(1)


山間にぽっかり空いた、日当たりのいい小さな草原に寝転んで、小角は、空

を眺めていた。

葛木山系のさほど奥でもない場所から見える、夏の初めの真っ青な空だ。ど

うすればこんなにムラなく塗れるのかと思うほど一面の眩しい青に、まる

で、それ自体が一個の完成されたオブジェのような、立体感のある白い入道

雲がムクムクと重なっている。

(きれいだなぁ……。まるで、誰かが故意に創ったようだ)

思わずみとれながら、この青年は、切れ長の瞳を何度も瞬きさせた。

(いつか、あそこに行ってみたい)

いつの間にか、ごく自然な思いつきのように、そう思っている。

術を極めた仙人は、自在に空を飛べるのだという。

いつか、自分も飛んでみたい。

あの雲まで。空まで………。

漠然と未来を展望するみたいに、ふと、小角は思った。

「まーた、ここにいたのか?」

急に頭上から声が降ってきて、小角が、慌てて、とび起きる。いつの間に現

れたのか、目の前に、背の高い男が立っていた。美しい筋肉の張りつめた肩

に、薄い、透けるような天衣をはおり、最近寺に寄進された丈六の仁王像の

ような格好をしている。一見、若い男に見える彼は、燃えるような赤い長髪

を黄金の髪飾りで逞しい背に束ねた、鬼神だった。

「なんだ。君か」

とたんに気のぬけた顔で、小角はふたたび寝転んだ。

「なんだよ、その態度は!?オレがせっかく来てやったのに……」

大人の顔に、不思議なほど無邪気な幼い表情を浮かべながら、この鬼は気分を

害した勢いで地面を蹴った。長く鋭い爪が、草ごと土をえぐる。

しかし、小角は一向に気にとめない顔で、空を眺めている。

「君は……」

と、上を見つめたまま、小角が言った。

「鬼神だから……空を飛べるんだろ?」

「あぁ?」

聞かれた意味が解せない顔で、鬼神は小角を見下ろしたまま突っ立ってい

る。しばらくして、彼は存外、あっさり答えた。

「飛べねぇよ」

「飛べない?……だって……」

「確かに俺達は飛ぶけどよ、自分が飛んでるわけじゃねぇ。

………コレが飛ぶのさ」

彼は肩にひっかけた美しいショールをヒラヒラ振ってみせた。

「この天衣は、毘沙門天にもらったものだ。俺たち鬼神が天神に仕える証に

与えられる。コレがなけりゃ飛べねぇし、天界にも帰れない」

「じゃあ………」

「自力で飛ぶのは、もっと位の高い連中さ。菩薩とか、お前たち人間が仏っ

て呼んで拝んでやがる如来とか……せいぜい諸天……俺が仕えてる毘沙門天

とか……あんな連中なら、自在に飛べるぜ?俺たちは……」

そう言ってちょっと自嘲したように、彼は笑った。

「もともとが鬼だから……いくら修行したって空は飛べねぇよ」

「そう……か」

なぜか、自分も一緒に落胆したように、小角は黙った。しかし、

「でもよ」

とつけ足した鬼神の顔は逆に明るくなっている。彼は、小角の隣に腰を落と

すと、子供がはしゃぐように笑った。

「おめぇは、飛べるぜ?」

「え?」

「おめぇなら、一生懸命修行すれば、きっと飛べる。鬼神の俺が保証する

ぜ」

「………」

意外なことを聞いたように、小角は、思わず傍らの顔を見つめた。

宝石のように美しい赤い瞳をした鬼神は、端正な頬にくったくのない笑みを

浮かべている。一本だけ長い犬歯を唇の端からのぞかせて、彼は神々しいほ

ど無邪気に笑っていた。

「君は……本当に…赤い眼をしてるんだな」

今はじめて気付いたように、小角が言った。

「君の名は、赤眼(せきがん)っていうんだろ?」

「え?ああ?……本名はな」

「君の仲間の黄口(おうこう)という金色の鬼神が教えてくれた」

「須弥山にある毘沙門天の水精宮では、前鬼って呼ばれてる。黄口は後鬼。

俺たち鬼神は、ふつう、二鬼一組で天神の供をするから、戒名はセットでも

らうんだ」

「へぇ……。君たちは対の鬼神なのか」

「ああ。一緒に育ったから子供の頃から知ってるぜ。……って、おめぇは?

