(1)

曹嵩が陶謙に謀られて殺されたという悲報が曹操のもとに伝わったの

はそれから間もなくである。

 聞いた瞬間から長いこと曹操はぼんやり突っ立ったままだった。何を

言われているのかよく飲み込めていないような顔であった。

 この濮陽城に逃げ帰って来たのはわずか10名ほどである。曹操が差し

向けた迎えの使者ばかりであった。報告に参内したそのうちの一人が、

曹操が自分の話を聞いていなかったのではないかと疑ってもう一度繰り

返した。

 曹洪は従兄の常に白い顔が白さを通り越して透き通るような蒼みを帯

びているのを見た。あっと思った瞬間、曹操はその場に崩れるように倒

れ伏した。曹洪が一足飛びに駆け寄って抱き起こしたときは、もう気が

ついていて、それから声を上げて泣くかと思いきや、いきなり大声で笑

い出した。

 文武百官ともに曹洪も唖然として見守った。曹操は笑い続けている。

曹洪は従兄が悲しみのあまり発狂したのではないかと疑った。

「兄上、兄上、どうなさったんです!?しっかりして下さい!兄上!!」

 半狂乱のように、曹洪は、従兄を抱き締めて揺さぶった。彼のほうが

泣きかけていた。

「心配するな。私は正気だ」

まだ笑いの残る口許で曹操は言うと、従弟の腕を押しのけるようにして

立ち上がり、辺りを見回した。

「皆の者、案ずることはない。可笑しいから笑ったまで。さて、報を続

けてくれぬか。もっと詳しく申せ。それによって陶謙の処分を考えねば

ならぬ」

 使者の報告は惨をきわめた。聞く者は皆すすり泣いたが、曹操は終始

あざけるような笑みを漏らし、いちいちうなずいていた。そして、一部

始終を聞き終わるとついと立ち上がり、奥へ入ってしまったので、代わ

りに曹洪がねぎらいの言葉をかけて懇ろに慰め、さがらせた。

 辺りにざわめく声が聞こえた。

(殿はどうなされたのだ?)

(お父上が亡くなられたというのにあまりなご様子)

(子としての道に欠けるのではないか)

 その一方でこんな声も聞かれる。

(いやいや、殿は我々に心配をかけまいとわざとああ振る舞っていらっ

しゃるのだ)

(涙を見られるのがお恥ずかしいのだろう。いたわしいことだ)

 曹洪もこちらの言葉を信じたかったが、妙に甲高い従兄の笑い声が気

になって、とても通り一遍の解釈を加える気になどなれなかった。皆へ

の心遣いにしてはあの哄笑はあまりにも真実味がありすぎた。かといっ

て、人を欺く策謀にしては奇妙すぎる。

(従兄の性格なら・・・)

と、曹洪は考えた。

(欺くつもりならきっと泣くだろう)

この際、同情を買うほうが得策である。本心からにしても、そうではな

いにしても、いずれにせよ笑うよりは泣くほうが妥当と思えた。

(あのいつも冷静な兄上が・・・)

それだからこそかえって気味が悪かった。曹洪は急いで従兄の後を追っ

た。




「兄上?」

 寝室だと思って覗いてみたが誰もいない。そればかりか曹操の姿は城

中探しても見当たらなかった。直前の様子がおかしかったばかりに、曹

洪は典韋や夏侯惇らとともに青くなって城主の行方を尋ね回った。よう

やく捜し当てた、曹操を最後に見たという者は馬屋番で、彼の話によれ

ば曹操は普段着のまま城門を出ると東の方へ馬を走らせて行ったとい

う。それまで自害した従兄の姿を見付けるのではないかと動転していた

曹洪は、急にはっとなってあることに思い当たった。

(東・・・。まさか平原へ?・・・劉備玄徳殿・・・)

突飛な発想だと思いつつ、否定すればするほど何故か確信が強まる。

(兄上・・・。どうしてこんな時に・・・・)

何か絶望的な感情におそわれて、曹洪はしばらく呆然と従兄の去った方

角を見つめていた。

曇天が広がっている。

(2)


