(25)


「まったく……実に、よく泣いた」

我ながら感動した口振りで、中大兄は盃を傾けた。

大出涙サービスだ。と言いながら、手酌で酒を飲んでいる。後ろには、趣味よく活けら

れた春の花々が、芸術的に鎮座していた。

難波宮の近くにある、鎌足の屋敷の奥である。夜更けの屋敷は寝静まって、物音一つし

ない。毎日の朝参が早朝から始まるので、この時間帯は誰もが熟睡している。

とはいえ、入口近く、少し正面を外した所に正座している鎌足は、声を落としてたしな

めた。

「まだお妃様が亡くなられて間もないのに、お酒など召し上がって…。バレたら不謹慎

ですよ」

「バレれば、な。……いいだろう?今夜は二人だけだ。やっと全部終わったんだ。かた

いことを言うな」

ニヤリと笑って、中大兄は残りの酒を一気に煽った。

「それより、俺の芝居はどうだった?なかなか真に迫っていただろう?」

「まったく…見ているこっちが恥ずかしゅうございました」

少々呆れ顔で溜め息をついた鎌足は、それでもほっとしたように苦笑している。

この二週間、ずいぶん多くの人が死んだ。皇太子は、公言通り大立ち回りで働いた。計

略にかけ、兵をさしむけ、うまく芝居をやりおおせ。芝居は、泣きが多かった。

まず、左大臣の葬式で泣き、次に自殺した右大臣の『遺書』を見て泣き、『讒言』した

右大臣の弟を罵って泣き、最後に右大臣の娘……皇太子妃が自殺したのを見て泣いた。

そうして一段落した今、ケロリと酒を飲んでいる。

「おまえも同じくらいハデに泣けば良かったのに。スッキリするぞ?」

「芝居もあそこまでいくと芸人の域です。いっそ役者になられたらいかがです?」

「おいおい」

苦笑して、中大兄は盃を置いた。

「石川麻呂は、入鹿を殺したときの仲間だ。俺なりの追悼さ」

「ウソ泣きがですか?」

「ああ。すべてが嘘なんだから、泣きも嘘で盛大にしめくくる」

蘇我日向(そがのひむか)は、右大臣の位が転がり込んでくると信じ、喜んで兄の蘇我

石川麻呂(そがのいしかわまろ)を讒言した。海辺で行楽する中大兄を暗殺しようと

謀った、というのが罪状だが、もちろん嘘だ。中大兄は、日向に軍を与え、石川麻呂を

追い詰め山田寺で自害させておいて、財産を、すべて没収のうえ国庫に放り込んでし

まった。もちろん、一族は全員、死罪または島流し。

そうしておいて、彼は、従者にニセの遺書を読み上げさせた。

遺書には、石川麻呂の筆跡で、『皇太子様に、すべて当家の家宝を差し上げます』と記

してあった。

これを聞いた中大兄は、

『本当は、これほどまでに私を慕っていてくれたのに……日向ごときの言葉を真に受け

た私が、浅はかだった…』

と泣いてから、日向を讒言したかどで抹殺した。ちゃっかり蘇我の財産も巻き上げたう

えに、協力させた弟も消し……最後に邪魔になった石川麻呂の娘も片付けた。

もともと、石川麻呂を入鹿暗殺に巻き込むための結婚だったのだ。石川の娘…中大兄の

妻は、石川を用済として片付けた後は邪魔なだけだ。

一族が滅んでは、この先生きていても一生陽の目は見るまい、とさりげなく脅して自害

させた後、中大兄は、『父を誅殺された悲しみのあまり死んでしまった』妃のために歌

を作らせ、臣下に命じて琴の音に合わせて歌わせながら、さめざめと泣いた。

「たいしたものです」

半ば溜め息をつきながら、感心したように鎌足が言った。

「あなたが、あれほど演技派とは存じませんでした。私など足元にも及びませんね。…

……やや過剰な気もしますけど…」

「いいんだ。大袈裟くらいがちょうどいい。目的のためなら、何だってやるさ。これで

……蘇我は本家、分家ともに完全にツブした。名門、阿倍大臣も死んだ。俺たちの上に

のさばってる大きな奴らは……全部じゃないが、だいたい片付いた。あとは……」

帝が、残っている。蘇我の本家を滅ぼす時には協力した仲だが、政権をとり邪魔になっ

ては、お互い、ただの敵だ。

「まさか、帝を暗殺というわけにも、いくまいが…」

「昔、蘇我馬子が、やってますけど。天皇候補の皇子同士では当たり前のようなもので

すし。ちなみに昔、当時皇太子だった中大兄様のおじいさまを、ウチの祖父が呪殺しよ

うとして失敗してます」

「…………それは知ってる」

うーん。と考え込んでいる中大兄に、鎌足は、

「少々ワザとらしいですが……合法的にご逝去いただくこともできますけど…?」

と言ったが、やっぱり彼は腕組みしたまま悩んでいる。

それからしばらくして、急に膝をパンと打った。

「遷都…するか」

