(3)


「痛たたたっ」

赤く光る、長い爪を生やした頑丈な手で襟首を吊るし上げられ、小角は悲鳴を上げ

た。いつもの草原で前鬼と格闘を始めた彼は、開始早々、あっという間につかまっ

てジタバタしている。

「こら、離せよ!」

地面から10センチも浮いた両足がバタバタするのを、じいっと見ながら、赤の護

法鬼神は片手でぶら下げた人間に向かい口をとがらせていた。

「こんくれぇ自分ではずしてみろよ」

「できるか!」

「だってオレ、全然本気じゃねーぜ?」

「本気だったら死んでいる。ったく……鬼神のバカ力が人間の私に出せるはずなか

ろう!」

「根性ねーぞ、てめー〜〜」

「そーゆー問題じゃないっ」

あーあ。と息をついて、前鬼は諦めたように小角を地面に降ろした。喉を押さえて

ぜえぜえ息をついている彼の隣にしゃがみこんで、鬼神は憂鬱そうにボヤいてい

る。

「チッ……こんなんじゃよ〜いつになったら断崖絶壁登りとか、細い木の枝伝って

飛んだりとか、出来んのかわかんねーぜ」

「おまえ……私にそんなことをさせる気なのか……」

「これで物怪と戦うなんざ土台ムリな話だ」

「だから、はじめから無理だって言ってるだろう」

「ん〜〜〜。おかしーなぁ……。なんでできねーんだろー」

この間から、ずっとこの調子だ。才能があるから呪術を学べ。そして物怪退治をし

ろ。そのためにオレが修行に付き合ってやるから……。と言った鬼神は、言葉の通

り、毎日小角を相手に「特訓」をしているのだが、一向に進歩がみられない。物怪

を倒すだけの術を使うどころか、法力を発動させて使いこなすだけの基本的体力が

不足している。

と、少なくとも、彼には見えるのだが、当の小角は、私には無理だの一点張りで、

ヤル気があるのかないのかも、イマイチはっきりしない。

同じセリフの往来に業を煮やした顔で、その日は、さすがに前鬼も珍しく考え込ん

でいた。

「とにかく……このままじゃダメだぜ」

「ああ。全くそれは同意見だ」

あちこち汚れた着物の裾をはらいながら、小角も憮然と言っている。このところ手

足の擦り傷が耐えない。毎日どこか引っ掛けるので、カジの木の皮の繊維で織った

丈夫な白妙も、破れ放題でボロボロだった。

「やーっぱよ〜〜、てめーは素手じゃダメだ。何か武器がねーと戦えねーな」

「武器って……おいおい……」

なんで話がそうなるんだ、と小角が言う前に、前鬼は急に膝を打って立ち上がっ

た。

「ぃよしっ、アレ持ってくるか」

「あれって何だ?」

「護摩の法具だぜ」

「ええ?」

驚く小角をその場に残し、赤い髪を長く翻した鬼神は、ふわりと宙に飛び上がっ

た。

「そこで待ってろよ。今、取ってくる」

「お……おい!待てよ……前鬼!!」

呆気にとられた小角に牙を見せて笑うと、彼はそのまま姿を消した。





夕暮れが近い。

山の端の色が、そろそろ変わりかけている。小角は一人で大きな岩の上に座ってい

たが、鬼神の「今すぐ」を真に受けて何時間も待っているのも馬鹿らしい気がし

て、地面に降りた。

(だいたい……天界の一日は人間界の一年というじゃないか……)

それが本当なら、鬼神の「今すぐ」は、人間の一ヶ月かもしれない。天界、という

場所が本当にあるのかさえ、小角は実際見たことすらなかったが、如来や菩薩や諸

天や、諸天に仕える前鬼のような護法鬼神の住む世界が、人間界の上にあって、人

間の生活を見下ろしていると聞く。

少なくとも、いつも前鬼はそこから降りてくる。

人間ではない、人間以上の力を持った鬼神、という存在として。

(しかし………あいつも感覚がいまいちな……)

時間ばかりではない。前鬼は総じて鬼神である自分と人間である小角との差異に無

頓着だった。

(というより………)

