ゼウスは、いつまでたっても子供みたいだった。好き勝手に暴れて、好き勝手に愛して、好き勝手に捨てた。でも愛されていた。彼が敵として服従させた国々も、彼らを服従させた異民族の人間たちすら、彼を大好きになり、共感し情を共にし、率いる民は、どんどん増えた。なのに勝てなかった。
ミトラは、最初から大人びていた。常に理性的で理想の王者らしく強く凛々しく、なのに支配を嫌い、慈悲に満ち、強者も弱者も、等しく扱い、どこまでも優しい。すべてを受け入れ、すべてを許す。懐深く、公明正大、信じられないほどの美しい寛大。でもそれが、命取りだった。


「あーあ。バッカみてぇ…」
呟いたゼウスの、破れたサンダルに、すでに黄金の光はない。雷の武器も尽きた。それより、それを投げる、腕がない。もう、ほとんど、体はバラバラだった。まとった黄金のキトンは、切れ端のみ。がれきの隙間に、ボロ布のように、落ちている。ただ、地中海の青に似た大きな瞳だけは、頭上の高い空すべてを包むように見開いている。すでに光は、無かったけれど。
そのそばに片膝をついて、ミトラは黙って覗き込んでいる。ずいぶん長いつきあいだった。二千年以上はつきあった。でももうすぐ別れる。だから少しだけ、泣くように笑った。
「なんだよ?」
まるで全部わかってるみたいに、ゼウスが見上げ微かに笑った。
「なぁ…ミトラァ…もぅ…行けよ、お前は…先に…東に…」
「ああ。……お前の神託に従い、そうするよ」
これから彼は、東に還る。しかし目的の地は遠く、力はすでにない。持っていた千のヴァジュラは、ずいぶん昔、ルドラとインドラに渡してしまった。あとは残った身体ひとつと黄金の短剣一振りのみ。
ずいぶん長い戦いだった。仲間だった神々とは、とっくにはぐれたままついに逢えず、偶然出くわした昔馴染みのゼウスと、この大陸で共闘していた。
唯一神。
ある日、唐突に現れた、人類の凝り固まった権化みたいな、とてつもなく強大なその敵と、己の存在、信じてくれる人間たち、仲間の神々と信じるもの、すべてを賭けて戦っていた。
「長かったなァ…アレ、いつだっけ?…アレが…顕れたの…」
「もう…三百年は経つかな…」
記憶を辿りミトラが答える。ゼウスは意外なため息をついた。
「そっか…まだ…そんなだったかよ?…もっとずぅっと…長かった気ィするわ三千年くらい」
「…辛かったからな…とても…」
「…だなァ…。いっそこうなる前に…とっとと降参しちまえば良かったかもなァ…そしたら…せめて、てめぇを信じた人間たちだけでも…」
救えたかも、しれなかったのに。
光を失った瞳にさえ、後悔と、煮える悔しさと、計りきれない苦渋が滲んで見える。
「少なくとも…惨殺なんて…させなかった…。嬲り殺しだった…。生きたままわざとナマクラな刃物で少しずつ肉をえぐられ…酷ぇ拷問されて…皆死んだ…。ばかだったよ…おれ…」
「…そうだな。…俺もだ」
ミトラの凄惨な記憶も、赤と金の入り混じった彼の短い前髪と一緒に、傷で汚れた額にいくつもいくつも架り落ちる。
「俺もダメだったよ。助けてくれと膝にすがりつく人間たちに…何も出来なかった…配下の神々にも…」
いくら主神と呼ばれても。結局、誰の神にもなれなかった。それでも、ずいぶん長い間、神々と人間たちの王として、戦ったと思う。この地に来る前も、後も。数少ないバラバラで弱い遊牧民だったアーリアを率い。小国にし。大国にし。ついには帝国を創り、自分を信じる者たちを大勢率いて…
散々に破れた、漆黒の、騎馬民族らしい軍装と、膝下を覆うロングブーツ。短い上衣の破れたスタンドカラーには、太陽の光をあしらった黄金の飾り、そこに囲まれたひび割れた赤い宝玉。背を覆っていた見事な黄金の長外衣は、千切れてしまって切れ端すらも、とっくに無い。かつて右の薬指を飾っていた、膨大な力を隠す精緻な黄金リング、それを細いチェーンと光の粒でつないだ美しいブレスレット、右耳だけの不思議な文様のピアス、そんな装神具も、だいぶ昔に失った。
