「さらわれるのは若い女ばかり、か・・・」

葛木山中にある屋敷の一室で端座したまま、小角が思案げにため息をつ

く。その側で金色の髪の護法鬼神が、やはり正座したまま、まるで報告書

でも読み上げるように、淡々と説明していた。

「さらった女は、嬲りものにしたあげく生きたまま喰いちぎるそうです。

または、そのまま刺身にするとか、鱠にするとか・・・。まぁ、人間の活造りと

いったところですね」

「なんと残酷な・・・。正気の沙汰ではないな」

思わず吐きそうな顔をして、小角は肩を落とした。

ここ最近、頻発している騒ぎがある。若い娘が次々に、都の一角に在る屋

敷の前で姿を消すのだ。そこには、つい先ごろから沢山の喰人鬼や夜叉が

住みついており、夜毎、盛大な人肉パーティが開かれているという。今で

はもう昼でもひとけの失せた化け物屋敷の内部からは、時折、悲鳴も聞こ

える。しかし、朝廷の役人は関わり合いになるのを恐れて、誰も相手にし

ない。さらわれるのが身分の低い女ばかりのせいか、訴状を出しても真剣

に取り上げられないのだという。

「大臣の娘でも食われればねぇ、少しは手も打つでしょうに」

金色の髪の鬼神、後鬼が、報告しながら他人事の口振りで物騒なことを言

う。その横で、小角は大きく息をついた。

「やはり、放ってはおけない。私が行ってみるよ。そのために君をわざわ

ざ天界から呼んで、事の真偽を調べてもらったんだからね」

天界の護法鬼神である後鬼は、日頃、須弥山(仏教で世界の中心にあると

される山)の中腹にある水精宮で働いている。

今は護法鬼神を統括する毘沙門天の副官なのだが、小角が呼べば、いつでも

やって来て、こんなふうに用事を聞いてくれるのだった。

「で?その夜叉どもは・・・どんな出自の者だ?正体は何なんだ?なんだって

急に人界に現れ非道を働いているんだ」

「出身は様々ですが・・・位の高い者はいないようです」

それを聞くと、とたんに緊張の解けた顔で小角は側の文机にひじをつく。

天界の位とは、通常、強さのバロメータを表している。高位のものがいな

いということは、つまり、手強い敵もいないということだった。

「ふーん。なんだ。それでは、たいした問題でもあるまい」

「多くは動物霊の成り上がりで、ずっと地上にいたらしく、特別大きな妖

力は持っておりません。ただ数名、天界からの脱走者がいるようです」

「天界?・・・では、羅刹天さまに引き取りに来てもらえばよかろう。吸血食

人鬼は彼の配下じゃないのか?」

「ええ。それから、冥界の下級鬼神も数名」

「それは閻魔天さまに頼めばいいさ。部下の不始末なんだから、責任は

とってくれるだろう」

「そうですね。その辺は十二天神の方々に願い出れば済むことです。た

だ・・・」

「ただ・・・?」

「中心となる鬼の正体だけは、皆目つかめません。かなりの妖力を持って

いるのは確かですが・・・。天界の夜叉を手なずける力です。なのに天界の名

簿にはそれらしき者が見当たりませんでした」

「そうか・・・。どうしたものかな。まずは、さらわれた人々を助けるのが先

だが・・・。その屋敷には、連中に感づかれないように入れそうか?」

「屋敷は方術を使った迷宮になっていて、外からはとても入れませんが・・・

年頃の女とみれば簡単に引き入れるらしいですよ」

「じゃあカンタンじゃねぇか」

それまで、そんな話に全く頓着せず、少し離れた所で一人、饅頭を頬張っ

ていた赤い髪の護法鬼神が、急に思い付いたように会話に加わった。

「誰か、その辺の女とっつかまえてよ・・・その女使って乗り込めば・・・」

「できるか!バカ者っ」

しかし、たちまち小角に一喝されて口をとげる。悪気の無い子供じみたふ

くれっつらで、饅頭をくわえたまま彼はわめいた。

「んじゃ、どーすんだよっ」

「どうって・・・だから・・・」

「そうだ!」

その間に考えていたらしい後鬼が軽く手を叩く。ようやく饅頭を飲み込ん

だ赤の鬼神・前鬼と小角は、同時に彼を見つめた。

「囮に使うなら、別に本物の女性じゃなくともいーじゃありませんか」

「では、誰か女装でもするのか?」

嬉々とした後鬼に、小角はほとんど気のない顔で、せめておまえだけでも

真面目に考えてくれと言わんばかりに、頬杖をつく。

ところが。視線が集まっている。赤と金の4つの瞳で当然のように見つめ

られ、小角は慌てた。

「どーして二人で私を見るんだっ」

「他に誰がいるんですか」

「てめーが一番女顔だろーがっ」

「顔で決めるなっ」

「身長七尺の女がいてたまるかよっ」

一番背の高い前鬼がかみつくように怒鳴っている。

(こいつ・・・自分がやりたくないもんだから・・・)

