晩秋の空の下。

東国の山並みが一望に見渡せる中空に、二つの影がぴったり寄り添って

浮かんでいる。その一つ、役小角は自身でおこした五色の雲を踏み、は

るか下に、色とりどりの箱庭のように広がる紅葉を見下ろしながら、ま

るで独り言みたいにつぶやいた。

「大和朝廷は、ここ・・・蝦夷(朝廷のある近畿地方より北)に、もう何度

も討伐軍を送っているが・・・・・・」

上空の風が、途切れた言葉を促すように彼の腰までかかった長い髪に冷

たく吹きつける。その勢いに押され、澄んだ声が続いた。

「今年の討伐で捕らえた蝦夷の人間を、遣唐使船に乗せ、『珍しい人

間』として唐(中国)の皇帝に贈ったそうだ」

切れ長の、どこか茫洋とした穏やかな瞳をいくぶん陰らせ、長いまつげ

を伏せた口調は、批判めいた苦々しさというより、むしろ憂鬱な溜め息

に近い。

「まるで、珍獣の見世物だな」

自分の言葉を自分で引き取って、白い頬にまといつく黒い光沢を無造作

に翻し、小角はすぐ後ろにいる頭二つ分ほど高い影を振り返った。

「遣唐使の連中は、蝦夷(主に東北地方)には家屋も稲もなく悪神悪鬼

が横行し、人々は血を飲み、樹や穴に住んで、人肉さえ喰いながら生き

ていると報告したらしい」

返答は、すぐにない。ややしばらくして不機嫌な低い声音が響いた。

「田も畑も家だってあるじゃねーか」

「都の人間の勝手な憶測だ。誰も皆・・・自分達だけが高い文化を持った本

物の人間・・・正しい生き物だと思っているのさ」

「くっだらねぇ」

今度はすぐさま明朗な声が返る。燃えるような深紅の長髪を黄金の髪飾

りで逞しい背に束ねた端麗な鬼神が、髪と同じ緋色の凛とした瞳を光ら

せ、面倒臭げに唸っていた。

「人間同士の差別なんざ鬼神のオレに言わせりゃドングリの背くらべ。

バカバカしいだけだぜ」

「・・・・・・・・・それも、そうだな」

彼の、そっぽを向いたどことなく子供っぽい表情に、まるで喜んでいる

ような調子でクスリと小角が笑った。そこだけ陽の射したような、柔ら

かな優しい笑顔を浮かべ、小角は頷いたまま、南の空へと視線を移し

た。

「さあ、東国の村人に頼まれた物怪(もののけ)退治の祈祷も無事終

わったし、帰ろうか、前鬼」

 五色の雲を操る小角の一見華奢な、けれど触れてみると存外筋肉質な

肩に前鬼が手をかけたとたん、二人の体は琵琶湖の方角へ向かって凄ま

じい速度で移動しはじめる。勢いよく顔にあたる風が呼吸を塞ぎ鬼神が

苦しまぎれに見上げると、常と変わらぬ整った白い頬にぶつかった。

「もう少しゆっくり飛ぼうか?」

小角が微笑っている。前鬼は嘲笑われた気がしてプイと横を向いた。











「おや・・・なんだろう・・・・・・・・・・・・・・?!」

もうすぐ住み慣れた葛木山が見えてくるという、その時、不意に小角の

体を奇妙な感覚が貫いた。風の流れとは全く異なる、不自然な肌寒さが

体を覆う。ほとんど動物的な直感で、前鬼もまた、嫌な表情で地上を見

下ろした。

「なんだ?ありゃあ・・・・・・。気持ち悪ィな・・・」

二人の足下には怨念のような冷気が立ち込め、常人には見えない、よど

んだ渦を巻いている。積乱雲のように蓄積された冷気は、その先に広が

る近江の都全体を押し潰すように溜まっていた。

「ものすごい気だな。どうやら、しばらく離れていた間に、とんでもな

いことになっているらしい」

中空に停まったまま、やや気後れした顔で小角はじっと見下ろしてい

る。対照的に前鬼は、やけに嬉しそうな笑いを浮かべた。

「何が現れたかは知らねぇが、ただもんじゃねぇぜ」

根っからの鬼神である彼は、とかく物怪と闘って喰うことが好きだっ

た。しかし、小角は深刻な顔をしている。そしてそのまま冷気をやり過

ごすように迂回すると、数ある葛木山系の峰のなかに一軒だけぽつんと

建っている草葺き屋根へと向った。

「おい、小角・・・見ろよ」

「うん」

屋敷に近づくにつれて、門の前に、絹の官服に冠をかぶった数人がたた

