(1)

 その日、曹操は昼過ぎから持病の偏頭痛を患い、午後一杯自室にひ

きこもっていた。

 夏、長雨の後である。折りからの強い日差しが湿気を含んで辺りを

熱し、重くなった大気が、ここ、エン州の州都である東郡(濮陽)の

城の中にある彼の寝室にも入り込んでいた。

 片手でこめかみをおさえ寝返りをひとつうったとき、曹操は入り口

に人の気配を感じた。

「誰か?」

「曹洪です」

即座に声が返り、従弟の静かな足音が枕頭に近づいた。

「兄上・・・」

と、曹洪は彼を呼んだ。当時、彼らの一般的な習慣として、従兄弟同

士でも実の兄弟と同じく呼びならわすことがあったのだ。

「兄上、典医殿をお呼びになられましたか」

「いいや」

反対の壁際に顔を向けたまま曹操はおっくうそうに答えた。

「ではいま私が呼んで参りましょう」

「後でいい」

「しかし放っておかれてあまりひどくなりますと・・・」

曹洪は重ねて勧めたが、今度は返事がない。従兄は相変わらず背を向

けたままだ。どういう機嫌か今日は医者に治療させる気はないらし

い。かなり激しい痛みであろうに、床につっぷすような格好で頑なに

こらえていると見える。

 曹洪はちょっとのあいだ呆れた顔でその丸まった背中を眺めていた

が、やがて白い歯を見せてくすりと笑った。簡潔な理屈を好み、いつ

も即決即断のこの従兄が時に駄々っ子のように聞き分けがなくなる。

法家として知られ、賞罰、統制に人一倍厳しく、配下の兵に対する行

き渡った愛情の裏に、このような理不尽わがままで気分屋な一面を隠

している。そんな従兄を彼はもうずっと前から敬慕し、付き従ってき

た。曹一族の主として、漢帝国の救い手として−−もし曹操が今の王

朝を滅ぼして帝位に就くというのなら、それでも彼は喜んで協力する

つもりであった。彼にとって従兄の願望は即彼自身であった−−実の

兄以上の敬意を抱き、また、己の命以上に愛してもいた。何のわだか

まりもなかった。

 ただ、ある一つの不安を残しては・・・。

 ふと曹洪は従兄の、男にしては細い神経質な首筋が、結い上げた髪

にひきつられて苦しげなのに気付いた。

「帽をとって、お髪を下ろして差し上げましょうか?」

 今度も返事がない。しかし、これは諾の意であろうと曹洪は解釈し

た。

 彼は従兄の地肌に触れぬよう、気を使いながら注意深く帽をはずし

た。枕は紋様を施した常の堅い小さなものではなく、遠く西域より商

人が運び込み献上した真っ白く柔らかなものだったが、その白さより

も従兄の額の方が白い。知的で冷たい、上品な白さであった。

 曹洪は日に焼けた荒っぽい自分の素肌とひき比べて自然赤くなっ

た。二人の容姿は似ているとの世評もあったが、その度量の面でも知

略でも、漂う気品までが、粗忽な自分とは程遠く、曹洪は従兄と比べ

られる度に比べられることすら恐れ多く、身の縮む思いをするのだっ

