「あの呪術者の素性と・・・居所がわかりました」

深月が、近江の上空に留まったまま動かない氷室の横に並んで浮かぶ。氷室が持って

いる赤い宝珠とそっくり同じ青の宝珠を抱きながら、深月は言った。

「名は役小角。生まれは葛城県。出家をせず、自主的に修行している優婆塞(うばそ

く;在家のまま修行する男性)ですが、古今、地上に現れた人間としては、最大の呪

術者といっていいでしょう。過去に7度転生した記録があり、いずれも高位の術者

だったようです」

「ふん。どおりでな。常の者ではあるまい。・・・その前は、何であった?」

「前・・・といいますと?」

「人間に転生する前、つまり出自だ」

「それが・・・・・・」

よどみない深月が急に詰まった。

「よくわかりません」

「わからない?アマテラスの子孫・・・高天ヶ原の神の一族(現在の大和朝廷を創った

一族)ではないのか?神武や今の天皇家のように」

「いえ・・・。西方と縁があるようです」

「では・・・インドの仏神か?如来や菩薩が化けているのではあるまいな」

「・・・・・・・・・・・・かもしれません。私の宝珠では、そこまで映し出すことはできません

でした」

「ふむ・・・。鬼神はどうだ?それも西方の者か?」

「はい。両方とも須弥山(仏教で世界の中心に在るとされる山)の水精宮(毘沙門天

配下の護法鬼神の宮殿)にいた護法鬼神です。前鬼、後鬼という法名で毘沙門天に仕

えていたようです。ただ・・・・・・」

「なんだ?」

「それも、もともと鬼神ではないのかもしれません。特に、前鬼というあの赤い鬼

神・・・」

「仏道の八部衆(獣出身の下位神。鬼神、龍神など)ではないのか?」

「いえ。龍神や夜叉神と同列ではなく・・・もっと上位の・・・たとえば、諸天(如来、菩

薩の下に位する古代インドの神が仏教の守護神となった姿)とか」

「諸天?!天神の一人だとでもいうのか?それがなぜ、十二天神の一人である毘沙門

天の下にいた?」

「わかりません・・・・・・」

深月は、かしこまったまま少し途方にくれた。

「まあいい」

ややしばらくしてから、氷室は逆に深月をねぎらうように笑ってみせた。

「もとが何であろうと、人間と鬼神という器に入っている以上、それ以上のことはで

きぬ。現に、たいした相手ではなかったではないか。だが・・・小角という男、少々生

意気だったな。私の心を・・・読むとは・・・」

「氷室様?」

気づかわしげに見つめる深月の沈んだ瞳をかわし、氷室はどこを見るでもなく視線を

宙に漂わせた。

「憎しみとは不思議なものだ。なぜもっと、晴れがましく、公明正大な強い心になれ

ぬものか・・・。非は奴等にある。この復讐は正当なのだ。我々は間違っていない。な

のに、私はいつも苛まれている」

「小角の言葉を気にしておいでですか?」

「今の私は強い。あの時とは違う。害しているのは奴等ではなく私のほうだ。なの

に、恨みを晴らせば晴らすほど苦痛がつのる。憎い相手が死んでゆくというのに、な

ぜもっと満足できぬのか。・・・今でもまだ、私は被害者のままだ。」

氷室の双眸が、潤んだように光っている。幽鬼が涙など流すはずはないのに、彼は、

泣いているのかもしれなかった。思わず肩に手をかけた深月の胸に突っ伏して、彼は

突然、助けを求める悲鳴のように叫んでいた。

「許せれば、良かったのだ。奴等を許すことができれば、こんな苦しみはなかった。

だが・・・駄目なのだ。私は・・・いつも・・・父上や母上・・・兄弟たちを殺した奴等を許すこ