そういや、オレ、おめぇの名前、まだ聞いてねぇぞ」

急に重大な事を思い出したように、前鬼は妙に真剣な表情になった。

「いっつもよォ、聞こう聞こうとする度に、何か邪魔が入りやがる」

「そういえば、そうだったか」

小角は苦笑した。

この鬼神に初めて会ったのは、もう、15年近くも前の話だ。それから一度

も会うことなく過ぎ、ようやく再会したのが、ついこの間。

なんだか、もうずいぶん昔から知っている気がするのに、実際はそう何度も

会っているわけではない。

ここ数年、小角は都に朝参したあと、勤めの終わった午後に、よくこの草原

に来ていたが、鬼神がこんなふうに隣に座るようになったのは、たった3日

ほど前からだった。

にもかかわらず、名など、もう、どうでもいいような気がしている。

(不思議なものだ)

なにか、もっと奥深い、大切なものを共有しているから、そんなことは、ど

うでもいい。そんなふうにすら感じている。しかし、どうやら目の前のまっ

すぐな赤い瞳には、そうもいかないらしかった。

「わたしは……」

と言って小角は微笑んだ。

長い黒髪が無造作に肩に流れている。常の官吏のように、それを丁寧に結上

げて冠をかぶるでもなく、朝廷の官服を着たまま草に散らし、組んだ両腕を

枕にしながら彼は言った。

「わたしは、役小角というんだ」

「えんの、おづぬ?」

「都で、人々に賦役を課す仕事をしている中央伴造だよ。だから、役公、と

呼ばれている。もっとも、この間から…伴造とは言わないんだが……」

「えだちのきみ?なんだそりゃ?……よくわかんねぇが、中央とものみやっ

こってのは、その世界じゃ偉いんだろう?」

「………地方豪族でもないし、朝廷で権力のある臣でもないし…つまらない

下役人さ。だけど毎朝、朝廷には出仕しなきゃならない」

絹の肩をすくめて、彼は笑った。

「………小角でいいよ」

「ふーん。小角か。変わった名だな」

隣にあぐらをかいたまま、前鬼は素直にうなずいた。

が、その言葉に少し弁解するように、

「母の……」

と小角は急いでつけ加えた。

「母の夢に、ある日、見知らぬ僧侶が現れてね、この子をよろしく、と言っ

て私を置いていったんだってさ。それから間もなく身籠って生んだらしい

が、その夢のなかの私というのが……ひたいに小さな角の生えた赤ん坊だっ

たそうだ。だから、小角というんだよ」

「じゃあ、やっぱり……」

と前鬼がどことなく嬉しそうな声で笑った。

「おめぇ、人間じゃねぇんだな?その母親もホントの母親じゃねぇんだろ

う」

そのとたん小角はわずかに傷ついた顔をしたが、ほんの少しの間だけで、

「そうだな」

と言った時には、もうもとの彼に戻っている。とっくの昔に諦めて納得して

しまったように、小角は微笑した。

「そうかもしれないよ。母上は私が生まれた時から、私のことを避けておら

れるしな」

「いいじゃねぇか。べつに……」

細かい人間の都合には全く感知しない、といったふうに鬼神はちょっとバカ

にした笑いを漂わせている。

「ただの人間なんて、つまんねぇよ」

「そうかね」

「それとも、都でせこせこ宮仕えしてるのが楽しいのか?」

「まさか。わたしは役人には向かない男だ」

どことなく投げやりに言い切った白い横顔に、前鬼は軽く舌打ちすると、自

分も官服の隣に寝転んだ。

むっとするような草のにおいが二人を取り巻き、時折、とがった葉先が頬を

突く。鬼神は、横の人間につられたようにため息をついた。

「つまんねぇ顔しやがって……。この間おめぇと会ったときはよォ、ほれ、

なんとかいう皇子が大臣を殺して戦争してたじゃねぇか」

