(1)
あれから曹洪はまっすぐ平原の城へ向かったが、何かひっか
かるような思いが抜けず、何度も玄徳の去った方角を振り返っ
ていた。平生とは明らかに違う玄徳の落ち着かない様子が妙に
気になった。しかも、彼はすれちがう軍馬の中に従兄の衣を見
たような気がしていたのである。しかし、それは確かなことと
言うにはあまりにも一瞬であった。
(気のせいに違いない・・・)
頭を振って、彼は馬の足を速めた。
ところが、着いてみると城門が開かない。何度も呼ばわって
ようやく出て来た守備兵は、まったく何も知らないようであっ
た。まるで、従兄が神かくしにあったような不吉な思いにとら
われて、曹洪は関羽に会いたいと申し出た。ほどなく、見事な
長髭を胸までたらした、さわやかな瞳の大丈夫が現れた。曹洪
はその姿を見るとほっとして駆け寄った。
「貴公が先日、従兄の消息を知らせてくれたのでしたな?」念
を押すように言うと、関羽はすぐにうなずいた。しかし怪訝な
顔をした。
「曹洪殿なぜ、ここへ?もうとっくに曹操殿に会われていると
思っておりましたが」
「どういうことです」
「貴方が送られた使者と共に、玄徳兄者が密かにお送り申した
はずです。・・・・では、お会いにはならなかったのです
ね・・・?」
確かに彼も使者を立てていたが、その男はまだ帰っていない。
恐ろしい疑惑に脅かされて、曹洪は口をつぐんだ。
(・・やはりあれは兄上だったのだ・・・・)
もう一度、さっきの瞬間の光景を思い出してみた。それは緋色
の、従兄の衣というよりは衣の断片のようなものだった。断片
のように見えたのは何かに隠れていたからである。そう思うと
栗毛にまたがっていたのは従兄一人ではなかったような気がし
た。
「貴公ら、兄上をどうするつもりだ」
唐突に言葉が彼の口をついて出た。りりしい眉をひそめた関羽
に、彼は詰め寄った。
「玄徳は兄上をどこへ連れ去ったのだ?正直に答えろ。返答次
第では許さぬぞ」
(私は何という失態を・・・)
そういう後悔が彼から冷静さを奪っていた。しかし、その一方
で、
(兄上は私に気がついてはおられなかったかもしれぬ・・)
そんなふうにも思えて余計に心が乱れた。自分よりは玄徳とい
う人間を高く評価している従兄を、彼は知っていた。玄徳への
憎しみを、この時はじめて彼は感じた。
「お待ち下さい、曹洪殿・・」
「まだ、はぐらかすつもりか」
「そうではございませぬ。それがしにはおっしゃる意味がわか
りかねて・・・・。子細をお聞きしとうござる」
「聞きたいのは、こちらのほうだ」
「申し上げます−−−−−−−」
その時、入り口の外で声がした。曹洪と関羽が同時に振り返
る。関羽が尋ねた。
「どうした」
「天帝教の信者と申す者が、城の兵らしき者の死体を拾って
参ったとかで・・・」
曹洪が慌てて出てみると果たしてそれは彼の送った使者の屍で
あった。服装でそれと知れたのだが、顔は切り刻まれてよくわ
からない。一太刀で斬り落とされたらしい傷痕が暗い穴のよう
にばっくりと口を開け、凶器の剣は黒く固まった血をこびりつ
かせながらまだその側にあった。それは、平原でよく使われる
類いの形をしていた。
「わたくしは・・玄徳さまがこの方をお斬りになるのを見まし
た」
死体と剣を運んで来た男がおずおずと言った。
「玄徳さまは・・よく闕宣さまの説法をお聞きにいらっしゃい
ます。先日、闕宣さまが、ご祈祷の際に高家の血が必要と申さ
れまして・・・」
「まさか、兄上を・・・?」
「はあ、何でも曹家の若様を祭壇にと。玄徳さまは急いでい
らっしゃいましたのでもうお命はないと思いますが」
