(1)

 平原の戦況は一進一退である。関羽と張飛はよく守り、一歩も

曹洪の兵を城に近づけない。出ては押し戻し、深追いせずにさっ

さと引き返す。曹洪の軍は業を煮やした。

 しかし、その引き戻しが、いつの時からか緩慢になった。お互

い疲れてきたとも様子を伺っているともみえる。相変わらず小競

り合い程度の戦いは続いていたが、もう関羽も張飛も戦場には出

ていなかった。陣頭で指揮をとっていたはずの曹洪の姿もいつの

間にやらみえない。両軍とも大将を欠いたまま、良い加減な戦闘

が毎日繰り返されている。 これを陰から、見張りとして覗いて

いた陶謙の兵達はさすがに疑いだした。

「なにかおかしくはないか?」

「うむ。陶謙さまにご報告して指示を仰ぐか。それとももう少し

様子を見るか」

「いましばらく様子をみてもよかろう。そのうち大掛かりに始ま

るのかもしれん」

「そうだ。もし、報告して何事もなかったらくたびれ損なばかり

か、お叱りを受けることになる」

言いながら一人が酒に手をだした。つられてまた一人が椀を傾け

る。彼らは、戦袍のかわりに粗末な庶人の着物を着込んで平原の

民の中に紛れ込み、戦局を探っていたのだった。

「こう進展のないまま長びいちゃ、戦っている方も飽きるだろう

よ」

 誰かがそんなふうに言う。しかし飽きているのは戦場ばかりで

なくここも同じらしい。こんな調子で一日、また一日と過ぎて

いった。

 それから更にまた数日経ったある日、一人の密偵が彼らの隠れ

家に駆け込んできた。

「大変だ!陶謙様にお知らせしなくては!」

「何事だ」

「関羽と張飛、それに曹洪が・・・もうだいぶ前から姿を消して

いる」

なんだそんなことかという顔で他の者は巡らした首を面倒臭そう

にもとに戻した。

「それは前から分かっておろうが。今に始まったことではない

わ。おおかた陣の奥で昼寝でもしているのだろう」

「それが・・・どうもこの平原県にはいないようなのだ」

「なんだと?」

ようやく、不審気な緊張が生まれた。

「それは解せぬな。曹洪ならエン州に帰ることもあろうが、関羽

と張飛が何故こんなときに城を空けるのだ・・?」

「とにかく使いを・・・」

ざわめく彼らの声から、徐州へ急使が立てられた。

しかし相変わらず、二つの軍は寄せては攻めてを繰り返してい

る。


(2)

 陶謙の前まで来ると、曹操は手に持っていた血のついた剣を投

げ捨てた。

「ほう、諦めたのかな?」

陶謙は走り着いたばかりで息が上がっている。脂肪と皺でたるん

だ体がぜえぜえ息を吐きながら喋るのは、何か怨念がましい迫力

があった。わざと対照するように曹操はからりと笑った。

「貴公はよほど私が憎いとみえる。だから私の首をくれてやろ

う。そのかわり・・・」

言いながら曹操は、はるか後ろの玄徳を振り返った。

「・・・・彼を助けてくれぬか」

陶謙は案外あっさりうなずいた。曹操はその場に討たれるつもり

で膝をついた。もはや二人共には助からないと判断していた。そ

してそれなら、玄徳が生きるべきだと思った。 陶謙は腹ただし

げに顎をしゃくった。

「さんざん手こずらせおって。首を太刀で撥ねてやることなぞな

い。縊り殺せ」

「私を嬲る気か・・・?」

さすがに曹操は憮然と陶謙を睨み据えたが、覚悟はできている。

別にどうされようとも抵抗する気はないらしかった。首にかけら

れた縄が引かれるとき、その瞬間だけ歯を食いしばった。絶叫す

るような苦痛が過ぎると、宙に浮いたように感覚が遠のく。

(死に様が醜いな・・・。しかし、それが陶謙の望みであろうか

ら・・・それもいいか・・・)