「え?」

突然の発言に、鎌足も、さすがに面喰らって目を見開いた。

「都は、移したばかりですよ?」

「だから、また飛鳥に帰ろう。帝だけ難波に置き去りにして」

「…………皇子…」

一瞬、ポカンとした鎌足は、それからいきなり笑い出した。口元に袖をあてて、ひとし

きり笑ったあと、真面目に彼は、うなずいた。

「なかなか優れたお考えです。今度は、それにいたしましょう」

国防のためにも、やはり港に首都は失敗だった。外国使節を間近に迎えるたびに、鎌足

もそう思っている。中大兄も、それは同じ考えだ。年々、朝鮮半島をはさんで、唐との

関係が急激に悪化しつつある。新羅が唐と手を組んで、百済と結んでいる日本に脅しを

かけているのだ。そのうち戦になるかもしれない。

彼らが日本に攻め込むとすれば、必ず難波の湾からやってくる。そのとき、港湾に首都

があっては、まっさきに陥落してしまう。

だが、やっと完成したばかりの宮殿を放棄して今さら飛鳥に帰るなど、帝が許すはずが

ない。

「だから、それでいこう」

得々と笑って、皇太子は、ヒジをついた机上に盃を伏せた。

その盃を片付けながら、鎌足は、少し難しい顔をした。

「でも、すぐにというわけにはいきませんよ」

「そこが、かえっていいだろう?天皇がらみは慎重なほうがいい。性急に進めても、ど

うせ後が大変だ。まずは公卿の連中をまるめこんで周りを固める。とりあえず、次の大

臣は……」

「気に入りませんが、年齢、手柄、家柄など……順番では巨勢徳陀(こせのとこだ)で

しょう。蘇我蝦夷を討ったときにも我々の軍を指揮しましたし」

「だが奴は、入鹿が山背大兄皇子を殺したときには、蘇我に従っていたぞ?」

「根っからの軍人なんですよ。誰に従うかよりも戦い自体に目的がある。現に今も、た

いした戦略もないくせに唐と開戦したがっているではありませんか。私は好きになれま

せん」

「ふむ。では、もう一人の大臣は、おまえの身内にしよう」

片付けていた白い手が、止まった。

また、面喰らっている。

「中臣は神官一族ですよ?無理がありすぎます。また私の悪い入れ知恵だと、ほかの公

卿たちに叩かれるのがオチですよ」

「父方はな。おまえの母方、大伴(おおとも)氏は蘇我がのさばる前、大臣クラスの家

だった。大伴氏を復帰させる。誰か政治屋がいるだろう?」

「皇子……」

「心配するな。俺がなんとかする。………いいんだ。少しずついくから」

「なんだか……」

と、鎌足は言って微笑んだ。

「最近、あなたがとりわけ大きく見えます」

「今までの苦労の成果、と言ってくれ」

中大兄が、冗談じみた調子で、自信ありげに笑っている。

「では、その前に…」

片付けを再開しながら、鎌足が言った。

「両大臣の死去をはじめ、随分と人死にが増えましたから…民が不安がっております。

このへんで一度、祓いの儀式をやりましょう」

「儀式?」

「適当な国司に、白い雉を献上させます」

「ああ。例の件か」

「中国の故事にならって、世にも珍しい瑞兆ということで大袈裟にやりましょう。国家

儀式で祓いをやって、年号を、白雉元年と改めます」

「……………。おまえも結構、芝居好きなんじゃないのか?」

からかっている中大兄に、鎌足は笑いながら、さらりと返した。

「政治と神の儀式は、もともと盛大な芝居なんですよ」











白雉四年。

すっかり支度を整えた後、最後に正装で、中大兄は大極殿の門をくぐった。

中に入ると、薄暗い奥に、内裏から出御した孝徳帝が待っていた。

「信じられぬことをしてくれる……」

他には誰一人臣下もいない公式広間で、ほとんど無表情に、孝徳が言った。中大兄は慇

懃に礼を返し、それからなめらかな口調で落ち着いたまま微笑した。

「遷都ですか?それとも、民と百官があなたを捨てて私に従うことがですか?」

孝徳は黙っている。大臣だった阿倍と石川が死んでから、徐々に中大兄の手の者ばかり

が政治を行い、次々に派閥をむしりとられた。

そして。

今はもう、実権がない。改革に反対していた豪族たちも、いつの間にか手なずけられ

て、中大兄に従うようになってしまった。

今となっては、天皇の位欲しさに、手を組んだことが間違いだったと思う。結局、操ら

れていたのは自分のほうだった。しばらくして彼は、

「鎌足の画策か?」

と聞いた。中大兄は、落ち着き払って笑っていた。

「一緒に考えたのですよ」

「……あの男を信用する気か」

「ええ。信頼しております」

「せいぜい気をつけるがいい。寝首をかかれぬようにな」

