「政変だ!!中大兄様が蘇我入鹿を討ち取ったぞ!!」

翌日、早馬があちこちに駆けている。

「兄上、大変なことになりました!」

 3日ほど前から微熱を出して臥せっていた小角の部屋に小純がかけ

こんできた。

「蝦夷の館には、もう軍が派遣されているようです」

「…………だろうな」

聞きながら、もう小角は支度を終え立ち上がっている。無論、彼は軍

備を整える気など毛頭ない。知らせを聞いた時点で、結末は、ほとん

どわかっていた。あの3つの歌の意味が、その時、彼の中ではっきり

と解けた気がした。

 たった一人で馬に乗ると、小角は蝦夷の館に向かった。



はろはろに男女の話す声が聞こえるよ

島の籔原で

遠方の浅野の雉はあたり一面響かせて鳴く

音を立てず俺は寝たのに

あの二人は寝たと人がうるさく噂している 


林の中に私をひきいれて した男の

顔も知らない 家も知らない



 男女とは、中大兄と鎌足。島とは嶋大臣。つまり蘇我馬子の屋敷の

側で鎌足と中大兄が密談を交わしていたことを意味する。そして音を

立てずに寝たとは、入鹿が合法めかして上宮王家を滅ぼしたことを。

人が噂しているとは、それが裁かれる時のくることを意味している。

そして最後の歌は、中大兄らによって本人たちの知らぬ間に、蘇我親

子が殺害されることだった。あの日、血のような夕日のなかで見た3

つの絵巻が、そのまま示していたように。

(やはり本当だったのか……とすると……)

入鹿が死んだ今、次は蝦夷が死ぬ番だ。おそらく屋敷に火を放って。

(急げば、止められるかも………)

小角は馬を走らせる。蘇我に味方する気などなかったが、必ず死ぬと

わかっている者を見殺しにはできなかった。

 けれど。すでに遠くから、赤く焼けた空が見える。

(間に合わなかったか)

彼は思わず手綱を握り締めた。

(あなたはただ見ているしかない)

黄口の言葉を思い出す。

(そうかもしれない)

どうせ、なにもできない。せめて治癒の咒法でも使えたら、ケガ人を

救うことができたかもしれない。しかし今はそれさえもできなかった。

それでも彼は走り続けた。

 蝦夷の館が炎上している。近くまでくると、それは熱や煙りや悲鳴

をともなって、いっそう痛々しくみえた。

 丘の上に並べて建てられた入鹿と蝦夷の宮殿は、さながら要塞のよ

うだった。武器庫も防火設備も整っていた。なのに、それらを何一つ

使わぬまま、それらごと燃えているのだった。昨日の雨でまだ湿って

いるはずなのに、炎はものともせずに侵略している。

(なぜ………)

そう思ったとき、小角はその一切をじっと見守っている者たちがいる

のに気がついた。彼らは人ではない。鬼神が、何人も宮殿を囲んでい

るのだ。

(何をしているんだろう)

小角は彼らを見回した。人間ではない彼らは、一目でそれとわかる者

から、人間と区別のつかない姿のものまで、様々ないでたちで、あち

こちに散らばっている。ある者は皇子の軍を導き、ある者は余計な犠

牲が出るのをくい止めている。残りの多くは、火がそれ以上広がらぬ

ように結界を張っていた。しかし燃え盛る蝦夷の館には誰一人として

救いの手を差し伸べる者はいない。

(天が……皇家に味方しているのか…)

小角は半ばぞっとして蝦夷の運命を思った。

 屋敷を取り囲んだ皇子の兵たちが、中から飛び出してくる人影に

次々に矢を射かけている。

「蝦夷だ!」

誰かが叫んだ。一斉に矢が集中する。先頭を走っていた人影が倒れる。

すると、その後ろから小さな子供たちが走り出てきた。蝦夷の孫なの

だろうか。それとも雑色か奴婢の子供達なのだろうか。矢は止まらな

い。

「!!」

小角は思わずとび出した。しかしとても届かない。

(ダメだ、当たる)

そう思った時、何か赤い影が横切った。

(な…………?)

