(1)

『徐州の陶謙が兵20万をひきつれて、自ら濮陽城へ迫って

いるとの由、殿には早々に濮陽へお帰り願いたく……』

 急使の携えた書状のあらましはそのようであった。一読

して曹操は顔色を変えたが、玄徳はにわかには信じがたい

様子を示した。

「お待ち下さい、曹操殿。まだお体もご無理のきかぬこ

と。まず、私が情勢を探らせましょう。それまでは……」

「馬鹿な。そんな呑気なことは言っておれぬ。たぶん陶謙

は私が死んだと思ったのに相違ない。して曹洪はどこにい

る?」

「はっ。すでにこの付近まで軍を率いてお迎えに参ってお

られます」

使者もせきたてる。曹操は無理を押して立ち上がりかけた

が、玄徳がなおもそれを引き留めた。

「では、こちらから曹洪殿へ先使を向けましょう。曹洪殿

は付近におられるとのこと。使いが戻ってからでも遅くは

ありますまい」

曹操は渋々うなずいた。急使は不満げであったが玄徳は使

者を選ぶため小走りに部屋を出た。

(何かおかしい・・。危険だ・・・・)

それは玄徳の直感のようなものだった。曹操などに比べる

と小さいころから本を多読する環境になかった彼は学問的

な兵法にうとい。易学も学んだわけではない。しかし、そ

れだけに自己の勘を信じていた。今まで彼はその勘に助け

られて生き残ってきたのだ。

(もし、陶謙殿が曹操殿の死を早合点して濮陽城を攻める

のだとしたら、まずここに援軍を通達してくるはずだろう

に・・・・)

すぐにそう思ったあとで、もう一つ別の不安が浮かんだ。

(もし・・もしも、曹操殿がここにいることを陶謙殿が気

付いたとしたら・・・?)

密偵には十分気を使っていたはずである。玄徳は関羽や張

飛にすら曹操の部屋に出入りはさせていなかった。張飛に

は曹操であると知らせてもいなかったのである。しかし、

それでも漏れる恐れは十分あった。諜報合戦の激しい時期

である。

(だとしたら、やはり先にこの平原に兵を向けるのが筋で

あろうが・・・) 

玄徳は義弟二人を呼んだ。一人に使者を、一人に留守を

むためである。自身は曹操を送って曹洪の陣営まで行くつ

もりであった。

 使者と二人で部屋に残されていた曹操は間もなく、近づ

いて来る数人の足音を聞いた。一人は玄徳である。声が聞

こえた。

「いいから、お前は残っておれ」

「なぜ俺はだめなのだ兄者」

「お前はすぐ酒を飲んで暴れるゆえ使者には向かぬ」

「俺は兄者の役に立つことならなんだって惜しみはせんの

に疑うのか!」

「これこれ、また駄々っ子のように騒ぐでない。人が聞い

ておったら笑われように・・・」

「だってよぅ」

玄徳と言い合っているのは義弟の張飛らしい。口調と会話

の内容でそれと知れた。張飛の酒癖の悪さは、黄巾討伐の

時代から諸公の間でも有名である。むずかる弟を兄がなだ

めているらしい、その隔てのない微笑ましい光景をききつ

けると、急に曹操はいたたまれない気持ちになった。

(曹洪は・・どうしているだろう)

ここしばらく会っていない従弟の面影が、思わずして乱れ

た心に重なった。

(私達二人は、この義兄弟のようではないかもしれぬ。だ

が・・・・・・)

