(24)



東西南北に正確に配置された四天王寺の西門からは、ちょうど、夕陽と一緒に海が見え

る。

難波荒陵は、高台だ。周りに何もないので、西門から見下ろすと、遠くの方に入り江が見

える。

だんだん海面に近付く橙色の丸い塊を背にして、中大兄は門をくぐった。片手には、皿を

持っている。土色のそれには、夕陽を小さくしたような柿が一つのっていた。

最近の日課で、政務が終わると、まっすぐ柿を持ってここへ来る。

宮殿から、ここへは、馬をとばすとあっという間だ。

まだ皇太子宮は仮宮状態で、多少混乱しているが、仕事には支障がない。一ヶ月ほど姿を

かくしていた彼が戻ると、一時は大騒ぎだったが、それも今は落ち着いた。おまけに無事

戻って来れたのは、皇太子に神仏の加護があったからである。と、いうことで、かえって

人徳の株が上がってしまった。

(ケガの功名と、いうやつだな)

フン…と笑って、中大兄は、柿を見つめた。

西門から正殿へは入らず、隣の太子宮へと足を向ける。側面の小さな門をくぐり、短い階

段を昇り、可愛らしい多角形の堂に入ると、声もかけずに、そのままずかずかと上がり込

んだ。

部屋の奥に、床が一つ敷いてある。

しかしそこは、もぬけのからだ。

(どこへ行ったんだ?)

その日は珍しく春めいて暖かかったが、それにしても病人がフラフラ出歩くには寒すぎ

る。心配になって、とりあえず部屋の外に出た。

(お……)

人影が見える。

中大兄は、更に奥にある渡り廊下まで行って、ようやく探していた相手を見つけた。

建物と建物をつなぐ床板の橋は、屋根がかけてあるだけで、外に渡してある。その手すり

に手をついて立ち、床を抜け出した薄い単衣のまま、鎌足が庭を眺めていた。

「そんな格好で…カゼをひくぞ。いくら小春日和でも冬は冬だ」

なるべく勢いよく、中大兄はよく通る声をかけた。血色の悪い透けるような顔色が、一瞬

こっちを見る。が、すぐ殺風景な庭に戻っている。近付いて、皇子は、自分の上着を薄い

肩にかけた。

「また、起きていたのか…」

「寝てばかりいると、本当に病人になってしまいます」

「今は病人だろう」

「違いますよ」

「また、そういう屁理屈を言う。小角も言っていただろう?おまえの体は……いくら呪力

で治しても、本当に休まないと、いつまでたっても本復しない」

「べつに。それも私です」

「今日は、ちゃんと薬は飲んだのか?」

「あんな苦いものは、口に入りません」

「知ってる。おまえにやる前に、俺が毒味したんだ」

小角が鬼神と一緒に作って、置いていった薬だ。黒い板になっているものを煮とかして、

一日六回ほど飲む。火傷にも内臓にも効くらしい。薬草を大量に煮詰めて固めていたの

を、中大兄も見たのだが、何を入れていたのかは、よく知らない。とにかく、舌が縮むほ

ど苦かった。

「だから、ほら。甘いものを持ってきてやった」

皿にのせた柿を、中大兄は、目の高さに差し上げてみせた。トロリと崩れかかった完熟の

果肉が、赤い肌をやわらかく見せている。

食べることに全く関心のない鎌足も、熟れた柿だけは口にした。

枯れ木ばかりの冬の庭を一緒に眺めながら、中大兄は、冗談じみた調子で言ってみた。

「でも、もう柿も…一番高い枝にしか残っていない。弓の上手でもなければ取れないな」

そう言いながら反応をうかがうように、チラリと横目に白い横顔へ視線を走らせる。

「おまえが教えてくれたら、俺が代わりに取ってきてやってもいいが?」

「弓の引き方など、もう忘れました」

「ケチケチするな。代わりに剣を教えてやる、と言っただろう?」

「結構です」

「おまえの呪術に、柿を落とす術はないのか?」

「ございません」

鎌足の返事は簡略だ。さすがに、中大兄もお手上げな様子でタメ息をついた。

「助かってから、ずっとそうだな」

「………」

「何を怒っているんだ」

「べつに」

「なんだか…性格の悪い女の機嫌を一生懸命とっているようだ」

「皇子……本当に、怒りますよ」

そう言いながら、実際は、怒る気力すらなさそうな、生気のない白い顔が枯れ木の枝を見

つめている。覇気のないその目は、あの時、小角と自分の前で再び開いて以来、そのまま

だ。

(まあ、確かに……)