「御心配なく。私は、貴男のように愚かな男ではありませんので」

崩れない自負で、中大兄は笑ってみせた。

「叔父上、よろしいでしょう?鎌足は私がもらってゆきます。あなたには過ぎた臣下

だ」

「…………好きにすればよい」

疲れた顔で横を向いた孝徳に、中大兄は急に思い出したように付け足した。

「ああ。それから……間人皇后も飛鳥へ帰りたいとおっしゃっておられるのですが…」

「わしの皇后が……正妃が……なぜ、そちに従う?」

「さあ?存じませんよ。ただ、そのように私は、側近より承りましたので」

「民も臣下も妻も……何もかもわしから奪い去ってゆくつもりか……」

「叔父上には、天皇の位がございますでしょう?」

そう言って笑った中大兄は、もう一度拝礼して背を向けた。

キリリと張った、まっすぐなその背に、孝徳は繰り言のように言葉を投げた。

「わしも愚かだった。しょせんは……日嗣(ひつぎ)の位など……傀儡にすぎぬ」

目の前で、巨大な扉が、重い音とともに閉ざされた。

暗い大極殿で、一人、残された帝は考えた。

実の姉が、不安な政局の行きがかりで偶然、天皇になったことが、自分を惑わせたのか

もしれない。万に一つしかなかった皇位継承の可能性が、回ってきたと思った。そんな

時、当時、一臣下にすぎなかった阿倍麻呂が己の娘と一緒に、一人の男を連れてきたの

だ。まるで、女のように美しくて、魔障のように賢い男を…。

その、阿倍麻呂が連れてきた男が、ある夜、自分に囁いた。

『貴男を、きっと天皇におさせ申し上げましょう』

彼と阿倍麻呂の言う通りに、甥の中大兄を巻き込んだら、本当に天皇の位が転がりこん

できた。

信じられないことに、中大兄は、蘇我大臣を白昼堂々と殺してしまい、あっという間に

自分を天皇にしてしまった。

中大兄自身が天皇になることもできたのに、母である当時の天皇に奏上して、王朝史上

初の、禅譲、という形で叔父の自分を天皇にした。

指図したのは、鎌足だ。鎌足の言葉を信じて、その通りに、中大兄は、自分を天皇に

し、阿倍麻呂を左大臣に推したのだ。

確かに、鎌足が言ったように中大兄は、自分には考えられないほどの決断力と行動力を

持っていた。けれど、所詮は鎌足の言いなりに動く人形だ。そう、侮っていた。その鎌

足は自分が握っている。どうとでも騙せると、思っていた。

中大兄は、最初から新政府の改革にやっきになっていたが、そんなものに興味はなかっ

た。旧体勢を無理矢理変えてまで豪族たちの怨みを買うことなど、何も得策だとは思っ

ていなかった。

そんなことよりも、せっかく手に入れた地位を守り通すことのほうがずっと重要だ。そ

れは、阿倍麻呂も、右大臣になった石川麻呂も同じだ。

無論、鎌足だとて、そうだと思っていた。中大兄への過度な忠誠は、ただあの子供を上

手く使うための見せかけだと、思った……。

床の中で乱れる美しい体は、素直で、従順で、自分に背くとはとても思えなかった。難

波に都を移してからも、中大兄と衝突するたびに、自分と阿倍麻呂と石川麻呂が交互に

彼を呼びつけた。その時も、一生懸命言い訳をしながら、どんな責めにも、素直にされ

るままになっていた。

まさか、こんな形で裏切るとは。

あの男の言うままに信じた自分が口惜しい。いろんなものに、目がくらんだのだ。そし

て、あの男を利用して得たものを、結局すべてあの男のために失った。

何も、なくなってしまった。今日、百官は、中大兄に従って飛鳥に帰る。皇后も皇太后

も。民も来年までには飛鳥へ住居を移すだろう。出来たばかりの王宮と、自分一人を難

波に置いて……。

独り玉座に置かれた彼の背後に、ふと、気配がした。

「帝……。わたくしが残っておりましてよ」

「………おまえ……」

「あなた……。やっと私だけの者として戻っておいでですのね…」

振り向くと、第一妃が立っている。間人皇后が輿入れするまで正妃だった小足媛が、言

い尽くせないほど奇妙に充足した、残酷な笑顔を浮かべて、静かにそこに立っていた。










「退出のご挨拶はお済みですか?」

宮門の前で待っていた鎌足が、中大兄を迎えて言った。

ああ。と頷いた彼に、鎌足は落ち着かない気色を見せている。普段通りの軽い視線で、

皇太子はその顔を見返した。

「どうした?」

「いえ…あの……。孝徳帝は何と……?」

「何って何をだ?」

「何か不穏なことは……?」

「うん。特にない。簡単なイヤミだけだった」

「私のことは……?」

中大兄は、どことなく不安気な白い顔をチラと見つめて、可笑しそうに笑った。

