第28話 ブルーバス024と
     リオシオン通りターミナルの謎



 オリュンポス山。それは私が初めてギリシャ神話を読

んだ中学時代からの憧れの地だ。もう、ギリシャに行った

ら絶対オリュンポス。鍜治の神ヘパイストスが造った

神々の住まう宮殿、アンブロシアにネクタール、美しいア

ポロンの竪琴・・・・はないにしろ、古代ギリシャ人にそれ

らを想像させた場所を一目見たい。というわけで、真の目

的(誰も気付かないだろうが、実はあったんだ)からはず

れ、ここは全くの空き時間を利用した、ただのバカンスと

して出掛けることにした。

 ところで、私が調べた時には日本のガイドブックには

オリュンポスの行き方なんてどこにも書いてなかった。

(今はどうか知らないけど)ただ、ミシュランから出てるや

つには、オリュンポスに登るにはリトホロ村から、とだけ

載っている。リトホロを地図で探すと、ギリシャ中部に確

かにある。で、アテネとリトホロを結ぶと、かなりリトホ

ロ寄りだが、間にラリサという大きな町がある。

(とりあえず今日は、そこまで行ってみよーじゃない

か)

直感だけでそう決めると、私は市内から024のバス乗っ

た。ラリサ行きのバスは、ペロソネソス方面とは違い、リ

オシオンターミナルという所から出ている。

 リオシオンターミナルに行くには市内を走っている

024のバスに乗る・・なんてのはどのガイドブックにも

載っている。アテネ起点の遠距離バスターミナルはたっ

た2カ所しかない。ところが、私はこのターミナルにたど

り着くまでにすでに3回以上もドジを踏んでいた。実

は、私はリオシオンというのはターミナルの名前で、ター

ミナルというからには終点だろうと思っていたのだが、

(だから、024に乗っていればそのうち着く場所だろー

と・・)話はそう単純ではなかった。終点まで乗っていくと、

バスはどんどん山を登り始め、人家もないようなブキミ

な場所で止まってしまう。幸いそのときは、事情を言う

と、運転手さんがそこを通る別の回送バスを紹介してく

れ、そこからタダで送ってもらったのだが、「いやぁ、ギリ

シャの人は親切で嬉しいです」なんてお愛想なことを

言ったら「そうとばかりはかぎらない」なんてむっつり返

されてしまった。それが初回の失敗。確かデルフィに行っ

た時だ。2度目のチャレンジでは目を皿のよーにしてい

たにもかかわらずターミナルを発見できず、やっぱり通

り越してしまった。3度目には、いかにも旅行者らしい若

い男に、彼なら同じ行き先かも・・と思って何の脈絡もな

く後について降りたら、彼はそのまま地下鉄でどこかへ

行ってしまうし、仕方なくバス停の前のパン屋で聞くと、

リオシオンのターミナルは2つ先だという。言われるま

まに降りた場所は一瞬ターミナルとはわからずに、その

まま危なくまたしても通り過ぎてしまうところだった。 

とにかく、リオシオンターミナルなんて名前のバス停は

ないのだ。正確にはリオシオン通りにある、ギリシャ文字



ΠRAKTOPEIA 

英語で

PRAKTOREIA

と表記されたバス停で降り、そこから右の小道に入って

突き当たったところにある場所がリオシオンターミナル

になる。アテネの観光局や日本の旅行社で配るアテネ市

内の地図の範囲には載っていない。ちなみにそこを通る

のは024の他には701,704,709,710,711,713,

714,715,716,717,720,723,725,726,734,735,746,747,748,750

の路線バス。

(だったらそこまで書いとけよ)

