「この帝国も…もう…終わりね…。ねえ?ミスラ…」

輝きの失せた美しい聖女が、女神の声で言った。白い肌。可憐な素足。完全なプロポーション、透けるような純白の長服をまとい、清楚で、凛々しい。

名は、アナーヒター。
水を操り、自分とともに、この帝国の、主神に仕える双璧だった。

人間の男なら皆、虜となって迷うだろうと、ミトラも時折思うが。あいにく自分は公正と友情、戦いと契約の神なので、その感情には縁がない。
もっとも、この界の神々は、恋愛を好まない。主神のアフラマズダが、そうだから。

彼は、影しかない神だ。
誰も、その素顔を知らない。

でも最初から、顔はないのだと、ミトラは思っている。

彼は、ゾロアスターという男が連れてきた、不可思議な神だ。絶対力を持つが、誰の前にも完全体では現れない。だが完全体など最初から無いのだろうと、ミトラは思っている。

正体が何なのか。
誰も知らない。
それでも、この広大な台地に君臨し支配し続け、ユーラシア大陸に新たに創生した巨大な帝国を、数百年は維持する力を持っていた。

彼を助け、最大の帝国版図にしたのは、自分とアナーヒターだ。その彼女も、アフラマズダの素顔を一度も見ていない。

もっとも、ミトラはだいたい見当はついている。
だからゼウスと死別したあと、たどり着いたこの地に留まり、約三百年間、彼を護る戦神として仕えた。
側近は他に6名いるが、いずれも強い。
だが、アナーヒターとミトラが、必ず彼の左右を護る。

彼は、影だ。
しかしシルエットがコピーのようにそっくりで、その気配をはっきり感じるから、ミトラは絶対、確信している。
アフラマズダは、ゾロアスターという術者が請願し、祈り出し、連れてきた、自分の伴侶の分霊だ。
彼の力の一部が、特定の形も憑代も持たないのに、帝国全土の人間たちの心に信用を得たため、強力に具現化し続けている、そういう神だった。

「ねえ、ミスラ…」

小高い丘の、真っ二つに裂かれた巨岩の上に、両足をそろえて座った女神が、再び可憐な唇を開く。
自分は、ここでは、ミスラと呼ばれる。
皆がこの地の方言でそう呼ぶから、自然、そうなった。

「どうして…この帝国は亡ぶのかしら。わたしも、あなたも、アフラマズダも十分、強いのに」
「残念だが…相手の神が、遥かに上手だった」
「ヒトも?」
「そうだな。彼らは、改宗を迫る。彼らの神を信じれば、兄弟として迎え、信じなければ、すべてを奪う。
だが…人間たちは長い戦いに疲れてしまった。
神さえ棄てれば、これ以上、何も失わずにすむ…たぶん…幸せになれると…思っている」
「誇りは?」
「生きるのに、そう重要ではない。それに…誇りは生きていればまた持てる。今とはまた別な価値観で」
「そうね。生きるには…些細なことよね…。わかるわ…わたしもそうだったから…」

本当はバビロニア出身らしいこの女神が、なぜ、どうやってここに来たのか、誰も知らない。
柔らかな暁と夕闇を感じさせる花のような乙女は、実は、自分と同じくらいか、またはずっと歳上なのだろうと、ミトラは時々思っている。
もっとも彼もまた、非常に整った若々しい青年の姿だったけれど。
神の外見は、現実よりも真実を映す。

彼女はたいがい何でも識っていた。
戦いも平和も、大国の鷹揚で凶悪なことも、小国の姑息で卑怯で死にもの狂いに必死なことも。
個人や国家の、マフィアじみた脅しや強奪も、その中に潜むいじましい情愛も憎悪も、嫉妬や競争心も。
公明正大な偽善も。
残酷な明るい希望も。
後ろ暗い潔白な美しさも。

なんでもまとめて引き受けていた。
愛していた。
護っていた。
醜いものも、美しいものも。
等しくおおらかに抱きしめた。
それでも及ばず消されることも、また厭わなかった。