みるまに曹洪の血の気が引いた。関羽が男を一喝した。
「でたらめを申すな!それがし兄者に従って以来幾としにもな
るが、邪宗に祈祷するなど聞いたことがない。しかもおかしい
ではないか。なぜそちが教主を売るような密告をしに参る?」
「わたくしはただ・・・死体を見たのが恐ろしゅうなって
・・・それにまだ説法を聞きに行くようになって間もない者で
ございますから・・・・」
脅えたようにしどろもどろに男が答える。
「曹洪殿、これは何かの策ですぞ。第一、私がお会いした使者
殿とこの方は少し違う。一太刀で斬っておきながら顔だけ刻む
のもおかしいではありませぬか」
関羽は冷静に言ったが曹洪の耳にはもはや何も聞こえてはいな
かった。
(もし兄上が亡くなられたのなら・・私も生きている意味がな
い。私は兄上のために戦う武将だったのだから・・)
関羽と張飛が玄徳に命を差し出したように、曹洪もまた従兄に
すべてを預けていた。戦国の武将は多かれ少なかれ皆そういう
ところがある。生きるも死ぬも主と一蓮托生である。それだけ
に、誰に仕官するのかも慎重であった。見込みのない城主とみ
れば、何度乞われても出仕しない者もいた。自分の命にかかわ
るからである。優秀な者ほどそうであった。彼らはそれ以外に
生きる術を知らなかったのだ。 曹洪は全軍を二つに分けた。
一隊に玄徳を追わせ、もう一隊に平原の城を攻めさせた。
(城が危機に陥れば、玄徳が出て来るやもしれぬ)
衝動に突き動かされるように、曹洪は城を抜こうとした。玄徳
の影と戦っている気がした。
いざ戦いとなると、張飛などは蛇鉾が存分に振れる嬉しさ
に、見境もなくはしゃいでしまう。関羽は必死に停戦をはかっ
ていたが、乱戦になり、冷静さを失った戦いは泥沼状態であっ
た。
「ほほう、それは結構なことだ」
報告を聞いて陶謙は愉快そうに笑った。曹宏の策が当たったの
で喜んでいる。使者が続けて言った。
「曹宏さまを追った曹洪の軍は、黄河で見失ったようでござい
ます。ここまでたどり着いた者はおりません」
使者を下がらせると、曹宏は陶謙に向かって言った。
「そろそろ、闕宣達を泰山に集める時かと思います」
「うん。だまして連れてくるのじゃ。そして我らは邪宗の教徒
が野蛮な祭りを行って天下を乱している・・と、その討伐を理
由に挙兵する。そして一気に泰山郡を占拠するのだ。曹洪も従
兄を殺されたとあっては我らの邪魔はすまい」
「闕宣はいつ・・?」
「討伐の時に始末せよ。余計なことを漏らされてはのう。殺す
のは闕宣と数名でよい。教徒は兵としてそっくりいただく。も
ともと暗示にかかりやすい者共じゃ。今度は我らがかけてやろ
うて」
「泰山が片付きました後は・・・?」
「エン州を攻める」
そう言いながら、陶謙は玄徳の方へゆっくり視線を移した。
「残念ながら、そちの力を借りる必要はなかったようじゃ」
「・・・・・・・・・・」
それは、玄徳がもう用済みであることを告げていた。しかし、
ここで殺されるなら漢帝国の再興を果たすという夢が中途で終
わってしまう・・そんなふうには玄徳は考えていなかった。ま
た平原の様子が気に病むというわけでもない。二人の弟達が心
配でないというわけではなかったが玄徳は彼らを深く信用して
いた。いや、敵の曹洪をも信じていたと言ってよい。すべてな
すがままであったとしても、それは最善の成り行きであるはず
だと思う、そんな呑気な信じ方をするところが玄徳にはあっ
た。だから彼は、いつも自分が次にできることを優先する。遠
望や当座自分が関与できないことは、直面する時点までは、誰
かに預けておいても良いと思っていた。そのとき関わっている
