に来てから、初めてです

ね。去年は、それどころではありませんでしたし……」

都の移転に従って、役人のほとんどは、家族連れで引っ越してきていた。来たばかりの頃

は何もなかったそこに、家を建て、田をつくり……その間に宮殿の造営にもかり出され、

人々はずいぶん苦労した。

「でも今度のお正月は、ゆっくり迎えられますね」

「そうだな」

「これから夕餉の準備です。これを持ってきたので……母上がご自分で指図なさってます

よ」

「今日は、おまえの生まれた日だ。母上もお喜びだろう。おめでとう小純」

照れたような弟の笑顔を見つめて、小角は微笑んだ。

「まだ帰宅のご挨拶をしていないんだ。後で、母上の部屋に伺うよ」

「そうなさって下さい。母上も、今日は兄上がいつお帰りかと御心配なさってました」

「おまえの祝いの席を設けるおつもりかな?」

「え?さ…さぁ。…では僕は、また夕飯の頃に呼びに参りますから……」

そそくさと去っていく嬉しそうな弟の後ろ姿を眺めて、小角はちょっと微笑した。

けれど、すぐに表情が戻っている。さっきからずっとそうしていたように真面目な視線で

外を見つめた。

ここ2年余りの、彼の日課である。勤めから帰ると、すぐに母に挨拶をし、弟と話し、そ

れからまっすぐ自室にこもって、独り黙って時を過ごす。

深まってきた秋の気配が冷たい。窓から下りると、小角は難波荒陵にある四天王寺の方を

向いて正座した。

いつものように、心の中では、あることを念じている。

一心に、同じことを念じている。

いったい、何度、その言葉を繰り返しただろう。記憶が正しければ、たぶん今日で10万

回。

誦して。念じて。また誦して。また念じて。

………。

ちょうど、10万回目を唱え終わると、差し込んでいた西日がすっと翳った。

小角は、顔を上げた。そして、まっすぐに前を見つめ、強い光を込めた瞳で微笑んだ。

「やっと来たな。ずっと……待っていたよ」

目の前には、小柄な鬼神が立っている。

金の瞳に金の髪。黄の鬼神。

黄口は前に見た、前鬼を連れ去った時と同じ姿で突っ立っている。その顔が、短い牙を見

せて苦笑した。

「あなたの祈りがあまりに熱心なので、つい出てきてしまいました。ホントは規律違反な

んですけど」

目許に微笑を残しながら、小角は以前とは違う確固とした自信ありげな調子で言った。

「毘沙門天様の真言を誦しながら、キミに会わせて欲しいと毎日祈った」

「……羅鬼の封印が、かからなかったのですね」

「あの夜は宝珠を抱いて、一晩中眠らずに知っている限りの経文を誦したよ。絶対に忘れ

ないようにって願をかけてね……」

「そうですか」

何か思い当たるように、その唇がためらっている。

「……やはり、あなたは……」

けれど言いかけた言葉を途中で切って、黄口は小角を金の瞳でじっと見つめた。

「今でも……赤眼に会う意思がおありですか?」

「別れた翌朝、記憶が封印されてないことがわかって…その時に決心したよ。必ず探し

て、助け出してみせるとね」

「では、今すぐおいで下さい。八経ヶ岳の山頂にて、お待ちしております」

「今すぐ?!八経ヶ岳?!」

「ええ。今でなければ、一生お会いにはなれません」

言い終わると黄口は、現れたときと同様、空気に透けるように消えた。

「今でなければ……か」

カサカサと、乾いた木々の音がする。赤く染まった木の葉が何枚も重なって散ってゆくの

が、窓から見えた。

竈のあるほうから、奴婢たちの忙し気な物音や声が聞こえる。楽しそうな母と弟の声も混

じっていた。

小角は、文机から紙を一枚とり出した。墨をすり細長い紙に一行を書き残す。それから白

い雑っぽうに着替えると、たたんだ官服の上に冠を乗せ、最後に、その一行を置いて部屋

を出た。







難波長柄豊碕宮は、およそ1キロ四方以上にも及ぶ広大な敷地に広がっている。

その中の、天皇が御す宮の前で、鎌足はさっきから立ったまま高い庇を見つめていた。瞳

に宿った色が、迷うように瞬いている。しばらくそうしていたが、それから何事か決めた

