―1―


「兄上、お時間ですよ」

板敷きの廊下を踏む小純(おずみ)の足音が徐々に近づく。几帖(きちょう)

がさらりと上がり、子供のくせに妙に大人びた顔がひょいと覗く。

小角(おづぬ)は夜具をひっかぶり背を向けたまま、小さく溜め息をついた。

「早くお起きならないと、また遅刻なさいますよ」

「うん」

「早くお支度なさって。たまには朝食をお取りにならないと」

「うん」

「今日は、大極殿にお上りになる日では?」

「うん」

「兄上!!」

とうとうしびれを切らしたような、小純の甲高い声が響く。

しかしそれには答えずに、小角は相変わらず背を向けたまま言った。

「小純、おまえ、いくつになる?」

「はあ?……14でございますが」

「そうか。ではもう数年だな」

「数年、と申しますと?」

「官職を得るに相応しい年齢になるってことさ。そしたら私は山へ籠る

から、おまえが家をつぐがいい」

「またそのような、ざれ言を申される」

「戯れじゃないよ」

ようやく起き上がり、長い、艶やかな黒髪をうっとうしげにかきあげな

がら、小角はほとんど不機嫌な目で、几帖の向こうに連なるはずの、

宮の方角を見た。他に建造物と呼べるほどのものがないために、かな

り離れた場所からもよく見える。それは、この大和(やまと)6県を掌握

する朝廷権力の証であり、威圧的な彼の職場でもあった。しかし

(行きたくない……)

毎朝、彼は思っている。役目は単調だった。

彼の名は役小角(えんのおづぬ)。その氏(うじ)の示す通り、仕事は

代々、賦役(ふえき)をもって天皇家に仕えることである。もっとも、

役公(えだちのきみ)、つまり管理職である彼が直接肉体労働をする

ことはない。ただ天皇から命じられた仕事をその都度振り分け、自分が

所有している下級の民に課す。それだけだ。

(そう……。それだけのことだ。私は命じられたままにやっていればい

い)

決められた仕事をこなし朝廷に従ってさえいれば、安定した生活が約

束される。土地は先祖が天皇家に献じてしまったが、代わりに絹を着

て宮仕えし俸禄(ほうろく)をもらう。家族と大勢の奴婢(ぬひ)を

養う彼は、そう身分の高い有力な豪族というわけではなかったが、

そこそこの特権階級には違いない。なのに、毎日が憂鬱だった。

「兄上、本当に遅れますよ!」

「わかってるよ」

弟の何度目かの催促にようやく床を出た小角は、まだ柔らかい夏の早

朝の陽差しへと踏み出した。

 とにかく出勤は早い。朝6時には天皇の座する飛鳥宮に居なければ

ならない。代わりに昼には勤めも終わる。

(数時間の辛抱か)

しかし馬に乗り家の門を出た彼を、ボロボロの木の皮を巻き付けた

ような老人や若者が待ち受けていた。

(いつものことだ)