「安心しろ」

「ええ?」

「ちゃんと、おまえのことも身請けしてきてやった」

「…………」

「これで、おまえは晴れて俺だけのものだ。ということさ」

「…………また、そういうことをおっしゃる」

「嬉しいか?」

「存じません」

背けた頬が、わずかに染まっている。くっくっと笑った皇子に、鎌足は真面目な顔色に

戻って言った。

「しかし……やはり、新都に天皇が不在、というのは何かと不都合ですよ」

「うん。そうだな。手許に玉璽がないのは、たしかに困る」

遠くの峯々を眺める瞳が、考えている。遠方に視線を投げたまま、皇子は言った。

「やはり…叔父上には早々に、退位していただくしかあるまい……」

「ですが、そうなると……次の皇位は、どうなさいますか?」

「そうだな」

中大兄が黙っているので、鎌足がやや言いにくそうに口を開いた。

「もし、中大兄様が御位におつきになりたければ、そのように……」

それは、現時点では良策ではない。そんなことはわかっているが、皇太子が望むなら謀

ろうと、鎌足は思っている。

が、それを払うように、中大兄は視線を戻し、さっぱりと答えた。

「母上にもう一度、皇位についていただこう」

「でも……」

「あんなもの、身動きがとれなくなるだけだ。新しい改革なんぞを始めると、まず批判

が天皇に向く。国が乱れれば失政だと非難を受けるし……だいいち、勝手に外出もでき

ん。おまえとも自由に会えなくなる」

「でも………よろしいのですか?」

「………日嗣の位など、しょせんは飾りだ。……叔父の受け売りだがな」

宮門を振り返った中大兄の表情は見えない。けれど、再び前を向いたのは、はっと吸い

込まれるような笑顔だった。

「俺は……傀儡ではない、真の位を手に入れる。本当に、この国を造るためのな」

ほとんど爽やかに見える、美しい風のような何かがある。

鎌足は眩しそうに微笑んだ。

「やはりあなたは……私の見込んだお方でしたね」

「だが…そうすると…」

「?」

「おまえに藤原の氏をやるのが、遅れるな」

「………ご褒美は…一番最後で結構ですよ」

真面目な顔で考え込んでいる中大兄に、鎌足はくすりと笑っている。

それからすぐに、いつもの口調に戻って言った。

「では、天皇交代の件、いつにいたしましょうか」

「民が完全に住居を移す来年。もはや、叔父に関心をはらう者はいない。もう、かまわ

ないだろう。さして騒ぎにもなるまい。叔父には退位いただく。あの世へな」

「できれば、有間さまも御一緒がよろしいと思います。いずれ、邪魔になるでしょうか

ら」

孝徳帝の第一皇子・有間皇子も片付けてしまおうと、鎌足は思っている。中大兄はつい

真顔で聞いた。

「なあ、おまえ……」

「何でしょう?」

「もし有間が……本当におまえの子だったとしても、同じことを言ったか?」

鎌足は苦笑している。それから、ええ、と頷いた。

「もし私の子なら、阿倍大臣が死んだ時点で殺しているでしょう。その存在は、阿倍大

臣と孝徳帝とのつながりにおいてのみ価値がある。それ以上は、あなたに対して無用の

疑いを生むだけ私にとってはマイナスです」

「なるほど…」

「あなたのためなら、鬼にもなります。と言うと忠節ですが……もともと私は鬼なので

すよ」

「かもしれんな」

むう、と唸った中大兄を見つめて、鎌足は口籠った。

「皇子……よろしいのですか?本当に?私でも……?」

そこではじめて、中大兄は声をたてて大きく笑った。晴れ晴れとした声で、彼は言っ

た。

「よく見ろ。俺も、とっくに鬼になってるさ」

鎌足の背を抱くように押しながら、宮門を背にして歩き出す。

歩きながら、何気ない調子で皇子は言った。

「飛鳥に着いたら……おまえに紫冠をやる」

「紫?…」

紫冠(三位)は、事実上、大臣を意味する冠位である。小紫冠が右大臣、大紫冠が左大

臣に、就任と同時に与えられる。

鎌足は、思わず立ち止まった。

「中臣の私に、大臣は無理ですよ」

「まぁな。正式には大臣じゃなくとも……紫冠を持っていれば、位のうえで大臣と同格

になる」

「でも……」

錦冠(四位)の彼は、真緋の袍を着ている。官職は内臣だが、それも奇妙な職で、皇太

子の側近のような相談役のような……朝廷史上前例のないものだ。

長いこと、そうだったのは、それしか出来なかったからである。世襲が当たり前の世界

で、中臣の神職をつがなかった鎌足に、それ以上の大臣など、ふつうなら夢のまた夢の

話だ。

むろん、中大兄が無理に推せば不可能ではないが、他の公卿たちの手前、あえて強行し