ように白い手を、もっと白くなるほど握り締めると、おもむろに門をくぐった。

取次ぎを経て孝徳天皇の前に出ると、鎌足は、座ったまま両手をつき床につくほど低く頭

を下げた。

天皇は、じっとそれを見下ろしている。部屋には、二人のほかには誰もいない。孝徳は脇

息に肘をつくと、驚きを隠しつつ、いぶかしんだ末に探るような声で言った。

「用件は聞いた。余の湯治に、随行したいそうだな?」

鎌足はわずかに額を上げたが、顔にかかった長い前髪を払いもせずに、思いつめたような

細い声で答えた。

「はい。お許しいただけるなら、どうか、私をご一緒にお連れいただきたいと……」

ふん。と、孝徳は鼻を鳴らした。

「確かに……明日、余は左大臣、右大臣をはじめとした群卿、大夫らと有間の湯に行く予

定だが……。中大兄は難波に残る。あれの側近であるそちが、何故、余につき従うのだ?

それとも……余を探ってこいと、言われたか」

「いえ。中大兄様には、許可をいただいておりません」

「……ふん?」

「実は…」

鎌足は瞳を伏せながらも、率直な言い方をした。

「あの夜、貴方様と話しているのを知られてしまいまして…」

さすがに、孝徳の表情が動いた。意外な顔になっている。しかし確かにあのとき、一瞬、

誰か人の気配がしていた。

「皇子は、たいへん御立腹なされ…鎌足など、もういらぬ、と仰せになられました」

「それで行き場を失ったか」

「はい。このうえは、もはや貴方様におすがりするほかはなく……」

鎌足の、伏せた長いまつげが、微妙に震えている。あの夜とはうってかわった殊勝な態度

に、孝徳はなおも疑り深い視線を注いだ。

「それで?余が許すとでも思うのか?」

「それは、帝しだいでございます。わたくしは…御推察の通り、忠なき者。はした女にも

劣る節操のなさと、罵られるのも仕方のないこと。ですが……だからこそ、己が利する場

所ならば、いつでもどこでも参りますし、可愛がっていただける方には、たとえどんない

きさつがあろうとも、必ずそれだけのお役には立ちたいと存じます」

鎌足の揃えられた白く長い指先が、かすかに震えている。それを、孝徳は複雑な表情で見

下ろした。






鎌足をいったん帰した後、孝徳は閉めてあった隣室につながる戸に向かい、言葉をかけ

た。

「聞いたか?今の話を……」

軽い音をたてて、戸が開く。孝徳が首を巡らすと、次の間に左大臣・阿倍麻呂が控えてい

た。

「今の話、どう思う?」

「なんとも……言いかねます」

渋い顔で、この最長老も唸っている。

しばらく考えてから、孝徳は別の言い方をした。

「では、あの男を、どう思う?」

今度はすぐに答えが返った。

「有能な内臣には違いありません」

「確かに、役に立つ男だ。敵に回せば恐ろしいが、手駒にできれば大きな力となる」

「ただ……」

「そうだ。真意がわからぬ」

言ってから、帝はもう一つ聞いた。

「中大兄との関係はどうなのだ?」

「少なくとも今日までに、鎌足が我々に随行することを皇太子が許した事実はありませ

ん」

「あやつらの芝居ではないのか?」

「しかし密偵の報告では、確かに様子がおかしいようです。あれだけ親しかった2人が、

このところ公務以外では口もききません。皇太子は、あまり仕事もせずに後宮に入り浸

り、女官にまで戯れかかる自堕落な毎日と聞きました」

「ふむ……それは確かに妙だ。……では、あの時のことを知られて追い出されたというの

は本当なのか」

そこで孝徳は黙った。左大臣、阿倍麻呂は老齢な表情で、一言一言を噛み締めるように

言っている。

「とりあえず、鎌足を我々とともに連れていってはどうでしょう。有間の湯は有間皇子が

生まれた地。鎌足といえど、やはりわが子の絆は断ちがたいのやもしれません」

阿倍麻呂は有間皇子の祖父になる。やはり、どうにも情にはからませたいらしい。それは

孝徳も同じだった。

帝は黙って考え込んでいる。

(あの夜は、あんな言い方をしたが……)

