「見てくれ、鎌足。俺が作ったんだ」

「時計……ですか?」

「水時計だよ。どうだ?よくできているだろう?」

東宮の宮にある皇太子の私室で、鎌足が、奇妙なからくりを覗き込んで

いる。すぐ隣に立った中大兄皇子は、その木製の大掛かりな道具を得意

げに説明していた。

「こう……水が流れるだろう?すると時刻に合わせて動く。今までは天

文と鐘で刻を知ったが、これからは、このような自動器械で時間を知

らせることができるというわけだ」

「ですが……もう少し改良が必要ですね。時刻は正確ではないし、どこ

かに設置するとして、水の循環はどうなさいます?耐久性にも問題が

あるし…コストもかかりすぎます。量産化はもちろん、まだ実用化に

もほど遠いようですよ」

「相変わらず手厳しいなぁ、おまえは。皇子の俺が一生懸命、発明し

たんだから、世辞の一つも言ってくれてもよかろうに」

すっかりむくれて、中大兄は鎌足を睨んだ。しかし、それに構う様子

もなく、鎌足は淡々と器械を調べている。

「そうですね。一つ完成したら、とりあえず皆にお披露目して、朝堂

院の鐘つきの代わりに置きましょう。役人の人件費が、節約になりま

す」

「節約……となぁ。合理主義には賛成するが」

「人も物も効果的に使うのが肝心です」

そこで鎌足は、意味ありげに笑った。

「皇子、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)の娘

と婚姻なさいませ。

そしてあの男を、我々の計画に引き込むのが近道と存じます」

「石川麻呂を?」

急に大人びた表情で、中大兄は鎌足のよどみない瞳を見つめた。計画

とは、ここ最近ずっと二人で話し合っている、蘇我親子の暗殺計画で

ある。専横を働いている蘇我氏を討って天皇のもとに政権を返す。そ

れが一応の名目だった。その為にはもう少し、信用できる有力な仲間

が必要だというのが、鎌足の前々からの提案である。

「石川麻呂は蘇我一族で、入鹿とは従兄弟ですが…宗家である蝦夷や

入鹿とは反目しています。政治的にも妥当でしょう」

「だが俺にとっては義父になってしまう。成功したとして後々面倒で

はないか」

中大兄は気の進まない様子で側の椅子に脚を組んで座ると、片手で頬

肘をついた。

「だいたい、臣下と縁戚になると、ろくなことはない。蘇我が良い例

だ」

蘇我氏は代々、次々と娘を天皇に嫁がせ、血縁を結び、権力を欲しい

ままにしている。今では皇族も蘇我の血を受けている者が多く、生粋

の皇家の血を持つ中大兄など例外に近かった。

「ご心配には及びません。情にもろく、人の良い気の小さな男です。

そう増長することもありますまい」

「ふむ。その性格は利用できるとして、しかし…大事には向くのか?」

「大丈夫でしょう。情にもろい男だからこそ、血縁を結べば裏切れま

せん。また、邪魔になったら早々に手を打てばよいことです。後ろ盾

のない人間を合法的に消すことなど、その気になれば、わけはありま

せん」

鎌足は座っている中大兄の足元にひざまずくと、怜悧な目を自信あり

げに瞬かせた。

「お膳立てはすべて私がいたします。この件に関して皇子を煩わせる

ことはございません」

「そうか。おまえが推挙するなら間違いあるまい。任せよう。

で、いつ頃だ?」

「早急にです。期は熟してきております。入鹿が山背(やましろ)皇子

を自殺に追い込んで上宮王家を滅亡させたことが、我々にとって絶好の

機を与えてくれました」

「確かに、な……」

迫る老いと体の不調から、蝦夷は焦っていた。息子の入鹿のためにも、

