(6)


中央伴造(とものみやっこ)である小角の屋敷は、そこそこ大きな敷地を有する住まいで

ある。毎朝、朝廷に朝参するよう義務づけられている姓だけあって、それなりのものは

支給されている。

背の高い塗り壁で方形に仕切られた広い敷地の真ん中に母屋があり、そこから少し離れ

たところに奴婢たちの居住地がある。更にその外れには、高床式の簡易な収穫倉庫など

もあったが、その端のほう、敷地の隅に、申し訳程度の納屋が建っていた。

稲ワラを積み重ねた狭い納屋の床に両足を投げ出して、前鬼は、さっきからブスッっと

頬をふくらませている。クッションのように積み上げたフカフカのワラに上半身を預け

た鬼神の前で、小角は何度もタメ息をついた。

「ったくよ〜〜なんだぁ?あのババア」

「前鬼……頼むから母上の前では、そのコトバやめてくれ」

「ババアをババアと言って何が悪い!」

「あのな〜」

「だいたい、てめーがハッキリしねーから、話がややこしくなるんじゃねーのか?!い

くら親相手だからって、も少しビシッと言えねーのかよ!ビシッと!!」

「そうは言っても、私にも色々と事情が〜」

「ったく〜〜マザコンか?!てめーはっ」

「そーゆー言い方はやめてくれ」

「けッなぁにが………ッ…」

イライラと怒鳴り続ける機嫌の悪い瞳が、急に歪んだ。

「前鬼?!」

慌てて、小角は、握っていた絹の袋の口ヒモを解いている。その瞬間、金糸で織った小

さな袋から、淡い光が射した。握り拳程度の大きさの珠が一つ、小角の手のひらに転が

り出る。

水晶玉のようだが、色が違う。柔らかな光が、見る瞬間によって違った色を放ちなが

ら、珠の表面にさざめいていた。

小角は、宝珠を前鬼の手に握らせると、その手ごと傷を被った。

「れ?」

とたんに、それまで苦悶していた色褪せた瞳に、鮮やかな光が戻っている。

「お〜?!」

あからさまに驚いて、鬼神は自分の手許を覗きこんだ。腐りかけていた傷が、嘘のよう

に消えている。

「おお〜いきなり治ってやがるぜ!本物じゃねーか、この宝珠!!」

「では、これで落着か」

小角はやれやれ、とその場に腰を下ろした。

「でもよ。なんでおまえがそんなモン持ってんだ?」

「だから父の形見なんだって」

「じゃあ、おめーの父親は化人だな」

「はあ?」

「仏神が人間に化けてたってことだぜ」

「それはどうかな。もともと父の物だったわけではないようだし……」

ふーん、と言ったまま鬼神は、しげしげと宝珠を眺めている。

「どっちみち、こいつは人間の持ち物じゃねーよ」

「だから何だ?私も人ではないと?」

それを聞くうちに、だんだん機嫌を損ねた顔で、小角は隣にドサリと寝転んだ。気付い

て、鬼神は口をとがらせている。

「んだよオメー。ホメてんだぜ?オレは〜」

「残念だが誉められた気がしない」

「なんで、いっつもオレがホメると怒りだすんだよテメーは〜」

「おまえのは、褒め言葉になっていない」

「じゃあ何か?呪術が使えるより、ババアによくお勤めしてますねって言われる方が嬉

しいのか?そんなにフツーの人間なんかがイイのかよ」

自分の片腕を枕にして前鬼に背を向けたまま、小角は黙っている。

その背を見下ろして、鬼神はずけずけわめいた。

「それじゃ、ハッキリ言ってやるぜ。てめーの呪力が使えねー理由はな、あのババア

だ!!」

「母上が……?」

さすがに驚いて、小角は視線だけ心もち背後に向けた。

「ここに来て、ようやくわかったぜ。おまえはあのババアに遠慮してっから、力がある

のに使えねーんだよ!」

「遠慮って?」

「てめーはババアが嫌がるから、ババアに見せねーよーに、呪力をてめーで封印したん

だ!!」




その夜、小角は夢を見た。

しかし、夢というよりは思い出。思い出というよりは、傷かもしれない。何度も繰り返

し痛む傷だった。

まだ振り分け髪の幼い小角が、広い雪原の真ん中にぽつんと立っている。

立って、ただ、母が帰ってくるのを待っている。

寒い、ということも、すでにわからなくなりそうなほど凍えている。あんまり不安で淋

しいので、小さな小角は

「ははうえ……」

と、か細い声で呼んでみた。何も、応える者がない。ただ、恐ろしい風の音と、チラつ

き始めた雪だけが、暗い空を覆っている。

山の奥の谷底だ。誰一人通るはずもない。それでも、小角は辛抱強く待っている。母

は、彼の手を引いて『ここで待っておいで。すぐに戻ってきますから』と言ったのだ。

あれから、半日以上も経っている。

薄暗い冬の空が、いっそう暗くなり、辺りを闇が包み始めた。

遠くに無数の光るものがある。思わず走り寄ろうとした小角は、恐怖で足がすくんだ。

恐ろしさのあまり、声も出ない。

風に乗って、唸りが聞こえる。

狼の群れが、こっちを見ていた。




「おいっ小角っ小角ってばよっ」

「わぁっ」

乱暴に揺すられて、何がなんだかわからないまま飛び起きると、

「大丈夫か?おめー……」

鬼神の赤い瞳が不安げに様子をうかがっていた。

「え?ああ……?」

「ったく。るっせーな。ギャーギャーうなされやがって眠れやしねえ」

前鬼が口をとがらせて頭をかくと、ようやく寝惚けた瞳も覚めかかった。

「ああ、そうか。悪かったな、起こしてしまって。しばらくなかったのに、昔の夢をま

た見てしまって……て?なんでおまえがここで寝てるんだっ」

「おめーがここに寝たんだろーが」

「ああ、そうか」

なんだかまだ噛み合わない会話を繰り返して、そこで小角はようやく目が覚めた。

あれから納屋で横になったまま、つい眠ってしまったらしい。途中で起こされて不機嫌

な鬼神が隣に座り込んでいる。入口に吊るした筵が、夜半過ぎの風に煽られて涼しげに

揺れるのを眺めながら、小角は寝乱れた格好で、小言のように繰り返した。

「おまえが変なことを言うから夢に出たんだ」