小角は目を見張った。誰かが超人的なスピードで子供達と矢の間に割

り込み、救い出したらしい。その男は彼らをひと抱えにして飛び、か

なり離れた場所に置くと、またひと飛びで戻って来た。そして戻るな

り自分の脇腹を驚いたように見つめた。

 腹部には先刻の太い矢がほとんど根本まで突き刺さっている。普通

の人間ならとっくに絶命しているはずのその傷を、男は不思議そうに

眺めていた。 

「大丈夫……なのか?君_」

小角はしばらく迷っていたが、とりあえず近くに行ってみた。様子は

ともかく、ひどい重症を負っているには違いない。そのときになって

彼ははじめて小角に気付いたように振り向いた。

「誰だ?てめぇ……?なんでオレが見えるんだ?!」

なぜか男はひどく驚いている。炎を照り返したその姿は炎と同じくら

い深紅に輝いている。しかし、それが炎を映したものではなく彼自身

の色であるのに、小角は気付いた。

「君は……あの時の……」

小角は絶句したまま男をみつめた。その目の前で、男の赤い瞳が、突

然、驚きからはしゃいだような笑顔に変わった。

「おめぇ……あん時のガキだろ?そうだろ!」

声が上ずっている。小角は真っすぐにそばへと歩み寄り、十年ぶりで

会う赤い護法鬼神を、改めてまじまじと眺めた。 

ふっくらと丸みを帯びていた頬は引き締まり、すらりと伸びた手足は、

整った筋肉が張り詰めている。輝く緋色の長髪を黄金の髪飾りでとめ

たその顔は、美しい青年のものだ。人間ではない証の可愛らしかった

短い牙さえ、もう鋭い犬歯になっている。

「随分……背が伸びた」

「おめぇもな」

「髪も伸びたし、顔も大人になった」

「おめぇもな」

そこで二人は、声を上げて笑った。

 と、急にうめいたかとおもうと、鬼神が傷をかばうように屈みこむ。

小角は慌てて駆け寄ると、彼を抱えてその場を離れようとした。

「うわっ、重いよ、ちょっと………」

「おめぇの鍛え方が足りねぇんだろ」

よろけてひざをついた小角を、鬼神は呆れたように横目で見ている。

その腕を肩にかけ、小角は再び彼を引きずって歩き出す。その頬や耳

元を、矢が何本もかすめて通った。

「急げよ、おめぇ…」

「これでも……だいぶ勤めサボって山登りしてたんだけどな」

鬼神は自分に触れている小角の頬を見上げた。相変わらず白い。け

れど彼が長年思っていたよりもどこか、やつれて見えた。

「おめぇ…なんか前より暗くなったんじゃねぇか?」

「こんなもんさ。慣れない人間生活で、いろいろ苦労してるもんでね」

「けッ人間のくせに。相変わらず、おかしな野郎だぜ」

 ようやく離れた物陰に横たえると、小角は力任せに矢を引き抜いた。

どっと赤い血が吹き出し、鬼神が激痛に悲鳴をあげる。小角は自分の

袖を引き千切ると、急いで傷にあてた。

「大丈夫か?」

「たいしたこと……ねぇよ。こんなの。いつもだからよ。けど……」

取り返しのつかない顔で、鬼神は抜けた矢を見つめた。

「これ、破魔の矢だったんだな……。だから当たっちまったのか………。

……普通の矢なら傷つくハズなかったのに……」

そういえば、伊勢の社に納めてあった矢と同じ造りだ。小角も見たこ

とがある。闇の体を持つ者を必ず殺してしまうそれは、降魔の剣と並

んで、鬼神や物怪には最も恐ろしいものだった。

「でも、君は護法なんだろ?」

「そうだけどよ……鬼神は鬼神だぜ」

「それじゃ……」

急にぞっとして小角は傷に視線を落とした。おそらく、このままでは

傷口から徐々に腐って、間もなく死んでしまうに違いない。