薄れてゆく意識のなかでそんなことも考えた。

 張った綱が緩むと同時に、曹操の体は糸を切られた人形のよう

にどさりと倒れた。

「殊勝な男よのう・・・。お主のために死によった」

 陶謙が、彼の目の前に駆けて来た玄徳に向かって言葉を投げ付

けるように言った。二人の間には曹操の体が横たわっている。異

変に気付いて止めに来たが、傷口から血が滴って思うように走れ

ず、間に合わなかったのだ。玄徳は蒼白なまま曹操の体を見下ろ

していた。陶謙が笑った。

「曹操は己の策が敗れると、いつも死に急ぐという話じゃ。今度

も例外ではなかったのだろう。たまたま死ねたというだけだ。気

に病むことはない」

「・・・・・・」

陶謙の言葉など耳に入っていないかのように、玄徳はそこにひざ

まずいて曹操の首に食い込んだ縄をはずした。そうして、ばら色

の縄跡を隠すように、てのひらで覆った。

「見たくないか?なら見えないようにして進ぜよう」

陶謙は玄徳の後ろに立っていた部下に目顔で命じた。彼ははじめ

から玄徳も生かしておく気はなかったのだ。

 玄徳は顔をあげて、正面から陶謙を見た。その目は真っ黒い夜

の河に似ていた。あの時と同じ、いやそれ以上に不思議に美しい

黒耀石の瞳だ。それはおそらく人を信じることを知っている美し

さに違いない。陶謙は脅えた。引きずり込まれて溺れ死ぬような

気がした。彼自身の存在を、今まで生きるために成して来たこと

のすべてを否定されるような恐怖だった。

「目を・・・こやつの目をつぶせ!」

体の自由がきかぬように、ぎこちなく後ずさりながら陶謙は叫ん

だ。二人の兵士が乱暴に玄徳の肩を、両側からつかんだ。雑兵が

白刃を振り上げた。

 正にその時である。

 猛獣のような二つの大きな影が、後方の鬱蒼と茂った木々の間

から飛び出した。獣だ、と見えたそれらは一対の人馬である。そ

れまで棒のように立ちすくんでいた雑兵ばらはわっと逃げ散っ

た。

「兄者−−−−−−−っ」

口々に叫びながら二つの影が縦横無尽に駆け回る。美しい長髭に

偃月刀、虎髭に蛇鉾だ。

「関羽、張飛!」

我に返ったように玄徳の体に生気が蘇った。

 彼らの勇猛な噂は、諸国の兵士の四肢すみずみまで行き渡り、

まるで刷り込まれた記憶のように支配している。ひとめ見ただけ

で、恐怖は指先から心臓へ電流のように入り込む。陶謙の兵達は

恐れおののき、掻き乱されて散り散りになった。

 腰を抜かした陶謙の汗だくな首に二人がぴたりと得物をあて

た。

「ど・・・どうしてここへ・・・」

しどろもどろの陶謙に関羽が殴りつけるような声で言う。

「裏切りが身を滅ぼしたのだ。闕宣の側近が主人を殺されたのを

恨みに思い、我々に兄者がここにおられることを教えてくれた。

これを証拠に・・・」

関羽がばさりと馬上から投げ降ろしたのは、黄河を渡るまで曹操

と玄徳が着ていた官服である。河岸で着替えた際に、闕宣の信者

が持ち帰っていたのだ。

「全部バレてるんだぜ、いかさま野郎!」

張飛が罵った。彼は今にも蛇鉾を突き出しそうであった。陶謙は

慌てて口を動かした。

「し・・・しかし、平原の城が攻められているというのに何

故・・・」

「馬鹿野郎。バレてんのは俺達にだけじゃねえ。あれは、お前達

を欺く偽の戦いだ。よく見りゃ誰も死んでない。それに・・・」

張飛が言いかけたとき、ようやく曹洪が姿を現した。血糊のつい

た長槍をひっさげている。彼はここへ来る途中に出くわした陶謙

への早馬を片付けていたのだ。張飛の後を引き取って関羽がそれ

を告げると陶謙は窮して黙り込んだ。 曹洪は馬を降りて、陶謙

の方へと歩み寄りかけた。しかし突然、落雷に打たれたように立

ち止まった。玄徳が顔をそむける。石像になってしまったように

曹洪はその場に立ち尽くした。

「あ・・兄上・・・兄上!」

つぶやきが叫びになると同時に、彼は飛び込むように従兄の体に

とりすがった。

「兄上!兄上!!」

死んだとは、彼は思わなかった。ただなんとかしなければと、半

ば条件反射のように、震えの止まらない両の手で必死に従兄の胸

を圧した。

 狂気のように、甲高い声で呼びながら曹操の息を吹き返させよ

うとしている曹洪を、陶謙は呆然と見守っていた。日頃の彼な

ら、鼻で笑っているはずだった。しかしそんな余裕を、曹洪の姿

は少しも与えなかった。真実のみが吐き出せる気迫に押されて、

陶謙はただただ黙って見守るよりほかなかった。

 わずかに、曹操の指先が動いたような気がする。そう思った次

の瞬間、長いまつげがさざめくように揺れ、ゆっくりと瞼が開い

た。青白い頬に、わずかに血の気がさした。

「兄上・・ああよかった・・よかった・・」

深呼吸のような溜め息をつくと、曹洪はいきなり従兄の胸につっ

ぷして声をあげて泣き出した。

 曹操は、自分が死の幻影から戻ってきたのを知った。彼が幻覚

の中で歩いていたのは、暗く冷たく寂しい道である。彼は生きて

いるときからたった一人で歩いていると思っていた。けれども死

後の世界の道程はもっともっと荒涼として不安だった。戻りた

い、と彼は願った。するといつの間にかここへ戻っていた。

(この世は明るく、暖かい・・・・)

