中大兄皇子



■中大兄皇子とは、後の天智天皇で……。

とかいうオーソドックスな説明はヌキにして、イキナリ彼の作文を紹介(笑)下文は、鎌足が死んだ時の、中大兄の言葉である。


『公は説を廟堂に献げて民に自ら利あり。治を帷幄に論ひて朕と必ず合ふ。斯れ誠に千載の一遇なり。文王は尚父を任さし漢祖は張良を得るも、豈、朕が二人に如かめや。是をもちて晨に昏に手を握り、愛しみて飽かず。出で入るに車を同じくし、遊びて礼あり。巨いなる川いまだ済らず、船楫己に沈む。大厦の基を始めて、棟梁の斯く折る。誰とともに国を御し、誰とともに民を治めん。此の念に至るごとに、酸切弥よ深し』


■ホントはルビをうちたいところなのに、編集できないため、以下に一応カナだけ書いておきました………という、かえってわかりにくいレイアウト(苦笑)でも、音で読んだほうが断然カッコいいと思う。
内容は、かなりラブラブな構成だが(は?)だからというわけではなくて、なかなかの名文。ホントに自分で書いたのだとしたら、かなりの文章家だと思う。


『きみは、ことを、びょうどうにささげて、たみに、みずからりあり。まつりごとを、いあくにいいて、われとかならずあう。これ、まことにせんざいのいちぐうなり。ぶんのうは、しょうふをよさし、かんそはちょうりょうをうるも、あにわがふたりにしかめや。これをもちて、あしたにゆうべに、てをにぎり、いつくしみてあかず。いでいるに、くるまをおなじくし、あそびて、いやあり。おおいなるかわ、いまだわたらず、ふなかじ、すでにしずむ。たいかのもとをはじめて、とうりょうのかくおる。だれとともにくにをしらし、だれとともに、たみをおさめん。このおもいにいたるごとに、さんせつ、いよいよふかし』


■(余計なお世話かもしれないが/笑)現代文に直訳するとこんなカンジ。


おまえは、これまで民の幸せのため朝廷に尽くしてくれた。策を練って互いに協力すれば、いつも私と一心同体だった。まさにおまえとは、千載一遇の出会いだったのだろう。

周を建国した文王には太公望がいたし、漢帝国を築いた高祖には張良がいたが、彼らの絆も、我々二人には遠く及ぶまい。

だから、いつも私達は一緒だった。ともに手をたずさえ、互いに愛しんで飽きることがなかった。どこへ行くにも同じ車だったし、何をしても互いに敬うことを忘れなかった。

たとえるなら、私の人生は大河を渡るかのようであったろう。なのに船で乗り出した荒波は、いまだ渡りきらぬうちに舵が沈んでしまった。壮麗な宮殿を建てていたのに、いきなり屋根がつぶれてしまったようなものだ。

これから私は、いったい誰と一緒に、この国を治めてゆけばよいのだろう?そう思うと、ますます苦しみはつのるばかりだ』


■中大兄皇子が二十歳で大化の改新を断行してから20年以上、次々に反対派を謀殺しながら政治改革を成し遂げ、ともに過ごしてきた二人。

しかし、中大兄より10才年上だった鎌足は、皇子が天智天皇として正式に即位してから、わずか2年で病死した。それから間もなく天智も後を追うように没している。

もっとも、大化以降、朝廷の実権はほとんど中大兄が握っていたのであり、幾度も機会がありながら、あえて皇位を辞退し、皇太子のままで通した彼の深謀は、鎌足とともに、古代史上最大の政治家として評価されている。

■鎌足の遺体が埋葬地に運ばれてゆくのを見送りながら、天智は自分も棺についてゆくと言い張った。しかし、周囲の大臣たちから「臣下の野辺送りに天皇が加わった例などありません。故なく政治儀式を変えるのは好ましくないことです」と諌められ、泣く泣く思い留まったという。