 すっかり狂った予定をガイドブックのせいにしてアネ

を出たのは、しかしもう3週間も前のこと。予行演習のお

かげで今度は一発で到着した私は4900Dr払ってチケット

を買い割に広い、売店や喫茶店のついた待ち合い室で1

日7本だけのバスを待つ。

暑い所で硬いベンチに座り込み、ぼーっとしてると、割っ

た木の棒に小さな紙切れを一杯はさんだクジ売りのおじ

いさんや、20年くらい前に流行ってた360度開いて使う扇

子を売るおばあさんがやってくる。この扇子も普通の扇

子も、やたらギリシャでは使ってる人が多い。向かいでは

子供がリングパンをかじりながらジュースをこぼす。そ

んな光景を眺めていたら、ちょうど同じ年頃の女性が大

きなスーツケースを引っ張りながらやってきた。

「どこ行くの?」

と、私と同じようなTシャツに濃いブルーのジーンズ姿

の彼女は、隣に座るとこっちを向いて人懐こそうに笑っ

た。

「えっと・・オリュンポス」

「へえ。登るの?」

「いや、見るだけ」

「私はこの辺の海岸に遊びに来たんだ。すごくきれいな場

所だから」

地図を片手に嫌みのない爽やかな笑顔で快活に話す彼女

は、私と同じバスのチケットをもっている。

ギリシャ語だらけのバスのチケットの読み方を彼女に教

わって、私達は一緒に乗り込んだ。一番前の見晴らしのい

い席に陣取った彼女は運転手に自分のカセットテープを

貸して、それを車内に響かせていたりしていたが、(バスの

運転手さん達は皆自分のお気に入りのカセットを車内中

にガンガン響かせて運転するのだ)しばらくして隣席が空

くと

「こっちに来なよ」

と指定で後ろに座っていた私を誘った。彼女は運転手や

周りの客相手に他愛ない話をしている。にぎやかな旅だ。

このまま乗っていれば夜にはラリサに着くだろう。ラリ

サはどんなとこだろう?そしてリトホロにはどーやって

行くんだろう?でもそれは、着いてから考えるコト。





第29話 バックパッカー


午後3時にアテネを出発して、ラリサに着いたのは午後

7時40分。ターミナルはわりと何もない場所にぽつねん

とあるから一瞬途方にくれかけたが、近くの売店で「ホテ

ルとかタベルナあるとこどこ?」と聞いたらすぐ教えて

くれた。

いくらも歩かないうちに大きな公園やその周りを囲むデ

パート、レストラン、ホテル、それらをつなぐ商店街が現

れ、大勢の人間の生活と息づかいが包んでくれる。札幌の

大通公園付近をうんと縮小して年季を入れたような所

だ。

(けっこーマトモなとこじゃん)

あんまり期待していなかったので、私はそのほどよい喧

噪にちょっと嬉しくなった。人っ子一人いないような閑

静な場所より適当ににぎやかな所がいい。もっとも騒音

とネオンで不眠症になるのも困りものだが。

 前の失敗に懲りて、ホテルでは道路に面してない静か

な部屋を、と頼んだのだが、最初に私を一瞥してフロント

が放ってくれたのはまるでコインローカーのようなキー

だった。

(こいつぁ、安いだろうけど安眠は望めそうにないな)

となんとなく直感した私は

「高くてもいいから静かなところがいいの!!」

ともう一度言ってみた。フロントはややうさん臭げに私

をジロジロと眺めていたが、やがてフツーの重そうな

キーを渡してくれた。結局のところどっちが良かったの

かはわからないが、安直な私はそのキーの重さに希望を

感じて引き下がった。まあ、眠れないなんてこともなかっ

たし、もともと、よそ見しながら通りを歩いていたら、停

車していた自動警報付きのクルマにおもいっきりぶつ

かって、ものすごい警報音に追われたあげく逃げ込んだ

先がそのホテルだったんだから、文句も言えない。

 翌朝、ホテルのレストランで隣の客の巨大なソーセー

ジを横目で見ながら朝食を済ませ(安くて楽しいからなる

べく食事は外でとっていたが、朝はホテル代に込みにし

てもらってそこで食べるのがカンタン便利・・メニューは

どこも似たりよったりでパン、コーヒー、オリーブ、チー

ズ等をバイキング式セルフサービスで。Aクラスならハ

ム、ソーセージ、クッキー、ケーキ、季節の果物なんかもあ

る。しかし、ココはウェイターが運んでくれる形式で、私

には妙に何度もキーをひっくり返して確かめた末にパン

とコーヒーしか持ってこなかったにもかかわらず、隣に

はやたら豪華なコンチネンタル風ブレックファーストが

運ばれてたからつい見てしまったのだ。この差は一体何

?!別に朝っぱらから山盛りの肉なんか食べたくないけ

ど気になるじゃないの!!・・・・とはいえレディとしては

少々はしたないので問い詰めるのはやめにしたが、向こ

うもそう思っていただろうけど、こっちとしてもなんだ

か妙にうさん臭いホテルではあった)昨日のバスターミナ

ルに戻って聞けば、国道沿いにあるリトホロ付近のバス

停まで2時間で行けるという。で、そこからさらに乗り換

えて5キロ先の村まで行く。そこが、オリュンポス登山者

の拠点だ。

 2時間後に国道でバスを降りた時、これはもういかに

もってなザック背負った人達が3人ほど一緒におりた。

そのうちの二人は若い男女の二人連れで、兄弟か恋人か

友達か知らないが似たように日焼けした、華奢で活発な

体つき。寡黙なのに快活で、優しいけれどテキパキと能率

的。そして流れる実に不可思議な同胞感。 

(おおっバックパッカーだ・・)

