「鬼神……ちゃん?」

「ちゃんじゃねぇよ!鬼神様!!」

「鬼神ちゃん」

「様って言えよォッ!!」

「鬼神ちゃん!」

わざと間違えて、幼い小角が小さく笑う。その前で、ふくれっつらの

同じように幼い鬼神が、座り込んでわめいている。

(これは、夢だ)

小角は思った。過去の二人を、今の自分がどこか遠い上から見下ろし

ている。だからこれは、夢だった。

「いいなぁ、毘沙門天様の所で修行しているなんて」

「ちっとも良かねぇよ。あの天神、いっつもガミガミ怒鳴りやがって」

二人は、積もった雪の中に突き出した、乾いた岩に並んで座っていた。

「ボクも出家したいんだけど、天皇様のお許しが出ないんだ。ウチは

身分低いし役公だからダメだって」

「役公?なんだよ、それ」

「鬼神ちゃん、知らないの?僧侶になるには天皇様のお許しがいるん

だよ」

「ヘッ知るかよ。人間なんて変な生き物だぜ。小さくって何もできね

ぇくせに、自分達でお互いに縛ってやがる。そうやって勝手に順番決

めて、毎日威張ったり威張られたりしてんだろ?」

小バカにしたように鬼神は、その季節に似つかわしくない日に焼けた

頬を空に向けた。

「バッカみてぇ」

「……そうだね。バカみたいだよね。でも…」

言いながら、小角も一緒に空を見上げる。

「やっぱり出家したいなぁ。そのほうが母上だってお喜びになるだろ

うに……。やっかいもののボクなんかいないほうが……」

冬の空に、流れるように雲が動いてゆく。

「ねぇ、鬼神ちゃん。鬼神ちゃんにも父上や母上がいるんだよね。二

人とも優しい?」

「ねーよ」

「え?」

「そんなもん、いねぇよ」

小角は意外な顔をして、かたわらを見た。鬼神は相変わらず空を見上

げている。けれど、わずかに声が小さくなった気がした。

「オレは…毘沙門天のジジイに拾われたんだ。鬼は…自分の子供が自

分と同じ凶暴な鬼になって自分を殺すのを恐れるから…生まれたらす

ぐに捨て子にするのさ」

「鬼神ちゃん……淋しくない?」

「淋しくなんか…ねぇよ。別に……」

鬼神の小さな横顔は、かたくなに何かを拒むように空にむけられたま

まだ。赤い前髪のかかった長いまつげが小さく震え、大きな瞳が2、

3度瞬いたかと思うと、それきり黙り込む。その沈黙に、同じような

何かを感じて、小角も黙った。

 しばらくして、不意に小角が言った。

「ね、鬼神ちゃん。修行してるんなら、いろいろ知ってるんでしょ。

何か術を教えてよ」

「人間には使えねぇよ」

「でも…教えてよ」

「なんでだよ」

「だって…もし使えたら……」

「使えたら?」

「父上は、きっと死ななかったから!!」

「え?」

いきなり強く叫んだ小角を、鬼神は驚いて、きょとんと見る。それか

ら、しばらくして言った。

「いいぜ。なんだか知らねぇけど、教えるだけなら教えてやらぁ」

三密の行。それを鬼神は教えてくれた。三密とは、仏を心に描き、口

で唱え、手印を結ぶ。

「手の形はこう、強く強く念じるんだぜ。そして唱える」

 結んだ印に、力が集まるのを感じる。体中の血が逆流するような不

思議な感覚が捕らえ、小角はこんなにも意識を集中することは、後に

も先にもない気がした。

 突然、熱くなった両手から白い閃光が迸る。と、轟音が空気を両断

した。

「すげぇ……」

鬼神が唖然としている。気がつくと、目の前の岩盤が跡形もなく消し

飛んでいた。

「こ…こんなんで……いいの?鬼神ちゃん」

「す…すげぇよ……すげぇじゃねえかよ!」

「そ…そう?」

小角は、どきどきして、鬼神を振り返った。けれど、とたんに鬼神は

怒ったようにぼそりと言った。

「てめぇってばよォ、おぼえたばっかでオレより強ぇ咒力使いやがっ