 黄河に沿って昼夜休まず馬をとばすと、泰山の付近で雨になった。

「よく降る・・・」

天の父へ対する哭かとも思える。そう思ってから曹操はすぐに嘲笑して

打ち消した。

(あの凡庸でぶざまな父上に天帝が涙をこぼすものか)

曹操の脳裏に、生き残った従者から報じられた父の最期が克明に浮かん

だ。襲われたとき、費県の宿舎で休んでいた曹嵩は逃れようと愛妾の手

を引いて庭にまろびでた。崩れかけた塀から外に出ようとしたが妾の体

が肥満していてくぐり抜けることができなかった。諦めて厠に隠れたと

ころを発見されて斬られた。

「醜い死に方をされたものだ」

曹操は声に出してつぶやいた。声にでも出さなければ居ても立ってもい

られないような気がした。なぜか陶謙への憎しみよりも曹嵩自身へ責め

を負わせたい気持ちの方が大きい。死、それ自体には天命のような諦め

がある。乱世においては肉親が殺されるなど日常茶飯事であったし、彼

とて他家の一家を惨殺したことがある。しかも曹嵩とは、共に居住しな

くなってから久しいので、他界したと言われてもぴんとこない気持ちも

ある。今の彼には一時も離したことのない、側仕えの典韋などに死なれ

る方がよほど実感があった。

(たしかに陶謙はこのままにはしておけぬ。しかし・・・) 老いさば

らえて黒ずんだ父の体が、ぶよぶよとふくらんだ白い肉の塊を塀の穴に

押し込んでもがいている。妾と一緒に、裸同然の姿で、慌てふためき、

命乞いをして、揚げ句に雑兵に斬殺される。小さな黒い肉が巨大な白い

肉に圧し潰されるようにして厠で死んでいるのが見えたような気がし

た。

(せめてご最期は部屋で静かに己が首をはねて果ててくれていたのな

ら・・・)

さもなくば、妾を捨ててでも一人逃げてくれた方が救われる気がした。

 彼自身、合戦のさなかで敵に背を向けることがままあった。最後まで

うまく逃げ仰せるか、もしくは、敵の手にかかるぐらいならさっさと自

害した方がましだと思っている。見苦しい死に方だけはごめんだった。

 だが、それでも、これが彼の気に入りの部下の身の上であったなら、

惜しんで哀悼したであろう。妾を捨てなかった愛情を称賛したかもしれ

ない。友人であったなら、さもあろうと、溜め息をついたかもしれぬ。

彼ももう、必ずしも生きてゆくことは、格好のよいやり方ばかりでは済

まされないのだということを十分知っていた。 

(だが父上だけは・・・)

許せない。そんな気がした。たとえ彼自身がそんな憂き目にあったとし

ても、これほど動揺しなかったであろう。

 しかし、かといって彼がそのときまでに父に憧れ、敬愛していたかと

いうと決してそうではない。むしろ、矮小な奴よと軽蔑していた。彼は

父に可愛がられれば可愛がられるほどに敬意を失っていった。有り余る

愛に飽いて、愛に対して冷淡であった。しかも恐ろしいような彼の才気

はすでに幼くして、父が天下を統べるような器でも、野にいて清名をは

せる人間でもないことを見抜いていた。曹嵩はありきたりの俗物で、た

だの子煩悩な凡人であった。三公の位に就いたこともあったが、それも

わずかな間で特に業績もなく、就任していたことさえ、今はもう誰もが

忘れている。

(しかも・・・)

と、曹操は唇を噛んだ。

(金で買った地位だ)

それも、本来家柄が良くないのを値踏みされ、ふっかけられて相場の10

倍を支払った。言われるままに一億銭を用意する父を曹操はどんなに情

けなく思ったことか。

(恥を忍んでまで地位が欲しゅうございますか)

そう抗議した。

(よいではないか。これもお前のためなのだから)。

曹操はその卑屈なほどの真剣な愛に息が詰まりそうな気がした。息子に

箔がつくようにと惨めな姿をさらす父が悲しく、憎しみさえ覚えた。ま

だ、己が野心のために散財する、と言ってくれたほうがどんなに良かっ

たか。しかも曹嵩はふっかけられているのを知っていながら

(値切るような真似をしたらかえって世間から笑われよう)