とができぬ。皆、苦しんで死んでいった。なのに・・・あいつらは、それが当然だとい

う。悪いのは私たちだったと・・・。それを思い出すたびに、焼けるような憎しみだけ

が増してゆく。忘れることなどできない。断末魔の父上の御顔が浮かぶと、もう無い

はずの心臓が痛むのだ。母上の叫びが聞こえると、もう無いはずの体が痛いというの

だ」

「わたしがついております。どうかお気を安んじて」

錯乱したような彼を、深月が抱きとめる。どうにもならないとわかっていて、それで

も深月は慰めようとしていた。

「憎しみなど・・・抱くのではなかった。だが今となっては、死ぬことさえもでき

ぬ・・・」

「小角を・・・私が殺して参りましょう。奴等が隠れているのは大峰山です。今すぐ

に・・・」

「いや・・・。それには及ばぬ」

不意に、再び正気に返ったように氷室は顔を上げた。もう、いつもの、ただ残虐なだ

けの瞳に戻っている。そして、ぞっとするような笑顔を浮かべた。

「おまえがわざわざ出向かずとも、自ら出てこよう。近江の民を皆殺しすれば、な」

「わかりました。では、宝珠とともに霊魂たちをすべて都に降ろします。地上は常夜

になりましょう」

頷いて、深月が振り返る。視線の先にはざわめく霊魂が集まり、渦を巻いたように

光っていた。







「おいっ!あのバカがいねぇぞっ」

最初に気づいたのは前鬼だ。彼は血相を変えて、寺から走り出てきたかと思うと、あ

ちこちヤブに首を突っ込みながら怒鳴っている。後鬼は、薪にしようと集めてきたば

かりの枯れ木を抱えて、怪訝な顔をした。

「誰のことですか。バカって・・・」

「決まってんだろ。小角だよ小角!」

「まさか。あの体で動けるはずありませんよ」

言いかけて、後鬼はぞくりとした。

「何でしょう?どうやら・・・都が・・・襲われているようです。今、気を感じました」

それは、さっき前鬼も気がついた。だから頭にきている。

「あ〜の〜野郎〜っ・・・絶対、行きやがったんだぜ」

「前鬼・・・・・・。ボクが出ている間、あなたが小角さまを看ていたのではないのです

か?」

後鬼の口調が責めている。前鬼は横を向いて舌打ちした。

「畜生!ちょーっと目を離したスキにフラフラと・・・」

言いながら、もう走り出している。追いながら、後鬼はつい笑った。

「心中には付き合わないんじゃなかったんですか?」

「フンッ。付き合わねーよ。そう簡単に・・・死なれてたまるか!」

彼はまだ仏頂面のまま、うなっている。

「じゃあ、これを使いましょう」

後鬼は、吉祥天の天衣を広げると、その透明な輝く布に、ふわりと風をふくませた。








都が、燃えている。鮮やかな炎が幾重にも上がり、闇の中のそれは、ただそれだけな

らば豪奢な蒔絵のように美しい。

「よう来たな」

都の上空で赤の宝珠をかざしながら、氷室はゆったりと微笑んでいる。小角は、彼ら

と同じ高い中空に静止しながら、唖然と足元を見つめていた。

「なんということを・・・」

「そう思うなら、キサマが止めてみたらどうだ?」

ただ絶句している彼を、氷室はまるで楽しむように嘲笑う。同じように満足げな顔

で、深月もまた氷室の背後に控えたまま微笑んでいた。二人の姿が火祭りの夜のよう

な炎の明かりに照らされてシルエットになる。長い指で差し示し、氷室は挑戦するよ

うに言った。

「キサマに、これが止められるか?」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