いわゆる観光客とは全く違った異様にマニアックな彼ら

様相は、本当に一目ですぐそれとわかるほど不思議な横

のつながりを感じさせる。

「オリュンポスに行くんですか?」

私がおずおず尋ねると彼らは気さくな笑顔で手短に応え

た。

「そう。あなたも?」

「ええ、でもここからどうやって行くんでしょう」

「もうすぐバスがくるから・・ついてきて」

国道から横道に入って少し上り坂を行くと、小さなバス

停がある。このまままっすぐ5キロ歩けば村に着くのだ

が、ちょうど、2時間に1本ほどここを往復しているバス

の時刻らしい。いったいどこで調べてくるのか、彼らはな

んでも正確に知っている。友達とショッピングに来た

のォ〜なんて遊んだ雰囲気もきらびやかな衣装も持って

ない、ただ歩くために来たような黙々とした1人〜数人

の集団だ。聞けば、こちらの知りたい程度のことは実に詳

しく教えてくれるし、そして必ず別れ際に、これ以上ない

ような爽やかな笑顔で「グッドラック!!」と手を振る。

(ヨーロッパのバックパッカー共通の合言葉なのか?)

といぶかしんだほど、皆が皆そう言うのだが、これが本当

にサッパリしていて、嫌みのない愛がこもってて、疑り深

い私も感心するほどいいカンジなのだ。

 昨日バスで一緒だった彼女(そういえば名前聞くの忘れ

た)や私などは彼らと一般観光客の合いの子みたいなもん

で、気楽な一人旅組だが、彼らのほうは実に生真面目な歩

く人達ってな感じだ。私と同じような旅行によく行く友

達によれば、日本の国内旅行者にもこういうマニアな人

達が沢山いるんだそうで、彼らはどこのユースホステル

のパンが美味いとか、どこの毛布があったかいとかを逐

一知っており、どんなマイナーな場所でも、たまたま泊ま

り合わせた者同士で情報交換しあっているという話だっ

た。

 日焼けた二人連れの言った通りバスがやってきた。彼

らは細かいお金を持ってなかった私に170Drのバス代を

おごってくれて、ユースに行くなら一緒に、と誘ってくれ

たが、今夜にはラリサまで戻ろうと考えていたから、村の

バス停で別れた。名残惜しかったけど。でも、最後にやっ

ぱり手を振って

「グッドラック!!」

マネした私のはちとなってなかったかもしれないが、ま、

ココロだ。

 ところで、見渡す限りここは山山山。いったいどれがオ

リュンポスなんだ?








第30話 I am a good man!!と
      オリュンポスの新事実!



 リトホロ村は、10分も歩き回れば人家が尽きてしまう

ようなコンパクトな所だが、村の中心には名物な教会と

鐘の塔があり、周りにはお土産屋やタベルナが並び、

ちょっと下がった所には露店の八百屋がひしめいて、

ちょっと上がった所にはユースホステル街がある・・とに

かく数泊するには全く困らないところだった。ちょうど

昼なので、タベルナに入ってオススメの豆スープを食べ

てみたが、これが、大量のトマト風味ポタージュに大粒の

そら豆みたいなもんがぎっしり入っているというシンプ

ルかつ風情のある鄙びた代物で、腰のまがったお婆さん

がヨタヨタと、しかしもの慣れた調子で運んでくる様は、

そこにこの村の持つ雰囲気全体が凝縮されているかのよ

うでもある。

ここは、インタナショナルな保護地区で、国立公園みたい

な名高い観光地だが、同じ観光地でもミコノスやクレタ

やアテネみたいなすばしっこさがない。狭い道路には観

光客がごったがえしていたが、彼らに慣れていながらも

どこかクソ真面目な間抜けさが漂っているのだった。

豆スープを飲んで・・いや、食べた後、私は炎天下の山へと

歩き出した。とにかく、山を見に来たのだ。霊峰、オリュン

ポスを!しかし、あたり一面山だらけで高いのやら低い

のやらがぐるりと辺りを取り囲む中、どれがそうなのか

わからない。しばらくグルグルやってたら、さっき食べ

た豆までグルグルしだしてきて、とうとう私は山道の入

り口まで来てのびてしまった。

 道端のささやかな木陰でひっくり返ってボンヤリして

いたら、そこへ私を20人くらいいっぺんにひき殺せそう

な超大型トラックが通り掛かった。

「やあ、どうしたんだ?」

高い高い運転席からひょいと首を伸ばしたのは真っ黒い

短い髭が顔の半分を覆っている赤茶色の肌。

「いやぁ・・オリュンポスに行こうと思ったんだけど、

迷っちゃって」

「登る気かい?」

「うん・・まあ、できたら少しは」

ぶつぶつ言ってる私を、彼はしばらく大きな黒い瞳で見

下ろしていたが、にこりともせず瞳と同じくらい黒い太

い眉を寄せ、赤い眉間にしわを寄せたまま怒鳴った。

「じゃあ、オレが乗せてってやろうか?」

「はあ?」

「こいつで!!」

バンバンっと巨大な車のドアを叩き、呆気にとられてい

る私の前に、彼はポンと飛び降りた。恰幅のいい、若くも

ないが年取ってもない30〜40代くらいの男が全身を現し

た。

(おいおい・・待ってくれよ)