無性に帰りたかった。ここに居続けると彼自身が危うくな

るような、そんないたたまれなさを感じて、急き立てられ

るように曹操は寝台を降りて床に立ち上がった。

「曹操殿?」

今にも出て行きかけた曹操と鉢合わせて、玄徳は驚いた。

「どこへゆかれます。いま関羽に様子を見に行かせたばか

り。もうしばらくお待ちいただかねば・・・」

その時、控えていた曹洪よりの使者が口をさしはさんだ。

「失礼ながら・・そのお取り計らいは、過分にして無用な

るものかと存じまする。先刻より、それがし、伺っており

ますと・・」

そう言いながら、彼は上目使いで玄徳を非難がましく睨付

けた。

「まるで、曹洪様をお疑い召されているようなお言葉。い

やしくも、曹操様の弟君にあたられるお方に対してあまり

にも無礼ではござらぬか。これはご兄弟の契りを辱めてい

るも同然。しかも、この一刻を争う大事に曹操様を引き留

めようとは、逆賊陶謙に内応していると疑われても、いた

しかたございませぬぞ」

玄徳は詰まってうつむいた。意味は違っているとはいえ、

陶謙と内通していたというのは本当だったからである。

「よさぬか!」

叱咤したのは曹操の方だった。

「ひかえよ!玄徳殿に何ということを申すか。もうよい。

私が早々に戻りさえすれば、かような疑いは起こるまい」

最後の言葉は玄徳に向けられていた。

 決心してしまうと曹操の行動は早い。有無をいわさず支

度を整えて、城外へ出た。玄徳はとめるにとめられず従っ

たが、不安はかくせない。

「どうかもう一時ばかりお待ちになられては・・・」

なおも引き留めつつ、なんのかんのと理由をつけて出発を

遅らせる。曹操は不機嫌になった。

 ようやくその時、美しい長髭をなびかせて関羽が戻って

来るのが見えた。

「どうであった?」

玄徳が尋ねると関羽は息せききって答える。その報告は案

外だった。

「確かに曹洪殿は近くの山中に待機しておられます。こち

らへ進軍して来るご様子でしたから、途中で落ち合えま

しょう。その兵力は約30万と見受けました。曹操殿を擁し

た後、まっすぐ陶謙の手勢に向かわれるらしく思われます

が」

「そうか・・・しかし、その様子では直に曹洪殿と話した

わけではなさそうだな」

「はい。ただ、陣頭に曹洪殿のお姿をしかと見ましたので

間違いはないと思いますが・・・」

玄徳は自分の心配が杞憂に過ぎなかったと知ってようやく

ほっとした。しかし、それでも何かまだ月府に落ちない気

がしないでもない。そっと関羽をわきへ呼んでささやい

た。

「わかった。お前は戻って張飛と城を守っておれ」

「曹操殿をお送りするのはそれがしが致します。兄者が城

にお戻り下さい」

「平原ではこの一件、始終を知っているのは私とお前だけ

だ。だが関羽、お前は容姿が目立ちすぎる。もし陶謙殿の

兵に見られでもしたら何かと不都合が起きよう」

「はあ、確かに・・。まだ、徐州と平原の関係は曹操殿や

曹洪殿も気付いてはおられぬようです。城主が出奔してい

るというのが何かと具合が悪いので、曹洪殿は曹操殿がこ

こにおられることを回りの者にも内密にしていて下さって

おりますが・・おかげでこちらも助かっているという危

なっかしい状態ですから」

「万が一なにか起こった時は、お前だけが頼りだ。どう

か、心して城を守るよう願いおく」

「はい・・」

 玄徳は身を翻した。卑賎から身を起こしただけあって、

官職についても自由気ままな気分が抜けきれぬようなとこ

ろがあるらしい。彼はよく気軽に一人で出掛けることが

あった。そこは少し曹操も似ている。当時の群雄で、生ま

れながらの領地を持っていなかったのは、彼ら二人ぐらい

であったということも、影響しているらしかった。

 玄徳は曹操を一見全くそれと分からぬよう、幕の垂れた

車に乗せ、護衛の兵数騎と共に後に従った。護衛は使者が

あらかじめ連れて来た者達である。こちらからもつけよう

と玄徳が申し出ると、使者の男が目立つことを理由に反対

したので、それ以上は玄徳も言い出せなかった。

 こうして彼らは車を囲むようにして数里進んだ。すると

しばらくして、遠くのほうに砂ぼこりが舞い上がるのが見

えた。駐屯している軍勢である。その人数は曹操が想像し

ていたのよりずいぶん少なかった。関羽の報告の十分の一

にも満たない。不審げに使者を振り返りかけたその時、軍

勢が一斉にこちらへ向かって来た。その中からさらに一

騎、抜け出てきたものがある。

(曹洪・・・?)

