(1)

 その年の秋。

 曹操は全軍を結集して訓示を与えた後、徐州へ向けて進軍させ

た。整然と続く列には報讐雪恨と染め抜かれた旗が幾重にも連なっ

て翻っている。白茶けて乾いた大地に肌寒い風が吹き付け、荒涼と

した道程をいっそう遠く感じさせた。

 中軍にあって、親衛の武将らに囲まれながら、馬上に揺られてい

た曹操は曹嵩の死んだ夏からの変化を思って独りごちた。

(私は・・これからも迷うだろう。だがもう、やみくもに逃げたり

はしない。どれほど人に責められようと、道を変えようとも思わ

ぬ。生きて・・そして、この手で世を平定してみせる)

父を亡くしてから、そんなふうに決心していった自分を自覚して、

彼は急に、老いた陶謙を思い出した。人には確かに、変われる部分

と変われない部分があるように思えた。決して共有し得ない孤独を

抱いたまま、自分もあんなふうに老いていくのかと思った。

(よいではないか・・)

自分に言い聞かせるように彼は呟いた。

(私は反逆の徒として生まれたのだ。どうせろくな死に方はでき

ぬ・・・)

前方には、徐州との戦いが待っている。そしてその遥か遠くには、

数え切れないほどの戦いが延々と一生の道程に続いているはずだっ

た。

 彼は徐州の城を抜く算段をもう一度胸中に繰り返した。陶謙の軍

備は侮れないが、今まで学んだ兵法で十分対応できると考えてい

た。兵家としての自分には自信があった。しかしその自信は、彼が

自身の出生を呪って苦しんだ代償に身につけたものである。彼はそ

ういう鬱屈した自分が憎かった。彼の戦いは敵を目の前にしていて

も、常に剣を合わせているのは彼自身であった。戦っている最中

に、全力をあげて抗しているこの瞬間に、死ねたら良いとよく考え

た。

 曹操はもう一度前方を見た。この道の先には、陶謙と玄徳が待っ

ているはずだった。玄徳は結局、陶謙に加勢して挙兵したのであ

る。

 彼は、黄河の岸辺で別れる前の晩、玄徳と密かに交わした約束を

思い出していた。

 あの夜。

 月は出ていなかった。しかし見上げると怖いような満天の星空

だった。木々の葉の表面が星明かりでほんのりと白く光っていた。

 曹操は空を振り仰いだ。途端に彼は星々に飲み込まれそうな恐怖

を感じた。それを敢えて圧し殺して、目の前に腰を下ろしている玄

徳に、自分の祖父が大宦官であったこと、父はその養子で素性の知

れぬこと、曹家は漢の宰相曹参の後裔と称しているが定かなことで

はないことなどを、ぽつりぽつりと話していた。ときどき言葉が滞

る度に、彼は、降り落ちてくる広大な宇宙に息の根を止められそう

な気がした。

「だから・・・」

と彼は結んだ。

「私は家柄なぞあてにせず、実力だけでのし上がってやろうと思っ

たのだ」

玄徳はじっとしたまま、相槌さえうたずに黙って聞いている。曹操

は自嘲して、

「なぜ君にこんな話をする気になったのだろうな・・」

と、独り言のように付け加えた。誰にも言えないような羞恥も、な

ぜか玄徳の前では吐露してみたくなる。玄徳には、相手の張り詰め

た心を解くような不思議な力が、生まれながらに備わっているよう

にみえた。玄徳になら己の最も弱い部分も醜い部分も許してもらえ

る・・・そんなふうに感じた。

 それまで立っていた曹操は玄徳の隣に腰を下ろした。すると肩の

あたりに玄徳の体温を感じた。

「君は人を憎むことはないのか?」

「それは・・あります。けれど、それはその人を憎むのではなく所

業を憎むのです。人を人として憎むなど私にはできませぬ」

「羨ましい限りだ」

曹操は溜め息をついた。

「与えるだけの愛があればと思うが、私は欲が深くてそうはなれ

ぬ。愛に見返りを期待する。裏切られれば憎むのだ。私は・・私の

出生を罵った世界が憎かった。私を生んだ父が憎かった。彼らを憎

む自分がまた憎かった・・・。そうしているうちに、気がついたら

もう誰も愛せない心に凍りついていた」

「貴方を愛している者は沢山おりましょう。ただ・・曹操殿が気が

ついておられぬだけです」

「もし私を真に慕う者があったとしたら・・・それは本当の私を知

らぬからだ。私はもう他人を純粋には愛せぬ。いつも相手の才能を

値踏みする。人間というものに価値をつけその価値を通してしか、

人を愛せぬ。こんな私を許す者があろうか?」

「・・・・・・・・」

「私は・・怖いのだ。もう・・・誰にも裏切られたくない。だから

誰も愛さないことに決めた。だから人にも愛されぬ。けれ

ど・・・」

捨てようにも捨てきれぬ人間への思慕が、曹操の鳳眼に緋色に輝く

炎のように宿っていた。激しい憎しみはすなわち激しい愛であっ

た。玄徳は、それほどまでに深く人間というものに拘わって生きて

いる曹操を羨ましいと感じた。彼は静かに言った。