「大化の改新か?」

「あれから天皇は交代したし……人間どもは、少しは何か変わったんじゃ

ねぇのか?」

「そうだな……。天皇が変わって、大臣が変わって、法律も変わって。駅馬

も出来たし。国の制度が変わって……今まで私有していた土地や民が、全部

朝廷の物になって………でも、私にとっては同じだな」

「同じ?あれだけ人間が死んだのに、何も変わってねぇのか?」

「私の宗家の先祖は、とっくの昔に天皇家に滅ぼされて、天皇家に仕える部

民になってるから……。確かにこれまで私が所有していた下級部民もいたけど、

それも結局は、天皇のために使役すべき人達で…。今は彼等には朝廷のために

働いてもらってるが、朝廷ってのは結局のところ天皇だから…………」

「はあ?」

「ええと、だから、外見が変わっても中味は一緒ってことだよ。私のような

者にとってはね」

「ふーん」

わかったような、わからないような顔をして、前鬼は小角と一緒に空を見つ

めている。小角は続けた。

「ウチは、たかが役公で、広大な土地を持ってたわけじゃないし私有民を搾

り取って私服を肥やしてたわけでもないからさ。ただ……。地方の豪族たち

は面白くないだろうな。今まで王と名乗って、多くの民と土地を私有してた

のが、全部、取り上げられてしまうんだから」

「取り上げられる?」

「そこの稲や特産物や労働力が、全部自分の物じゃなくなって、朝廷のモノ

になったのさ。まあ、天皇のモノになったといってもいいが……。朝廷から

与えられた位はそれぞれだが、皆がわたしのような立場になったと言っても

いい。いくら代わりに、朝廷から給料が出るといっても不満は大きいだろ

う」

「もともと、人も土地も……誰のモノでもねぇじゃねぇかよ」

「それは………道理だ」

つい小角は笑った。それまでの悩みが、まるでバカバカしかったように彼は

大きく吐息をついた。

「まったく……君と話してると、人間ってものが、ひどく矮小で単純に思え

てくるよ」

「実際、みみっちい生き物だろーが」

「そうかもな。まあ、しかし、こぜましいなりに、いろいろ大変なのさ」

「色々?大変?」

「改革後、面白くないのは地方豪族だけじゃない。朝廷の権力者たちも……

そうとうたまってる様子だな。これからまた、戦になりそうな雲行きだよ」

「けッ勝手にやってろってんだ」

相変わらず、頓着しない顔で鬼神は空を向いている。

と、不意に、その彼が起き上がって小角を覗き込んだ。

「そんな人様のことは、どうでもいいけどよ……。それで、おめぇは、どー

すんだ?これから……?これからも、ずーっと、天皇とやらに仕えて一生を

送るつもりなのかよ?」

「それも、ちょっとな」

「だったら………」

「さぁねぇ…そこなんだよなぁ…。でも、自分でもよくわからないんだ。何が

できるのか。何をしたらいいのか」

空に向かって愚痴でもこぼすように、小角はため息をついた。

「んじゃ、おめぇは……どうしてぇんだよ?」

「私は……もっと、自分に力があればよいと思う。もっと皆が、飢えや貧困

や病で悲しむことがないように……何かが出来たらよいと思う……」

「だったら」

そんなの簡単じゃないかとでも言うように鬼神は笑った。

「呪術の修行すればいいじゃねぇかよ。おめぇは確かに、都で役人してたっ

て何の役にも立ちゃしねぇ。でもよ、修行すれば、ものすごい呪術者になれ

るぜ?……って前にも言っただろ?」

「家を捨てて、山にこもって、独りで修行か?」

「たまに、病気治したり、物怪退治でもしてやれば、皆喜んで食い物くらい

くれるぜ。お互い幸せで、めでたいじゃねぇか」