「そうだ!」

突然思い出したように鬼神は長い爪を生やした手を伸ばし、傷口を押

さえている小角の白い手をつかんだ。

「また治してくれよ。あん時みたいに!普通じゃ無理だし、鬼神の傷

を治せる人間の呪術者なんかいねぇけど、おめぇなら出来んだろ?」

「それが…」

小角は言いにくそうに、うつむいた。

「できねえ?!」

すっとんきょうな声を上げて、鬼神は小角を見つめた。

「冗談だろ?なんでダメなんだよ!? 」

「わからない。でも、もうできないんだよ」

「変だな。おめぇは化人(けにん)の咒禁師(じゅごんし)だと思ったん

だけどな」

鬼神は首をかしげた。

「だってオレ、見たんだぜ。おめぇが咒力を使う時、一瞬、後ろに出

るの」

「出るって何が」

「よくわかんねぇけど……かなり位の高い奴だぜ。観音かなんか、そ

ういうの」

「何言ってるんだ。いったい」

小角は不安になって、片手で傷を押さえたまま、もう片方の手で鬼神

の冷たい頬をさすった。口調とは裏腹に、それはひどく青ざめて、す

でに死相が浮かんでいた。

「とにかく……何か他に方法はないのか?助かる方法_」

「ねえよ。けど……」

鬼神は重ねた小角の手を、もう一度握った。

「おめぇなら、治せるはずだぜ」

「無理だって言ってるだろ。もう私は、何もしてやれないんだよ」

ほとんど、泣きそうな顔で小角は首を振った。

「んなハズねぇけどなぁ」

納得のいかない顔で、鬼神は炎で赤く染まった空を見上げた。

「だって、おめぇ、オレが見えるんだろ?普通の人間には見えねぇは

ずだったんだぜ。さっきは咒を使ってたし」

確かに鬼神が見えはじめ、何かが戻ってきているような気もする。し

かし、実際に傷など直せないし印を結んでも何も起こらない。ここへ

来たのも、予知というよりは黄口に教えてもらったにすぎない。

 けれど横たわったまま鬼神は、すっかり信じて安心しきっているよ

うに、うっすらと赤い瞳を細めた。

「それに……今、すげぇ楽だ。きっと、おめぇの手のせいだぜ」

「手?」

「破魔の矢に射られたら、こんなもんじゃ済まねぇんだよ。一度見た

ことあるけど、そいつ、すっげぇ苦しんでた。転がり回ってるうちに、

体がボロボロに崩れちまって、すぐに黒い砂になっちまった」

恐ろしいことを聞いてしまったように、小角の肩がわずかに震える。

鬼神はそれでも少し笑っていた。

「でもよ、おめぇの手のおかげで、そんなふうにならねぇ」

「まさか」

「嘘じゃねぇよ。感じるんだ。なんか、あったけぇ咒みたいな力」

 遠くで、人々の声と建物の崩れる音が聞こえる。と、赤い空を見上

げていた鬼神の瞳が、急に苦痛で歪んだ。

「頼むぜ……なんとかしろよ。もう時間ねぇんだよ」

「すまない。私には……どうすればいいのか……」

どうしようもない思いで、小角は冷えてゆく鬼神の肩や胸を少しでも

温めようと、懸命にさすった。

「チッ仕方ねぇなぁ……」

鬼神は眠るように目を閉じながら、つぶやいた。

「じゃあ、せめて、ずっとそうしててくれよ」

まるで、心地よく眠ってしまうように鬼神が目を閉じたまま頬笑む。

その唇が、最後に小さく動いた。

「残念……だったな。せっかく…また会えたのに。そういやまた……

名前聞くの…忘れちま……」

 静かだった。時が止まってしまったかと思うほど、風すら音を立て

ない。

「ちょっと………君……」

小角は鬼神の、安らいで、ただ眠っているようにしか見えない顔をみ

つめた。

(死んだ……のか_)