曹操は幕を上げて目を凝らした。ものすごい速さでその影

が大きくなる。

「違う!」

先に叫んだのは玄徳だった。

「ははははは。よう来られた曹操殿」

あろうことか高笑いの武者姿は、陶謙の佞臣曹宏である。

あっと思って曹操が振り返れば、さっきまで護衛していた

兵達はすべて長槍を曹操に向けている。曹洪の使者と名

乗った男も剣を引き抜いて、やおら曹操の喉元に突き付け

た。「はかりおったな・・・」

蒼白になって曹操が叫ぶと、曹宏が近寄ってきてまた笑っ

た。しかし、その笑いは今度は玄徳に向けられている。

「やあやあ、ご苦労であった玄徳殿。まずはこちらでゆる

りと休まれよ」

曹宏はそう言うと、にやりとして玄徳を見た。

「どういうことです」

それまで唖然としていた玄徳は、ぎょっとして、後ずさっ

た。

「もう芝居はそのくらいで結構ですよ。我々の手筈どおり

曹操を捕まえることができたのですから」

「そういうことか・・。玄徳・・・・」

刺すような瞳で曹操が玄徳を振り返る。彼はすでに後手に

いましめられ、喉に剣をつきつけられたまま地べたに引き

据えられていた。

「ちが・・・!」

うろたえて否定しようとした時、さっと曹宏が駆け寄り玄

徳の耳元にささやいた。

「これは私の読み通り、ここへいらっしゃったあなたの失

敗です。ご忠告いたしますが、余計なことを言うとこの場

であなたと曹操の首が落ちますぞ。もっとも、弁解のしよ

うがないでしょうがな。まあ諦めなされ。どのみち逃げら

れやしません」

玄徳は、すぐ近くに迫っている軍勢を見、回りの兵を見、

そして今にも首を討たれそうな曹操を見た。彼は黙って曹

宏にうなずいた。

「よし、ひきあげだ」

曹宏が全軍に下知すると軍馬は彼らを囲んで揃って徐州に

首を向けた。

 曹操は縄をかけられたまま一頭の馬の背にすえられ、く

つわは曹宏が握った。意地悪くぐいと曹宏が手綱を引くと

馬は暴れて曹操は転がり落ちそうになった。くいしばった

その顔に、曹宏は自分の髭がくっつきそうに顔を近づける

とにやにや笑って言った。

「のう・・曹操殿、知っておられるか。関羽殿が、あの日

なぜ泰山に居合わせたか・・?」

顔を上げずに、その鋭い目だけを上げて曹操は曹宏を見

た。曹宏はそれを満足げに眺めると

「つまりこういうことだ。徐州ははじめから平原と結んで

おった。そして、泰山を奪う計略であった。そこにお主の

父が通りかかった。・・・・曹嵩殿を殺したのは黄巾残党

の張ガイだが、その指揮をとっていたのは、関羽だったの

ですぞ」

そう言って玄徳を振り返った。

「のう、玄徳殿。そうであったな?」

「・・・・・・・・」

玄徳はうつむいた。青ざめた曹操が、憎悪の視線を注いで

いるのが耐えられない様子であった。

 と、その時、またもや遠くに砂煙が上がり、軍馬のいな

なく声が聞こえた。旗印が翻った。

「エン州の軍だ!」

誰かが叫んだ。陣頭に指揮をとっているのは、誰あろう、

今度こそ本物の曹洪である。関羽の報告は確かだったの

だ。玄徳は混乱して曹宏を顧みた。しかし曹宏の兵馬もざ

わめいている。

曹宏が怒鳴った。

「うろたえるでない。これは、手筈通りである。我が軍は

見回り中の平原の軍としてこの場を通り抜ける」

そしてすぐに意味ありげに目配せした。

「よろしいですかな、玄徳殿。お任せしますぞ」

玄徳はうなずくしかない。曹宏はまた、素早く将兵の一人

に合図した。すると屈強な大男が前に進み出、曹操の馬の

手綱を受け取ると、するりと彼の後ろにすべりこみ、一つ

鞍にまたがった。そうして、自分の体で曹操を覆い隠す

と、片手で手綱を握り、もう一方の汗臭い大きなてのひら

を、彼の口に無理矢理おしつけて声が出せないようにぴっ

たりと覆った。

 屈辱に、曹操は身もだえしたが、いかんせん相手の力が

強すぎて身動きできない。それを見せつけるように曹宏は

もう一度玄徳を振り向いた。彼の目は、

(お前が失敗したらすぐさま目の前で、こやつを縊り殺し

てくれる)