小角は彼らを馬上から見下ろした。

「役公様!!どうか……どうか、お慈悲を!」

「もう家には食べるものがございません。そのうえ賦役まで課せられ

ては死ぬしか……」

「息子が病で死にました。今年は誰も働きに出せる者がおりません」

「お助け下さい!役公様!!」

彼らを一瞥すると、小角はほとんど目を合わせるのを避けるように黙

って通り過ぎようとした。と、それを遮って若い男が一人飛び出した。

「なぜ無理なことを押しつけるんだ?!」

「それが……規則ですから」

「キサマは自分さえよければいいのかよ!?」

小角は青年の顔を見た。まだ二十歳になるかどうかの、自分と同じく

らいの年の頃。しかし色白な彼とは全く違う、痩せこけて日に焼け泥

と汗で汚れた頬が、ほとんど惨めなほどの怒りで歪んでいる。その頭

上で、小角の薄く紅をひいたような唇が動いた。

「そうです」

「なんだと……きさま………」

「私は自分のなすべきことをしているだけです。あなたも、こんな所

で大声をあげる暇があったら、ご自分の田畑へお行きなさい」

唖然とした顔で青年が馬上を見上げる。その言葉は小角自身、自分に

もこんな声が出せたのかと思うほど冷ややかな響きを含んでいた。

「この卑怯者!!」

どこから飛んできたのか、小さな石が絹の位袍(いほう)の背に当たった。

痛みは全身を貫いた気がした。

 小角は黙って馬を飛ばした。








大内裏(だいだいり)の正門をくぐり、さらにもう一つ門を抜けると、

朝堂院と呼ばれる場所がある。その広間には、すでにもう、様々な色の

官服に身を包んだ人間が大勢ひしめいていた。

位の順に並んだ彼らが一様に誇示しているのは、朝廷への忠誠である。

内心はどうあれ、そのためだけにここに集う。かつては、各地の豪族として

自己の領地を統括していただけの彼らに、大和朝廷は絶対的な軍事力で戦争を

ふっかけ、その地位を保証する代わりに朝廷への服従を誓わせた。

小角の宗家であり先祖にあたる賀茂氏も、かつて戦いを挑まれ、朝廷に服した。

今でも怠れば翻意ありとみなされ軍隊が派遣される。負ければ追われ、

死ぬしかない。

(だが……思ったより少ないな……)

小角は辺りを見渡した。最近、朝参の数がめっきり減っている。

大臣である蘇我蝦夷(そがのえみし)やその息子、入鹿(いるか)の姿もない。

昨年、山背皇子(やましろのみこ)をはじめとした上宮(かみつみや)

王家が蘇我入鹿(そがのいるか)に滅ぼされて以来、特にそうだった。

皆、蘇我(そが)の顔色を伺っている。今上(きんじょう)天皇である皇極

(こうぎょく)女帝には、もはや蘇我氏を抑える力はない。

そのことを、公卿(くぎょう)ばかりか下級の役人や采女(うねめ;女官)

までもが知っている。若干の怪異も伴って、それらの噂はまことしやかに

流れていた。

「なぁ、聞いたか?三輪(みわ)山に人語で歌う猿が出たって」

「ああ。山背(やましろ)様の死を予言していたそうだ」

「歌ってどんな?」

「こんなのだよ」


向こうの峰に立つあの人の柔らかい手が

わたしの手をとるでしょう

なのにこれは いったいどなたの手なの

がさがさのひびわれ手で

わたしの手をおとりになる



その謎めいた歌の意味を、各々解釈し興じている官吏達の隣で、また

別の一群が話し合っている。

「剣の池のハスに、一本の茎から二つの花が開いたそうだが…大臣は

蘇我氏がますます栄える前兆だとおっしゃって、金泥で絵を書き、

法興寺(ほうこうじ)の仏に捧げたそうだ」

「だが、このところ、池の水が突然変色したり、鬼神が出たり薄気味

悪いことばかり続く」

「それも何かの前兆なのかね。押坂直(おしさかのあたい;地方官名)

をやってた男が不老不死の紫のキノコを食べたという話も聞くが」

「近ごろでは国中の神官たちが我先にと争って、蘇我大臣に御神託を

告げに行ってるというぞ」

「ではやはり………」

「しっ、これ以上は…滅多なことは言えんよ」

 興味半分に、また、どちらの後ろにつくべきかという実際的な護身

のために、彼らは冗談とも真剣ともつかぬ様子で話し合っている。

(どうなるんだろうな……この国は……)