蘇我氏の絶対権力を存続させるには、どうしても自分が生きているう

ちに甥の古人皇子(ふるひとのみこ)を次の天皇にしておきたい。

ところが、蝦夷への反発から周囲では、温厚で人望もあり聖徳太子の

長男でもある山背皇子を天皇にかつぎあげる動きが活発化していた。

 実は、山背もまた蝦夷にとっては同じ甥にあたる。しかし、こちら

はむしろ名政治家だった聖徳太子の息子であるという関係のほうがは

るかに強い。年齢も高く、同じ甥といっても古人と違って簡単に操れる

存在ではない。父の馬子(うまこ)の時代から、すでに聖徳太子と蘇我

氏の対立は微妙に進んでおり、お互いに牽制しあっている有様だった。

太子の死後、蘇我の勢いが圧倒的に増したとはいえ、いまだ因縁は

くすぶっており、カリスマ的な存在であった太子の影響をできれば完全に

抹消したい。つまり、この機に乗じて太子の血をひく上宮王家を、政治的に

一掃する。それが本音だった。 

 入鹿は若さに任せて、本当に、王家を皆殺しにしてしまったが、そ

れがかえって周囲の反発に火をつけた。皆、恐れて表にこそ出さない

が、陰のあちこちで、蘇我へのブーイングが高まっている。

「しかも……」

中大兄は頬肘をついたまま不敵に笑った。

「山背を消してくれたことは、こちらにも都合が良かった」

山背皇子は、以前、中大兄の父と皇位を巡って対立している。その時

は蝦夷の力で、中大兄の父、舒明(じょめい)天皇が即位した。

「人の良い父上を立てたほうが、操りやすいと思ったか。奸賊め」

いまいましげに、中大兄が舌打ちする。その後、蝦夷の振る舞いはま

すますエスカレートし、舒明天皇が崩御して皇后であった中大兄の実

母、つまり皇極天皇が即位すると、息子の入鹿までもが、任命もされ

ぬままに勝手に大臣を名乗り政治を始めた。もともと皇極天皇の即位

も、いってみれば緊張した政局の中で、とりあえず無難な女帝が選ば

れたにすぎない。

「だが、俺は親の二の舞いは踏まぬ。邪魔者は排除し、この手に実権

を握ってみせる」

 山背皇子は徳のある優れた人物ではあったが、それだけに、障害に

なるのは間違いない。山背を廃さなければ古人皇子を天皇にできなか

ったということは、中大兄にとっても同じだった。その男が生きてい

ては、中大兄も絶大な権力を握るのは難しい。

だが、その山背が死んだ。

「事は急を要します。これで蝦夷と入鹿は、公然と古人皇子を推して

くるでしょう。こちらももう、のんびり構えている余裕はありません。

皇極天皇のお命すら危うくなるかも……」

「母上が?」

「蝦夷はともかく入鹿は馬子に似ています。どんな思い切った手を打

ってくるか……」

蝦夷の父であり入鹿の祖父である馬子は、その昔、天皇を暗殺してい

る。自分の言いなりにならなくなった天皇を差し替えるため殺した。

「そうでなくとも、もし古人皇子が天皇になるようなことにでもなっ

たら……」

そうなれば、万事休す。そして次に狙われるのは中大兄である。古人

皇子は、中大兄の異母兄だった。

「父上が側室に生ませた子が天皇になる……か」

その側室とは、今をときめく蝦夷の妹だ。

「俺と母上……それに実の弟である大海人(おおあま)、妹の間人

(はしひと)も悲惨なことになるな」

これまでも、さんざん蔑ろにされている。それでもまだ、たいした障

害に思われていなかったおかげで、殺されることはなかった。名ばか

りの天皇と皇太子として生かされている。しかしこの先は、その名さ

えも取り上げられ、じわじわと嬲られたあげく遅かれ早かれ殺される

だろう。

「そうなる前に、こちらが、すべて先手を打たねばなりません」

不意に鎌足が立ち上がった。