さすがに私は慌てた。

「さあ、乗りなって」

「いや・・その・・結構ですよ」

こっちを無視して進行するハナシにたじろいで、私は後

ずさった。いくらのびてるとはいえ、見知らぬ男のト

ラックなんかに気安く乗れない。しかしすでに逃げ腰の

私に、彼はようやく気付いたように、いきなりこう言っ

た。

「I am a good man!!」

「は?」

「だから、さ」

大きな目をぱちぱちさせて、彼は大真面目な顔のまま続

けた。

「世の中悪い奴がいっぱいいるけど。ギリシャの観光地

はどこもそうさ。ミコノスなんておっかなくてオレだっ

て行きたくないよ。この辺だって泥棒は沢山いるからサ

イフはいつも身につけてなけりゃならないし。だけどオ

レは悪い男じゃないんだ。信じてくれよ。第一オレは結婚

してるし、奥さんをこの世で一番愛してるんだから!!

ほらっ」

眉間にシワを寄せたまま一気にしゃべりまくった彼は、

最後に自分の左手をつきだし、太い薬指にはめられた簡

素なリングを振って見せた。

「オレの家内はヴィーってんだ。見てくれよ。愛車も同じ

名前なんだぜ」

確かにフロントガラスの上には、これでもかっみたいな

ピンクの大文字でVHIと書いてある。それまで呆気に

とられて聞いていた私はここまできてとうとう吹き出し

かけた。

(確かにこりゃGood manかもな)

私の直感もGoサインを出している。

「よしっ」

ようやく敷いていたリュックを引っ担ぎ、私はタイヤだ

けですでに身長ほどもあるトラックの前に立った。

「んじゃ、頼むよ兄さん。近場でいいからさ」

「うん。オレもそう遠くへは案内できないからな」

相変わらず仏頂面のまま彼が答える。助手席に私を押し

上げ運転席に戻った彼に、覚悟の決まった私はさっきか

ら気になってたことを聞いてみた。

「ところで、どれがオリュンポス?」

「どれって?」

「オリュンポスを見に来たのに、山だらけでわかんない

のよ」

「オリュンポスってのは・・」

彼は指さした。

「あれもオリュンポス、これもオリュンポス。あっちのも

オリュンポス。この辺みーんな全部オリュンポスさ」








第31話 世界で一番心の美しい男



「全部?!」

「そう。全部」

意外な展開に、またもや呆気にとられた私だったが、どう

もオリュンポスというのはこの辺の連峰の総称らしいの

だ。

 長年、オリュンポス山という一つの山があると思って

いた私は、実に、ケンブリッジ大学という一つの大学、ス

イス銀行という名の一つの銀行があると信じていた子供

時代と同じ誤りをここでも犯していたわけで、またして

もめでたく無知を修正させていただくことに相成った。

 地元で買ったイラストマップによればその数10。最高

峰がMyticasで2917m。一番手前の低いのはStavrsといっ

て944m。私が連れて行ってもらったのはここで、上には

ギリシャ国旗の翻る山小屋風のカフェもある。ちなみに

麓のリトホロは標高300〜400メートル。村からMyticasの

方へもう少し登るとデュオニュッソスという教会があ

る。反対に村からもう少し下ると、鉄道があり、それを越

えるとエーゲ海のオリュンポス海岸。海岸沿いに少し北

へ行けばディオンという町が広がっている。さらに北へ

行くとギリシャ北東部第一の都市、ヴィザンチン文明の

残り香が漂うテサロニキ。彼、バービス氏の愛妻は今その

テッサロニキに出稼ぎにいってるらしい。

それらを一望に見渡しながら山の中腹で

「すばらしい!!」

を連発していた私は、最初はまだしつこく疑って、いつ飛

び降りてもいいよーにとドアに手をかけ待機しながら

乗っていたのだが、途中からはすっかり景色と彼のほう

へ注意がそれてしまっていた。だいたい高すぎて、飛び降

りるには不都合な座席で、タイヤのすぐ隣は崖だし、降り

た瞬間にもっと恐ろしい所へ飛んでしまいそうだ。その

ガタガタ道を運転しながらバービス氏

「あんた、フィリッピーナ?」

え?いや、ジャパニーズです。ヨーロッパ人から見るとア

ジア人はみな顔が似てて区別がつかないみたいですよ

ね」

「でもオレ、アジアの人はみんな好きだな」

「はぁ」

「オレはね、前のヤツとは離婚しちまったんだ。同じリト

ホロ村の出身だった。でも今の家内はフィリッピーナな

んだ。すごくいい家内だよ。だからフィリッピーナも好

き。アジアの人は純朴でいいよ」

(なるほど)