ずんでいるのが小さく見える。一目でそれとわかる一団に、前鬼は再び

不機嫌になった。

「さっそく都から使いが来てるぜ」

「さすがに、禁中の陰陽師達も気がついたらしい」

「しかも・・・また奴が来てやがる」

「奴?」

「あいつだよ、アイツ!いつ見ても、いけ好かねぇ野郎だぜ」

凄んだ前鬼の視線の先に、ひときわよく映える紫冠をつけた見目の良い

男がいる。淡い色の髪を、濃い襖の肩に垂らしたその男は、集団の先頭

に立ち、てきぱきと指図していた。

「ふーん・・・。鎌足殿か・・・」

中臣鎌足。現、朝廷の事実上、最高権力者である皇太子・中大兄皇子の

側近をつとめる彼が、わざわざ足を運んでいる。

「ってことは天皇も相当、事態を重く見てるのかな」

感心したようにつぶやく小角に、前鬼が疑り深く舌打ちする。

「けッ。またなんか探りにきたんじゃねぇのか」

「それも・・・あるか」

鎌足は常々、中大兄の実弟と親密な小角や、前鬼の力を敵視している。

それが、次の皇位継承者にからんだ政治的思惑であるのは間違いない

が、もともと権力に興味の薄い彼らにとっては、ハタ迷惑な話だった。

少し離れた場所に降りて様子を覗う小角を残し、不機嫌なまま、前鬼

は、屋敷を囲む竹の垣根の隣で右往左往している集団に近づいた。

「おい!なんの用だ?てめぇら」

突然、背後から現れた赤い鬼神に、官吏達が一斉にたじろぐ。ただ一

人、全く動じるふうもなく、鎌足だけがいつもの冷え冷えとした微笑を

向け慇懃に挨拶した。

「これは・・・鬼神どの。小角どのは、今お帰りかな?」

前鬼は、むっつりと黙っている。険を含んだその視線を軽く受け流し、

鎌足は、前鬼のさらに後方に向って軽く会釈した。

「小角どの。本日は天皇の勅命にて参った。我らを貴殿の屋敷へ御通し

願いたい」

「フン。てめぇが来るのは、天皇の頼み事ん時かロクでもねぇ悪企みん

時だけだろーが!」

黙って会釈を返す小角に代わって、前鬼が聞こえがよしに唸ってみせ

る。けれど、まるで意に介さないもののように、鎌足は供を従え悠然と

門をくぐった。









「あれが、都か・・・・・・。しばらく見ぬうちに大きくなったものだ」

近江を見下す山頂に、奇妙な漆黒の神官の衣装をまとった者が立ってい

る。暗緑色にうねる髪は足元に届くほど長く、一目で常人でないのがわ

かる。見かけは、まだ若い。けれどギラギラと血走った目には、とてつ

もなく長い年月と深い憎悪が宿っており、年齢が果たして見かけ通りな

のか、わからない。しかも降積った暗い憎悪が、本来、野生的な美しさ

を備えるはずのその男の顔を、醜く歪ませていた。

「我らの血を吸って権力を手にした大和朝廷の者共が生きている。しか

も、このような繁栄を謳歌して・・・」

憎々しげに動く唇からは、時折、独言に混じって呪詛のような言霊が漏

れる。その度に、都を覆う陰と同じ冷気が立ち上った。

「氷室様」

急に音もなく、黒い神官姿の背後に純白の神官の衣装を身につけた同じ

ような年頃の青年が現れた。白い装束のせいか、彼よりも全体に印象が

柔らかい。長くまっすぐな髪をきちんと束ね、表情も冷静で人並みらし

かった。

「深月か」

氷室−ひむろ−、と呼ばれた彼は、振り返りもせず都を睨んだまま応じ

た。

「はい。東国の霊魂も熊襲(くまそ;大和朝廷に滅ぼされた九州地方の

部族)の霊魂も、皆、我らに従っております」

「やっと、その時が来たというわけか・・・」

「ええ。本当に長うございました」

「そうだ。長かった。あまり長すぎて、私の心は憎しみ以外の感情を忘

れてしまった。もう、奴等の流す血や奴等を燃やす炎しか、美しいと感

じない」

「では、あの近江の都・・・」

柔和な顔に似合わぬ、氷室とは違った残酷さを映した瞳で、深月(みつ

き)は笑った。

「・・・あれを燃やせば御心も静まり・・・さぞや美しい篝火となりましょ

う」

つられて、はじめて氷室が笑う。しかしそれは、見る者を肌寒くさせる