確かに鎌足は使える男だ。出来れば手放したくはない。それに、有間皇子のことがある以

上、やはり簡単にこちらを裏切るとも思えない。鎌足が、背後の支配を望むならなおのこ

と、わが子が皇位につくチャンスを棒にふることがあろうか?公表できないとはいえ、親

子に間違いないのなら、影で操る理屈には充分だ。また、そういう屈折した地位欲が、余

計に鎌足らしい気もしてくる。

「いずれにせよ…」

と、阿倍麻呂は言った。

「今、中大兄から引き離しておくのは得策です」

「ふむ…。例のことも…あるしな……」

「はい。それに、鎌足とて永久に中大兄を失えば、こちらに仕えざるを得ないのですか

ら」

「それは……そうだ」

殉死でもしないかぎり、たとえ敵でも勝ち残ったほうに仕えざるを得ない。古人皇子に

従った蘇我の生き残りさえ、いまや、こちらの密事に使っているではないか?

「わかった」

と孝徳は頷いた。

「鎌足に伝えよ。明日、余への随行を許すとな。そして…」

「はい。むろん、準備は万端でございます。後は、その日がくれば……」

そこで、皺ぶいた目に意味ありげな視線が交わされた。




(11)


近頃、見慣れぬ者が周りに増えた。

中大兄は、けだるい視線で酒杯を口に運んでいる。側近に新顔が増えるというのは、普段

なら神経質に気になるところだが、今はなんとなくどうでもいい。

一応、許可を出す前に、身分だの生まれだのと細かい履歴を聞くのだが、面倒なので適当

な返事ばかりしていたら、いつの間にか、周りに見知らぬ男女が増えてしまった。同じよ

うな冠をかぶり、同じような絹を身に付けた彼らは、同じように酌をして、談笑する。

(つまらんな……)

皇太子宮の大広間の高座でぼんやりと酒を流し込みながら、中大兄は他の退屈しのぎを考

えた。

本当のことをいうと、今もかなり忙しい。たまっている仕事も沢山ある。午前中の政務は

滞りなくこなしてはいるものの、午後からこんなふうに遊んでいる暇などないはずだっ

た。

(しかし、どうもやる気にならんな……)

気が乗らないので、気晴らしに後宮へ入り浸ってみたが、数日で飽きてしまった。

考えてみれば、この時間、いつもなら私室で鎌足と話をしている時分だ。まだ始まったば

かりの新政府は、決めねばならないことが山ほどある。天皇が公布して実行に移すのが最

終段階として、そこに至るまでの細かい打ち合わせは、いつも鎌足と二人でしていた。

唐を参考に、制度を変えて……障害には二人で策を練って……。話をしていると、キリが

なかった。中大兄が、こうしたい、と言うと、鎌足はいつもそれに相応しい段取りを考え

てくれる。政治が一段落したら、他の話をした。それも尽きたら、ただ黙って酒を飲んだ

り、月を眺めたり、花を愛でたりして、時を過ごした。

会話がなくても、少しも退屈だとは思わなかった。

(…………)

何となく気分を害した気になって、中大兄はいきなり立ち上がった。「どちらへ」と問う

声に「誰もついてくるな」とだけ言って、広間を出た。

階段を最後まで上り、私室に入ると、淡い闇と静けさだけが辺りを包む。中大兄は、どこ

か投げやりな態度で腰から鞘ごと剣を抜き側に放って、寝転んだ。

思ったより、天井が高い。

いつも隣にいた男がいなくなったせいだろうか。やけに、小さなこの部屋が、広く感じ

る。

あの夜から一度も、鎌足とは公務以外では話をしなかった。

自分の、あからさまに無視した態度に、鎌足は時折すれ違うたびに、終始青ざめた顔で辛

そうに俯いていたが、それもついでに無視していた。そのうちに姿が見えなくなったが、

訪ねようともしなかった。

実は孝徳天皇らの一行に加わって有間へ赴いたのだと、知った頃には、彼らが出発してか

らすでに3日以上もたっていた。

側近の一人からそう報告を受けた時、正直、中大兄は驚いた。あの夜のやりとりからいっ

て、叔父が許したのが、不可解だった。けれど一方で、「やはりそうか」とも思ってい

た。

無断でとった行動だが、天皇があえて連れていったとなれば、処罰も出来ない。中大兄

は、「棄てておけ」とだけ言った。

どうせ、いいのだ。

(俺は最初から一人なのだから……)