て……。ほんとに人間か?」

「みんな…ボクのこと、そう言うよ」

急に下を向いた小角の頭を、鬼神はいきなり、ごつんと殴った。

「ホメてんだぜ、オレ」

「そうなの?」

「そうだぜ!」

もう一度鬼神は、今度はぱちんと小角の頬を弾く。その手が紫に腫れ

ているのに、小角は気付いた。

「あれ、君、ケガしてる」

「いつもだぜ。こんなの」

「そうなの?」

「よくケンカすんだ。一緒に修行してる奴で、気に入らねぇ野郎がい

て。そいつ、やたら強ぇんだ。でもオレだって本気になったら絶対負

けやしねぇんだけど、天神がケンカはやめろって言いやがるから……」

鬼神は少し照れたように、ぶっきらぼうに言った。

「じゃ、ボクが治してあげる。鬼神ちゃんの痛いの、なくなれって」

小さな手が手に重なる。そこから、さっき岩を砕いたのとは違う柔ら

かな光が現れる。すると、傷も痣も嘘のように消えた。

「へえ……やっぱ、すげぇぞ。おめぇ」

「もう痛くない?」

「うん」

雪が降りはじめていた。

「ボク、もう帰らなきゃ。またね、鬼神ちゃん」

「もう会わねぇよ」

「またねえっ」

「会わねえってば!」

「どうして?」

「だって、おめぇ、人間のくせにオレより強ぇんだもん」

ふくれた顔で駄々っ子そのままに、鬼神は上目使いに睨んだ。

小角はもう一度叫んだ。

「じゃあ…またね!」

そして、鬼神を残すと振り向かずに走った。次の言葉が聞こえないよ

うに、急いで走った。けれど、

「またっていつだよ!?おめーッ名前も聞いてねぇぞーッ」

なんとなく後ろから、そんな声が追ってきた気もした。















「おかげんはいかがですか、兄上」

目を開くと、小純の心配そうな顔が覗いている。小角は、何が起き

ているのかよくわからぬまま、それを見上げた。

「ここは?どこだ?……家か?」

「そうですよ。しっかりなさって下さい」

天井が見える。明るい部屋の中で、小角は自分が床についているのに

気付いた。部屋の隅には、いつも着ている緋の官服が掛けられている。

14にしては背の高い小純が立ち上がりながら言っている。

「今、母上を呼んで参ります」

「い、いいよ。大丈夫だ」

慌てて小角は、弟のすそを引っ張った。

 どうも自分は黄金色の奇妙な鬼神に出会ってから、家に帰りつくな

り半日ほども眠っていたらしい。半ば気を失った彼を、馬が連れ帰っ

てくれたのだという。

「大変だったんですよ。皆、おどろいてしまって」

小純は枕元で、水に浸した布を絞った。

「どちらへ行っておられたのですか?お召しものは泥で汚れていたし、

あちこち傷だらけでした」

「いや……それが……」

どうも、よく覚えていない。場所の記憶は全く曖昧だった。なのに、

金色の鬼神とのやりとりだけは、はっきり覚えている。

(おかげで、ずいぶん昔の夢を見てしまった)

小角は起き上がろうとして、床に片肘をついた。

「ダメですよ、兄上。まだ寝ていて下さい」

「大丈夫だよ」

「ダメです!」

「大丈夫だって」

「ちっとも大丈夫じゃありません!!」

絞った布を手にしたまま小純は、急に、子供に説教でもするように言

った。

「昔から兄上はそうでした。頭は良いかもしれませんが、妙なところ

がぬけてるし世間は知らないし、見ていてとても心配です」

「でも、おまえよりは大人だよ」

「いいえ。子供です」

「そうかなぁ」

小角は渋々うなずいた。確かに、小純はしっかりしている。子供なが

らもうすでに政治の才も蓄財の才もある。きっと、自分よりは出世す

るに違いない。そう思うと余計に、ここに居るのが面倒になった。

(私は……なぜ戻ってきてしまったんだろう?)