「よろしいですか、皇子。蘇我のことなど些細な問題なのです。あな

たがこの先やるべきことは、この日本の仕組みを根底から覆すこと。

その為にも、こんな所で命を無駄にしてはなりません」

「日本……?根底から覆す?」

「そうです。私の作った改革案をご覧下さい」

鎌足は入り口に戻ると、そこに置いてあった数巻の書を延べた。

 それは、行政、立法、裁判すべてを網羅し、前制度との融合段階も

設けたうえでの、驚くほど綿密な議案書だった。中国の律令制になら

い、これまでの氏姓制度を廃して、朝廷が支配する完全な官僚制度を

つくりあげる。土地や財産をすべて国家のものとし、天皇のもとに強

大な中央集権国家をつくりあげる。日本全土を統一した、全く新しい

国家形態を示していた。結局、蘇我大臣を暗殺するクーデターなど、

この壮大な政治改革プランのほんの準備段階にすぎない。

「すごい男だな、おまえは……」

中大兄はほとんど爽やかな小気味良い笑いを浮かべると、思わず立ち

上がって同胞の手をとった。

 二人で新しい政治をつくる。以前この言葉に意気投合したのは確か

だ。しかしこれほどまでに大胆で綿密な具体案がすでに完成していた

ことは、完全に彼の予測を上回っていた。まだ30になるかならぬかの

鎌足の頭には、無鉄砲な若さと、老練な企みがバランス良く混在して

いる。天賦の才を持った革命家だった。

 なぜ、こんな男が自分を見込んだのか、とは、中大兄は思わなかっ

た。初めて会った時から、こんなにもわかりあえる相手がこの世にい

たのかと思うほど、不思議な魂の共鳴を感じている。

皇子が初めて鎌足を知ったのは、法興寺の槻(つき;ケヤキ)の樹の

下で行われた蹴鞠(けまり)の時のことである。

その日、四方に懸(かかり)の木を立てた鞠庭(まりにわ)で、中大兄は

側近や豪族の青年を集め、鞠を蹴っていた。天皇家の主催する宴ととも

に、日頃の憂さを晴らすささやかな楽しみである。

ところが、そこに招いていなかった入鹿が通りかかった。

「皇子、我らも入れてくれませんかな?皇子の遊興に我らをお呼び下

さらぬとは…我らが皇子に失礼を働いてしまうではありませんか」

意地の悪い目で、入鹿が寄って来る。

(こいつ、何のつもりだ……?)

日頃、反目している入鹿だ。中大兄はあからさまに不快な表情を浮か

べたが、こんな遊戯でも社交を怠るわけにはいかず、体面のためにも

入鹿とは表面上は、親交を深めねならない。

「すまぬ。そなたらを呼ばなかったはずはないのだが……手違いで

あろう。入るがよい」

そっぽを向いたまま、皇子は頷いた。

(なんで……こいつらと……)

今にも帰りたい気分で、皇子は入鹿の取り巻き達と鞠を蹴った。自分

が催した会であったから、一人で帰るわけにもいかず、嫌々ながら続

けた。入鹿はわざと受けにくい方向へ鞠を飛ばしては、にやにや笑う。

中大兄はその度に懸命に走り、懸の下枝より落とさぬよう鞠を上げる。

意地でも落とせない気がして、皇子はただ必死に走った。

と、何度目か蹴りあげた時、勢い余って沓(くつ)が飛んだ。

ぎくりとして、中大兄は飛んでゆく沓を目で追った。

「これはいけませんな皇子」

入鹿は、まるでその瞬間を待っていたかのように、嬉しげに転がった

革沓に歩み寄る。それからおもむろに、それを拾うとみせかけて、さ

らに遠くへ蹴飛ばした。沓は弧を描いて高く飛び、寺の壁に当たって

跳ね返る。そして地面に落ちた。

「おお…とんだ粗相を…。お許し下され」

下卑た笑いが取り囲み、皇子は羞恥と怒りで気が遠くなりそうな気が

した。

(この…無礼者が……)