閻魔天とのかけひきと小角の咒法のおかげで、奇蹟のように息を吹き返したものの、体の

損傷がひどすぎて回復にはずいぶん手間がかかった。

傷が治っても、もともとあった病のほうが難しかったし、何年も重ねてきた無理が体の奥

底まで侵食しているようだった。

あれから二ヶ月近く。

たて続けに起こった事件と怪異のせいで、中大兄も、さすがに疲れきっていて、すぐに都

に帰るのも面倒になり、どうせ皇太子宮も燃え自分も死んだことになっているだろうから

と、あちこちの仮宮を回っていた。その間中、鎌足のことは小角と自分が看ていたが、何

度も酷い発作を起こされては、ずいぶん驚かされて走り回ったものだ。

(それも、ともかく………一番困るのは…)

どうも、鎌足自身が蘇生したことを全く喜んでいない。難波に帰ってきてからは、誰にも

会いたくないと言うので、四天王寺の一室で療養させていた。

(まったく…何が気に入らないのやら……)

皿を欄干に置き、中大兄は深い吐息をついて、首を振った。それから、おもむろに

「では……」

とガラリと声の調子を変えてみた。

「約束通り……」

「…?」

「……海へ、行こうか?」

「え…?」

そこではじめて、鎌足の瞳が、中大兄をまともに見つめた。皇子は、片目をつぶってクス

…と笑ってみせた。




一番、昼が短くなる季節だというのに、穏やかな海だった。

鎌足が輿に乗るのを嫌がるので、肩に綿入れを何枚もかけて馬に乗せ、西門からまっすぐ

入り江に降りた。岩場のところで馬だけ残し、綿入れの背を抱くように抱えて、波の近く

まで足を運んだ。

「綺麗ですね……」

広い砂浜に立った鎌足の、剣のある瞳が、はっとしたように、ほころんでいる。

海が好きだ、と言った通り、ゆらゆら揺らめく波の光に、じっと見とれている。その唇

が、本当に久しぶりに微笑んだ。

「子供の頃は…悲しいことがあると、すぐ海を見に行きました」

「ほう?」

隣の流木に腰掛けて足を投げだし、中大兄は面白そうに口をきいた。

「行って、どうするんだ。ただ、こうやって眺めてるのか?」

小さく、鎌足は苦笑した。

「思いっきり……泣くんですよ。そうすると、海がすべての悲しいことを、遠くに持って

いってくれるんです」

「今は?……行かなくてもいいのか?せっかく近くに住んでいるのに……一度も連れて行

けと言わなかったな」

「だって、行っても…」

苦笑した唇から、小さな笑いが消えた。

「もう…泣けませんから……」

それからしばらく、鎌足は黙っていた。黙って、遠くの波間を見つめていた。

そうして、ふと、言葉を吐いた。

二ヶ月ぶりの素直な声だった。

「中大兄様……」

「ん?」

「……また私を……助けて下さったのですね…」

溜め息のような、非難のような、力ない声だ。一緒に波の光を見つめながら、中大兄はい

つも通りに答えた。

「おまえを疑ったせいで酷い目にあわせた。当然だろう」

「ほとんど、本当のことです。私は自分の野心のために御食子の長子におさまり、左大臣

に近づき右大臣に近づき…。軽皇子に近づいて、彼を天皇にすると約束し…そして、あな

たに近づいて、利用しようとした」

「でも、俺を助けてくれただろう?」

「私は……ずっと、あなたが好きでしたから」

「………で?今は、嫌いになったのか?」

「まさか」

「だったら、それでいいではないか。俺もおまえがいないと困るんだ」

「夜泣きして眠れないとでも?」

「そんなところだ」

「そうやって、冗談ばかりおっしゃる」

「俺は本気だ」

「あなたは嘘がお上手です」

「おまえにだけは、いつも本当のことを言っている」

そこでまた、血色の薄い唇が黙った。それから、じっと遠くの水平線を見つめ、呟くよう

に言った。