「あっさり言うなよ」

小角は困ったような呆れたような顔をした。

「私には……養わなくちゃならない家族がいるし……それに……呪術といっ

たって……」

「鬼神のオレを助けてくれたじゃねぇか。おめぇがいなけりゃ死ぬとこだっ

たんだぜ?人間のくせに鬼神を助ける呪術者なんてそうはいねえ」

前鬼が言っているのは、先日起こった蘇我親子暗殺騒ぎの時のことだ。しか

「偶然さ」

と言ったまま小角はふたたび空を見ている。

「あれは、君の力だ。わたしは……たまたま、そこに居合わせただけで何も

しちゃいない。君は自力でなんとかしたのを、わたしがやったと勘違いした

んだろう?」

「そんなことねえよ!!」

「だとしたって、仕方ないよ。せめて弟が成人して役公を継いでくれな

きゃ。家族ばかりか雇ってる奴婢まで飢え死にしてしまう」

「人間の成人って、いつなんだ?!」

「21歳で成人に……って話もあるが、今のところ、まあ、それに近い年令

さ。弟だったら、あと6年くらい」

「だったら、それまでに、少しずつやっときゃいいだろ!オレが付き合って

やるからよ」

「ええ?」

さすがに驚いて、黒い瞳が、空から地上に移っていた。

「なに言ってるんだ……君は」

「言った通りだぜ。オレが鍛えてやるってんだ。だから…」

「簡単に言うなって言ってるだろ!」

「ああぁっ!!うっとうしー野郎だな。おめぇはよ!何をそんなに考えるこ

とがあるんだ?」

煮え切らないやりとりに癇癪を起こしたように、気短な鬼神は怒鳴り出し

た。

「これだから人間はわかんねぇぜ!やりたきゃやる!やめたきゃやめる!!

でいいじゃねえか?!」

「鬼と違ってな、人間はそうもいかないんだ」

「バカにすんなよ、てめぇ?!オレだって、毘沙門天の奴にコキ使われてん

だからな!あの若作りのジジイに力づくで………鬼神の世界はもっと大変な

んだぜ!本当に、力がすべてなんだからよ!!」

「前鬼………。じゃ、マジメに働けよ。こんな所で人間相手に油売っててい

いのか?」

「いいわけねぇだろ。仕置き覚悟でサボってるに決まってんだろーが!!」

思わず、小角は吹き出した。

ひとしきり笑ってから彼は仏頂面の鬼神に、親が子をなだめるみたいに微笑

んだ。

「やれやれ。変わった鬼だな。おまえは……。なんだって、そんなに私を呪

術者にしたいんだ?」

「いいか?おめぇはガキの頃にオレの咒を破ったんだぜ?」

「おまえだって、子供だったじゃないか」

「オレはな、自分の才能に気付かねぇバカにはハラが立つんだよ!……それ

に………」

と言って、前鬼はわずかに勢いを陰らせた。

「今のおめぇは、ちっとも幸せそうじゃねえ。おめぇは……何かがしてぇん

だ。今やってることと全く違う何か……もっと、自分が納得できる何かを…

……!!」

「前鬼………」

「いったい、どうしたんだ?いや、どうしたいんだよ?」

真摯な赤い瞳がまっすぐ小角を刺している。その矢のような視線を逸らし

て、小角は小さくつぶやいた。

「今のままでは、私は自分の家を守れても、朝廷の官吏の一人としてもっと

多くの民を苦しめるだけだ。私は……さっきも言っただろ?本当は自分の力

で、もっと多くを幸せにしたいんだよ。それから………」

「それから?」

黒い瞳が、天を仰ぐ。妙に熱っぽい、なのに、不思議に澄んだ声が響いた。

「できればいつか、あの空に行ってみたい。あの…蒼く輝く天空の彼方に…。

あそこなら届きそうな気がする。この世では決して手に入らないものにも」

視線の向こうには、相変わらず、美しい蒼天が広がっている。






(2)