しかし怒りをかみ殺し代わりに唇を切れるほど噛みながら、周りを見

回すと大声で命じた。

「誰ぞ、拾うて参れ」

しかし誰一人として動かない。しんとしたまま、彼の側近すら入鹿の

ほうをうかがっている。ここで中大兄を助けることは、蘇我に謀反す

るのと同じだった。入鹿は残酷な期待で嘲り笑っている。片方裸足の

ままびっこをひいて沓を拾う、惨めな皇子が見たいのだ。

 中大兄は、黙って突っ立っていた。進むことも退くこともできずに、

ただ突っ立っていた。

 彼は今上帝の長男であり、先帝の子でもある。超一級の皇位継承権

を持つ王族だ。こんな辱めをおとなしく受けるには、身分も自尊心も

高すぎた。

(これだけ豪族の子弟がそろっていながら…誰も王家を助ける者はい

ないのか。どいつもこいつも、蘇我の陰に隠れる日和見になり果てた

か)

さらしものになっている身がひりひり痛い。永遠に止まったように時

が長く感じられる。

 どうせ誰も信じられない。側近でさえも寝首をかくかもしれない。

このままでは、山背の二の舞いだ。いずれ自分も殺される。最高権力

者の政敵である皇子など、いつ殺されるかわからない危険きわまりな

い身分だった。

(だが、俺はただでは死なない。せめて蘇我一族を道連れにして、奴らの

政を一掃してくれる)

武術には自信があった。一回りも体格の違う入鹿を斬り殺すことも、

できぬことではない気がした。

(もはや、これまで)