小角は黙っている。蒼ざめた彼の頬は、傷のせいばかりではない。ここに来るまで、

まだ小角は迷っていた。できれば戦いたくない。けれどもう、考えている時間さえな

かった。

不意に、小角は胸の前で左右の指を合わせ、手印を結び、気を高めた。

「水天よ来たれ―――ヴァルナ―――!!」

雷鳴が轟き、辺りが震撼する。

「ナウマクサンマンダボダナンバロダヤソワカ!」

印を結んだまま十二天の一人である水天の真言を唱えると、すべての水を司る天神の

分霊が降臨し、小角の体に乗り移った。

「なんと・・・。天部を降ろすとは・・・」

愕きで目を見開き、氷室がつぶやく。小角は、自身に水を自在に操る水天の力が宿っ

たのを確かめると、続けて、右手を高く上げた。

「龍神召喚!」

澄んだ声が響きわたる。天界にまで届く声で、彼は咒を唱え、その名を叫んだ。

「 ナンダ、バツナンダ、シャカラ、ワシュキツ、トクシャカ、アナバタッタ、マナ

シ、ウハツラ!来たれ!八大竜王!!」

小角の声が終わると同時に、長い体をうねらせて、水天配下の八匹の龍王が降臨す

る。硬い銀の鱗が煌き、命ぜられるまま、彼らは雷雲を呼び燃え盛る炎の上に豪雨を

降らせた。






「なんだか、すごいことになってるようだぞ?」

鎌足を馬から抱き下ろしながら、中大兄は都の方角を眺めている。たち込めた暗雲の

中に、ひっきりなしに雷光が走り、阿鼻叫喚のような騒ぎが、風に乗って流れてく

る。

祭祀の最後の準備をするために、神武天皇の墳墓がある畝傍山の山頂に登った二人

は、そこで、小角が氷室と深月を相手に、咒を尽くしているのに気づいた。

「急ぎましょう」

少し急いた顔で、鎌足はまだ都の方を眺めている中大兄を促した。すでに、かつて土

蜘蛛の塚のあった4つの場所には、注連縄(しめなわ)で結界を張り、中に宮女を入

れてある。あとはこの地で法を行うだけだった。

中大兄は鎌足を馬から下ろすと、両手に抱きかかえたまま適当な場所を探した。

「もう・・・結構でございます。降ろして下さい。あまりに・・・恐れ多うございます」

緊張のあまり慌てた様子で、鎌足は頬を赤らめながら、さっきからそればかり繰り返

している。

「そう遠慮するな」

まるでそれを面白がっているように、中大兄は笑った。乾いた大岩の上に座らせる

と、少し開けた場所で枯れ草を踏み込み、太い注連縄を担ぐ。

「で、次は何をすれば良いのだ?」

平らな地面に膝をつき四方に注連縄を張りながら、彼は岩の上の鎌足を振り仰いだ。

「その木を掘り起こして・・・・・・いえ、やはり私がやりますから、どうか・・・」

「いいからお前はそこに座っていろ」

鎌足が指した直径三寸ほどの根元をつかむと、皇子は一息に引き抜いた。

背の高さくらいあるその木を結界の中央に横倒しにし、木の中央に鏡を置く。そし

て、天種子命の更に祖先にあたる天児屋命(あまのこやねのみこと)が、昔、天照大

神を岩戸から引き出した時とは逆に、勾玉(まがたま)を下枝に、幣帛(へいはく)

を上枝にかけた。

そこまで調うと、皇子はもう一度岩に戻り、鎌足を連れて結界に入った。

「これでいいのか?」

神木の前に彼を置き、中大兄は、すぐ隣の白い横顔を覗いている。

「ええ。ありがとうございました」

答える顔が、すでに古の祭祀を司る霊妙な神官の表情を浮かべている。人間離れした

清楚なその姿が、初めて目にするにもかかわらず、妙にしっくり似合っているので、

中大兄は不思議な気がした。

(そういえば・・・)