小角は憮然としたが、確かに道理かもしれない。美しい筋肉の張り詰めた

彼の肉体は、並みの男よりもはるかに鍛えられた強壮さがある。仕方な

く、小角は別な抵抗を試みた。

「では、声はどーする?」

「それは演技です」

「後鬼・・・おまえね・・・」

「いいから早く決めて下さい小角様。ダダこねてるヒマなんてないんです

から。こうしている間にも犠牲者が出ているんですよ」

「それはそうだが・・・」

たたみかけるような後鬼に気圧されて、小角は渋々うなずいた。確かに、

人命尊重に比べたら、些細な問題には違いない。

「さあ、では、お支度を!」

「おまえ・・・・さりげなく仕切っているな・・・」

「は?・・・ボクが、なにか?」

「いや・・・別に・・・」

頼りにしている反面、どうも、小角は冷静すぎる後鬼が苦手だった。









「各自、設定と台詞は覚えましたね?」

冬の冷たい暗がりの中、都の大路を歩きながら、老婆に化けた後鬼が夫婦

姿の二人を振り返る。美しい絹の裳を引きずり、

丁寧にくしけずった流れるような黒髪の下から、まだ不服そうに小角がつ

ぶやいた。

「やはり納得いかんな。前鬼が夫なら、妻は後鬼じゃないのか?」

顔で決めるなら、後鬼だって、よほど美女のような顔をしている。

「だったら小角様は我々の娘役ですよ。身長と肩幅を優先に考えるなら

ね」

「老婆ならいいのか!私だって、五尺八寸はあるんだぞ!」

「我々は鬼神ってのが、いけません」

「?」

「あまり言いたくないんですが・・・」

と言いながら、別段気に留めるふうでもなく後鬼が言う。聞いて小角は仰

天した。

「私に・・・・・・私にそこまでやれというのか?!」

「やれとは言ってません。ただ、万一の場合です。一緒に床に入ってしま

うと、我々では、お互い匂いでわかってしまうんですよ。鬼なのか、物怪

なのか、人間なのか・・・。それに、ほら、コレです」

後鬼は、かぶった布で隠している、自分の長くとがった耳と鋭い牙を出

し、長い爪で指してみせながらニッと笑った。なるほど鬼神の顔になる。

「大丈夫ですよ。口元の紅といい色白なお肌のツヤといい、小角様は完璧

です。大変にお美しいですよ」

「淡々と言うな!全部脱いだらバレるに決まってる」

「だったら、そうなる前に始末をつければいいんです」

「・・・・・・・・・もういい」

諦めて、小角は黙った。もうすでに目の前には宮殿かと思うような壮麗な

瑠璃色の門がそびえている。

「郊外とはいえ、このような建物が都の中に出来て・・・よく朝廷が放ってお

くものですね」

後鬼が、呆れたような感心したような声で見上げる。小角も肩をすくめ

た。

「最近はそれどころじゃないのさ。朝鮮半島のほうがキナ臭いことになっ

てるからな。そのうち日本軍が海を渡るかもしれん」

朝鮮半島には今、新羅、百済、高句麗という3つの国がある。しかし半島

統一を目論んで、新羅が唐(中国)と手を組み、百済を攻めた。それで、

百済が日本に助けを求めている。長年、王子を人質として大和朝廷に送り

親交を取り持ってきた百済としては、何としてもここで軍を借り、ついで

に王子も返して欲しい。

朝廷としても、唐と新羅の勢力が増大するのは国防の危機に関わる大問題

だから、おおごとだ。

その対応に追われて、朝廷の実権者である中大兄皇子も中臣鎌足も駆けず

り回っている。しかもここ数年、いまだ朝廷に従わない東北地方に対して

も討伐軍を差し向けていた。

「どっちもこっちも戦争だらけで困ったものだ。苦労するのは一般庶民と

奴婢なのに・・・」

「でも、ボクはもう一つウワサを聞きました」

「後鬼――――?」

近頃、斎明天皇の様態が思わしくないらしい。朝鮮出兵を控えて、今年中

に皇太子である中大兄に譲位するという話もある。

「私達には・・・ますます、やりにくくなりそうだな」

中大兄の側近である鎌足の、氷のような視線を思い出し、小角はまたため

息をついた。しかし、

「おいっ誰かいねーのかっ」

そんなことにはお構いなく、隣では、前鬼が近所中に響き渡るような音で

門の金具を叩いている。政治問題になどまるで関心のない彼には、小角の

心配事など理解する気もないらしい。憂鬱な会話を蹴破られ、

(仕様のない奴だ・・・)

と思うと同時に、小角はそれでもどこか少し、救われた顔をした。

急に重い音が響き、門が動く。内側から、妙に生臭い臭いとともに、つぶ

れたような男の顔が現れた。

「なんだ?お前達」

しわぶいた甲高い声で、ひき蛙のような男がジロジロとこちらを見てい

る。前鬼はいきなり小角を片手で引っつかみ無造作に抱えると、大声で怒

鳴った。

「オレ様の女房がそこの門で足を挫いた。てめーらのせいだぜ。責任とっ

て今晩泊めやがれ」

「なんだと・・・きさま?」

うさんくさい目で、相手は余計に二人を眺め回す。

(おまえ・・・ちょっと言い方違うだろ!私の持ち方も・・・!)

(るせーっ言われた通りにやってるじゃねぇか!)

小角が慌てて前鬼の耳を引っ張り、小声で言う。奥からそれを見ていたも

う一人の門番が面倒そうに叫んだ。

「変な奴だ。追い返せ!」

「あの・・・もし・・・どうかお願いいたします」

腰を深く曲げた後鬼が前へ出た。そして、さりげなく小角の顔を月明かり

に曝しながら、彼らの方へと向けさせる。

「奥様は長旅ゆえ、それはもうたいそうお疲れで・・・一歩も動けませぬ。都

は初めてのうえ知り合いもおらず難儀しております・・・」

「ほう・・・それは・・・」

門番は、思わず見とれた。

(確かに、美しい・・・)

それまで、奴婢や農奴の赤黒い娘ばかりさらっていた彼らの目には、香を

焚き染めた唐衣は、あまりに眩しく、白い頬と絹のような黒髪が月華に映

えて、天女のごとくうつった。

「けどなぁ・・・お頭がなんとおっしゃるか・・・」

最初のひき蛙がうろたえている。すると、

「お前達は下がっていろ」

という低い声とともに、動揺して突っ立っている二人の背後からもう一

人、男が現れた。前の二人よりいくぶん人間らしい顔をしているその男

は、門番よりも権限があるらしい。彼は丁寧に頭を下げると、前鬼に向っ

て作り笑いをした。

「これはお困りでしょう。さあどうぞ。狭い屋敷ですが、よろしければお

入り下され。今、主を呼んで参ります」

「最初っからそう言いやがれ」

小角を抱えたまま、前鬼が無遠慮に進む。後に続きながら、その背を後鬼

がおもいきりツネった。

「痛てっ何しやがる!」

「お静かに。ご主人様」

老婆の声で言いながら、切れ長な金の瞳がギッと睨む。とっさに前鬼が引い

た。昔、ペアを組んで一緒に毘沙門天に仕えていた頃から、どうも頭が上が

らない。典型的な頭脳タイプの後鬼は、その几帳面な性格で、何も考えずに

走りがちな前鬼の手綱をうまくとってきた。前鬼が水精宮を追放され小角と

住むようになってからも密かに見守り、今では公然と手助けしている。いず

れにしろ常に一枚上手なのだ。前鬼にはそれがわかっているだけに面白くな

い。とはいえ、わかっているからこそ、どこか甘えているフシもあった。

「るっせーぞ。いちいち!ちゃんとやってるだろーがっ」

「どこがですか」

「いつもいつも小姑みてぇにネチネチとてめぇは・・・」

しかし、ひそひそ声でモメている二人の後ろで、後から来た男が二人の門番

に、やはり小声で言っている。

「お頭に申し上げろ。上玉が転がり込んで来ましたとな」

人間の耳には決して聞こえないはずの、その声に気づき、後鬼はクスリと

笑った。

  陰陽に従って見事に配置された長い廊下をいくつも曲がるとようやく広

大な中庭に面した広間が見えてくる。開け放した蔀からは、いくつもの燭台

の灯かりがこうこうと漏れ、酔った罵声のような騒ぎが聞こえていた。

広い室内の両側には、ずらりと黒塗りの膳が並んでいる。その一つ一つ

に、冠をつけ官服を着た男があぐらをかいて座り、震え泣いている女達を侍

らせて、くつろいでいた。

(へぇ・・・よくもまぁ、化けたもんですね)

後鬼は下を向いたまま上目遣いに部屋中を見回した。しかし、一見、正装し

た都人のようで、その実よく見ると全員服装もバラバラであり、下座のほう

には何やら尻尾の生えた者までいる。

(この程度なら・・・)

呪力の遥かに高い自分達の正体を見抜ける者はまずいない。後鬼は安心して

遠慮なく顔を上げかけた。ところが

(・・・・・・・・・!?)

慌てて、再びうつむく。最奥に座ったやけに偉そうな男だけは、両側の連中

とは大分様子が違っていた。

「よう、参られた」

周囲と異なり、妙に卑しさのないその男が、小角に向って手招きしている。

「小角様・・・・・・」

後鬼が隣に目配せする。小角はうなずいて、男の前に寄り、上品に手をつい

た。

「慣れぬ旅先で、ご厚情を賜り嬉しく存じます」

「御足を痛められたと聞いたが、具合はいかがかな?」

「幸いにも、特に別異はございませんでした。御騒がせいたしましたこと、

お詫びいたします」

「いや、それは良かった。今夜はゆるりと、ここへ泊まってゆかれるがよ

い」

小角は深く頭を下げ、指を揃えて礼を言う。艶やかな衣擦れの音とともに香

がかおり、長い黒髪がさらさら流れる。両側からため息に似た視線が集ま

り、首座の男は満足げに盃を口に運んだ。

「そなたは・・・どこから参られたのだ?」

「私は筑紫の豪族の娘にございますが、この度、女官として宮中に参内する

よう命ぜられまして・・・」

「それはめでたいことよ」

男は品の良い笑顔を向けた。さすがに他の夜叉をも仕切る鬼だけはある。離

れていても全身を縛る強い妖力を感じて、小角は思わず緊張した。

(あまり時間が経つと不利かもしれない・・・・・・)