アジア人が純朴かどうかは別にして、オトナの話を聞い

た私はイミなく納得してしまった。バツイチの彼は前妻

の一人息子を抱えたまま今の奥方と知り合い、つい最近

再婚したばかりらしい。景色と一緒にしみじみしている

と、急に彼が車を止めた。辺りは牧場みたいに開けた明る

い場所で、所々に白や水色の郵便受けみたいな箱がおい

ている。

「あれはミツバチの箱だよ。危ないからあんまり近づい

ちゃダメだ」

そう言いながら彼は、手前の小屋を指さした。

「あそこにオレの親友がいるんだ。ちょっと寄っていこ

う」

ミツバチの箱をそのまま大きくしたような屋台に、ハチ

ミツのビンをいくつも並べて座っている男がいる。

「ハチミツ売ってるんですか」

「そう。ここのハチミツはすごく美味いんだ」

屋台の裏には小さな椅子とテーブルが置いてある。私達

がそこに座ると、唇のひきつれた痩せた男がハチミツと

黄色い粒の一杯つまったビンを持ってきてくれた。男は

だまっている。バービス氏が代わりに説明した。

「ミツと、ローヤルゼリーだ。ローヤルゼリーはすごく高

価だけど・・すごく美味いよ。健康にもいい。特にここのは

最高さ」

「うん、美味しい!ごちそうさまです」

高価な黄色い粒々をスプーンですくって口にはこびなが

らながら、私は、思っていたよりずっと低い、山というよ

りはなだらかな丘のようなオリュンポスの、妙に人間臭

い空気を吸い込んだ。

甘いミツをなめながらバービス氏がバツイチ男のほろ苦

い話をする。彼の親友は後ろで黙ってそれを聞いている。

(ドラマだな)

そういえばオリュンポスの神話だって、神の話というよ

りは人間の話のようじゃないか。

(古今東西、人類皆一緒、か)

なんだか神妙に実感しながら道を見ると、通り掛かりの

客が時々ミツを買いに立ち寄っている。するとそのたび

に親友氏はひきつれた唇に静かな笑みを浮かべて、だ

まってお客の相手をした。静かに、自然に、まるでこの風

景の一部のように。

「彼はね」

とバービス氏は、車に戻ってから、寡黙に座っていた親友

のことを話した。

「口もとに病気があって・・あんな顔になってるけど・・で

も心は世界で一番美しい男なんだ」

そうかもしれない。何も言わない彼はきっといろんなこ

とを知っているんだろう。そしてだまって甘いミツを差

し出してくれるのだ。

バツイチの彼にも。見知らぬ私にも。たぶん、このなだら

かなオリュンポスの恵みのように。





第32話 ハーデス神殿の守り人




山を降り、何度もすすめるバービス氏の自宅に、とうとう

案内されると、彼の一人息子が待っていた。これがゼウス

神がその美貌に目がくらみ、さらったというガニュメデ

スのような美少年。

さて、バービス氏のご趣味は家族アルバム。次から次へと

それが部屋の奥から出てくるわ出てくるわ。山と積み上

げたその1枚1枚を解説してくれるそのために、私を自宅

に呼んでくれたのだ。

以前は船員で、日本にも行ったことがあるという彼の写

真には、確かに神戸の港で撮ったものもある。船員服の美

青年に、「これ、お友達ですか」と聞いたらなんと昔のご本

人だった。前妻の写真もあった。なかなかの美女だ。

(これじゃ息子は美少年だな)