それらを、下座のほうから聞くともなしに聞きながら、ふと小角は思

った。

しかし所詮、誰が権力を握ろうと世界の仕組みはそう容易くは変わらない。

頭をすげ替えたところで旱魃も水害も、病も飢えも貧困もなくなりはせず、

相変わらず物怪(もののけ)も怪異も現れるに違いない。

無論、不平等な関係も消えはせず、豪族達は、いつでも新しい天皇を迎えては

同じように仕え、百姓は相変わらず百姓のままであり、奴婢を解雇したところ

で彼らはまた新しい家を探して奴婢になるだろう。

まして、一介の下級役人である彼に、どうにかできようはずもなかった。

「おい、そこの緋の位袍の……」

不意に上から声が降ってきた。小角は慌てて伏せていた顔を上げた。

「え?あ……私でございますか?」

「そうだ。天皇がお呼びである。至急、大極殿に参られよ」

「は……」

大礼(たいらい;正六位)と呼ばれる官位を持つ彼は、濃い赤の官服と

冠を身につけている。主に農耕民族の官吏が着用するはずのロングスカート

ではなく、すそを引き絞ったパンツルックで、その上に位袍と呼ばれ

る、位によって色の異なる丸えりの上着を被っている。当時、中国で

は北西部の遊牧民である羌族出身の皇帝が即位したために騎馬スタイ

ルが流行っており、それがそのまま取り入れられていた。

 朝堂院を突っ切って、いったん外に出た小角は、大内裏の中央に位

置する天皇の執務室、大極殿に向かった。

 ところが門を抜けた彼を待っていたのは、執政するはずの天皇ではなく、

中臣鎌子連(なかとみのかまこむらじ)である。小角は戸惑って、

入るべきか否か立ち止まった。

「何をしている」

奥から、冷然とした、それでいて透明な滴のような声がした。

「もっと近くに参られよ」

その声に導かれるように小角は薄暗い内部へと足を踏み入れた。

「そなたが、賀茂役公(かものえだちのきみ)、小角か?」

「さようにございます。中臣連(なかとみのむらじ)様」

連(むらじ)は、代々常に天皇のそば近く仕えてきた政治家の

姓(かばね)であり、なかでも中臣(なかとみ)は神武(じんむ)天皇の

頃より祭祀(さいし)を司ってきた氏である。

中臣とは、神と人との仲立ちをする者という意であり、一地方の雑役集団

をまとめる役公などとは比べようもないほど上位にあたる。

小角は頭を低くしてひざまずいた。

「天皇は……冬までに板葺宮(いたぶききゅう)を改築なされるおつもりである」

その言葉に驚いて、小角は顔を上げた。

「ですが……」

「どうした?」

「板葺宮は先年造営なされたばかりでは?」

「また必要になったのだ」

「しかし……せめて今年の収穫が終わるまでは無理でございます。

昨年は戦がございましたし、皇太后様の墳墓も造営いたしました。また、

水が腐り、実り少なく魚もとれず、蓄えが底を尽きております。民は

皆、暮らしにも困る有り様で……」

「それで?」

「ですから……」

小角は言葉につまって、目の前に立つ、まだ若い男を見上げた。

 鎌子連(かまこのむらじ)。本名を鎌足(かまたり)というこの男は、小角と

十ほどしか離れていない。それで名門とはいえ、まだ公卿(三位以上)にも

なってはいなかった。しかし前年の正月、既に神祇伯(じんぎはく;神官の長官

・従四位)に推薦されており、重要な場や蘇我(そが)氏の催す遊戯には必ず

呼ばれている。しかも、天皇の実弟にあたる軽皇子(かるのみこ)にも家族

同然の扱いを受けていた。

(だが……変わったお人だ)

小角は、まるで研ぎ澄まされた刃物のような輝きを持つ、鎌足の瞳を見つめた。

 鎌足は昨年、再三、宣旨(せんじ)を受けたにもかかわらず、固く神祇伯

を辞退し、病と称して三島(大阪)の別荘に引きこもっている。

そして今では、なにかと入鹿と衝突しがちな皇太子、中大兄皇子(なかの

おおえのみこ)と親しくしていた。その懇意な間柄は、ほとんど寝食すら

共にしているという。

夜伽までやっているらしい。

そんな陰口が、口の悪い者達の話題に上っていた。

(本当だろうか?)