なかった。大臣とは、それだけ実績に加えて家柄など強く問われる。あからさまに贔屓

した特別人事で、嫉妬や怨みをかい他の公卿たちの心が離れることを怖れたのだ。

「しかし政治に表だって重用するには肩書きが要る。くだらぬことだが、おまえがただ

の内臣だと侮る奴が多くてな。正式な大臣は無理でも、冠位が同じなら、発言権で引け

をとらない」

「でも……私は……」

いいんだ。と中大兄は言った。

「おまえは、これまで充分すぎるほど国政に尽くしてきた。それが認められぬようでは

新しい律令国家とはいえない。………俺たちは、名実ともに、それだけの力を得たの

だ。もう、誰にも文句は言わせない」

強い、爽やかな瞳が微笑んでいる。その手が、鎌足の細い肩を正面からつかまえた。

「紫冠は、浅紫の袍だ。藤色の官服は……おまえに、よく似合う」

はじめて会ったときの顔で、中大兄が笑っている。

壮大な夢を包んだ瞳。

いろんなことを踏み越えても、やっぱり変わらなかった瞳が、じっと見つめている。

鎌足は、また、クス…と笑った。

「頼もしいお方に成長なさいましたね」

とたんに中大兄は、スネた子供みたいな顔をした。

「なんだか親に言われてるみたいだな」

「いくら努力しても、齢は追いこせないでしょう?」

「その顔で言われても、説得力に欠ける」

透けるように白い鎌足の顔は、とても二十歳以上には見えない。じっと見ていると、ま

るで彼の周りだけ時間が止まっているような不思議な気がしてくる。

話を引き戻すように、中大兄は言ってみた。

「でも、どうせもらうなら手巾よりは、紫冠のほうがいいだろう?」

手巾とは、宮が炎上した時に鎌足が持っていた中大兄の唐錦のことだ。けれど、それと

言う前に、鎌足は笑って答えた。

「あれなら今も、ここに持ってますよ?」

「…………」

「私が死んだら、墓に一緒に入れて下さい。あなたからいただいたものは、何もかも

…。そうしたら、獄界の責苦だって怖くはありませんし」

「………」

しばらく、中大兄は黙っていた。それから、明るく苦笑した。

「そんな必要ないだろう」

「皇子…?」

「獄界へは、俺も一緒に行くんだから…………。……と、言いたいところだが…」

「……?」

「あんな所へ誰が行くか。もちろん、おまえもやらない」

「でも…」

「俺たちは、あんな薄暗い地下ではなく、もっと明るくて見晴らしのいい所に行くん

だ」

「………まさか天界とか?」

「そんな所へも行かない。もっと佳い所へ行く」

「どこへ?」

「どこかな」

「……………。では、一緒にお連れ下さい」

「違うぞ。俺が連れていくんじゃない。二人で探すんだ。なければ、造る」

「…………皇子……」

ほがらかな笑みを返し、中大兄は、海を背にして歩き出している。ちょっと驚いていた

鎌足が、急いで後を追った。その白い顔には、まだ本人すら知らない、透明で美しい笑

顔が生まれている。

足元には、昇ったばかりの陽光が、朝露に映って輝いていた。

歩きながら、ふと中大兄が言った。

「飛鳥に着いたら、皇太子宮を修復せんといかんな。俺の部屋も…」

「では、修復ついでに何かおもしろい仕掛けを考えましょう」

「仕掛け?」

「とりあえず…火事が起きても最上階の人だけは、すぐ助かるように」

「……そ…。そうだな………」

海を渡ってきた穏やかな風が、二人を取り巻いている。

風は一足早く、飛鳥へ向かう峯の間へと吹き抜け、それから、そのまま澄んだ遠い上空

へと昇っていった。






(26)


その年は、やたら寒かった。

年が明けてからしばらく経つが、土に潜った生き物たちも、まだ当分目覚めそうにな

い。

(このまんまじゃ、凍っちまうぜ)

と前鬼は思ったが、今日の日の出までは、とにかくここに居ることにした。

夜明け前の凍った空気が、さっきから肌を容赦なく刺している。

辺りはまだ、身を切られるほど寒い。

それでも前鬼は、身じろきひとつしない。

山の中腹にある平らな岩に胡座をかき、組んだ足の前に両手を並べ突っ張った格好で、

じっとしている。

そこだけ少し、周りに木がない。真ん中に、まるで方角石のような六角形をした巨大な

奇岩が転がっている。その岩の上に座ると、遠くに連なる山々までが、よく見えた。

今、青味がかった空気の中に、山の輪郭がくっきり見えている。

鳥がうるさく鳴きはじめた。もうすぐ、夜が明ける。

それでも、風のほかには、何一つ動くものがない。

(また……来ねえのかな……)