そう言って言い値を差し出した。そのしがみつくような気弱さと、そこ

まできてくだらぬ世間体を気にする浅ましさが曹操をいたたまれない思

いに追い込んだ。

 結局、無理に買った位は噂の種となり、曹操もあざけりの声を聞かぬ

訳にはいかなかった。やり場のない悲しみで、曹操は父を憎んだ。


 雨を避けるつもりで泰山の中へ馬を進めるうちにいつの間にか曹操は

奥深く迷いこんでいた。平原へ行くにはここを出て北に向かい、黄河を

渡らねばならない。だが北がどの方角なのかもはや分からないことに、

曹操はだいぶたってから気がついた。

(夜に入って晴れれば、星で分かるのだが)

辺りは急な斜面が続き、枝葉で視界が遮られ馬を進めるのが困難になり

つつあった。急に、それまで走り続けた疲れと空腹を感じて曹操は大儀

そうに馬を降りると手綱を握ったまま岩場をみつけて腰をおろした。気

がつくと薄手の麻の宮中服はところどころ引っかけた破れができ、泥を

跳ね返した裾はもうすっかり黒くなっている。顔や手にも擦りむけたよ

うな跡がついていた。服の肩や髪は濡れそぼってぴったりと肌に吸い付

いている。

(ひどいもんだ)

自嘲気味に曹操はひざを抱えて空を見上げた。厚い木の葉の層の間から

わずかに薄暗い空が見える。

(なぜ私はこんな所にいるんだ)

 平原へ行くと初めから決めていたわけではなかった。いたたまれずに

飛び出した後、どうしてもあのぼやけたような劉備の顔が見たくなっ

た。

 しかし、途中泰山に入り込んだのは雨のせいばかりではない。曹嵩は

この近くで死んだはずだった。霊魂など世迷い事だと日頃口にしてはば

からない彼だが、このときばかりは父に呼ばれたような気がしないでも

ない。とにかく東へ・・・濮陽の城を出るとき、曹操の頭にはそれしか

なかった。

 だが、こんなところまで迷い込んだのは、劉備に会う理由のない後ろ

めたさに心が惑ったせいもある。親友というには程遠い。彼の気持ちで

はそうなりたかったのだが、どうも自分はそのたびに玄徳にさらりとか

わされているような気がしていた。態度が冷たいわけではない。むしろ

その逆であったが、何か彼はその人間性を玄徳には認めてもらえない、

もどかしいような寂しさを感じていた。

(私が玄徳に惚れ込んでいるほどには、玄徳は私を好いていない・・

・・・・・)

 同性を見る目は、自然異性よりも厳しくなる。肉体関係を持たない代

わりに心の動きにはいっそう激しいものがあった。男女ならただそれだ

けで相手をどこか許しているような、本能的な優しさが交わせるはずな

のに、つい競い合ってしまう。それは軽蔑するにも、心を許すにも、手

加減がないということである。相手を自分に心酔させるには、己のすべ

てをかけて勝負しなければならぬという、妙に構えた姿勢があった。曹

操は自分の器量には自信があった。けれども内面的な人柄には全く自信

がなかった。

(私は・・愛されやすい人間ではない・・・)

これは彼自身もどうしようもないことであった。だからこそ玄徳のよう

な人間に惹かれたのかとも思える。もっとも彼は直感でそう思ったので

あって、この時はまだ彼自身、自分の気持ちを詳しくは説明できなかっ

た。ただ無性にあの春風のような玄徳に会いたかった。

 しかしかといって外交上の話があるわけでもない。一国の牧たる彼が

着の身着のままで供も連れずいきなり他国の相を訪れるという非常識に

彼自身とまどっていた。けれどそんな世間の決め事は今の彼には何か遠

い国の無関係な話のようにも思える。誰も咎める者もなく欲しいものは

すべて思いどおりになると信じていたころの癖がこんなときに頭をだす

ものらしかった。

 彼は自分が国を治める者として相応しいかどうかなどと悩んだことは

ない。当然の役目だと信じて疑わない、そんなところがあった。

(そこは袁紹と同じだな・・・)