小角はなんとはなしに鎌足の、まるで女のような白い首筋に視線を移

した。小角も全く恰幅の良いほうではなかったが、その彼よりももっ

と繊細な印象を受ける。強力無双とは程遠い華奢な体は、しかし、ま

るで細い鋼か決して解けない氷で作られたように強靭で冷酷な輝きに

満ちていた。

(冴えた月のような人だ……)

ほとんど、ぞっとするような感覚で、小角はその全身から滲み出る殺

気のような知謀を感じた。ただ、皇室を守りたいとか、上下を無視し

た臣下の専横が許せないとか、そんなことだけで動く熱血漢にはとう

てい思えない。まして短慮に妄動する男でもない。とはいえ、この少々

あからさまとも思える蘇我への謀反は、彼の立場を相当微妙なものに

しているに違いない。

(どういう思惑があるのか……)

余計、不気味になりながら黙ってみつめていた小角に、鎌足は相変わ

らず冴えた視線を返していたが、おもむろに話を続けた。

「まだ農繁期でもあるまい。百姓を使役するのに何の不都合があ

る?」

「ですが、今はまだ夏期。以前定められた憲法17条にも民の使役は冬

のみにとございますが」

「聖徳太子の法など、もはや昔のこと。今上天皇には今上天皇のお考

えがある」

「しかし……」

再び口ごもった小角に、鎌足はすべて承知した表情で、冷めた微笑を

投げかけた。

「何が、しかし……だ?そこをなんとかするのが、そなたの仕事であろ

う。それとも、有能な役公という噂はただの流言なのか?」

「私は……そのような……」

「そなた、忘れているようだが…これは天皇の詔(みことのり)なのだぞ」

小角は黙って拝礼した。どうせ逆らう術など持ち合わせてはいない。

断れば一族すべてが殺される。

「よろしい。退出せよ」

柔順な小角の姿に、鎌足はしごく当然といったふうに、事もなげに、

うなずいた。

「ときに、そなた_」

と、去りかけた小角を、鎌足の声が呼び止めた。小角が振り返り、改

めてひざまずく。

「そなたは……」

急に、鎌足は何事か探るような目付きで、小角の挙動を見つめた。

「中大兄様とは兄弟の間柄であるとはまことか?」

ぎょっとした顔で、小角は鎌足を見上げた。そんな話を、小角は部下

にも同僚にもしたおぼえはない。それが鎌足のような者の口から出よ

うとは思ってもみなかったのだ。

「誰がそのようなことを申しました?」

「そなたの母は20年ほど前、中大兄様の父君、つまり先帝が

葛木(かつらぎ)に行幸(みゆき)した際、その寵愛を受けたというが……。

それが本当ならば、そなたは皇太子の脇腹の兄か弟、ということになる」


「それこそ根も葉もない、つまらぬ流言。私の父は私が幼い頃亡くな

りました間影という男にございます」

「そうか……。すまぬ、おかしなことを聞いた。忘れよ」

 しかし、再び踵を返した小角の背が完全に門の外に消えてしまっ

ても、鎌足はじっと鋭い視線を刺したままだった。








 小角の母は、美しい女だった。有力な豪族であった葛城氏の流れを

くむ姫だった彼女の、先帝とのそんな噂を、確かに子供の頃、小角も

耳にしたことがある。しかし実は天皇の子である。そんな吹聴をする

者は、数限りなくいた。自分の先祖の名をあげつらい、貴人の血をひ

くと言い触らし、少しでも高い俸給にありつこうとする人間は、どこ

にも溢れていた。それほど、この時代の家柄には価値がある。けれど、

そんな人間のほとんどは門前ですげなく足払いを食うのが常だった。

(バカバカしい)

その、餌に群がるアリのような惨めな群衆に、小角は哀れみよりも苛

立つ何かを感じて、思わず冷笑を与えてしまう。しかしそれはむしろ、

彼らに対するというよりも、自分自身に対する苛立ちだった。畢竟、

彼もまた、自分の運命から逃れる術もなく、はめこまれた枠の中で、

ただ引きずられるように前進せざるを得ない点で、彼らと何の違いも

なかったからだ。

(なんとかしたい。何か……。でも、何をどうやって、何のために?)