ような、冷たく凄惨な微笑だった。

「皇族も民衆も殺してやる。一人残らず。ここに住む者はすべて、な」









「小角どの、先日、層富県(奈良県)で落雷があったのはご存知か?」

「ええ」

庭に面した客間の上座から問う鎌足に、正面から向き合ったまま、小角

が頷く。東北に出かけていたくせに驚きもしない彼に、鎌足の側に控え

た陰陽師達は、うさん臭げに眺めている。それに気づいて、小角は少し

面倒そうな顔をした。

「確かに、ここ数日、数ヶ所で落雷がございました。それは存じており

ます。ですが、私は・・・」

「なに、勘違いしてもらっては困る。別に今日は、そなたを尋問しに来

たわけではない」

鎌足は冷たい瞳に上品な微笑をたたえ、珍しく、少し頼りなげな優しい

顔をした。

「ご承知だろうが、私の実家は代々、天皇より全国の神官を統治する官

職を賜っている。無論、私も多少の心得はあるつもりだ」

鎌足が呪術を心得ている。それは小角も気づいていた。その彼が、わざ

わざ宮廷の陰陽師を引き連れて、他意なく尋ねてきている。おそらく鎌

足にも常人には見えぬはずの、あの気が見えているのだ。小角は、いよ

いよただならぬ気がして、自然、体が強張った。

「では、やはり・・・あの奇妙な都の様子のことで?」

「うむ。たぶんそれに関係しているはずなのだが・・・実は先日その落雷

で、そこにあった土蜘蛛(つちぐも)の封印が破られたのだ」

今度はさすがに小角も驚いた。鎌足も憂鬱そうに続けている。

「で、その後、各地で次々と土蜘蛛の封印が破られている」

「各地で・・・?誰が、何のために?」

「復讐、とみるのが妥当であろうな」

「復讐ですって?」

「そなたが気づかぬはずはあるまい。あの凄まじい気は、憎悪、であろ

う?」

「しかし彼らが滅んでから、もうずいぶん経っております。いったい誰

が・・・」

その時、小角の後ろで寝転んでいた前鬼が、起き上がって面白そうに割

り込んだ。

「土グモって、なんだ?クモの物怪なのか?」

「ちがうよ」

小角は端座したまま振りかえって苦笑した。

「昔、日本の各地に住んでいた土着民の一族さ。今の天皇家が大和を統

一して朝廷を開こうとした時に、最後まで朝廷軍に従わなかった一族

だ。この近所にも神武(じんむ)天皇が封印したという彼らの塚があ

る。天皇は葛で作った網で彼らを責め殺した。だから、その辺りは葛城

というんだ」

「じゃあ封印ってな、なんだ?」

「彼らは各地に分散して住んでいたが、一ヵ所に一つずつ、世界の陰陽

を操ることのできる不思議な珠を持っていた。封印したのは、その、土

蜘蛛の長しか使えないという、不思議な力を持った珠のことだよ」

「チッなんだ、人間かよ。だったら宝珠かなんか知らねえが、それほど

大騒ぎすることもねえ」

途端につまらなそうに鬼神が再び寝転ぶ。けれど、立てた片肘を枕にし

て、彼はにやりと笑った。

「だがよ・・・。都に立ち込めてるあの怨念は、確かに人間の気じゃねぇ

ぜ?」

鎌足もうなずいた。と、それまで控えていた陰陽師達が口々に言い騒

ぐ。

「卜占には、都の滅亡と無数の陰が現れております」

「陰陽の理が崩れて季節が逆行し、今年、都では真夏に氷が降るありさ

まで」

「大唐の高僧を招いて祈祷させておりますが一向にききめがございませ

ん」

「せっかく討伐した奴らの子孫が、また徒党を組み悪事を働くのではと

天皇はいたくご心痛で・・・」

ちょうど、最後の一人が言った時だった。薄気味悪い霧が立ち込め、ぞ

くりとする寒さが、全員を襲った。

「ほぅ・・・。討伐だと?略奪と虐殺の間違いじゃないのか?」

どこからともなく、乾いた声が聞こえる。とっさに庭に飛び出した陰陽

師達が、落雷に撃たれたように一瞬で、悲鳴も上げず黒コゲになった。

残った一人が唖然と見上げた上空に、二人の人影が浮かんでいる。

「誰だ!?おまえ達は」

振り仰いで叫ぶ彼を嘲笑うように、宙に浮いた影が、ゆっくり口を開い