前鬼は、なんとなくそう思った。

もう、何日も待っている。約束の日はとっくに過ぎた。

でも、まだあの男は現れない。

赤い瞳は、さっきから東の空ばかりを睨んでいる。

あんまり、近くの人影を探すのに疲れてしまって、とうとう、ただ明けの空だけを凝視

することに決めたのだ。

山の端が、だんだん白くなってゆく。

金色の、霞が混じり始める。

ふう。と吐いた息が、茜色に凍った。

それを合図に、山の端から光がポツンと現れる。光は、あっという間に大きくなり、や

がて丸い太陽になった。

「今日も……来ねえ……」

そこまできてようやく、岩の上で、ボソッと口が動いた。

「あんのヤロ〜〜。いったい、何日オレを待たせる気なんだ?!」

とうとうブチ切れたように、牙が、冷たい空気をがうっと噛んだ。

岩をドカッと殴ってから、鬼神は大声で怒鳴り出している。

約束の、七年目の朝はとっくに過ぎた。

あれから何度も、この岩で夜明けを迎えた。

なのに、小角は一向に姿を見せない。

「オレが………ずーっと待ってるってのに!!」

まったく、ハラがたつったらない。

前鬼は、寒い山奥に延々待たされて、怒り心頭な顔をしている。

「だいたい……前もそうだったぜ!!毎度、毎度すっぽかしやがって〜〜!!」

前もだ。

と、前鬼は思っている。

初めて、ここで会ったとき「また会おうねえ!」と言って手を振ったあの子供は、それ

以来、二度と現れなかった。

子供の頃、前鬼はよく、この不思議な形の岩に座って待っていた。向こうの茂みから、

またひょっこり、おかっぱの黒髪がのぞくのではないかと期待して。

毘沙門天の宮殿を抜け出し、勝手に人間界に降りてくるのは大変なのだ。けれど、いく

ら懲罰を科されても、この目印の六角岩に降りてきた。

どうして待つのかわからないが、とにかくまた会いたいから待っていた。

はじめて会った日。

そこの山道を、小角は泣きながら歩いていた。

小さな手の甲で、小さな顔を覆い、しゃくりあげながら枯れた蔓草をかき分け上ってき

た。その体には、人には見えない、暗い言霊(ことだま)が、たくさんまとわりついて

いた。

(あんなにいっぱい……。ガキのくせに……)

前鬼は思わず、肩や背に絡みつきながら漂う、真っ黒いモヤを見つめた。

それはみな、小角に投げつけられた、悪意と恐怖の言葉が、念になり凝り固まったもの

なのだ。

(人間の子供って、もっと大事にされると聞いたけど……)

言霊は、小さな小角には、とても重そうに見えた。それでも、冷たく重いそれを背負っ

て、たった一人で坂道を、まっすぐに上ってくるのだった。

よお。と木の上から声をかけた自分にも、小角はちっとも驚かなかった。ばかりか、呪

術を教えて欲しいと言った。とても淋しいのに、なんだか、すごく一生懸命だった。

何かが、似ている気がした。

また、会いたいと思った。

だから、ずっと待っていた。

けれど、いつも来なかった。それで、来ない小角を待っているのが、いつからか当たり

前のようになってしまった。

(なんで…オレばっかり……。……こんなの、不公平じゃねぇかよ)