「曹操殿、それが誠の愛というものではございませぬか。私が人を

憎めぬのは、ただ臆病なせいです。誰をも愛しているというのは、

実は誰も愛していないのと同じことです」 曹操は、澄んだ湖の、

波さえ立たぬ水面のように落ち着いた玄徳の瞳に、不思議な寂しさ

が浮かんでいるのを見た。曹操の孤独と玄徳の寂しさが互いの視線

と一緒にからみあった。それは曹操が玄徳を抱いたまま、斬りか

かってきた陶謙の兵の前で命を捨てようとしたあの時と似ていた。

「貴方は生きた愛をお持ちなのです。私はそんな貴方に惹かれた。

だからお助けしたかった・・・」

「では玄徳・・・これからも私を助けてはくれぬか」

「どんなふうに・・・?」

問われて、曹操は黙って玄徳を見つめた。曹操の細い瞼の下には、

金属が燃えるような激しい光がある。玄徳が静かで暖かい炭火な

ら、彼は燃え盛る炎そのもののようであった。曹操は、玄徳をその

鋭い視線で射た。

「私は、世界を手に入れる」

息を飲んで、玄徳は曹操を見返した。

「私は漢帝国を滅ぼして、私の国を打ち建ててみせる。実力で天下

を奪うことが、この世と父への、そして私自身への復讐だ。そし

・・・」

曹操は瞳を閉じた。深呼吸のような息を一つついて続けた。

「私が生きるために」

「貴方が・・・生きるために・・・?」

意味がよく飲み込めなかったように、玄徳は聞き返した。曹操は瞳

を開いた。さっきまでの熱っぽい色はうせて、冷たい光に変わって

いた。

「生きている限り、私は世界を憎むだろう。だから手に入れてやる

のだ。この世のすべてをひざまずかせれば、はじめて私は憎むこと

ら解放される。安心して生きてゆける」

「曹操殿・・・・」

残虐な本心を覗かせる冷えた言葉だった。

「私は生きてゆくのが怖い。自分の中の恐ろしい心と向かい合って

ゆくのは苦痛だ。だからそばいて助けてはくれぬか?私の覇業には

君のような補佐が必要なのだ」

玄徳はすぐには答えなかった。代わりにこう言った。

「もし天下を手に入れることができたら、その後、貴方はどうなさ

います。それで本当に救われるとお思いですか?」

曹操はしばらく黙ったままだった。それから、ぽつりと言った。

「わからぬ。ただ・・・私はそんなふうにしか、人を愛せないか

ら」

激しい愛憎は美しい。だが凶器のようであるとも玄徳には思えた。

両刃の剣で、曹操は他人と自分自身の両方を傷つけているように見

えた。彼は曹操の魂を守りたかった。それは彼自身のためでもあっ

た。しかし同時に、帝位を奪おうとする曹操と自分の信じる道と

は、あまりにも進む方向が違っている気がした。彼は静かに首を

振った。

「私には・・・・できませぬ・・・」

「なぜだ」

納得できないように、曹操は非難めいた声で即座に聞き返した。

「人は・・信じるもののために命を賭けるのです」

「私のことが信じられぬと・・・?」

「いえ・・。貴方という人は・・信じております」

「ではなぜ?」

「貴方の生き方が信じられませぬ」

「・・・・・・」

「全身全霊をかけて人を愛し、また憎む。曹操殿・・貴方のその玉

のように美しい心はそれ故に天下を乱し、貴方自身を滅ぼします」

「かもしれぬ・・・だが・・」

「ですから貴方のためにも・・今上帝の漢のためにも私は貴方に協

力はできません」

「だが・・・もう・・・」

そうとしか進めないと、曹操は言おうとした。それは玄徳も同じで

あった。彼には、衰退したとはいえ四百年続いた漢という時代を見

捨てることができなかった。帝への絶対的な服従心が大きな道徳と

して彼の心に根付いていた。曹操が出生に対する劣等感を植え付け

られたように、彼もまた幼いうちに染み込んだ教育から抜けること

ができないのだった。温かい情愛を持つ者は、人々に愛される代わ

りに、時代の破壊者にはなれないのかもしれない。

 救いを求める心は曹操の方が強い。それは、お互い知っていた。

このときようやく玄徳は決心した。彼もまた一生の行く道を自ら定

めた。

「では私は・・・あなたを阻止しましょう・・・。全力を尽くし

て・・・・」

はっとして曹操は顔をあげた。このとき二人の道ははっきりと別れ

た。玄徳の言葉は淀みなかった。

「あなたのために、そして漢王朝のために、私はことごとくあなた

の敵にまわります」

長いこと、曹操は口をきかなかった。そしてもう一度夜空を仰い

だ。その瞳から、滴が光って流れ落ちた。二人の間には草木の音だ

けが聞こえている。だいぶたってから曹操が呟くように言った。

「生きているとは、ただそれだけで、何と疲れることだろう・・」

「代わりに、畜生には感じ取れぬ楽しみもございましょう」

曹操は少し笑った。

「そうだな。君と天下を二分して争うなら面白かろう」