た。

「居勢氷室−こせのひむろ−」

「覡深月−かんなぎのみつき−」

氷室、と名乗った黒い神官姿の男が、わずかに前に出た。

「わたしが土蜘蛛の長だ。いや、そうなるはずだった、というべきか

な。和珥(わに)の坂下に住んでいた土蜘蛛の長、居勢祝(こせのはふ

り)は私の父。だが残念なことに朝廷軍に滅ぼされてしまった。九州の

熊襲や東国の民同様に・・・」

「バカバカしい!一体いつの話をしている。キサマなど生まれるずっと

以前、はるか昔のことだ」

「そう・・・昔のことだ。お前達にとってはな」

「気の違った蛮族の子孫め。熊襲も蝦夷も皇軍のありがたい教えにたて

ついて誅殺されたのだろうが?それこそ逆恨みというもの・・・」

言いかけた陰陽師が、凄まじい悲鳴とともに、またも瞬時に消し飛ぶ。

「な・・・」

呆気にとられた小角が、ようやく我に返ったように改めて庭に出た。辺

りは既に凍りつくような妖気で埋め尽くされており、真昼だというのに

空は異様な色合いの暗さに満ちている。よく見ると、それらは、一つ一

つが霊魂であり、暗い炎のような魂が、びっしりと隙間なく空を覆って

いるのだった。

「なんとも、な・・・・・・」

さすがに鎌足も青ざめている。いつも白い頬が、いっそう蒼白に変わっ

ていた。ただ前鬼だけは、面白そうに見物している。残っているのは、

もう彼ら3人だけだった。

「よく聞け。近江(当時の都)の役人」

数万とも数億とも見える魂を引き連れた氷室の声が、威圧的に降ってく

る。彼らを見上げた鎌足のほうを指し、氷室は霊魂の中心からギラつく

視線を投げつけた。

「辺境も蝦夷も、お前達が勝手に決めた言葉だ。中国(なかつくに;世

界の中心であるという意)などと自らを称し、辺境には非道な蛮族が住

んでいると、ぬかしおって」

氷室の言葉に同調するように、霊魂の炎が一斉にざわめく。それととも

に、あちこちから呪いのような声が響いた。

「我らはそこに住んでいただけだ。ただ平和に暮らしていたものを。お

前達は肥沃な壌土欲しさに王化と称して攻め込んできたのだ」

「ヤマトタケルが神人で英雄だ?笑わせるな!女のなりをして我が王に

近づき、あさましくも色香で惑わし、しなだれかかり、殺したくせ

に!」

「奴だけじゃない。勝利した官軍はすべてそうだった。卑怯な策を弄し

て騙し討ちにしたのだ」

「友好と偽って賜物を広げ、酒に酔わせ宴の席で皆殺しにした。投降し

た者達も皆殺された」

強い怨恨のこもった悲鳴が、普通の人間なら聞いただけで発狂しそうな

ほど、いくつもいくつも重なって響き渡る。

しかし指された鎌足は蒼白になりながらも、案外に平静な声で答えた。

「そなたらの申し分、事実には相違あるまい。だが、統一国家の建国と

は概してそうしたもの。より飛躍的な発展のためには淘汰も仕方のない

ことだ。そうやって、国家は進化してきた。お前達の淘汰など遠い過去

に終わったこと。今更それがどうしたというのだ?」

「終わってなどいない!」

落雷が、起こった。鎌足の姿が消し飛んだ、と見えた瞬間、鋭い金色の

光が一閃する。鎌足が目を開くと、目の前で小角が印を結び真言を唱え

て結界を張っていた。

「そなた、やはり変わっている」

結界の中で、呆れたように鎌足が笑た。そして、なぜか急にいい機会だ

とでも思い付いたように、こんなことを言った。

「そなた、本当は知っているのだろう?」

「何をです?」

「一言主大神といったか。あの巨きな黒い鬼神をけしかけ、そなたらを

殺そうとしたのは、実はこの私だ」

小角は黙っている。そして、おもむろに頷いた。

「では、なぜ助ける?」

「あなたこそ、何故このような危険なマネをなさいます?」

呪力で防御を保ちながら、小角が逆に聞く。鎌足は、もう一度笑った。

しかし今度は微妙な柔らかさが含まれている。まるで心底信頼している

かのような響きで彼は言った。

「さて。そなたが助けてくれると踏んでいたからかな?」