さっき再会したばかりなのに、まだ温かいのに、どうして救えないの

だろう。

(助けたかったのに。そうしたら、私の命をあげても良かった………)

 いきなり魂切るような悲鳴が響く。つんざくような慟哭が、辺りの

地面までも震わせた。

 それが、自分のあげた声だと、小角は自分でも気付かなかった。こ

んな声を今まで上げたことがない。目の前で父が死んだ時も、母に殺

されそうになった時も、こんなふうではなかった。泣きじゃくりなが

ら、小角は、思いつく限りの真言を唱えた。血を吐くのではないかと

思われるほど、唱え続けた。

それから何が起こったのか、わからない。一瞬、白い光に包まれたか

と思うと、眼前に曼陀羅(まんだら)のような世界が広がった気がする。

そして世界が一度粉々に消し飛び、再び復元する様を見た気がした。

「おいっ……おいってばよ!!」

誰かが肩を揺すっている。小角は、恐る恐る涙で霞んだ視界を開いた。

「やっぱ、おめぇ、すげぇじゃねぇか」

目の前で、赤い髪をふさふさとなびかせた鬼神が、けろりとした顔で

笑っている。

「い……生きてるのか!?君は?!」

「何言ってやがんだよ。自分で助けといて…………わッ」

鬼神が、頬を赤らめて硬直する。その体を、小角は両手で胸に抱きし

めていた。

「てめぇ!?何しやがんだよッ離しやがれ!離………」

次第に小さくなった声が、押し黙る。何かとても暖かで気持ちの良い

ものにくるまれている気がして、鬼神は小角の肩に頬を乗せると、瞳

を細めたままおとなしく抱かれた。

「あ、いけねぇ」

しばらくして唐突に、鬼神が叫んだ。

「まだ仕事が残ってんだぜ。早くしねぇと…また毘沙門天のクソジジ

イにどやされる」

「仕事?」

小角もようやく彼を放した。

「何をする気なんだ?」

「あの火を止めんだよ」

「火………?いまさら……?」

二人は、もうほとんど屋敷の形骸もとどめず、ただ炎しか見えない巨

大な火柱を見つめた。

「あの火がどこにも飛ばねえように、適当なところで消せって言われ

てたんだぜ。それが終わったら法興寺行って…」

しかし鬼神は立ち上がろうとして急に尻餅をついた。

「変だな。なんか…あんまし力入んねえ」

「まだ体、よく治ってないんじゃないのか?」

小角は鬼神の背を支えると、一緒に立った。

「畜生……これじゃムリか…」

小角の肩につかまって歩きながら、鬼神が不機嫌に牙を鳴らす。しか

し命令の遂行というよりもむしろ、彼は、弱った体が思うように動か

ないことに腹をたてているらしかった。

「ここでいいぜ。おめぇはさがってろよ」

炎のすぐ近くまで来て、鬼神は小角を後ろのほうに押しやった。そし

てひどくだるそうな様子で、それでもなんとか一人で立つと、両足を

少し開いて踏み締め天をつかむように片手を高くあげた。

 緋色の髪が逆立ち、鬼神の額に三つ目の瞳が開く。そのまま、天に

向かって何事が咒を唱え、叫んだ。

「三界を司る戦神、大自在天の名において我が命ずる。光雷よ来たれ!

光の珠となりて我が命に服せ!」

 一瞬、小角は腕で目を覆った。それほど凄まじい光が天から降って

くる。稲妻とともに降りてきたその白い光は、鬼神の全身を包むと、

みるまに鬼神の上げた手に集まり、小さな光の球となった。

(……………?!)

