(1)

 陶謙は父の顔を覚えていない。いや、父が死んだときの彼の

年齢から言えば記憶していてもよいのだが、敢えて忘れてい

た。忘れたかったから忘れてしまったと言っても良い。彼がそ

ういう性格だからか、彼の二人の息子達も彼そっくりに冷淡

で、どちらも父の治める徐州城に出仕していなかった。

 陶謙の父ははやくに亡くなったので、家は彼が生計を立てて

いた。だれの世話にもならずに自分の力で生きていると、この

時から彼はずっと思っている。家長を失った一家に世間はての

ひらを返したように冷たい。姉を嫁に出すのもひと苦労だっ

た。父の不在は女子の社会的な地位を下げる。

(力が欲しい)

馬鹿にされる度に彼はそう思って歯がみした。世間というもの

の不気味な機構に、脅え、憎しみを感じた。近所の主婦は彼を

「家を支えて偉い子供だ」とよく誉めたが、自分達の娘を嫁に

やることには反対だった。また、彼の家の女を嫁に迎えようと

いう男もなかった。

 洛陽の大学に入った時、同期の学生達が親の金で遊んでいる

のを嘲りつつも羨みながら、自身は必死に勉強した。学問が特

に好きだったわけではない。ただ彼には立身出世を図ろうと思

えばそれしか道がなかったのである。

 廬県の令に任命されたとき、彼は自分のやり方が間違っては

いなかったと確信した。

(俺が頼れるのは俺自身の実力だけだ。この力で、俺はもっと

もっと大きくなってやる)

−復讐−

そんな言葉が浮かんだ。それは世間が彼に与えた仕打ちに対す

る復讐であろうか。

 陶謙の父の友人だった男に廬江郡守を務めている張磐という

のがいた。張磐は陶謙に目をかけいつも酒席に招いたが、ある

「陶謙、わしの後に続いて、そちも舞いを一差しどうじゃ」

「いえ私は粗忽者ですので」

「よいではないか。遠慮せずとも」

「・・・・・・」

主人の後に客が舞うのは当時の習慣であったが陶謙にはそれが

権力を含んだ強制に思われた。舞い始めた陶謙は、わざと忘れ

たふりをして、旋回する部分を省略した。張磐は不満げに唸っ

た。

「なぜじゃ」

「古の長沙王でございます」

前漢景帝に所望されても「私の国は小さくて回れませんので」

とはぐらかした劉発の故事をまねた。今の力が小さくとも、俺

はあんたの自由にはならん、そういうつもりであった。強制さ

れて、芸を仕込まれた犬のように回ってみせることはがまんで

きぬ屈辱だった。

 張磐は不機嫌になった。

「わしはお前の父を良き友人と思っておったが・・・おまえは

その子ではなかったか?」

「父の交友は私には関係ございませぬ」

「不肖の息子よのう」

「さもありましょう。私は父ではございませぬゆえ」

生きて行くのに世話にすらならなかった、そう言いたかった。

それが陶謙の弱さでもあり、誇りでもあった。

 その後も彼は昇進を重ねた。

 今の徐州の地は天子を弑した大逆賊と悪名の高かった董卓に

もらったものである。貢ぎ物を贈った代わりに徐州の牧に任じ

られた。董卓討伐の気運が諸州に満ちていた時機だけに、この

行動は反感を買った。

(連中にはわからん)

譜代の禄を食んできた諸公に反発するように陶謙は唾棄した。

(力を得るためなら何でもする。そうしなければ俺は生きて来

れなかった。今、董卓は逆臣とはいえ事実上、漢帝国最高の実

力者ではないか。彼に媚びてなぜ悪い。それに・・・)

と陶謙は思った。

(董卓はいい。正直な奴だ)

己の欲望に対して、という意味である。天子の不幸を嘆く忠誠

心にかこつけて野心を表す、諸州の群雄たちに比べて、陶謙は

董卓が好きだった。年齢が近かったせいもある。当時の実力者

たちの大半は彼らよりふたまわりも若かった。

(青二才めらが、何を・・・)

曹操たちが董卓討伐の軍を挙げた時、陶謙は苦々しげにつぶや

いた。互いの野心を忠義という名の旗印で隠し、意気揚々と結

託している様子が、もはや盛りを過ぎた彼の目には滑稽にしか

うつらない。平気で道化を演じる無知な若さへの嫉妬もあっ

た。

(若い奴は馬鹿だ。だが、その馬鹿さ加減に気がつかぬ。経験

が足りぬ分だけ己を過信しておるにすぎぬ)