「鎌足どの・・・」

意外な顔で、小角が思わず振り向く。それをどうとっているのか、鎌足

は相変わらず優雅に微笑んでいる。

「ついでに、もう一つ話があるのだが」

「・・・・・・・・・・・・?」

「こやつらを、なんとかしてもらえぬか。実は勅命とは、そのことだ。

途中で邪魔が入って話の腰を折られたが・・・」

「彼らを、私に殺せ、と?」

「殺す、というのは当たらない。それを言うなら浄化であろう。彼らは

既に死んでいるはずの人間なのだから」

光が弾け、辺りが再び静まり返る。小角の背に向い、もう一度、念を押

すように鎌足は言った。

「彼らを滅せよ。それが彼らのためでもある。そなたもわかっているは

ずだ。あれは、数百年も前に死んだはずの者達。既に人間ではない」

「しかし・・・」

身構えたまま、小角はどこか苦しそうに答える。

「そうさせてしまったのは、一体誰です?」


再び、青白い光の亀裂が走り、落雷が起こる。氷室は頭上から鎌足を指

し嘲った。

「淘汰の意味するものが、強い者だけが生き残るということならば、そ

れでもよい。それが人間のためだというのなら、そうしてやる。同じ理

で今度は、貴様らが滅ぶがよい」

裂けた木々から、あちこちで赤い炎が上がる。鎌足を地上に置いたま

ま、小角はとうとう宙に飛び上がった。

「なんだ、キサマは・・・?」

目の高さが同じになった彼を、氷室が初めて驚愕したように見つめる。

真っ直ぐ視線を返しながら、小角は静かに言った。

「もう、よさないか」

「なに?」

「今、この地に住む人々は、かつて君の一族を滅ぼした連中とは、ほと

んどなんの関係もない。そんな人々を見境なく虐殺して、それで君は報

われるとでもいうのか?」

「きさまに・・・」

氷室の体が蒼く光った。

「きさまに何がわかる!!」

閃光が、空を切り裂く。天から地まで、巨大な柱のような青白い光が一

直線に伸びる。光の中で、二つの呪力がぶつかり合い、地鳴りが轟き、

空気がビリビリゆれた。

しかし、撃ち込まれる妖気を受け止めながら、小角はなんとか説得しよ

うとする。見て来たばかりの東国の美しい光景が浮かぶと、何故かどう

しても、そうしなければいけない気がした。

「こんなことをして、君は本当に満足なのか?」

「そうとも。長年望んだことだ。その為に唐に渡り、術を身につけ、魂

を売り、気の遠くなるほどの年月を経て帰ってきたのだ」

「なぜ・・・・・・」

「憎いからだ!我らを由なく皆殺しにした奴等が!いや・・・もはや生きて

いる人間すべてが!!奴等は我らを蛮族だと言った。人を喰い、血を飲

む種族だと。だから奴等が言った通りになってやったのだ」

「だから、その力で人を殺すのか?」

「ああ。殺してやったぞ。数え切れぬほどの仇をな。我らを殺めた者の

子孫など真っ先に血祭りにしてやった」

「では、一応の復讐は遂げたのだろう?」

「・・・・・・・・・・・・だから、どうした?」

「それにしては、少しも幸せそうじゃない」

ふと、妖力が止んだ。困惑したような氷室の顔が闇に浮かぶ。小角は静

かに続けた。

「君の怒りや憎しみは・・・君が一族を愛していたからだ。本当は・・・君

は、人間が好きなんじゃないのか?誰も傷つけたくないんじゃないの

か?」

「人間など・・・」

氷室の、うつむいた唇が冷たく震える。突然、彼は暴発したように叫ん

だ。

「人間に生き残る価値などない!所詮、どいつもこいつも自分だけが世

界の中心にいると自惚れているにすぎぬ!」

今度は小角が黙る番だった。氷室は、勝ち誇ったように笑った。

「いや・・・自惚れていたいのかな?生きるために真実と己を偽ってま

で。・・・キサマも、そうだろう?お為ごかしの偽善者め!」

小角が、わずかに動揺する。その瞬間、青い光が煌き、何かが体を貫い

た。

小角は、ずっと氷室の曇った瞳を見ていた。今まで見たどんな瞳よりも

悲痛な色をしている。だから、油断した。

(自業自得、か・・・)