剣の把に手をかけようとした、その時。

「皇子」

背後で、声がした。

「どうぞ、お履き下さい」

振り返ると、青年が一人ひざまずいて足元にかしこまっている。捧げ

た両手の上には、中大兄の革沓が収まっていた。 

皇子は沓を見た。

それから、それを大切そうに奉っている男の顔を見た。顔に、その人

格が出ると皇子は思っている。入鹿の顔などは、たとえれば卑しい動

物だった。入鹿だけではない。このごろはどれもこれもゴミのように

見える。けれど、

「そなた、名はなんという」

「中臣鎌足……と申します」

「そうか。鎌足か……」

久しぶりに人間の顔を見た気がして、中大兄は安堵に似た喜びを感じ

た。

「余計なことを…」

恥をかかせるチャンスを失って、入鹿が鎌足を睨み、面白くなさそう

に立ち去ってゆく。それを見送って、鎌足は中大兄に微笑んだ。

「お気になさいますな」

「そなたこそ…」

気がつくと鎌足に向かい合い、皇子もひざまずいていた。

「そなたこそ…本当によかったのか?本当に自分のした意味がわかっ

ているのか?そなたは_」

「わかっておりますとも。もちろん」

鎌足が、もう一度いたずらっぽく微笑む。その時、中大兄は目の前の

白い頬に、美しい光を見た気がした。

 それから二人は、よく会った。二人きりでいろんな話をした。怒り

も悲しみも孤独も、すべて話した。その度に鎌足は、具体的で様々な

対処法を考えてくれた。

 鎌足といれば、どんなことも出来そうな気がする。漠然とした思い

を、明確で理路整然とした行動として現せる気がする。

 握った手に力を込め再び離すと、中大兄は水時計の側にある椅子に

腰掛けた。

「で?蝦夷と入鹿を討ったら、どうするのだ?行政改革を進めるには

その後が勝負だろう?」

「百官を味方につけ、政権を掌握したことを世に知らしめます。それ

には次の天皇も決めておかねばなりません」

「母上は恐らく俺を次の天皇に推すだろう」

「そうでしょうが……」

そこで鎌足は言葉を切った。

「俺が即位してかまわんのか?」

「いえ。皇子は…皇太子のままであられるほうが良いでしょう。そし

て実権を、今までのように大臣ではなく、すべて皇太子に集めます」

「名より実、か」

「その通りです。そのほうが天皇を隠れみのにして自由に動けますし、

より強大な権力を行使出来ます。かの聖徳太子がそうでしたし、幼帝

を立てて外戚が執政するやり方と基本的には同じです」

「で、肝心の天皇は?母上のままか?」

「いいえ。やはり新しい時代には新しい天皇が必要です。多くの人心

をその気にさせねばなりません」

「では……」

「軽皇子。天皇の弟君がよろしいかと」

「叔父上か……。そうだな。あいつは度胸も才もない男だが愚かで

もない。ちょうどよかろう。しかし古人はどうする?あいつも臆病者

だから蘇我が滅んでは逆らえまいが……」

「折りをみて…謀りましょう。これだけの大改革です。必ずや反対派

が出る。そうなった時、やはり邪魔です。それから……」

「それから?」

「今はまだ幼いので問題ありませんが、軽皇子の長男、有間皇子。そ

れから軽皇子も、最終的には時期をみて退位してもらわねばなりませ

ん」

さすがに感心したように、中大兄は溜め息をついた。

「鎌足…。おまえは、10年、20年先まで読むのだな」

「当然です。これも、あなたのためなのですよ」

「そうか」

皇子は笑った。鎌足はびっくりするほど冷酷で疑い深い。けれど自分

も同じくらいそうだった。だから、誰も気付かない冷酷の裏に隠され

たささやかな優しさも感じることができた。それは、自分が見込んだ

者に対してだけ送られる絶対の信頼、とでもいうべきものかもしれな

い。常に他人を欺く彼らにとって、恐らく、それだけが真実だった。

「俺は誰も信じない。これからもそうだろう。利用できるものは利用

し、邪魔者は殺す。必ず、やられる前にやってやる。でも、おまえは…。

おまえだけは、一生、俺のそばにいてくれ」

「もちろんでございますとも。私の命は、初めてお会いしたあの時よ

り、中大兄様だけのものでございます」

初めて会った時と同じ顔で、鎌足が微笑む。彼は一種のデザイナーだ

った。中大兄というモデルを得て、次々とひらめき原案を広げ、より

壮大なものを作り上げることのできる、そんな芸術家なのかもしれな

い。