小角という人間を、人間の類に入れていないきらいがある。そう思うと、なんだか

理不尽に腹が立ってきて、小角は、それまで座っていた岩を背に、立ち去ろうとし

た。このまま待っていたのでは家に着く前に夜になってしまう。

つないでおいた馬を放そうと手綱をとった時、

「てめぇッどこ行くんだよッ?!」

息せききって追ってきた声に引き止められた。振り向くと、血相を変えた前鬼が仁

王立ちになっている。

「なんだ……本当に戻ってきたのか……」

「ホントにって……てめ〜〜〜オレを信用してねーのか?!」

「信用以前の問題だ。おまえと私では、少々常識が食い違うからな」

「はぁ〜?」

小角は皮肉を言ったつもりだったが、鬼神は意味のつかめない顔で、怒るのをやめ

た。

「……ん〜と、まぁ、んなことはどーでもいーぜ」

面倒なことは考えない彼が、勢い良く腕を突き出している。手には、一本の錫杖が

握られていた。

「こいつを使え」

一瞥して、小角は、疑わしげに前鬼を見上げた。

「まさか…おまえ………どっかの寺から盗んできたんじゃないだろーな?」

シンプルなデザインだが、霊気じみた威圧感がある。小角の身長よりも少し高い。

細長い棒の先には大きな金属の環が一つついており、その環に、更に小さな環が五

つ通してある。普通の修行僧が使う、ごく単純な錫杖だが、この辺ではまだ珍し

い。あるとしたら、天皇や大臣が建立する寺に寄進される、名のある仏師の作品

だ。

小角が疑ったのも無理はない。けれど、前鬼は侮辱されて頭にきたように、怒鳴り

出した。

「人間の寺なんかから盗むかよ!!あんなもの、天界の法具のニセ物だぜ。だが、

こいつは違う」

「では、まさか……」

「あん?」

「天界から、黙って持ってきたのか?」

そこで、鬼神はぐっと詰まった。どうも、この鬼はキマリを守るのが苦手だ。上司

である毘沙門天の命令は無視するし、些細なドロボー行為は気にもしない。目の前

で人が死んでいてもことさら騒ぎ立てることもなく、当然、埋葬してやろうなどと

も思わない。しかし冷血というよりは、むしろ、鬼神とは元来そういうものなの

だ。残酷で血を好み、自分勝手で人殺しすら簡単にやってのける。彼らを、時折、

諸天と呼ばれる天神たちが教化し、自分の部下として使うことがあったが、それが

例えば、前鬼のような護法鬼神である。

前鬼は、もちろん、仏法の守護をするよう教育されているし、悪気はないのだが、

世間並みな配慮とはズレたところが多かった。

小角はやれやれと小さく吐息をつきながらも、厳しい瞳で眉根を寄せた。

「ダメだよ。返してきなさい」

「なんだと?!オレ様がせっかく……」

「せっかくも何もないぞ?」

コラ、と小角は赤い爪を煌めかせた手から錫杖を取り上げ、金具のついた先で軽く

彼を突いた。と、

「ぐあ------------ッ」

「え?」

突いた本人にも、わけがわからない。ただ、目の前で派手に吹っ飛んだ鬼神の体

が、さっきまで小角が座っていた大岩に叩きつけられ、勢いでめり込んだまま昏倒

している。

「お……おい……」

慌てて、小角は錫杖を持ったまま駆け寄った。

「大袈裟なヤツだな。なにも、そんなフリまでしなくても……前鬼?」

けれど、半裸の身体は、長い赤色の髪を散らしたまま、ピクリとも動かない。髪を

止めていた重い金の飾りは、粉々になって、辺りにキラキラ飛散している。

「前鬼?!おい!!」

ようやく、その破壊力に気付いて蒼白になり、小角は倒れている体に手をかけた。

「しっかりしろ!前鬼!!前鬼!?」

そのとたん、蘇我蝦夷の城塞の前で破魔の矢に貫かれて苦悶していた彼が重なり、

揺り起こす手が震えた。

「前鬼!!」

と、犬歯のとびでた唇が小さく開き、苦しげな喘ぎが漏れた。

「前鬼………?!」

「……う…」

ぼんやりした赤い瞳が、ゆっくり開く。小角はほっとして、手を放した。とたんに

赤い瞳が、はっと見開き、勢いよくわめき出した。

「あ……あぶねーじゃねーか!!何しやがる!!オレを殺す気か?!」

「そう言われても……」

「てめーなぁ!!」

鬼神の目が、どうもまだピンときていない小角を穴のあくほど見つめている。それ

から前鬼は、牙を見せて満足げにニッと笑った。