と、思い当たるフシもある。

「鎌足・・・おまえは初めて会った頃からちっとも変わらんな。最初から、そういう顔

をしていただろう?」

「え?」

急に何を言い出すのかと、鎌足が目を合わせる。中大兄はどことなく感慨深げに続け

た。

「もう、俺のほうが年上にみえる。高位の呪術者とはそういったものか?あの役小角

とやらもそうだったが・・・何か歳をとらぬ秘咒でも使うのか」

「存じません。小角はそうかもしれませんが、私はただの親譲りでございます。子供

の頃は、かえって歳より余計に見られました」

「ふーん。ある年齢から歳をとらなくなる体質だな」

「中にはそういう者もおりましょう。私の父がそうでした。しかしなぜそんなことを

お尋ねになります?」

「神降ろしの依り代には子供を任ずる場合が多いからさ。神が憑依しやすい体なのか

もしれん」

「申し上げておきますが・・・」

「なんだ」

「私は政治家であって、神官ではございません」

才能があるくせに、家業のことを持ち出されると機嫌が悪くなる。唐に留学した二人

の師、僧旻がよく嘆いていたが、何か嫌う理由があるのかもしれない。そのくせ、い

つのまに習い覚えたのか手際は見事だった。

逆さ言葉で妖を追い払うと、彼は勧請をたてはじめる。次第に、高天ヶ原の神々の力

が辺りに降り下りつつあった。






都の火はなかなか消えない。八匹の龍はよく雨を降らせたが、まだ本来の力を出すに

は至っていない。

(私のせいか・・・・・・)

小角は唇を噛んだ。呼び出した八部衆は、呼んだ呪術者の咒力に応じて神威を発揮す

る。水天の力を自在に使いこなすには、小角はあまりに消耗しすぎていた。開いた傷

口から流れた鮮血は彼の白妙を赤く染め変え、気を抜くと今にも失神しそうになる。

「キサマの力とは、この程度か」

冷たい指で、陽の気を操る赤の珠と、乾を操る白の珠を弄びながら、氷室は嘲笑っ

た。その後ろには、陰の気を操る青の珠と、湿を操る黒の珠を持った深月がいる。

(あれをなんとかしなければ・・・)

四つの宝珠の輝きを見つめながら小角は途方に暮れたが、竜王を使いながらでは、も

う体すら自由にならず、空咒を使って空に静止しているのがやっとだった。

それと知って氷室が意味ありげに深月を振り返る。すると、深月は黒の珠を高く掲

げ、

「雷公!」

と叫んだ。同時に、八匹の雷神が現れ、それぞれが竜王に食らいつく。龍たちは鱗を

はがされ肉を食い破られて、甲高く鳴いた。

「キサマの咒は破られたぞ?」

氷室は恐ろしい目をしたまま笑っている。そして、笑ったまま鬼のような長い爪で小

角の心臓を指した。

「雷公よ、あれを食え!」

雷神たちは、てんでに奇妙な叫び声を上げながら、一斉に小角を振り返った。すぐさ

ま稲光を発しながら、それらが一直線に向ってくる。

(これまでか・・・)

小角が諦めかけた時、

「雷なら、オレのほうが得意だぜ?」

なめらかな聞き慣れた声とともに、鋭い真紅の光が煌く。と思った時には、雷神はま

とめてゴムのように撥ね飛ばされていた。

「前・・・鬼・・・・・・」

ほっとしたあまり呆然とした顔で、小角は前方に現れた赤い鬼神を眺めた。

「てめぇ・・・こんなもんに、てこずってるようじゃ相当いかれてるぜ。もう、情け

ねぇったら・・・」

いつもの、ぶっきらぼうな言い方でわめきながら、鬼神がふくれている。しかし彼も

知らないわけではなかった。

(結構、強ぇな・・・。こいつら)

生半可な技は通用しない。しかし、そう思うと、体の奥から、ふつふつと喜びに似た

感覚が湧き起こってくる。それは、彼自身気がついていなかったが、鬼神のサガとい

うよりも、むしろもっと過去からくる本性のようなものに近かった。前鬼は乱暴に小

角の手をとる。そして、そのまま隣の後鬼に引き渡した。

「おい!こいつを連れて離れてろ!ここにいると巻き添えくうぜ」

「前鬼・・・あなた、まさか・・・」

言い方が尋常ではない。後鬼はとっさに気づいた。

(また、あれを使う気なんじゃ・・・・・・)