「でも…あなたを獄界の責苦にまで巻き込むことは出来ません」

「では、本当に、獄界を見たのか」

「痛くて怖い所ですよ?まさに地獄です。なのに、あんな約束をなさって……。私などの

ために……」

「まさか、それで怒っていたのか?」

「…………」

「やはり閻魔天など、俺があの時、斬っておけばよかった」

「あなたという方は…」

「死んだ後のことなど、その時また考える。今重要なのは、生きてる間のことだ」

「あなたは、いつも前向きですね。私には、眩しいほど……」

「おまえだって……これまで独りで、必死に生きてきたのではないか?」

そうです。と言った鎌足は、すぐに「でも…」と声を落とした。

「私の野心には……未来も夢もありませんでした。ただ復讐のために妖に心を売っただけ

です。でも、あなたは違う」

鎌足の瞳は、水平線を見つめつづけている。

ちょうど、夕陽からこぼれ落ちた金色の光が、こちらに向って架けられた橋のように海面

をさざめき渡ってくる。水面の光に足をのせると、このまま海に沈む落日に向って、まっ

すぐ歩いて行けそうな気がした。

「そんなあなたのために、私は……あのまま死ねたほうが良かった」

「………おまえ……」

「私は…もう……他人を利用して陥れることしか考えつかない人間になってしまいまし

た。誰かを殺すことだって平気で出来るんです。これからだって…ずっと。しょせん……

そういう事でしか、私は役に立ちません」

波の音だけが、辺りに広がる。

寄せては返す波は、その度に、海岸に光をまき散らしている。光は、海岸を洗ってはそこ

で、次々に消えていった。

「いいではないか。それで……」

ポツンと、中大兄が言った。

「ええ?」

驚いた瞳が、その横顔を見つめた。

「俺は……」

視線を海に向けたまま中大兄は言った。

「聖人君子のまま国造りが出来るなんて…そんなムシのいい事は考えてない。国を造るに

は、いろんなものが必要なのだ。優しさだけでなく、冷酷も策略も残酷もすべて必要なの

だ。俺は……おまえがどれだけ冷たく恐ろしい人間か知っている。そして、どれだけ淋し

くて優しいかも知っている」

「…………」

「だから、おまえでいいんだ。……なにより…」

「……?」

「……おまえがいないと、俺は、やる気が失せるんだ。おまえがいないと……国も未来も

自分の命も…すべてがどうでも良くなって……何をする力も、失くしてしまう…」

そこで、中大兄は、深呼吸した。それから強く深く、自信に満ちた声で清々しく笑って立

ち上がり、鎌足に視線を戻した。

「二人で…国を造ろう……。これまで誰も見たことのない国を……。俺達の理想の国を。

……そう、約束したのではなかったか?」

「皇…子……」

鎌足の、大きく見開いた瞳が、見つめ返している。長いまつげが、陽の色をのせ、透き通

るように光って震えた。

「おまえ…泣いてるぞ」

「……え?」

「鎌足…おまえ…泣いてるじゃないか」

「まさか…」

そう言った声が、しゃくり上げた。気がつくと、もう二度と流れないと思っていた涙が、

あとからあとから溢れてくる。視界が、光でいっぱいになり、何も見えない。

「ばか」

苦笑した腕が、その涙ごと柔らかい髪を胸に抱えた。皇太子の胸に額をつけて、いつも冷

たい白い顔が、声をあげて泣いていた。

橙色の暖かい光が、波間に煌めいている。

光は、どんどん水平線に吸い込まれ、波が濃紺に戻ってゆく。

揺れる赤い火の玉がトプンと蒼い海に浸かった。

足元に転がっていた流木を見つめて、鎌足が言った。

「やっぱり……私に剣を教えて下さい。代わりに弓を教えてさしあげます」

「なんだ?それで俺に柿を取ってこいと言うつもりか?」

「いいえ」