「しかし、さすがだぜ。やっぱ、おめーただもんじゃねーな。その錫杖、どんく

れー重いのか知ってんのか?」

「重い?綿のよーに軽いぞ?」

「おわぁ?!」

試すように突き出したそれを、ようやく避けて、前鬼は怒鳴った。

「あっぶねーだろーが!!ブンブン振り回すんじゃねー!!てめーみてーな野郎が

持つと凶器になんだよ!!」

「私のような?」

「そいつは……鬼神のオレ様にだって持つのがやっと。ましてや、普通の人間が持

てるハズがねえ。琵琶湖の水全部くれーの重さがあるんだからな。超一級の呪力を

持ったヤツだけが使いこなせる……」

「琵琶湖の水だって……?ウソだろ」

全く本気にしない顔に、鬼神はイライラと叫んだ。

「てめーに嘘なんかつかねーよ!!」

「そう言われてもなぁ」

にわかには信じがたい顔で、小角は、しげしげと、法具を眺めている。

「たく……てめーはよ〜〜〜〜うあッ」

舌打ちして立ち上がろうとした前鬼は、とたんに悲鳴を上げて身を縮めた。

「大丈夫か?」

錫杖で突かれた胸を押さえて、鬼神はうめいている。小角がその肩を支えて動かそ

うとすると、ものすごい声を上げて振り払った。

「お……おい……」

怨みがましい上目遣いにぶつかって、少々、小角はうろたえた。

「痛ってぇ……ちくしょう……おもいっきりやりやがって……」

「だから軽く突いただけだろ……って何だ?その手は」

ぬっと目の前に差し出された前鬼の手が、不機嫌な声と重なっている。

「てめー……オレにこんなケガさしといて治してくんねーのか?」

「治すって……その傷をか?」

「そーだよ。得意だろーが、呪力で治すの」

小角は困った顔をした。確かに子供の頃は、そんな力があったのだ。しかし、どう

いうわけか今ではその力が自在にならない。というより、呪力が本当に自分にある

のかどうかさえ、今の彼にははっきりしないのだ。この間は偶然に鬼神を助けるこ

とが出来たが、それ一回きりで、また使えなくなっている。というより、それが自

分の力だったのかさえ、怪しい。

仕方なく彼は蘇我の屋敷の前で言ったのと同じように答えた。

「だから、出来ないんだって」

「なんでだよ〜〜?!」

「知るか」

「おめーこの間も、できねーって言って出来たじゃねーか!!今だってオレをこん

なメにあわせやがって〜」

「そう言われても、よくわからん」

「あ〜〜〜。やっぱ、わかんねー野郎だな〜」

だんだん、怒っているというよりも、なんだか泣きそうな顔になって、前鬼はうず

くまった。

「痛むのか?」

「これが物怪なら、とっくに死んでるぜ」

「困ったな。家に帰れば、たしか父上がお持ちだった宝珠が一個あるんだが……。

アレなら鬼神の傷も治せるかもしれんが……」

宝珠、と聞いて、赤い瞳が輝いた。

「なんで、んなモン持ってんだよ」

「知らん。父上の形見だ」

「ニセ物じゃねーのか?本物だったら、八部衆の苦痛はすべて消してくれるんだ

ぜ?」

「かもしれん。使ったことがないからわからない」

ま、いいや、という顔をして前鬼は言った。

「んじゃ、とりあえず行こうぜ。おまえの家」

「……しかし………」

小角は、口許に気まずいためらいを浮かべている。

「……?…なんかマズイことでもあんのか?」

「おまえが来ると、母上と会うだろう?」

「はあ?」

「いや、ハッキリ言うとな……私の母は、おまえのような者がお嫌いなのだよ」

「オレみてーなって?……鬼神とか?」

「そう。鬼神とか、物怪とか…」

「も……物怪ぇ?!」

怒鳴ってから、傷に響いたのか、小さくうめいて、前鬼は自分の胸をつかむように

押さえた。それでも機嫌の悪い声を絞り出している。

「水精宮の護法鬼神さまを、格下の妖怪どもと一緒にすんじゃねー!!」

「母上にとっては一緒だよ」

その言葉に、とうとうヤケを起こしたように、前鬼はわめいた。

「ああぁ!なんだっていいけどよぉ。てめーって、ほんっとムカつく野郎だな」

「いや、それは……すまないと思ってるが……」

「そーゆーことじゃねー!!だいったいオレ様ばっか不公平じゃねーか!!オレが

こんなに一生懸命やってんのに、てめーときたら……」

そこまで言って、急に鬼神は静かになった。

「前鬼?」

「フン。…………いいぜ。もう…」