彼のまだ若い気概がどこかで騒ぐ。しかし、それらはまるで漠然とし

ており、何をどうすればよいのかも全くわからない。そしてその一方

で、たとえわかったところで、どうにもならない気もした。





「小角、そなたいつまで独り身でいるおつもりですか」

突然、夕餉の席で母につめよられ、小角はほとんど仰天しそうになっ

た。

「いつまで……って…。私はまだ、そんな年でもありませんよ」

「何を言っているのです。もう適当な時期ではありませんか。どなた

か良いお方がいるのなら、隠さずにおっしゃい」

「私は別に……」

「そうですよね。兄上は女人といらっしゃるより、お独りで本を読ん

でいるほうがお好きなのです」

隣で箸を動かしていた小純が、茶化したように笑った。

「これ小純、冗談事ではありません。小角……?そなた、確か三輪君の

姫とお付き合いがあったのでは……」

「いいえ。先方にお伺いする前にお断りいたしました」

「まぁ。私に無断でなんてことを。三輪君は役公などより家柄もず

っと古く、権勢もおありなのですよ」

珍しくうろたえたように、母は視線を右往左往させた。

「ねぇねぇ兄上、三輪の末の姫はたいそうお美しいお方なのでしょ

う?」

「らしいな」

「だったら、僕が代わりにお会いしたかったのに」

「だそうですよ、母上。小純に行かせてはどうですか」

「何を言うのです。父上がいらっしゃらないからといって、そんな作

法に外れた真似をさせるわけにはいきません」

「そうでしょうか…」

小角は溜め息をついて、箸を置いた。しかし、溜め息をついているの

は、母も同じである。

「まさか、そなた体に何か……」

「ありませんよ」

やや呆れたような小角の声に、さすがに頬を赤らめて彼女はもう一度

言い直した。

「では、そなたも早く良い婦(つま)を娶って_」

「私は……結婚はいたしません」

小角は、いともあっさり答える。聞くなり、青ざめた顔で、母は声を

高くした。

「まぁ…何を言うのですこの子は……。聞き分けのない小娘みたいな

口をきいて…。人として生まれて、婚姻もせずどうするというのですか。

まして、あなたは役氏の当主。お役目は外で働くことだけではありま

せんよ。内においては一族を繁栄させねばなりません。それには早々

に結婚して一人でも多くの丈夫な子をもうけなければ」

「母上には……」

「なんです?」

「いえ……」

(小純がいるではありませんか)

最後の言葉は心で付け加え、小角は食事も中途のまま席を立った。

 母は、決して愚かな女ではなかった。良家の子女らしく、教養もセ

ンスもユーモアも身につけていた。また、比較的自由な発想さえ持っ

ていた。しかし、それはあくまで時代の常識の範疇においてである。

時々、道に外れたことを平気で口にすることさえある奔放な彼女が、

しかし、本当には道を踏み外さないのを、小角はよく知っていた。結

局、母は普通に嫁ぎ普通に子をなし、そして普通に死んでゆくことに

満足できる、そういう人間なのだ。そして本当は、自分ではなく弟の

小純に家を継がせたがっていることも、小角は知っていた。

「あーあ……どっか行きたいなぁ」

 暮れてゆく庭に立ち、遠くの山々を見つめながら、小角はつい独り

ごちた。母も小純も、大切な家族ではある。しかし自分とはどこか次

元の違う人間だった。生きるべき空間が違っていた。それは多分、お

互い気付いている。だからことさら母は彼にうるさくあたるのだ。

(もし、婚姻を拒否したのが小純だったら…同じことを言っても小純

だったら…母上は、あんなふうには返すまい。もっと、余裕のある受

け答えをしたろうに)

母が自分に対してだけは、口うるさい、ただの女になってしまうよう

で、小角はどこか憎しみに近い居たたまれなさを感じた。そしてそん

なふうに、すぐ弟と引き比べて母を見てしまう自分が悔しかった。

(やはり私は……この家の…本当の子ではないのかもしれない)