ふと曹操は長年の付き合いである幼なじみを思い出した。洛陽の大学に

いた頃、よく彼らとつるんで遊び歩いた。仲間はみな国家の重役たる家

柄の者ばかりであったが袁紹は特に自他ともに認めるかくれなき名門の

御曹司で、その自信のほどはどんなささいな場面にもあらわれた。そこ

が、曹操と違っていた。何でも一番良い役をもらわねば気の済まないこ

の友人に曹操は常に一歩譲っていた。家柄にひけめがあった。わざと言

いなりになってやれ、という当てつけもあった。

(曹操の父親はどこの馬の骨とも知れない)

そう袁紹が言ったと、曹操は人づてに聞いたことがある。本人の口から

聞いたわけではないから、真偽はわからないが、そんなような態度が常

に見えかくれするのを曹操は感じていた。曹嵩は大宦官だった曹騰が家

財を継がせるために引き取った養子で、曹氏と血縁もなかったから、子

の曹操も名門の血を受け継いでいるとは言えない。

 袁紹はまた、子供のころからよく宦官の悪口を言っていた。世の乱れ

は彼らがつくると、さほどな判断力もないうちから声を大にして言って

いたのはおそらく周りの大人たちの受け売りであろう。袁紹は一般論を

話しているつもりらしかったが、曹操は自分の祖父を、加えて、彼自身

を名指しで非難されている気がした。袁家のような士大夫階級からそう

陰口されているという、証明でもあった。

 子供のころ、曹操は悔しいというより恥ずかしかった。宮廷の奥深く

入り込み権力を握る可能性を夢見て、両親が息子を差し出したり、貧し

い男が自ら家の包丁で処理して志願しにいくような時代ではあったが、

男性を失った宦官はやはり珍妙である。小動物を愛し、声は甲高くな

り、感情的になると、女に擬した軽視があった。もともと刑罰であった

という卑しみもある。しかも腐刑という名がついているほど、嫌な臭い

を発した。臭いは、曹操自身にも移っている気がした。自分は違うと、

身の潔白を証明するような気持ちで、近所の娘らと放蕩にふけったこと

もある。しかし、後ろ暗い思いは消えなかった。一生背負って行かねば

ならない後ろめたい過去のように、それらは、ある時は腐れ者の孫とし

て、ある時は名家のもらい子、馬の骨の息子として、彼を脅迫した。

 自分が袁家のような恥じない家柄であればどんなに良かっただろうか

と、幾度思ったことだろう。曹操は思いやりも忘れるほど気のきかない

袁紹のお坊ちゃんぶりを、内心あざ笑いながらも、自分よりは彼のほう

が幸せであろうと羨んだ。多くを知って苦しむよりも何も気付かぬ馬鹿

でありたかった。





 晴れぬままに辺りは暮れつつある。さすがに曹操は不安になった。こ

れまで彼はあまり一人になった経験がない。いつも近侍の者が彼を守っ

ていた。

 剣はひとふり帯びていたがいつもの宝刀ではない。これといった武装

もしていなかった。今更ながら自分の無謀な行動に彼自身意外な気がし

たが、かといってうろたえる曹操でもない。剣を手に彼はゆっくり立ち

上がり強ばった体を伸ばしてみた。思った以上に疲れがきているのが分

かる。濡れた体は冷たくなって思うように動かなかった。それをあえて

振り切るように歩きだした時、どこからか、大勢の人馬の動く音が流れ

て来た。はっとして、曹操は柄に手をかけ身構えた。

(3)