あのまま、どこかへ行ってしまっても良かったのだ。神かくしにあっ

たことにして。

「兄上は、子供ですよ」

もう一度小純が言った。

「だって、勝手にどこかに出かけて、ひどい様子で帰ってきて僕達み

んなに心配をかけて。全く家長としての自覚がないし、無責任です」

はっとして、小角は弟を見た。まだ少年髪に結ったその顔の大きな瞳

が真っ赤に充血している。縁に、滴が光っていた。

「悪かった、小純」

小角は素直に謝った。

「気をつけるよ。でも、ほら。もう全然平気だし……」

彼は、床に起き上がってみせた。

「そういうことじゃありません」

怒った顔をして、小純は握っていた布を、ぴしゃりと小角の額にあて

る。濡れた布の後ろから、小角は笑ってみせた。

「わかってるよ。毎日元気に働いて、早く結婚して子供もたくさん

つくってお家繁栄にすればいいんだろ」

 やっと、小純も笑った。けれど機嫌を直した弟の子供らしいえくぼ

を眺めながら、小角はどことなくくたびれている自分に気付いた。

 独りになると、彼はすぐに白い夜着を脱ぎ捨て、雑袍(ざっぽう)に

着替えた。長い髪を束ねて背に払い文机に黄巻を広げる。

そして、また溜め息をついた。

(やはり……どこにも行けない、か)

この家を捨てて、この生活を捨てて、勝手に行けない。連綿とただ生

きて、朝廷に仕えていくしかない。

(でも……)

急に思い出して、彼はどことなく得体の知れない胸騒ぎを覚えた。

(あの歌は、どんな意味があったのだろう)

黄口という鬼神は、異変が起きると言った。

(あれがただの物怪ではないのだとしたら……?また誰か…皇子が蘇我

に殺されるとでもいうのか……?)

 小角は立ち上がって、庭に出た。暑さに空気さえも疲れたような夏

の夕暮れに、空が気味の悪いくらい赤々と光っている。

(なんだか……炎か…血のようだな……)

小角は思わずつぶやいた。

 ちょうどその時。まるで絵巻が広がるように、眼前に3つの場面が

映った。一つは、宮の一室で誰かが二人で話をしている。そのうちの

一人は鎌足だった。もう一人は皇子のようだった。2つ目は、山背皇

子が、妃と皇子を道連れに自害している様だった。そして最後の3つ

目は、蘇我大臣の屋敷が燃えていた。

 小角は妖に憑かれたように、ただ呆然とそれを眺めていた。それは、

見えるというより感じるといったほうが良いのかもしれない。とにか

く、その情景が夕日に重なって瞬時に頭に浮かんだのだ。

(なんなんだ、これは……)

ようやく我に返った時、不意にまた、歌が聞こえた。

−−はろはろに男女の声が聞こえるよ−−

小角は周囲を見回して叫んだ。

「黄口、君なのか?」

しかし誰もいない。ただ、クスクス笑う声だけが聞こえている。

「黄口……!君はいったい……」

歩き出そうとして、小角はまた立ち止まった。体が金縛りになったよ

うに動かない。そして再び、同じ3つの場面が繰り返し見えた。それ

らは、幻にしてはあまりにも生々しく、背景に広がる空は、本当にく

すぶった炎と血で染められている気がした。

 気がつくと、小角はもうすっかり暗くなった庭の真ん中に一人でぼ

んやり立っている。体はもとのように動くし、幻も歌声も消えていた。

(なんだったんだ……?また物怪か?……それとも)

もしかすると、昔の咒力(じゅりょく)が戻ったのかもしれない。

(では、予知?)

小角は試しに印を結び、真言を唱えてみた。何度も唱えてみた。しか

し何も起こらない。

(やはり気のせいか)

何かにだまされたような気分で、小角は再び溜め息をついた。第一、

今朝から、夢か現かわからない。あれからずっと、どうかしているの

かもしれない。

(でも…そしたら……あれも夢か……)

不意に、黄口が言ったもう一つの言葉が浮かんだ。

(赤眼は、あなたにずっと会いたがっています)

それが本当のことなのか、そうだとして、あの鬼神のことなのかもわ

からない。

 けれど、そうであって欲しい。たとえすべてが夢でも、それだけは

本当であって欲しい。そうすれば、自分の中のくすぶった何かも、変

われる気がした。

■その4へ■

■千年前の物語■