十二天の主神であり天魔を統治する暴風破壊神を出すつもりなのだ。今の前鬼に出せ

る、捨て身ともいうべき最大の技である。

「ダメです!忘れたんですか?あれは闇の眷族すべてを滅ぼす呪法。幽鬼と一緒に鬼

神であるあなたも死んでしまう」

「死なねぇよ。宝珠、新しいのに代えたんだ。コイツが負担を軽くしてくれる」

前鬼は、からからと笑いながら、氷室のとは全く違う、首にかけた美しい珠を指して

みせる。

「ダメです。それであなたが助かっても今度は誰があなたを治してくれるんですか?

これ以上力を使わせたら小角さまが死んでしまいます!そんなこともわからないなん

て・・・」

「私なら・・・」

それまで、死んだように後鬼に身を預けていた小角が顔を上げた。

「私なら大丈夫だから・・・好きにやっておいで。ただ・・・ちゃんと、戻ってくるんだ

よ」

彼は前鬼の、自信に溢れた鮮やかな緋色の瞳を見つめていた。

「けッ!てめぇは、もう帰って寝てやがれ!」

照れて狼狽したように慌てて怒鳴ると、急いで前鬼は踵を返す。そしてそのまま、幽

鬼の中心に飛び込んだ。

氷室と深月の前に立ち、前鬼は咒を唱えた。小角のようには印を結ばず、ただ胸の宝

珠に気を集める。最強の破壊神の力をその身に降ろし、雷撃を自在に操り闇を砕く、

それがこの大自在天の真言だった。

「こざかしい!」

氷室が、もう一度赤の珠を振り上げかける。その時。突然、前鬼の力とはまた違う、

異変が起こった。

「宝珠が ――――」

急激に深月の持った珠の光が薄れ、咒力が、何か得体の知れない力に吸い取られる。

輝きは珠から抜け出すと、それぞれ一条の光となって飛び去り、あっという間に宝珠

はただの石と化した。

深月が、四色の光が飛び去った方角を霊気で追うと、もと封印されていた場所に戻っ

ている。

(バカな・・・)

