「少々、妙なことになりました。中大兄様」

珍しく鎌足が緊張した顔で耳打ちする。皇子は片手に書物を抱え、請

安の部屋へ続く廊下を肩を並べて歩きながら、険のある眉を跳ね上げ

た。

「どういうことだ」

「石川磨呂の娘との婚姻の件なのですが……」

「あれは順調にいっているのだろう?石川は喜んでいると言っていた

ではないか」

「それが……」

鎌足の言葉に、さすがに皇子は驚いて立ち止まった。

「娘がさらわれた?」

「はい。相手はどうも石川の腹違いの弟にあたる蘇我日向(そがのひむか)

らしいのですが。

昨夜、婚姻するはずの長女を盗み出し姿を隠したそうです」

「それで、石川はなんと申しているのだ」

「代わりに次女を差し出したいと……。しかしこれについては石川自

身も相当、動揺しているようです」

「ふん」

皇子は立ち止まったまま、階の下に広がる、よどんだ池面をみつめた。

「ふざけた話だが……まあそれはいい。長女でも次女でも同じことだ。

俺はどちらでもかまわん。だが問題は……」

「ええ。なぜこんなことが起きたか、です」

鎌足も思案げに池をみつめる。皇子は緑の水に浮かんだハスの葉を眺

めている。あたりでは様々なセミが、まるで命を競い合うように鳴い

ていた。再び皇子の形の良い唇が動いた。

「石川は例の件についてどれだけ知っているのだ?」

「もちろんまだ何も知らせてはおりません。様子からして感づいたわ

けでもなさそうです。次女を出すと言っている以上、こちらと結ぶ気

が失せたわけでもありますまい」

「すると、そっちは問題なしか。では日向だな」

「ええ。それは今のところ調査中です」

「日向は、母親の違う兄とは不仲と聞く。もし、あの計画に気付いて

やったのだとしたら……」

太った黒い鯉が、ぴしゃりとはねる。その動きを視線で追いながら鎌

足は言った。

「無論、日向は始末します。ただし、間に合えばの話ですが」

「今、手勢を集めるとしたらどれだけ集まる?」

「恐らく無理でしょう。まず、頭を叩かなければ。こちらに勝ち目は

ございません。あくまで先に、あの二人を謀って殺すことです。あの

二人さえいなければ、日和見の連中はすべて皇家につくでしょうが」

「そうか……」

二人の目の前で、今度は二匹の鯉がはねた。その、つがいのような鯉

は絡み合うように追いつ追われつ泳いでゆく。不意に、中大兄は笑顔

になった。

「まあいい。俺はおまえを信じているし……俺は死なない。こんな所

ではな」

「ええ」

鎌足もつられて微笑む。もちろん彼には勝算があった。万一それがく

つがえされたとしても、もう一度返す自信はある。

「中大兄様。この世を変え、掌握するのはあなただけです。その為に

なら、私はどんなことでも厭いはしません」

「わかっているさ。鎌足……」

中大兄が、再び歩き出す。鎌足は微笑んだまま、その後を追った。

「では、次の策を聞こうか」

「まず、具体的な方法ですが……大極殿を密室にしてそこで入鹿を仕

留めます。心理的打撃を考えても、年老いた蝦夷など、その後のほう

がよろしいでしょう」

「だが大極殿を密室にとは、どうやって?」

「三韓朝貢の日に、門番にすべての門を閉めさせてから、俸禄を渡す

といって一カ所に集めてしまいます」

「朝鮮半島の三国が天皇に貢物を届ける日に、か。それは名案だな」

「天皇と使節の面前では、百官とも軽はずみな真似はできません。そ

の逆手をとります。特別な日ですから門番には何とでも理由はつけら

れます」

「うん」

「使節のうち何人かは、我々の手勢と直前ですり替えておきましょう。

そして門番も、武芸のたつ者で信用のおける者は仲間に引き入れ、我々

と一緒に入鹿を討たせます。その人間のめぼしもつけてあります」

「だが入鹿は疑い深い男だ。いつも剣をもっている。もし、一度で仕

損じて母上の前で斬合いになったら母上が危険ではないか?」

「それは、私がなんとかいたします。理由をつけて剣を取り上げてお

けばよろしいでしょう。当日も、他の豪族達が動揺せず、すぐこちら

側にまとまるよう工作しておきましょう」

「わかった。だが、入鹿を殺したら、次は蝦夷と戦になる。その時は

漢直なども出て来る。蘇我氏が一族を挙げて結集するだろう」

「その一角を崩すために……石川麻呂をこちらに収めておくのですよ」

「そうだな」