「いったい、どういうことだ」

大極殿から立ち去る回廊の道すがら、中大兄皇子は、困惑と羞恥と怒りの入

り交じった顔で、鎌足を振り返った。

その鎌足は、彼にしては珍しくうろたえた口調で中大兄を小走りに追いなが

ら、いつもは人を射るようなきつい視線を、ためらいがちに伏せている。頬

も常よりさらに白く、青ざめていた。

「申し訳もございません。私が甘うございました。これほど早く造反しよう

とは……」

「まったく……。あのタヌキ親爺どもめ。義理の父上が聞いて呆れるわ!ど

いつも、こいつも、俺の顔に泥を塗りおって!!」

広々とした庭の東に配された皇太子宮に戻ると、私室に直行した中大兄皇子

は、御簾が破れるほど跳ね上げて、乱暴に腰をおろす。脇息を膝にのせ、両

手で抱え込むと、むっつりと押し黙って、鎌足を睨んだ。

「皇子……まあ、少し落ち着かれませ」

面前に控えた鎌足は、いつもに似ない中大兄の子供っぽい仕草に、なんとな

く微笑ましいものを感じて、内心、笑いをこらえている。先程は本当に彼も

慌てていたが、今はもう、いつもの冷静な参謀に戻っていた。

「だいたい、おまえがいかんのだ。あんなバカ者の娘と俺を結婚させるか

ら!!」

「右大臣の蘇我倉山田石川麻呂ですか?しかし、彼にはその縁で、蘇我入鹿

を殺す時に協力させました」

「そうだ。確かに、功臣だ。だが、俺をないがしろにするほど図に乗って

いいわけがない。そうだろう?!」

つい半月ほど前、それまで権勢を誇っていた蘇我蝦夷と入鹿の親子を天誅の

名において抹殺し、新たな政権を発足させた。

先の天皇であり、中大兄の母である皇極女帝を、皇太后に。皇極女帝の弟で

中大兄の叔父にあたる軽皇子(かるのみこ)を新しい天皇に。そして、鎌足

の計略で中大兄の義父となった石川麻呂を右大臣に。そして左大臣には、天

皇のかねてからの第一妃の父、阿倍倉梯麻呂が定まった。

この改革には、ただの政権交代ではなく、行政の根底をくつがえし、日本の

朝廷支配を完全なものするという目的がある。対大陸の外交に備える壮大な

計画をも含んでおり、中大兄と鎌足の夢の実現への布石でもあった。

そのためにも、命令系統のうえで、一つ、重要な点がある。

それは、今までのように大臣に実権を持たせず、少し前に聖徳太子がやって

いたように、皇太子の宰相を置いておく。つまり、中大兄皇子がすべての決

定権を握るやりかただ。

新しい今上天皇、孝徳帝は、中大兄が入鹿を殺すさまを間近に見て、すっか

り恐れおののき、一時は、皇位を辞退して雲隠れ寸前だったし、石川麻呂も

終始おたおたと逃げ腰だった。

ところが。

「なにが『お若い方には、まだご無理ですゆえ』だ!!」

中大兄は、声を荒らげて、怒鳴っている。

いったん帝位につくと、孝徳天皇と左右大臣が結束し、中大兄の頭越しに、

話が進んでゆく。新しい改革案も、当面は実行引き延ばしということで、よ

うよう、前に進まない。

ついさっきも、官制を変えようとして奏上した案を百官の前で一蹴され、皇

子はすっかり頭にきていた。

「俺の面目を丸潰しにしおって!」

「ですが……たしかに皇子は、お若うございますよ」

勢いをなだめるように苦笑した鎌足をジロリと見て、皇子は膨れっ面のまま

唸った。

「おまえだって若いくせに何を言うか」

「それは、そうですが」