決してメランコリックな甘い発想ではなく、小角は時々、真実そう感

じる。

 彼は幼いころから、いろんな噂を聞いていた。舒明(じょめい)天皇の

落胤(らくいん)であるというのもその一つだが、どこの男とも知れぬ

野合で生まれた子であるとか、父は化人(けにん)であり人間では

なかったのだとか、母の夢に出てきた僧侶が連れてきた子であったとか、

何かが化けてこの家に宿ったのだとか……。そんな様々な憶測が、さも

当然のように流れていた。

(まるで物怪か何かのようだな……)

小角は自嘲した。多分それは、彼が以前持っていた特種な力のせいだ。

 小角は子供のころ、よく人の死を当てた。失せ物の有りかを言い当

てることもできた。簡単な病気を治したり、わずかなら天候を変える

こともできた。教養のある大人ですら滅多に解しないサンスクリット

も知っていた。

それは偶然、通りかかった帰化人(きかじん)の僧侶が彼に教えたもの

だったが、まだ幼い子供であるというのに、彼はその異国の文字を、

まるで初めから知っていたかのように、あっという間におぼえてしまった。

おかげで小角はインドの経典も翻訳ではなく原著で読むことができたのだ。

 いまだ呪術が権威を誇っていた時代である。何かといえば祓(はら)いをす

るのが常であり、雨乞は国家儀式で、天皇や豪族の当主は同時にある

程度の力を持った呪術者でなければならなかった。あちこちで、鬼神

や物怪が出たという噂も聞く、そんな時代だった。それでも小角の異

常さは人々を脅かした。否、そんな時代だったからこそ余計に人々は

畏怖したのである。

 しかもそれが、天皇でも神官でもなく、まだ幼い子供であったので、

人々は敬いを通り越し、ただただ恐れた。唯一、神官である賀茂氏の

血を引く、父だけが味方だった。咒術の才は父方の血かもしれない。

そう思って幼い小角はよく父に甘えた。けれど、その父も彼が6つの

時に無残な事故で死に、それから彼を可愛がってくれる者はいなくな

った。母ですら気味悪さのあまり、父の死を小角のせいにして、卜占

(ぼくせん)の指示通り一度は彼を山に捨てたのだ。

けれど、その険しい谷からも、幼い小角はたった独りで戻ってきた。

以来、母は彼を恐れ、故に母らしく接するようになったのだった。

(だが、それも昔のことだ)

力を、無意識に封じてしまったのか、それとも、もともと一時的なも

のだったのか、長ずるにつれて不思議な能力は薄れ、今では普通の人

間とほとんど変わらない。小角にとっても当時のことは、次第に曖昧

になってゆく記憶の中で、ただの夢だったような気さえしている。

(ハタチすぎれば、ただの人ってわけか)

しかし、母に捨てられた記憶や周囲との違和感だけは依然として消え

なかった。母の母らしさも無理な作り笑いのように感じていた。結局

自分はここで生き、ここで幸せになれる人間ではない。今でもそんな

ふうに思っている。

 あの力がなくなってしまえばいいと、昔はよく思った。どこにでも

いる目立たない普通の人間になりたかった。しかし、今ではやっとそ

うなれたというのに、やはり孤独と疎外感にはかわりない。

「どっか行きたいなぁ……どっか…もっと遠くへ……」

いつの頃からか、気がつくといつも、そう独りごちている。

(あいつは、どうしているだろう……)