そう玄徳を脅しているようだった。玄徳は観念して目をつ

ぶった。このまま自分だけ逃れれば・・・とは、玄徳は思

わなかった。それが彼の、人の痛みを知る弱さとも臆病と

もいえた。とっさでなくては敵も殺せない、陥れることが

かなわない、そんなあいまいな弱さが彼という人間であっ

た。大望があってもそれが誰かを傷つけるとなると、本気

になれない。誰が苦しむのも見たくない、そんな彼の英雄

らしからぬ気弱な優しさを計算に入れて、曹宏は周到に

謀ったのだ。使者にあらかじめ綿密な芝居を打つよう指示

したのも彼である。どうも曹宏と陶謙は、玄徳や曹操より

も年齢の数だけ意地の悪さが数倍うわてのようだった。

 両軍、やや手前で立ち止まり、一方から曹洪が、もう一

方から玄徳が馬に乗ったまま歩み寄った。お互い馬上で目

礼すると、曹洪がまず口を切った。

「これは玄徳殿、軍を指揮してどちらへ行かれます」

「曹洪殿こそ、大軍を率いて何故ここへ・・・?」

それが、実は玄徳の一番聞きたいところであった。状況が

わからなかった。すべてはまったく陶謙の偽りかと思え

ば、確かに関羽の言った通り曹洪が来ている。

曹洪が怪訝な顔をした。

「私は貴公の書状によって、兄を迎えに参ったのですよ。

我々に兄上をお返し下さるというお約束ではありませんで

したか?」






ようやく陶謙の策が見えてきたような気がして、玄徳は呆

然とした。しかし、呆気にとられている暇はない。

「ああ、さようでございました」

すぐにそう言ってから、懸命につじつまを合わせた。

「私は、最近この辺りに盗賊が出るという訴状を確かめに

参ったのです。どうか、このまま先に城へお入り下さい。

曹操殿もお待ちでございますので」

「かたじけない。ではこのお礼はのちほどゆっくり・・」

「あの・・・」

「え?」

去りかけた曹洪を玄徳は思わず呼びとめた。一瞬ためらっ

た。しかし背後に曹宏の視線を感じた。

「いえ・・何でも・・ございませぬ」

「どうなされました?玄徳殿。どうも顔色がお悪いようで

すが・・・」

この瞬間、気付いてくれるようにと玄徳は祈った。だが、

曹宏が曹操を手にかけるほうが早いに違いない。玄徳は諦

めて踵を返した。不審げに、曹洪はそのぎこちない後ろ姿

を見送っていたが、やがて自身もくるりと馬首を返した。 

二軍がすれちがう。曹操は、はっきりと従弟が、彼のそば

をそれと気が付かずに走り抜けていくのを見た。叫ぼうに

も声が出せない。後ろからきつく押さえ付けられているの

で、身じろきひとつできなかった。見送ることもできず一

瞬で視界の隅から消え去った従弟の姿に、ふと先刻の張飛

と玄徳の優しい会話を思い出した。関羽の涼やかな視線が

それに重なった。

 もし、同じ状況だったなら、あの三人ならば、互いを見

落とすことはないのではあるまいか・・・そんな思いが浮

かんだ。

(わかっている・・。私のせいなのだ。だが、もはや変え

ようとしても変えられぬ)

ひとが、自分をではなく自分の能力を信じていると思うの

は彼自身がそういう目でひとを見ているからだと言った玄

徳の言葉が耳鳴りのように脳髄の奥で転がっている。

(そうとも・・・。もちろん曹洪も例外ではない。私はあ

の従弟をも役に立つ道具のように扱ってきたのだ。だ

が・・ほかにどうしようがあったろう?そう思うことでし

か生き延びてこれなかった私だ)

 からみついて自由を奪っている後ろの男の手が息苦しく

て、曹操はもがいた。しかし、その苦しさはなにも、体を

締めつけられている為ばかりではないような気がした。何

かとてつもない力から逃れるように曹操はもがき続けた。

それは今に始まったことではなく、もの心ついた時からも

うずっと何十年もそうだったような苦痛であった。



(2)