二十歳そこそこの中大兄は、普段は、とてもそうとは思えない落ち着き払っ

た怖さがあるのだが、今日はどうにも歳相応に見える。鎌足は、つい微笑ん

だ。

「まあ、お待ちください。これは、大きな変革なのです。一日二日で成し遂

げるようなことではなく……何十年、いえ、我々が生きているうちに完成さ

れるかどうか……。皇子はお忘れですよ。目先の制度改革ではなく、私達に

は、その先に見るものがあるのです」

「鎌足……」

その言葉でようやく我に返ったように、中大兄は、いつもの構えを取り戻し

た。

「そうであったな。俺としたことが……焦ってイライラしていたようだ」

気持ちを切り替えるように深呼吸すると、中大兄は、抱えていた脇息をわき

に置き、改めて片ひじをのせた。

その瞳は、もう、いつもの冷酷で大人びた迫力に満ちている。蘇我親子とそ

の一族を躊躇なく抹殺した時の顔で、彼は言った。

「しかし、このままではいかん。そうだろう?」

「さようにございます」

「ヤツらがつけあがっている理由は何だ?義父だからか?」

「それは、ありましょう。右大臣殿は中大兄様の義父、左大臣殿は天皇の義

父ですから。特に、左大臣殿には5年も前から、天皇の血をひくお孫様まで

おありです」

「第一妃と天皇の子……有間皇子(ありまのみこ)か。ゆくゆくは有間を天

皇に、と考えても不思議はなかろうな」

「孝徳帝には、ほかに皇子がおりませんしね」

「ふん。だから言ったのだ。臣下と縁戚になると、ロクなめにあわん、と

な」

「左様でございました。鎌足の不覚です」

「叔父上も叔父上だ。即位するまでは、皇位は俺か古人に、と言うて逃げ

回っておったクセに。これだから、年寄りは油断がならん」

「さようですね。我々もしてやられたというわけです」

「こら鎌足!悠長に言ってる場合か!おまえの言葉で、俺は右大臣の娘を

娶ったのだぞ。しかも、婚礼直前に長女が男と逃げたから次女を身替わり

に、などというナメた条件だった!おまえは女を押しつけたあげく……」

「べつに、男と逃げたわけではわけではありませんよ。あれは、右大臣の弟

君が勝手に姫を盗んで……」

ふたたび怒りだしそうな皇子を前に、鎌足は、ふと思いついて言った。

「ああ、その手がありました」

「なに?」

急ににこやかな笑顔を浮かべた鎌足に、ちょっとたじろいで、中大兄は目の

前の白い顔を見つめた。

鎌足が、こんな笑いをする時は、また何か企んでいるに違いないのだ。

「やっぱり………」

と、彼は笑顔のまま声を落とし、まるで枯れた花を活けかえるみたいに言っ

た。

「両大臣には、早急に退位していただきましょう。このままでは、何かとさ

し障りがありすぎますから」

「しかし、一度決まってしまったものは、簡単にはゆかぬ。どうするつもり

だ」

「そうですね。少しずついきましょう。まず、左大臣殿ですが……かなりの

お年ですし、最近お体を患っているといいますし……。そのうち自然に…

…」

「鎌足?」

「まあ、それで、少し早めに逝っていただいてもかまわないでしょう?」

こんな時の鎌足は、ぞっとするほど冷たい光を宿している。さすがの中大兄

も、彼に対して、底の知れない戦慄を感じることがあった。

(謀殺するのは、慣れている。殺らなけば、殺られるだけだ。俺だってそう

して生き残ったのだ。だが……)

この鎌足の謀略が、もし、自分に向けられたなら……?