フテくされた子供の顔をして、痛みをこらえたままうつむいている。小角は、つい

苦笑した。

「大丈夫か?」

「大丈夫じゃねーよ」

「天界には……」

「痛くて帰れねー」

「……わかったよ」

え?と上げた顔は幼い頃のままだ。小角は黙って鬼神の腰に手をまわすと、背を支

えてようやく立たせた。

「歩けるか?」

「フン」

「私の家は、ここから少し遠いんだ。しばらくの間、辛抱してくれ」

駄々っ子のような鬼神の顔が、やけに嬉しそうに浮きたつのを、小角は横から覗い

てちょっと笑った。




(4)


(今日は妙に蒸し暑い……)

午前中の公務を終えた中大兄皇子は、妹の部屋へ向かう渡り廊下をあるきながら、

なんとなく空を見上げている。晴れた夏空だが、そのうち一転して雷雨になるのか

もしれない。この季節、落雷がおきると、いつも人が死ぬ。

(今年は…皇太子宮に落ちたりしてな)

不吉な予感じみた思いつきに、皇子は我ながら苦笑した。もうその角を曲がれば妹

の宮がすぐ見える。

妹、間人皇女(はしひとのひめみこ)は彼にとって、ただ一人、父も母も同じ正真

正銘の妹である。2人の母は先の天皇。父は先々代の天皇。そして、ついこの間位

についたばかりの現在の天皇は、母の弟。2人にとっては母方の叔父にあたる。

実にサラブレッドな家系だが、この叔父の皇后に、間人をつけようと、中大兄は鎌

足と一緒に謀っていたのだった。

取次ぎの女官に案内されて部屋に入ると、中央に、夏らしい薄物を身に付けた色白

の女が座っている。

「あら、お兄様……」

「おお、久しぶりだったな」

愛想笑いをしたものの、やはり、中大兄は、この妹には油断している。腹違いの兄

弟とは異なるダレた親近感が漂って、日頃、策謀家で冷徹な彼も、自分で思ってい

る以上にどこかしらスキを見せていた。

「お知らせ下されば迎えの者を出しましたのに……」

「いや、そんな面倒なことはいい」

顔を合わせ、部屋の奥に入るなり、中大兄はすぐに人払いをして、単刀直入に用件

を言った。

「え……?」

言われた間人は、面喰らって兄を見つめている。宮の広間で、久方ぶりに兄妹が向

き合ったまま、少しの間、空白のような時が過ぎた。

「どうした?」

「………」

それまで華やかだった彼女の瞳が、一瞬にして暗転している。落ち着かない視線

で、間人は問い返した。

「お兄様……。今、なんとおっしゃいましたの?」

「だから、言っただろう。叔父上……いや、孝徳天皇のもとへ嫁げ。そなたが、皇

后になるのだ」

間人皇女は黙っている。どちらかというと、危ない賭けを嫌う、引っ込み思案でお

となしいところが、亡き父に似ている。と、中大兄は思っている。当然、この婚姻

もあっさり了承されるものだと、考えていた。

「どうした?天皇との結婚だ。そなたが、女人としてはこの国最高の地位につくの

だぞ?嬉しくはないのか?」

「………」

けれど、間人は何も答えない。長いまつげを伏せて、唇を噛んだまま、うつむいて

いる。

しびれを切らした中大兄が、もう一度催促しようと身を乗り出しかけた時、薄く紅

をひいた小さな唇が動いた。

「お兄様……」

「なんだ?」

「それも……鎌足の差しがねなのでしょうか」

「なに……?」

思ってもみない反撃に、彼は妹の顔をついマトモに見つめた。こんなにも真正面か

ら眺めたのは、子供の頃以来かもしれない。

化粧をしたその顔は、思っていたより、派手だった。

(………こんな女だったろうか……)

奇妙な感慨で、中大兄はなんとなく驚嘆した。

そこに居るのは、何か別の女性のような気もする。妹、というよりは、まるで女の

ようだ。そんなふうに今更思うほど、日頃関心がなかっただけかもしれないが、な

んだか、それだけではない。そう、思うことを強要するような、一種、嫉妬と脅迫

の入り交じった、不穏な空気が立ちこめていた。

「お兄様は………あの男にお会いになって変わられたわ」

うつむいた瞳をまっすぐに上げて、間人はハッキリ言った。

あの男、とは中臣鎌足だ。

「な……?……何を言い出すのだ」

言い返した中大兄は珍しく動揺している。話の中味もそうだが、妹の顔、声、口

調、すべてに見知らぬ何かを覚えて戸惑っている。

(こんなことを言う女だったのだろうか?)