彼らの自信を嘲笑しながらも、老いた自分を自覚して、彼らの

向こう見ずな若さに陶謙は嫉妬した。

 結局、彼は反董卓連合軍に参加しなかった。時代の勢いから

は外れることになったが、しかしまだ、世に名を轟かすことを

諦めたわけではない。

(まずは、領土を広げねばならん)

平原の劉備玄徳と結んだのは、徐州の隣に位置する泰山郡攻略

の準備のためである。その少し前に、陶謙は天帝崇拝教の教祖

と名乗る闕宣が、天子を自称していると聞いて彼を呼び寄せる

使いを出していた。“行幸”願いたい、と言ってみた。すると

闕宣は一人でやって来た。

「そちは、自らを天子と称しているがなにゆえか?」

「ある朝、天の声が聞こえたのです。漢帝国は私に授けられ

た、と」

「天子は長安にいらっしゃる。己の言動を帝に対する反逆とは

思わぬか」

「反逆とは何に対してそう言うかで、だいぶ意味が違って参り

ましょうな」

ふん・・と陶謙は鼻を鳴らした。その様子は不興げではない。

闕宣はにやりと笑った。

「漢王朝が衰退した今、各地の英傑などはどれをとっても逆臣

と申せましょうが・・・それも、劉氏にとっては・・・という

意味」

「ではそちは何に対して反逆でないと申すか」

「漢の民に対して」

「漢の民がそちの即位を望んでいると?」

「そうです」

闕宣は恐れ気もなくそう言ってから付け加えた。

「今はどうか存じませんが、私が帝位につけばそう思うように

なるでしょう。人間とはその大半が日和見主義ですからな。力

のある者へなびくものです」

「それも、そちの崇拝する天帝が教えてくれたのかね」

「まあ、そういうことになりますかな。私の言葉は天の声、と

いうことにしておりますので」

「信者はそちのためならいつ死のうともかまわぬと言っている

そうではないか」

「さよう。宗教とは便利なものです」

陶謙は快笑した。闕宣が気狂いではないばかりか、その真意が

知れたからである。一人で来たのもそれなりのわけがあるのだ

ろう。陶謙は闕宣がそうと言わぬうちにきりだした。

「しかし、いかに強力な信仰の上に結束した軍隊とはいえ、八


千人ばかりでは数が足りまい?」

「もちろんです。が・・・その強い結束と兵の実効力は徐州の

兵も及びますまい。なにしろ神のお告げがございますので、信

者は文字どおり何でもいたします」

言いながら闕宣は意味ありげに笑った。

「わかった」

と、陶謙は頷いた。

「これより同盟いたそう」

 これで話は決まった。

 その時から陶謙は具体的な策を練り始めた。

(まず、泰山郡の華と費を奪い、その後に任城を攻略する…)

そんなとき、曹操の父曹嵩が家財と一緒に徐州の地を通り掛か

るという情報が入った。百輌の宝物は魅力である。計画ではど

のみち曹操を敵に回すことになる。どうせなら、と陶謙は思っ

た。

(奴の父を殺せば戦況は激しくなるだろうか?まあ、しかし、

たいしたことはあるまい。黄巾の残党を使って襲わせ、わしは

知らなかったと言い逃れる手もある)

曹操は近ごろ実力をつけたとはいえ、袁紹などから見ればまだ

まだ弱小である。もし戦っても十分勝てると、陶謙は端から馬

鹿にしていた。それに、曹操は以前から腰が重いという噂があ

る。何度もクーデターの誘いを断っているし、官職を辞退して

田舎に引きこもっていたこともあった。

(それに本拠地を襲う訳ではないから、すぐに戦闘がはじまる

こともなかろう)

あの若造に何ができる、そんな気持ちがあった。陶謙は、董卓

討伐軍を組織した頃から曹操が気に入らなかった。その後、刃

を交えることがあってからは、憎しみすら感じている。

 ちょうどその時、広陵太守の趙イクが出仕しており、聞いて

陶謙を諌めた。

「曹操殿は父親にひどく可愛がられて育ったとききます。曹嵩

殿を殺せばただでは済みますまい。そのような非道はお控えな

さいませ」

陶謙は面白くない顔をした。そもそも陶謙は親孝行で生真面目

と評判の高いこの賢臣が嫌いだった。正常な家庭で育ち、正常

な愛を育んだ人間が目障りだった。自分がそうではなかっただ

けにまるで、彼らに脅迫されているような気になる。彼らが怖

かった。彼らが憎かった。

(親に可愛がられただと?親孝行だと?気味の悪い・・)