時々、前鬼は、そう思った。

全然来ない相手を、なんで自分ばかりが待っていなければならないのかと悔しくなっ

た。

そうして、ようやく諦めた頃、突然、また会ってしまった。

大人になった小角は、以前のような一途さが消え、生彩を失っているように見えた。そ

れでも前鬼は、じゅうぶん嬉しかった。

また別れるなんて、全然考えていなかった。

それなのに、またいなくなった。

それでも今度は必ず来る。絶対に遅れないと、小角は言った。

だから、また待っていた。昔と同じように。

なのに……………。

「あ〜の〜クソ小角やろ〜〜!!今度は、ぜってぇ許さねえ!!!」

いきなり前鬼は、奇岩を飛び下りた。

拳を固く握り、心中、呪文を唱える。指と指の間から、煙ったような黄金色の光が現れ

ている。そうして、両手で構え、六角岩に狙いを定めた。

「こんな目印があるから、いけねーんだ!!……だから、オレが毎回毎回…惑わされて

待たされる!!」

怒鳴ると同時に、「砕けろ!!」と光を放った。

空気に、亀裂が走る。

辺りが白くなる。

粉々に砕けた、と見えた瞬間、光は四方に分散した。

「……?!だ…誰だ?!てめーら!!」

驚愕して、前鬼は飛び退った。

岩の前に、細い両手を広げ、結界をつくる美しい少年たちが並んでいる。

振り分けた長い髪を肩で束ね、同じような浄衣を身につけ、同じような顔でこっちを見

ている。

岩を守る彼らの頭上から、澄んだ声が聞こえた。

「来たれ!!十五大金剛童子よ!!」

「うわあッ」

その瞬間、前鬼の周りを15人の少年達が取り囲む。一斉に、両手を突き出し、魔障を

降伏させる法力を発した。

間一髪、攻撃を破り、囲みの外に転がり出る。

地面を転がりながら、手前の上枝を狙う。

前鬼の手の平から呪力が現れ、撃っている。

バシッと乾いた音が響き、枝が折れた。

すると。

「…………」

そこから、ふわりと影が降ってきた。

その男が地面に立つと、15人の少年たちはすうっと霞に消えている。

前鬼は、しばらく唖然としていた。それから、急にわめき出した。

「てんめ〜〜〜何しやがんだよ?!」

「あははは…どうだ?前鬼!驚いたか?」

近付いてきたその男が、楽しそうに笑っている。

「オレを殺す気かっ」

「まさか。ちゃんと手加減したさ。それとも、この程度もよけられないほど、修行をサ

ボってたのか?」

「フン。ざけんなよ!!」

叫ぶなり飛び起きて、前鬼は呪を発した。

腕にはめた瓔珞をむしりとる。人影めがけ投げつけると、美しい腕輪は、キンと光って

無数の光の散弾に変化した。

相手は驚きもせず、襲いかかる光の礫の前で、クルリ、と錫杖を回した。

目の高さで水平に構えた杖の柄が、金色に輝いている。その光に、前鬼の放った光が

次々と吸い込まれてゆく。すべて吸い尽くすと、人影も、そこから消えた。

「な……」

ギクリと前鬼が硬直している。

後ろに現れた気配が、首筋にピタリと錫杖を当てている。

「動けば首が落ちる」

懐かしい声が言った。声は、笑っている。それから彼は、シャンと鈴を振るような音を

たてて錫杖を引いた。

「元気だったか?前鬼……」

前鬼は、振り返った。

目の前で、長い黒髪が風に煽られ流れている。藤の白妙を着た小角が、錫杖と一緒に

立っている。

前鬼は、ちょっと、ぼんやりした。

「…おまえ……いったいどんな修行してきやがったんだよ?」

「天才の私が、功徳を積んで修行した成果だ。他にも色々……薬師如来様の御力を借り

て十二神将も呼び出せるし、水天、火天、風天の力も使えるし、彌勒菩薩様も千手観音

様も示現していただける……やってみせようか?」

「ヤメロって!!」

怒鳴ってから、我に返った。

「この野郎!!このうえ自慢話を聞かせる気か?!大遅刻のうえに何しやがんだ

よ?!」

「遅刻じゃないよ。日の出前から、ここに居たし」

「嘘つけ!」

「おまえが、ずっと座ってたのを、隠形使って見てたんだ。気付かなかったろ?」

「……………。約束から、何日経ってやがると思ってる」

「そうだっけ?!今日じゃなかったか?」

「違うだろぉが!だいたい、なんで黙って見てるんだよ?!」

「いや…なんとなく。おまえ見てるの、おもしろかったから」

小角は、人指し指で、頬をかいている。前鬼は、不機嫌に呟いた。

「…おめ〜…顔は前と一緒だけど……性格変わったんじゃねーのか」

「そうかな?」

「前のが、可愛げがあった」

「そうかなぁ?」

なんとなく不本意な顔をしている小角に、赤い瞳はますますイライラの募った色になっ

た。

「イキナリ攻撃しやがって、何考えてんだよ」

「あれはご愛嬌さ」

「何が愛嬌だ!」

「いや…実を言うと、焦った。おまえが岩を壊そうとするから。あのまま行ってしまう

かと思ったよ」

「行くぜ。オレは〜〜!」

「ちょっと遅れたくらいで薄情な奴だな」

「どっちがだ!!」

とうとう、前鬼は白い牙を光らせ、大声で一気にまくしたてた。

「いいか!!オレはなぁ、もう待たねえって決めたんだ!だから今度は、世界の果てま

でも、てめーを探してとっつかまえて、約束忘れてる阿呆ヅラに一発ブチ込んでやろう

と思ったんだよ!!」

「…………」

「薄情はてめーだ!オレがあの岩の上でどれだけ待ってたと思うんだ!!壊すのに、な

んで、いちいち、てめーの許可が要るんだよ!?」

「……いや……この岩には……」

困ったように、小角は小声で言った。

「私にも想い出があるんだよ。昔、時々ここに来ては、鬼神がまた現れやしないかと、

待っていたからさ……」

「……………」

それから長いこと、前鬼は黙っていた。

しばらくしてから、口をとがらせボソボソ言った。

「蔵王権現には会えたのか?」