誰かを、彼は信じているのだった。
「曹操殿はどちらに・・?」
「会いたいなら、会わせてやってもよい」
玄徳はうなずいた。とにかく彼を助け出さなければ・・・漠然
とそんな思いが今の彼を支配していた。
薄暗い、石壁に圧迫されそうな細い階段を降りてゆくと、鉄
格子の向こうにぽつりと小さなろうそくの光が揺れていた。そ
の明かりに照らされて静かに端坐している影が見える。玄徳は
黄河の上で見た舟縁の曹操を思い出した。あの時と同じよう
に、曹操は背筋を伸ばしたまま黙然としている。玄徳も恐らく
同じ立場ならそうしているであろうが、彼の場合は他にするこ
とがないのでごく自然にそうなってしまう、といったところか
もしれない。けれども、曹操のそれはどこか意識的な、見られ
ることを予期した意図的な静けさがあった。
「居心地はいかがかな?」
陶謙が格子を覗き込んだ。
「貴公のご身分にふさわしいよう、最上の牢を用意させたの
じゃが気に入っていただけたかどうか」
言い回しがいやらしい。言外に、宦官の孫には獄中がお似合い
だ、という皮肉が込められている。曹操は唇を噛んだまま答え
なかった。
「本当はのう・・貴公を閉じ込めるつもりはなかった。恩の一
つも売ってから、帰して進ぜるはずだった。じゃが曹嵩を殺し
た疑いを、玄徳に向けることが少々難しかったようなのでの
う・・・」
「では、やはり貴様が父上を・・」
「何か感想がおありかな?」
「・・・・・・・・・」
曹操は答えない。しかし彼の、いつもは冷ややかな目の色が赤
みを帯びて、動物的な憎悪を剥き出しにしているのが、ほの暗
い火影にもはっきりわかった。それをみとめて陶謙は笑った。
どういうつもりか彼は気味の悪いほど喜悦していた。
「のう曹操、わしの勝ちではないか?」
「・・・・・・・・・」
「曹嵩は子煩悩な凡人じゃ。お主も父を愛する凡下な息子
じゃ。世間はお主を希代の才人と恐れるが、わしの目にはそう
はうつらぬ」
己の自信を確信したような、まるで呪咀のような喜びをかみし
める声だった。
「ひとつ、誤解がある」
それまで黙していた曹操がその狂喜を遮った。
「私は父を一度たりとも誇りに思ったことはない。私はいつも
恥じていた。宦官だった祖父を、金の力で三公となった父を、
そして・・・父の血を引く私自身を・・。軽蔑している父の血
が私の体を流れ、私の存在を支配している。そう思うだけで、
父への憎しみでこの身が焼き殺されそうになる」
「・・・・・・・・・・・」
「もしここを出れたら、私は必ずや貴公を滅ぼす。しかしそれ
は父の復讐ではない。父への・・そして私自身への復讐だ」
ようやく築き上げた積み石を突き崩されたような、陶謙の歪ん
だ顔が、飢えたような曹操の、ぎらぎらした瞳に対峙した。
その瞬間、玄徳は二人が、この目の前で憎悪を剥き出しにし
ている二人が、同じ生命を生きていることに気がついた。互い
の父に対する、憎悪という名の激しい愛に縛られた命・・・。
「そちの首を・・この手で撥ねとうなった・・・」
湿り気を帯びた薄暗い石壁に、陶謙の声が反響した。
(2)
闕宣が陶謙から受けた話では、共に泰山郡を攻め、その領
土、財宝を山分けにしようということだった。ところが、いざ
城攻めとなると陶謙は援軍を送ると口では言いつつ、なかなか
送ろうとしない。闕宣の兵はもともと庶人出身の者ばかりで、
数が足りないうえに兵法に熟達した士が少ない。戦況は押され
ぎみであった。何度も陶謙に使者をとばしたが一向に来る気配
がない。
(妙だな・・・)
闕宣が不安を覚え始めたとき、ようやく陶謙の援軍が到着し
た。合流した軍勢は勢いに乗じて華と費を襲い、一気に任城を