ありえない構図だといいきかせながらも、どこか拭いされない疑いがある。

入鹿を殺したこの手は、殺される恐怖を知っている。

他人を謀る自分は、謀られる恐怖も知っている。

そして、なまじ鎌足と似た人種である中大兄は、それだけに、彼の怖さもよ

くわかっていた。

「どうなさいました?」

急に黙りこくった中大兄を、鎌足は、少し戸惑ったように見上げた。敏感に

空気の変化を察知して、彼は急いでつけくわえた。

「もし、皇子のお気に召さなければ、別な方法を考えます。……あくまで、

決めるのは中大兄様ですから」

「いや……」

と言って、中大兄は微笑した。

「なんでもない。先を聞かせてくれ」

鎌足が、自分を裏切るわけがない。自分だけは……

なんの根拠もない確信で、皇子は自分にいいきかせた。

「ええと……それから、右大臣殿のほうですが……」

それを知ってか知らずか、鎌足は再び淡々と言葉を継いでいる。

「右大臣の弟君を使いましょう」

「あの、自分の姪をかどわかしたヤツをか?」

「ええ。前にも言いましたが、あの二人は異母兄弟で、仲が悪い。もともと

右大臣殿は蘇我氏の出ですが、宗家の蝦夷や入鹿と仲が悪かった。この間は

そこにつけこみましたが、今度は……弟に兄を讒言させるよう仕向けましょ

う」

「そして、弟を代わりに右大臣に取り立ててやるのか?この間のように?」

「同じ失敗はいたしませんよ」

鎌足は笑った。

「今度は、一緒に始末します。だいたい………」

と彼は、まるで非難でもするようにキツい口調で言った。

「自分の出世のために兄を売るような不忠で節操のない男を、あなたのそば

に置くわけにはまいりません」

「そうか……」

どこかほっとしたように中大兄は苦笑した。

(この男も、恐れているのだ……)

謀殺する者が謀殺を恐れぬはずはない。だます者は、常にだまされることを

警戒している。

(やはり、鎌足は俺と似ている……)

そう思うことで、逆に中大兄は、目の前の男を信じ抜こうとしていた。

(俺は、鎌足だけは、絶対に裏切らない。だから……鎌足も……)