「会ったには会った。でもねぇ。黙って消えてしまわれたから……肝心なことは、何も

わかってなくてさ」

小角は頭をかいている。

「おまえは、どうしてたんだ?天界は、大丈夫だったのか?」

「べつに…あれから何も音沙汰なしだぜ。こっちもまだ、よくわかんねーよ。オレは

色々、法具を手に入れたけど…って、盗んだんじゃねーぜ?!ちゃんと封印を解いて、

物怪や怨霊を倒して手に入れたんだ!」

「さっきの瓔珞か」

ふーん。と小角はしげしげ見ている。前鬼の腕には美しいブレスレットが、首には宝珠

を嵌め込んだネックレスが下がっていた。

ふっと小角が笑った。

素直に感心したように、彼は言った。

「おまえ、呪力が上がったんだな。驚いた」

「てめーに言われたかねーよ。……すっかり凶暴になりやがって……」

「そうかね」

「ああ」

ぶっきらぼうに怒鳴っていた声が、不意に和らいだ。牙を見せ、鬼神は本当に嬉しそう

に、ニッと笑った。

「べらぼーに強くなりやがった。それに今は、やけに嬉しそうだぜ?まるで……生き

返ったみてぇに」

「…………」

長い黒髪を艶やかに翻した顔が、笑っている。柔らかい、春の陽射しのような笑顔。そ

こは変わっていない。けれど、口許が、瞳が、以前よりもずっと鮮やかな気がした。

「まぁね。しかし、いろいろ大変だったんだよ」

小角は笑ったまま肩をすくめた。

「実際は苦労の連続ってトコかな。それなりには楽しかったと思うけど。後で話すよ」

「あれから、家には帰ったのか?」

「まさか」

少しだけ淋しそうに、小角は微笑んだ。

「いいんだ。一生許されなくとも。いろんなものを捨てて、ここまで来たんだ。もう、

何が起きても、前に進むしかないんだよ。後ろめたさや痛みを知らない人間に、誰かの

願いや心を代行したりはできないし……今はただ……」

「ただ…?」

「おまえに恥じない生き方をしたいと思っている」

「オレに〜!?」

すっとんきょうな声を上げて、前鬼はパチクリと見つめた。その肩を促して、小角は遠

くに連なる峯のほうへ、一歩踏み出した。

「葛木山に…住もうか。時々、どっかの山に修行に出たりしてさ。頼まれたら、物怪退

治やってもいいし」

「……本気で言ってんのか?」

「言っただろ。もう、後戻りはしないって」

フワリと、上空から風を呼び、小角は軽く跳んだ。

「お…おい!!待てよ!!」

慌てた前鬼の目の前で、小角は中空に浮かび、五色の雲を踏んでいる。そして白い手を

差し伸べた。

「一緒に来ないのか?前鬼?」

「そ………」

一瞬吃った鬼神が、光る雲を見上げている。それから、火照った頬に怒った声を張り上

げた。

「そいつは、オレのセリフだろーが!!」

裸足が、地面を蹴っている。鬼神が同じ雲に飛び乗ると、小角はクスリと笑って呪を唱

えた。

上空の風が冷たい。それでも、どこまでも青い空だ。陽射しが明るい。

遥か足許に広がる景色を見下ろし、小角が言った。

「都では、つい最近、皇太子殿の母上…斉明天皇が即位したらしいな。孝徳天皇は、難

波宮で亡くなったそうだ」

「オレには知ったこっちゃねーけど。要はアイツらの天下になったってことだろ?」

「また…会うかな。あの二人と」

「会うのはいいけどよ〜また、あのバカが襲ってきたらどーすんだよ!?」

「信念が違えば、戦うさ」

へーえ。と前鬼は笑った。

赤い瞳に、喜色が浮かんでいる。

小角の呪法で一緒に空を飛びながら、前鬼が言った。

「天界へは………行ってみたのか?」

「いや」

傍らを見返して、小角は歯切れ良くきっぱり応えた。

「でも、そのうち行く。必ず。そして、もっと遠いところへも」

鬼神が、ニッと笑っている。清々しく明るい陽光を映した瞳で。

風が、蒼い。

どこまでも蒼い蒼い空が、二人を包んでいる。壮大な広がりの中を、小角が鬼神を連

れ、自在に風を切って飛んでいる。

ただ空を見上げてばかりいた頃には、考えられなかったことだ。

(これは…前鬼のおかげだな…)

小角は隣を見つめた。

鬼神は、浮き立つ瞳を輝かせ、前へ前へと掴もうとしている。

彼がいなければ、たぶん、ここまで来れなかった。

鬼神は、変わらない何かで、自分をここまで引きずってきたように思う。

(まだ、わからないことは、たくさんあるけど…)

二人なら、なんでも解き明かせる気がしてくるから、とても不思議だ。

「……ってワケでまず……」

急に現実的な声で、小角が言った。

「テキトーな所に、二人で家を建てなきゃな」

「オレもやんのかよ!?」

「一緒に住むんだろ」

「面倒くせ〜オレぁ岩穴とかでいいのによ〜〜」

「終わったら、7年分の話をしよう」

「話ィ!?」

「その瓔珞や宝珠をどこから盗ってきたのか、じっくり聞かなきゃならん」

「だから盗んでねーって!!てめーこそ、どーやって千手観音なんざダマくらかしたん

だよ!?」

「人聞きの悪い。どうして私が観音様を騙すんだ。おまえじゃあるまいし」

「なッ…」

怒鳴りかけた鬼神の口が、突風に煽られ息を止めた。

「うお…寒………」

「うん。寒いな。早く降りよう」

「あ…」

牙をのぞかせた声が、気がついた。

「春が…来る……」

「まだ冬だろ?」

「今、春の匂いがした」

「………動物的だな」

「風が春だって言ったんだよ!!」

淡々とかぶった声に鬼神が喚いた。小角がそれを眺め、にっこり笑っている。

「そっか……。もう…春か……」

もうすぐ、この山々も、一面の山桜で覆い尽くされることだろう。

舞い上がる薄紅色の花弁のように、春の匂いのする風に運ばれて、二つの声は重なりな

がら葛木山の奥へと消えていった。

■完■

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