た。

 気を取り直すように曹洪は、すぐそばにある従兄の見台の方に視線


を移した。読みかけたまま放り出してある書物が目についた。

「兄上は孔子がお好きなのですか?」

開いてある頁を覗いて何げなく聞いたつもりだったが、曹操は答えな

い。しばらくしてから、不機嫌に言った。

「孔子などエセ学者だ。崇めている連中の気が知れぬ」

「しかし・・彼以前には慣習儀礼に過ぎなかった儒を学にまで体系づ

けた功績は大きいと思いますが・・・」

「研究者としては優れていよう。だが、その人となりの内実は怪しい

ものだ。著作を丹念に読んでみろ。なかなか傲慢な男だぞ」

「学がいつになっても修められぬと嘆いた箇所もございますが?」

「それも、高慢ちきな証しよ。真に謙虚な人間が他人と比べて悔し

がったり、自分は学のすべてを吸収できるはずだなどと大望を抱くも

のか。俺にはもっと能力があるのに恵まれぬと嘆いた末に、清廉潔白

路線に逃げているのがわかる。奴の階級制度へのこだわりは己の身分

の不遇から出ているが、天子という絶対者を置くことで、自分と天子

の間にいる連中をこきおろす口実をつくったというわけだ」

「あれは孔子自身を救う学問であって他人のためのものではない

と?」

「そうだ。第一、孔子の根本は最高善と人間の本質が一致していると

いう考えらしいが・・・つまり、人間が自分を偽らずに本性だけで生

きたとしたら、それが即、他人のためにもなるはずだという考えだ

が・・・人の本質とはそんなものではあるまい。人間の幸福は、他人

の幸福の中にはないものだ」

 そんなふうにけなす割りにはよく読んでいるのを、曹洪は知ってい

た。従兄のお気に入りの文王、周公が孔子の尊敬した人物だったとい

う偶然も加味しているのかもしれない。

(何かご自分と似通ったところがおありで、かえって気に入らぬ部分

が目につかれるのかもしれぬ)

 曹洪には、曹操の奇をてらう突飛な発想はわからない。けれども誰

もが聖人と認める古の偉人を、堂々と非難する従兄の自信にしばしみ

とれた。これほど驕慢な言葉を吐きながら、なぜか底の浅い小生意気

な嫌みを感じさせない。それどころか、聞く者を納得させてしまうよ

うな力強い自信に、見る者を酔わせる力がある。そんなときの従兄は

輝くように美しい。しかしその表情に、どういうわけか時折り弱々し

い影の射すことがあった。

 喋ると頭痛は悪化するらしく、曹操は顔をしかめた。

「蝋燭の灯火で夜遅くまで書見ばかりなさっているからそのような病

にかかられるのではありませぬか?」

曹操は薄い唇を歪めたまま答えない。

(疲れていらっしゃるなぁ。やはりここ数年忙しすぎた。おかげでこ

のエン州の牧に任じられてから今に至るまで、董卓討伐の頃とは比較

にならぬほど大きな力を持たれたが。少しお休みになられてもいい時

期かもしれない)  