攻め落とした。
その夜。
「やれやれ、一時はどうなるかと思いましたわい」
任城の楼閣で戦勝祝いの酒に酔いながら、闕宣は陶謙の武将の
一人に向かって冗談まぎれに言った。
「ここまできて陶謙殿に裏切られたとあっては我々も為す術が
ございませんからな」
「かような心配は無用でござる。陶謙殿は信義に篤いお方。現
に今度のことも我らの援軍が到着したればこそ・・・」「あい
や、すまぬ。わかっており申す。忘れてくだされ」安堵が加
わってか闕宣はへべれけに酔っていた。
しばらくすると陶謙の相手をしていた武将が背後に目配せし
た。あたりに闕宣の信者はいない。闕宣が己の密談が露見して
はと、下がらせておいたのである。彼が、陶謙の将兵達とほん
の数人ばかりで楼閣に上がっていたのもそのためであったが、
闕宣はそれが不利とは気がつかなかった。彼は飢えに瀕した貧
しい庶人の弱さを知り、そこに付け込んで詐術で操ることはで
きたが、世界の覇権を狙う大守の心は分からなかった。あるい
は分かっていたのかもしれないが、奢ったあまり忘れていた。
他の者は、その大多数が城の内外で酒を酌み交わしている。
お祭り騒ぎのようだった。その騒ぎの中、急に楼閣から声が
下った。
「わしは闕宣である。これより天帝のお召しにてしばらく天に
昇る。信者の者共よ、心して留守を守れ。我が友、徐州の陶謙
殿は我とともに天帝に愛されたお方。留守中は何事も陶謙殿の
命に従うよう。・・・・・」
この突然のお告げに信者達はざわめいたが、やがて静かにな
り、ほどなくもとの騒ぎに戻った。本人が聞いたら背筋の寒く
なるような話だが、どうも彼らは闕宣が天帝に呼ばれたのを
祝っているらしい。結局、闕宣は自分の施した偽の教育が徹底
しすぎたせいで、その死に臨み哭のひとつも上げてはもらえな
かった。
「わかりのいい信者に囲まれて幸せな奴よ・・」
楼閣で皮肉な薄笑いを浮かべながら、陶謙の武将達が闕宣の死
体を沓の先で小突いた。闕宣の背から流れた鮮血が床板に滴
り、飛び散った血はまだ鮮やかな赤い玉をつくってそこいら
じゅうにちらばっている。あの目配せの直後に斬ったのだ。闕
宣は酔いのあまり抵抗もできなかった。あっけない最期であっ
た。
「早速、曹宏様に首尾をお知らせせねばなるまい」
闕宣のつくり声をしていた男が下に降り始めると、残りの者た
ちも後に続いた。
「大きな袋がいるのう。闕宣めの死骸を信者に悟られぬよう運
び出さねばなるまいから」
「わしが準備してすぐここに戻って来ようほどに」
「ではそれまで誰もここに近づけぬよう手配申そう」
だんだん声が遠くなる。全く聞こえなくなったのを確かめる
と、ついたての影が動き出した。
「闕宣様・・何ということに・・・」
影が呟いた。その時、死体と思っていた陶謙の体もぴくりと動
いた。まだわずかに息があったのだ。
「ああ闕宣様、闕宣様・・・!」
闕宣が目を開くと、彼の小姓であった子供の顔があった。闕宣
を慕って、ついたての陰に長いこと身を潜め、様子を伺ってい
たのである。彼だけは闕宣の策謀をもはるか以前から知ってい
たのだった。虫の息で闕宣は彼に何事かささやいた。あるいは
無念を晴らすこの一言を告げるために蘇ったのかもしれない。
「よいな、必ず・・わしの恨みを・・陶謙めに・・・」
「はい」
泣きながら彼が頷くと、闕宣は安心したようにこときれた。
その晩遅く任城から彼の姿が、ある包みと一緒に消えた。兵達
は酔い潰れて眠っており、気付く者はなかった。
(3)
「錠を開けよ」
陶謙が背後の警護兵に命じた。陶謙の隣に立っていた玄徳を押