後鬼はしきりに気にしている。この男も、この屋敷も、思ったより侮れな

い。ただの魑魅にしては、結界の張り方といい屋敷の配置方角といい、まる

で人間の高位の術者のようにスキがない。ただ、前鬼だけは目新しい退屈し

のぎにうきうきしていた。

「あれは、少しは強そうだからな。オレが倒してやるぜ」

「まだですよ。囚われている人たちを助けてからです。わかっているでしょ

うが・・・この屋敷にはまだ沢山のさらわれた女性がいます。彼女たちを戦い

に巻き込むことなく全員無事に救うことが、今回の一番の目的です」

前鬼の耳元にささやきながら、後鬼はあちこちですすり泣いている若い娘に

目をやった。まだほんの子供もいる。

「他の人たちはどこなんでしょう?これで全員とは思えませんが」

「その辺で聞いてみりゃ、いいだろーが」

相変わらず前鬼は、面倒そうな顔をして無頓着に構えている。後鬼は屋敷の

構造を頭に描いてみた。

「前に同じような造りを見たことがあります。あなたはスキをみて北の寝殿

に行ってみて下さい。ボクは・・・」

言いかけて、後鬼はぎょっとした。鋭い悲鳴と一緒に血の臭いが漂ってく

る。と思う間もなく、鮮血のしたたる大きな盆がいくつも運ばれてきた。

「そなたら、都は初めてであろう?」

「はい・・・」

周囲の言葉に小角は素直にうなずいてみせる。

「さあ、どうぞ。これが都風のもてなしだ。遠慮なく召し上がれ」

首座の男が、やんわり笑う。周りの女達が反射のように目を背ける。けれ

ど、恐怖のあまり声を上げる者すらない。盆の上には、生々しい切り取られ

たばかりの腕や足がのっており、一番最後に女の生首が飾られていた。

「野郎・・・・・・」

さすがに、前鬼も嫌な顔をしている。後鬼は、怒りを深く噛み殺した声で低

く言った。

「なるほどね。おかしら付きってわけですか。でもこれで、だいたい場所の

見当がつきました」

小角は、顔をあげ背を伸ばしたまま、黙って女の首を見つめている。常の女

のように取り乱しもせず、ただ悔恨に似た視線を投げているこの「女」に、

首座の男は改めて妙に惹かれた。

両手に他の女を抱えたまま、彼は小角に向って、有無を言わせぬ、しか

し、あくまで柔らかい口調で言った。

「そなた、宮廷に仕える女なら音曲はもちろん心得ていよう。琴はどうだ?

聞かせてくれぬか。実は秘蔵の名器があるのだ」

男が手を叩くと、やはり冠をかぶった少年が、古い中国の琴を奉げてやって

くる。飴色の弦を張り、木目のあざやかな百済琴が小角の前に置かれると、

前鬼はここに来て初めて不安げに隣に耳打ちした。

「なあ。あいつ、琴なんか弾けんのか?」

「さぁ?それは、あなたのほうが詳しいでしょうに。一緒に暮らしてるんだ

から」

「だって、あいつが楽器なんか触ってんの見たことねぇぜ」

さすがに後鬼も心配そうに見守っている。

(小角様・・・どんな気転で切り抜けるおつもりだろう)

ところが、案に反して、小角は黙って琴糸に指を乗せる。そして、おもむろ

に弾きはじめた。

月の光に、透明な深い音色が流れる。夜露の輝きのような調べが降りそそ

いでは広がった。

「なんか・・・」

どこかぼんやりしたように、前鬼は小声で言った。

「思い出すような気がするぜ」

「何がです?」

「昔・・・いつも、どっかで聞いてたような気がする。でもいつだったのか、

どこだったのか思い出せねぇ」

後鬼は何か危うい気がして黙った。

(前鬼の、封印された記憶のどこかに、響いてるのかもしれない)