そんなふうに思ったとき、急に曹操が、今までとは全く違った話題を

振った。

 あるいは最初からこの話がしたかったのかもしれない。

「父上はあの女も連れて来ると思うか」
「え・・・?」

 あの女とは曹操の父曹嵩の近年の愛妾のことであると、曹洪は一瞬

後に気がついた。

「さあ・・・」

と首を傾げて、その間に一度会ったことのあるその妾の姿を思い起こ

してみた。丸々と肉付きのいいピンク色の餅菓子のような女だったよ

うに思う。顔はどちらかというと醜くかった。

「お前、あの女をどう思う。好きか?嫌いか?」

「さあ。私には何とも・・・。しかし、お父上に愛されて幸せな女人

ではありませぬか」

 いつになく投げやりな曹操の単純断定的な言い方に不審に思いなが

ら曹洪は答えた。

「兄上はお嫌いなのですか。仮に母上とも擬されるお方を」

「あれが母上などであるものか。父上の趣味は俺にはわからん」

「ですが・・・」

「俺は太った女は嫌いだ」

 吐き捨てるような曹操の語気に気圧されて曹洪は黙った。実母への

思慕から生まれる妾への反発なのかと疑った。しかし彼には従兄が

太った女だから妾が嫌いになったのか、妾が太っていたから太った女

が嫌いになったのかも分からなかった。口をつぐんだまま、彼は沈黙

の埋め合わせをするかのように、従兄の文机に乱雑に積まれている書

を片付け始めた。

 しばらく従弟のなすに任せていた曹操は横になったまま急に振り向

いて、曹洪に向かい合うと、うってかわったさっぱりした調子で笑っ

た。

「妙な話を聞かせて悪かった。頭痛のせいでどうかしていたとみえ

る。別に父上達をこのエン州に迎えるのがいまさら嫌になったという

わけじゃない。もう使いは出してあるのだし、何よりそれを言い出し

たのは私なのだからな。父上には苦労をおかけしたご恩返しに、この

先はここで隠居生活を楽しんでいただきたいと心から願っている」

 曹洪もほっとしたように頬笑み返した。しかし、その一方で大事な

話をはぐらかされたような釈然としない思いが後味の悪い酒のように

頭の隅にこびりついていた。入り込めそうで入れない従兄の心に不安

な距離を感じてかもしれなかった。それを圧し殺すように

「今頃はご一行は徐州を過ぎておりましょう。もうそろそろこちらに

到着なされる時分では?」

「うん。歓迎の準備をしておかねばなるまい」

「もうすでに、これからお住まいいただく宮も用意してございます

が」

「父上のお好きな物なども揃えておこう」

 曹操は案外に嬉しそうだった。曹洪は今にも起き上がりそうな従兄

を押し戻してその胸に布団をひっぱりあげた。

「その前に、典医をお召しになってお薬湯をいただくようになさいま

せ。ご対面の折りにそのようなご様子では父上が心配なされます」

「うん」

 今度は曹操も素直に頷いたが、その様子は少々うるさげであった。

曹洪に対してではない。父の愛情に対してである。曹嵩は嫡男である

曹操を数多くいる他のどの実子よりも多分に目をかけて育てた。その

愛はしかしどこか愛玩動物的であった。曹操は自分への父の愛し方が

可愛がっている狗を可愛がるのとさして変わりない気がすることが

あった。

(俺が選ばれたのは毛色が変わっていたせいか)

 確かに彼は他の兄弟達に比べて、卓抜した才気を持っていた。文武

共に彼の右に出る者は近隣の村を合わせても見当たらなかった。しか

も彼は男装の麗人かと見まごうほどの美貌を備えていたのである。

 外は夕刻から再び降り始めている。堅い屋根を打つ雨音が従兄弟の

静寂を浮き彫りにした。

「そういえば劉備玄徳はたしか平原の相に就任したと聞くが」

 ふと思い出したように曹操がつぶやいた。

「はい。正式ではありませんが実権を持って県を切り盛りしているの

は彼のようです」

「それでは私と同じだ。私とて天子に任命を受けたわけではないから

な。・・・どうしているのか、また会ってみたいものだ」

 なぜか、曹洪はそのとき激しい嫉妬に似た感情にかられるのを覚え

て、あわててそれを静めるように

「典医殿を呼んで参りましょう」

 曹操は答えない。従兄の沈黙を諾と受け取り、曹洪は拝礼してそそ

くさと下がった。

 雨足は徐々に早さを増し、夜半過ぎには地上はすべて滝壷のようで

あった。

 しかしその頃すでに曹操の父曹嵩は一族郎党と共に徐州の陶謙の部

下の手にかかり、老いた屍を徐州の野にさらしていたのである。曹操

はまだその惨事を知らない。

 雨滝は更にひどくなった。


(2)

