(1)

 曹洪は連日兵を差し向けて従兄の行方を捜していたが、城主が喪

にも服さず行方不明になったとあっては、大っぴらに公表する訳に

もいかず、ひたすら隠し仰せつつ近侍の者数十名ばかりと城の付近

をごく内密に捜索していた。

(だが、おそらく兄上は見つかるまい)

何故かそう確信している。彼の直感では従兄の居所は知れているの

だ。平原に確かめに行く勇気がないのでわざと見当違いの所ばかり

捜している。

(なぜ兄上は玄徳殿に関心がおありなんだろう)

馬を走らせながらそんなことを考えてみる。玄徳はどちらかといえ

ば目から鼻に抜ける才気ばしった男というよりも、ぼんやりした、

眠っているのか起きているのかわからないような雰囲気があった。

従兄の曹操はまるで逆である。向かい合っているだけで射すくめら

れるような、強い視線を感じさせる。何もかも見通されているよう

な恐怖と緊張で、曹操の近侍はくたびれると、誰もがよくこぼし

た。その意味で曹洪は、従兄のお気に入りの文武官達に敬意を表し

ていた。四六時中仕え通すなど、よほどな英知かまたは鈍感でなけ

れば勤まらない。自分はどっちであろう、と曹洪は思った。

(どっちでもないなぁ)

何の根拠もないのに裏切ることも裏切られることも決してないと安

心している。そのせいか、従兄が疲れる存在だとは思わない。従兄

の前では特別な努力をしたことがなかった。肉体の一部になってし

まったかのようである。そんな人々が他にも数人いた。曹氏よりも

曹操自身が見付けてきた人材に多い。身内か外様かは関係が無いと

ころが、曹操の妙なところである。彼らに対しては曹操も特別わが

ままだった。

(兄上は玄徳殿もそういう一人に加えたいのだろうか?)

曹洪は初めて従兄とともに玄徳に会った酒宴の席を思い出してい

た。

 その時、玄徳を見る従兄の目が熱っぽかったので曹洪は

(またか)

と思ったものである。彼は、従兄がよく、人傑とみれば一目惚れす

る癖があるのを知っていた。その愛し方は熱烈で、ために周りを不

安にさせることもしばしばだった。曹洪でさえ、

(兄上はどうかなされたのじゃないか?正常な判断力とは思えな

い・・・)

と疑うほど一人の武将にかまけていたりする。まるでせっせと愛人

に貢いでいるかのようだった。周囲が心配するのは、嫉妬というよ

りはむしろ、虞美人に心を奪われて破滅した古の項籍羽などを連想

するからだったが、曹操が項羽と違っているのは、大切にする相手

が必ずそれに見合うだけの働きを示す、という点だった。よく見れ

ば、公平なのである。しかも、戦場で役に立つかどうかが曹操の人

選ポイントだったが、もう一つ、曹操の大好きな人柄というのが

あった。曹洪は従兄の好みのタイプを知っている。それは、純朴で

他人を陥れない人間である。陥れるのが仕事の謀臣にまでそんな要

求を出すのは矛盾している気がするが、彼らも私生活は実直だっ

た。策謀は仕事の上でだけ、というわけである。従兄の連れて来る

人物は曹洪もなんとなく理解できた。

(でも・・)

と首を傾げる。今度ばかりはよく分からない。曹洪は従兄の隣で微

笑んでいる玄徳をしげしげと観察した。

(大きな瞳だ・・・)

端正なつくりの顔の中で、ひときわ瞳が目についた。見る者を虜に

せずにはおかない妖しい魅力を秘めた光。吸い込まれそうな気がし

た。曹洪は顔をそむけた。

(兄上は幻惑されていらっしゃる・・・)

曹操は玄徳に会えば必ず隣席を与えるという。決して下座に置かな

い破格の待遇の裏には、利害以上の不思議な好意がみえる。しか

し、玄徳はこの好意に応えるだろうか?

 曹洪はもう一度玄徳を見た。玄徳の笑顔に敵意はなかったが、忠

誠があるとも言えない。笑顔は、隣の曹操にではなく、どこか遠い

ところに向けられているような気がした。

(玄徳は必ず謀反する)

そんな確信があった。同盟したわけでもなく、幕下に抱えられたわ

けでもないのに謀反という言葉はおかしいかもしれない。まして、

乱世の集合離散は激しく、国を預かる者とてその感情のまま外交す

るなど許されない。現に曹操も玄徳にそれほど執着していながらこ

こ数年は敵対関係にあった。しかし、曹洪には、玄徳がもっと魂の

奥深い部分で曹操を裏切っているような、そんな気がしたのであ

る。それはつまり言葉を変えれば、玄徳を、曹操と同じだけの力を

持つ者と認めていることであった。

(それもおかしな話だ)