そんなふうに思ったが、彼は黙っていた。そして代わりにこう言った。

「ボクも聞いたことありますよ。十二天の一人である風天さまの宮殿では、

いつも音楽の神、歌天と楽天が演奏してますからね」

「そうかな・・・?うん。そうかもしれねぇな」

甦りかけた記憶を改めて埋葬するように、前鬼は頷いた。周りの夜叉たち

は、人肉を食べるのも酒を飲むのも忘れ聴きいっている。彼らには音曲の妙

技はよくわからなかったが、かなりの腕前には違いない。一曲終わる毎に、

さすがは身分の高い豪族の娘だ。宮女ともなると格が違う。そう口々に言い

合った。

首座の男は、じっと動きもせずに見つめている。そして、数曲奏で一段落す

ると、熱のこもった視線で叫んだ。

「次は舞いだ!舞いをやれ!」

「舞いだァ――――?」

驚いたのは前鬼のほうだ。しかし、男の高揚した思いは留まる気配もなく、

後鬼はただ不安げに小角のほうを見てている。けれど小角は、慌てる様子も

なく裳を引いて静かに立ち上がった。

「へ―――・・・」

呆気にとられて、前鬼は眺めた。目の前で、薄い天衣を翻し、天女が舞って

いる。あたかもそれは技芸を司る仙女たちの紡ぎ出す錦のような、華麗で優

美な一幅の絵を見るようだった。

あちこちで、ため息が漏れる。舞いが終わると、男は、両脇の女を下がら

せ、かしこまって座っている小角に身を乗り出した。まるで何かに憑かれた

ように、彼は早口で言った。

「宮女が雅楽に通じているとは、よくわかった。ならば、周礼はどうだ?四

書五経は知っておるか?」

「はい・・・。一応は存じております」

どんな問答にも、小角は見事なまでによどみなく答える。男はすぐに舌を巻

いた。

「そなた、女人のくせに唐の古書まで、そらんじているのか」

「お恥ずかしいことでございます。けれど、宮殿には、わたくしなどより、

よほど学問に優れた者が大勢おりましょう」

「では、今宵は、そなたに詩歌や儒学の手ほどき願おう」

「わたくしで・・・よろしければ」

うつむいて、小角が答える。首魁の男のわがままで宴会はひとまずお開に

なった。






「まずは、成功ですね」

そう言った後鬼もなんだかすでにくたびれている。客間として用意された小

部屋に集まって、前鬼、後鬼、小角の3人は、付近に誰もいないのを確認す

ると、ようやく足を伸ばした。

「やれやれ、宮女のマネも楽じゃないよ」

地声に戻って、小角は膝を立て両手を後ろについて天井を眺めている。後鬼

は苦笑した。

「その姿で、あまりしどけない格好しないで下さいよ。みっともない」

「そうはいっても・・・さすがに疲れた」

「しかし、お見事でした。完全に女官の範囲を越えてましたよ。代々、豪

族・賀茂氏の流れをくむ、良家のお坊ちゃまだけのことはありますね。官吏

の家柄はダテじゃない」

「イヤミか?それは」

「とんでもない」

真顔で言う後鬼を押しのけて、今度は前鬼が、まるで怒ってでもいるように

小角の方へぬっと顔を近づけた。

「おめぇ・・・さっきの周礼ってなんだ?」

「三礼の一つで、周(昔の中国)の時代の官制を記した書物さ。ほんとかど

うか知らんが、周公旦って政治家が書いたことになってる」

「四書五経ってな、なんだよ?」

「四書は礼記の大学、中庸。それに孔子の論語と孟子。五経は、易、書、

詩、礼、春秋。どれも儒学の教科書だよ」

ちんぷんかんぷんな顔をして、前鬼はますます不機嫌になった。

「なんで、てめぇがそんな、わけわかんねぇこと知ってるんだよ?」

「わかんなくないさ。官吏になるには当たり前のことだ。もっと上の家柄な

ら、もっと色々知ってる。中大兄皇子や鎌足どのなんかそうさ。私だって、

子供の頃に暗記させられたんだ」

「琴や舞いもか?」

「そうだよ。横笛や莫目(竹の縦笛)だって習ったぞ。琴も和歌も漢詩

も・・・下手だけど」

小角は嫌なことを思い出したように天井を見ている。けれど、前鬼はもっと

嫌な顔をしていた。ずっと一緒にいたくせに隠し事をされていたようで、何

故か腹が立ったのだ。

「でも、あれが下手だなんて謙遜ですよ」

空気の微妙な変化に目ざとく気づいて、後鬼が急いでとりなすように言う。

けれど小角は、珍しく子供みたいな顔で、不愉快そうに答えた。

「無理に誉めなくていい。下手は下手だ」

「どうしてそう思うんです?」

「いつも母に言われてた」

急に部屋が静かになる。後鬼が黙ってしまうと、変に気まずい雰囲気が漂っ

た。

と、不意に燭台の炎が揺れ、部屋の外に人影がうつる。すぐに、女の声がし

た。

「御寝所の用意が調いました。ご案内いたしますので、お一人ずつおいでく

ださい」

後鬼が皆に目配せする。そして小声で言った。

「ボクらを引き離して、一人ずつ殺すつもりでしょう」

「けッ、バカバカしい。あんなザコどもにやられるか!」

前鬼は相手にもしたくない調子で吐き出すように言っている。後鬼は呆れた

ように笑った。

「そんなことはわかってますよ。ただ、ボク達には、やることがあります。

それが終わったら、あなたも存分に戦えばいいでしょう?」

「戦う相手がいるならな」

前鬼はどうも先刻から気分を損ねたままだ。後鬼は、かまわず小角にささや

いた。

「なるべく時間をかせいで下さい。その間に、ボク達が囚われている人々を

救出します。全員外に出したら、すぐに戻ってきますから、それまであの男

を引きつけておいて下さい」

「だけど・・・本当にコトが起こりそうになったら、どーするんだ?」

「それは、小角様しだいでしょう?」

まだしり込みしている彼に、にべもなく後鬼が言う。

「だけど・・・母上の顔で、こんなことするのは気がひけるよなぁ」

なんだかんだと、小角はゴネている。

「小角様の母上って?」

「女装した小角」

後鬼が尋ねると、何度か会ったことのある前鬼がすかさず口をはさんだ。後鬼

が改めて、まじまじと小角を覗く。

「・・・・・・こんなカンジですか」

「ったく・・・気味悪ィほどよく似てやがる。あっちのほーがババア顔だけど

な」

「へぇ」

「ここだけの話だけどよ、こいつ、ファザコンでマザコンなんだぜ」

「それって、どういう?」

怪訝な顔をした後鬼を遮って、小角が前鬼を睨んだ。

「聞こえてるぞ前鬼。人聞きの悪い。そういうのは、孝養心が厚いというん

だ」

「けッ・・・。じゃ、なんでわざわざ術使って若返ってまで、おんなじ顔引き

ずってんだよ?ババアとそっくりな今の顔が好きだからじゃねぇのか?」

「そういえば小角様って、年の割りに肉体年齢が若すぎますよね」

ごく自然な疑問のように、後鬼が言う。小角は、とうとう我慢しきれなく

なったように、まるでケンカに負けた子供のような口をきいた。

「若いってのはね、合理的な効率のためなの!本当は、もっとシブい顔が好

きなんだ!」

「どんなんだよ?」

「白いヒゲがはえてるジジイ顔。今度、面を打って見せてやる!」

「そりゃ、楽しみだぜ」

「もう、やめなさい前鬼。小角様も・・・変ですよ」

珍しく大人げない小角を見て、後鬼は少々不安になっている。

「なんだか小角様、ムキになってますね」

「べつに」

そう言ったまま、小角は背を向けている。そしてもう一度独り言のように小

さく言った。

「とにかくこの顔は嫌いなんだよ。琴も笛も官吏も・・・実家もね」



三人の女が、それぞれに彼らを連れて三方に別れる。一番若い、まだ子供の

ような娘の後を歩きながら、後鬼は老婆の声ではなく、いつもの自分の声で

言ってみた。

「本当はどこに行くんです?」

「え?」

驚いたように娘が振り向く。けれど彼女は釣り針のように曲がった老婆の腰

を目にして、混乱したように言った。

「さっきも言いました。今夜寝る所です。お婆さんの布団が敷いてありま

す」

「永眠の間違いじゃないですか?本当は、大きな斧を持った鬼が隠れている

のでしょう。向っているのはさしずめ台所かな?」

「何も知りません・・・何も!」

恐怖のあまりに縮こまっている娘の手をとり、後鬼はすらりと背を伸ばし

た。

「大丈夫ですよ。信じて下さい。ボクは味方です。あなたを家に帰すために

来たんですよ」

まだ幼い瞳がいっそう大きく開く。貧しく鄙びた姿ではあったが、可愛らし

い少女だった。彼女は震えながら、小さく擦れたような声で言った。

「無理です!ここから出るなんて・・・。皆、迷って出られずに・・・殺されまし

た。毎日3人ずつ、順番に殺されて食べられてしまうんです」

「それは、こっちの方角?」

さっきの血の臭いを辿って、後鬼は指差した。

「なぜ、そんなことがわかるの?」

「ボクには特別な力があるんですよ。だから、あなたのように、ここに連れ

て来られた人達の所に案内してくれませんか。きっと全員助けてみせます」

わずかに希望を抱いた小さな顔に後鬼は片目をつぶってみせた。






男は、いっそう饒舌になっている。四方に灯火を掲げた奥座敷で蝶足の膳を

前に、小角は、このまま酔いつぶれて寝てくれないかと、せっせと酌をして

いた。歌を詠むのも儒学を語るのもとうに飽きている。宮中の遊びも、とり

あえず知っているかぎり教えた。弓矢を出して的を射ることまでやってみせ

た。けれどまだ、後鬼も前鬼も現れる気配もない。

(なにやってんだろう・・・あいつら・・・・・・)