「うっとうしいなあ」

「張飛、お前は酒さえあれば天異などどうでもよいのではないか?」

 いつものように酒瓶をかかえて赤くなっている義弟を劉備玄徳はか

らかって笑った。

 玄徳が相を務める平原県でも夕方から大雨が降り続いている。平原

と曹操の居城のある濮陽は割合に近い。徐州は平原の南に位置し、徐

州と濮陽のあるエン州は隣同士である。徐州の牧が陶謙だった。つま

り陶謙、曹操、玄徳は互いにほぼ隣接していたといっていい。

 ところで、これよりちょっと前に当時の大勢力であった袁氏がハデ

な兄弟喧嘩をやっていた。袁紹と袁術である。袁紹は曹操を傘下に持

ち彼を先鋒に出した。袁術は北平の公孫サンを頼った。玄徳は公孫サ

ンの武将であり、陶謙はそのとき友軍として公孫サン側で戦ったから

曹操は、玄徳とも陶謙とも敵同士だったことになる。玄徳はその生来

の生まれ育ちのせいか特に、一度刃を交えた相手であってもこだわり

なく付き合うところがあったが、陶謙は和解後の今も曹操に対して少

なからず恨みを抱いているらしかった。もともと陶謙は政治の才はな

かったが、天下に号令してみたいという心は、当時の実力者が誰しも

当然持っていたのと同様にあり、淫宗の教祖を天子に仕立てて事を起

こす計画を進めていた。その資金めあてに曹嵩の一行を襲ったのであ

る。曹家は曹操の祖父の時代からの富豪であり、この時も一家挙げて

の大移動に、財を運ぶ車の数は百輛にものぼった。

 雨はまだ降り続いている。張飛の酒の相手をしながら劉備は彼の命

で使いに出ている関羽の身を案じていた。酒の相手といっても、差し

向かいに座っているだけで張飛ひとりが飲んでいる。劉備は空の椀を

もてあそびながら、義弟の飲みっぷりのよさにいつものことながら感

心していた。もう一人の義弟関羽も酒豪だが末弟の張飛ほどではな

い。それでも彼にとっては二人の酒量はどちらも考えられないほど多

いという点で似たようなものだった。

「もうそれぐらいにして、後は関羽にとっておいてやれ」

「そんなぁ。まだ飲み始めたばっかりだってのに。だいたい関羽兄貴

なんていつ帰って来るかわからないじゃねぇか。今日か明日か一週間

後か一カ月か」

無視して酒器を片付けはじめた劉備に張飛は拝み込むように椀を差し

出した。

「なっ兄者お願い。もう一杯だけ。一杯でいいから」

「仕方ないなあ」

 あまり自分が飲まないせいか、玄徳は大酒飲みが嫌いだった。しか

し二人の弟たちがよく飲むので、なんとなく彼らへの愛情に免じて諦

めたように我慢してしまうことが多かった。しかし酒で理性を失う人

間はもともと好きではない。張飛には酒乱の気があったがそれも張飛

だから許しているという格好だった。関羽は飲むがめったに乱れな

い。早く帰って来てくれぬかと劉備は心持ち伸び上がるようにして入

り口のほうをみた。陶謙との密約についての成り行きも心配であっ

た。関羽は玄徳の代わりに、陶謙の持ちかけたクーデターに協力すべ

きかどうかを確かめに行ったのである。陶謙は闕宣という男を天子に

担ぎ挙げ、兵をあげて泰山郡を攻略するつもりだった。それに劉備を

誘った。地理的に判断したのだろう。

 本当のところ、玄徳は陶謙と志を共にする気は全くなかったといっ

ていい。しかし、泰山は徐州と平原の中間にある地である。兵の少な

い玄徳としてはここでむげに陶謙の誘いを断り、彼を即敵に回してし

まうのは得策ではなかった。うやむやにしておいて陶謙の疲弊するの

を待つか、むしろ協力すると見せかけて兵を借りる口実にするという

線を考えていた。

(とりあえず、行ってみて・・・その場の状況を見よう)

そんなつもりで関羽を打ち合わせ場所である泰山の麓に送った。判断

と処方は関羽に一任してある。いいかげんな話だが、劉備は関羽をそ

れほど信頼していた。また、彼のこんな成り行き任せなところが、堅

苦しくなく、他の将兵たちにも居心地がよかった違いない。彼はとか

く人に熱愛されるたちだった。

「兄者ぁ」

「なんだ張飛」

「酒が飲めねえなんて男じゃないぜ」

「え?」

 政治の想念からいきなり引き戻されて、劉備はうろたえた。

「仕方ない。私は努力したところでお前達のようには飲めんよ」

「こんなにうまいのに」

「お前はいつも飲み過ぎだろう。故人も言っている。飲み過ぎると美

酒の味も分からなくなるとな。何事もほどほどにしておかないと本当

に良い部分は分からない」

「俺のは武人のたしなみですよ」

「酒豪だけが立派な武人とはかぎらないだろう。あの曹操殿もあまり

たしなまれなかったではないか」

「ああ、あの狐目野郎・・・」

 張飛は曹操が、はじめて会ったときから気に入らない。このところ

劉備がよく話題に出すのでますます反発しているところがあった。彼

の頭には義勇軍だったときに官位をかさに侮辱を加えてきた連中が忘

れられず、官軍はみな畜生、という観念が劉備が官職に就いた今でも

残っている。もっとも張飛のごとき猪武者は曹操も好みではなかった

し、張飛は張飛でキザったらしい金持ちの息子など頭から馬鹿にして

いた。お互い嫌っていると態度に出るのか、なんとなく分かるものら

しい。まれに会うことがあっても口をききあうことはほとんどなかっ

た。それに曹操はいつも、会う機会があるとまず真っ先に玄徳を捜し

出して話しかける。その他の人間が何人いようと眼中にないようで

あった。半ば動物的な直感で、張飛は曹操が玄徳になにか特別な感情

を抱いているのを見抜いていた。

(面白くねえ)