下世話なことを呑気に考えていたら、彼女の写真を指さ

してバービス氏がつぶやいた。

「一生愛してるって言ったのに・・嘘だったんだ。彼女はオ

レをだました。嘘をついたんだ」

氏の顔を、私は見なかった。ただ、口調がとても激しかっ

たことを、覚えている。

この5月に撮ったという結婚写真も見せてくれた。華や

かでささやかな、野に咲く花のような挙式。・・・・アルバム

は尽きない。

国道のバス停への連絡バスは、村のインフォメーション

で聞いたところ、当分来ないらしかった。しかしアテネに

向かう国道のバスは2時間に1本ぐらい通っていて、も

うじき時刻らしい。ヨーロッパ間の長距離トラックを運

転しているバービス氏の、「これから2週間、フランスへ

荷物を運びに行くんだけど、一緒に行かないか?家内も

帰ってくるから4人で行こう。座席の後ろはベッドに

なってるし、そこで寝れるから」という無謀な誘いをよう

やく辞退して、私は国道に降りることにした。彼は何度も

手紙をくれるよう念を押した後、私を国道まで送ってく

れた。

「ウチに泊まっていけばいいのに。そしたらもっとアルバ

ムが見れるのに」

リゾートで泊まるには・・ラリサよりだんぜん良い。でな

ければ、途中バスが寄った小さな海水浴場村も悪くない

と思う。浮輪やゴムボートなんか売ってるその小さな村

は、あとは食べ物屋とホテルだけという実にシンプルな

リゾート地だったが、静かで美しい場所だった。アテネか

らここへ来るまで、こんな海岸線をずっと通ってくる。前

に一緒に乗り合わせた彼女もこういう所に遊びに来てい

たのだった。

しかし、私は明後日にはエジプトに飛ぶ身だ。ゼウス神が

その雷鳴の槍で落としたという奇石群メテオラも回りた

かったが、体力と時間の関係上あきらめてアテネに帰る

ことにした。バービス氏に感謝と別れを告げ、今夜はラリ

サへ。

さて翌朝、オーボエ吹きのおじさんが芸を披露してくれ

ていたラリサのターミナルからアテネに向かった私は、

さらにその翌日、エジプトに発つ前、メテオラをあきらめ

た代わりに黄泉の神にしてゼウス神の長兄ハーデス神の

聖域に行ってみることにした。そこは、大地の女神デメテ

ルやその娘ペルセポネの神話にも名高いエレフシス。

エレフシスは、人間が大地の女神から初めて麦を授かっ

たといういわくつきの聖域だ。アテネの考古学博物館に

は、その図を刻んだ岩が保存されている。麦、つまり農耕、

そしてパン。生きるための糧が生まれた地は、死の国ハー

デスの館への入り口でもある。生と死が同じ場所にある

なんて、実に詩的で哲学してるじゃないか。

エレフシス行きのバスの番号や乗り場は、アテネの観光

局で配布している時刻表に載っている。20〜30分に1本く

らいはあるからあまり心配はない。でも、バスを降りてみ

ると遺跡なんてカゲもカタチも見えないから、やっぱり

路上で道を聞き聞き歩かなければならなかった。公園を

抜けながらそこのキオスクで

「ハーデスの聖域がこの辺に・・」

なんて言い出したら

「そんなものは知らない」

と返ってきたので、すかさず

「像とか博物館とかある遺跡で・・」

と付け足したら

「さあ」

と首を傾げてしまった。でも、何か見るものはあるとい

う。行ってみるとそれが目指す聖域だった。マイナーなだ

けあって保存状態が良いとはいえず、あまり見事にブチ

壊れているので、ハーデスに誘拐された娘を捜してさ

迷ったあげく疲れ果てたデメテルが休んだ井戸なんてど

こにあるのか発見できなかった。

仕方なく、手掛かりを求めて付属の博物館に入ると、売っ

てる説明書はギリシャ語Only。

(まいったな・・)