「なんでオレのせいなんだよ?!」

「母上のことを言うからだ」

「あぁ?さっきのババアの話か?」

鬼神は呆気なくズバズバ言っている。

「だってホントのことだぜ。何でか知らねーが、おめーはババアにすっげー気兼ねして

やがる。あのババアを越えねーと術なんて使えねーよ」

根負けしたように、小角はふぅっとため息をついた。

「…かもしれん。仕方ないさ。負い目があるんだ」

「何が負い目だよ。それが夢に出るのか?!」

「う〜ん……」

小角は言い渋って俯いている。

今から約20年前。

お産の頃の夢見がおかしい。

母はこう言って、小角生まれるとすぐに、神官を呼んで将来を占わせた。

『卜占(ぼくせん)に出ております。恐ろしい妖力を持った御子にございます。きっと

その力で、この家を……いやこの国をも滅ぼしてしまうでしょう』

神官の占いは絶対だ。可哀想だが、そんな恐ろしい子供を生かしておくわけにはいかな

い。父母はモメたが、結局、憐れんだ父の説得で、そのときは助かった。

告げられた夢占の通り、小角は不思議な子供だった。

失せ物を探す。人の死を当てる。病気や怪我を治してしまう。天候を変える。物怪や鬼

神の姿を見る。サンスクリット(古代インドの言葉)もすぐに憶えてすらすら読むし、

仏教の教典もよくそらんじた。

神仏の御使いと崇める者もあれば、妖術使いと恐れる者もいた。

そして、小角が5才になった頃、まだ弟が生まれたばかりだというのに、突然、父が亡

くなってしまった。

奇妙な死に様だった。自分の部屋に居ながら、首が落ち、全身を食いちぎられて死んで

いた。誰もが気味悪がり、疑いが小角に向いた。母は泣いて、狂乱して、そして彼を、

真冬の谷へ捨てた。

「あの日……何日もかけて山から独り帰って来た私を、母上は恐れと哀れみを浮かべて

家に入れて下さった」

小角は、前鬼に向かい、その時の話をしている。

あの顔を、たぶん、自分は一生忘れない。

驚愕と、恐怖に引きつった母の唇が、確かに、「なぜ…生きて……」と、言った。

「その時やっと気がついたんだ。私は捨てられたのだったと」

どうにもならない自嘲のような顔で、小角は笑った。信じたくないのだ。今でも、聞き

違いだったと思っていたい。

前鬼は、大仰に溜め息をついてみせた。

「けッ捨て子にするなんてなぁ、鬼の間じゃ、しょっちゅうだぜ。いいじゃねーか。今

生きてんだから。ヤなことは、とっとと忘れろ!」

「そう出来たら苦労しない」

「家に帰ったってのに暗ぇぞ。てめー」

「ホントはこの家に居たくないんだよ。いっそ嫁に出たいくらいだ。なんで私が長男な

んだか」

「おまえ……言ってること変だって、自分で思わねーか?」

「どーも、生まれる場所を間違えた。でも、父上と約束したから、私はこの家を守らな

ければならないし……。母上にもこれ以上苦労をおかけしたくない」

胸に抱えた膝につっぶして、小角は深刻なのか冗談なのかわからない声でブツブツ言っ

ている。前鬼は自分でもよくわからないまま、またしても無性にイライラしてきて舌打

ちした。

「ったくよ〜あのババア。人間のくせに自分の子を……。鬼神じゃあるめーし。どっか

おかしいんじゃねぇのか?!気位は高ぇし〜〜」

「母は葛城氏の姫だったからな。昔、この辺りは、葛城氏と賀茂氏という二つの大きな

豪族が、王を名乗って治めていた。大和朝廷を開いた天皇家に征服されるまではね。母

は…賀茂氏の血筋である父に嫁いだんだ」

「チッくだらねぇ!!だからって子供を捨てる理屈にはなんねーぞ?!」

「でも私は……占いの通りに父を死なせてしまったからな」

「その、さっきから何なんだよ?!おめーが親父を殺したっての……」

「それは……」

言いかけた時、急に筵が巻上がり、風が直接入ってきて、小角の言葉を引き取った。

「それは……兄上のせいではありません!!」

「小純……」

風と一緒に入ってきた弟が、手に盆を捧げて立っている。明るい月を背にして、彼はや

や慌てた仕草で、平たい木の盆を小屋の床に置いた。上には、2人分の食事が乗ってい

る。

「その…何も召し上がっていらっしゃらないと思いまして……」

母たちが寝静まったのを見計らって持ってきたらしい。小角は座ったまま微笑した。

「すまないな。こんな兄を持つと、おまえも苦労する」

「そんな言い方、おやめ下さい」

まだ両耳のあたりに輪をつくって下げ髪にする少年結いの姿だが、小純は一生懸命取り

なすように言った。

「兄上は、夕方のことをまだ気にしておいでなのですか?母上だって本気じゃありませ

んよ。だから…」

「大丈夫だよ」

小角は本音で肩をすくめてみせた。

「例えどうあっても、子は母を裏切れぬものらしい」

「それは、きっと母上だって同じです」

「昔はね……母上がおまえばかり可愛がるのを妬ましく思ったものだよ」

「それは……きっと不憫な私を哀れんで下さったんです」

「不憫?」

「そうですよ。何をやっても神童といわれた天才の兄上に比べると、私は平凡で冴えな

い子供です。この上親にも見放されてはと思ったのでしょう」

「小純………」

いつの間にか、そんなことを言うようになった。

最近、驚かされてばかりいる。しかし思えば、ちょうどあの聖徳太子が初めて出陣した

年令と同じ頃だ。もはや一人前なのかもしれない。

けれど、それでもやはり、これだけは納得できないという顔で、小純は責める口調に

なった。

「兄上が何と思われようが、僕も…母上も…兄上には、この家に居てほしい。なのに兄

上は……やはり呪術が……よろしいのですか?僕たちよりも……?母上をこれ以上、お

辛い目にあわせても、いいのですか?」

小角は黙っている。

呑気に膳へ手をのばしていた前鬼が、口にウリをくわえながら、俯いた隣の長い黒髪に

視線を向けた。







(7)