 曹宏の軍は、玄徳と曹操を連れたまま黄河を渡った。濃

い茶色の流れを目にしながら曹宏が玄徳に皮肉っぽく話し

かけた。

「我らを謀ったつもりであったろうが・・・逆に謀られた

というわけですな」

「・・・・・・・・・・・・」

「関羽の報に安んじて、のこのこ出て来たのであろう

が?」

「・・・・・・・・」

「しかし、そこは間違ってはおらなかったですぞ。呼び出

したのは我らのつくったニセ手紙だが、曹洪は確かに平原

へ来ておったのだし・・。しかも、彼奴もお主の城へ使者

を出しておった。ただ、その使者が途中で、我らの使者と

すり代わっただけ・・」

「本物の曹洪殿の使者は?」

「むろん殺した。そうして、貴方がたが来るのを曹洪めよ

り一足先に待ち構えておったというわけですよ」

「・・・・・・・・・」

「貴公らには、このまま徐州城へ行ってもらう。今のとこ

ろ殺すつもりはないから、安心召されるがよかろう。ま

あ、おとなしくしておるようだし・・・」

そう言いながら、曹宏は少し離れて後ろをついて来るもう

一隻の船をちらりと振り返った。曹操が舟縁に端坐してい

るのが見える。縄目は痛々しかったが、毅然とした姿勢を

崩さず、瞑目しているようであった。玄徳は少しほっとし

た。

「陶謙殿は曹操殿をどうなさるおつもりか」

「さあ・・私には何とも・・。しかし玄徳殿、貴方もご自

分の心配をなさった方がよろしいですぞ。我らを裏切った

ことは高くつきますゆえ・・。相応の償いはしていただき

ます」

「・・・・・・・・」

「もっとも、それ以前に面白いことが始まるかもしれませ

んがのう。貴公のお国許で・・・」

曹宏が醜い笑いを浮かべた。玄徳はぞっとして顔を背け

た。

 岸に移ると、闕宣が教徒8千人と共に出迎えていた。

(なんということだ・・・)

玄徳は陶謙が彼らをすっかり手なづけているのを目のあた

りにして今更ながら驚いた。邪宗の教祖と結んだという話

は聞いていたが実際、闕宣に会うのは初めてだった。

 そこで兵は馬を降り、めいめい信者に身をやつすと数人

ずつのグループに別れて四方に散った。玄徳達も着替えさ

せられ、山中を歩かされた。

(これでは、万一曹洪殿が追って来たとしても気付かれる

まいな・・・・・・・・)

 どこからともなく、天帝教の歌が聞こえる。高くなり、

低くなり、それは木々の間にこだまして、意味はわからな

かったが、聞いていると催眠暗示にかけられたような気分

になる。大掛かりな集団洗脳の音楽のようであった。玄徳

は平原の城の中でも同じ歌を聞いたことがあったのに思い

当たった。たまに信者が城内に入り込むことがあっても別

に気に留めるほどのこともあるまいと、放っておいたの

だ。

(すると・・彼らが間者であったのかもしれぬ)