彼の感情では関羽と自分以外の人間が劉備にまとわりつくのが我慢な

らないらしい。特に知的素養を身につけた策士タイプの人間が張飛は

苦手でもあり、気に食わなくもあった。それは彼と正反対の人種であ

り、彼の存在価値を脅かす者達であったからだが、彼自身、そこまで

気がついてはいない。

「そういや兄者、曹操の野郎の噂を聞いたかい」

「曹操殿がどうかなされたのか?」

「あんにゃろ、青州の黄巾を吸収して以来、数十万の軍隊を擁する油

断のならねえ野郎になってきやがったが・・・」

「・・・・・・・・・」

「人を人とも思わん顔してるくせに、殊勝にも親父に自分の晴れ姿を

見てもらおうと呼び寄せる使いを出したそうだ」

「ほう・・・」

「なんだ。あまり驚かないんだな。俺、聞き間違ったかと思うほど

びっくりしたのに。あの曹操が親孝行だなんて」

 実は、玄徳は陶謙からその情報を聞いてすでに知っていたのだ。

「それは結構なことではないか。曹操殿とて存分に孝行をしたい時で

あろう」

「兄者はすぐそれだ。今は乱世。味方でなければ敵だ。敵の幸福を喜

ぶお人よしじゃあ生き残れねぇ」

 玄徳の様子が、あまりにほがらかだったので、張飛は不満げに言い

返した。玄徳は笑っている。彼は本当に曹操のために喜んでいるらし

い。彼もまだ、曹嵩の訃報は知らなかった。陶謙は、曹嵩が通りかか

ると知って、軍隊を派遣しその警護にあたろうと言っていたのであ

る。玄徳も賛成した。彼自身は敵味方に関係無く、こういった話題に

はよく喜んだ。笑うと春の陽差しのようである。生き延びるために策

謀も凝らすが、その本質は悪人になりきれない茫洋さがある。どちら

かというと無口で、ぼんやりしているところがあった。顔立ちはおっ

とりとして、女性的ともいうようなふくよかな印象がある。なにか見

ていて放ってはおけないような気にさせる魅力と、なにもかもさらけ

出しても優しく抱擁してくれそうな、甘えさせてくれる魅力とが微妙

に入り交じって、会っている者を安心させる。張飛も、自分が彼の面

倒をみてやっていると思いつつ実は赤ん坊のようにあやされていると

ころがあった。

「まあ、仕方ねえ。兄者がそういうお人よしだから俺も兄貴もついて

きたんだ」

「では結局同じではないか。お前も私と」

「ちがいねえ」

 兄弟の明るい笑い声が響いた。しかし、そうしていながら、玄徳は

何か不安だった。

(陶謙殿はなぜ急に曹操殿の父上を迎えられる気になったのだろう?

曹操殿を、結ぶとみせかけて油断させる気であろうか。そんなふうに

も見えなかったが・・・・)

 疑いながら、ふと玄徳は寂しくなった。

(私は張飛、お前が思っているようなお人よしでも単純な人間でもな

いようだ)

 人心を読む術は、戦国の世に生き残るには不可欠である。玄徳はそ

れを、ムシロや靴を売って暮らしていた貧しい時代に身につけた。

(張飛に説明しても分かってはもらえまいが)

それがなんとなく義弟を裏切っているようで苦しかった。

(でも私がお前を大切に思い、関羽と同じく愛しているというのも本

当のことなのだ)

言い訳するように心のなかで付け足すと、玄徳はよく人を欺くと陰口

される曹操のことを思った。

(曹操殿もあるいは苦しんでおられるのだろうか。この戦乱を生き抜

くことに・・・)

 もしそうであるなら少しは自分の罪も軽くなるような気がした。

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