思ったとたん、力が抜けた。

「小角?!」

前鬼の視界に、白い布のようなものが、かなりの高さから落下するのが

みえる。それまで腕組みしたまま成り行きを見物していた彼は慌てて滑

り込み、すんでのところで、落ちてきた体を受け止めた。同時に、二人

を稲妻が直撃し、爆音とともに地面をえぐる。砂が舞い上がり、辺りが

白く煙った。

「ほぅ・・・」

感心したように、氷室が地上を見下ろす。晴れた場所に、人間をかばっ

て腕を犠牲にした鬼神がいる。片腕が完全に炭化していた。

「チッ・・・・・・ってぇ」

怒りで真紅の瞳を輝かせながら牙を鳴らす彼に、氷室はもう一度手を振

り上げた。

「邪魔をするなら、おまえも死ね」

「?!」

しかし意外にも、狙いが、わずかに外れた。

「氷室様!」

深月が驚いて氷室を支える。見ると、氷室の手が、何かに射抜かれてい

た。

「誰だ!?」

これまでとは、異なる気配を感じる。もう一人、別の者が加わったのが

わかる。しかし、深月が辺りを見回した時、そこにはもう誰の姿もな

かった。

「逃がしたか」

いまいましげに舌打ちした深月は、しかしすぐに傍らに視線を戻した。

「申し訳ございません。お怪我は・・・?」

「大丈夫だ。だが・・・」

氷室は、黒ずんだ傷を押さえてうめいた。

「何者なのだ?奴ら・・・。初めの2人はともかく、あとの1人は人間では

なかった。そして今の奴も・・・」

「鬼神、でしょう。恐らく」

「鬼神?」

「あの場にいたのは、都の人間が一人、人間の呪術者が一人、それに護

法鬼神が二人です」

「なるほど。おもしろい」

氷室は不敵に笑った。

「幽鬼になった人間と、人間に仕える鬼か。果たしてどちらが強いか

な?」

「氷室様・・・では、近江はいかがいたします?」

「鬼神どもを倒してからで十分であろう」

「さきほどの役人は、今の隙に乗じて逃げたようですが・・・追います

か?」

「放っておけ。我らの怨みを朝廷に伝える証人を、一人ぐらいは生かし

て返さねばならぬ」

「しかし・・・あの男は・・・あの時、神武に従っていた侍臣、天種子命(あ

まのたねのみこと)の子孫です」

「フン。どうせ、いずれは始末する。神武の子孫と一緒にな」

そう言うと、氷室は自分の胸をつかんだ。不思議にも長い爪は、体を透

過し、皮膚をくぐり体内に入る。そしてそこから、にぎりこぶしほどの

水晶玉のような宝珠を一つ取り出した。

「鬼神ごとき・・・この珠一つで十分だ」

彼は、赤く輝くその珠を撫で不吉な笑みを浮かべる。珠の色を映して、

彼の瞳もまた赤黒く輝いていた。











「余計な真似しやがって」

ふてくされたように、前鬼が向こうを向いている。彼を連れて空を飛び

ながら、金の髪を風に流す、前鬼よりも一回り華奢な鬼神が、大人びた

笑顔でクスクス笑った。

「まあ、たまにはいいじゃありませんか。ボクがあなたを助けてあげる

のも」

「頼んでねぇよ。・・・・・・にしても後鬼、おめぇ、いつの間に空を・・・」

「天の羽衣です。吉祥天さまに借りたんですよ」

後鬼、と呼ばれた金色の目と髪を持つ護法鬼神は、風に乗って彼らを運

んでいる、透けるような薄いショールをバタバタと振ってみせた。

「吉祥天?ああ毘沙門天の奥方か」

「まとっていればそこそこ飛べます。小角様ほどじゃありませんがね」

そう言いながら後鬼は、前鬼に抱えられ気を失っている小角に、気づか

わしげな視線を落とした。





「来てみて良かった。この異様な妖気、ただごとじゃないと思って」

大峰山の中腹に建つ粗末な寺の中に暖をとり、乾いた藁布団の上で小角

の傷を癒しながら、後鬼はほっとしたように言っている。後鬼の呪力で

回復した傷を眺め、横になったまま、小角はようやく笑顔を浮かべた。

「ありがとう。おかげで命拾いした」

しかし、起き上がろうとして、小さくうめく。倒れかけた体を、後鬼は

慌てて支えた。

「まだ動いてはいけません。かなりの深手です。もう少しで手遅れにな

るところでした」

「チッ、ったく何やってやがんだよ?戦いの真っ最中にいきなり気ィ抜

きやがって。殺されてえのか?」

今にも怒鳴り出しそうな口調で、前鬼が言う。彼はさっきから恐ろしく

不機嫌な顔で、部屋の隅にある、かまどの火を焚きつけていた。

「すまない。不覚だった」

小角は素直に謝った。前鬼の片腕は、もう使い物にならないほど無惨な

様子で力なく下がっている。

「ちょっと、こっちに来てくれないか?」

呼ばれると、前鬼は不機嫌なまま、それでも近くにやってきた。

「手を、見せてごらん。・・・・・・ちがうよ。そっちじゃない」

わざと反対の手を出す前鬼に、小角は思わず苦笑した。

「いいから見せてごらん。私なら大丈夫だ」

後鬼に上半身を支えてもらうと、彼は前鬼の傷んだ腕をとり、陀羅尼

(だらに)のうちの寿量品を唱えた。

小角には呪術者のなかでも、特に不思議な力がある。鬼神の傷を癒すの

も、その一つだ。自分以外のあらゆる生命に有効なその咒法は高位の修

行者ならよく使う。それでも、天界出身の鬼神まで治せる人間はそうい

ない。

不思議な光が漂い、それとともに再生不能に見えた腕が、元通りになっ

てゆく。