そこで皇子は、快活に笑った。もう請安の部屋が目の前に見えていた。

「で、戦は……どこを拠点にする気だ?」

「それは」

「いや、待て。それは俺が決める」

「え?」

鎌足が、珍しく戸惑った瞳で皇子を見る。皇子は、まっすぐに進みな

がら言った。

「場所は、法興寺」

「法興寺………ですか」

法興寺は蘇我の氏寺だ。敵の掌中ともいえる場所である。しかし、

「よろしいと思います」

そう言った鎌足は、別に驚かなかった。

「近辺で、軍を駐屯させ、居城にできる場所は、そう多くはございません。

これで蘇我は結集する場所を一つ失いますし………しかも、敵の心理的

本拠地ともいえる場所を潰し、こちらの手に収めておく。………一石で、

二鳥も三鳥も落とせる良策でしょう」

「うん。軍略の基本だな」

皇子は、愉快げに続けている。

「そして、そこに百官を集めて新制発足の誓いを行う。誓いの場所は、

槻の木の下だ」

「槻の木の下…で……?誓いを……?」

それまで穏やかにうなずいていた鎌足の声が、わずかに陰った。

「それは………むろん、なるべく早いうちに、宣旨を出さねばなりま

せん。天皇の交代を知らせ、体制の変化を告げるのは最も重要なこと

です。しかし、だからこそ、そのような国家の大事を、木の下でなど

…………」

「宣旨ではない。誓い、だよ」

「は…………?」

と、急に、鎌足の前で、背が振り向いた。

「皇子………?」

思わずぶつかりそうになって、鎌足が立ち止まる。

中大兄は、悪戯っぽい顔で笑っていた。

しかし、これまで見たこともないような、はっとするほど優しい光が、

瞳に深い色合いを添えている。

「皇子……?」

もう一度、鎌足が言いかけた時、中大兄がそれを遮るように続けた。

「たしかに、軍拠はただの戦略だ。だが……俺にとっては、それだけ

じゃないのさ」

「…………?」

「忘れたか?法興寺の槻の木の下は……おまえと初めて会った場所だ。

だから、そこで、これから二人で創る新時代の宣言をする。……不満か?」

「いえ………」

黙って聞いていた鎌足がうつむいて立ち止まる。次に顔を上げた時、

瞳が、揺れるように微笑んでいた。

「私はあなたの臣下です。ご命令があれば何でもする、一生心をこめ

てお仕えもする、それは当然のことです。なのに……よろしいのです

か?私のような者に……そこまで情をおかけになって……」

「では、決まった」

皇子がもう一度笑った。そして止まらずに歩き続ける。鎌足が急いで

後を追う。彼は皇子の、案外に自分より幅のある背をみつめた。

(中大兄様………)

 始めは、理想を実行するに足る皇族として、自分が選んだ人物だと

思っていた。自分の手駒と考えていた。近づいたのも、あからさまな

忠誠も、すべて計算し尽くした上での故意だ。なのに、気がつくとい

つの間にか自分が引き込まれていた。

 本当は、彼も信じてなどいなかったのだ。自分がそうであるように、

皇子もまた自分を信じるはずなどない。皇族が身分違いの自分を、同

じ人間と思うはずはない。所詮は自分も彼の道具にすぎない。役に立

たたなければ代わりはいくらでもいると、簡単に捨てられるだろう。

 だから、全力を尽くす。

せめて自分にできるのはそこまでだった。だが、それでいいと、思っ

ていた。代わりに自分もまた皇子を利用するのだと、そう思っていれ

ばよい。お互いがお互いを利用しているのだと、都合よく思い込んで

おればよい。そう自分に言い聞かせてきた。

(でも……私は心から…この方のために一生働く)

迷いのない、すっきりした皇子の背をみつめながら、鎌足はもう一度

誓った。

(必ず私の手で、この方を真の帝位につけてみせる)

そして、いつの日かそれを見届けることができたなら、何の代償もい

らない。自分はそれだけで満足だろうと、思った。










 皇極4年6月12日。その日は、朝から曇天だった。今にも降りだし

そうな重苦しい空が広がっている。その下を並んで歩きながら、中大

兄は傍らの鎌足にささやいた。

「いよいよだな」

「はい。準備はすべて整っております、あとは本日行われる三韓の朝

貢で………」

「俺達の第一歩が始まる」

計画を練り始めてから、ちょうど一年経った。そして、一年前には考

えられなかったことが起ころうとしている。

(いや、起こすのだ。俺達が……)