やっと新天皇の、皇后と妃の正式な輿入れが終わった。

泣いて騒いだ妹・間人(はしひと)をむりやり説き伏せ、叔父である天皇に嫁がせたの

だ。予定通り、間人が皇后。以下、第一妃が、以前からの妃で有間皇子の母である左

大臣の娘。第二妃が右大臣の娘である。

ようやく一大イベントが終わって静寂を取り戻した宮殿の庭を横切り、中大兄はその日

も、午後から私室に戻ろうとしていた。足早に歩いてゆくその後ろを、鎌足が追ってい

る。

皇太子宮の二階からは、渡り廊下が伸びており、隣の小さな塔に移れるようになってい

る。この塔は、小さいが高い。造りはずっと単純で簡素だが、先年完成した九重の塔く

らいの高さがある。一番上にだけ小さな部屋がしつらえてあり、中大兄の私室になって

いた。

ここには、彼の大切なものが何でも揃っている。趣味で作った水時計の設計図や模型、

中国帰りの博士達の講議に通ったノート、改革の創案、蹴鞠で愛用している鞠……。要

するに、彼の秘密の聖域だった。

ここに通すのは、自分以外では鎌足だけだ。他人に聞かれたくない話は、たいていここ

で交わされた。

巻き物に埋もれるように置いてある百済製の小さな机に片肘を乗せ、皇子が胡座をかい

て落ち着くと、向き合うように、鎌足も腰を下ろす。背筋を伸ばし膝をそろえて、行儀

良く端座したまま、鎌足は少し気掛かりな調子で口を開いた。

「これで、ようやく一段落いたしましたが……」

「ああ」

「皇子は……妹皇女さまを、なんと説得なさいました?」

「その話か」

どことなく視線を逸らしたまま、中大兄はぶっきらぼうに応えている。

「後で必ず迎えに行くと、言ってやった」

「まさか……」

「勘違いするな。いずれ叔父は位を降りる。おまえは形式的な妻にすぎぬから、その時

に呼び戻してやると、言ったのだ。べつに実の妹と契る気などない」

「そう…ですか」

ほっとした口許が思わず微笑している。それを眺め、皇子は不機嫌に言った。

「おまえ、あれのことを、前から知っていたのか」

「なんとなく……間人さまの御様子で」

ふん。と唸ったまま皇子は黙っている。依然、視線を合わせぬまま、中大兄は再び聞い

た。

「で?古人(ふるひと)のほうは、どうなっている」

「今、御報告しようと思っていたところです。メンバーと状況がわかりましたよ」

「やはり、我々に刃向かう気なのか」

「いまのところは曖昧ですね。どちらかというと気乗りのしない古人さまを周囲がたき

つけているようです」

「同じことだ。いずれ大火になるやもしれん」

「ええ。火災はボヤのうちに消し止めておかねばなりません」

「それで?」

「吉野の仮宮にいる古人皇子に従うのは、蘇我田口臣川堀(そがのたぐちのおみかわほ

り)、物部朴井連椎子(もののべのえのいのむらじしいこ)、倭漢文直麻呂(やまとの

あやのふみのあたいまろ)、朴市秦造田来津(えちのはだのみやっこたくつ)。それ

に、彼らの配下の者達です。彼らの間では、古人さまは既に天皇と呼ばれているようで

す」

蘇我氏の残党と、以前から古人に親しかった連中だ。新政府ごときの下にはなりたくな

い、というのだろう。

なるほど、と頷きながら、ふと中大兄は言ってみた。

「その中に、間人と通じる者はなかったか?」

「え?いえ、それは存じませんが…」

めんくらった鎌足が白い顔を上げている。皇子は急いで話を戻した。

「いや。なら、いい。で?手は打ったのか?」

「そのメンバーの中に、垂(しだる)を潜伏させました」

吉備笠臣垂(きびのかさのおみしだる)という男を、最近鎌足がよく、密偵に使ってい

るのは知っていた。その垂を、古人らの仲間として潜り込ませることに成功したという

のだ。

「よく、出来たものだな」

「理由があります。麻呂と田来津(たくつ)の2人は、後から無理に誘われたようで、

もともと謀反には気乗りが薄かった。そこで、垂を通してこちらに寝返る機会を与えま

した」

「ほぅ?」

「すでに2人からは打診がきております」

「使わぬ手はないな」

「ですが、この度は利用するとしても……今後、いかがなさいますか」

「まあ、働きによっては召し使ってもいい。これから汚れ役を引き受けさせる時にでも

使えるかもしれん。特に麻呂は渡来人だ。何かと役に立つだろう」

「承知いたしました」

これで、手はずはすべて整った。

「あとは、垂や麻呂、田来津らに、いっそう古人皇子をたきつけさせ、謀反の決意を固

めさせた上で、機をみて垂に密告させます」

古人皇子の意気が高じたところで、彼の仲間になった垂が、『新政府打倒を一度は決心

してみたもののやはり自分に謀反は出来ぬ。この恐ろしい計画を未然に申し上げます』

と中大兄のもとに駆け込んでくる。それを聞いた中大兄が驚いて、さっそく吉野に兵を

差し向ける、という段取りだ。

「古人さまの軍備は、今のところまだ、たいしたことはありません。皇子の手勢で、

40人も送れば充分落とせます」

「……………」

皇子は黙って、鎌足を見つめた。

いつもながら、鮮やかだ。

どうしてこの男は、こうもためらいなく相手を陥れて殺すのが上手いのだろう。

慎重に、回りくどく、確実に相手を自滅に追い込む。決して己の手を汚さない完璧な冷

酷さは、自分をもはるかに上回る気がする。

(俺だって……)

中大兄は思っている。皇位継承権を持った皇子だからこそ、様々な目に会ってきた。だ

から、殺される前に相手を殺す。そうやって生き延びてきたのだ。けれど、鎌足に比べ

れば、ただの血気盛んな喜怒哀楽の激しい子供にすぎぬ気がしてくる。出会ったばかり

の頃は、悔しいことが多すぎて、鎌足の前でよく泣いた。周り中が敵だったので、隠す

ことばかりおぼえてしまったが、本来、情緒豊かな性格なのだ。

(だが……)

鎌足が激すのを一度も見たことがない。年上だから、といえばそれまでだが、この男は

いつも静かだった。静かに、いつも同じ微笑を浮かべていた。中大兄と2人っきりの時

も。誰かを謀り殺す瞬間も。

(どうすれば、こんな男が出来上がるものか…)

しかし、鎌足はほとんど自分の事を話さない。

話を聞いてもらうのは、いつも自分だけだった。

本当は………

『素性を偽り中臣の家を乗っ取った……』

『自分は、鎌足に騙されている、ただの操り人形にすぎなくて……有間皇子は鎌足の子

で……』

本当は、あれ以来ずっと、間人の言葉が引っ掛かっている。

何度も問い詰めたが、間人は口を割らない。妹を拷問にかけるわけにもいかず、それっ

きりになっていた。というよりも、なんとなく、真相を知る気にならなかったのだ。気

になっているくせに、確かめるのが、恐い。

さっきから中大兄が黙っているので、鎌足も何も言わない。

あくまで、最後に決断するのは、皇子である自分だ。鎌足は、献策はするが、臣下とし

ての分をわきまえている。

「それで……いいだろう」

ようやく、中大兄は頷いた。

「では、そのように、事を進めます」

一礼して、立ち上がろうとした鎌足を引き止めて、彼をそこに座らせたまま、中大兄は

窓の外を眺めた。机に片肘をつきながら、床に腰を落とし片ヒザを立てた格好で足を投

げ出すと、鎌足は正座したまま苦笑している。

小さな窓から真夏の空が見え、高台特有の澄んだ風が頬を撫でる。少し離れた所から、

蝉の声がやかましく響いていた。

中大兄は、黙ったまま空を見上げている。

この間から微妙に、自分の態度が変わってきていることに、鎌足が気付かぬはずはな

い。それでも、彼は何も言わなかった。その沈黙が、いっそう、形を成さない漠然とし

た疑いを募らせている。

「鎌足……おまえ…」

不意に、皇子が口を開いた。

「自分が生まれた時のことを憶えているか?」

「え?」

さすがに御食子の実子ではないのか、とは聞きかねて中大兄はつい妙な言い方をした。

その不自然な態度に気づいているのかいないのか、鎌足は相変わらず淡い微笑みを浮か

べている。

鎌足の生まれは、大和国高市郡、と聞いている。父は聖徳太子や推古天皇にも側近く仕

えていた中臣御食子(なかとみのみけこ)。母は大伴夫人。申し分ない家柄だった。

なのに、大家の子弟にありがちな気のきかない鷹揚さも、傲慢な自負もない。

よく人心を読み、率先して影になりたがる。人間の心を熟知して操りながら決して前に

は出たがらないその性格が、単に、有能な策謀家の故なのか。それとも神官の氏の躾と

は、そういったものなのか。それとも、もともとそんな性格なのか。

それとも……。

もっと遠大な野望を秘めているせいなのか。

中大兄は、信じたいと思いつつも、つい気がつくと考えている。

(天皇の第一妃、阿倍の娘が5年前に生んだ有間皇子が、もし鎌足の子なのだとしたら

……)

左大臣・阿倍麻呂は、実は天皇の義父ではなくて、鎌足の義父だ。阿倍麻呂を臣下最高

の地位に推薦した意図が、そこにあるのだとしたら……。すでに孝徳天皇も、左大臣

も、鎌足の策略の内にある。まして右大臣・石川は、鎌足の献策で中大兄の義父とな

り、臣下第二の地位、右大臣となったのだ。

天皇と左右大臣。国家の三役は、鎌足の手中。

皇太子である自分を利用して、鎌足は、これだけのことを企んだというのだろうか?