そこは、ゼウスに似ている、とミトラは思う。
彼女もまちがいなく主神クラスの大女神だった。

「ねえ、どうして、あなたが本来、無関係なこの地に長く留まったのか。わたし達とともに戦ったのか。
でも本当は、まったく別な目的があって、もっと東に行こうとしていることも…わたし、知ってるわ」

高地の冷たく乾いた風に、長い、暁と闇の入り混じった不思議な色の髪を翻しながら、
不意に、女神が言った。

「あなた、エア様を、探しているのでしょう?…それともエンキ様、とお呼びしたほうがよいのかしら。
それとも…」
「では、我々のアーリア神として、お願いしたい」
「なら…ヴァルナ様ね」

軽やかな声だ。透明な、この台地の風のような。
でもはっきりしている。
ミトラは隣に突っ立ったまま、溜息に近い音を吐いた。

「やはり君は…知っていたのか」
「だって高名な御神でしたもの。あの方を、オリエントの神も人間も…知らないものなどいない…。
かつて、大洪水が起きるはるか以前、世界の覇権を握ってらした方…。
エンリルやマルドゥクに、天命のタブレットと王の実印を奪われるまで、
あの方が、長らく最高神だった。このオリエント世界の」

そこでふと、軽い声が、重く沈んだ。

「でもわたし…何度も何度も…あの方の美しい御心と願いを醜く汚らしく裏切って…
酷く苦しい御顔をさせ…哀しい御心を踏みにじり…いつも…叱られていたわ。
でも…あの方は、わたしを一度も罰しなかった…。そして、わたしも…止められなかった…わたし自身を…。
この地では聖なる乙女神なんて言われてきたけど……
……ダメな女神なのよ、本当は…わたし、とっても」

長いこと一緒だったのに、初めて聞く告白に。それでもミトラは動じることもなく最初からわかっていたみたいに、そう聞いた。

「ちなみに君は、その頃、何と呼ばれていたんだ?…バビロニアの故郷では?」

アナーヒターがさらりと流して、微笑んだ。

「忘れてしまったわ…あんまり昔で…」

でもね。
と彼女は、今度は、蠱惑的な、なのに清楚な、底のない、
でも明朗な、美しいアッシュグリーンの瞳で、付け足した。

「あなたのことも以前から知ってる。沈まぬ太陽と呼ばれた、ミトラ様。クロノス様とご一緒に、ゼウス様ともよくおられた…そして…」

岩の上で、彼女の白いドレスの裾と、同じくらい白い素足が、人魚のようにゆらゆら揺れる。
声が、続いた。

「唯一、捕われていたエア様を救って差し上げた方…。ゼウス様たちとご一緒に、一度は助けたマルドゥクに結局とどめを刺したのも、あの方のためでしょう?
本当は…わたしたちと共にこの帝国を創ったのも…あの方のため」
「だが…また失敗した。私はしょせん王の器ではないから、アフラマズダに仕えてみたが。
人間は…いつだって難しくて。彼らの要求は煩雑で複雑で、神にも人にも、いつも私は、応えきれない。応えてやれない」
「仕方ないわ。ゼウス様もクロノス様も…エア様もエンリルもマルドゥクも…アフラマズダ様だってダメだったんですもの…」

でも。
と彼女は言った。ここから遠い西のほう、チグリスとユーフラテスの混じるあたりに視線を向けている。

「たしかに、あのとき、わたしは…救ってもらったの、貴方に」

そのとたん。
かつての彼女が、白い乙女に重なって視えた。
いかめしい女主人。
ビロードのような豹に乗り、苛烈な武器を持ち、大勢の男たちを惹きつけては残酷になぎ倒し殺す、美しくも恐ろしい大女神。

「まさか…君は………イシュタル?…」

彼女は、答えなかった。
でも、代わりに教えてくれた。

「ね、あなた、このペルシア人の帝国はもうじき滅ぶわ。でも、あなたはここで消えるべきではないし…
そのつもりもないでしょう?…この大陸の東の果てから、さらに海を渡ったところ、三日月の形をした小さな島国に、あなたの探す者がいる。仇敵もいる。あなたは、もう一度、彼らを救い、そして、戦うべきよ」