中大兄は、太刀の把を握り締めた。今日すでに、入鹿が大極殿に参内

していることがわかっている。石川麻呂には昨夜手筈を確認させた。

彼が天皇に表文を読み上げている間に、中大兄らが一気に斬込む。

 大内裏への通用門はすでに閉ざされ、門番と衛兵は中で酒を振る舞

われている。

 中大兄と鎌足が配置につくとすぐに、天皇が出御した。そばには蝦

夷の妹が生んだ古人皇子従っている。そのすぐ隣、他の皇子たちが座

るはずの場所には、入鹿が当然のように座っていた。

 貢が並べられ、石川麻呂はそれらを読み上げるために天皇の前に進

み出る。心臓の音が、すぐ隣の入鹿に聞こえそうな気がして、石川麻

呂は焦った。計画を聞かされた昨夜から吐き続けている。もう何も残

っていないはずなのに、一足進むと、また戻しそうになった。

 手筈は聞いている。韓人のうち、後方3人が仲間のはずだった。最

も入鹿に近い彼らがまず、機を見て入鹿に切りかかる。同時に屏風の

裏から二人、左右の柱からそれぞれ中大兄と鎌足が飛び出し、入鹿を

囲む。

 表文はどんどん進んでいった。ところが誰も来ない。石川麻呂は震

えた。喉がからからに渇いて、引きつっている。落ち着こうとするた

びに余計に心臓が跳ね、口から出そうな気がした。もはや手の震えは、

巻紙を取り落としそうなほど大きくなっている。入鹿がじっと不審げ

にそれをみつめていた。

(臆病者が)

鎌足は右の柱の影で舌打ちした。しかし他の者も同じだ。皆、いざと

なると足がすくんだように誰も動こうとしない。機を伺っているよう

で、その実、脅えて足が前に進まないのだ。直前で取り上げておいた

ため、入鹿は剣を持っていない。丸腰を知っているはずなのに、蘇我

氏への反抗という恐怖が彼らを縛っているらしい。

 表文はもう終わろうとしていた。

(失敗だ)

鎌足がそう思った時、

「やあっ」

いきなり声がしたと思うと、左の柱の陰から長槍が飛び、古人皇子の

足元にぶすりと突き刺さった。どっと場内がざわめく。入鹿も一瞬、

槍に目を向けた。その瞬間、ものすごい速さで左から突っ込んだ者が

ある。気配に振り向くより早く、それは入鹿の背に切りつけた。

 魂切るような悲鳴が響いた。血が飛び、入鹿が泥酔したようにふら

ふらと歩いている。その後ろに、中大兄が血のりのついた両刃の剣を

両手で握り締め、仁王立ちになっていた。あまりのことに、群臣は金

縛りにでもあってしまったかのように静まり返っている。外では低い

雷鳴が聞こえ、雨が降り始めていた。

 中大兄が追いついてもう一度切り込もうとした時、入鹿はふらつい

た足取りのまま、槍の前で腰を抜かしている古人皇子に倒れ込んだ。

そのときになって、ようやく皇子の甲高い金切り声が重なる。すぐ隣

の天皇も悲鳴をあげて飛びのいた。

(母上……!?)

中大兄が、ほんのわずかに戸惑った。と、死んだかと思われた入鹿が、

やにわに古人の腰の剣を抜き、跳ね起きて振り向きざま袈裟がけにす

る。不意をつかれた中大兄の動きが一瞬止まった。

「皇子!!」

鎌足が、抜き身の剣をつかんで飛び込む。入鹿と鎌足の間に火花が散

り、次の瞬間、折れた二つの剣先が空中高く吹っ飛んだ。勢い余って、

二人が同時に足を崩す。そこへ、間髪を入れずに中大兄が踏み込んだ。

「天誅!!」

皇子が叫ぶ。同時に入鹿の肩が飛んだ。

「お助け下さい!!中大兄皇子が乱心いたしました!!」

瀕死の姿で最後の声を振り絞り、入鹿は天皇の裳にすがりいた。

「何事なのです」

天皇は震えながらも、さすがに気丈な様子で中大兄を見下ろした。

「はっ」

中大兄はすぐさまその場にひざまずいた。

「入鹿は皇族をすべて滅ぼして、この国を我が物にしようとしていま

す。わたくしはそれを阻止したのでございます」

「おお……そうでしたか。そんな恐ろしいことが……」

天皇が中大兄とよく似た細い眉を寄せる。天皇がすがりつく入鹿を振

り払うと、残りの者たちが、這って逃げようとする入鹿にとどめをさ

した。

(やったか……?)