 しかし鬼神の動きは止まったままだ。額に冷たい汗が流れている。

小角は、はっとした。光の力に、鬼神の力が負けているのだ。それを

使うどころか、彼は今にも昏倒しそうで、赤い瞳もほとんど光を失い

かけている。小角は思わず走った。何ができるというわけでもない。

ただ、何かしてやりたい。彼はくすぶった光の力をくぐり抜け、後ろ

から鬼神を支えると、その手に手を重ねた。

「おめぇ………」

驚いたように、鬼神が小角を見る。それから急に、また思いついたよ

うに笑顔になった。

「そうだ!おめぇの咒力、貸せよ」

「え?」

「おめぇの力と合わせれば、こいつを操れる」

「無茶いうな」

「無茶じゃねえって。いくぜ!」

「お、おい……」

慌てた彼をほうって、鬼神が力を振り絞る。もう、いくしかない。小

角は、昔、彼が教えてくれた印を結び、真言を唱えた。

 何か、できそうな気がした。いつもくすぶっていた思いが、一つの

大きな力となって不安な何かを撃ち抜く気がした。

 二人の手から光の珠が放たれる。

 それはあっという間に炎を包んだかと思うと、まるで何事もなかっ

たかのように消えた。それとともに炎も消え、あとにはただ燃え残っ

た柱や炭だけが、ガラクタのように積まれていた。

「ほら、な」

肩で息をしながら鬼神が笑った。

「おめぇとなら、できただろ?」

「まぐれじゃないのか」

「違うって」

地面に座り込みながら、鬼神が笑う。小角はその隣にひざをつくと、

彼の汗ばんだ肩に手をかけた。

「大丈夫か?」

「この技…疲れんだよ。すごく。オレの命を喰うからな。でも、これ

から急いで法興寺に行かねぇと」

 よろよろと、鬼神は立ち上がり歩き始める。小角はその身を支えて

やると、馬をつないでいた場所に行き、鬼神を乗せた。

「へぇ、こんなもんに乗るのはじめてだぜ」

鬼神は小角の背につかまりながら子供のようにはしゃいでいる。小角

はくすりと笑った。どうも、彼は10年前とあまり変わっていないらし

い。

(わたしは……変わっただろうか)

咒力が使えなくなったのも、使いたくないあまりに押さえ込んできた

からかもしれない。鬱屈した思いが力を封じ続けてきたのかもしれな

い。

(でも……)