玄徳は自分のうかつさに臍を噛んだ。

 大の男が踊りながら歌詞を口ずさんでいるのは気狂いの

ように見える。実際狂っているのかもしれないが、それが

訓練された者達であると思うと余計に気味が悪かった。

 玄徳は曹操の体を気遣って、何度も彼の方へ視線をやっ

たが、曹操は見向きもしない。しかし玄徳の目には、曹操

の負担がはっきり映った。よろける度に叱責されている。

何度目かに曹操がひざをついた時、後ろの男が彼をしたた

か蹴り上げた。

 曹操は、声を上げなかった。しかし、もう立ち上がれそ

うにはないように見えた。ふと玄徳はいつか見た曹操の、

小さな子供のような顔を思い出した。苦しいほどの憎悪や

愛を抱えて、じっとこらえているあの顔が、あの時見てい

たときよりも、はるかに鮮明に浮かんだ。しかもそれは、

今まで玄徳が誰に対しても感じたことのない感情を含んで

いた。

 同情でもなく、ただ、いとおしいまでの羨望。

 自分が決して持ったことのない偏った、けれど激しい火

花のような愛憎を、曹操が秘めていることに対する羨望

だった。このまま彼を見殺しにしたい気持ちと、助けなけ

ればという気持ちが両立し、わずかに後者が勝ったかのよ

うに見えた。それはおそらく玄徳にとって初めての葛藤で

ある。そして鮮やかな傷のように彼の心に焼き付いた。

「おつかまりなさい」

玄徳が曹操の前にかがんだ。余計なことを、と怒鳴りかけ

た兵卒を曹宏がとめた。

「まあ、よいではないか」

そして興味深そうに二人を眺めた。曹操はちょっと驚いて

いたが、案外素直に玄徳に背負われた。曹宏は期待した反

応と違ったので不機嫌になったらしい。

 曹操に比べてさほど逞しいともいえない体躯の玄徳が背

負うと、子供が子供をおぶっているような危なっかしさが

ある。折り重なって倒れそうなその様子を、曹宏は軽蔑し

たように見下して、ふんと鼻をならした。

 玄徳は懸命に歩いた。見かけよりも彼は足腰に自信があ

るつもりだった。もとより誰かを負うことで傷つくような

自尊心を、彼は持ち合わせてはいない。そんなものは、も

しかするとごく小さいころにはあったのかも知れないが、

自覚する前に失ってしまったようであった。

 曹操は玄徳の背中にあったが、ぎこちない不安定な動き

のせいでほとんど一緒に歩いているように緊張していた。

玄徳への疑いと、なお信じたい気持ちがあり、それらを確

かめるために拒まなかったつもりだが、それさえもいつか

忘れていた。どちらも口をきかなかった。ただ、二人のほ

つれた鬢だけを風が涼やかになぶっている。

 ようよう、徐州城に入るとすぐに曹操は地下の牢獄へ落

とされたが、玄徳は陶謙の部屋へ招かれた。しかし、陶謙

は機嫌が悪い。曹宏と何やら言い争っている。その内容を

聞いていると、どうも曹操の玄徳への疑いが薄れたのが陶

謙は気に入らないらしかった。

「それでは当初の策と違ってこようが」

「別に打つ手はございますよ。要するに平原とエン州を戦

わせれば良いわけです。その後で、力のそがれたエン州を

一気に攻めればよろしい」

「それにはどうするか」

「すべては玄徳の策と、報を流せば良いでしょう。曹嵩殺

害の件と曹操を・・・。そうですな、闕宣の天帝教への犠

牲にでも捧げたということにしたらどうですかな。平原に

も信者は大勢おりますから密かに玄徳が信仰していたとし

てもおかしくはありますまい。連中を信じ込ませる偽の証

拠の方は、実はもうすでに一応の手は打ってございます」

「それで?」

「一方、平原には徹底抗戦せよとの書状を玄徳から届けさ

すのです。あの義弟達はどんな命令であろうと玄徳の命な

らまっとうするでしょう」

「しかし、それでは闕宣が承知すまい。禍いを彼一人に押

し付けるのか?」

「なに、あやつも泰山郡さえこちらの手に入れば、用済み

ですよ」

呆気にとられて聞いていた玄徳に、いきなり曹宏が書き物

をつきつけた。

「お聞きになったでしょう。ちょっとばかり貴方に罪を

被っていただくだけのことです。ご安心なさい。私の言う

通りの文面を作っていただければ命の保証はいたします

よ」

 玄徳は黙って、二人を見た。これだけ舞台裏を見せたか

らにはとても助ける気があるとは思えない。しかし、それ

だからといって玄徳には陶謙達を憎む気配もなかった。そ

れは不思議な視線だった。

 その顔を覗き込んで陶謙は、

「ほう・・・」

と感心したようにつぶやいた。

「きれいな瞳じゃ」

それは陶謙が今まで見たどんな輝石より美しかった。それ

でいてまだ玄徳が未来のある若年であることが陶謙の嫉妬

をあおった。陶謙は自分の醜い顔を玄徳に見せびらかすよ

うにぐっと近づけた。それは、老いの醜さであった。

「玄徳の・・・・目をつぶせ」

はっとして曹宏が陶謙を見た。陶謙は笑った。

「冗談じゃ。そうされたくなかったら書状を書けというこ

とじゃよ」

玄徳はつったったままである。

 その時、急を知らせる使者の声が響いた。それは、陶謙

にとっては吉報であった。

 関羽、張飛と曹洪の軍が衝突したと、その声は告げてい

た。

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