中大兄はそれでも用心深く確かめると、今度は混乱を静めるために天

皇のもとへ行こうとした。

 と、視線のわきに誰かうずくまっている者がいる。

「鎌足?!」

中大兄は一足飛びで駆け寄った。先程の衝突の際に、折れ残った入鹿

の剣があの勢いのまま腕に食い込んだのだ。

「しっかりしろ!!」

伏せている顔を無理に上げさせると、鎌足は精一杯微笑んでみせた。

「大丈夫ですよ、皇子。かすり傷です。それよりもあなたがご無事で

良かった」

「何を言っている!いいから見せろ!!」

中大兄がひったくるように、傷を隠している鎌足の手を引きはがす。

傷は肉をえぐり白い骨まで見えていた。皇子は険しい顔のまま立ち上

がった。

「誰か!!布を持ってこい!それから侍医を連れてこい!早く!!」

「たいしたことはありません。皇子、それよりも早くここに居る者た

ちを連れて法興寺へ……」

「うるさい!おまえはだまってろ!!」

裂いた布で傷口を縛りながら皇子は怒鳴った。それからすぐに、かね

てからの示し合わせ通りに、母である天皇にうなずいてみせた。

 天皇の号令が響き、混乱していた臣たちが次第に落ち着きを取り戻

す。ある程度静まったところで、皇極天皇は詔を下し、今後、一切を

皇太子である中大兄に従うべきことを言い渡した。百官は謹んで拝礼

した。

 この時点で、政権はすでに中大兄に移ったのだ。古人皇子はすでに

逃走してしまったのか姿もない。鎌足はほっとすると同時に、力が抜

け気が遠くなった気がした。

「おい!?」

皇子が怒鳴っている。鎌足は傷を押さえたまま身を縮めて動かない。

皇子はその、汗で頬にはりついたままの髪を払ってやると、自分の胸

に体をもたれさせ、背をゆっくりさすった。

「鎌足おまえ、こんな所で死ぬ気じゃないだろう?最後まで、俺と一

緒にいるんだろう?!」

その声がわずかに震えている。鎌足はようやく目を開けると、狼狽し

ている中大兄を逆になだめるように小さく笑った。

「大丈夫ですよ、皇子。言ったでしょう。たいしたことはありません」

 官吏たちは、指示通り軍備を整え法興寺に集まるために、ぞろぞろ

と退出してゆく。その時、やっと侍医が来た。

「どうだ?!」

食いつくように中大兄が叫ぶ。彼は傷をしばらく診ると、恭しく申し

上げた。

「すぐに治療をお受けになれば、命に別状はございません。ただ出血

が多いので、あまり動かさぬほうがよろしいでしょう」

「そうか…」

皇子はようやく少しほっとすると、鎌足の髪をなでながら叱るように

言った。

「あまり、おどかすな」

「……申し訳ございません_」

「ばか。謝るなよ」

中大兄は呆れたように溜め息をつくと、従者に輿(こし)を持って

くるよう命じた。そして、鎌足の肩を抱くようにして立たせると、表

門まで連れ出した。これから戦になる。ここに置いてはいけない。

 いつの間にか、降り始めた雨が豪雨に変わりはじめている。中大兄

は残った従者を呼びつけると、転がっている入鹿の死体をあごでしゃ

くった。

「不浄のものだ。ムシロでもかけておけ」

「は。しかしこのままでは……。いかがいたしましょう」

「決まっている。蘇我蝦夷に送りつけろ。息子を返してやると、な」

側で聞いていた侍医が震えた。さきほど鎌足をいたわったときとは別

人のような、研ぎすまされた非情さがギラギラと浮かんでいる。これ

からどれほどの血が流されるのか予想もつかない。そんな身も毛もよ

だつ冷たい影が皇子の瞳に映っている気がした。

「おい」

「は、はいっ」

不意に呼ばれて、侍医は飛び上がった。

「おまえは先に行け。そして他の医師、薬寮の者を集めて待っていろ」

「し、承知いたしました」

胸の前で手を合わせ拝礼すると、侍医は急いでその場を発った。

「輿はゆっくり出せ。決して揺らすな」

中大兄は命じると、皇子専用の輿の上に鎌足を抱き上げた。そして自

分も座り御簾をおろすと、ぐったりしている鎌足の手を握ったまま、

その青白い頬をのぞきこむ。さっきの冷酷な表情は、もう不安げな優

しい瞳に変わっていた。額にかかった髪を何度もかきあげてやりなが

ら、皇子は怪我人の汗ばんだ額と髪を、痛みをなだめるように静かに

撫でた。

「もう少し、辛抱してくれ。いいな?」

「ご心配なく」

鎌足は痛みをこらえたまま、少し微笑んで皇子の手を握り返した。

「手当てが終われば、私もすぐにお手伝いいたします。これからが忙

しくなるのですから」

「そうか……。そうだな_」

 輿が動いた。行き先は法興寺。そこには、すでに軍備を整えた石川

麻呂の一族をはじめとする豪族達が天皇とともに、二人を待っている

はずだった。

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■千年前の物語■