なんとなく、この、赤い髪と瞳を持つ鬼神といると、もう少し自分に

正直に生きられそうな気がした。








「大声、出すなよ」

鬼神が念をおす。

「オレ達の姿は、今、人間にゃ見えねぇんだからよ」

「わかってるよ」

小角がうなずく。二人は、鬼神の術で姿を隠したまま、法興寺の屋根

の上に並んで座った。

「ここで、何が起こるんだ?」

「知らねぇ。なんか人間どもの儀式だろ」

「おまえね………」

小角は呆れて、やけに退屈そうな鬼神を見た。

「仕事なんだろ?」

「だからって、知らねぇもんは知らねぇよ」

 寺の庭にある、神祇のように飾った大槻の樹の下に、朝廷の重臣が

すべて居並んでいる。一番先頭にいるのは阿倍内摩呂と石川麻呂だっ

た。それぞれ、左右大臣を拝命している。

「中大兄皇子の改革だ。当然だろうな」

小角は思わずその場に立ち上がった。

「政権交替、か………。いや、それ以上の意味を持つ_」

「チッ。こんなもん見届けるってぇだけの、つまんねぇ仕事だぜ」

興味のないことには全く関知しない顔で、鬼神は欠伸している。走り

回っている時はずいぶん意欲的だったのに、こんな静かな場面では眠

くなってしまうらしい。人間の大異変も彼にはどうでもよさそうだっ

た。

「仕方のない奴だなぁ。これだって大事な仕事だろうに」

小角は苦笑した。

「天神みてぇなこと言うんじゃねえよ」

「でも……」

小角がクスリと笑う。

「いいんじゃないか?私は好きだよ」

小さな子供が狼狽したような目で、鬼神が小角を見る。それから、か

っと頬を染めると、ぷいと横を向いてしまった。

「孝徳天皇、御出御!!」

 突然、庭に声が響き、軽皇子が中大兄とともに現れる。樹の前にし

つらえた段の上に、数日前まで軽皇子だった、新しい天皇が上った。

身の危険を察した古人皇子はすでに出家し、都から逃走している。す

べては鎌足の思惑通り、中大兄は皇太子の位に、そして鎌足自身は大

錦冠(四位)の内臣(うちつおみ)に収まっていた。

 天皇が、新制発足を天神地祇に誓う。それを聞きながら、中大兄は、

やや後方に下がっている鎌足のほうを見た。彼は、顔色は悪いとはい

え傷のことなど全く周囲に悟らせずに立っている。

(大丈夫か?)

視線に気付いた鎌足に、皇子は目顔で尋ねた。鎌足は微笑んでうなず

いてみせる。皇子もそれに応えて少し笑った。

(まだ無理だと、言ったのに……)

中大兄は鎌足の控えめな仕草に、どこか胸の詰まる思いがした。本当

は、まだ傷が重く、とても起きられる状態ではなかった。でも本当は、

自分の身代わりにならなければ、そんな傷などわざわざ負うこともな

かった。そして本当は、彼こそが一番の功労者であり、今も最前列に

居るべきだったのだ。

(阿倍内摩呂よりも、石川麻呂よりも、鎌足こそが前に御すべきなの

に……)

『私は四位でかまいません。いえ、そのほうがいいでしょう。どうせ、

神祇伯(四位)になる予定だったんですから。急に出世したら周りが

怪しみますよ』

官位の相談をしている時も、彼はそう言って笑った。それが唯一、二

人の意見が別れた時かもしれない。そして彼らは、こんな会話を何度

も交わした。

『新政府は皇太子であるあなたが全権を握っているのです。そのあな

たは、私の献策を入れてくれます。それ以上何を望むというのです?』

『しかし…中国に先例があるとはいえ…内臣などと……。そのような定

まらぬ地位を得て、それでおまえは満足なのか』

『だから良いのではありませんか。かえって自由がきくというものです』

『形式的には左右大臣の下なのだぞ?もし俺に万一のことがあったら

誰もおまえの身を保証してやれぬ』

『私は一生、あなたの影として仕えるつもりです。あなたがいなけれ

ば存在する意味もない。ですから、これ以上の官位は必要ありません』

『これからも、ずっと内臣のままでいる気か?俺が天皇になっても?』

『ええ、一生』

『……他に望みはないのか』

『それが私の望みです。もし、あなたが何でも私にお許し下さるとい

うのなら……』

 そんな人間を、中大兄は見たことがない。たぶんこれからも会うこ

とはないだろう。

(皆、自分の出世と金のためだけに、寄ったり離れたりするものだろ

うに………)

けれど、たとえ鎌足がそうであったとしても、もういいとさえ思って

いた。それだけの事を彼はしてくれた。だからどんな陳腐な望みでも

俗物な願いでも聞いてやるつもりだった。

(なのに……)

天皇の詔を聞きながら中大兄は、じっと鎌足の白い頬を見つめている。

(あいつの望みはどこにあるのだろう?)

