11月の海は、もう冷たい。
それを手すりの上から眺めながら、ジジイは、くっくっと、笑った。
「昔のおれならよ、考えもつかねえカッコウだった」
自嘲、には見えなかったが。
無論、楽しそうてェわきゃなくて…。
おれはというと、動揺のあまりメマイがしてきそうで、必要以上にスパスパ、スパスパ、やっていた。やりすぎて、酸欠になりそうなくらい、やっていた。
そんな必要もねえだろ。って。頭では、しっかり思うのに。
…………。
たしかに。
ジジイが義足になったのは、おれを助けるためだった。
けど。
あん時のジジイは海賊だったんだ。
いくら何をかかげても、ふつう海賊なんざ、しょせんは海の強盗殺人集団だろうよ?
このクソジジイは、他人の船の食料にゃあ手ェ出さねえっていってたんだから、抵抗しねえかぎり、乗客を殺す気はなかったのかもしれねえが…。
それにしたって強盗は、強盗だろう。
フツーに生きてる人間たちから、有無をいわさず暴力で金品を強奪するんだ。
許される行動なワケ、ねえ。
当然の報いだ。
少なくとも。あん時のクック海賊団は、クソ悪ィ奴らだったんだ。
だから、片足が失くなっちまったのも、海賊やれなくなったのも、一番大事な夢を捨てちまうハメになったのも……全部、ぜんぶ、
てめェ自身の罪業だ。
客船なんか、襲った報いだ。
自業自得だ。ぜんぶ、てめェのせいなんだ。
おれは、ちっとも……悪くねえ……。
そう、思ってもよかったのに。
なぜか。
借りが出来たと思っちまった。
一生かかっても返せねえ、莫大な借りが。
「たァく……なぁ……」
長い長いタメ息みてェに、頬杖ついたジジイがポツンと呟いた。
「海賊だった、このおれが……たった一つやっちまった善行の結果が、コレだ」
コンコン、とジジイが、義足の先で板張りの甲板を叩いた。
おれァ…胃の中が、でんぐり返りそうな気分になりながら。
それでも、そんな素振りはおくびにも出さず。
なるべく、うんと憎々し気に言い返した。
「ヘッ。そりゃァお気の毒なこったな。ずーっと非道で通しときゃァ良かったのになァ……。まったく、何の気紛れなんだか」
「そうさなァ………。気紛れ…だったなァ……」
ジジイが、笑った。
それが、
あんまり優しくて、
あんまり、あったけェ染み込むような微笑だったから、
おれは、あぶなく泣きそうになっちまうトコロだった。
デカイてのひらにアゴのっけて、遠くを眺めたまま、
ジジイが続けてる。
タメ息なんだか、つぶやきなんだか、わかんねェような静かな声だった。
「世の中ってのァよ、フシギなもんで。イイことしたら、イイ結果が待っているとは、限らねえ。逆によ、海賊やってたときゃァ、カッコ悪ィことなんて、なァんも、なかったなァ…」
おれは、
何も答えられなかった。
ただ、石になっちまったみてェに、ジジイの背中ばかり見つめてた。
そのおれに、はじめて、
チラと視線を流して、
「でもよ。おれァ後悔なんざしたことねェぞ。チビナス」
ジジイは、今度はちょっと楽しげに、そう言った。
「おれが海賊時代に奪った宝は、数知れねェ。だが、あの頃奪った宝より、数はだんぜん少ねェが、今のおれは、質のいい宝ァ持ってんだ」
「ヘェ。ジジイの宝たァ何だよ、それ?」
やっと、おれは、
それだけ言えた。
ジジイは、遠くの海を見つめたまま、また、
くっくっと、
笑った。
「そりゃァな。この店と、客と、クソコックどもと、それから……」
それから……。
チビナスがおれの夢たァ…
おれもすっかり『イイ人』になっちまったモンだぜ。
昔のおれなら…
ガキのヌイグルミなんて、きっと踏んでた。そしたら、コケたりしなかった。でも、そしたらガキは泣いて、あんな笑顔は見れなかった。
そんな、ちっぽけなことが嬉しいなんて、昔は思っちゃいなかった。
チビナスがいなけりゃ、今でもきっと、思わなかった。
でもよ、ナンか楽しいな。海賊やってた頃と同じくらい。
いや、それ以上か……。
それは、
小さな小さな。
ささやきよりも、もっと些細な声だった。
だから、おれは………聞こえなかった事にした。
だって聞いちまったら。
おれは、もっと、もっと、この頑固なクソジジイに何かしてやりたくなっちまって。ますます、ここを出るのが遅くなって。そうして、ますます……
おれは、ジジイに対しても、てめェ自身に対しても、無力を感じるハメになる。
だから、おれは、おれの為にも、ぜったい聞かなかった事にした……。
「あァ?なンだよ、クソジジイ。気味悪ィな。なァに一人で嬉しそうに笑ってんだよ」