(そんなハズはない)

そう信じるには、あまりにも、自分は鎌足のことを知らない。知らなかったことに、今

更、気付いた気がした。

(もし……鎌足がオレと出会う何年も前から叔父・孝徳と組み、有間を皇位につけたい

と謀っているのだとしたら…)

2人が出会ったすべては、偽り。そして……

鎌足が次に排除するのは当然、孝徳天皇ではなく、この中大兄だ。

(俺を使って俺の兄・古人皇子を除き、蘇我の残党を片付け、その後、皇太子の俺を除

き……)

最後に、有間皇子を皇太子に据える。

(だとしたら………俺は、どうするのだろう?)

中大兄は、そこはかとなく秋の気配を隠した盛夏の空を、見上げ続けている。部屋に

は、鎌足が居住まいを崩さぬまま静かに端座していたが、中大兄は、彼のほうを見るこ

とが出来なかった。






(8)



「まったく……。参ったよ…」

いつもの山間の草原で、いつものように組んだ両手を枕にしながら、小角が寝転んでい

る。

「だぁ〜か〜らよ〜。ババアがどうしようが、どぉでもいいじゃねーか」

そしてやっぱり隣には、赤い髪の鬼神が胡座をかいて座っている。

「そうもいかないさ」

傍らに置いてある錫杖に片手をのばしながら、小角は憂鬱な溜め息をついた。あれ以

来、母は口をきかない。視線も合わせない。家にも居辛いので、勤めが終わると結局、

毎日ここに来てしまっているが、それがいっそう彼に負い目を感じさせている。それで

も、やっぱり帰れない。

「まるで針のムシロだよ」

「だから、気にすんなって」

「よく言う。おまえも同じ家に居てみろ。3日以内に嫌になる」

「またオレのせいだってのか?!」

「違うよ。夢と現実のギャップは大きいってことさ」

手にした錫杖を目の上に持ちあげながら、小角はもう一度深い溜め息をついた。前鬼は

苛立った顔をそむけている。

「ったく何言ってやがんだか」

強い陽射しを吸い込んだ毒々しいほどの緑に囲まれながら、ふと、小角が言った。

「なぁ、前鬼…」

「あぁ?」

「天界ってホントにあるんだろ?」

「あぁ」

「どういう所なんだ」

言いながら、彼の目は錫杖の先端に飾られた、鈍く光る金輪を見つめている。今度は前

鬼がタメ息をついた。

「どぉ〜もこぉ〜もねーよ。とにかくオレ様には合わねぇ所だぜ。毎回説教ばっかでよ

〜」

「おまえは団体行動と規律を守るのが嫌いなだけだろう」

「てめ〜毘沙門天のジジイみてーなこと言うんじゃねえよ」

フテくされている鬼神の声に、小角は錫杖を弄びながらちょっと笑った。

「毘沙門天さまといえば……四天王寺にも祀られている。昔、聖徳太子と蘇我馬子が結

託して物部守屋を討った折、加護して下さったそうだが。………おまえは、部下だと

言っていたな」

「ああ。オレたち護法鬼神は、全員あいつの配下なんだよ」

ひどく億劫で嫌な顔をしながら、前鬼は天界の話をはじめた。

「まず、天界の最高位は如来。次が菩薩。次が諸天と呼ばれる天神。次がオレたち護法

鬼神や龍神みてーな八部衆……」

「朝廷なみのタテ社会だな」

「如来のトップは五智如来って呼ばれてる5人で、一番偉いのが大日如来。だから、今

はヤツが天界を統治してる。菩薩のトップは八大菩薩って8人の菩薩。諸天のトップは

十二天と呼ばれる12人の天神。その十二天の一人に帝釈天ってのがいるんだが……コ

イツの四天王と呼ばれる一人が、毘沙門天なのさ」

世界の中心には、須弥山という高い山がそびえている。頂上には帝釈天の住む喜見城が

あり、中腹には四天王の居城が東西南北に配置されている。前鬼は、その一つ、北方に

配された毘沙門天の水精宮に居るのだった。

で…と前鬼は続けた。

「この世界は下から順に欲界、色界、無色界の3つに分かれていて…欲界の最下位に8

つの地獄、その上に人間界、その上に6つの天界がある。その上の色界には18の天

界。その上の無色界には4つの天界があって……合計28天に、宮殿を持つ天神たち…

つまり諸天や、如来や菩薩が住んでるのさ」

「なるほど。聞いた通りだ」

「はぁ?!」

「昔、帰化人の僧侶にそう習ったよ」

「だったら、わざわざ聞くんじゃねー!!」

「おまえも案外、ちゃんと知ってるんだな。驚いた」

「てめえは〜〜落ち込んでるかと思って気ィ使ってやれば〜」

「さすがに、天界の者というわけか」

「ナメてんのかテメーはっ?!」

頬を紅潮させて怒鳴る鬼神の口端に、八重歯のような牙が光る。それを眺めてクス…と

笑うと、小角は草むらに錫杖をついて立ち上がった。

「おまえは……どうして……天界が嫌いなんだ?」

「言ったろ。合わねえって」

「おまえと対の後鬼くんは、真面目そーな良い鬼神だったじゃないか」

「フン。アイツはオレみてーに上に逆らったりしねーからな」

前鬼は、つまらなそうに空を見上げている。

「だって、もともとよぉ〜鬼神は……天界のお偉方、如来や菩薩とは違うんだ」

「違うって?」

「オレらの出自は人間じゃねえ。でも、ヤツらの出自は人間。そして人間は…闇を嫌

う」

闇。すなわち悪霊・物怪・人間の穢れ。疫神その他諸々一切の悪神。そして、鬼神も…

…。

「ヤツらに言わせりゃ鬼神も滅ぼされるべき邪悪」

とはいえ、鬼神には色々いる。下位の者には器物に人霊の宿ったもの。動物霊の歳月経

るもの。高位の者には神のなれの果てまで。

「皆それぞれ邪悪な者と考えられているが、オレ達は、仏法を奉じ、天神に仕える護法

鬼神だ」

「つまり……善良な鬼神。教育された鬼神のエリートか」

「ヤな言い方すんじゃねえよ」

護法鬼神は鬼神の中では最も位が高い。呪力も強い。そしてそれは、彼らの誇りだ。

「けど……」

前鬼の中には納得できない何かがある。本質を偽り、裏切って生きているような。彼

は、諸天から「善良なること」を指図されるのが嫌いだった。

「だからといって、物怪みてーに人間襲って殺戮しまくるのが大好きってわけじゃねー

けどよ〜」

