−序−


 
べつに九郎判官殿に恨みがあるわけではないが、私は判官びいき

というのは嫌いだ。滅びた彼には同情しないでもないが、どちらか

と言えば、嫉妬のあまり彼を死に追いやらざるを得なかった頼朝公

を弁護したくなる。

 私の好みが、非業の死を遂げる善良な弱者よりも、冷酷非情と罵

られつつ世界を手中にしてゆく強者タイプであると解して下さって

も結構だが、その意味には実はもう少し続きがある。

 私はよく、なぜ強者が強者たりえるのか考えるとき、それは恐ら

く、その人間の最も弱い部分に因っているのであろうという気がす

る。心の中の一番もろい部分が、過去につけられた大きな傷痕のよ

うなものが、その人間を、生き延びるために世界制覇へと駆り立て

るのだと思っている。サクセスストーリーの陰にはきっと、成功を

勝ち取るために犯してきた、罵られるべき罪以上の悲しみや苦痛

や、死にたいほどの思いが隠されているのだという気がする。

 過去に屈折してしまい、そうならざるを得なかった人間の苦しい

心理を私はこの本に描いてみたかった。

 理想では、心の傷を乗り越えて信義を守り………が美しく、よく

できた人物と称賛されるのだろうが、私は必ずしも人間の傷が、努

力次第で癒えるものだとは思っていない。むしろ、その逆で、深い

傷が人間の一生を、その人間が望んでいないにもかかわらず、無理

やり拘束してしまうことが多いのではあるまいか。

 そこに私は、一見強者である者の中にある、本当の姿としての弱

者を見るように思う。強者とは、弱者の仮の姿なのだろうという気

がする。

 しかも、世界を奪った者は後世に忌み嫌われるのが常だ。非難さ

れても申し開きの権利も与えられない場合が多い。また本来、弱者

というのは世間の同情というもので固く守られているから、その場

合、社会的には強者といえるだろう。

 弱い者に惹かれる私は、そんな意味で、ぜひとも強者弁護にまわ

りたい。

 尚、この本の時代状況は、正史三国志に従った。事件の具体的内

容、登場人物の性格、諸関係は私の創作である。ご了承願いたい。

          

1992,4,19