曹洪は己が矛盾に気がついて苦笑した。今の玄徳は曹操と比べよう

のないほど微弱な軍事力しか有していない。名は知られてきたとは

いえ地位も権力もさしたるものではない。

(しかし、数年後にはわからない)

そう思わせるだけの何かが玄徳にはあった。

(器が同じなのだ。玄徳殿と兄上は)

 そう気が付いた時、悪寒のような恐怖と、呪咀のような嫉妬が同

時に襲って、曹洪は身震いした。

恐怖はあの従兄に抗し得る人間が同じ時代に生きているという危機

であり、嫉妬は決して彼が近づくことのできぬ高みに二人だけが

上っているという絶望だった。

(兄上・・兄上はいつも私を並の肉親以上に遇して下さる。信頼な

さって私にすべてを預けて下さる。だが・・・その目はいつも私を

見てはおられぬ)

曹洪は顔を伏せた。路傍の石が彼自身に思えた。

(兄上の目は自ら治むるはずの天下を、時の流れを、そして兄上と

同じだけの力を持つ者を・・・生涯の敵を見ておられるのだ)

敵・・と彼は思った。とっさにそう思ったが、はたしてそれは後年

の二人を予見した言葉であった。それはまた、彼の、相手に対する

最大の賛美でもあった。

 従兄の美しい切れ長の鳳眼と玄徳の大きな瞳が重なった。

(私は才も度量も兄上にはとうてい及ばぬ。できるのはただ黙って

側でお助けすることだけだ。それでよいと、ずっと思ってきた。だ

が・・・)

曹家の嫡子にすべてを捧げるよう教育された彼だった。そして曹操

は彼の一生をかけるに十分すぎる男であった。もしも、曹操がもう

少し凡人であったなら、彼とその力が似通っていたなら彼らの関係

はこうはならなかったであろう。嫉妬と憎しみが、激しい憎悪の愛

が生まれたはずである。しかし、曹洪にとって従兄はすでに冒し難

い存在であった。見返りを期待したことなどない。しかし、従兄に

認められたい、役に立っていると思われたい、それだけのために命

を投げ出してきたことに、この時曹洪は気付いたのである。 いつ

の間にか日は沈み、空には上弦の月がかかっている。

(兄上はご無事であろうか?どこかでこの月を見ていらっしゃるの

だろうか?)

曹洪は天を振り仰いだ。従兄が側にいない、そして玄徳のもとに

行ったのであろうことが、ただただ、よりどころを失ったように不

安であった。それは、ここ数年ずっと抱いていた不安に似ていた。

より具体的な形で彼に迫っているようであった。曹洪は溜め息をつ

いて馬頭を城の方へ返した。

(2)