絶対の自信が砕かれたように、思ってもみない子飼いの者に造反されたように、中

大兄は焦燥した。その焦りに、まるで必死に食いつくように、

「お兄様は……」

と、間人は詰め寄った。

「お兄様は、だまされているのよ!あの男は……鎌足は、ただ権力が欲しいだけ。

お兄様を操って、この国を手に入れようとしているだけなのだわ!」

「ば……馬鹿なことを言うな!!」

なだめるつもりが、中大兄の声も上擦っている。相手をいなすどころか、なぜか彼

自身まで必死になっていた。けれど、間人もまた、同じくらい追い詰められた顔を

している。

上目遣いに兄を見据え、彼女は低く強く言った。

「鎌足は素性を偽って中臣の家を乗っ取り……そして次々と公卿に近付いて左大臣

や天皇をたぶらかしている魔物のような男なのよ?」

「言うに事欠いて……たぶらかすとはなんだ?!」

「いいえ。叔父様だって……まだ皇子だったときに鎌足が近付いて、叔父様をきっ

と天皇にすると約束したのですって。だから鎌足は、この度、お兄様が即位なさる

のを止めたのだわ!」

「なんだ………と?」

「最初から、あの男は、叔父様を天皇に据える計画だったのよ!!」

「おまえ……何を言って……」

さっきから、恐ろしいことを聞いている気がする。なぜ間人がそんなことを言うの

か、中大兄にも見当がつかない。というより、思わぬ先制攻撃をくらって、完全

に、冷静な判断が念頭から消えていた。

血を分けた妹が、自分に刃向かっている。

しかも、鎌足が…………?