寂しくなると必ず思い出す赤い髪の鬼神を、小角は既に暗くなった夜

空にまた描いてみた。

 幼いころ、小角はよく怪異を見た。鬼や物怪が動き話しているのを

はっきりと見聞きすることができた。彼らは、時に襲いかかってくる

こともあったが、その度に見えない力で祓い落とした。

 その彼が、吉野の奥で鬼神に出会ったことがある。鬼神を見るのは

当時の彼にとって珍しいことではなかったが、相手もまだ子供だった。

初めて、小角は自分と同じ年頃の鬼神をみつけた。しかも赤い髪を後

ろで束ね、ふさふさと振っている、その可愛らしい鬼は、護法だと言った。

護法鬼神(ごほうきしん)とは、仏に仕え仏法を守護する高位の鬼神で

ある。人に禍いをもたらす、ただ凶暴なだけの鬼とは違う。

「こうやって、唱えるんだぜ」

護法鬼神を司る天神である、毘沙門天(びしゃもんてん)の宮殿で修行

しているというその鬼は、小角に不動明王の真言を教えてくれた。

「ナウマクサンマンダ_」

「サンマンダ……?」

「……バザラダンカン。字で書くとこうだぜ」

まだ短い爪と指で、鬼神は地面に不思議な文字を書いた。

「あ、それサンスクリットだね!」

小角は嬉しそうに叫んだ。

「サ……なんだそりゃ?」

「インドの文字でしょう?ボクも知ってるよ。でも、ボクが知ってる

って言うと皆、気味悪がるんだ」

「ふぅん。人間って、いろんな字を書くからな。でもオレが知ってる

のはこれだけだぜ」

「サンスクリットだけ?」

「うん。これだけ。字はコレしか書けねぇよ」

その、こともなげな言い方に、幼い小角は胸が洗われるような感動を

おぼえた。

彼には、人間の常識が通用しない!

自分が縛られている狭い価値観など、鬼神である彼にはどうでもいい

ことなのだ。

 小角は父が死んでから、初めて声をあげて笑った。本当に子供らし

い、あどけない笑顔だった。

 二人は、まるで以前から知っていたかのように仲良く遊んだ。小角

にはそれまで誰も友達などいなかった。大人も子供も彼を恐れ避けて

いたし、彼自身も無理に付き合いたいとは思わなかった。けれど初め

て彼は、一緒にいて楽しいと思う者に会ったのだ。

(それが、あろうことか人ではなくて鬼神とはな……)

再び夜空を見上げながら、小角は自嘲ぎみに笑った。

(まるで、その後の私を暗示しているじゃないか)

あれからもうずっと、あんな笑顔を浮かべたことはない。あの子供の

鬼神とも名前も聞かず別れたまま、それきり一度も会わなかった。

(あれも……夢だったのかもしれない……)

今では時々、そう思っている。あんまり独りで寂しかったから、いつ

の間にか、そんな暖かい思い出を自分で作ってしまったのかもしれな

い。

「どこか……遠くに行きたいなぁ」

誰に聞かせるともなく、小角はもう一度言った。

 上司に頭を下げ、民衆から絞り取り、その怨嗟の声を聞き続ける。

それでも家族と奴婢を養い、愛してもいない女と婚姻し、子をなして、

老いて死ぬまでただそれだけを繰り返す。その一切から、今すぐ逃れ

たかった。

 誰でも人はそうなのだと、生きるというのは所詮そんなものなのだ

と、そう納得して諦めてしまうには、彼はまだ若すぎた。なのに一方

で、やはりどこにも行けないことも、わかっていた。

(可能なことと実際に出来ることは違う)

死にたいと思った誰もが、すんなり自殺者にはなれないように、物理

的に可能であることと、実際に出来ることは違う気がする。彼には、

自分で自分の生き方を選べるほど、自由も図々しさもなかった。周囲

を犠牲にして自分勝手に生きることも、その代償を払う度胸もなかっ

た。

 このまますべてを捨てて失踪してしまうのは、簡単なことだ。やろ

うと思えば今すぐにでもできる。しかし、残された家の者はどうなる

のだろう。ただ、何のあてもなく出奔したとして、どうなるというの

だろう。それでは自殺同然だ。そして、たとえそうしたからといって、

一体自分の何が救われるというのだろう?

(どこか遠くに…行けたらいいのに……)

小角は、行き場のない苦痛を感じて、どうにもならない思いを噛んだ。

(どこか…私にも……満足して、いい夢を見て、安心して眠れる場所

があるのだろうか。自分はこのために生きているのだと、全力で生命

をかけられるものがあるのだろうか?だから生きていて良かったと……

もっと生きていたいと、そう思える瞬間がくるのだろうか?)

 満天の星空は何も語らない。ただ、まるで星々が今にも降り落ちて

きそうな怖いほどの瞬きで、彼を圧するだけだった。

■その2へ■