じりじりしながら、小角はただ待っている。いっそ、法力を顕わしてこの場

で始末してやろうかと何度も本気で考えたが、得体の知れぬ相手の結界に大

勢人質がいるのかと思うと、どうにも動きがとりにくい。さっきも無残な料

理を見たばかりだ。

一刻も早く彼女らの安全を確実にしておきたかった。

「のう、そなた・・・」

不意に男が手を回す。小角を胸元に引き寄せたかと思うと、細いあごに手を

かけた。

「まぁ、どうなさいました?乱暴はおやめ下さいませ」

いい加減にしろ、と心中罵声を浴びせながら、小角はにこやかに微笑んでみ

せる。

夜も相当更けていた。

小角を抱き寄せたまま、急に男が真顔になった。

「そなた、本当は、おれの正体を知っているのだろう?」

じっと見据える男の目が気味の悪い色に輝いている。小角は、はっとして硬

くなった。しかし、ここでしらばっくれては余計怪しまれ逆効果になる気が

する。とっさに彼は疑いを逆手にとり、落ち着き払って微笑した。

「はい。あなたさまは鬼。それも残酷非道な悪い鬼でございましょう?」

「なに?」

意外な顔をして、虚を衝かれたように男は黙った。

「先程の酒肴は、女人の手足でございました。貴方様のお噂は、都でも評判

でございます」

「きさま・・・何者なのだ?今日初めて都に上り、右も左もわからぬと申した

は偽りだな?」

「わたくしは・・・天の命により、貴方様を諌めに参ったのです。娘を奪われ

た両親たちが嘆いております。どうか御心を入れ替えて、かどわかし、かし

ずかせている娘御をお返しあそばせ」

しばらく、男は黙っていた。それから、まっすぐに小角の目を見たまま、お

もむろに言った。

「おまえはおれが恐ろしくはないのか?なぜ、関係のない女のためにこんな

所に来るのだ。身内でもいるのか?それとも本当に天女なのか?」

「べつに・・・恐ろしくなどございません。貴方のような方は大勢見て参りま

した。ですが、本当に悪い者は少のうございます」

灯火が揺れる。炎を映して、男の瞳も微妙に揺れた。

「おまえのような女は、見たことがない」

「貴方こそなぜ、あんな酷いことをなさいます」

「いいだろう・・・。おまえにだけは教えてやる」

男は小角を抱えたまま大盃をあおると、遠い過去を思い出すように話し始め

た。

「おれはもともと貧しい熟蝦夷の生まれで、大勢の餓えた兄弟とともに育っ

た。その日の食べ物にも事欠くありさまで、おれたちは子供のうちから昼も

夜も働いた。だが、幸い兄弟仲は良く、おれもまあ、こんなもんだと思って

いた」

(人間―――!?)

小角は驚きを悟られないようにうつむいた。

(この男、もともとの鬼じゃない。どーりで天界名簿にないはずだ。・・・っ

てことは一体・・・)

男は話し続けている。けれどその目が、泥酔したように、次第によどみはじ

めていた。

「ところが、そのうちに、姉や兄が、ある年頃になると一人ずついなくな

る。どこに行ったかはわからない。ただ、幸せになったんだと聞かされてい

た。そして、おれの番になった。そこでおれは初めて本当のことを知ったん

だ。本当は、親は金欲しさに子供を一人ずつ売っていた。おれは山寺の稚児

になった。寺の坊主どもは大金を払って買い取ったおれから元を取ろうと、

よってたかって、さんざん慰みものにした」

底冷えのする外の冷気が、いつの間にやら部屋の中にまで入り込んでいる。

男の酒臭い息だけが妙に生暖かい。彼は念を押すように言った。

「誤解するなよ?別に恨んだわけじゃない。ただ、おれは、人間とは皆そう

やって生きるもんだと知った。だからある日、坊主どもを全員刺し殺し、寺

に火をかけてやったのだ。そしておれは晴れて自由の身になった」

意表を突いた告白に、小角はただ黙っている。男は酔った顔を更に近づける

と妖怪じみた表情で笑った。

「わかるか?おれの言いたいことが?坊主はよくありがたい説法をたれるだ

ろう?奴等が使う釈迦の話だ。釈尊はとても慈悲深い。タカに食われそうに

なったハトの命を助けるために自分の足の肉を削って与える。もう助からな

いライ病女のために、体が崩れて流れ出た膿さえ吸ってやる。そして、経文

と引き換えに化け物の餌になってしまわれた。その行いに我々も近づかねば

ならん。そう言いながら夜毎おれを弄ぶ。つまり、それが人間だ。飾った虚

言と力ずくで手に入れる欲望。だから、おれも欲しい物は嘘と力で手に入れ

る。弱者の悲鳴など、いつも踏みにじられて聞こえない。だが、それは仕方

のないことなのだ。弱い奴らが悪いのだ」

言い終わると同時に、彼は乱暴に顔を引き寄せる。

「――――――?!」

舌に噛みつかれた、と小角は思った。思った瞬間突き飛ばしている。だか

ら、実際のところはよくわからない。ただ、存外、男は真剣な顔をしてい

た。

「おれは、おまえが気に入った。だから、他の女のようにすぐには殺さな

い。長く、その容色が衰えるまでおれに仕えるがいい」

「わたくしは夫ある身。おたわむれを申されては困ります」

「残念ながら、おまえの夫はもう生きてはいまい」

「どういうことでございます?」

「このところ、女の肉ばかりで皆飽き飽きしていたところだ。たまには変

わったものを食したいと騒いでおる」

「それは・・・どういう・・・・・・・」

(わっ!!)

話の途中で男の手が股間に入り、思わず小角はその手をつかんだ。

「なに―――?」

しかし、驚いているのは、むしろ男のほうである。

「なんと、すごい力・・・だ・・・?鬼の力を持つ、おれを止めるとは・・・・・・」

(そりゃそうだ)

こうなると、計略もなにもない。小角も必死だ。裳の中で印を結び呪力をこ

めて男の腕を封じている。

「もしや、キサマ・・・・・・」

いきなり、彼は空いていた手で小角を突き転がすと、膝で蹴り上げ、組み敷

いて、肩を引き裂いた。絹の裂ける音が響き、白い肌があらわになる。けれ

ど、それは女のものではなかった。

「やはりな・・・・・・」

欺かれたと知って、男が形相を変える。髪は振り乱れ、まさに鬼面のように

変わっていた。

「キサマ・・・一体どういうつもりで、おれを・・・?・・・誰に頼まれた」

「まぁ、率直に言えば・・・全部、芝居だ」

すっかり覚悟をきめ、小角は男の下から見上げながら、ようやくいつもの声

に戻った。

「別に頼まれたわけじゃないさ。私は君を自主的に討伐に来た、キトクな呪

術者なんだ」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・なるほど」

しかし逆上するかと思いきや、男はいきなり笑い出した。別に気が狂ったふ

うでもなく、ただ男は豪快に、いかにも愉快そうに笑っている。つい、小角

も気を抜いた。

「そうか、芝居か。まんまとおれはひっかかったというわけだ。だが・・・」

「・・・・・・・・・?」

「おれのほうは、芝居ではない」

急に、妖気が変わった。気がつくと、らんらんと目を光らせた食人鬼の顔が

間近にある。

「よくも、おれをだましてくれたな?信じた者に裏切られる。そんなことは

もう二度とないと思っていたというのに・・・。代わりにその代価、きさま自

身に払ってもらおう」

「しかし・・・払うといっても・・・」

「おまえ、おれに自分は女だと言ったではないか。だから、そのように扱っ

てやる」

淫気を含んだ目で、まるで獲物を喰う時のように男は舌なめずりをした。

「案ずるな。殺しはしない。ただ、昔のおれと同じ目にあわせてやる。二度

とその世間知らずな、生意気な口が開かぬように、おれが坊主どもにされた

ようにしてやろう」

「だ・・・・・・っ!ちょっと待・・・・・・」

さすがに小角も慌てた。

(妙なことになったな)

組み敷かれたまま、それでも、いつものクセであれこれ呑気に思案する。思

案しながら暴れてみたが、あいにく両手を左右バラバラに床に押し付けられ

て、ぴくりとも動かせない。

(なんて、バカ力だ・・・)

まるで、前鬼のようだ。この期に及んでまだ来ない彼を思い出し、小角は恨

めしくなった。

「無駄だぞ。印が結べなければ、きさまなど、おれにとってはただの女と同

じだ」

「しかし・・・・・・君は・・・・・・」

とりあえず時間を稼ごうと、小角はとっさに話し始めた。

「鬼なのか?それとも、まだ人か?」

「なんだと?」

明らかに、一瞬、動揺したのがわかる。しかし、彼はすぐに答えた。

「わからん。おれも、どのくらい生きていたか忘れてしまったからな。そん

なことは、どうでもいいことだ。ただ、坊主を殺した後、力をつけるために

山に入って修行した。そして、いくつかの陰陽の技と方術を会得したのだ」

「それでは・・・やはり、君は恨んでいるんだな」

「なに?」

「自分を裏切った両親や寺の仕打ちを恨んでいるのだろう?」

「ばかな!そんなことはない。かえって感謝しているくらいだ。奴らはおれ

に損をしない生き方を教えてくれたのだから」

「でも、やはりそれは屁理屈だ。嘘と力でなんか、人は幸せになれないよ。

君が見た人間は、人のすべてじゃない」

「だったら、きさまが・・・・・・きさまがその言葉、身をもって証明してみろ!