それだけで、日頃の自信に満ちた彼は喪失した。

間人は、まるで何かが憑いたような、熱っぽい口調で続けている。

「お兄様は、御存じですの?……その報酬に……叔父様を天皇にする報酬に………

鎌足は叔父様の第一妃を貸し与えられたのよ?だから、叔父様のご長男、有間皇子

は本当は叔父様の子ではなくて鎌足の……」

つまり、鎌足は、本当は……自分と出会うずっと以前から孝徳天皇と結んでおり、

天皇公認のうえで、その妻と寝たあげく子供まで………。

「ちょっと待て!!」

蒼白な唇が、とうとう怒鳴って遮った。

あまりに振り切れすぎて、とたんに正気に返った中大兄は素早く妹を問い詰めた。

「誰に……誰に、そんなことを聞いた?」

そうだ。きっと、それが重大な問題なのだ。

蘇我の残党が、吉野に逃げた自分の異母兄・古人皇子を新たな天皇に担ぎ上げ、

やっと鎌足と一緒に作ったばかりの新政府を、ひっくり返そうとしている。

きっと、妹は、その手の者に騙されているに違いない。

どちらにせよ、皇太子である自分と、孝徳天皇を陥れる画策だ。

「べつに……わたくしは……」

案の定、間人は、急に瞳を逸らして黙り込んだ。早急に鎌足に調べさせねばならな

い。誰が間人に嘘を吹き込んで、邪魔しているのかを。

そう心に言い聞かせると、中大兄は、ようやくいつもの彼に戻った。

「まあよい。とにかく、おまえは孝徳天皇に嫁ぐのだ」

「嫌です」

「間人……おまえ……?」

それでも頑な妹に、中大兄は、ふと思い付いて言ってみた。

「誰か他に好きな男でもいるのか?」

「………………」

また、答えがない。皇子は、ようやく原因がつかめてほっとしたように嘆息した。

「諦めろ。おまえは皇太子の妹なのだぞ?私達は普通の人間ではないのだ。気まま

な結婚など許されるはずないではないか」

「望んで……貴方の妹になったわけではございません」

「かわいそうに……。だがこれも天命だ。好きなだけ私を恨むがよい」

「わたくしは……お兄様以外のもとへは嫁ぎません」

「な…に……?」

また、聞き違ったのかと、彼は思った。意味をもう一度、頭で反芻してみる。そし

て、青ざめた。

「まさか、本気で言っているわけではあるまいな?」

「本気です」

「冗談は、よせ。何をたわけたことを言っている」

「だってお約束なされたではありませんか。いつか、わたくしを妃にして下さると

………」

「埒もない。子供の頃の話だろう?いくら親子ほども年の離れた叔父上と結ぶのが

嫌だからといって、そのような戯言を……」

「違います!わたくしは……わたくしは………本当にお兄様を……」

「間人……おまえ、まさか……」

瞳の色が、いつもと違う。

(嘘じゃない……)

中大兄は、直感でそれを察知した。先刻からの違和感の正体は、多分、これだ。

思ったとたん、声が出た。自分の声かと疑うほど、動転した声だった。

「ならぬ!異母兄妹ならまだしも……我らは父も母も同じ……兄と妹なのだぞ!!

過去にもそのような者がいて罰せられたではないか!!」

「お兄様は、わたくしの気持ちより、ご自分の地位が大切なの?!」

「ああ、そうだ。俺は約束したのだ。鎌足と一緒に……」

「嘘よ!そんなこと!!」

「なに?」

「お兄様は鎌足にだまされて利用されているだけだわ!今だって、ただの操り人形

ではありませんの?」

「黙れ!!おまえに何がわかる!!オレたち2人は……」

そこまで言って、ふと中大兄は口をつぐんだ。

どうしてつぐんでしまったのか、わからない。

ただ、追討ちをかけるように、間人の声が続いた。

「さっき申し上げたことは、すべて真実ですわ。叔父様も、お兄様も……鎌足にだ

まされて、利用されているのよ。おわかりにならないの?!あの男は……ゆくゆく

は、自分の実子、有間皇子を天皇にするつもりなのよ!!その為に………」

「だまれ!!」

乾いた音が響いた。間人の頬を、平手で打った手が痛い。手の痛みは、胸の奥まで

響いた気がした。






(5)