その彼を慈しむように、玄徳も頬笑んだ。

「玄徳・・・一つだけ私の頼みを聞いてくれぬか」

「はい・・?」

「私を先においては逝かぬと・・・約束して欲しい」

「・・・・・・・」

「この世の、修羅のような戦いに私一人を置いていくな。一生君と

人生の賭けを続けられるように」

「はい・・・」

「私が死ぬときには、君は決して側にはおるまい。だが、まだ君が

この世に在ると思うだけでよい。たとえ犯した罪に脅え、幾晩うな

されても、君に遠くから看取られていると思えばその死の時だけは

安んじていられよう。君がただ一人、真実の私を知る者なのだか

ら・・・」

「・・・・・お言葉のままに、従います」

玄徳は目礼した。その姿を焼き付けるように、曹操はいつまでも眺

めていた。玄徳はいつもと変わらない淡々とした優しさをを見せて

いた。曹操は、望んでも指先すら届かない、消しがたい寂寥を感じ

た。

(同じ時代に生きる同じ力を持つ者と、共に歩んで行ける幸福と考

えればいいのだろうか?)

憎んでいるわけでもないのに、むしろその逆であるのにもかかわら

ず別れて行かなければならない不可解な苦しみだった。せめて今、

玄徳が自分を殺してくれれば・・・と彼は思った。

 曹操は側に寄って玄徳の手を握った。あの時と同じに暖かだっ

た。生きることへの恐怖が、少しやわらいだような気がした。

「今度は・・いつ会えよう・・?」

「それは・・・曹操殿、貴方次第でございます」

「・・・・・・・」

「やはり陶謙殿を討つおつもりですか?」

「だとすれば君ともそこで会うことになろうな・・・・?」

玄徳は頷いた。

「でも曹操殿・・これはまだあなたとの本当の戦いにはなりますま

い。貴方は徐州だけでなく、漢全土を手中になさるおつもりでしょ

うから」

「その時がきたら・・・私も容赦はすまい。本気で君に殺意を抱く

だろう。それが私の君に対する義だ。君が命に代わるほど大切だっ

たという証しだ」

「よいではありませんか。そんな友情があってもいいと・・私は

思っております」

信じるものが違うので、生死は共にできないがそれでも時々貴方を

思い出す。そんなふうに彼は言った。これが彼らの交わした約で

あった。約束というにはあまりにもおぼろで頼りない、逆説という

名の盟約だった。

(私は独りではないと思っていいのだろうか)

 吹き渡る秋風に舞い飛ぶ土を眺めながら、曹操は愛馬の手綱を強

く握り締める。太陽の光は弱々しく冷たい。こうして自分は一生満

たされないまま、破滅の時をさがしてさまよい続けるのかと思っ

た。

−−よいではありませんか−−

またあの時の玄徳がよみがえる。曹操はまぶたのうらの玄徳と口を

そろえてつぶやいた。

−−そんな友情があってもいいと思います−−

行軍の先に、城が見えた。 

(あそこに玄徳がいる・・・・)

そのとき曹操は気がついた。彼はもう己自身と剣を合わせるのでは

ない。玄徳という人間と戦うのだと・・・。

(いいのだ。それで。私は誰と戦っていようとも、いつも君を思い

出そう。いつも目の前で君が剣を合わせているのだと思っていよ

う)

 瞑想から戻ったように曹操は辺りを見回した。

 全軍を止め、曹操は陣を組み直す。そして後ろに控えていた曹洪

を呼んだ。

「曹洪、先陣をつとめよ」

「はっ」

曹洪は御前に進みながら、従兄の凛とした顔を見上げた。曹操がふ

と笑った。それは、彼が今まで見たことのない信頼を含んでいた。

決して、共に競い合う不可思議で激しい情愛ではないが、一生続い

て行く、落ち着き安定した優しい愛があった。

「油断するな。玄徳がいる」

「はっ」

「無駄に命を落とすことのないよう、心していけ」

(お前は一生・・私を助けよ。よいな、曹洪)

そう命じた。従弟は心得て、深くうなずいた。

 曹操は、開戦を全軍に下知した。

 鬨の声を上げて、人馬が一斉になだれ込んだ。





 この年、曹操は徐州の十余城を攻め落とした。翌年の夏、更に五

つの城を陥落させたが、張バクと州都を任せてあった陳宮が謀反し

たため、やむなく引き返さざるを得なかった。張バクは曹操が心を

許した親友であり、陳宮は曹操にエン州の牧となることを薦め、下

工作をした寵臣である。曹操の動揺は大きかった。その後、陶謙は

病死し、徐州は玄徳が継ぐことになる。

 いまわの際で、陶謙は玄徳に徐州を託した。彼は自分が最も憎ん

でいた者に未来を預けた。それは彼が最も愛して憧れた者でもあっ

た。

 歴史を動かす戦いは、今まだ始まったばかりであった。 そし

て、曹操と玄徳の運命もまた、これから大きく変わっていくのであ

る。

 

−完−


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