 関羽雲長は先刻、陶謙の部下達と泰山の麓で別れたばかりである。馬

を駆けさせ、義兄玄徳の待つ平原へ帰る途中であった。切れ長の双眸が

濃い眉の下で微動だにしない。不機嫌な証拠である。彼は義兄と妙に似

たところがあって、怒りや不満をすぐに顔に出さないのもそんな共通点

の一つだった。

 陶謙との交渉は同盟という形で片がついた。協力する代わりに、こち

らは兵が少ないという理由で四千騎ばかり借り受ける手筈もできた。徐

州城で陶謙とこれだけの取り決めをした後で、関羽は陶謙の部下五十騎

ばかりと、この辺りをまわり、任城を攻略する作戦の下地をつくった。

 徐州城を出るとき関羽に同行していたのは二百五十騎ほどである。そ

れが途中で二百騎が別れた。曹操の父、曹嵩を警護する目的であるとし

ていたが、曹嵩が骸になったことで真意は知れた。関羽は後になってそ

れを聞き、その場からすぐに陶謙へ抗議の書状を送ったが陶謙は部将が

勝手にやったことで自分は知らなかったと言い張る。怒りのやり場に

困って、関羽は玄徳にこの旨なんと報告したものかと重い気を引きずり

引きずり帰途についていたのである。自分がいながら不義が行われたの

があたかも自分の罪のように思える癖がこの好漢にはあった。

 陶謙の部下と別れて後、関羽は北へ陶謙の部下は南へと去ったが、ま

だいくらも行かぬうちにまるで合戦のような響きと人声が聞こえた。驚

いて彼は馬首を返した。






 二百五十騎の軍馬と出くわして、相対してもさほど曹操には恐れ気が

ない。ここはまだエン州の地であるという安心からかもしれない。彼は

気が付かなかったのだが、彼の座っていた場所からそれほど遠くない所

に馬が一騎駆け抜けられるほどの間道が延びており、一団はここを通っ

て徐州城へ戻る途中だった。身を潜めるつもりで曹操は馬のくつわをと

らえようとしたが、一瞬遅く、集団の馬声に曹操の馬もいななき返して

いた。不審に思った張ガイが行軍を止め付近を捜索させた。ほどなく十

名ばかりに囲まれて曹操が引き出された。少し先の広くなった場所で張

ガイは待っていたが、一目見るなり仰天した。

「き・・貴様は曹操・・・」

「ほう。俺を知っているのか?」

「この間、貴様の家族を陶謙様の命で皆殺しにしてやったばかりだ」

「なに?」

今度は曹操の顔色が変わった。ここまで来てかたきに巡り会うとは、や

はり父の霊かもしれない。曹操はためらわず剣を抜きはなった。ぎょっ

として張ガイは部下を怒鳴った。

「なぜ剣を召し上げておかなかった」

「も・・申し訳ございません。旅の商人と言うもので」

「馬鹿、商人が冠をつけているか!」

言う間に四人が斬られた。張ガイも剣を引き抜いて声を限りに叫んだ。

「であえ!曹操だ!首をとって手柄にしろ!」

それ恩賞よと一斉に賊がおどりかかる。

「お前達ごときにこの曹操が討てるか!命のいらぬ者からかかって来

い」

こうなると、曹操は悶々と物思いに沈んでいたさっきまでの彼とは違

う。陣頭指揮の武将として三軍を動かす孟徳将軍に身代わりしていた。

 散々に切ってふと見ると大半は逃げ散って、残るは張ガイ以下6名ば

かりである。しかし、その頃にはもう、曹操も立っているのがやっとの

ほどに疲労していた。努めてそれを見破られぬように大声で

「泰山郡は、我が領地。なぜ陶謙の部下がうろうろしている。我が一族を

手にかけた理由はなんだ?」

「復讐だ」

「なんだと」

それはこっちの台詞だ、と言いかけて曹操は言葉を飲み込んだ。この張

ガイという男と前にも一度会ったことがあるような気がしたからであ

る。

「俺達は今は陶謙様の部下だが、もとは黄巾党だ。お前は俺達を討伐す

るとかぬかして兵を挙げていたが・・・」

張ガイは剣を構え、上目使いに曹操を警戒しながらねめつけた。絞り出

すような低い声だった。

「俺の兄貴も弟もお前の兵に殺されたんだ」

その時、遠くで雷鳴が響いた。地の底から大勢が呻いているような響き

だった。曹操の青白い頬に冷たい汗が流れた。

「だから陶謙は俺の家族を殺すのに、お前達を利用したのか?」

「利用されたんじゃねえ。利害が一致したから協力してまでよ」

その言い方は追い詰められた者のようだった。曹操は笑った。彼らにも

自尊心があるのかという顔をした。

「陶謙様が欲しかったのはお前達の家財だ」

「それで?」

「俺達が欲しかったのはお前の首だ」

言うなり、張ガイは打ちかかった。曹操の目の前で火花が散った。鼻先

に、かみ合った刃がある。ぎりぎりと剣の柄が指の肉に食い込む音が聞

こえた。

「だが、そう簡単に貴様の首など取れねえと思っていたから、まず、陶

謙と貴様の間に溝をつくって泥沼の合戦を起こしてやろうと思ったの

さ」

渾身の力を込めて曹操が押し返すと、勢いで両者はいったん離れたが、

またすぐに打ちかかる。

「どうやら陶謙様は、俺達が勝手にやったことにして自分は財宝だけい

ただき、傍観をきめこむハラらしいが・・・」

張ガイはそこでにやりと笑った。

「そうは問屋がおろさねえ。そうだろ?」

(陶謙は甘すぎる。父を殺された曹操がどんな理由があれおとなしくひ

きさがるものか)