困りながらも並んでいる白い像に目を奪われていると、

急に後ろから声がした。

「その像はね、本物じゃないんだ。本物はアテネの考古学

博物館にある。・・・そっちのは、大英博物館に持ってかれ

ちゃったし・・・・」

振り向くと小柄な老人が白いワイシャツ姿で立ってい

る。

「アテネの?ああ、そういえば見ましたよ」

なんとなく応えた私に、彼は嬉しそうに笑った。

「キミ、英語の他はなにがいい?ギリシャ語?フランス

語?ドイツ語?」

「なんにもできませんよ。英語だって園児レベルだし」

「なんだ」

とたんにがっかりした彼は、6カ国後が操れるとゆーこの

博物館の館長さんだった。

「でも、こういう遺跡の発掘物に興味あるんだろ?」

「もちろん。ギリシャ神話にも。できたら遺跡の復元図と

か欲しいし・・でも・・農耕関係の出土品ってないんです

か?」

残念ながらここには農業に関するものはなかった。でも、

ここにあったのは、ガラスケースの真っ白な復元模型。古

代ギリシャ時代の簡素なものとローマ時代の豪華なもの

と。それから人骨。衣服の破片。石像は、トルコのエフェス

で見たのとそっくりな長髪美青年のバッコス、美女のカ

リクラテス等。バッコス像でよく造られるのは老人バー

ジョンと美青年バージョンの2種類あるが、ここのも若い

ほうだった。カリクラテスは複製品。ハーデス像や地獄の

番犬ケルベロスなんてあったらいいなと思っていたが、

残念ながらここにはないらしい。ハーデスもヒゲのオヤ

ジ像と美しい青年像の2種あるらしいのだが、写真でしか

見たことがないし・・いつかぜひ本物の青年像を拝んでみ

たいとは思っているのだが。

たまに来る客がもの珍しいとみえて、館長、像の一つ一つ

をじっくり説明してくれた。彼がこの聖域の守り人なん

だろう。

「まあ、まだもう少しいいじゃないか」

とひきとめる彼に丁寧に別れを告げて、私も名残惜し

かったけれど、そこを出た。なにしろ今夜はエジプトだ。

なのに、これからアテネに帰るバス停さえわかってない。

フライトは午後7時。今は・・午後4時ぐらいか?さて?










第33話 大都会のピラミッド



アテネに帰るバス停は、降りたところからやや離れてい

たが、聞きながら歩けば行けないことはなかった。どうも

通勤ラッシュらしいバスに詰め込まれようやくアテネに

戻った私は、ホテルに預けた荷物を拾い、空港へ直行。

(ギリギリかぁ)

と思いきや、いつまでたっても飛行機が来ない。入った放

送では、折り返すはずのカイロからの到着便が遅れて、出

発はいつになるのかわからないらしかった。その辺に散

らばった客は呑気に食事したりしてるし、私もしばらく

は待ち合い室をブラブラしていたが、そのうち不意に心

配になった。

(カイロのホテルは日本から予約しておいたけど、これ

以上遅れて深夜にチェックインなんてことになると・・ど

うなるんだろう?)

何もそんなことを今ここでわざわざ心配しなくともよさ

そうなものだが、一度気になると、もう止まらない。私は

うろたえながら一刻も早くテイクオフできることを願っ

たが、何時間待っても一向に出発の気配はなかった。その

間中イライラしながらも、向かいのイスに座っているア

ラブの格好をした女性の子供が日本のマンガ入り靴をは

いているのがどうにも気になったりしていたが、ようや

く待ち合い列が動き出した頃には、不安は頂点に達して

いた。

(深夜のカイロにほうり出されたらいったいどーすんだ

ろう)

しかし、乗ってしまえば2時間弱。あっと言う間に現れた

その都市は、私の想像を遥かに越えていて、その瞬間ケロ

リと心配を忘れた私は、べったり窓に張りついていた。

大きい・・。広い・・。きらめく光・・。あたかもロサンゼルス

のような整然とした橙色の明かりが碁盤の目のように正

確に広がり、それがどこまでもどこまでも延々と続く。都

市が見えたら間もなく着陸の日本と違って、飛行機で飛

んでいるというのに都市に入ってから空港までの距離

が・・都市上空の飛行時間が・・なんて長いんだ!そして

所々にくっきりした正方形が真っ黒い穴のように切り抜

かれているかと思えば、それが、あちこちにポツンポツ

ンと置かれたピラミッドの列なのだった。

(こんな大都会のど真ん中に・・これじゃあ、月の砂漠に孤

独にそびえて・・ってわけにはいかないな)

ただでさえ貧困なイメージをいきなり粉々にブチ壊され

て、私はガラスにはりついたまま、ただもう呆然と見下ろ

していた。古代の墓標というよりはむしろライトアップ

された現代アートか、超近代建造物と化しているそれら

は、整備された仰々しい見世物に近い印象がある。そこ

に、現代エジプシャンのすさまじい生命力を見た気がし

て、私はこれから降りるその場所がなんだかそら恐ろし

くなった。

空港に降りて、またしても人の波にぞろぞろとついて行

くと、いくつもの銀行が窓口を並べている場所がある。ト

ラベラーズチエックの大元トーマスクックの窓口もあ

る。そこで、$10の印紙を買って入国カードに張りつけ必

要事項を書き、皆がそうしているように、すぐ右隣の行

列に並べばそこが入国審査、兼ビザの申請受け取り所

だった。パスポートとカードを窓口に出すだけで、別に何

を聞かれるわけでもなく通り抜け。日本で旅行代理店を

通して申請しようものなら1万円はかかるビザも、こう

すればたったの千円で、あっというまだ。

 やけに儲けた気分で調子よく外に出た私はハタと我に

かえった。

(ところで、これからどうやって町に出るんだっけ?・・

それにホテルの予約は一体・・?!)