きさまは釈迦になれるのか?きさまは、見ず知らずの他人のために本当に身

を犠牲にできるのか?本当に・・・慈悲で人を愛せるのか?!」

なんだか、まるで、子供が泣いているような声だった。急に立場が逆転した

ような、なんとなく、そうしてやらなければならないような気がして、小角

は言った。

「そんなに言うなら、やりたいように、すればいいさ」

「なんだと?」

「それで気が済むなら、どうにでもすればいい」

そう言うと、彼は一切抵抗をやめてしまった。そして、

(空咒が使えなくなって、空を飛べなくなったら・・・どうやって葛木に帰ろ

うかなぁ?)

そんなことを考えている。

どんなに修行を積んだ仙人でも、女と交わると一瞬で、それまで身につけた

すべての呪力を失ってしまう。交わらないまでも、欲心を起こしただけで高

度な術は使えなくなる。もちろん空など飛べない。だから、修行者は絶対に

淫行をしない。第一、葛木山には金剛手菩薩の変化神である金剛蔵王が結界

を張っていて、女は入山することもできなかった。

(でも、私にはヨコシマな気持ちはないわけだし・・・。いや、相手がオトコ

なら逆に、平気かもしれん。それとも鬼なら構わないとか・・・だといいんだ

けどなぁ・・・)