すっと、顔が上がった。そこには、いつもの伶俐な輝きがある。にこっと微笑んで、鎌足

が言った。

「取るのは……邪魔者の首ですよ」

クスリと、中大兄は微笑み返した。

「そうか……。そうだな、俺たちを散々な目にあわせてくれた責任をとってもらわねば

な」

「やはり……左大臣、右大臣には、両名ともに消えてもらうのが良いと思います」

「たしかに、あの大臣どもが生きていては邪魔だ。現に、こちらの身も危ないしな」

「どちらも謀反というのはなんですから……右大臣を謀反に仕立て、左大臣のほうは私が

別に考えましょう」

「ふむ…」

いつもの、鎌足だ。でも、それでいい。その彼が、自分は好きなのだ。

「よかろう」

と、中大兄は頷いた。

「それから……役小角」

鎌足は、続けて言った。

「行きがかりとはいえ、とんでもない化け物を起こしてしまったかもしれません」

「変わったヤツだったな。この一ヶ月あまり我々につきあって、ずっと世話をやいてい

た。おまえのケガも治してくれたし…。なのに恩賞は、弟に役公をつがせてくれときた。

寺を与えて出家させてやろうと言ったのに、優婆塞がいいと言う」

「その無欲さが、かえって危険かもしれません。あの力は本物です。しかも、小角の母は

葛城氏の娘」

「俺の乳母の家だ。父が通っていたとしても不思議はない。やはり、小角が俺の腹違いの

弟というのは……あながち根も葉もない噂ではないのかもしれんな」

「本人にその気がなくとも、民衆が彼を担ぎ上げるかもしれない。古人様の時のように

…」

「もし、そうなら……?」

「無論、消去します。弱点の多い化け物ですから方法はあるでしょう」

「恩をアダで返すわけだ」

「そういうことです」

白い顔が、微笑んだ。

やっぱり、鎌足は魔かもしれない。でも、美しい魔物だ、と中大兄は思った。

赤い光が、蒼い水平線に消えようとしている。

薄墨色が空を覆う前に、そっと肩を抱き寄せて、皇子は、傍らの唇に口づけた。











四月一日。

一斉に、官服が変わった。目の覚めるような新しい色彩をまとい、百官が整然と並んでい

る。その中には、新しい役公となった役小純の姿もあった。

厳粛な行事の中、前列が少しざわついている。

重要儀式の際には、必ず着用するよう義務付けられた新しい官服。ところが今日、この日

なのに、最前列の二人だけが、旧い色合いを残しているからだ。鮮やかな新しい金銀錦の

なかで、左大臣と右大臣だけが、古い官服と冠をそのまま着用している。

天皇の隣に立ちながら、中大兄が冷やかし声で笑った。

「子供でもあるまいし……ずいぶん、あからさまなことをして下さいますなぁ……。義父

上方は……」

唇を噛んで、孝徳帝は、前を睨んだままだ。それを眺めて、皇太子は、もう一度、軽く

笑った。

「やはり……私の決めた服色は…気に入りませんでしたか。これでも、ずいぶん苦心して

決めたのですが……」

「わしは、許していなかったのに。だが…おまえと鎌足の勝手にはさせぬ…」

「それは、どうも」

帝を軽い冷笑で一瞥し、中大兄は、行事が終わると、すぐに大極殿を出た。急ぎ足のま

ま、さっきまで前列寄りの末席に居た鎌足と合流する。目が合ったとたん、皇子は口を開

いた。

「見たか?あいつらを」

「ええ。明らかな、謀反行為です」

「どうする?」

「来年の三月ですね」

二人だけで一緒に歩きながら、鎌足が間髪入れずに応えた。

「来年の三月中に、決行しましょう。数日違いでほとんど同時に左右大臣が亡くなるとい

うのも、どうかと思いますが…どうせなら一緒がよろしいでしょう。年度変えで、一挙に

人事移動できます」

「ふん。それで、来年の四月一日からは、新しい大臣が就任するわけだ」

「ついでに、年号も変えましょう。『大化』は終わり、また新しい段階が始まるのだと、