「この日本という国を変えるには…まず中国のようにならねばなりま

せん。そしていずれ、それを越え、このアジア全体を統括する。あな

たにはその器がございます」

皇子は満足そうに笑った。百済(くだら)から献上された皿に注がれた油を吸っ

て、明々と灯った火が、二人の間で揺れている。

「ところで_」

急に、鎌足が話題を変えた。

「役小角に会いました」

「ほぅ……。どんな男だった?」

「なかなかの秀麗な顔ですよ。姿も、まるで美しい女のような。ああ

……でも女にしたら少々大きすぎますかね」

鎌足は悪ふざけをして楽しんでいる子供のように、くすくす笑った。

呆れたように、中大兄はたしなめた。

「おいおい。いい加減にしてくれよ。顔を見るために行ったわけでは

あるまい?わざわざ板葺宮の改修にかこつけてまで機会を設けておい

て……」

鎌足はまだ笑っている。こんな時の鎌足は、老獪な策謀家ではなく、

ただの子供っぽい青年になってしまう。逆に年齢のわりに大人びた皇

子のほうが、年上にみえた。

「本当に……あれは父上の子か?」

「さあ…。そこまでは、わかりません。でも、なかなか賢い男です。

少なくとも我々の障害にはなりますまい。今のところは……」

「今は?」

「舒明帝の胤という噂も自分は知らぬと申しておりました。幼い頃は

呪術者の才があったようですが、今はそれも失くしているようです」

「では、案ずるほどのこともなかったか……」

「ただ……」

「どうした?何か気になることでもあるのか?」

鎌足は何事か考えているふうだったが、やがて首を振った。

「いいえ、私の思い過ごしでしょう。それよりも…」

「?」

「これからは、皇子と私はあまりおおっぴらに会わないほうがいいで

ょう。我々のことが噂になっているようです」

「そうか……。では、病のなんのと偽ってそれぞれ暇をとり、誰にも

知られぬよう離宮に行こう。実は今、連中の様子を探るために馬子の

家の近くに別荘を建てさせている。そこで密議をするのがよかろう」

「蘇我の家の隣で?また、大胆な……」

さすがに呆れたような、そのあまりに敬意を込めたような驚きで鎌足

は笑った。

「それも一興かもしれませんね…。では、離宮が完成するまでの間、

とりあえずは南淵請安(みなみぶちしょうあん)の所へ周礼を習いに

行きましょう」

「あの中国帰りの博士の所へか?」

「ええ。その往復で話をして……書物を利用して書状を交換する。こ

れなら、一緒にいても怪しまれますまい」

「わかった」

全幅の信頼をもって中大兄が鎌足に頬笑みかける。その笑顔は灯火に

照らされて、いつもより火照ってみえた。







 今日も早朝から大内裏の内に集まって、役人達が話し込んでいる。

その側で小角は一人で、五経の一つである礼記を読んでいた。彼はい

つも同僚の会話に交じらない。若い連中の興じる女の話も上司の悪口

も、年寄り達の昔話も世間話も、彼にはほとんどどうでも良かった。

 今も大声で隣の男が、自分が寝た女の話を得意げにしている。冷や

かし半分に、それでも興味津々に周囲の何人かが首を伸ばしている。

退屈そうに、小角はそれを横目で眺めた。別に聞きたくもなかったが、

あまりに大声なので自然、耳に入ってしまうのだ。どうやら、何人も

手当たり次第に犯した女の品比べをしているらしい。あげく、彼女ら

が他の男に嫁いだことを理由に両家に賠償金を払わせたという。

(よく言うな……)

小角は聞きたくもない話を無理やり聞かされたようで、不機嫌な顔の

まま、再び手元に視線を落とした。

(それにしても……)

彼は書を読みながら溜め息をついた。

(どうして若い男ってのは、若い女の話が好きなんだろうな)

自分も若い男のくせに、年寄りじみた独り言を内心つぶやきながら、

小角は彼らに背を向ける。彼はいつもそうだった。子供の頃も、同じ

子供と遊ぶよりは独りで本を読んでいるほうが楽だった。子供と一緒

に子供の遊びをしていると、なぜか疲れる。そうして今は、同僚と話

すのが苦痛だった。

 そんなふうに昔を思い出しながら、余計、憂鬱になっていたとき、

急に、どこからか、美しい女の声で奇妙な歌声が聞こえた気がした。


−−はろはろに男女の話す声が聞こえるよ−−


「え?」

思わず振り向いた視線の先には、しかし、歌の主らしき者はなく、中

年や初老の男ばかりがたむろしている。

(なんだ今のは?……気のせいか)