その時、ふと、残酷な殺意が生まれた。

(曹操が本来どんな人間かは、わしは知らぬ。だが奴は金持ち

の父の愛を一身に受けて育ち、非常なわがままだと聞く。その

ような人間はそれだけで罪だ。それだけでわしを脅かす。よ

し、それならば・・・)

曹操が董卓討伐以来、急に名をあげ、奔放な若さを持つという

ことに対する嫉妬もあった。

 そして、あの惨劇がおこったのである。




「重大な報告があります」

それから間もなくして、陶謙の気に入りの臣、曹宏が慌てふた

めいてやって来た。曹宏は邪悪な佞臣と言われていたが、陶謙

はそれと知って寵愛していた。  

「何事か。曹操の行方でも分かったのか?」

張ガイらが泰山で曹操と出くわしたという情報はすでに陶謙の

もとに入っていた。その後、濮陽にも戻っていないこともわ

かっている。それで彼は密かに生死を確かめるべく捜索させて

いたのだった。死んだと分かればすぐにでもエン州を攻め落と

すつもりであった。

「それが・・・」

曹宏はいいよどんだ。

「さっさと申せ」

いらいらして陶謙は怒鳴った。年取って以来、気が短くなって

いる。焦っているのだ。早く事を起こさねば寿命が尽きてしま

う。


「曹操は平原にかくまわれているらしいのです」

「なんじゃと?」

さっと、陶謙の顔が青ざめた。

「劉備玄徳がかくまっていると申すか」

「はい。しかも、あやつ、我々から兵四千を借りておきながら

軍を起こす気はないようで・・・」

「おのれ玄徳・・・。裏切りおって・・」

皺がはえ、色の悪くなった唇がぶるぶると震えた。玄徳の全く

裏切りそうにない茫洋とした性格や、貧しい育ちの苦労を気に

入っていただけに余計憎しみがわいた。信頼が、ムシロを織っ

ていたぼんやり者に謀られたか、という腹ただしさに変わっ

た。

「すぐ、兵を率いて平原に向かえ!曹操と玄徳、二人の首をま

とめてはねてくれるわ」

「お待ち下さい」

気味の悪い笑いを浮かべて、曹宏がそれを止めた。

「今、平原を襲えば必ず曹操はエン州から援軍を呼ぶでしょ

う。それでは我らは敗戦するやもしれません。また、仮に勝っ

ても曹操を殺せば、今度は曹氏の武将達が黙ってはおりますま

い。総力をあげて復讐に来ることは間違いありません」

「ではどうすればよい」

「私に策があります」

曹宏は陶謙の耳元に何事かささやいた。

「わかった。そのように計らえ」

陶謙は頷いた。

 曹宏がそそくさと去った。

 陶謙はしばしぼんやりと去った方向を見つめていた。最初の

残虐な行為が、すでにひとりで勝手に転がり始めている。もう

引き返せない血みどろの戦いが始まろうとしていた。ふと、陶

謙の目の前に、幼かった日に見た父の優しい面影が浮かんだよ

うな気がした。忘れようとしていた、幸せだった過去の記憶が

蘇りかけた。しかしそれは、思い出して懐かしむにはあまりに

も遠く、短かすぎた。

(わしは間違ってなどいない)

陶謙は己に言い聞かせるように呟いた。

(わしはこれで良かった。後悔などしておらぬ)


(2)

「だいぶよくなられましたね」

玄徳は、曹操の胸の包帯を代えながらにっこり笑った。

「もう熱も下がられたし」

そう言いながら、寝台に横になっている曹操の額に手をあてる

と、彼の乱れた髪を指ですいた。

 いつもあまり突然、無造作に触れるので、曹操の方が驚いて

ばかりいる。遠慮がちな近侍の手とも、敵地でのひっ迫した護

衛の手とも違う。むしろ不遠慮といっていいほどの感覚であっ

た。彼の意識では、はなはだしく礼節を欠いているような気が

しないでもない。

(これが他の者なら、とうに一喝して斥けているところかもし

れぬ・・・)