裏切りを目撃したときの自分は、自分でも驚くほど冷静だったと、思う。予感が的中し

た、と思った。だから、事実以上には追及しないことに決めた。

(行くなら、行けばいい)

寝転んで天井を眺めながら、中大兄は半ば諦めている。心からの臣下ではなかった以上、

引き止めても無駄なことだ。

(俺が、この程度のことでいちいち動じてたまるか)

けれど、もしかすると、動揺しないように、必死に自分をなだめているだけなのかもしれ

なかった。

自分には、確かに鎌足が必要だった。

けれどそれは、策だけではなく、もっと他のいろんなことだったのだ。鎌足は、自分に

とって臣下であると同時に、他のいろんなものだった。むろん、親友とも呼べたが、兄の

ようでもあったし、父母のようでもあった。時々は弟のようでもあったし、一生を共にす

るという意味では、むしろ妻に一番近い気もした。子をなし太子を作るためではない、自

分が生きるための一生の伴侶。

いずれ、二人でこの国を治める。

兄を陥れて殺し、妹や母まで道具として利用し、叔父を敵とする自分が、唯一、絶対の信

頼をおく相手。

俺たちだけは、ずっと一緒に生きてゆく……。

そう、信じていた。

たぶん、生まれて初めて、心から信頼した人間だったのかもしれない。

(だが………)

不意に。

ほんとうに不意に、ある衝動が中大兄の胸に生まれた。

その黒い感情は、芯がキリキリするほどはっきりしていて、自身の胸すら刺していた。

殺意。

不思議に憎悪は生まれなかった。憎しみを通り越して、まっすぐ殺意になっていた。

(もう一ヶ月もすれば……鎌足は叔父と一緒に帰ってくる)

その時は、敵だ。

殺される前に殺すべき敵だ。

(だから俺が、この手で殺してやる)