この国に知らしめるために……」

「年号?」

「宮廷内の古い時代を、終わらせるのですよ。『白雉』というのは、いかがですか?どこ

かでつかまえてきた白い雉を宮廷に飛ばし、縁起の良いものが飛び込んできたと大騒ぎし

て年号を変える、というのは?」

つい、中大兄は声をたてて笑った。

「相変わらず、面白いことを考えるヤツだな。大臣たちの服を見ながら、そんなことを考

えていたのか?」

「神祇を使ってかつぐのは、民にも貴族にも平等にアピールできる、かなり有効な手段だ

と思いますけど」

鎌足は笑いもせず、真面目に言っている。中大兄は苦笑した。

「やはり、おまえが中臣の家をついで神祇伯(神官の長官)にならなかったのは、正解

だったかもな。いや?惜しかったのか。神官というのも、なかなかどうして政治が要るか

らな」

「何をおっしゃってるんです」

「誉めてるんだ。しかも、おまえは本物の神祇も使う」

「本物の神祇は……左大臣に使いましょう…」

「左大臣?」

「ええ。右大臣は、かねてからの予定通り右大臣の弟を使って、讒言させるよう仕組んで

おきます。残りの左大臣は……私が…」

「無理はするなよ?」

急に心配になった顔で、中大兄は隣の細い肩を眺めた。

「せっかく体が元に戻ったばかりなのに……」

「無理は承知ですよ。私だって命を賭けなければ、大臣に失礼にあたります。それに…

…」

「それに?」

「私たちは、新しい国を造るんですから」

鎌足が、笑っている。笑うと、氷の表情に、春の陽が射したように見える。誰かが見た

ら、驚くだろう。刃物のように鋭利で冷酷な彼が、こんな顔をすることに。

そして、その年は平穏に暮れた。

翌年の三月十七日。

鎌足は、深夜、独り、都から少し離れた小さな祠に行き、神祇を祀る祭壇をつくり始め

た。

形式にのっとり、美しく整えた壇に、鏡、幣帛、勾玉、植物などを正確に飾る。所定の場

所に所定のものを置き、すべて省略しないで秘術の形をあますところなく揃えた。

純白の神官の服に身を包み、祭壇の前に座って、目を閉じる。

壇上に置いた人形の紙には、左大臣の名が記してある。その紙に念を込め、呪を唱え、壇

の手前で小さく燃える炎を、指先の水で切った。

フッと炎が消え、空間が歪んだ。

暗闇の中。

都の一角にある、左大臣・阿倍倉梯麻呂の屋敷が見える。見えるだけでなく、神官服の足

袋はすでに、その床板を踏んでいた。

誰かに見とがめられることもなく、鎌足の体は、広間を抜け、まっすぐに阿倍麻呂の寝所

へと入った。

寝所にいくつも立ててある、油を吸った灯火が煌々と明るい。けれど鎌足が灯火のそばを

通っても、炎は少しも揺らがず、影も投じない。

音もなく、鎌足は枕辺に立ち、じっと寝顔を見つめている。かなり年はとったが、若い頃

はさぞ美丈夫だったであろうと思わせる、力強い秀麗な顔だった。

皺の深い瞼が、はっと開いた。

「鎌足……そなた……」

瞳が、驚いている。しかしそこで慌てて人を呼ぶでもなく、老齢の最高臣下は、黙って床

の上に座り直した。

「こんな夜更けに、こんな所へ……何しに参ったのだ」

「気配は消して来たのに……お目覚めでしたか」

「年をとると、眠りが浅くなる」

存外に、肝の太い顔で、阿倍麻呂は、ジロリと鎌足を睨み上げた。

「若造には、わからぬことであろうかな?」

「いえ。私も、なかなか熟睡は出来ぬタチですから」

ツラリと応え、鎌足もその場に膝を揃えて座った。

「それで?何用じゃ」

「少し……ご相談にきました」

「話すことなど、もうないと思っておったが…」

「ございますよ。事あるごとに私たちの足を引っ張るのは、もう、やめていただきたいの