狼狽して元凶を捜すと、畝傍山の頂上で祭祀を行っている人影に行きついた。

「あの神官を止めよ!殺せ!早く」

錯乱したように、深月が金切り声を上げる。前鬼をとりまいていた幽鬼は波が引くよ

うにいったん引き、それからすぐに渦を巻きながら、畝傍山に飛んだ。すぐに氷室と

深月も後を追う。その、すっかり度を失った慌てふためきように、思わず咒を止めて

見物していた前鬼も、我に返りとりあえず追った。

「あれだ!」

ほどなく深月が指した先には、注連縄の結界で勧請している白装束の男がいる。しか

し、幽鬼が襲いかかっても結界の力にはね返されて中に入れない。

「どけ!私がやる!」

霊魂たちを押しのけ、深月が振りかぶる。手のひらから不気味な光がほとばしり、結

界を破った、と見えた瞬間、何かが間を遮った。

「おっと。そなたたち、用があるのは私ではないのか?」

鎌足を背に回してかばいながら、深月と幽鬼の前に立ちはだかったその男は、腰に下

げた剣も抜かず、手ぶらで突っ立っている。

「誰だ?おまえは?」

「名乗ってはなりません」

探るような深月の視線から隠そうと結界の中から鎌足が叫ぶ。けれど彼は、聞いてい

なかったようにあっさり言った。

「そなた達が殺したがっている相手、神武天皇の正統なる子孫。皇太子、中大兄だ」

「なに・・・・・・?」

まるで敵に殺してくれと言いに来たようなものだ。深月が、この重要な標的を知らな

かったわけではない。ただ、あまりの大胆さに呆気にとられ、かえって本人であるこ

とを疑ったのだ。しかも、その男は、今も深月に背を向けて後方の神官と呑気に話し

ている。

「なあ、鎌足・・・」

「はい?」

「おまえ、陰形の術を使っていると申したが・・・もしかして丸見えなのではない

か?」

「それはこの祭祀が始まるまでのことです。始まってしまうと、そちらに力を奪われ

て、隠れるまでには至りません。けれどご安心下さいませ。もう八分方、終わりまし

た。あとは待っていても自然に珠は人柱とともに根の国へ沈み、地上での力は消滅い

たします」

「なるほど」

皇子は納得したように頷いている。聞いて深月は驚いた。

(この時代に・・・天種子命の力を使いこなす者がいるとは・・・。やはり生かしておくの

ではなかった)

鎌足が内臣で、神官ではなかったことで誤算した。しかし、もう力が残っているとは

思えない。皇子はまだ無防備に背を向けている。深月はそっと気を集め、二人に向け

て放った。ところが、

「狙いが、だいぶ外れているようだぞ」

中大兄は動じない。

「土木作業の後は剣の稽古か。今日は実に爽快な日だ」

悠然と笑って、いつのまにか腰から草薙の剣を抜いている。スサノオが倒した八つの

首を持つ大蛇の体内に封印されていたという、その剣には、神霊が宿っている。邪光

は飲み込まれ、剣の前で無に返っていた。

「キサマが・・・なぜそれを使える?ただの人間のくせに・・・」

深月は狼狽した。

(この二人・・・まるで、あの神武と天種子ではないか。それとも、高天ヶ原の神々と

神武の霊が彼らに与しているのか?)