しかしあれこれ考えているうちに、不意に男は体をどけて小角の上から降り

てしまった。

「どうした?」

「・・・・・・・・・・・・・・・やめた」

「はい?」

「やめだ!きさまのような奴、やはり見たことがない。こんな奴を嬲っても

面白くもなんともないわ」

そう男が言ったとき、壁の後ろで声がした。

「それが正解だぜ。良かったな、てめぇも命拾いできて」

「!?」

いきなり壁を蹴破って、前鬼が現れる。その後ろには後鬼も立っていた。

「なぜ・・・きさまたちは・・・」

どうにもわからないといった顔で、男が見ている。前鬼は侮辱されたのを

怒っているみたいに、むっつりと言った。

「オレをとって喰おうなんざな、百万年早ぇんだよ」

「おまえたち・・・・・・」

それを聞きながら小角が絶句している。そして、いきなり頬を染めて怒鳴り

出した。

「なんて連中だ!ずっと、そこで見てたのか?いつから、そーゆー下世話な

趣味になったんだ!?」

「オレのせいじゃねぇぞ!後鬼が言ったんだ。今出ないほうが、円く収ま

るって・・・」

「でもその通りだったでしょ?ご安心下さい、小角様。言われたことは、

ちゃんと果たしましたから」

やはりどうも、可愛いげがない。頭は良いが、後鬼には手玉にとられそう

で、小角も油断できなかった。

「では、囚われた人たちは、全員ここから出たのだな?」

「はい。すべて、自宅にお送りしました」

「よろしい」

そこまで言うと、小角は改めて男のほうを見た。

「用件は済んだ。あとは・・・君が・・・」

「待て。まだお前達を無事返すとは言ってない」

それまで黙っていた男が、いきなり立ちあがる。不思議にも冠をかなぐり捨

てると、あっと思う間にバラバラに散った髪と身の丈が伸び、鬼神のような

姿になった。

「おもしれぇじゃねぇか。オレが勝負してやるぜ」

前鬼が、赤い瞳を光らせる。けれど男は、小角を指した。

「おまえ・・・。おまえと勝負したい。お互いに、人間の呪術者としておれと

勝負しろ。もしおれが負けたら、おれたちは引く。おれも改心してやる。ど

うだ?」

艶やかな唐衣と裳を脱ぎ捨て、葛の繊維で織ったいつもの白妙をまといなが

ら、黙って、小角はうなずいた。






「二人とも、手を出すなよ」

枯れ草の広がる広い中庭に立って、小角が、後方に控える前鬼と後鬼に叫

ぶ。

「けッ・・・見てるだけならオレは帰るぜ?」

腕組みして突っ立ったまま、ふてくされている前鬼に、少し離れて小角の

真っ正面に立った首魁の男が言った。

「それはやめたほうがいい。君の大事な『妻』がここで死ぬかもしれないん

だから」

彼の後ろには、無数の鬼や夜叉が従っている。けれど前鬼は臆するどころか

声を立てて笑った。

「ばーか。小角がてめぇごときに、やられるかよ」

「それはどうかな?」

いきなり、始まった。男が紙ふぶきのように散らした呪符が、次々と小さな

鬼になり跳びかかる。けれど小角は、火の粉を払い落とすように、飛んでく

るそれらをパタパタと軽く地面に叩き付けた。

「なんだ?あいつら・・・」

妙な顔をして、前鬼は眺めている。払いながら、小角は笑った。

「陰陽師が使う式神だよ」

「式神―――?」

「紙切れに念を込め召使として使う。正体はお札だが小動物や花の場合もあ

る。いずれにしろ意思のないただの人形だ」

「けッチャチな代物だぜ。だいたい・・・陰陽師たぁ何なんだ?小角の術とは

様子が違うが・・・」

「知らないんですか?」

後鬼が横から口をはさむ。

「陰陽師は天文学者の占い師です。泰山府君をはじめ、五岳や二十八宿と

いった中国の神々の力を借りる。小角様は咒禁師だから医者。仏道修行者で

すから、使う呪術は仏教の神々が守護してくれます。でも験術は似た技が多

いですよ」

それを聞いていた男が納得したように言った。

「なるほど。きさまがあの有名な役小角か。では倒す意味があるというもの

だ」

「意味?」

「強い者がすべてを通すという立証だ。最高の呪術者といわれるおまえを倒

せば、おれに不可能はなくなる」

「それは、ひどい誤解だよ」

少々呆れて小角は笑った。

「残念ながら私に出来ないことは山ほどあるし・・・呪術でできることなどタ

カが知れてる。それにその程度の式では私にすら通用しないよ。なんなら式

返しをしてあげようか?返された式は、元の呪術者を襲って殺してしまうの

が常識だ」

鬼をすべてただの紙に戻し、辺り中に散らしながら小角は次を待っている。

男は特に慌てもせず、今度は指先で空中に星型を描いた。星は見る間に大き

くなり空間を歪め陣を敷く。そこから発する巨大な気が、青い火柱のよう

に、一本の真っ青な光になって直撃した。

「五茫星・・・?セーマンですね。実際に見たのは初めてです」

後鬼は、妙技を見物するように感心しながら見上げている。間髪入れずに小

角は応じた。

「それじゃ私は仏教版でお返ししよう」

と言うと、そっくり同じ星型を切って、同じような陣を作り出す。ただ、星

の角に当たる五方向には、五つの梵字が配されており、発する光は金色だっ

た。

青の光と金の光がぶつかり合う。凄まじい音を立てて、目も眩む閃光が熱気

とともに飛び散った。

「なかなかやるな」

肩で息をつきながら、男は今度は、また指を突き出し、九本の格子を描い

た。格子は怪しい光を帯び、辺りを切断しながら、くるくる廻る。廻るたび

に大きくなり、最後に巨大な刃物になると、すごいスピードで向ってきた。

「ドーマンには九字切りだが・・・これはこっちが本家だぞ」

小角は落ち着き払って左右の指を奇妙に合わせ、九つの印を結ぶ。印形に合

わせて、九つ咒を唱えると、やはり同じような光が顕われ、相手の格子を弾

き返した。

丁々発止。互角と思える派手な戦いが続く。お互い秘呪を繰り広げ、技を尽

くす見事な様に、夜叉たちは呆気にとられて、見とれている。けれど、前鬼

は面白くなさそうに舌打ちした。

「小角のやつ・・・真面目にやってねーな。なんであいつ一発で仕留めねーん

だ?」

「何かお考えがあるのでしょう」

一緒に目で追いながら、後鬼が言う。そのはるか上空で、目も眩む強烈な光

の洪水の中、印を結びながら小角は鬼と向き合っていた。

「それだけの咒力を持っているなら、いろんな道も選べように・・・」

諦めのつかないその口調に、鬼のような人のような男は、ただ笑った。

「選べる道など、そう沢山はないものだ。気がつくともう、こんなふうに

なっている」

そして、これで最後だとでもいうように、全霊をこめた大掛かりな呪文を唱

えはじめる。間もなく黒雲が月を覆い空に十二の異形の影がずらりと並ん

だ。

「十二神将?夜叉十二神将か・・・」

珍しい匠の技を見るように、後鬼も鬼神の野生的な瞳を光らせる。陰

陽道の術の限りを尽くし呼び出した、青龍、白虎、朱雀、玄武、勾陳、六

合、騰蛇、貴人、天后、大陰、大裳、天空の十二人が現れると、小角も敬意

をもって迎えた。

「ようこそ、神将。では、こちらは薬師如来の十二神将でお相手しよう」

薬師瑠璃光如来の印形を結び、真言を唱えると、常に薬師如来の宮殿と十二

の刻を守護している、甲冑姿の美丈夫が、それぞれ得物を持って現れる。先

程の夜叉神将に対峙して、今度は、鋒、戟、槍、剣などを構えたクビラ、バ

サラ、アンチラ、メキラ、ハイラ、サンチラ、インダラ、マコラ、シンダ

ラ、ショウトラ、ビカラ、アジラの十二人が並んだ。

「やるじゃねぇか」

さすがに感心したように、前鬼も牙を見せて笑う。粋を凝らした応酬は、ほ

とんど芸術のようでもあり、天界ですら、めったに見られない手合わせだ。

同時に、二十四の武器が激突した。光と、爆風と、衝撃が、地を抉り空気に

すら亀裂を入れる。業火のような灼熱が辺りを焼き、岩が蒸発する。力のな

い物怪たちは、跡形もなく吹き飛んだ。




静まり返ったそこには、動くものがない。すべてがおさまってみると、庭

だった場所はただの荒れ地になっており、瑠璃の屋敷は何一つ残っていな

かった。ただ、土の所々に、妖怪の黒い影だけが、こびりついたように残っ

ている。

「やっぱり、お嬢さんたちを先に非難させといて良かったですね」

急に声がしたかと思うと、白い結界の中から後鬼の全身が、空間に出来たシ

ミが広がるように現れる。それに続いて、前鬼と小角も、まるであぶり出し

の文字が浮き出るように姿を現した。

「やれやれ・・・。手加減したつもりだったが、結構ハデに壊れたな」

涼しい表情で、小角は辺りを見回している。あれほど激しい術を使ったくせ

に、乱れたところといったら、屋敷の中で男に引き千切られた下着の肩だけ

だ。

「てめぇ、なんで、わざわざ手加減なんかするんだよ?」

あいかわらず長い綺麗な髪をふさふささせながら、前鬼はなぜか機嫌が悪

い。

「おかげで・・・」

と怒鳴りかけた時、地面のあちこちが盛り上がり、大きな物怪や鬼たちが泥

まみれになって顔を出した。わずかに散らばっていた瓦礫の下から、例の男

も現れる。衣服は破れ、全身に火傷を負い、惨澹たる様で彼は小角の前に

立った。

「まったく、すごい。さすがに史上最高の呪術者といわれるだけのことはあ

る」

「私も、日々努力してますから」

小角は照れたように笑った。ほころびかけた牡丹の蕾のような微笑に、彼は

残念そうに笑み返した。

「おまえが本当に女なら良かった。そしたら、きっと妻に迎えた。そした

ら、きっと、おれも変わっていたろうに」