です。中大兄様も、嫌がっておいでです。それで、老人には早く隠居していただけないも

のかと」

「どちらが、だ?」

フンと笑って、阿倍麻呂は鎌足を睨んだまま太い声で言った。

「鎌足、そなたこそ我らを裏切っておいて、よく言うわ」

「べつに…私は、はじめから貴男がたの味方ではありません。お味方のフリをしていただ

けです」

「何を言うか。そなたの子を、天皇にしてやろうと思うたのに。そういう約束だったはず

だ」

今度は、鎌足が突き放すように冷たく笑った。

「有間皇子ですか?あれは、私の子では、ありません。あなたの孫ではあるかもしれませ

んが」

「まったく、口の減らない。都合が悪くなると、そういう嘘を言う」

「この期に及んで、嘘など申しませんよ」

はじめて、年老いた剛胆な顔に、動揺が浮かんだ。

「まさか……?わしの娘が……あれの夫に背くはずは……」

「とんだ見損ないですね。女人をあまり侮られぬほうがいい」

冷笑を浮かべたまま、鎌足は続けた。

「いつも男は、勝手に女人を取り替える。妻さえ手軽に交換して……。政治の道具とし

て。趣味として。権力の証として。契約の誓約証として。……それでも、女人だけが、そ

うして決められた男に、おとなしく従い意のままにされて喜ぶと、お思いですか?」

「バカな!!妻が……夫を裏切るなどと……」

「べつに、不思議なことではありませんよ」

「だとしても……考えてみよ!計略に協力して、夫が天皇になったほうがよいはずだ!息

子が皇太子になれば嬉しいはずだ!!逆に陥れるようなマネをして、いったいどんな利が

あると……」

「小足媛には……そんな損得よりも、もっと大事なことが、おありだったのでしょう?」

「何を言う。女には、何もないのだ。地位も権利も価値さえも。女の価値は、連れ添う男

の価値で決まってゆく。女とは、誰の物になるかで、すべてが決まる生き物だ。自分の夫

や息子が、この国最高の地位を得ること以上に、幸せなどあるものか!!」

「さあ?それは……あなたのような男には、わからぬことかもしれませんね。でも、私に

は……わかるような気がしますよ…」

不意に浮かんだ鎌足の華奢な微笑を見つめ、左大臣は、言葉を飲んだ。油を焼く炎の音が

聞こえる。長い沈黙の後、老いた男は、諦めたように言った。

「そうだな。そうかもしれぬ」

「……………」

「そして………そなたが、中大兄に心奪われなければ、すべては上手くいった。そうは思

わぬか?」

「かもしれませんね。あなた方にとってはね」

「まったく誤算であった。手を打った時には手遅れであったわ」

いまいまし気に首を振った左大臣に、鎌足は、今度は怨むような冷たい瞳を向けた。

「そうではないかと、思っていました」

「む?」

「あなたが……間人様にわざわざ私の過去を申し上げてくれたのですね。おかげで、私は

中大兄様に憎まれて……」

「間人皇后は……実の兄に恋した不毛な女だ。女のカンというやつか……そなたに、嫉妬

しておったのだよ。おかげで、こちらの思惑通りに動いてくれた。そなたは危険な男だ。

だから皇太子とは引き離しておかねば……と思ったのに……」

「あなたのご一存ですか?」

「他に誰が知っておる?そなたのすべてを……?一緒に、この国を動かそうと、最初に

契ったのは、わしとそなたではなかったのか?」

「…………」

「だからまず、わしの娘を軽皇子に嫁がせ……軽皇子を巻き込むことで、王家を担ぎ上げ

る大義名分を作り上げた。元は他人である我々……。裏切らない絶対結束の条件は、二世

代以上に渡る血族になることだ。ただ、残念なことに軽皇子には子が出来なんだ」

「だから、そこでも私を使おうとなさったのでしょう?」

「不思議なほどいつまでも女のように美しいが……そなたも、それで若い男だ。違うか?