前鬼は、何度感じても不思議に安らぐ温かなこの気に包まれるのが、好

きだった。とっくに麻痺してしまった激痛が気持ちのいい何かに変わっ

てゆく、その瞬間が好きだった。しかし、他人を回復させる咒は、代わ

りに咒禁師の体力を奪う。完治させると同時に、小角は再び昏倒しそう

になった。

「小角さま!やめて下さいよ、もう・・・。これ以上は命にかかわります」

ほかに仕方がないから黙っていたが、後鬼はずっとハラハラしている。

彼はもともと結界を張ったり傷を治したりするのは得意だったが、その

力は、人間と自分自身に限られていた。前鬼の傷も急がなければならな

いのはわかっているが、彼には治せない。どちらも彼には大事だし、心

配には変わりなかった。けれど、前鬼は仏頂面のまま知らん顔してい

る。そして、元通りになった手を試しに二、三度動かすと、その手でい

きなり小角の襟首をつかまえた。

「なにをするんですか、前鬼!?」

「てめぇはだまってろ!」

驚く後鬼を怒鳴りつけ、息も絶え絶えな小角の首を引きずり上げる。赤

い瞳をくっつくほど間近に寄せて、前鬼は低い声でうなるように言っ

た。

「なんで、手ェ抜きやがった?あんな戦い方じゃ、次は死ぬぜ」

「・・・・・・戦いにくい」

やっと答えて、小角は前鬼の手をとめる。そして息を整えると、ようや

く言った。

「大化の改新で焼失してしまったが、昔、蘇我親子が持っていた朝廷の

記録を読んだことがある。氷室の言い分は正しい。大和朝廷が支配権を

握ったのは暴力によってだ。多くの悲惨な血を流し謀を用いた上に今が

ある。だったら、悪いのは朝廷軍だろう?」

「ふざけるなよ?相手は敵だろ?」

「あれは・・・魂だ」

「魂?」

「彼らは・・・昔殺された土蜘蛛の子孫じゃない。当時の本人たちなんだ

よ。怨念だけで人の形を保った霊魂のかけらだ。強い念の酷使で、もう

ほとんど転生する力も残っていない。あれを浄化してしまったら、その

まま消滅してしまう」

「ああ、そうかよ。よくわかったぜ。なら、戦う気がねぇなら初めから

よせ!」

「前鬼・・・」

「このままほっときゃいいぜ。どうせオレは都の連中がどうなろうが

知ったことじゃねーんだ。ただ・・・てめぇが行きたがるから付き合って

やってるだけだぜ。だがな、ハンパな気分で行くならご免だ。どうせ殺

されるだけだからよ。心中にまで付き合ってられるか!」

一気にそれだけまくしたてると、前鬼はつかんでいた襟を放り出し、そ

のままフイと外に出てしまった。

「大丈夫ですか?」

床に突っ伏して咳き込んでいる背を、後鬼は困ったようにさする。突っ

伏したまま、小角は咳き込みすぎて潤んだ目を瞬かせ、前鬼が出ていっ

た入り口の辺りを見つめた。

「なんか・・・ あいつ、怒ってるな」

「前鬼も心配してるんですよ。小角様を」

「そうかね・・・・・・」

やっと自分で起き上がり、小角は改めて後鬼に聞いた。

「ところで、鎌足どのはどうした?まさか・・・・・・」

「大丈夫ですよ。ボクが確認しました。とばっちりをくってだいぶケガ

をしたようですが・・・。小角さまほどじゃありません。ちゃんと自力で都

に帰りましたよ」

「そうか・・・・・・良かった」

本当に安堵したように、小角が息をつく。それを見ながら、後鬼はやや

厳しい口調で言った。

「敵でも助ける、それが小角さまの良いところです」

「後鬼・・・・・・」

「でも今度ばかりはそれが裏目に出そうですね。少しは前鬼や、あの二

人を見習うべきでは?」

あの二人。後鬼は、都の中大兄と鎌足のことを言っている。





「鎌足!鎌足!!」

床板をぶち抜くような勢いで大股に東宮の廊下を歩きながら、中大兄皇

子が叫んでいる。まだ遠くから、それが徐々に近づいてくるのを知っ

て、鎌足は吹き出しそうになった。

「無事か!?」

蔀を跳ね上げて寝所に飛び込んできた皇子は、いつもの優美な立居のか

けらもない。取り乱したあまり、すっかり見苦しくなったその有様は、

もし後宮の女官達が目撃したら百年の恋も冷めそうだった。

「中大兄さま・・・。そんなに大声を出さずとも・・・。たいしたことはござ

いませんよ」

白い単衣の肩に朝賀に着るはずの大袖をかけて、絹の床に上半身を起こ

し、鎌足は微笑しながら迎える。けれど中大兄は息をきらしたまま、咎

めるように言った。

「どこがたいしたことないのだ。生きて戻ってきたのは、そなただけだ

そうではないか。しばらくは動けぬケガだと聞いているぞ」

「お恥ずかしい。油断して足を挫いただけです」

「おまえは常に冷静で正確な男だが、自分に関する報告だけは、さっぱ

りアテにならん。やはり、おまえをあんな所にやるのではなかった」

「でも、天皇の勅命でございました」

「母上は、小角にはおまえが適任だと思っておられる。確かに、あの妙

な結界だらけの山中に迷わず行ける者はそうおらぬ。都で任官している

者では、おまえだけだろう」

「それはまちがってはおりません」

「まちがいでもいい!いいか、俺の許可なく、今後二度とあのような野

蛮で物騒な場所に行ってはならん。おまえの体は、おまえだけの物では

ないのだ」

「仰せとあらば・・・そういたします」

いつも冷血で恐れられている中大兄が、自分のために動転している。鎌