そう思うと同時に、死に損なった疲れを感じた。生き飽きた落胆

にも似ていた。

 従弟の涙が彼の頬を濡らしている。その滴が彼の頬をも流れた

とき、彼はふと、なにかひどく愛しいものを抱いている気がし

た。それは先刻の玄徳とも違った、初めての感情である。曹洪の

武将としての才の価値が不用になったわけではない。しかし、も

し万が一、この従弟が持てる力のすべてを失って何の役にもたた

ない人間になったとしても、なお続いてゆく何か、離そうにも離

せない運命のような大きな何かが、存在する気がした。

「ばか、泣くな」

曹操は従弟の背をなでながら頬笑んでみせた。くたびれることか

ら逃げるのにも、諦めがついた顔だった。諦めて、ようやく決心

した顔であった。彼は起き上がって、まだぼんやりしている陶謙

の方を見た。曹洪も顔を上げて立ち上がった。彼は自分の長槍を

陶謙に突き付けた。

「陶謙殿、覚悟はできていような?兄上を手にかけた償い、今こ

こでしていただく」

「俺達も許しちゃおかねえぜ」

張飛が勢いよく鉾を繰り出そうとしたとき、陶謙が夢から覚めた

ように喚きだした。

「ま・・待てっ・・一騎打ちじゃ!そのほうと、わしの武将で勝

負いたせ。それで敗れれば、この首を献じよう」

陶謙は城のほうを振り返った。城主の危機というのに静まり返っ

たままである。彼の寵臣曹宏すら、ひっそりと窺うように出て来

ない。

「いい加減にしねえか!卑怯者め。だったらおめえが自分でか

かってくりゃいいだろう」

「往生際が悪いですぞ、陶謙殿」

張飛と関羽が交互に攻める。陶謙は剣をつかんで、やみくもに突

いた。

その時。

また一騎、駆けてきた者がある。

「ち・・趙イク・・・・」

陶謙は、救われたようによろよろとかけよった。先に陶謙を諌め

て不興を買った広陵の大守、趙イクである。その潔白な人柄は他

国の武将にも愛されていた。彼が馬を降りて歩み寄ると、関羽ら

も得物をひいた。

「おお・・・、よく来た、趙イクよ」

「陶謙さま・・どうかもうおやめ下さい」

「何を言う!こやつらはわしの敵じゃ!」

「殿がご自分で敵にしておしまいになったのです!」

趙イクは曹操と玄徳の方に向き直った。

「どうか・・・我が殿のお命だけはお助け下さいませ。私の命に

代えましても・・・」

そう言うと、彼は己が首をはねようとした。

「お待ち下さい!」

慌てて玄徳がその腕をとらえる。

「貴方のような賢臣が命を落とされたら、誰が徐州を守るのです

か」

「お放し下さい!」

「趙イク殿、貴方はこの徐州の国を愛しているとおっしゃたでは

ありませぬか!!」

関羽が言うと、趙イクがはたと剣を取り落とした。すると、この

様子を見ていた陶謙が趙イクを罵った。

「おのれ、貴様・・玄徳ごときと結託してわしを裏切りおった

な。なぜお前はここに来た?偶然ではあるまい。偽善者の芝居は

よせ!」

うろたえて、趙イクは陶謙にすがった。

「誤解でございます。私は・・・」

「やかましい!」

趙イクを打とうとした陶謙の襟首を、関羽がつかまえた。声が荒

らいでいた。

「まだわからぬのですか、陶謙殿・・・。真に国と貴方を憂えて

いるのは曹宏ではありませぬ。この趙イク殿ですぞ。闕宣からの

使いは彼に、我々への協力を頼みましたが、最後までご承知下さ

らなかった。そうして貴方の身を案じてここまで駆け付けてこら

たのです」

張飛も怒鳴った。

「そうだぜ。趙イク殿は立派な武将だ。曹宏なんざ姿も現さね

え。そのくせどうせ後で体よく言い訳するに決まってる。だがお

前が死んだらあっさり俺達に味方するような野郎だぜ?」

「知っておる・・・・」

驚いたように皆の視線が陶謙へ集まった。陶謙はうつむいてい

る。そして、噛んで飲み込むように言った。まるで己に言い聞か

せているようであった。

「曹宏は、佞臣じゃ。わしに心から仕えているわけではない。だ

が・・・わしは・・他人を欺く者しか信じられぬのじゃ。いつの

間にやらそんなふうになってしもうた。気付いたときには戻れん

かった・・・・・」

 たとえようもないほどの重い質量を持った淋しさが、陶謙の背

にぴったりと負われているのだった。その悲しみは何かそれぞれ

の形になって、その場にいた者達一人一人の胸に共鳴した。

 静寂が、辺りを支配した。木の葉のざわめく音だけが聞こえて

いた。いつのまにか、関羽も張飛も、得物を収めていた。

 ふいに玄徳がその静寂を破った。

「関羽、張飛、平原へ帰ろう」 

二人はうなずくように目礼した。曹洪も従兄に目顔で尋ねた。従

兄もまた従弟に目で知らせた。

(我らもエン州に帰ろう・・・)