「おまえは、仏法が嫌いなのか?」

「どっちかってーと嫌いだぜ。それに、人間も好きじゃねー」

「それじゃ、どうして人間の私に仏法修行なんか、させようとするんだ」

「わかんねえ」

「は?」

「わかんねーけど……おめーには力を感じるんだ。菩薩や、如来以上の何か……もっと

大きな力を……。だから、おめーは修行したほーがいい」

「めちゃくちゃ矛盾してるぞ」

「してねーよ!」

立っている小角を仰いで、前鬼はやっぱり牙を一本のぞかせながら、ガミガミとまくし

たてた。

「いいから、つべこべ言わずに修行すりゃいいんだよ!そしたら、オメーはすげーヤツ

になるんだ!諸天よりも、菩薩よりも……」

「妄想みたいなコトを言うな」

「違げーってッ」

本気で怒鳴り出した前鬼が、立ち上がりかけた時。

「?」

風が、吹いた。

異変に、小角もつい振り向く。風がきたのに、木々が鳴らない。草も虫も鳥も息をひそ

めている。同時にピリピリと肌を撃つような感覚に襲われ、聞き覚えのある声がした。

「やっと見つけました。こんな所に居たのですね」

風の後に、髪を腰まで翻した美しい少年が残っていた。小角も何度か会っている。水精

宮で働く、前鬼と対の鬼神だった。

「後鬼……おまえ……何しに来やがった?!」

けれど、こんな状況には慣れているのか、さして驚きもせず、前鬼は不機嫌に見つめて

いる。どうせ、仕事に連れ戻しに来たんだろう。そんな顔をしている。しかし、金髪を

波打たせた彼の声は、なぜか奇妙に冷たかった。

「その名は、もうありません。僕は黄口です。あなたも前鬼ではなく、もとの赤眼とい

う名に戻りました」

「何言ってやがんだオメ〜」

冗談についていけない、という調子で、前鬼は腰に手をあてた。しかし、黄口は笑わな

い。見据えている金の瞳も、声以上に冷たかった。

「残念ですが、あなたとのパートナーは解消です。僕は今度、この黒首……羅鬼と組む

ことになりました」

その言葉を待っていたように、黄口の隣に、彼の3倍はあろうかという巨大な鬼神が現

れた。陽の光さえ遮られるほどの巨体。髪も瞳も、光沢のある黒曜石のように黒い。彼

に対峙すると、さすがに前鬼も華奢で小さく見えた。

「久しぶりだな、前鬼。いや、赤眼……」

低いが、身体に似合わぬ、なめらかな声だ。彼を見上げると、前鬼はとたんに身構え

て、拳を握った。

「てめぇ……今さら何の用だ……」

「よせ。昔のケンカをしにきたわけじゃない。俺は職務で来たのだ」

羅鬼、と呼ばれた巨きな鬼神は、両手を下げたまま平然と見下ろしている。端正だが、

どこか残虐な頬が、ニヤッと笑った。

「だが、先に言っておくぞ。抵抗すれば、この場で殺す」

「なんだと?」

前鬼が驚愕した瞬間、武装した下級鬼神が、空中から湧くように大勢現れ、次々に地面

に降り立つと彼を取り囲んだ。

皆、てんでに長槍を持ち、冷たく光る刃を突き付けている。まだよく事情が飲み込めな

い前鬼に向かい、黄口が抑揚のない声で言った。

「上から命令が出ています。あなたを捕縛せよと。前鬼…いえ、赤眼……。毘沙門天さ

まの命により、あなたを誅殺します」

けれど、呆気にとられて成行きを傍観していた小角が、そこで慌てたように割り込ん

だ。

「ちょ…ちょっと待ってくれ!!キミ達はいったい何なんだ?いきなり現れて、何を

言っているんだ」

羅鬼、と呼ばれた黒い鬼神が見下ろした。

「我らは、帝釈天四天王のお一人・毘沙門天様配下の護法鬼神である」

「それは何となくわかった。だったら、前鬼の仲間だろう?!それがどうして捕まえに

くるんだ?」

そびえる黒山のような鬼神の前に立ち、彼から前鬼をかばうように、小角は両手を広げ

ている。鬼神は居丈高に言った。

「キサマが役小角か。天界の秩序は、キサマごとき者の及ぶところではない。早々に立

ち去り、以後、二度とかかわるな」

「そうはいかない。だいたい、何故、私の名を知っている?事情を聞かせてもらおう」

前鬼を背に回した小角は、人間とは思えない動じない態度で見上げてくる。羅鬼は、一

瞬、ムッとして、それから面倒そうに言った。

「その鬼神…赤眼は、先刻、毘沙門天様の宝棒を盗んだ咎で死罪と決まった」

「宝棒だって……?」

「貴様が手にしている、その錫杖だ」

「な………」

「ちょっと待ちやがれ!!何でそれが毘沙門天の宝棒なんだよ?!確かに、天界から持

ち出したけど……これはフツーの……」

「では、証拠を見せましょうか?」

前に踏み出した黄口が、尖った爪先を向けて呪を唱える。と、小角の手のなかで、錫杖

はたちまち黄金に光る長槍に変わった。

「わっ」

思わず取り落としそうになった小角に黄口は真顔で言った。

「おわかりになったでしょう?お返し下さい」

見たこともないような房飾りや手の込んだ模様を彫り込んだそれを見つめ、さすがに小

角も迷っている。けれど、前鬼はやはり、納得できない顔をした。

「だからって、なんで死罪なんだ。この程度のことで、おめーら、どうかしてんじゃ

ねーのか?」

「前鬼、あなたは何も知らないというのですか?」

「だから、何なんだよ?」

「あなたが問われているのは、毘沙門天さまの宝を盗み出し、天界を混乱に陥れようと

謀った罪です」

「はあ?!何でオレが……」

「知らないとは、言わせんぞ。すでに処分も決まっているのだ。とにかく、我らと来て

もらう。従わなければ、この場で殺す。その人間もろともな」

羅鬼の合図で、囲んだ槍先が一斉につめよった。

「待ちなさい!だったら、私も同罪だろう?盗まれた宝槍を、使ったのは私だ」

「小角〜!余計なこと言うんじゃねーよ!!」

さすがに今度は慌てた顔で、前鬼が怒鳴った。

「わ〜ったぜ!行きゃあいいだろ?!その代わり、毘沙門天のジジイに会わせろ!!」

黒い鬼神は、しばらく考えていたが、

「いいだろう。ただし、毘沙門天様の許可があればな」

と言うなり、ちょっと命状しがたい妙な笑いを浮かべた。

(何か、変だ)