もっとも、もう一対、ほとんど同じ、純白、青、白金を装う神がいる。別れてから、すでに、700年以上は経っていた。
「もう、忘れられただろうな…」
向うは、あのとき自分が死んだと、信じているはずだ。まったくそういう状況だったから。
独り言のように呟いた声に、ゼウスが笑った。今度は仕方のない軽い揶揄が含まれていた。
「人間たちのために…世界一大事な伴侶まで置いてきちまって…お前も…たいがい大バカ野郎だよなァ…」
「それは…どうかな」
溜息みたいに、ミトラが苦笑した。
「向うは、とっくに新しい伴侶がいるだろう。俺のことなど忘れて幸せにやってるかも?というか俺とのことは、最初から…なかったことになってたりしてな」
「でも帰るのか?」
「最期に、渡すものがある」
もっとも俺が…最期に、ひとめ逢いたいだけかもしれないが。
嫌味でも自嘲でもなく、日常の続きのように、ごく自然に、付け足した。
ゼウスが冗談みたいに口を曲げた。
「は、…ありゃァ信じらんねぇほど、身持ち堅ぇから。まちがいなく喪服で待ってる。賭けてもいい。神の伴侶は恒久契約だろ?キッチリ守んねえと、殺されるぜ?」
「あいつに殺されるなら…本望だがな」
「珍しいな。お堅いテメーがジョークとは」
「べつに冗談じゃない」
存外、生真面目な顔に、地中海色の瞳が、初めて朗らかに笑った。
「やっぱ帰れよ。そして謝れ。直に会って。今まで消息不明でごめんなさいってな、そっちのが断然いい」
「お前が慰めてくれるのは嬉しいが…それとも、これも有難い予言か?」
「オレはお為ごかしのお情けなんて、かけねえよ。綺麗ごとも並べねえ。いつだってどこでだって。正しい忠告以外、しねえ。もしくは未来への餞別だ」
真夏の地中海を映したような空の青が、まぶしい。白く輝く雲がゆっくり流れ、時折、砂埃が、すべてをかき消す。まるで元の暗がりに戻ったように。
「この世界は…どうなるんだろうな…」
巨岩の隙間に金茶色の髪を散らしたまま、ゼウスが呟いた。
「わからない、俺にも」
「はは、ざまぁねえなァ、ミトラ、てめえ全智の神のくせしやがって。たいしたことねえわホント全然…」
「それはお前もだろ?ゼウス。ご自慢の予知の力はどこへやった」
「落としたわ。どっかで。…あれ?違うな。昔アポロンにやったんだっけ。けどあいつ…死にやがったよ……オレより…先に……もぅ…ずいぶんと…前に…」
少し淋し気に、カサカサ乾いた声と唇が、苦しい息を吐いた。
「…このオレも…消えるなんて…考えても…なかった…。それも…たった独りの神に…やられる…なんて…」
もう視えない瞳は、どこを向いているのかわからない。ただ、ミトラも、視線の先は一緒だろうと思った。
「大陸の半分は…いずれあの神に支配される…。そして…もう半分は…もう独りの唯一神のものになる…」
「だからよ…お前はもっと東へ行け…。まだ…奴らの力の及ばない世界、この大陸の東の果てへ…。べつに…そのまま逃げたって、オレはいいと思うぜ?けど…」
「ああ」
「戻るんだろ、オリエントの主神として…最後の責を果たし約束を守るために…それとも…もっと大事なものを、取り戻すために…か?」
ミトラは、黙ったまま答えなかった。本当は、色々定かじゃない。自信もない。目の前の彼のように、自分だってすでに生きているのか死んでいるのか、もうよくわからない。胸のあたりが、時折ゆらいで消えては、修復する。でも、目の前の彼は、確実に、消えかけている。
「オレは…これでなぁ、オレ自身についてだけは…ぜんっぜん後悔してねえんだぜ?…たとえ、すべての人間に裏切られゴミみてぇに棄てられようと。寝返った仲間や、奴らとつるんだ敵神に情けなく敗北し、消されようと…。あのとき、確かに、オレとオレを信じた野郎どもがいて。その証は…遠い未来に、いつか甦り、必ずや世界を席巻する…」
ふっとミトラが、苦笑した。
「自信満々なんだな。こんなときも」
「おォよ…あったりめえだぜ。オレァ信じてっからな、オレと、オレを信じた野郎どもがかつて創りあげたシステムを。たとえオレらが滅んでも、こいつだけはいつか必ず復活する。いつか、きっと…」
