中臣鎌足

■平安時代に羽振りをきかせまくっていたあの藤原氏の基盤を作った男。(なんだよな、ホントは…汗)

鎌足に関するエピソードは古文献にも色々あるが、出生に関しては謎が多い。ここでは『大鏡』の説を採用している。もっとも、細部はかなり脚色されているので……(何!?笑)

仕事熱心で(地位のわりには珍しいほど)浮いた噂のない人だが、中大兄への忠誠のために自分の子供を唐(中国)に追いやったり毒殺したりした……とかいう説がとびかうほどの中大兄様命の人。『多武峰縁起』によると、その子は最初に自分が組んでいた孝徳天皇からもらった天皇の子。でも結局、孝徳を見限った彼は、中大兄と組む。つまり、後に、中大兄と孝徳天皇との対立が深まるにつれて、コイツを自分の長男にしとくのは、どーよ?って結論になったらしい。(それで5歳の息子を50%の確率で沈む遣唐使船に乗せて唐に追い払う…海外留学といえば聞こえはいいが…その後、九死に一生で帰ってきた息子を毒殺て。汗)

で、ついには晩年に、中大兄の妻と子供をセットでもらってきて後を継がせている。その子が↑に対して彼の次男にあたる不比等。(って、それも、どーなのよ?!みたいな。笑)なんか、君主様から、もらい物の多いお方…。

蘇我氏に呼び出された時は仮病だったようだが、病気では、けっこう長期休暇をとっていた。なかなか治らないので、加持祈祷の僧を呼んではおおがかりに療養していたが、それでも回復せず、役小角の呼んできてやっと治してもらったという話もある。

『日本書紀』によれば、鎌足はそれまでの功績によって、死の直前、天智天皇(中大兄皇子)から藤原の姓と大織冠(後の正一位。臣下最高の左大臣の、さらに上に位する超名誉職)を与えられる。中臣氏は、古くから天皇家に仕えてきた神官の家柄だが、神官の長官がせいぜい四位どまりであることを考えると、政治家に転向したうえに、異色の大出世であろう。

■さて。これも『日本書紀』からのエピソード。

669年の秋、鎌足の屋敷に大規模な落雷があった。それからすぐに、彼は、病ですっかり寝ついてしまった。天智天皇(中大兄)は自ら鎌足の屋敷に見舞いにやってきたが、あまりにも鎌足の様子がひどいのに驚き「きっと助かるから…」などと慰めてみたものの、どうにも回復しそうにない。天智はそれでも「私にして欲しいことがあれば、何でもしてやる。望みはないか」と一生懸命。

しかし鎌足は「何もございません。ただ、できるだけ私の葬式は、簡単にすませていただきとうございます。生きている時に何もお役に立てなかった私が、どうして死んでまであなたを悩ませましょう」と言うだけだった。

とはいえ鎌足の葬儀は、大化の改新でわざわざ定めた薄葬令を破って、一年のもがりの後、盛大に行われたらしい。天智天皇みずから彼の自宅に行って、遺骸に金の香炉をそなえている。