直感で、小角が振り返っている。

「おい、前鬼!待ちなさい!!ホントにそれでいいのか?!」

「良かねえけど……仕方ねえよ。おまえまで巻き込むわけにはいかねえし」

再び、奇妙な風が起こった。風が、前鬼と周囲の鬼神を包んで、突風になる。身体が飛

ばされそうになり、小角は思わず腕で顔を覆い、膝をついた。

「小角!!」

暴風を押しのけて、前鬼の声が途切れ途切れに届いた。

「オレの言ったこと、忘れんじゃねーぞ!!」

「何をだ?!」

「修行だよ!!ぜってー、おまえは……」

言いかけた言葉が風に飲まれる。

風が止み、小角が顔をあげると、周囲の鬼神はすべて消えていた。気がつくと、木々や

鳥の声が戻っている。ただ、少し離れた所に、黒の鬼神が一人だけ、太い腕を組み背を

反らすようにして立っていた。

「キミは…毘沙門天配下の五色の鬼神か…」

小角はまっすぐに見上げている。切れ長な視線が珍しいほどキツい。それを見下ろし

て、羅鬼は

「いかにも」

と言った。

「毘沙門天様の直下には五色(ごしき)の鬼神がいる。赤、青、黄、白、黒の鬼神だ。

赤眼、青耳、黄口、白眉、黒首、という。その5人には、各々、下級鬼神を率いる指揮

権が認められている。我々五色の鬼神は、いわば幹部。だが、赤の鬼神には自覚が足り

なかった。勝手に人間界に降りては、人間ごときと戯れる」

「前鬼は、どうなる?」

「地獄に数年拘束され、拷問された後、殺される。毘沙門天様は、お会いになどならな

い」

「キミが五色の鬼神の長なのか?」

「そうだ。後鬼…黄口…。つまり黄の鬼神は、今後、俺の副官となる」

「何故、そんなことをする?」

「何故とは?」

「何か…裏があるんじゃないのか?」

羅鬼、すなわち黒首は、そこで黙った。なぜか今にも焼き殺すような視線で、睨んでい

る。それから、一転して、彼は笑った。楽しんでいるような剛胆な笑いだった。

「面白い人間だ。俺の姿を見ても驚きもせぬうえに、さしでがましい口をきく。バカな

のか、命知らずか…」

「鬼神の姿など、私には恐ろしくも珍しくもない。ただ、前鬼が心配なだけだよ」

「変わった人間だ。前鬼は、おまえの友なのか?だとしても、二度と会うことはないだ

ろう。天界は、おまえになど、どうにも出来ぬ無縁の世界だ」

「…………」

「とにかく、盗まれた物を返してもらおう」

宝槍を、小角は力任せに放った。槍が、鬼神のつま先スレスレの地面に刺さる。再び剛

胆な眉間に皺が寄り、硬い表情のまま、黒の鬼神は片手でそれを引き抜いた。

「役小角。おまえには弟と母がいるはずだ。家に戻り、母によく孝養を尽くせ。それ

が、人としてのおまえのとるべき道だ。それから前鬼のことだが……」

言い終わると、大きな身体は、霧のように消えた。

後に残された小角は、晩夏の草原にたった一人で立っている。前鬼と再会する数カ月前

と、同じように。もしかすると、すべてが、もとに戻っただけかもしれない。

(…これで……良かったんだろうか……)

まるで、すべてが一瞬だった。なにもかもが。一睡の夢のように。

小角はぼんやりと暮れかかった空を見上げた。何がなんだか、まだ、よくわからない。

けれど、考える必要もないのかもしれない。黒首の言った最後の言葉が、まだ耳の奥に

残っている。

『前鬼を、案ずることはない。すでに、おまえの記憶は封印させてもらった。明日の朝

までには、忘れているだろう。我々に関わるすべてのことを。無論、前鬼と出会った何

もかも……』

本当に、忘れてしまうのだろうか?

すべてを。前鬼のことも。呪力のことも。父母との確執も。

(だったら、それが、良いのだろうか…)

小角は、日がすっかり落ちてしまうまで、長いことそこに、独り佇んでいた。





(9)


「鎌足、おまえ……また、食べないのか?」

「え?……ええ」

漆塗りの膳から白身魚をすくいあげながら、中大兄は差向いの箸の動きを覗いている。

鎌足は、さっきから同じ魚を無意味に何度もつつき回しながら一向に口に運ばない。か

といって他のものに手をつけるでもなく盛り付けを形ばかり崩してやめてしまう。最

近、殊にそうだった。

「具合でも悪いのか?」

「いえ、そういうわけでは…」

「なら、もっと食え。そのうち倒れるぞ」

「大丈夫ですよ」

「そう言うわりには、顔色が悪い」

「灯のせいでしょう」

精気のない白い顔で、鎌足は微笑した。もともと色白だが、最近、特に青白い。深刻な

心配事でもあるように、時々、今にも吐いて倒れそうな顔をしている。あまり丈夫でも

ないのに、ここ二年ばかり、ゆっくり眠る暇もなかったから疲れているだけかもしれな

いが、なんだか気になった。

「しばらく、休暇をとったらどうだ?」

「そんな時間はありませんよ」

「今度、天皇が大臣どもと温泉に行くらしい。おまえもついて行け」

「それでは、接待と、監視を兼ねたお守です。休みになりません」

「では、屋敷で寝ていればいい。届けを出して公務を休め」

「お気遣いなく。ただ、難波の食事が合わないだけです」

「我を張るな」

「張ってなどおりません」

何事も万事、最終決定を中大兄に求める鎌足も、自分のことになると、まったく話を聞

かない。頑固な言い訳をして、とうとう箸を置いてしまった。

もっとも、中大兄も、同じ魚にさすがに飽いている。難波(大阪)に遷都して以来、

最初は珍しさに毎日並べていた魚肉も、今ではすっかり慣れてしまった。

「今度、どこぞの国司に珍しい獣肉でも届けさせるか」

「そんな余裕は、まだございませんよ」

新しい政治体制を敷き、都を大和から難波に移した。蘇我親子を葬った翌年から次々と

新政策を発表し、ようやく軌道にのりはじめた頃だ。しかし、毎度反対する天皇と大臣

や有力豪族たちを黙らせるのも、私有財産を取り上げて地方に派遣した国司たちに命令

を徹底させるのも、楽ではない。

「贅沢を命じている場合ではありません」

「では……」

と言って、中大兄は話を変えた。

「酒でも飲め」

「え?」

言っているそばから、後ろに置いてあった変わった陶器を引き寄せて蓋を開け、椀に

並々とついで突き出した。

「ほら」

「……結構です。この後、仕事がありますから」

「皇太子の酒を断わる奴はおらぬぞ」

鎌足は渋々、細い指で受け取った。

「一気にいけ」

中大兄はニヤニヤ笑っている。鎌足は、ちょっと怪訝な目をしたが、言われるまま椀を

傾けた。

「……ッ…」

思わず吹き出しそうになって、鎌足は瞳を見開いた。しかし、そんな粗そうが出来るは

ずもなく、慌てて一気に飲み込んでいる。

咳き込む彼を眺め、皇子はイタズラの成功した顔で、声をたてて笑った。

「酷いことをなさる…」

口許を小さな麻布でおおいながら、鎌足は涙を浮かべて恨みがましい声を出した。皇子

はまだ笑っている。

「驚いたか?大唐の酒だ。それに、俺が趣味で混ぜ物をした。美味いか?」

「そういうレベルではありません」

含んだとたん、痛みが舌を焼いた。それが喉を焼き、臓腑を焼き、体中が焼かれるよう

に熱くなる。同時に視界が狭まって、体の重心が怪しくなった。

「おっと」

膳の上にのめり込みかけた身体を抱きとめて、中大兄は、そのまま背後に彼を倒し、腰

を抱えて足を伸ばさせ横たえる。衿元をくつろげてやりながら、その胸に自分の上着を

脱いで掛けた。

「こうでもしないと、おまえが過労死すると思ってな」

「余計なお気遣いです」

「そう言うな」

「私は、この後、まだ仕事が……」

最後まで言わないうちに、舌の回りまで心もとなくなっている。困ったことになった

と、鎌足は内心、珍しく焦ったが、諦めて目を閉じた。

「では、明朝4時前に…起こして下さい…」

「憶えていたらな」

「皇子…それくらいの責任は…」

とっていただきたい。とまで言えないうちに、自分の声が遠くなった。

強引に眠らせた瞼を見つめて、中大兄はため息混じりに苦笑した。少し、ほっとしてい

る。今夜は無理に休ませるために、わざと自分の私室に招いたのだ。

この私室も、やっぱり、彼らだけの場所だった。

難波の皇太子宮も、大和と同じように造らせた。ただ、もっと普通の塔のようで、階下

にはいくつも部屋がある。最上階は一部屋だったが、細い廊下が周囲を巡り、部屋に面

していない側の壁は、すべてが窓で開くと景色を一望に見渡せた。

この部屋に、大和の頃の私物を、そっくり移動させた。だから今は、ここが、彼の秘密

の聖域だった。

かすかな虫の音を聞きながら、皇子は長いこと灯火の下の寝顔を見つめている。

(ずいぶん…やつれたな…)