彼の血走った目はそんなふうに言っていた。

曹操は愛憎というものの輪廻のような恐ろしさを見たように思った。愛

は憎しみを呼び、憎しみはまた別の憎しみを引き起こす。連鎖反応のよ

うに復讐は復讐を呼び起こす。血と血でつながった輪のようなものが、

人間の首には生まれた時から掛かっておりそれは死ぬまで、いや、死ん

でからもなお続いているようであった。

「だまれ、賊め」

振り払うように曹操は叫んだ。

「黄巾党は民を苦しめる害毒。暴虐非道の賊徒ではないか。討伐されて

恨むとは盗っ人猛々しいというものだ」

「うるさい!食うものがなくなれば相食むさ。俺達が賊ならお前ら軍隊

は何だ?国家の名をかたり民から略奪する大逆賊だ!それを・・それ

を、正義ヅラしやがって・・・」張ガイが全身を火にして剣を振り降ろ

す。

「お前ら貴族に俺達がわかってたまるか!」

その瞬間、曹操の刀身が吹っ飛んだ。

「うっ」

斬られたと、曹操は思わなかった。凄まじい衝撃だけが胸を斜めに貫い

た。  

 張ガイがよろめいた。彼の胸にも、曹操の折れた刀身が深々と突き刺

さっていた。

 術者の気の入った剣は折れぬという。折れぬと思って振り降ろせば

きっと折れることはないと。

(すると・・・俺の剣が折れたのは俺がそれで良いと願ったから

か・・・・・・?)

(馬鹿な!)

自らを叱咤し、曹操はすかさず一人に体当たりすると、剣を奪い取り、

それを振るった。もう何も考えてはいなかった。体だけが彼を無視して

動いていた。最後の一人を斬り落とした時、曹操もまた折り重なるよう

にして倒れた。

 雷鳴はさっきよりも近い。降りかかる雨は、樹木の葉に遮られて少な

いとはいえ、長いことあたっていればびっしょり濡れる。

 流れる滴が目に入ってうっとうしかったが、もう曹操にはそれを払う

だけの力がない。斬られた衝撃は今は絶叫するほど鋭い痛みとなってい

たが、叫ぶのも面倒だった。ただ時折、思い出したように小さな呻き声

が、わずかに開いた唇の端から漏れる。

(死ぬかな?)

人ごとのように考えながら、曹操はふと泰山の伝説を思い出した。泰山

は古代から封禅を行う聖山である。五岳之長とも呼ばれ、頂上をきわめ

た者は死んだ後も魂がこの山に宿り、永遠に生きることができると信じ

られた。

(父上はどうであろう。九泉の下でまた会うのだろうか。もっとも俺は

業が深すぎて、とても魂だけでは生きられそうにない・・・。地獄に落

ちるのが関の山であろうな・・)

それが己にふさわしいと思ってから、曹操は苦笑した。

(馬鹿馬鹿しい信仰だ。今や封禅の儀式も形だけにすぎぬ。永遠の生命

などあるものか。死ねば意識を手放し、空気と水に戻るだけだ)

淡泊にそう考えると、かえってあらためて目前に迫った死を感じた。す

ると身動きのできない傷の苦痛が、苦笑を自嘲に変えた。

(これでは父上と同じだな。無様な死にざまだ)

やはり憎しみは輪廻のように子に報いるらしい。

(典韋がいたらなぁ)