小角の期待に反して、まだ辺りはそこそこ明るかった。とても姿まで隠せそうにな

い。往生際の悪いためらいで、彼は馬の手綱を引いたまま、自分の屋敷の前で立ち

止まった。

「兄上!!遅うございましたね」

馬が門をくぐると、待ち構えていたような声が聞こえた。同時に、14にしては背

の高い少年が、屋敷の中から走り出てくる。

鬼神を馬から降ろすと、小角は少年に向かって、どことなく遠慮した微笑を浮かべ

た。

「小純……母上は?」

「え?もちろん奥にいらっしゃいますよ」

「……だよなぁ」

一瞬、後ろめたい顔をした小角の背を前鬼が小突いた。

「おいっんなこといーから、早く、何とかしてくれよ!!」

「わかってるって」

その様子に、小純が今さら気付いたように、少し警戒した目を向けた。

「兄上……その方は……」

一見して、普通の人間には見えない。小角は、「うん…」と言ったまま黙ってい

る。小純は険を含んだ瞳で、少しの間赤い瞳の鬼神を眺めていたが、ほとんど防衛

本能に近い、とげとげしい言い方でクギをさした。

「相変わらず……兄上のお知り合いは変わった方が多うございますね」

「いや……その……」

「なるほど。これが、最近、毎日遅くなられる理由ですか?」

「まあ、そういうことになる」

「まさか、この方とご一緒に呪術の修行でも……?」

「そぉーだぜ!」

小角が答えるより先に、前鬼が後ろから口を出した。

「おまえが、小角の弟か?」

「そうですけど……鬼神さん」

「あぁ?おめー、オレの正体、よくわかってるじゃねーか」

「あまり兄上を、変な道に引っ張り込まないで下さいね」

「はぁ?」

呆気にとられた前鬼を放って、小純は、兄の方へ突っ張った視線を向けた。

「兄上も、鬼神と遊ぶより、都のお偉方とお付き合いなさる方がよろしいですよ。

山で崖登りするより、都で贈収賄の方法でも学んで下さったほうが、僕は嬉しいで

す」

言われた小角は、苦笑いを浮かべている。困ってはぐらかすように、肩をすくめ

た。

「おまえは金とか名誉とか、そーいうのがよくよく好きだな」

「ええ。僕は兄上と違って俗人ですから。この世は、まず、お金と出世だと思って

ます」

「おまえがそんなで良かったよ。これで役家が絶えずに済む」

「何をおっしゃるのですか。……そのようなことを言って……兄上が変わってらっ

しゃるのですよ。いいですか?この役家は、兄上が家長です。お忘れにならないよ

うに!!」

「………わかっているさ」

軽く受け流すような、それでいて、本当に憂鬱なため息のような声で、小角は頷い

た。

そのやりとりを見ていた前鬼が、何か言い返そうとしたとき、軽く草を踏む音がし

て、門の陰から初老の女が姿を出した。

「母上……!!」

小純が振り向いて驚いている。滅多に外の空気を吸わない母が、いきなり屋敷の前

に出てきたことに驚いたのだ。

小角も一瞬ぎょっとしたが、すぐに軽く頭を下げて礼をとった。

「母上、ただいま帰りました」

「また、遅かったのですね」

「は……申し訳ございません」

年をとってはいるが、美しい女だ。けれど、視線が冷たい。まるで、この瞬間か

ら、母だったことを忘れてしまったような視線だった。

「それで?小角……。おまえの修行とやらは、はかどっているのですか?」

「いえ……その……」

聞かれていた。そう思うと、小角はとっさに観念したが、何と答えてよいのかわか

らずに、黙ってしまった。

呪術の話は、父が死んで以来、この家では禁句だった。もちろん、鬼神や物怪の話

も……。

小角だってそれは承知で、今まで気を使ってきたのだ。

けれど、服はボロボロでまだ着替えてもいなかったし、自身も引っ掻き傷だらけ

で、おまけに鬼神まで連れている。なんだか、言い訳のしようもないので、ただ

突っ立っている。その彼に、母は、冷酷な声で言った。

「せっかく真面目に勤めているのかと思えば……また咒術とやらで人々を惑わし、

不幸にしようというのですか」

「いえ……それは……」

「咒術など……。この賀茂氏の末裔たる役家から、妖術者など出すわけにはいきま

せん」

「それは……存じております……。ですが……」

「おまえは……父を殺しただけでは、まだ足りぬのですか?」

そのとたん、小角は、落雷にでも撃たれたような顔をした。慌てて、小純が割って

入る。さっき、兄に見せた強気と違い、明らかにうろたえていた。

「母上……いくら何でもそんな言い方は……」

「小角は……わたくしの子ではありません。おまえの兄でもありません」

「母上……でも、兄上は……」

途方に暮れたように、小純はぼそぼそつぶやいた。

「兄上は、母上そっくりですよ?顔が……」

けれど、和むかと思われた空気も

「いいえ」

の一言で破られている。裏切ったことを責めるような、冷たい口許は、崩れない。

「小角はわたくしの子ではありません。あるはずがない。そうでなければ何故、父

上を……わたくしのあのお方を殺したのです?」

「母上……そんな……」

「小純、おまえは下がっておいでなさい」

その間中、小角はずっと黙っている。金縛りにでもあったように、身動きすらしな

い。そのうちに、なんだかムカムカしてきた前鬼がまた口をはさんだ。

「おいっだまって聞いてりゃこのクソババアッ!!てめー、どっかおかしいんじゃ

ねーのか?!」

「物怪、ここには何しにおいでです?呼んだ覚えはありませんよ」

「なんだと?!誰が物怪だぁ?!」

「前鬼!!」

ようやくそこで、小角は、我に返って声を上げた。

「母上……。彼は、物怪などではありません。私の友人です」

「そうですね。昔から、おまえの連れは、いつも異形の物怪ばかり」

「こ〜の〜ババア!!」

「やめてくれ!前鬼!!」

常の彼らしくもなく大声で叫ぶと、小角は唇をかんで低頭した。

「ご無礼をお許し下さい、母上。実は私が彼にケガを負わせてしまって……それ

で、父上の宝珠をお借りしたいのです」

一瞬、瞳が動いたが、

「あれは、おまえが父上にいただいた物。好きに使えばよいでしょう。ただし」

と言った母の声はやはり冷たかった。

「その鬼を、家に入れることは許しません」

それを聞くと、小角は黙ってうつむいた。頬と額に数本、ほつれた髪が落ち、疲れ

た色をのせている。

*その3へ*

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