年をとったようにも見えないが、とにかくひどく疲れている。いつも表情を隠している

長い前髪をかきあげて、額に手をあてると少し熱があった。酒のせいではない。鎌足

は、このところ、いつも微熱に悩まされている。けれど、それを決して言わない。言わ

ずに、黙々と働いた。

大和のあの部屋で、古人皇子を殺す密談を交わしてから、ちょうど2年が経っている。

あれから、古人皇子は吉野で討ち取られた。鎌足の言った通り、40人の手勢を向けて

攻め落とした。と、いうよりは、まだ戦闘準備の整わない相手に奇襲をかけた、と言っ

たほうがいい。

呆気なく、古人も妻子も死んだ。抵抗する間もなく、一族は皆殺しで、荷担した者は氏

名を剥奪して侮辱し、晒しものにした。蘇我の残党で新政を阻む者は一掃され、当面、

改革を力で邪魔する者はいなくなった。

結果的には、蘇我入鹿が、かつて上宮王家を皆殺しにした暴挙と同じだ。ただ、違うの


は、それが「暴挙」と言われぬことだった。古人は、あくまで、天皇や皇太子を

を殺そうとして、自ら滅んだのだ。それが中大兄と鎌足の描いた脚本であったことは、

ほとんど誰も知らない。

完璧な結末。

鎌足がいたからだった。

それからも、彼は働いた。あくまで影に立ちながら、次々と献策し、実行していった。

新しいことを始めると、必ず年寄り達は怒り出す。天皇や左大臣、右大臣を内々に説得

するのは、いつも鎌足の役目だった。どうやって説くのか知らないが、必ずまるく収め

て帰ってくる。おかげでこの2年の間、中大兄の立場は大きく好転しつつある。

けれど鎌足は、何故かその度に、目にみえてひどく憔悴した。

(俺の知らない何かがある…)

その変異に、もちろん中大兄は気付いている。その度に、間人の言葉が頭をよぎった。

けれど、気になってはいても問いただせない。どちらかというと、忘れていたかった。

そして忘れさせるほど、鎌足は一生懸命働いていた。働いて、働いて、そして、その度

に少しずつ弱っていったように、見える。まるで、何かにおびえるように。

だから、眠らせておきたかった。

(そのほうが…俺もほっとしていられる)

眠っていれば、何も起こらない。これ以上、衰弱させることもないし、自分の知らない

何かも、進まない……。

(男子にあるまじき卑怯な発想だな)

汲み置きの水に浸して固く絞った布を額にのせてやりながら、中大兄は青白い瞼の下に

滲み出た淡い隈を見つめた。

鎌足が聞いたら、怒るかもしれない。けれど、それが、本音だった。







深夜に、不意に目が覚めた。

起き上がって見回すと、辺りは闇一色になっている。すぐ近くで、軽い息遣いが聞こえ

た。隣で皇子が、眠っている。

額からすべり落ちた布からは、ほんのりと、皇子の焚きしめている香のかおりがした。

鎌足は、少し迷っていたが、それを丁寧にたたんで胸元に入れると、自分のこめかみを

押さえて立ち上がった。

足許がふらついたが、音をたてないように部屋を出る。もともと薬の効かない体質だか

ら、これで済んだが、酒に『はしりどころ』でも入っていたのではと、思った。

(皇子も乱暴なことをなさる…)