神々の王というより、山賊の頭みたいな彼は、にやりと笑って、繰り返した。
「絶対ぇ…遠い未来に…世界はそれを見るだろう…再び…」
デモクラティック−自由と、民主主義−
神を卒業したら、人は、きっと、それを選択する。自らの意志で。だってそれが、あの時、最強だったオレたちの創り上げた、最強のシステムだって、信じてるから。
「そうしてオレは…すべての人間どもの記憶の中に甦り、生き延びる。人類が続く限り…永遠に…多分な」
ゼウスが、笑った。一転して、いっそ呑気な少年のような、バカバカしいほど、あどけない笑顔だった。ミトラは、今度は笑わなかった。
自由と民主主義なんてものに、彼自身はゼウスほど信頼を置いてはいなかったが。その欠陥も欠点も、充分に身に染みて、識っていたから。でも頷いた。
こっちは本音だったから。
「…そう、俺も、思うよ…。お前は…偉大な民を率いた偉大な神だ。たとえお前を信じる者がこの地上に誰ひとりなくなったとしても…お前の成しえた事象は、必ず残る。…人の世が続く限り…永遠に」
「うん」
本当に一途な、子供みたいだった。笑顔は、まるで光に似ていた。
ゼウスは、常に感情にまっすぐで正直で屈託なくて、仲間意識が強すぎた。人間をも必ず友として接し扱った。だから、神としては欠陥品だった。慣れ合いすぎた末に、今ではもう誰も、彼を畏れず崇めず、神としては信じない。それでもいいと、彼は言った。友にも敵にも、神にも人にも、たとえどれほど裏切られても。
ずっと、そうだった。ミトラと一緒に、まだ弱小で貧しい遊牧の印欧人たちを率いていた遥か過去から、ずっと。
「なぁ?…生きて無事、大陸の東の果てのまだ向うに、行けたらさ?…ルドラによろしく。あいつ、オレに似てただろ?だから、うんと可愛がってやったって。ホントは養子に欲しかったって、な?伝えといてくれよ。…奴…きっと…化けるぜ?」
「ああ」
「インドラとナーサティアの双子たち…トヴァシュトリにも…よろしく」
「ああ」
「最期に…お前の…最高に美人の伴侶に、伝言。オレのハーレムに入れ損ねたの、超絶残念だったって…」
「それは…」
ミトラが呆れた苦笑で肩をすくめた。
「まちがいなく激怒するだろ、あいつが聞いたら。でも伝えとくよ。もし…逢えたら」
オリエンタルブルーの瞳が、一瞬苦く、微笑した。
それをゼウスの、もう見えない両眼が、見つめた。
「逢えよ、絶対に」
「お互い生きていたら。皆も」
「生きろよ…オレの…オレたちの分も必ず…。そんで幸せになれ。お前を信じる神も人も、ぜんぶまとめて幸せにしろ…絶対…。だってよ、お前、…もうお前しか残ってねえんだぜ?…オレたちの、最初の仲間の神々は…」
「わかってる」
大陸の少し湿った空気が、暗い土埃を巻き上げる。周囲には白亜のがれきと砂漠しかない。地中海の輝く青が、近くて遠い。ここは、小アジア。かつてミトラとゼウスが人々を勝利に導いた土地。後にゼウスの植民都市で、今は異神の統治する国だった。
「ここから大陸東端へ行く前に……一度、ペルシア帝国に戻ろうと思ってる…」
ふと、独り言みたいにミトラが言った。
へえ?と意外な唇で、ゼウスが笑った。
「いんじゃねえのか?……らしくねえなって言いてぇけど…」
「うん。らしくないな」
「一神統治への、最期の抵抗か?それとも…史上最大、最強だったローマ帝国の運営に失敗したオレへのあてつけか?」
「どっちもかな」
「はは、ま、それもいい」
清々しい声。笑顔は、すでに光さえ超えようとしている。
「最期に…一個だけ…頼みあんだけど」
「俺にできることなら」
「オレの生き残ってる友神を…未だ信じる人間たちを…頼む。あいつら…きっとまた惨殺されるのに…護ってやれなくて…それだけが…」
心残りだ。
とても。
とても。
「ほんと何もかも押しつけちまって…悪ィ…けど、もうオレの神族も…誰も…残ってねえから…」
消えかかった光の滴が、涙に見えた。
「わかってる」
頷くと、少しだけ安らいだ笑顔が戻った気がした。
光は、散り散りに砕けようとしている。