曹洪はうなずいた。

 放心したような陶謙と、趙イクを後に彼らは帰途に就いた。 

三頭の馬が轡を並べている。前に乗っている玄徳の肩越しに手綱

をさばきながら、なんとなく関羽が安堵したように言った。

「あれで陶謙殿も目が覚めたでございましょう」

彼は玄徳に言ったつもりだったが、玄徳は黙ったままだった。形

のよい唇をきっと噛み、その黒い瞳はどこか遠くの頂に焦点を結

んでいた。代わりに曹操が答えた。しかし彼も視線はどこか遠

い。

「陶謙は何も変わるまい。明日からまた、佞臣・曹宏を側にお

き、趙イクを遠ざけて暮らすのだ。あれだけ長く生きると、人は

なかなか別人にはなれぬ」

長く生きると、と曹操は言ったが、まるで彼自身のことをも言っ

ているような、そんなふうにもとれる口調だった。曹洪は従兄の

後ろで手綱を握っていたが、我知らず不安になり、彼の胸にもた

れて座っている従兄の背に、そっとふれてみた。従兄の温みを伝

えているのは信頼という言葉なのだと、そんなふうに信じたかっ

た。

 黄河のほとりで彼らは別れた。

 別れる前に、玄徳は曹操らが二人だけになる道中を心配して、

平原まで同行するようさそったが、曹操が断った。「平原までい

らっしゃれば、こちらの兵を護衛にお貸しいたしますのに」

「いや、それには及ばぬ。曹洪はそちの義弟に劣らぬ一騎当千の

武将だからな。私は安心しておるのだ」

そう言って、曹洪を見上げた。安心という言葉にアクセントをお

いた。確かに彼はそんな気がしていた。まだ自分で馬に乗れない

彼を、ここ数日曹洪はよく背負ってくれていたが、それは曹宏ら

に引き立てられて山越えしたときの玄徳の背と違った、響いて来

るような安定した力強さがあった。あの時は共に歩いているよう

に緊張していた。しかし今は無防備に身を任せている。

 熟れた果実のような夕日がゆらゆらと沈んでゆくのが河面に映

り、辺り一面、大気までが燃えるような橙色に染まっていた。玄

徳と義弟二人が船で遠ざかって行くのを見送りながら、従兄弟二

人は一頭の馬の背に乗り、河畔をゆっくり走らせていた。

「兄上、辛くはございませぬか?」

曹洪がときどき気遣う。すると曹操は快活に笑った。

「いや、大丈夫だ。お前は並足の名人ゆえ・・揺れもさして苦に

ならぬ」

蹄の音だけが、乾いた空気の中に響いている。玉をちりばめたよ

うな水面の輝きをじっと見つめていた曹操に、ふいに曹洪が言っ

た。

「昨夜は・・・玄徳殿と何をお話しでした・・」

昨日、野営していた場所から玄徳と曹操が皆が寝静まっている時

抜け出したのを、曹洪は言っていた。

 曹操は従弟がそのことを知っていたのにまず驚いたが、そうと