抜いた剣を手に、中大兄ははっきりと暗闇の中でそう思った。










八経ヶ岳は、熊野山脈の最高峰だ。吉野から入って熊野に抜ける、150キロほど続く

山々の中央付近に位置している。

難波からいったん大和に戻った小角は、もとの都から峠を越えて吉野に入った。そこまで

は幹線ルートである。吉野には古人皇子がたてこもっていたこともあったし、軍隊が通れ

るほどの道が開けている。

しかし、その先は未知だった。

ヤブをかきわけて進み、岩を上り、崖を上り、滝を伝い、一足踏み違えれば、まっさかさ

まに転落する、そんな所を幾度もしがみついては進み……雨に打たれ、食べる物もなく、

手足も顔も服も見るかげもない様になった頃、ようやく小角は、そこに着いた。

八経ヶ岳の山頂。

雲海たなびくそこに、小角は、血と泥に固まった、傷だらけの汚れた姿で辿り着いた。

凝り固まった水蒸気のうねりが、足の下に見える。一瞬、天界とはこうであろうかと思う

ほど、霊妙な景色の中にいた。

目の前に広がる雲海を、ところどころ突き抜けて、いくつもの山頂が見える。その遥か彼

方には雲で出来た地平線があり、うっすらと茜色に輝いている。

「必ず、来ていただけると……思っていました」

ぼんやり見とれていた小角の背後で、声がした。振り向くと、やっぱり彼が立っている。

「やっと来れた」

小角は散々な格好で肩をすくめた。

「ひどい目にあったよ」

「でも、来てくださったんですね」

「キミたちが前鬼を捕らえてから、ずっと引っかかっていることがあったしね」

「ひっかかること?」

しかし小角は答えずに、肩の泥を払った。

「それに、どうしても会いたかったからな」

「前鬼が聞いたら、きっと喜びますよ」

黄口は、そう言って笑った。

「で、どうすればいい?」

「知りたいですか?」

「だってそのために来たんだ」

「方法は、簡単ですが、難しい」

「また、わからんことを……」

しかし聞いたとたん小角は、脳天を突き抜けるような声を上げた。

「ここから…飛び下りる〜〜?!」

高くそびえる山頂だ。下など、目もくらむどころか厚い雲にさえぎられて見えもしない。

底のない谷がどこまでも続いている。そこに飛び込めと、黄口は言った。

「ここは、二十八天や八大地獄ともつながっている霊穴のある場所です。霊穴は……霊気

の吹き出す時期があって……その時だけ、穴が開いて世界を行き来できるのです」

「今が、その時期だと?」

「ええ。前鬼が捕らえられている牢獄は十二天のお一人、閻魔天さまの支配下。今ならこ

こから飛び下りれば、まっすぐその場に行き着けます」

「エンマ様〜〜?!それって地獄とかいうんじゃ……」

そうですよ、と黄口は、悪びれもせずにあっさり言った。小角もさすがに唾を飲む。それ

を見つめて、黄口はどこととなくからかっているように苦笑した。

「怖いですか?」

「う〜ん」

と呟いた小角は、足許を見下ろしてためらっている。怖いことは、怖い。けれど、それに

は少々理由がつく。彼は、素直に言った。

「キミを信じていいものやら、わからないからなぁ」

本当に目的を果たして帰ってこれるなら、いい。けれど、もし、だまされているとしたら

…?黄口を、悪い鬼神だと思っているわけではないが、そう疑わないわけでもなかった。

なにしろ、彼が前鬼を捕らえたのだ。

黄口は、もう一度苦笑した。けれど、今度はいくぶん澄んだ響きを含んでいる。

「信じるのは、僕のことではありませんよ。前鬼と、御自分を信じることです。そうすれ

ば、一度死んで、再び甦ってこれるでしょう」

「じゃあ、やっぱり死ぬのか」

「やっぱり、怖いんですか?」

う〜ん。と、再び小角は考え込んでいる。

一歩踏み出せば、目もくらむ高さから転落する。一度死ぬ。そして運がよければ戻ってこ

れる……。

そこに突き出た岩に腰掛け、小角はとりあえず気になっていることを聞いてみた。

「……前鬼はどうしてる?」

黄口の目許が、わずかに動く。それから彼は、あまり言いたくない口調で、憂鬱そうにつ

ぶやいた。

「苦しんでいます。地獄の一番底、無間地獄で……。毎日3度、食事の代わりに銅を煮た

ものを飲まされる」

「全身、内側から大ヤケドだな」

「しかし、死には至りません。また翌日も同じ痛みを味わうのです」

「地獄だな」

「地獄ですから」

でも。と金色の髪がうつむいた。

「一番、地獄なのは……二度と助かる見込みがないと感じることです。希望のまったくな

い場所で、殺してもらえることだけを待っている」

金の髪が、鈍ったように沈んでいた。

「どうしてキミは、私にそんなことを教えるんだ?キミにとっては規定違反だろ?」

「前鬼を…助けて欲しいのです」

うつむいたまま、言いにくそうな声がした。

「それは……キミの個人的な気持ちか?」

「そうですね。やはり、それが本心かもしれません」

「黄口…」

と思わず言いかけた小角に、彼は、顔を上げて微笑した。

「後鬼で結構です。そう…お呼び下さい。これからも…」

小角は長いこと黙っていた。それから、不意に言った。

「ずっと引っかかっていることなんだが……もしかして天界に、何か起こっているんじゃ

ないのか?」

「それは……」

後鬼は、再び視線をそらし下を向いた。

「僕の口からは、言えません」

「わかった!」

「え?」

「行くことにするよ」

「小角様……」

「どうせ、家にも書き置きして来たんだ」

「書き置き?」

「お許し下さい……って一行だけね」

小角は、クスリと笑っている。けれど、その軽い微笑には、いろんな憶いが重なってい

た。

岩から立ち上がると、小角は息をつめ、崖のギリギリ端に立って足下を見つめた。

胸には父の形見の宝珠がある。それを指で確かめると、胸の前で、印を結んだ。そのまま

真言を唱える。

閻魔天の真言を。

−−−ナウマクサンマンダボダナンエンマヤソワカ−−−

そう唱え終わったとたん、おもいきり地面を蹴った。




(12)