しかし何故か玄徳がやるとあまりにも自然で、ただ呆気にとら

れるばかりだった。日だまりのように笑う彼に手を置かれる

と、全く嫌な気がしない。それどころか暖かい安心に包まれる

ようで心地よかった。

 ふと曹操は玄徳の官服に目をとめた。

「君は平原の相になられたそうだが・・・いつもそのような軽

装でおられるのか」

いましがた政務をみてきたばかりのはずなのに着替えた様子も

ない。それでいて、玄徳が身につけているのは、曹操が見たこ

ともないような、薄い、粗末な着物だった。

「お恥ずかしい」

玄徳は顔を赤らめた。

「百姓の生活をしておりましたせいか、格式ばった正装は苦手

です」

確かにそれは、農民の着る野良着に近かった。曹操も普段は実

用向きで経済的であるとして、軽装を好み絹などは身につけな

かったが、そんなこととも全く異質な感じがした。「また、帽

を編んで見せてくれぬか」

「よろしいですとも」

求めに応じて、玄徳は道具を引き出した。曹操がせがむので、

このところよく彼はこの特技を披露していた。帽を編むなど本

来、婦女の仕事だが、老母を助けて小さいころから水仕事を

し、ムシロを織り靴を作っていた彼は別段それを恥とも思わ

ず、もともと手先が器用なのか手慰みによく身の回りの物を自

分で作った。

 紐が組まれて立体的な形になってゆくのを、曹操は物珍しげ

に眺めた。彼はいつもなにげなく使っている物がどんなふうに

作られているのか知らない。不思議なものを見るように玄徳の

指先の動きをみつめた。目新しさに慣れても飽きることがな

かった。

 玄徳は、少し傷が良くなってからというものしきりに曹操が

退屈がるので、その場いっときの閑しのぎでやってみせたつも

りだったから、これほど彼の気に入るとは思っていなかったら

しい。何度も望まれると面食らった様子をしたが、さりとて嫌

な顔をする玄徳でもない。

 曹操は玄徳の手の甲を見ていた。さほど大きな手ではなかっ

たが、節々が腫れたように膨らんでおり、そのせいで指も実際

より短く太くみえた。曹操は肉の薄いくすんだような色をした

その手と自分の手を比べてみた。曹操の手は、俗に言う白魚の

ような指がすんなりと伸びている。いまだ生活苦を知らない手

だった。ただ、剣や弓を握る部分だけが皮に厚みをおびてい

る。

 曹操の中に玄徳の過去の身分を蔑視する気持ちがないではな

い。しかし、それ以上に彼の見知らぬ暮らしを知っている者と

しての興味の方が強かった。その興味は一種の畏怖と憧憬を含

んでいた。曹操ならば三日と我慢できぬような状態ですら生き

延びる下民の、ねばっこい生命力に対する恐れと、そうしたギ

リギリの中から生まれた本能的な愛に対する憧れであった。

 曹操は黙って、六つ年下にもかかわらず、彼よりもずっと大

人びて見える玄徳の手付きを眺めていた。ここに来てからまだ

一度も、玄徳はその理由を彼に聞こうとしない。といって、曹

操自身にも、聞かれて答えられるほどはっきりしているわけで

はなかった。ただなんとなく、帽を編む玄徳を見ていると、こ

んな姿に会いたくて馬を走らせて来たような気もした。

 なんとなく・・と思ったのには、理由がある。玄徳は噂によ

れば、生来の農民ではない。そのことが曹操を素直にさせな

かった。

 曹操は玄徳が漢皇室の血を引くという噂を信じているわけで

はない。むしろ逆だった。そんな旗印を掲げている者は乱世に

はいくらもいたのだ。しかも部下が主人にとって代わる時代で

ある。逆に言えば、命を守るには血筋もそれほど役には立たな

い。にもかかわらずそう名乗る者が後を断たないのは、漢室の

地位が低下したとはいえ、一般にはまだまだ通用する触れ込み

だからであった。

 曹操にはこの玄徳が真偽のわからぬ血筋に頼っていること

が、我慢ならない気がした。それは彼自身もまた血筋にはひと

かたならぬ呪咀を持っているということの裏返しであった。も

し噂が本当なら、玄徳は彼の恐れるものを二つながら備えてい

ることになる。土民の強さと、家柄の強みと。前者は当世の英

雄では、誰も持つ者がない。

「どうなさいました?」

「え?」

玄徳に声をかけられてはじめて、曹操は自分が不機嫌な顔で彼

の手元を見つめていたのに気が付いた。玄徳は相手の感情の変

化に聡い。曹操がむっつりしているので自分が何か彼の不興を

かったと思ったらしい。曹操はちょっとほっとした。玄徳の気

遣いは彼や袁紹にはないものである。いうならば、土民の弱さ

であった。

「いや・・少し胸が苦しくて・・・」