いつも誰かを裏切っているからこそ、たった一人だけでも、裏切らないでお

きたい。その同じ理屈を、若い中大兄は、知らず、相手にも求めていた。

「しかし、それは少々時間がかかります。その前にもう一つ、早急に手を

打っておかねばなりません」

「急いで……?何をだ?」

「右大臣殿も、娘を天皇に嫁がせるおつもりですよ。第二妃として……」

中大兄は渋面をつくって舌打ちした。

「つくづく、うっとうしい連中だ」

「そうおっしゃいますな。政治の基本です。そこで、こちらも、当然、基本

のテで対抗しなければなりません」

「母上でも嫁にだすのか。俺には娘など、おらぬぞ」

「いくらなんでも同母の姉上を弟君に嫁がせるわけにはいきませんよ」

可能なら本当にやりかねない顔で、鎌足は言っている。

「あなたの娘御ならもちろん最適ですが、残念ながら、おられない」

そこで、彼は黙り、中大兄が後を引き取った。

「ふむ。やはり………間人……か…」

中大兄にとって、父も母も同じ正真正銘の兄弟は二人しかいない。一人は弟

の大海人皇子(おおあまのみこ)。そして、もう一人は妹の間人皇女(はし

ひとのひめみこ)。

「臣下の身分では妃どまりだが、間人ならば皇后だ。父も母も天皇だったの

だからな」

「そうです。あなたの実の妹君が皇后に。左大臣殿の娘は第一妃。右大臣殿

の娘は第二妃。これで順序が定まります」

「年頃も身分も……俺にとっても、申し分ない組み合わせだ。母上にも御口

添え願おう。さすがに、口うるさい連中も反対できまい」

「皇后選びは、大変な問題です。後々に響くことですから」

孝徳天皇にも、早急に皇后を決めねばならない。そんなことはわかっていた

が、さすがに鎌足も言いにくかったらしい。

「俺に遠慮してるのか?おまえらしくもない」

中大兄は、もう一度苦笑した。

「それは叔父と姪では親子ほどに年の離れた夫婦になろうが……。よくある

ことではないか」

「ええ。ですが、それだけではなく………」

「わかっている」

中大兄は、かえって鎌足を労るように微笑んでみせた。

「叔父上には、いずれ……帝位を返上願わねばならぬ。俺が実権を握るため

には、やはり叔父上は邪魔なのだ。

今、蘇我親子を誅殺した俺が天皇になれば、世間は俺が天皇の位欲しさに大

臣を暗殺したと騒ぎ立てる。それでは人心をつかんで事を成らせることはで

きん。新政府発足を実感させるために、一時的に叔父上には新しい天皇に

なっていただいたが……」

「ええ。いずれ、中大兄様の母上に、もう一度天皇の位にお戻りいただくつ

もりでした」

「間人はいわば政治の道具だ。数年後には帝位を追われた没落者の妻になる

ことがわかっていて、それでも俺は言っている」

「そうですか……。それで、安心いたしました。実は……ずっと気になって

いたのですよ」

本当に安堵したように、鎌足は頷いた。

「なんだ。おまえのことだから、とっくにそんなつもりで根回ししているの

だと思っていたぞ。それとも、俺が肉親には甘いと思ったか?」

「いえ………というよりも…私が案じていたのは……」

「なんだ?」

妙に歯切れの悪い言い方に、皇子は引っ掛かった顔をした。いつもの鎌足ら

しくない。少し頬を赤らめて、しどろもどろしている。

「言いたいことがあるなら言え。俺に隠し事はするな」

「いえ。結構でございます。私の拙い思い過ごしでございました。何事もな

ければ、それでようございます」

「………?」

触れられるのをはばかるように、鎌足は急いでその話を打ち切ると、

「実はもう一つ、片付けねばならないことがあります」

と、深刻な顔で言い出した。

「実は……」

更に小声になった鎌足に、中大兄は、思わず身を乗り出した。

「なんだと?異母兄の古人皇子(ふるひとのみこ)のもとに人が集まってい

る?」

その声が、やや緊張している。

「坊主になったはずが……やっぱりな」

入鹿が殺害された後、身の危険を察知し、早々に位を捨て、出家して吉野に

こもった古人皇子は、蘇我蝦夷の妹と中大兄の父・舒明天皇との子である。

もし、蘇我親子の政治体制が続いていたとすれば、まちがいなく次の天

皇に推されていたはずだった。

「このまま何ごともなければ捨て置くつもりだったが…」

「そうは、いきますまい。新体制の反対派にとっては、格好の神輿。古人様

は、蘇我入鹿の従兄弟ですし、蘇我の残党が中心に据えたいのも当然です。

しかも、あなたの兄上ならば、あなたを廃して上にたてても不都合はありま

せん。蘇我親子を殺された怨みもありますし……クーデターついでに孝徳天

皇と中大兄様を手にかけるつもりでしょう」

「ふん。結局、俺も邪魔なわけか」

ふてくされたように、そっぽを向いた中大兄に、鎌足は息子の出世を喜んで

いるような顔で笑った。

「よいではありませんか。邪魔者扱いされるのは強者の証。蘇我の残党にし

てみれば、あなたは仇であると同時に、新政府のめざわりな皇太子というわ

けです」

「まったく……」

と肩をすくめた皇太子には、すでに不敵な笑みが宿っている。脇息にもたれ

たまま、彼は容赦のない光を映した瞳をギラリと上げた。

「古人の居る吉野に密偵を出せ。謀反者の名と計画を詳しく探り出させよ」

「は、仰せのままに」

「それから…そうだな………」

少し面倒そうに中大兄は付けたした。

「間人には……皇后の件、俺から言っておく」

「え?…あ…はい……」

そのとたん、平伏したままの鎌足の唇に、わずかに不安の色がさしたが、中

大兄は気付かなかった。

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