難波[大阪]から有間[神戸]までは、バカげて遠いわけではない。ただ、輿を担いだ人

足と、それに付き従う馬足がぞろぞろ連なって進んでいくのは、かなりの時間をくう。行

列は、途中何度も泊まり、そうして着いた離宮のような宿で、一行は、もう二ヶ月以上も

滞在していた。

「鎌足殿は、相変わらず食が進みませんなぁ」

朝餉の広間で、いつも隣席になる公卿が愛想よく箸を動かしている。鎌足は膳を前に正座

したまま「はあ」と言ったが、だからといって椀に手をつけるでもなく白湯ばかり飲んでい

る。その白い横顔を、初老の公卿は親切げにのぞいた。

「お若いのに、お疲れですかな?」

「かもしれません。さすがに長旅がこたえました」

「おやおや。ここの湯は、腫れ物や痛みによく効くが…疲労にもよいのですよ」

「そうですか。私はどちらかというと冷え性なもので」

「それにもいい。どうですかな?これから入られては」

「そうですね……。そういえば…孝徳様は、今朝はどちらへおいでです?」

「左右大臣様と、やはり湯に出かけられるようですが……」

「では、私もお伴させていただこうと思います」

「それはいけない」

「何故です?」

「なにやら、今日に限って、お三方だけでお出かけとか」

一瞬黙った鎌足は、それから本当に残念そうな顔をした。

「それは仕方ありません。孝徳様と御一緒できないのなら甲斐がございませんね。私は、

今日は部屋で休むことにいたしますよ」

白湯を飲み終わると、彼は一人で席を立った。

いったん部屋に戻った鎌足は、そこからもう一度出て、孝徳と左右大臣を探した。

朝餉の席から見当たらない彼らを追って宿の外に出ると、日頃行かない方角に足を向けて

みる。三人だけでどこかへ消えるとは、絶対に何かある。確信が、焦りに変わるにつれ

て、自然、足が早まった。この辺りで人気のない場所といったら数限りなくあるが、身分

の高い老人たちが簡単に行ける所となると、限られてくる。

考えられる場所を一つ一つ巡って、彼は岩場を歩き回った。

(いないな……)

最後の岩場で、鎌足は途方に暮れた。湯煙に隠れて追い抜いてしまったのかもしれない

が、一人も姿が見当たらない。

もう、年の瀬も迫った冬だというのに、辺りは気持の悪いほど熱い。白い湯気に取り巻か

れ、霧がかかったように見晴らしのきかない袋小路の中では、梅雨時よりも湿気が高かっ

た。

そう長くも居ないのに、熱っした水蒸気に息がつまる。

(……………!)

突然、立ちくらんで、思わず鎌足は岩に両手をついた。そのまま、ごつごつした岩肌に

つっぷすように、ずるずる座り込むと、目の前で赤茶色の熱泉が吹き出している。触れる

と火傷をおう熱湯が、鉄の臭いを発しながらゴボゴボと赤く沸き上がっている。

ふと、地獄もこのようだろうかと、鎌足は思った。

(死んだら……私は、こんな場所へ行くのだろうな…)

なんとなく、それは、そう遠くないような気がした。

この二ヶ月で、前よりいっそう身体が弱っている。食べていないから、というより食べれ

ないのだ。胸が痛くて苦しくて、とうとうこの間から水よりほかに受け付けなくなってし

まった。

有間の湯は、痛みに効くという。

神代に、イナバの白ウサギを助けたオオナムチノミコトが見つけたといわれる湯だ。傷つ

いた者が湯あみをすれば、たちどころに治ると伝説にいう。

(だが……私の痛みを癒してくれぬ)

鎌足は胸元から小さな布を取り出した。まだ残り香をたちのぼらせる唐錦は、あの夜、返

しそびれた中大兄の手巾だった。それで何をするでもなくただ握って、ぼんやりと熱泉が

沸くのを見上げている。

(もう、何をしても今更なのかもしれないが…)