曹操は急いでごまかすように言ったが、実際さっきから具合が

悪かった。いつもの彼なら虚勢を張ってでも平静を装うはずだ

が、不思議と玄徳の前ではそういう類いの無理はする気になら

ない。

 玄徳は編みかけた帽を傍らにおくと、曹操の胸を、傷に触れ

ないように注意しながら静かにさすった。少し前に危篤におち

かかったとき、玄徳がやはりこんなふうに一晩中世話してくれ

たのを曹操は思い出した。あの時は彼も意識がおぼろでそれど

ころではなかったが、今ははっきりと手の温みを感じる。それ

は、ずいぶん昔にどこかへ置き忘れてきた人肌の優しさであっ

た。

「玄徳殿は母御と育ったか」

「はい。・・・・・?」

急に曹操がそう言い出した意図をはかりかねて、玄徳はけげん

な顔でうなずいた。それを見ずに、曹操はまるで独り言のよう

に言葉を続けた。

「私は実母ではなく乳母に育てられた。母上のことは知らぬ。

ものごころついた時にはもうおられなかった。乳母は身分が違

うから、非道となじられるだろうが・・人とは思わずに大きく

なってしもうた。私は人心の温みを知らずに育ったのだ。母に

抱き締められずに育った貴族は・・人の痛みや優しさも知ら

ぬ。なのに、野に在る土民よりももっと人の優しさに憧れてい

る」

玄徳は曹操の顔を見た。まるで親に捨てられた小さな子供のよ

うな顔だった。

「わかりませぬ。私には・・・」

玄徳は正直にそう言った。

「玄徳殿は母御の腕をおぼえておられるか」

「はい。私は百姓として生活しておりましたゆえ。我々は実の

母に抱かれ、兄弟の手を握り、心と心の関係以上のものをも作

り上げていくのです」

曹操は、玄徳に触れられても自然に感じるわけがようやく分

かった気がした。

「羨ましいことだ。だから、君は領民に愛されるのか」

その顔は玄徳にも読み切れないほど複雑な表情を浮かべてい

た。強いて言えば嫉妬と羨望と憎悪と恐怖が入り交じったよう

な顔であった。

「君はよく領民一人一人の話をしてくれるが、彼らとはそれほ

ど近しく付き合っているのか?」

「ええ。家族同様に思っておりますので。共に酒を飲むことも

ありますし、子供達の読み書きもみてやることもございま

す。・・・・それが何か・・・・?」

玄徳にはわからない。彼は何の意識もなく思い付くままに民の

面倒をみていた。それはかえって淡泊に見えるほど、誰に対し

てでも同じなのだった。

「民になら、曹操殿の方が慕われておりましょう。武将にも謀

臣にも恵まれていらっしゃいます。私には義弟が二人いるほか

は何もございませぬ」

「いや・・私のは・・・・」

曹操はうつむいた。

(君とは違う)

そう言いかけて黙った。その様子は、先刻よりもいっそう淋し

げにみえた。玄徳は跳ね上げてあった上掛けを引っ張って彼に

着せ、上から肩を撫でた。おそらく玄徳は、たとえ敵であって

も目の前ですがられたら、同じようにそうしてやるのに違いな

かった。

「さあ、もうお休みなされ。あまりお話しになるとお体にさわ

ります」

曹操は溜め息をついた。

「君は不思議な人だ。君が側にいるだけでほっとする。その朴

とした優しさにこのままずっと包まれていたいと思う。君の家

臣は君に心酔して集まった者ばかりだと聞いているが・・・こ

うして向かい合っていると分かる気がするな」

「曹操殿のご家臣もいずれおとらぬ忠義の者ばかりと聞いてお

ります。心を分けられたご親友もいらっしゃるとか。この玄徳

よりは遥かに・・・」

「いや」

と言って曹操はまたうつむいた。

「人は君という人間に対して集まるのだ。しかし、私には違

う。人は私の力に対して服従しているにすぎぬ。友も家臣も私

を愛しているのではない。私の力を愛しているのだ」

「それは・・・・・」

玄徳はその澄んだ瞳でまともに曹操を見据えた。珍しく厳しい

色を含んでいた。

「曹操殿ご自身が他人をそのように愛すからでしょう」

はっと打たれたように曹操は玄徳を見上げた。青ざめた顔だっ

た。見開かれた彼の鳳眼は潤みを帯びて、今にも泣き出しそう

であった。

「だが、いまさら・・・変えられぬ・・」

やっとそれだけ、喉から押し出すように呟いた。

 玄徳が何か言おうとした、ちょうどその時、急に部屋の外が

騒がしくなった。従者の呼ばわる声がした。

「申し上げます。濮陽城より、曹洪殿の使いが参られたとのこ

とでございます」

 我に返ったように、曹操は玄徳と顔を見合わせた。

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