おかげで、約束の時間をだいぶ過ぎてしまった。相手はイライラして待っているに違い

ない。年をとると、どうも人は怒りっぽくなる。

さっき焦ったのは、この約束があったからだ。本当は、皇子に呼ばれた時点で断われば

よかったのだが、急なことで出来なかった。

確か自分は4時に起こして欲しいと皇子に言った。今から行けば、4時まで戻ってこれ

る。戻れなければ、まっすぐ朝参に出てしまえばいい。皇子には、急用を思い出して早

めに起きて帰ったと、言ってしまえばすむ。

それよりも、ここから出かけるのはかなり危険で嫌だったが、こういう時は色んな偶然

が重なってしまうものかもしれない。

そっと皇太子宮を抜け出すと、鎌足は急いで本殿のほうに向かった。








広い板敷きの間の奥で、仄暗い灯が揺らめいている。

椅子に腰掛け、肩をいからせ、ひざの上で両手を強く握った初老の男が、油を吸って小

さく燃える炎を睨んでいる。火影のせいで、皺の深いその横顔が、余計に陰影を強くし

て、一瞬、妖怪じみて見えている。すでに昼から悪かった機嫌が、鎌足が遅れたことで

いっそう悪化していた。

「そちは、何故、いつまでもあの若造の肩をもち、長々と仕えておる」

「今の私は、あの方の側近です」

「側近か!ますますごたいそうな若造だわ!…勝手放題ぬかしおって!余をないがしろ

にするにもほどがある!!」

「まあ、そう興奮なさいますな」

椅子の側にある、光の届かない柱の陰に寄り掛かり、鎌足は腕を組んだまま、わざと、

やんわり答えた。それが、いよいよ神経を逆撫でするのか、男はパンッと両拳で同時に

膝を打った。

「そちが、そう言うのは何度目だ?!もうお座なりの懐柔策など聞きたくもない!早急

になんとかせい!!いったい……」

「………」

「いったい、誰が天皇なのだ?!余ではないのか?!それとも、あの若造……中大兄

か?!」

「むろん……貴方様ですとも。孝徳さま」

すんなりと、鎌足は、答えてみせた。

「では何故、百官は余に従わぬ?!何故、中大兄の命に余が従わねばならぬ?!今朝も

だ!今朝も……天皇である余が……」

百官と民の前で謝罪した。

難波の宮殿まで掘らせた用水路について、謝罪し、工事を中止した。責任者は比羅夫

(ひらぶ)という工人だったが、設計段階で狂いがあるにもかかわらず、それに気付か

ず断行した手違いを追求され、天皇自身が責められた。結局、責任をとって謝罪した。

「だが、工事を命じたのは余ではない」

他にもある。

難波に来たばかりの頃、遷都騒ぎで宮殿造りに民が駆り出された。農繁期の強制労役

に、民衆の不満が増大し、一度は取り止めになったが、中大兄が強引に工事を続けさせ

ることを要求したため、やはり、最後は自分が責任をとって謝罪した。

「すべて、余の名において命じておき、都合の悪いことはすべて余になすりつける。そ

のうえ……」

わざわざ使いを送ってよこし、「天皇に命じられたので献上しました」などと、すまし

た顔で、勝手に豪族や皇家の私有財を取り上げ、さっさと朝廷に献上してしまった。

「あれで、どれだけ余が怨まれたことか!」

強引に改革を進めておきながら、都合の悪いことはすべて天皇である自分の罪にする。

数え上げればキリがない。

「全国の国司を呼び出し、不正を裁いて罰則を科したうえで、大赦と称して許してや

る。そんな大掛かりな芝居をうって国司を掌握する演技に付き合ってやるうちは、まだ

良かったが……」

気がつけば、いいように使われて、改革反対派の矢面に立たされている。中大兄は反対

派の官僚たちのなだめ役にまで回ってみせる良い子ぶりで、いつのまにか朝廷を掌握し

ていた。これでは、もう、どちらが天皇なのかわからない。

「話が違うではないか!」

激昂する大王を横目で眺め、鎌足は小さく溜め息をついた。

「それで?私をお呼びになられた理由は?もう、我慢ならぬと?」

「そうだ。間人までが……兄の言しか聞き入れぬと、申しおる」

「間人さまが……?」

「あれは、余の皇后ぞ。なのに何故、余のものではなく、中大兄のものだと言い張るの

だ?」

「それは……私ごときの知るところではございませぬ」

「この縁組みも、最初に持ってきたのは、そちだったな。すべては、見かけ倒しの地位

ではないか。実は、中大兄が握っておる!!思えば、間人を皇后にたててから、余の甥

であるあの若造が、同時に余の義兄となり、身動きがつかなくなった」

「そう…お取りになられるのも無理からぬこと」

「何を申すか!!」

とうとう、大王は、椅子を蹴って立ち上がった。立ち上がり、指さして、鎌足に怒鳴っ

た。

「鎌足……そちが……余を天皇にすると申したではないか!その後も協力すると約した

ではないか!!だから余の一番の愛妃も抱かせてやったのだ!!そちがなんとかせ

い!!」

鎌足は、黙って聞いている。しばらくして彼は、よく通る静かな声で言った。

「一つ、勘違いをなさっておいでです」

「なに?」

「わたくしは、あの夜、お妃様に触れてはおりません」

「なにを…いまさら……。では有間は誰の子じゃ?いったい誰の……」

暗がりでも、激しく動揺しているのが、わかる。けれど、それには取り合わず、鎌足は

淡々と答えた。

「貴方様の御子でございましょう?でなければ、わたくしは存じませぬ」

「な…な………」

「お相手の方が誰なのか?それは、お妃様にお尋ねになられたら、いかがでございま

す?」

「おのれ……。妾妃までが知らぬ間に余を裏切ったと、そう申すつもりか?!」

「そうは申しません。ですから、貴方様の御子だと申し上げているでしょう?それでも

お疑いなら……男女の過ちなど、古今、どこにもあることだろうと、お慰め申し上げて

いるのです」

帝は、黙った。油を燃やす音だけが、チリチリと辺りに響いている。そうして突然、笑

い出した。カン高い、気の触れたような笑いだった。

「そうか、なるほど!そちは、鞍替えしたのだな?!わしよりも、あの若造が気に入っ

たか!!」

大王は、笑っている。笑いながら、大声で怒鳴った。

「この、不忠者の大嘘つきめが!!貴様など、売女以下の男だ!!」

「ご冗談を」

はじめて、鎌足は柱の影から出た。その場にぬかづきもせず、立ったまま相手を直視し

ていた。

「確かに、あなたがまだ軽皇子と呼ばれていた時、何度か宿直もして差し上げた。でも

……」

ここに来る前に、決めていた。すでに、ここ2年で、この男の利用価値はなくなってい

る。これ以上、中大兄に疑われて板挟みにはされたくない。中大兄が、いつからか自分

を疑っているのは知っていた。けれど、この男と左大臣を使うためには、どうしても関

係を切れなかった。

それが、苦しい。だから、ずっと、こう言いたかったのだ。

「私の主は、もはや中大兄様ただ一人です」

孝徳は、笑った。端から信じていない声で嘲笑った。

「よくぞ申したものだ。そう言って、中大兄も、時が来たらあっさり見捨てて殺すので

あろう?そちがいつも使っている手ではないか!」

「…………」

「中大兄も気の毒にのう…。このような……魔物のような男に魅入られて!」

その時。

入口近くで、カタンと軽い音がした。一瞬、狂気が薄らいで、我に返った孝徳と、鎌足

が振り返る。

しかし、しんと静まり返った闇には、人の気配はない。

ややほっとして、鎌足は再び話を続けた。

「誓ってもいい。わたくしは……中大兄様の後には、死にません。死ぬときは…必ず皇

子より先に逝きます」

「そうはいくまい」

「どういう意味です?」

「それは、そちが考えることじゃ。得意であろう?」

気味の悪い落ち着きで、孝徳は笑った。






皇太子宮に戻りながら、鎌足は珍しく不安になった。最後に問われた謎かけが気になっ

ている。

普通にとれば、自分の裏切りをさして皮肉っているのだろうが……。

(でも…もし…中大兄さまの身の上に何か起こるという予告だったら?)

これまで、反対派を暗殺してきた。

だったら、今度は暗殺されるかもしれない。

(とにかく、周囲を調べてみなければ…)

思案しながら階段を上り、部屋の前まで戻った鎌足は、そこでそっと中をのぞいた。ま

だ夜明けにはずいぶん間がある。暗がりは静かだった。

そっと足を踏み入れる。

けれどそこで、金縛りになった。

中大兄が、部屋の隅に座したまま、じっとこっちを見ている。いつものように立てた片

ヒザの上にひじをのせ、皇子は鎌足を黙って見つめていた。表情まではわからない。し

かし、空気が痛いほど張りつめている。

「どこへ…」

と中大兄が言った。これまで聞いたことのない、かすれたような声音だった。

「どこへ、行っていた」

「皇子……」

「言い訳できぬ場所であろう」

その瞬間、鎌足は全身の血が引くのを感じた。今まで生きてきた、どの瞬間よりも、怖

かった。

何か言おうとしたが、声が出ない。

「まったく俺もバカなことをしたものだ。おまえの心配をしてついていってみれば……

とんだ密会シーンだったな」

舌が、引きつって、声が出ない。この瞬間をどれだけ怖れていたのか。回を重ねるごと

に不安が募り……、だから、今夜を最後にするはずだった。

「で……?話の続きを聞かせてもらおうか。有間皇子は、おまえの子なのか?」

「………」

「本当なのか?どうなのだ」

鎌足は、いつまでも黙っている。その沈黙を、中大兄は肯定と受け取った。

「なるほどな。これで、ようやく本音がわかって付き合いやすくなるというものだ。つ

まり、おまえは俺を利用し、俺もおまえを利用する。実にわかりやすい関係だ」

「…………」

「おまえの話は聞かせてもらった。当座、俺を裏切る気はないのだろう?何しろ、叔父

からわざわざ俺にのりかえたのだ。安心しろ。おまえのように役に立つ男をみすみすク

ビにしたりはしない。とりあえず……」

「…………」

「この先、予定通りに、叔父には退位してもらう。ただし、今度は俺が天皇になる。お

まえが有間の立太子を望むなら、そのうち俺の皇太子にしてやろう。だが……」

「…………」

「……二度と、ここへは来るな」

ついに一度も、鎌足は声を出さなかった。

*その4へ*
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