 天皇の詔はちょうど、新しい年号を読み上げるところにさしかかっ

ていた。それまで朝廷は、特に年号というものを設けていない。

ここ最近は、年日とも百済の書にならって太歳(木星)を使った干支

などで呼んでいたが、12周期のそれには、くり返し巡ってくる順番

札以上の意味がない。

しかしそれを、鎌足の案で変えた。

「……今ともに心血をそそいで、今から以後は君に二政なく臣に二朝

なく………」

天皇の声は続いている。

「……もしこの盟にそむくなら、天は災、地は妖、鬼が誅し人は伐つ

だろう。これは、日月のように明白である」

廷臣たちは皆、天皇に視線を集めている。けれど鎌足は、槻の樹を見

ていた。そしてその樹を通して、もっと遠くの何かを見ているようだ

った。中大兄は、なぜか彼が自分をおいて一人で遠くに行ってしまい

そうな気がして不安に近いものを覚えた。

 その時。天皇の声が、ひときわ高く響いた。

「よって、今、この時をもって、」

と、鎌足が、中大兄に視線を移した。二人の視線は結び合い、お互い

がお互いを見つめた。ふと、鎌足の瞳が強い光を宿して微笑んだ。そ

の視線の先にあるのは、中大兄その人と、この国の未来なのに違いな

かった。

「……皇極天皇の四年を改め、大化元年とする」

天皇の言葉が、群臣すべての上に、厳粛な空気となって張り詰めた。

 大化元年。

(それが俺達の始まりだ。だからそれを、この樹に誓う。俺達が初め

て出会ったこの場所に……)

中大兄は、鎌足以上の強い光をもって彼を見つめた。

(おまえの望みが新制樹立と理想の実現にあるのなら、それを俺がか

なえてやる。おまえの君主として、おまえの夢に恥じない者になって

やる)

その時、鎌足がうなずいた。

(私もです、中大兄様。私はあなたに恥じない臣下としてあなたをお

助けいたします。死ぬまで、ずっと。だから……)

中大兄が笑った。鎌足も微笑んだ。

(だから、これが、俺達の誓いだ)

 庭が一望に見渡せる高い屋根の上で、小角は一切を見ていた。彼に

は、この儀式とその奥に流れる二人の人間の絆が見えた気がした。そ

の真っすぐな想い。確固とした目的を持ち実現してゆくことと、共に

生きる相手を持つことに、どこか羨望を感じながら、小角は最後まで

見つめていた。

「!?」

 突然、まるで視線に気付いたように、不意に鎌足が振り仰いだ。視

線が、確かにぶつかった。確かに、鎌足は小角を鋭い錐のような視線

で射抜いている。

「なぁ……」

小角は鎌足から視線をそらさぬまま、足元に寝転んでいる鬼神に言っ

た。

「あの人は……私達に気付いているよ」

「まさか」

鬼神はとりあいもせず、空ばかり見上げている。

「だとしたら、そいつ、普通の人間じゃねぇんだよ」

そして思い出したように付け加えた。

「おめぇみてぇにな」

「私……みたいに?」

 式が終わる。鎌足も視線を戻し、何事もなかったかのように群臣の

中に交じっていった。

「あーぁ、やっと帰れるぜ」

鬼神が大きな欠伸をして立ち上がった。

「帰る?………そうだな」

ふと寂しさに似た諦めを感じて、小角はうなずいた。

「君はいつもどこにいるんだ?やはり…人間には行けないような場所

なのか?」

「ま、そうだな。人間は来れねぇよ」

「そうか……そうだよな」

「けど………!?」

何か言おうとして、鬼神が急に押し黙った。

(気配を感じる……?)