言わずに、深い溜め息だけ漏らした。

「天下を・・・治める話をしておった」

「天下を?兄上が・・・・?」

曹洪はしばらく黙った。何事か考えているふうであった。そして

急にまた尋ねた。

「兄上は、さきほど何故・・玄徳殿のお言葉を容れずに、私など

を・・・」

「何故とは?」

意外な切り返しに曹洪は戸惑った。常に玄徳と彼自身の価値を天

秤にかけている浅ましさを告白すべきか躊躇した。しかし、そん

なことには一向に頓着せぬように、曹操は続ける。

「当たり前ではないか。玄徳とはいずれ戦うこともあろう。この

手で倒さねばならぬかもしれぬ。だが、お前は違う。生涯共に生

き、やがては枕上にて私の死を看取ろう・・・。私を阻むのは玄

徳。だが・・・守るのはお前だ、曹洪」

 この瞬間曹洪は、死ぬまで仕え通せると、直感した。そして数

日前、従兄が死んで蘇った一瞬、あの一瞬に見た従兄の不思議な

優しさを思い出した。あのとき従兄の切れ長な瞳の中心には、確

かに彼が映っていた。

(もうよい。私はこれで・・・)

彼は長い間の胸のつかえがとれたように大きな吐息をついた。全

くないといえば嘘になる。しかしもう、圧しつぶされそうな漠然

とした不安はなかった。あの時の瞳と今の言葉を守り札に、自分

はいつか命を捨てるのだろうと思った。

「曹洪、平原の兵はもう濮陽に引き上げてあるか?」

「はい・・今頃は夏侯惇将軍の指揮により全軍、城で待機してい

るはずです」

「では戻ったらすぐに、再度、軍を整えよ」

「では・・やはり兄上は・・・?」

「そうだ。徐州を攻める。一兵卒も逃がすな。住民は皆殺しだ。

父の仇と言えば諸候にも名目が立つ。今が機会だ。徐州の地を取

り、同時に私の力を恐怖として天下に位置付けてくれる」

曹操は笑った。その顔にはふっきれたようにも、諦めたようにも

とれる、激しい頑なな一途さがあった。凍りついた淋しさが、膨

大なエネルギーに変わろうとしていた。

「天下統一に一歩近づくことになろうぞ。曹洪、全軍旗に報讐雪

恨と書き入れよ。なるべく大仰にな」

「はい・・。仰せのままに・・・」

従兄の後れ毛が風に吹き煽られてなびくのを、曹洪は眩しそうに

眺めた。従兄が以前より更に輝いて見えた。

(兄上・・やはり貴方は恐ろしい人だ。それでも私は貴方につい

てゆくと誓った。後悔などしない。天下を望む貴方はとても美し

い。あなたは・・・私の夢だ)

 最後の残光を放って夕陽が視界から消えた。二人を乗せた青馬

が迷う事なく駆けてゆく。天は明るい星空に変わろうとしてい

た。

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