曹操は今度はここしばらく離したことのない親衛隊長を思い出した。彼

がいれば、その単純な思考回路だけで元気になれる気がした。前にも死

にかかったことがあったが、その時は曹洪がいた。いつも誰かに助けら

れていた。曹操は早くに決別した両親の代わりに気に入りの者を側近く

はべらせ、いつも彼らに甘えているところがあった。

 何かひどく人恋しくなって腕を伸ばすと屍にふれた。まだ温かい。し

ばらく指先を乗せていた。そのうち、自分もこの屍のようになるだろ

う。そう思うと、親しみがわいた。

(生きているうちは殺しあったのに・・・)

すくなくとも、死んだ本人は誰を憎むことからも解放される。そんなふ

うに思った時、かすんだ視界に人影が映った。急に夢から引き戻された

ように曹操は全身が緊張するのを覚えた。

(死にたくない)

本能がそう叫んだ。

(誰だ?敵なのか・・それとも・・?)






 あれから関羽雲長は時折聞こえる人馬の声を頼りに馬首を巡らせた

が、尾根や木々に反響して位置がなかなかつかめない。ようやく探し当

てた時には、切り殺された死体が累々と層を成していた。すべて先程別

れたばかりの陶謙の兵である。その運命の急変にしばし呆気に取られて

いたが、これも報いと思わぬでもない。

(いったいどこの軍の仕業か・・・)

もし、泰山大守の王劭の軍なら事は露見した可能性があり、そうなると

関羽自身もうっかりしておれない。しかし、このまま見捨てても行けな

かった。

(これだけの兵を相手にするなら、よほどの人数か、または武勇の者で

あろう・・・)

助かる者はないかと彼が見回したとき、溜め息のような低い呻き声が聞

こえた。関羽は急いで駆け寄った。暗いのであちこち死体につまづく。

と、雷光が閃き、辺りが明るくなった。

(おや?)

一人だけ目立って身なりの違う者がいる。甲冑どころか胸当て一つ着て

いない。まるで城からふらりと出てきた文官のようである。

(まさか、この男が・・・?)

「もし、しっかりなされ」

うつ伏したその肩をとらえ、仰向けて顔を見る。

 息を飲んだ。

(こ・・これは・・どうしてこんな所に・・・)

「曹操殿!曹操殿!!」

「おお・・玄徳殿の義弟関羽ではないか」

曹操も驚いたらしい。以前手ずから酒杯を与えたこの武将を曹操も忘れ

てはいなかった。

「ははは…。ちょうど良かった。案内してくれぬか。玄徳殿を尋ねて

参ったが途中道に迷ってしまってな」

「曹操殿・・・」

曹操は、常の声で言ったつもりだったが、実際はかすれたような弱々し

い声が出たばかりだ。関羽は手がぬるぬると滑るのでかざしてみると血

がべったりとついている。よく見ると、曹操の体はあちこち斬りつけら

れて血まみれだった。服を引き裂いて傷口を縛ろうとすると、曹操はわ

ずかにたじろいだ。

「どうなされた」

「いや・・・別に・・・」

この音に聞こえた猛将、豊かな身の丈と肩幅を持つ関羽に抱き取られる

と曹操はまるで女か子供のようである。曹操は自分の体身區が貧相なの

を常々恥じていたから、ことさら関羽のような恰幅の良い武将に憧れる

ところがあった。それでこんな時、よりいっそうみすぼらしく見えるで

あろう自分の姿を関羽に隈無く見られることを恐れたのである。さすが

に関羽はそこまで分からない。

「さ、ゆっくり拙者におつかまり下され」

「・・・・・・・・」

俯いた曹操を片手に抱えて関羽は馬に乗り、もう一方の手で自慢の偃月

青竜刀と手綱を握った。

 いつの間にか空は晴れて月が出ている。間道を抜けて暫く駆けると目

前にとうとうと流れる黄河が現れた。そこで関羽は、はたと馬を止め

た。渡し場の付近に武装した数人の影が見える。曹操と遭遇して逃げた

将兵らしい。それまで関羽の有名な長い髭に埋めるように顔を落として

いた曹操が彼を見上げて

「どうした?」

「はあ、陶謙の兵のようです」

「何人いる」

「7〜8名ほどですが・・・」

まさか同盟したばかりで切って捨てるわけにもいかない。ばかりか、曹

操は今や敵国の主将である。

(見られると、やっかいなことになる・・・)

 その時、兵の一人が関羽に気付いた。

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