小角もそう思ったとき、背後から、なめらかな声が響いた。

「生きていたんですか」

振り向くと、二人の目の前に黄口が立っている。

「てめぇ……」

赤い髪を風に流しながら小角の隣で鬼神が不機嫌に唸る。黄口はそん

な彼の態度に全く頓着しないように、素直な驚きを口調に出していた。

「もう死んだと思ってました。あの矢にあたって、よく………」

「見てたのか」

赤い瞳を凄ませて、彼はひどく嫌な顔をした。

「まさか、てめぇがやったんじゃあるめぇな?だいたい、なんであん

なとこに破魔の矢があったんだ?!」

「知りませんよ。失敬な。ボクがそんなことをするはずないでしょ

う?」

「けッ…どーだか」

「あなたこそ、助かる予定のない者まで助けたりして。閻魔天(えんま

てん)がお怒りでしたよ。おまけに他の鬼神の指揮もしないで勝手な

マネばかり。あなたの隊だけ動きが目茶苦茶でした」

「うるせえよ。結果としちゃあ言われたことはやってんだから、いい

じゃねえか」

「相変わらずですね。そんなだから、陰から矢が飛んできたりするん

ですよ」

「フン」

黄口はやれやれといったふうに笑うと、小角に向かって軽く会釈した。

そして

「先に帰っています」

それだけ言うと姿を消した。

「君の…仲間なんだろ?」

小角は、まだ不機嫌に黙り込んでいる鬼神に向かって言ってみた。彼

はむっつりしたまま答えない。

「なんか……おまえも大変そうだな」

「フン」

どうも、小角の知らない鬼神同士のいざこざがあるらしい。 

と、不意に鬼神が手をとった。

「おめぇ……一緒に来ねぇか?オレと…」

「え?」

小角はその、赤い爪の光る日に焼けた冷たい手をみつめた。しっかり

握ったその手は、しかしどこか暖かい。

「一緒にって、どこに?」

「天界には護法鬼神の宮殿があんだよ。でも、今度のことを復命した

ら、もう、そこは出るつもりなんだ。だから、どっか………」

「どっか?」

「どっか別の、遠い所に……」

 小角は黙った。まさか、その言葉で自分以外の者から誘われること

があるなんて、考えたこともなかったのだ。

「行きたいな」

小角が言った。

「来いよ」

鬼神が手を引く。小角はずっと鬼神の手を見ている。神かくしにあっ

て二度と帰ってこなくなる人間たちも、案外こんなふうにして行って

しまうものかもしれない。

「でも………」

ふと、いつかの、小純の泣き顔が浮かんだ。

「やっぱり……行けない。今はまだ……私にもやることがあるから」

「そっか……」

落胆したように手を放した鬼神は、しかしすぐにまた言った。

「じゃあ、また………また会おうぜ!」

「ああ」

「きっとだぜ?」

「ああ」

「おめぇ…」

赤い瞳が小角の、時おり紫金に光る人にしては不思議な瞳をのぞいた。

「ちゃんと修行しろよ。もったいねぇじゃねぇかよ」

「ああ、そうする。おまえが言うならな」

冗談とも本気ともつかない顔で小角が笑った。

「おめぇは、すげぇ呪術者になるぜ。絶対」

「鬼神が言うんだから、そうかもしれないな」

小角はもう一度笑った。どこか少し自由になれたような、そんな頬笑

みだった。

「今度会うときまでに磨いておくよ。勤めのスキを狙ってな」

「約束だぜ!?」

 彼は小角を地上におろすと、子供のような笑顔を残して、赤い風の

ように消えた。

 行ってしまった鬼神の方角とは反対の方に歩き出しながら、小角は

急に思い出したようにつぶやいた。

「あ、また……名前聞くの忘れてた…」

彼は立ち止まり鬼神の消えた山々のほうを振り返ってみる。しかしす

ぐまたもとの道に戻って歩き始めた。

「ま、いいか。今度会ったときで……」

 いつの間にか、はるか頭上には夏の青空が広がっている。小角は、

そこに浮かぶ白い雲を見上げた。それは、遠いようでもあり、すぐつ

かめそうな気もした。

(どっか、遠くに…………か)

 小角は馬に乗ると、手綱を母や弟の待つ家の方へと向けた。辺りは、

雨上がりの草木に眩しい陽射しが照りつけ、濃い色彩が鮮やかに浮か

び上がっている。いつもと同じはずなのに、その世界が、なぜかほん

のわずかだけ明るく鮮明に見えた気がした。

 行きたかった遠くとは、この地上にはない場所かもしれない。けれ

ど心の中にある場所かもしれない。思いひとつで誰でもいつでも行け

るような……。

 進む道には、まだ昨日までの雨が残っている。落ちた滴に反射して、

それらは光の粒を敷きつめたように、いつまでもキラキラと輝いてい

た。

(完)

■千年前の物語■