たとえ、そこで、消えたとしても。

「………わかってる。だが…ずいぶん遠くて…やや予定超過だ」
「でしょう?だって、貴方のあの方も、すでに昔のままではないのだし。その敵も、今は…神ではないんですもの…」
「どういうことだ」
「確かめることよ。必ず、自分の足で、そこへ行って」
「どうして…私にそんなことを言う」
「ただの親切心よ。みずくさいわね。仲間じゃない。この数百年、ずっと一緒に戦った…
アフラマズダ様を、ともにお護りして…」

それに…

「言ったでしょ?あなたがマルドゥクを倒したときに、わたしも救ってもらったと。
…わたし、もっと昔に、ほんとうの名が別にあったの。その名に、あなたは、戻してくれた。
今のわたしがこの姿でいられるのは、貴方のおかげ。
もう一度、元の女神に戻してくれたから。
そして…わたしが傷つけた者たちも、たくさん癒して下さったわ…。それでわたしの罪が赦されるとは思わないけれど……
わたし、とても救われた気がしたの。…だから、そのお礼」
「あまり、役に立てた気もしないが」

この、大陸の中央を占めたペルシア人とメディア人の大帝国は、もうすぐ解体する。
人間の王は、死んだ。
主神も、消えた。
人々は離散し、多くは難民となり、ようやく生き残った神々も、そのほとんどが死ぬだろう。
この後、たった独りの異神が、征服し君臨し、残った人間たちは己の神々を棄て、新しいこの神に従う。
でないと、自分たちが、生き残れないから。
今後、大陸の西は、ふたつの界に分けられ、それぞれが強大な唯一神によって支配される。
ゼウスが三百年前、そう予言したように。

「でもね、大陸の東のほうは、それとはまったく別に、別の界として、新しい国ができるのよ。
今から三年後。東の果ての三日月型の小さな島国に。
造るのは人間の男よ?まだ王子でとても若いけど、いずれ立派な王になる。きっとウルクのビルガメシュみたいにね。
その男と、あなたの探すあの方は、必ず出遇うことになる」
「ご宣託、ありがとう。ところで、ここが一番肝心なとこなんだが…ヴァルナは…無事なのか?」

ちょっと呆れた視線が、岩の上から降りてきた。

「貴男って、ほんと不思議。…王神で戦神で全智の神なのに…予言の力がないなんて…」
「ゼウスにも言われたよ。いつもからかわれた。だが予言は、ゼウスの十八番だったからな。向うに任せてた。その後は…ヴァルナに丸投げだ。何もかも…」
「やっぱり…酷い男かしら?」
「かもな」
「エア様がお可哀想…。わたし、ほんとは…あの方のこと、好きだったのよ?…まだエンキ様と呼ばれていた頃から…。今は…貴男のヴァルナ様ね」
「君は…やはり…知っていたのか?…アフラマズダの正体も…」

女神は、微笑った。まるで天界から全世界に舞い落ちる美しい花弁に似た声で。

「言ったじゃない。わたし、…あの方が、好きだったの。貴方があの方に出遇うずっと前から識っていて、貴方よりずっと長く大好きだった。
でも足りなかったの。何もかも。わたしはあの方をとても不幸にはしたけれど、幸せにはできなかった。
やりたいことは何でもやったのに、わたしも幸せにはなれなかった。
きっと…誰も…愛していなかったからね……あの頃の…わたしは…結局、愛していたのは自分だけ」
「……」
「うぬぼれていたわ。エンキ様の前の王神だった、天空神アンの娘。なんでも、わたしは出来るって…。
すべての男はわたしのもの。
この世のすべてはわたしのもの。
そう信じてた頃があった。
とてもとても幼い頃…わたしは間違いだらけで…何一つ正しい選択をできずに…神も人もさんざん弄んではうち捨てて…自分の生んだ双子の子供たちすら棄ててしまった…」
「ナーサティアの双子神……アルナとニーラか。双子の兄弟神なのに…アルナの父は神、ニーラの父は人間だった。ゼウスが拾って自分の子として育てたディオスクーロイもそうだろう?」
「やっぱり知ってるんじゃない」
「一応…全智の神だからな。…だが彼らも多分…もう死んだ…」
「…そうね。…あなたの敵神に殺されたわ。もうずっと前に…。仕組んだのは、ブラフマーという男よ?
…ご存知?」
「ああ。もう少し育ってるかもしれない。私が最後に会ったのは、もうずいぶん昔だから。あれも幼い神だ」
「そうね。…子供なのよ。わかってるつもりでわかってないの。
オトナだと思ってるのは自分だけ。
頑張って考えた結果、何でも知ってるつもりになって、結果、皆を不幸にして。でも悪いことだとは感じないし信じない。
…わたしも昔、みんなに…とても酷いことをした…。でも何もわかっていなかったの…だって、酷いって、全然思わなかったんですもの…」