後宮でもあるまいし、こんな所に女がいるはずはないのだ。しかし気

がつくと、小角の前にいる一人が、こんな話をしている。

「最近妙な歌が流行っているそうだが_」

「そうそう。それもあちこちに女が現れて歌っているんだろう?そし

て歌い終わると消えてしまう。とても美しい女だそうだ」

「おまえは、どう思う?よく三宝について学んでいるなら何か知って

おるだろう」

いきなり話題を振られて、小角はどぎまぎと彼らのほうに座り直した。

「そなた、賀茂役公だな。もとは賀茂氏の出だろう?何の啓示か占っ

てみてはくれぬか」

賀茂氏はもと有力豪族であり、有能な呪術者だった。今でも臣として

祭祀を司る仕事をしている。しかしそれはあくまで宗家の話だ。

「いえ…私は……」

うつむいて言いかけた小角の耳に、また、声が聞こえた。


−−はろはろに男女の話す声が聞こえるよ−−


「どうかなさったか?」

「え?」

ぼんやりしている小角の肩に、向かいの男がいぶかしんで手をかける。

小角はあわてて立ち上がった。

「いえ…別に……。ただ、急用を思い出しましたので……」

そのまま、呆気にとられた同僚を置いて声に導かれるように彼は外に

出た。

 まだ朝の木立の中を、ゆっくり馬を走らせる。その間中、声は高く

なり低くなり、小角を誘った。



はろはろに男女の話す声が聞こえるよ

島の籔原で


遠方の浅野の雉はあたり一面響かせて鳴く

音を立てず俺は寝たのに

あの二人は寝たと人がうるさく噂している 


林の中に私をひきいれて した男の

顔も知らない 家も知らない




「誰だ?君は……」

この季節には珍しい不自然な朝もやの中に、長い髪を腰まで垂らした

華奢な姿が見え隠れする。美しい女のような人影が、岩の上に座って

いるのがわかる。歌は、そこから聞こえていた。

 小角はその影に向かって目を凝らしながら歩み寄る。ほとんど10年

ぶりに感じる肌を刺すような特異な感覚に、ある確信を持って話しか

けた。

「君は……人間の女じゃないな。鬼神…だろう?」

歌が、止んだ。

「その通りです。よくおわかりですね」

もやの中から、姿を現す。出て来たそれは、美しい女のような姿をし

た少年だった。よく整った鼻梁。ふっくらした唇。しかしそこからは

鋭い牙がとび出ている。そして長い髪と瞳は、輝く黄金色だった。

「あなたも、歌の意味が知りたいのでしょう?」

「その前に……君は誰だ?なぜ私の前に現れた」

「ボクの名は黄口(おうこう)。あなたには一度お会いしたかった。

昔、赤眼(せきがん)が世話になりましたから」

「赤眼?誰だそれは……」

「なんだ、忘れてしまったんですか。赤眼は…時々あなたを思い出し

ては、今も会いたがっているというのに。彼が誰かに心を奪われるの

は初めてのこと。だから、どんな人間か見てみたかった」

「赤眼…って……君と同じ鬼神なのか?」

黄口は小さな口元を歪めて笑った。

「ボクらは五色の鬼神です。赤眼、黄口……そして、黒首、白眉、

青耳」

「なるほど、では君たちは護法か。それで、赤、黄、青、白、黒の鬼

神がいるわけだ」

(赤眼……赤の護法鬼神…?)

唐突に、小角は思い出した。

(あの子か……?)

あの、子供のころ一度会ったきりの。しかしそう尋ねようと思ったそ

の時、

「異変が起きます」

形の良い細い金色の眉を眉間に寄せて、黄口が言った。

「異変?」

「そう。歴史に残る革命がね」

厳しい表情のまま、彼は、不吉な声でくすくす笑った。

「あなたには、それを止める力がない。ただ見ているしかない。

でも……」

「でも?」

「ボクとは、また会うことが、あるかもしれません」

そう言うと、霞に溶けるように、鬼神は消えた。

「ちょ……ちょっと待ってくれ!君!!」

しかし、前に踏み出しかけた小角は、ぎょっとして立ち止まった。足

元が崩れかけている。気がつくと絶壁の、ぎりぎり端に立っていた。

ようやく霧が晴れたそこは、大内裏のある都から、とんでもなく離れ

た山奥だった。

(物怪に、たぶらかされた?……これが、最近あちこちで起きている

怪異なのか?)

さっきの霧が体に入り込んだように、ぼんやりと頭が重い。額を押さ

えながら、小角はようやく馬の背にあがった。

(とにかく…帰らなければ…)

でも、どこへ?

ふと小角は迷った。家だろうか。大内裏だろうか。それとも……。

 なぜ、そんなことを考えるのか、自分にもわからない。しかしとに

かく、何かが起ころうとしている。それだけは、はっきりと感じた。

■その3へ■

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