遠くに視線を投げたまま、ジジイが、静かに笑って言った。
「なんてこたァねェ。奪った分だけ与えてんのさ、今はよ。人生ってのァ、こう見えて、なかなか公平に出来てるモンだぜ?」
「けっ罪滅ぼしのつもりかい?」
「そうじゃねえ、ボケナスが」
そんなわけはねェ。
だって、おれァ、あいつらと海賊やってた時のこと、これっぽっちも後悔なんざしちゃいねェんだからよ。
少し怒ったように。今度は、ジジイは、ハッキリした声で、そう言った。
それは…
たぶん、ホントだろう。
ジジイは、てめェで選ぶべき道を、選んでるんだ。過去も。今も。
だから、おれは、いつも…おれの心配が、おれだけの独り芝居なんだって気がしてきて、
寂しかった。
おれが、クソジジイにしてやれることって、結局、最後の最後まで何もなかったんじゃねェかと、思っちまう。
ほんとうは。
コケたジジイに手を貸してやりたかった。
でも、そんな事したってジジイの救いになんてならないのも、わかってた。
そうして。
そんなコト、もし間違って、しちまったら、一番辛ェのは、おれ自身なんだってことも、わかっていた。
弱ったジジイなんざ、おれァ死んでも見たくねえ。
だけど…。
それでも、やっぱり、なんかしたくって。
だから、
おれは、せめて、一生懸命、美味い料理をつくりまくった。
死ぬほど腹の減った金のない連中に、最高のメシを食わしてやる。
それが、ジジイの、
残った最後の……夢だったから……。
けど
そういう、おれに……
ジジイは、とくべつ満足そうな顔も、しなかった。
毎日おんなじように、コックどもをコキ使い、おれを元気に蹴りとばし、
そうして、
テメェはいつでも好きなときに出ていけ、と言った。
ムカつくほど。
ジジイは…何も望んでこねえ。
せめて、罵られて、仕事言いつけられたら、おれァ、そいつを一生かけても、やってやるのに。
この店の手伝いすら、本当は、おれが勝手にやってることだ。ジジイは、いつも出てけと言う。そうして、
テメェは、もういらねェから、
テメェはテメェの夢を果たせって……言いやがる……。
………………。
なんか………
足りねえだろ。
これじゃ。
なんか、足りてねえよ!
借りを返すつもりが、たまってく一方だろうが?
こんなんじゃ、納得できねえ!!
ジジイが、じゃなくて。
このおれが、だ。
足りねえ、足りねえ!
いつも全然、足りてねえ!!
まるで。
飢え渇いた砂漠の浮浪者のようだった。
おれは、いつも。
今だって、海、眺めて。
ジジイは、独り勝手に喜んでやがる。
つい、おれは、
声に出して言っちまった。
「じゃァよ。クソジジイの改心記念によ。なんか…ねえのかよ…。おれにできること、今は、もう、いっぱいあるんだぜ?」
おれは、もうガキじゃねえし。
ひ弱じゃねえし。泣かねえし。
蹴りもあるし、料理もできる。
てめェの弟子つったって、すっげェ役に立つだろ?
なァ、どーだよ?
なんか…ねェのかよ?
代わりに死ねっていうんなら、死んでやるし。
片足よこせっていうんなら、いつでも、くれてやるんだぜ?
なあ?……なあ……?
ジジイが、また、微笑った。
なんも…答えなかった。
「あァあ、そうかよ。テメェは頑固でクソバカなクソジジイだから、ンな野郎に、おれが気ィ使ってやることなんて、なァんもねえんだよなァ!!」
元海賊ジジイの、
優しい優しい沈黙に。
黙ってられなくなるのは、いつも、おれの方だった。
「ああ、そうだ」
ジジイが言った。
「クソガキに心配されるほど、おれァ落ちぶれちゃいねえし。これからも落ちぶれる予定なんざ、さらさらねえんだ。……だからよ…」
だから………そういう世話は、誰か、他のヤツに、焼いてやれ……。
そう言った、ジジイの、その声は、
今まで聞いたこともねえほど…もっと、もっと……優しかった…。
「ハッ、誰だよ、他のヤツって?」
腹立ちまぎれに。おれは、めいっぱい乱暴に言い返した。
「おれの命ァクソ高ェんだぜ?そうそう簡単にくれてやれるかよ?ええ?そんなヤツが、どこにいるってんだ!?」
ジジイは相変わらず、小さく笑ってる。
「さァな。誰だろうな」
それから、
てめェを、必要で。
てめェが、必要な。
そういう誰かが、この広い海のどっかにゃ、居るんだろうぜ。
必ずな。
そう言って、
遠い向こうを、視線で指した。
晩秋なのに。
春の温みを、いっぱいにためこんだ海みてェな、
柔らかい波と、笑顔だった。
【NEXT】
|