女神の寂しい声が、まるで、この崩壊し続ける帝国のように聞こえる。
もうすぐ、この大帝国は、消滅するだろう。

「ねぇミスラ…代わりに謝っておいてね。あの方に、ごめんなさいって。わたし、もう…自分では言えないから…」

白い素肌がひときわ美しく輝いて、そうして、ふっと薄くなった。

昨夜の最期の激戦で、彼女は、敵神のしもべである天使たちの、まっただ中に突っ込んで、散々に貫かれ、粉々に砕かれて…

まだ太陽が昇る前に、死んだのだった。

かつて愛した者の影、アフラマズダを最期まで護ったまま。そのアフラマズダも、未明には、敵神と彼の率いる予言者たちに吸収されて、もういない。

ここに居るのは、もう、すでに消えたはずの、プルシャの名残り。

「でも貴男に…なにもかも伝えたら、すっきりしたわ…ずっと…心残りだったから。
…誰かに、謝りたかったの…。
この地で、アフラマズダに仕えて、アナーヒターと呼ばれ…もう一度、乙女の女神として崇められ、皆を護り…戦って戦って…
でもいくら贖罪しても…わたしの罪と穢れは晴れなくて…
…だから…どうしても……誰かに謝りたかったの…たとえ誰にも赦されなくとも…」

ごめんなさい…

ごめんなさい…

ウルクの女主人イナンナは…とても愚かでした…

ごめんなさい…エンキ様…アンお父様…お母様…夫ドムジ…神官で副王ビルガメシュ…その友エンキドゥ…一度も抱かなかった我が子アルナ、ニーラ…ポリュデゥケース、カストール…

……みんな…
みんな…ごめんなさい…

声は、ずっと続いていた。
でも、だんだん小さくなり、風の音にまぎれ、
そうして、
いつのまにか、消えた。

本当に…何もかも…

たぶん、罪も穢も…
なにもかも…


ここはまだ大陸の半分。中央よりもやや東。
ペルセポリスの廃墟を後に、ミトラは最後にアフラマズダにもらった薄絹の手織りカーペットを両手にかざし広げてみた。
風になびく、そこには。
メディア人とペルシャ人たちが荘厳な宮殿の左右に居並び、炎を祀り、豪奢な宴を楽しむ。
そして激しい戦いの図。
敵を打ち倒す兵士たち。
優雅な怪鳥の物語…
そして多くの神々と人間の王たち。
家族に殺されるか、部下に殺されるか、敵中で死ぬか。三択しかない王たちの最期。
快楽。欲望。陰謀。惨殺。
それでもまた、人が生まれて、生き続ける。
たくさんたくさん、まるで、ゴミのように。

この国のすべてが織り出されている。
金銀と数万色の美しい神蚕たちが、それぞれ自身の色を吐き、精霊たちが紡ぎあげ、工芸の神々が織り出した、至上の神布。
光によって様々に表情を変える神絹の光沢が、素晴らしく美しい。

そこに描かれた残酷も優しさも、すべての真実は、なにもかも。

「敗軍の将が落ちるには、やや派手な衣装だ。だが、まぁ…あいつらしい贈物だ」

そこに在るのは、この帝国の、すべての記憶。
この世界の、あらゆる正邪の想い、真実、その何もかもを、遺され、託された。


その重く荘厳で壮大な神布を、肩から斜めに掛け流し、
黄金の短剣一振りのみを腰のベルトに差したまま、
ミトラは、また東に向かって歩き始めた。

この大陸の果ての、まだ向う。
三日月型の小さな島国を、遥か目指して。



◇Fin.◇