そして、そなたに無かったのは、正統な血筋と、高貴な政治家の氏。そうであろう?いく

ら中臣の家を継いでも、そのままでは永久に神官程度の地位を、抜けられぬ。国を手に入

れるにはほど遠い」

「…………」

「有間皇子を介して、完全にわしとそなたが血で結ばれる。だが、形式的には軽皇子の息

子だ。そこで形式と事実で、軽皇子も含め…我ら全員が血族となるはずだ。だが、それで

もまだ要素が欠けた。軽皇子には、正式な皇位継承権がなかったからだ」

「だから、私に、中大兄様を抱き込ませた。ついでに中大兄様を使って蘇我石川麻呂も血

族に引き入れた。その結果、中大兄様の意向という名目で、あなたは新政府の左大臣とな

り、軽皇子は帝になった。石川麻呂を右大臣にして……」

「中大兄は、良い材料だった。優秀な部品だ。そなたを信用し、そなたの言うままに蘇我

一族を殺し、我らを政治の最高地位へと推し上げてくれた。そして、そなたは、美しく聡

明で…何にでも使える器用な男だ。家柄が適当に低く、野心に溢れていることも含め……

これほどの逸材は、またとあるまい。ただ……失敗だったとすれば……中大兄に、そなた

を当てたことだった」

鎌足は笑った。冷めたような、なのに慈しんでいるような、不思議な笑いだった。

「私は、血のつながりなど信じない。私にとっては、誰もが、互いに陥れ、陥れられるだ

けの相手だった。でも、あの方だけです。私自身を本当に救ってくれたのは…」

「…………」

「あの方には、遠望する大きな未来がある。あなたと違って……」

「…………」

「あの方は、命を捨てて私を守って下さった。そして…私だけを……本当の私を、必要だ

と言って下さった」

「そうか…」

それまで黙っていた口許が頷き、ふと、年老いた目許が和らいだ。その古びた瞳には、言

葉では言い尽くせない、複雑な情愛めいたものが映っていた。

「それで……そなたは、やっと幸せになったのか。本当に信じる者をみつけて……」

「ええ」

「思えば………わしが一番最初に、おまえにたぶらかされたわけだ」

「……………中臣以外では…ね」

「上手く可愛がって使っていたつもりが……侮りすぎたな」

「……………」

鎌足を、まっすぐに見つめて、左大臣はふっと笑った。それまでの、すべてを込めたよう

な微笑だった。

「わしを……殺すのか?そのために参ったのであろう?神祇の術を用いて」

「………。せめて、あなたの葬儀は盛大に執り行います。あなたの地位と名誉は…最後ま

で、お守りします」

「それならば、あの皇太子と、信じる国を造ってみるがいい」

「言われずとも」

「……最期に一つ、聞いておこうか」

「何をです?」

「中大兄は……どう触れる?そなたには、優しいか?」

「ええ、とても。……阿倍の…内麻呂様……」

静かに頷いた鎌足の、華奢な両手が、皺の浮いた喉を掴んだ。






「鎌足?!おい!!しっかりしろ!!」

揺り起こされ、頬を叩かれて、鎌足は祠の中で瞳を開けた。

呪法を行っていた薄暗い小さな空間で、結界を破って入ってきた中大兄が、焦って自分を

抱き起こしている。

「驚いたぞ。いきなり祭壇の前で倒れているから……。また死んでるんじゃないかと慌て

た」

「ご心配なく。死んだのは、私じゃありません。うまくいきましたよ」

腕にぐったり抱かれたまま、鎌足は微笑んでみせた。

「では……左大臣は……」

「葬儀の準備をして下さい。何も問題はありません。屋敷から遠く離れたこの祠からでは

……やったのが私だということも、誰にもわかりませんし。ただ……呪殺は…疲れるんで

すよ。しばらくは動けないかもしれません」

祭壇の上に視線を遣りながら、努めて平然と、青ざめた唇が言った。壇上の人形の紙は、

いつの間にか燃えて、灰だけが残っている。

「大丈夫か?」

中大兄は、抱き起こした体に不安な瞳を落とした。

「何がです?」

「…そんなことをして……おまえの体は…。呪殺は失敗すると、術者が命を落とす危険な

術と言うではないか」

「左大臣殿のことは……私自身のケジメですから。あなたに対しても……」

ちょっと黙って、それから鎌足は、いつものように苦笑した。

「次は右大臣です。準備は、だいたい出来ておりますが……」

「わかってる。後は俺がやる。おまえは、ゆっくり休んでいろ」

「まちがうと…大戦になります。くれぐれも、お気をつけて……」

「ああ。任せておけ。ちゃんと自害に追い込んでやる。俺宛ての遺書も偽造した。無論、

右大臣の弟には知られぬようにな」

ニッと不敵に笑って、それから、中大兄は囁くように言った。

「何も気にするな。どんな罪も、俺が一緒にかぶる。おまえの過去も、未来も、すべて一

緒に背負うから……」

「皇子……」

ほっと、鎌足は息をつき、うなずいて目を閉じた。瞼の裏には、かき抱くように中大兄が

焼付いている。

(私は最後まで、この方の帷幄の臣でいる)

謀をめぐらし、策を練り、障害を除いて……。

地獄に堕ちても悔いなどない。この皇子は、命よりも大切な方だから。

都では、夜明けとともに、また争乱が起きようとしている。

新しい時代は、まだ始まったばかりだった。

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