しのけて、数人の兵たちが格子戸を開き、中に入ると、油断な
く曹操に長槍の先を突き付けた。鉄製の錠は鍵がささったまま
格子の端で揺れている。
陶謙がたっぷり贅肉のついた重そうな腰の脇から剣を引き抜
いた。
「すまぬのう。予定が変わったので、どのみちこうせねばなら
ぬのじゃ。屍はそちの父と共に泰山に葬ってやるゆえ心配いた
すな」
「・・・・・・・・」
銀色の切っ先が細い首をなめ回すようにゆっくりと動く。曹操
の神経質な細い眉がぴくりとはねた。白い額に汗が浮かんでい
る。さすがの彼も、脅えているようにみえた。しかし、あえて
動じないふうを装っているのがわかる。
曹操は目を閉じて、つとめて静かに口を開いた。
「陶謙殿、ひとつ頼みがある」
「なにか」
「墓は父と別にしてくれぬか」
その顔は常より青白い。知的な上品さと凍結したような若さ
が、なめらかでつややかな冷たい輝きを上乗せし、まるで完成
された一個の白磁のように美しかった。
「なぜじゃ」
不機嫌な顔で陶謙が聞く。
「私はずっと独りで歩いてきたのだ。死後も独りがよい」
その途端、陶謙の老いた醜い顔に嫉妬とも絶望ともつかぬ怒り
が浮かんだ。
「おのれ、貴様のような若造に孤独の意味がわかってたまる
か!二度と生意気な口がきけぬようにしてくれる」
陶謙が剣を、横に精一杯の力で薙ぎ払う。
刹那、玄徳が自分を押さえていた兵を、陶謙めがけて突き飛
ばした。あっと叫んだ陶謙がバランスを失う。丸い体が宙を泳
ぐような格好で、兵ともどももんどりうって転がる。他の兵士
も陶謙の見当違いにそれた剣先をかわそうとして、将棋倒しに
崩れるようにしりもちをついた。
「曹操殿!早く!!」
玄徳は曹操の縄目をつかんで懸命に引きずり出すと、勢いよく
格子戸を閉め、錠を下ろした。
「ま・・待て!」
慌てた陶謙がよろよろと格子にとりすがった時には既に遅く、
立場が逆転している。牢の中から陶謙が上に向かってしわがれ
声で叫んだ。
「罪人が逃げた!捕らえよ!!」
それを無視するように玄徳は鍵を持ったまま、いましがた兵か
ら奪った剣で曹操の縄を断ち切り、彼の手をひいて先刻降りた
石段を地上めがけて駆け昇った。
昇り切ったところで扉を護る兵士とぶつかった。即座に切っ
て棄てた。落ちた剣を拾って曹操に渡すと、扉を圧し開け、間
髪入れずに庭に転がり出る。折しもその場にたむろしていた兵
達数人が、わっと立ち上がり一斉に振り返った。
「玄徳!」
曹操が叫び、玄徳がそれに頷いた。あとはただ無我夢中で、視
界を遮った者から斬り伏せる。左右に斬り散らしながら二人は
城門の外に走り出た。背後から何か守備兵がわめいているのが
聞こえる。追ってきた何人かを斬り払いながらなおも駆けた。
斬っても斬っても後から城門を流れ出るように追ってくる。腕
の自由がまだきかぬとみえて、曹操の剣が鈍い。遅れがちな彼
を何度目かに振り返ったとき、玄徳は、はっとして立ちすくん
だ。転倒した曹操に、二人がかりで剣を突き立てようとしてい
るのが目に入った。
瞬間、玄徳は己の剣を、一人の背中めがけて力いっぱい放っ
た。ぎゃっと叫んでその男が倒れる。わずかにたじろいだもう
一人の隙をついて、玄徳は曹操と相手の剣先の間にすべり込ん
だ。その拍子に足元をすくわれ男がよろめく。玄徳が拳を握っ
た右腕をかざして、曹操の上に横ざまに折り重なった。男が倒
れながら剣を構え直してその右腕に斬りつける。
(腕が飛んだ−−−−−−)
玄徳はそう信じた。男が勢いでつんのめるようにどうと倒れ
る。
「玄徳・・・!」
下から曹操に呼ばれて玄徳は我に返った。
(腕が・・まだ・・ついてる・・・?)