「…そろそろ…時間だ…。ああ…アテナたちが待ってる…泣き虫アーレスも…寂しがり屋のアポロンも…気ぃばっか強ぇヘラ姉も…みんな…みん…な…」
最期の、欠けた笑顔と涙が、光の粒になり、もっと小さく細かく、砕け散って…宇宙を創った最初の一粒に還り…そうして……消えた。
址には、何もない。
「ゼウス。…俺はお前が好きだったよ…敵として戦った時間も、一緒に過ごした時間も…ずっと…親友として」
長くて、とても、短かった。
約二千四百年前に、ふたりは共に、ここにきて。共に戦って、別れて、敵として戦って…また別れて…また遇って…また一緒に戦って…そうして今度は、永遠に別れる…
遠くのほうでは、白亜の美しいアポロンの立像がまっぷたつに裂かれ、神殿の屋根や柱ごと粉々に砕かれていた。その神を信じた人間たちは残酷に殺され、生き残った者たちは、今はもう、別の神を信じている。強大な、ただ一柱の神を。
しかしそれも、人間たちが自ら択んだ道だ。己が生き残るために。幸せになるために。
だから、ミトラは見送った。
自分の民をも、見送った。
彼らの幸せを願い、見送った。
彼は、すべてを受け入れ、すべてを許す。強大な王神の力を持ちながら、どこまでも優しい。その優しさが、最大の敗因だったとしても。彼も、ゼウスと同じように、後悔はしていない。
「いや…してないってのは…どうだろうな…」
底なく考えても。
全霊で戦っても。
多くを破壊しても。
それ以上に創っても。
死ぬほど泣いても。狂うほど笑っても。
そうしか、彼には、できなかったから。
ただ、今は、途方に暮れている。この先の途は遠く、横暴に横たわる他界の神の築く門は、いくつも連なり。どれも意地悪く堅牢で容易に進めそうにない。力も術もすでに尽きた。でも、その先に、待つ者がいる。
自分がかつて、ここから連れ出した者。仲間の神々と、人間たちへの、責任がある。
最初にこのオリエントから出たとき、輝くものを創ると誓った。戦禍のない安定した国家が、豊かな平和と幸福を享受する。繁栄した民の満ちる、美しい世界。
真の価値だけがまかり通る、真の価値だけが力を持つ世界。
そこへ連れて行くと、皆に誓った。
どうせ夢想だ、ただの。
誰もが、思っていた。
それでも、ついてきてくれた。神も。人も。自分を信じて、大勢ついてきた。
結果的に、それらは、決して果たされることはなく。彼らは、懸命に歩き、戦い、国家を築き、しかし目指した幸せには遥か届かなかった。
小さな国々の寄せ集めは弱く愚かで、互いに争い奪い合い利用しあい、異民族との対立は絶えず、底意地の悪い陰謀と姑息な詐欺が横行した。
一つに統一された強大な帝国を創っても、長くは続かず。増大、分裂、収縮を繰り返し、平和はいつも遠かった。
その責めを、何度も自身に負ったけれど。幾度もやり直してはみたけれど。
そのたびに、失敗して。詫びて。断罪され。責を負ってを、繰り返す。
愚かな生だ。不毛な努力だ。
なのに、まだ、生きている。
こんな苛酷な戦場で。なぜか自分だけが、死ねなかった。
死んでないから、今も、戦い続けねばならなかった。
それが…
今から一千六百年前、最愛の者と、自分を信じた多くの人々と神々を、このオリエント世界から連れ出したその時に、自分が交わした、王神としての誓約だったから。
どれほど不可能でも、次の時代と、次の世界の扉を開き続ける。
この世に存在する限り。
恒久平和とすべての生類の幸福、というありえない世界を目指して、戦い続ける。
かつての神々の王として。今は、ひとりの神として。
その遠大で困難で不可能な夢と、確固とした当てのない約束のために、もう一度、東へ還るのに違いなかった。
あらゆる生命の王として、戦神として、主神として。そして、たった一つの、些末な生命の切れ端として。


魂は…すでに擦り切れていた。消える寸前までに。それでも…また…彼は、歩きはじめる。
それしか、何も無かったから…

彼には…存在理由が、それ以外には、たぶん、無いのだった。





◇Fin.◇