「次は何で勝負しましょうか?」

「呆れた奴だな。まだ実力の半分も出してはいまい?だが、こっちはタネ切

れだ。おれの負けだよ」

男は、穏やかな笑顔で手を差し出した。鬼の爪から、それはいつのまにか人

間の手に変わっていた。

「約束通り、やり直そう。時間がかかるだろうが、おれはきっといつか・・・」

言いかけた男が、突然血を吐いてぐらりと傾く。小角の目の前で、彼は真っ

二つに引き裂かれ、地面に転がった。あまりにも一瞬の事だった。

唖然と、小角は突っ立っている。倒れた男の後ろから、真っ黒な大鬼がぬっ

と現れ、気味悪く笑った。

「今まで、こんな奴に従っていたかと思うと頭にくるぜ。負け犬には用はな

い。今日からオレが主になってやる。そこの鬼どももオレに従え!そうすれ

ば助けてやらんこともない」

最後の言葉は、小角の背後に立った前鬼と後鬼に向けられている。ゆらり

と、前鬼が前に出た。

「だれに・・・言ってんだ?てめぇ」

低い声が辺りを威圧し、黒い鬼は反射的に身震いして一歩引いた。

「てめぇのようなザコがオレに口をきこうなんざ、お門違いもいいとこだ

ぜ!」

前鬼の右腕が上がる。と思った時には、もう目の前のものは、もと鬼だった

というだけの黒い霧に変わっていた。

「けッ。つまんねぇモンに触わっちまった」

汚れを落とすように手を振った前鬼の前に、しかし、今度は別の鬼たちが何

匹もまとめて立ちはだかった。口々に彼らは何かを言い騒ぎ、一斉に襲いか

かってくる。どうやら、今まで自分達を縛っていた男が敗れたのを見て興奮

し、その男ごと小角や前鬼をも倒そうとしているらしかった。

「困りますねぇ。実力の差もわからないほど弱い者は・・・」

後鬼も心なしか怒りを含んだ目で睨む。その金の眼光に刺されると、鬼たち

はたじろいで、周りを囲み始めた。

しかし小角は、周囲の騒ぎも耳に入っていなかった。まっすぐ倒れている男

に歩みより側に膝をつくと、体に手をかけた。

「しっかりなさい!今、傷をふさぎます。大丈夫ですよ。すぐ治りますか

ら・・・」

「もう、手後れだ」

薄く目を開いたまま、つぶやくような声で男が言う。血の気の引いた顔で、

悔しそうに彼は言った。

「情けないものだな・・・。いくら力を使い果たしていたからといって・・・あん

な鬼に殺されるとは」

自嘲した笑いを紫の口元に浮かべ、視線だけねじ上げると、鬼たちの戦いを

目で追った。

「だが、あれが鬼というものだ。弱ければ喰われる。それだけのこと」

間もなく、ひざをついている小角の周りにも、鬼が溜まり始める。囲んだま

ま仕掛けようとする彼らを前に、小角はなぜか呪術を忘れてしまったように

動かない。炎術使いが口から火を吹く。とっさに前鬼が、間に入って炎を止

めた。

火に囲まれた結界の中で、男は不思議そうにつぶやいた。

「あれは、おまえの式神か?鬼の形態をしているが、さしずめ式鬼というと

ころか」

「やいっオレは式神じゃねえっ。鬼神様だっ。てめえの紙人形と一緒にす

んじゃねぇぞ!」

小角の答えも待たずに、前鬼が火を防ぎながら怒鳴っている。

「ずいぶん意識過剰だな。躾が悪いのかそれとも・・・」

前鬼の背を眺めながら、小角は微笑んだ。

「彼は・・・式神じゃなくて本当に鬼神だよ。かなり粗野だけど、もと毘沙門

天に仕えていた戦い専門の護法鬼神さ」

「護法鬼神?まさか!鬼のなかでも最も位が高く、猛々しい鬼が・・・天神の

命令もなく人間をかばうのか?いかに人間と暮らそうが闘鬼神とは本能だけ

で生きるはず。それとも、おまえが天神の呪力で縛りつけ操ってるのか?」

「高位の鬼神は動物とは違う。まして霊符でもない。自分の意志がある

し・・・。彼は・・・天界からはぐれた護法鬼神だよ。そして私の親友だ」

「親・・・友・・・?」

ぼんやりと、男は繰り返した。そして初めて納得したように微笑んだ。

「・・・そうか。どおりで強いはずだ。おまえも・・・あの鬼神もな」

それが、最後だった。小角が黙って立ち上がる。同時に、忍耐の限度を超え

た前鬼が、咆哮を上げ、力を解放した。

「いい加減にしやがれ!てめぇらは!」

撥ね飛ばされた鬼たちはそれでもなお亡霊のように立ってくる。

「キリがありませんね」

うんざりした声で後鬼が言った。しかし、数を頼んで、鬼たちは一向に引く

気配がない。先頭の一人が、勝ち誇ったキイキイ声で叫んだ。

「どうだ?驚いたか?オレたちは下級の物怪とは違うぞ!なにしろ天界から

来ているのだからな」

「諦めてオレたちに従え!」

「そうだ!従え!」

「なんか言ってますよ?前鬼・・・」

呆れも通り越した顔で後鬼が振り返る。前鬼は暴発寸前だった。

「上等だぜ。全員まとめて消してやる!」

前鬼の握った拳が稲妻のように光る。天界の戦神にして12天神の王、大自

在天の分霊を体に降ろし、その力を使うつもりなのだ。慌てて後鬼が止めよ

うとした時、

「やめなさい。前鬼」

小角が低く言った。

「うるせぇっ。もうがまんならねぇぜ。ブッ殺して・・・」

最後まで言わないうちに、小角が西の空を指した。

「あれは・・・・・・」

後鬼がようやくほっとしたように息をつく。

「やっと来てくれましたね」

そう言うと同時に、美しい楽天の音色が響いた。

虹色の光とかぐわしい芳香が、辺りに漂う。金剛力士の先払いととに金色の

光が射し、大勢の天女、天人、夜叉を従え、緋色の衣をまとった天神が一

人、天から降りてくる。と、間もなく、音もなく大地が割れ、地下から、大

勢の鬼神を引き連れた黒衣の天神がもう一人現れた。それぞれに天冠をかぶ

り、豪奢な錫杖を手にした二人の天神は、中空に浮かんだまま地上の鬼を一

喝する。その声を聞くと、鬼たちは震え上がって、てんでに頭を抱え、悲鳴

を上げながらひざまずいた。

「なんとしたことだ、おまえたち?なにゆえ、このような場所におるか!」

「厳罰に処されるは、覚悟しておろうな?」

空から降りてきた羅刹天、地下からきた閻魔天が、錫杖をつきつけ、それぞ

れに責め立てる。天神みずから降臨する異例に、鬼たちは恐怖のあまり大混

乱に陥った。十二天衆のなかでも、頻繁に降りてくる梵天、帝釈天、地天、

毘沙門天などと違って彼らが地上に降りることはめったにない。三十三天の

なかにおいても、稀である。特に死者を統治する閻魔天は、人間と最も縁深

いわりに、その姿では現れない。地上に来る時は、きまって柔和な地蔵菩薩

の姿を借りるのだ。ところが今は、恐ろしい本来の姿のままである。鬼たち

は腰をぬかした。

地面に頭だけ突っ込む者、泣き叫ぶ者、逃げ出そうとして転ぶ者、阿鼻叫喚

の地獄絵さながらの光景が広がる。けれど

「静まらぬか!愚か者」

「仕置きは後で言い渡す!」

そう言うと錫杖の一振りで、辺りは静かになった。気短かな羅刹天が、法力

で鬼たちの舌を縮めてしまったのだ。

甲冑を着た二人の金剛力士が、まるでゴミでもかき集めるように大きな手

で、散らばった鬼を次々とつまみ上げ巨大な箱の中に放り込む。それが終わ

ると二人は軽々と肩に箱を担ぎ、天神の後ろに控えた。

「わざわざのお運び、ご苦労でした」

小角が拝礼すると、二天神は同時に礼を返した。

「我らこそ申し訳ない。本来ならば、このような人間界の騒ぎにはかかわら

ぬのが決まりですが・・・」

「この不始末では、菩薩さま、如来さま方の御耳にまで入り、いたくご心配

をおかけ申した。天命と無関係に殺された者については、閻魔天の私が責任

を持って処遇いたす所存です」

「何かほかに、我らにできることがあれば・・・」

言いかけた羅刹天に、小角は地面の骸をさした。

「彼を・・・・・・天界に連れていってはもらえませんか」

「はて。死者は閻魔天の管轄だが・・・」

「だが、この者、人間ではないようですぞ?」

一瞥して、閻魔天は羅刹天を振り返る。羅刹天はすぐにうなずいた。

「わかりました。ご心配なく。この者には天界にて、夜叉の長に任命いたし

ます」

たとえ悪鬼であろうと、心を入れ替えれば、天界はいつでも迎える。それが

天界を司る如来の意思である。

遺骸を抱いて、羅刹天は空に昇り、閻魔天も鬼神を引き連れ地下に帰った。

残った3人の前で、暁の空が輝き始めている。山の端がオレンジ色に光り、

朝日が昇ろうとしていた。

「なんだか、長い夜でしたね」

明け方の凍るような寒さの中で、後鬼が少し笑った。

「小角さまは・・・どうして、あの鬼を許されたのです?」

「うん・・・・・・。なんとなく・・・」

と言ったまま小角は明けてゆく東の空の見つめている。風が動き、小角は言

葉を続けた。

「親に見捨てられた子供はつらいからさ・・・」

遠くの山の端を眺めながら、小角は、母に殺されそうになった幼い日のこと

を思い出している。人間離れした呪力を持つ彼は、どこに行っても忌子で、

帰るところがなかった。

「多分、彼も・・・あんまり寂しすぎて、もう戻ってこれなかったんだろう」

太陽の輪郭が現れる。橙色の輝きが一面に広がり、辺りは一気に暖まった。

「あ――・・・ハラ減ったぜ。帰ってメシによーぜ。メシ!」

「そうだな」

くるりときびすを返した前鬼を追うように、小角もその場を後にする。最後

に振り返ると、朝日に曝されたそこは、もう何年も放置されたまま、枯れ草

が広がる広々とした空き地だった。ただ、あちこちに狐、狸、蛙、鼠、蛇な

どの古びた死骸が転がっている。暁のなかで、それらは塵になり、静かに消

えていった。

《終》