それでも……。

(まだ、やらねばならないことがある)

立ち上がろうとした時、湯気に混じって人声が聞こえた。

「では、12月30日に……」

と、その声は言っている。鎌足は突然、背筋が引き締まるのを感じた。

(左大臣……?それに…)

声はだんだん近付いてくる。まさか、こんな岩場の陰に座り込んでいる人間がいるなどと

考えもしないのだろう。油断した数名の足音が大きく響いてくる。

足音は、鎌足が寄り掛かっている大岩のすぐ後ろで止まった。岩をはさんだすぐ隣で、3

人分の声がする。いずれも歳をとった声だ。

「これであの生意気な若造も、二度と口がきけなくなる」

と、一人の声が言った。

「さようです。12月30日の夜、皇太子を捕らえ、一室に閉じ込めておき……皇太子宮

に火をつける。これですべては終わり。我らが帰った時には、焼失した皇太子宮と、中大

兄の焼けた骨が迎えてくれる、というわけです」

「出火は不審火とでもなさるのですかな?」

「いいえ。この計画には、蘇我入鹿の配下の生き残りと、古人皇子に従って罰せられた蘇

我田口臣川堀(そがのたぐちのおみかわほり)の配下の者を使う。……蘇我氏の怨念とで

もしておきましょう」

「祟り、ですな」

「何をおっしゃる。神罰ですよ。当然の報いだとは、思いませんかな?」

「ごもっともです。なにしろ……古くから皇家に仕え、皇家の縁戚でもある由緒正しき我

らを侮辱して、神官の氏ごとき鎌足などを堂々と重用し、表だって政治に加え………」

「蘇我蝦夷を殺し、入鹿を殺し、古人皇子を殺し……蘇我川掘(かわほり)などは、わざ

わざ生かしておいて蝙蝠(かわほり;コウモリ)などと改名させられ、さらし者にされる

わ……なんたる心無い子供じみた陰険さ」

「次々と我らを使い、豪族たちの権限を剥奪していって……怨みばかりをこちらへ向け

る。人間の業とも思えませぬ」

「非道なのですよ。非道な者には、それにふさわしい死に方がある。入鹿の部下も川掘の

部下も、喜んでこの計略を引き受けましたぞ」

「でしょうな。なにしろ怨み重なる相手の敵討ちができるのだから」

「結局のところ、怨みを買う者が悪い」

そこで3人は、上品に笑った。

(やはり………)

岩陰に伏せるようにもたれたまま、鎌足は息をひそめた。

(有間の湯まで、わざわざついて来た甲斐があった)

一刻も早くここを離れ、難波に戻らねばならない。

(今すぐ馬で戻れば……)

ところが、思わず声をあげそうになって、鎌足はすんでのところで自分の口を手の平でふ

さいだ。

指の間から、生暖かいものが溢れるように流れ出す。いきなり襲ってきた吐き気に押され

て出てきたのは、普通の嘔吐物ではない。

(…………血か…)

黙って、彼は手の上の赤いものを見つめた。

声と足音は、いつの間にか遠退いていた。

鎌足は、岩につかまりながら、そろそろと立ち上がった。とにかく、ここを脱け出して難

波に戻らなければならない。戻っても、中大兄は、己の言を聞き入れてはくれないかもし

れない。

(それでも、何か打つ手はあるはずだ…)

けれど、歩き出そうとしたはずみに、また立ちくらんだかと思うと、ひどい吐き気がこみ

上げて、その場にひざをついてしまった。

(こんな時に……)

動かない体を叱咤して、それでも彼は這いずるように歩きだそうとした。でも、動けな

い。身体の力が抜けて、目の前が暗くなる。身体が、重い。

本当は、いろんなものが重いのかもしれない。

難波に帰っても、もう居場所がない。帰るところが失くなってしまったのだ。

中大兄の冷たい瞳。今まで手にかけてきた者たちの怨念。さっき見た己の血の色。何もか

もが重すぎて、動けないのかもしれない。

うずくまったまま鎌足は、ここと地獄と、どちらが楽だろうかと考えている。その身体

が、崩れるようにその場に伏した。

*その5へ*
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