 関羽に気が付いた将兵の一人が彼の側に歩み寄った。

「いやあ、よい月ですな。満月よりはずっと趣がある」

唐突に話し出したのは関羽のほうである。彼は、曹操を庇いながら

も陶謙と同盟したことを曹操に知られぬように振る舞わねばならぬ

という苦境に立たされていた。近寄ってきた伍長が具合の悪いこと

を言い出さぬうちに先手を打たねばならない。

「ところで貴公らはそこで何をなさっておられる。わしはこれから

黄河を渡り、平原へ向かう途中なのだが」

関羽は帰るという言葉を使わなかった。向かうと言った。特別な用

があってここ数日彼らと共に泰山にいたことを曹操に悟られるのを

恐れている。既に相手が知っているはずの自分の行動をわざわざも

う一度説明したのも曹操に聞かれているのを意識してだった。伍長

はうまい具合に泰山郡攻略のことにはふれなかった。明らかに、先

刻曹操と争った結果に気を取られている。その言葉つきもしどろも

どろであった。

「これはこれは雲長殿。いや・・・それが・・・ちと失敗しまして

な・・・。早々に徐州へ引き返さねばならぬところですが・・・」

「失敗といわれると?」

「とんでもないものと出くわしまして・・・。兵が散り散りになっ

たもので・・・。ここで対処を考えておるところです」

先に関羽が曹嵩殺害の件で激怒していたのを知っているので、伍長

も言いたくないらしい。それ見たことかと言われるのが癪なのだ。

関羽には都合がよかった。

「さようか。お主らの問題はお主らで片付けられるがよかろう。わ

しが首を突っ込む筋合いではない。では、先を急ぐので、失礼」

言い捨てて去ろうとしたその時、曹操の食いしばった歯の隙間から

くぐもったような喘ぎが漏れた。

「雲長殿?ところで・・」

不審げな伍長の声が彼らを追った。伍長もようやく彼が誰かを腕に

抱えているのに気がついたのである。

「その、連れておられるご仁はどなたかな?」

「これは・・・」

はっとして関羽はとっさに答えた。


「女子でござる」

「雲長殿の?」

「さよう。それがしの妻に迎えんと連れて参った」

「なんと、日頃お堅い雲長殿が・・・」

それがしとて男でござる。美女を見れば心が動きます」

「これはこれは・・・」

伍長は笑い出した。強力無双で忠節、色恋にさえまどわぬと噂の高

い豪傑の裏を目撃したと思ったのだろう。まるで師の落ち度を発見

した弟子のような喜色をうかべて

「さぞかし美しい女子でありましょうな」

それは、まあ・・・」

言いながら、関羽はちらりと曹操に目をおとした。意外な成り行き

に伺いをたてるような気持ちだったが、曹操は蒼白なまま固く瞼を

閉じて死んだように動かない。伍長が覗き込みそうになったので関

羽はすかさず手綱を引いた。馬が前足を踊り上げ、伍長は慌てて飛

びすさった。

(このまま気付かずにいてくれればよいが)