足は嬉しかったが、皇子の言葉を素直に認めるのも、かえって図々しく

不忠な気がして、ただ黙って頭を下げた。

「とにかく・・・戻ってくれて、良かった」

言うだけ言うと、やっと安堵したように皇子は側に寄り、大袖ごと肩を

抱いて床に臥せさせる。武芸で鍛えた彼よりも鎌足の肩はいくぶん頼り

なく、加えて憔悴のせいか妙に軽い。そうでなくとも、数ヶ月前に都で

鬼神騒ぎがあって以来、どことなく病がちなようで、中大兄は不安だっ

た。

「おまえは、もう休んでいろ。あとは俺がなんとかする」

「そうは参りません。私には、これからやることがございます」

「やることなどない。おまえの役目は、もう終わった」

「いえ。今度の相手は小角と鬼神だけでは難しいでしょう。どうして

も、当時、土蜘蛛討伐の神武天皇に従っていた、神官の力が必要です」

「おまえの先祖、天種子命の力か?では他の中臣氏に行かせればよかろ

う。親族なら誰でもいいではないか。どうせ神祇伯はおまえが継がぬと

いうから、代わりに従弟に継がせたはずだ」

「残念ながら、あれでは務まりますまい」

「何をする気だ」

「珠を、封印します」

「あの・・・封印から解かれ、持ち去られた宝珠を?」

皇子は改めて枕元に座りなおす。臥せたままで、鎌足は皇子を見上げ

た。

「あの霊魂たちは、宝珠を使い陰陽を操り、落雷や寒気や炎を起こして

いる。しかも霊魂の力を増幅させているのも、あの珠です。ですから天

種子命より伝わる秘法を用いて、宝珠の力を封印します」

「秘法?中臣に伝わる大祓ではないのか?」

「いえ・・・。怨念を静めるための呪法・・・土蜘蛛の怨みに従がった法で

す。彼らの古い咒を使い、四ヶ所に珠の数だけ人柱を立て、咒符ととも

にもう一度埋めるのです」

「人柱か・・・・・・」

皇子は少し難しそうな顔をした。都のためとはいえ、領民を犠牲にする

のは、政治的に不都合がある。反対派がそれをネタにまた足を引っ張る

のではないかと危惧しているのだ。そうでなくとも、この十年、不審な

付け火や暗殺騒ぎで何度も殺されかけている。その度に相手を葬ってき

た彼だが、いつまでも内乱鎮圧にばかり、かまっていられない。

「そうだな・・・では・・・」

中大兄は、少し考えてから言った。

「ちょうど、阿部臣が夏に捕虜にした蝦夷の者どもが大勢いる。あれを

使おう」

それで済むなら、そのほうがいい。鎌足もそう思っている。彼らにとっ

て大事なことは、政治改革と日本統合、そして日本のアジア支配という

理想の実現であり、そのためにならどんな手段も厭わない。十五年前に

蘇我親子を暗殺して実権を手中にしてから、ずっとそうしてきた。無

論、それは変わらない。そして今も、彼は冷酷な口調で、ほとんど機械

的に答えていた。

「いけません。それでは逆に怨念を強めてしまいます。一緒に埋め殺す

のは・・・都の者です。それも、婚姻していない公卿の娘がよろしいでしょ

う」

「身分の高い未婚の宮女か・・・?難しいな」

「あくまで自主的に献上するよう仕向けることです」

平静な顔で、彼は言った。二人の理想のために、鎌足はいつも最良の策

を献案する。そして、彼が生命をかけて守るのは常に中大兄ただ一人

だった。

「ご心配なく。私が芝居を考えます」

「では、俺が上手く演じてやろう」

皇子は優雅に笑った。いつもそうやって彼らは、ある時は誰かを味方に

つけ、その同じ誰かを邪魔になればあっさりと、手続きをふみ合法的に

殺す。皇族も公卿も公卿の娘も、そして、中大兄は実の妹さえも道具に

使った。しかし

「封印は、おまえがやるのか?」

珍しく不安げに、中大兄が聞いた。冷酷無比な彼が唯一見せる人間らし

さで案じている。鎌足はもう一度起き上がって微笑んだ。

「私が一人で行います」

「一人で?!」

「ほかの者は足手まといになりましょう。あの霊魂は並の力ではありま

せん。見つかって殺されるのがオチです。私は幸い隠形の咒を心得てお

りますから・・・」

「では、俺も行く」

「皇子?」

一瞬、何を言い出したのか見当がつかず、鎌足はまじまじと相手を見詰

めた。目の前の皇子は、いつも鎌足にだけ見せる悪戯じみた顔で笑って

いる。

「おまえ一人では、どうせ今は馬にも乗れまい」

「なにをおっしゃいます!舎人を一人、連れてゆけば済むことではあり

ませんか」

「だから、俺が舎人をしてやろうというのだ」

「絶対になりません!あなたに万一のことがあったら朝廷はなんといた

します?」

「それは、おまえも同じだ」

「私の代わりなどいくらもおりましょう。しかし皇子は・・・」

「うるさい奴だな。おまえが俺に命令できるのか?僭越ではないか」

「皇子・・・」

威を正し、中大兄は、皇太子らしく悠然と微笑んだ。

「たまには・・・私が自ら出向いてやろう。都を騒がす幽鬼どもを見物に

な。奴等も、私の首を欲しがっているはずだ。なにしろ私は、奴等を滅

ぼした神武天皇の正統なる子孫なのだから。・・・どうせ・・・」

と続けて、彼は笑った。

「復讐など、要領の悪い弱者の考えることであろう。恐れるには足り

ぬ」

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