畝傍山の霊気に気圧されたように、深月がたじろぐ。それを見透かして、中大兄は正

面から剣をつきつけた。

「臆病者め。そなたも仇討ちの大義を掲げるなら、見事、私を討ち取ってみよ!」

「この・・・」

「待て。私が相手をしよう」

深月に代わり、それまで黙っていた氷室が前に出た。わずかに困惑した顔で、彼は中

大兄の前に立つ。目の前の男は、長年思いつめた憎い敵だ。卑怯な策で殺す者の子孫

だ。その顔はもっと卑しく、もっとオドオドと、もっと醜くなければならないはず

だった。しかし、あまりにも彼は堂々として、つけいるスキすらない。

「そなたが土蜘蛛の長、居勢氷室か・・・」

「なぜ、わかる?」

名乗る前に言い当てた中大兄に、氷室が不審な顔をする。中大兄は剣を構えたまま、

挑発でもするように笑った。

「一番、醜い顔をしている」

「な・・・・・・」

蒼ざめた氷室の顔が、更に色を失った。

「愚弄しおって・・・。この蛮族が!」

言うなり、氷室が打ちかかる。光を発し、草薙の剣がそれを受け止める。ギリギリと

押し合ったまま、中大兄と氷室は睨み合った。

「そなた、今、私を蛮族と言ったが・・・それでは、結局同じだろう」

渾身の力で押し返しながら、それでも尚、からかうように皇子が言う。

「なにが同じだ」

「自分だけが偉いと思っているところが、だ」

「何を言う!」

氷室は、一瞬、我を忘れた。

「殺せ!すべて!地上にいる者は何人たりとも生かしておくな!」

幽鬼に命じる氷室の声が、甲高く辺りに響く。途端に霊魂の渦が動き始める。しか

し、それを、ようやく追いついた赤い鬼神がさえぎった。

「おお・・・、よい所へ来た。鬼神、こやつらを討ち果たせ」

いきなり氷室を突き放すと、中大兄はあっけらかんとした笑顔を前鬼に向ける。着い

たばかりで、彼はさっそく癇癪を起こした。

「てめぇに指図される筋合いはねぇっ‥‥‥だいたい、てめぇ誰だ?!」

「私は、大和の皇太子だ。‥‥忘れたのか?」

「フン。どおりで陰険なツラしてやがる」

「はじめて見る顔でもあるまいに」

「嫌いな野郎の顔は、しょっちゅう見てねぇと、すぐ忘れるんだよっ」

皇子は聞き流している。イライラした顔のまま、前鬼は氷室に向き直った。

「やいってめぇ!とっとと勝負しやがれ!うざってぇんだよっチラチラ幽霊飛ばしや

がって。そんなにあの世にいきそびれてんならオレが送ってやるぜ」

「・・・・・・よかろう。では、キサマが止めてみよ」

氷室が、合図した。そこにいるすべての幽鬼と、深月と、そして氷室自身が、青白く

光り、形を崩し、溶け合い、そして一つの巨大な火炎の塊となって、都めがけて落下

する。

「ナウマクサンマンダボダナンイシャナヤソワカ!」

前鬼は、天空をつかんで咒を発した。と、雷光が、天から降りてくる。前鬼の召喚に

応じて、大自在天の分霊が降臨する。落雷が前鬼の体を貫き、ふくらんだ光が、その

まま真っ直ぐ火炎の玉を撃ち抜いた。







星が、降っている。

皇子は、空を見上げながらそう思った。飛び散った霊魂が、無数の細かい光になって

降りそそいでいる。大自在天の力で砕け去った魂が、雪のように静かに地上へ舞い下

りる。鎌足も、遅れてやってきた後鬼も、後鬼に支えられた小角も、黙ってそれを見

つめている。少し離れた場所でズタズタに千切れた衣服と血で汚れた上半身を押さ

え、前鬼もそれを眺めていた。

突然、光の粒が集まり二つの人型を成す。光は、氷室と深月になった。

「見事な技だった」

氷室が言った。透明な声だった。そして、初めて、穏やかな微笑を浮かべていた。

「今度は、良い顔をしている」

中大兄が微笑み返す。彼は剣を収めると微笑んだまま言った。

「そなたの父、居勢祝は・・・とても強かったと聞いている。何度脅しても屈せず、最

後まで戦った。立派な男だったと、あのような者がそばに居てくれたらと、天皇がい

つも言っていたと。私はずっとそう聞いていた」

「・・・・・・そうか・・・・・・」

やっと解放されたような笑みを浮かべたまま、氷室の姿が薄れてゆく。消えてゆきな

がら、彼は最後に鬼神を探した。

「不思議な呪法だった」

氷室の、淀みを取り去った美しい瞳が前鬼を見ている。

「そなたの力は怒りや憎悪を打ち破る。いや、打ち破る力を与えてくれる。そな

た・・・本当は・・・鬼神ではなく・・・」

氷室が何か言った。しかしそれらは聞き取れず、ただ風の音となって消えた。

それを見取って、やっと安心したように

「ありがとう」

と深月が言う。少し驚いて見上げた小角に向って、彼はわずかに悲しい色を浮かべ

た。