彼は徒歩で、関羽は馬上である。ただでさえ大男の関羽が馬の背に

乗ると巨木のようで、並の身長では関羽が胸に抱えているものまで

はなかなか視線が届かない。月明かりがさほどでないのも幸いし

た。

「それがしは急ぎますので、ご免」

「あ・・これ・・」

まだ何か言おうとした伍長を捨てて、関羽は馬に鞭打った。そのま

ま一気に渡し場まで駆け抜け、岸につないであった小船に馬もろと

も飛び移った。偃月刀を軽く一振りすれば船はともづなを断たれて

流れ出す。いくらもしないうちに岸辺の人影は豆粒ほどになった。

ようやく胸を撫で下ろし、傍らの曹操はと見ると、桟に背を預け、

うっすらと開いた目で関羽のいる方を眺めている。今にも昏倒しそ

うな様子に反して彼は笑っていた。

「あはははは。いや、見事な嘘だった。貴公があれほど鮮やかに言

い逃れるとは思わなかったぞ」

「これは・・どうも・・」

髭で顔が半分隠れているから表情は見えなかったが、いつも涼やか

な澄んだ瞳がうろたえているようである。豪傑の困った姿は妙にか

わいらしく愛嬌があった。からかおうとしてまた笑いかけた曹操の

顔が急に歪んだ。唸るように苦悶すると船縁に手をかけ、身を乗り

出したので今にも河中に落ちそうになった。

「曹操殿!」

「ははは、すまぬ。少し痛みがひどすぎて、じっとしているのが難

しい」

抱きとめた関羽の腕の中で曹操はまた笑った。彼は逆境になるほど

よく笑う。自分の策が敗れて敗戦したとき、敵の矢を受け傷ついた

とき、常よりも元気な声で哄笑するのだった。見られたくない自分

を見られたとき、恥じる自分がまた恥ずかしく、動揺している自分

を悟られまいとして大きな声で笑う。彼は貴族らしく誇り高かっ

た。下卒に斬られ、苦痛に呻いているのを、心憎からず思っている

関羽に見られたくなかったのである。背を支えている関羽の右手を

払おうとして、またもや彼は激痛に叫びそうになり、歯を食いし

ばってかみ殺した。

「ご無理なされますな」

それと知って、いたわるように、関羽は曹操を船の底に寝かせよう

した。その心遣いにまた羞恥を覚え曹操はわざといまいましげに聞

いた。

「平原まではどのくらいあるか」

「そう長くはかかりますまい」

「玄徳殿は相になられてから変わられたか?」

「いえ、これといって・・・・特には・・」

「・・・・・・・・」

櫂の音だけが暗い水面に響いている。その音が遠くなり、ふと、曹

操は痛みが楽になった気がした。そのとき関羽が何か言ったらし

い。
「ああ・・?すまぬがよく聞こえぬ。もう一度言ってくれぬか」

そうつぶやくように最後に言うと、曹操は気を失った。







 夜半、関羽が戻ったとき玄徳はまだ眠らずに訴状に目を通す仕事

をしていた。数週間ぶりに義弟が帰城したので、無事を喜んで酒で

もてなそうとしたところ、関羽は人目を避けるようにして玄徳の前

に現れた。右手に偃月刀を、左手に失血のあまり意識のなくなった

人間を抱いている。

「兄者、実は・・・」

「・・・・!」

見るなり、玄徳は目顔で、関羽に黙ってついて来るよう合図した。

 奥に入ると、玄徳は近くに誰もいないのを確認してから小さな一

室に入り、入り口に御簾を降ろした。

「さあ、早くそこの寝台に」

「はい」

「来る途中誰かに見られなかったか?」

「城の者に数人・・・。しかし、曹操殿だと気付いた者はないよう

です」

「そうか・・・」

言いながら、玄徳は手早く曹操の汚れた服を取り去ると、傷を見

た。

「これはひどい」

「典医を呼ばねばなりますまい」

「いや・・・」

玄徳は首を振った。

「私が手当しよう。なるべく人に知られぬ方がいい。違うか?」

尋ねるように見上げた玄徳に関羽が頷いた。どうやら玄徳は陶謙と

の成り行きを、聞かないうちにもう察したらしい。義兄の推察力に

舌を巻ながら関羽はことの次第をつぶさに語った。

「やはりそうか・・・」

沈痛な面持ちで、玄徳はいちいち頷きながら、器用に止血すると薬

を塗り油紙をあてて包帯を巻いた。怪我をしても医者を呼ぶ金など

ない暮らしをしてきたことがこんな時に役立つと、玄徳は現状と己

が身の上の両方に深い溜め息をついた。

「しかし驚いたな。曹操殿ともあろう方が供の一人も連れずに泰山

まで・・・。いったい何の目的があられたのか」

「兄者を尋ねて参ったと申しておられました」

「私を・・・?」

初めて玄徳は意外な顔をした。そのまま何事か考えていたが、しば

らくして関羽を振り返った。

「後は私がみよう。お前は帰ったばかりで御苦労だが濮陽城に使い

をしてくれぬか。さぞ心配しておられようから」

「はっ」

ただし内密に、と玄徳は付け加えた。もとより関羽も承知してい

る。




 関羽が去った後、玄徳は枕元の椅子に腰を下ろし、ひとり曹操の

看護を続けた。混濁した意識の中で、曹操は何か夢にうなされてい

るらしく、時々血の気を失った唇からよく聞き取れぬうわ言が漏れ

た。

「曹操殿?」

呼びかけてみたが気がつく様子もない。

(関羽の話では、曹操殿はまだ陶謙と我々の関係は気付いておられ

ぬようだが・・・しかし、張ガイと剣を交えたのなら、お父上のこ

とは知っていよう。あるいは、知って泰山にいらしたのかもしれ

ぬ)

時間的にみてもその方があたっているにちがいない。そう考える

と、玄徳は曹操のその蒼ざめた頬や乱れた髪がいっそう哀れに見え

た。

(これほど頼りなげな方だったろうか?)

玄徳は以前会っていた時の曹操を思い浮かべようとした。

(自信に溢れた姿で、よく皮肉を言っては意地の悪いような笑いを

浮かべた・・・)

 しかし、今の曹操はまるで支えを失った小さな子供のようであ

る。苦しそうな息遣いが、母親を呼んで泣き叫んでいるように見え

た。玄徳は何故かそうしてやらねばならないような気がして、曹操

の手を握りもう一方の空いた手で彼の肩をかきいだくようにして頬

を寄せると、彼が聞いてでもいるかのように話しかけた。

「曹操殿、しっかりなさい。大丈夫、大丈夫ですよ。もう何も心配

はいりませんから」

ふっと曹操の呼吸が和らいだ。口許がこころもちほころんだように

見えた。

 死にかけた人間は、必ず死後の世界へ渡る幻覚の中をさまよい、

生きた人間が呼びかけると、その声が聞こえて戻って来ることがあ

るという。あるいは曹操にもそんな中で玄徳の声が聞こえたのかも

しれなかった。

 やっと悪夢から解放されたように後はただ昏々と眠り続け、よう

やく意識が戻ったのはそれから三日後の明け方であった。

 目覚めてしばらくの間、曹操はそれが誰なのかよく分からぬよう

に、ただぼんやりと焦点の定まらない目で玄徳の顔を見つめてい

た。

「お気が付かれましたか」

玄徳が微笑んだ。この三日、一睡もしなかった彼は少し年取ったよ

うにみえた。

「母上かと思うた・・・」

まだ夢うつつのように、曹操がつぶやいた。玄徳はもう一度にっこ

り笑って曹操の手をとった。

「良かった。もう大丈夫です。しばらくここで休まれたらすぐに元

気になりますよ」

まだ力の入らぬ手で、曹操は玄徳の節の太い荒れた手を握り返して

みた。華奢だったらしい母の手とは違うような気がしたが、流れて

くる暖かさが似ていると感じた。

(いや・・母上よりも暖かい・・・)

それは、実母ではなく彼がいつも夢の中だけに描いていた『母親』

に近かった。この世に生まれてから今日まで、彼はこれほどの安息

に満ち足りたことはなかったように思えた。

 その時はじめて曹操はなぜ自分がここに来たのかを悟った気がし

たのである。だが、言葉にしようとしたとき曹操は惑った。

(なにか違う・・・)

どこかではっきりそう聞こえた。それは目の前の幸せが、何か別の

物の仮の姿にすぎないと教えているような声だった。これが終着で

はなく、まだ続きがあるような気がして曹操は知らず顔をそむけて

いた。

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