わずかに狙いがそれたのだ。しかし、利き腕を深くえぐられ
て、玄徳はそのままぐらりと曹操の上に体重を預けた。その体
を抱きとめ、起き上がりながら、曹操は倒れた男の姿を探し
た。彼は立ち上がって態勢を立て直すところであった。曹操は
しっかりと玄徳を胸に抱き締めた。鼓動が、直に肌に伝わっ
た。
ふと曹操はこのまま死んでもいい気がした。玄徳は彼の夢を
持っている。それは、たゆたうようにこの世に生き、人を憎ま
ず、在るものを在るがままに受けとめ慈しむことであった。彼
にはできなかった。どんなに望んでも、多恨多情な彼の胸はそ
れを許さなかった。
(私は愛されたかったのだ。この世界に・・。この世界に生き
る人々に・・・。だが、幼い私を・・この世は裏切った。裏切
られた私は憎むしかなかった。愛されたかったその想いの、す
べてをかけて憎むしかなかった・・)
涙がこぼれ落ちた。今はじめて彼は、玄徳に惹かれた訳をはっ
きり悟った。その玄徳が彼をかばって倒れ、今度は彼が玄徳を
かばって死のうとしている。彼は夢を手に入れた気がした。生
まれてはじめて、他人を愛することができたと感じた。地位も
名誉も権力も才能さえ被ってはいない裸のまま、同じように裸
な魂を愛することができたと信じた。一生の夢を抱き締めたま
ま、このまま死ねたら幸せだろうと、思った・・・・・。
しかし、それらはほんの一瞬のことである。再び男が斬りか
かった時、曹操は素早く前の兵が落とした剣を拾い、その足を
薙ぎ払った。悲鳴を上げて、血しぶきとともに男の足が吹っ飛
んだ。
玄徳が放心したように曹操の胸から顔を上げた。曹操の白い
頬にはまだ涙の跡が残っていた。玄徳は左手の親指でそれをぬ
ぐってやりながら微笑んだ。それは傷の苦痛に歪んではいた
が、何もかも知っているような、どこまでも優しい微笑みだっ
た。
「曹操殿・・貴方はそれでよろしゅうございます。貴方はその
ままで・・・・」
「君には・・・私の心が見えるのか・・・?」
うなずくかわりに玄徳は、傷を負っていない方の腕で曹操の背
を抱いた。それには、いたわるような温かさがあった。しか
し、同時にすがりつくようでもあった。曹操は、玄徳もまた彼
とは全く逆の意味で、彼と同じ夢を見ていたことに気付いた。
(心の底から魂を愛しむ、永遠の夢・・・)
そのとき玄徳の肩ごしに陶謙自らあたふたと走ってくる姿が
見えた。曹操は玄徳をその場において陶謙の方に向かってゆっ
くり歩き始めた。
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