「ずっと近くに仕えながら、あの方を救うことが私にはできなかった。だからせめて

お側にいることだけが私にできることだった」

小角は黙っている。そして、やや間をおくと、どこか咎める口調で言った。

「なぜ一緒に行かない?」

「氷室さまと?」

小角がうなずくと、深月は苦しそうに頬を歪めた。

「一緒には行けぬ。あの方は我知らず幽鬼となった。だが私は自らの意志で幽鬼に

なった。私のほうが罪が重いのだ」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

「私達は子供の頃から共に育った。兄弟ではないが、小さい頃からお側に仕えてい

た。あの時、皇軍に責められた時も私たちは一緒にいた。本当は皆、死んだのだ。あ

の時に・・・。偶然助かったのは私だけだ。ただ・・・氷室さまは、あまりにも悲しかった

から・・・あまりにも苦しくて辛かったから・・・だから幽鬼になってしまわれた」

深月の記憶が、そこにいる者の眼前に映る。不思議なことに、そこにいる全員が、一

瞬、記憶を共有した。

燃え盛る炎の中で、自分が既に死んだことにも気がつかず、氷室がすがりついてい

る。目を血走らせ、深月の腕を握り潰すほど強くつかみ、彼は叫んでいた。

「復讐に手を貸せ!私を助けると、一生助けると、約束したではないか!」

「憎しみを忘れて・・・幸せになることはできませぬか?」

「そんなことはできぬ!・・・できぬ」

「・・・わかりました。では、どこまでもお供いたします」

二人は唐に渡り、伝え聞いた纐纈の城を探した。人間の生き血で絞り染めの着物を作

るその城で、何枚も何枚も布を染め、そして術を身につけ妖となった。

「私にはもう、消える魂すらない。このまま永遠にさ迷う物怪となろう。それが私の

罰だ」

深月の言葉に、小角は静かに首を振った。

「そんなことはないさ。ごらん、あれを・・・」

深月は、小角の指す先を目で追った。まだ、砕け散った沢山の魂のかけらは、星のよ

うに光りながら落ちてゆく。そして、地面についたかと思うと、ぱっと弾け美しい花

になった。

花が、あちこちで咲き乱れ、その辺一帯はあっという間に色とりどりにさざめく花

畑になる。ふと気づくと、その中に大勢の人影が見えた。彼らはてんでに足元に広が

る花のような美しい笑顔を浮かべ、連れだって、舞い上がる花びらのように天に昇っ

てゆく。その中に、氷室の姿があった。

呆然と見つめる深月の前に、氷室がふわりと近づいた。彼は微笑んで、とまどってい

る深月の手を引いた。

「さあ、行こう」

その途端、深月の姿が、薄くなり透けたように輝いた。気がつくと、もう彼も皆と同

じような天衣をまとっている。そして一緒に空に昇ると、すべてが幻のように消えて

いった。消える瞬間、二人が同時に振り返り、幸せそうに微笑んだ。あとにはただ、

一面に咲いたアザミの花が揺れている。いつのまにか空の暗雲も晴れ、すっきりとし

た冬の青空が見えていた。







「大丈夫か?」

もう固まりかけた血を、全身にこびりつかせ座りこんでいる前鬼に、小角が後鬼と駆

け寄る。

「べつに・・・・・・」

と言いながら、前鬼は仏頂面のまま手を突き出した。

「また・・・そうやって当然のように手を出す・・・」

そばで後鬼が呆れている。小角は笑って傷ついた腕をとった。赤い爪をはやした手を

握り、咒で癒してやりながら、小角はまるで子供を誉めているような調子で言った。

「まさか、おまえの咒にあんな使い方があるなんて知らなかったよ」

「オレだって知らねぇよ。たまたま・・・なんだか知らねぇが、あんなふうになっただ

けだぜ。・・・多分・・・」

と、彼はあまり言いたくない顔で続けた。

「アイツの呪法と何か力が干渉したんだぜ。幽鬼の珠を先に封印しといたから、オレ

の咒も加減して使えた。おかげで、こっちのダメージも最小で済んだ」

前鬼は、中大兄に抱えられた鎌足を見ている。小角も視線をなぞり、彼のほうを見

た。

「鎌足どの・・・・・・封印には・・・どんな犠牲を使われました?」

「未婚の宮女を」

「・・・・・・・・・そうですか」

見つめる小角の目がきつい。険を含んだ瞳で、それでも彼は頭を下げた。

「ご助力、ありがとうございました」

「礼には及ばん」

鎌足の代わりに皇子が答える。

馬上に揺られ小さくなってゆく二人を見送りながら、小角は、星のように降り積もる

魂たちを思い出していた。

美しく繁栄した都には、いつも魂が降っている。星のような人間たちの魂が。

なぜかふと、そんな気がした。

《終》

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