深夜のエジプトで、間抜けたことを考えながらぼんやり

していたら、一台のタクシーを捕まえて何やら交渉して

いる、青いリュックを背負った学生風の青年が目に入っ

た。レトロな洋画、それも少年時代の思い出ネタなんかに

登場しそうな、生真面目な風貌。黒ぶちの眼鏡。

(やはりここは、彼と相乗りしかあるまい)

突然そう直感した私は、急いで二人の間に飛び込み、

「市内へ行くんですか?」


と聞いてみた。







第34話 エジプシャン・イングリッシュ
          のヒアリング法




 飛行機が遅れまくったせいで8時には着くはずが結局

タクシーに乗った頃には12時を回っている。深夜12時・・。

日付が変わってしまった。いくら悠長なエジプト人でも

そういう予約はアリなんだろーか。しかし1泊2万円×

3も払っておきながらこんな時間に追い出されたんじゃ

割にあわない。というわけで、私はフロントのにーちゃん

と決闘する覚悟を決めたが、しかしそんな意気込みも相

乗りしたイタリア人学生とエジプト人運転手の英会話を

聞いてるうちにはかなくも消失してしまうのだった。 

第一、この二人が英語で意志の疎通をはかっているのだ

と気がつくまでに数分かかってしまった。タクシーの運

ちゃんはインテリが多いのでハイソな会話を心掛けねば

ならないと某ガイドブックに載っていたのだが、とても

そんな高度な忠告に従うどころではない。それでもまだ、

イタリアンの英語というのはかなり日本人の習う英語に

近いものがあって、乗ってるうちに彼の言ってることは

半分くらいは聞き取れるようになった。しかし問題はこ

れから闘うエジプト人のほうだ。40分の車中で私に理解

できたのはラムセスヒルトンは大変expensiveなホテルで

一泊するのに$160はかかるという話とやたら運転手が右

腕をグルグル回しながらビボーッビボーッと発する音が

実はpepleだったということだけである。たまに話しかけ

られてもしどろもどろの私に、助手席に陣取った、存外

はしゃいでしゃべりまくる二十歳ぐらいのこのイタリア

人が通訳してくれていたが(どういうわけか彼の英語なら

私にもわかるのだ)彼のほうはときたまI dont understand

を連発していたとはいえ、運転手の言葉を半分くらいは

理解していたようである。半分もわかる・・。それだけで私

は畏敬のまなざしで彼を見上げていたのだったが、いざ

自分のことを考えると己の要求を押し通すために口論す

るなんて高等技はあきらめるよりほかない気がした。

 もっとも行ってみるとホテルはカジノで昼以上に賑

わっており、外資系のせいかフロントのお兄さんは大変

流暢でトラディッショナルな英語の使い手で、予約が勝

手に取り消されるという不幸もおきず、あんなに気合を

入れてきたというのに私は何の苦労もなくあっさり部屋

のキーを渡されたのだった。まったく・・起きる前の事故

をいくら心配しても役に立たないばかりか疲れるぶんだ

け損をするということが、こういう時には特にしみじみ

感じられる。

 さてビボーッがpepleだと気付いたのは以前エジプトで

はpの発音がないためpはbになってしまうという話を

きいたことがあったのを思い出したせいだが、なるほど

確かにピラミッドはベラミドになっている。そして私は

この後もういくつかの法則を学ぶのだが、そのくらいわ

かっていれば、どうにかタクシー雇って観光くらいはし

てこれるようである。

 翌日私はベラミドを後回しにして、自分の所用を果た

すために農業博物館をさがして10月6日橋の上にさまよ

い出たが、そこでくたびれた白いワイシャツにもう30年

は使い込んでるかと思われるアタッシュケースらしきも

のを抱えたエジプト人のおっさんと出くわした。

 スポルク・アングイッシュ?

唐突に彼は後ろから私にそう言って話しかけて来たのだ

が、さすがにこれはトロい私にも、Do you speak English?

だとわかる。rまたはその発音に近いものをはっきりル

と言ってしまうのはトルコでもそうだったが、加えてこ

こでは主語と疑問詞を省略して動詞、(この場合は多分、

spokeかspokenで過去形か完了形)に兼用させ、しかもen

はフランス式にアンと発音するようである。

 そういえば話は前後するが、ホテルの廊下で会ったメ

イドさんがゴー・フラン?ゴー・フラン?と言うからフラ

ンスへ行けとでも言われてるのかと思って(状況をわきま

えんおかしな女だな〜)と思いつつも(自分が聞き間違っ

てると思わないあたり私も相当な高慢だ)とりあえず

NOと言ったら、妙に嬉しそうな顔をしてアローン、ア

ローンと繰り返すからそこでようやく謎がとけた。フラ

ンとはつまり、friendのことで、with friendsとかの意味にな

り、ゴーはgoだがこの場合Did you come to EgyptかWill you

go・・にでもあたるのだろう。よーするに、友達と一緒じゃ

ないのかと聞かれてたのだった。でもこの時だって結果

的に会話は正しく成立しており、お互い意志の疎通が図

れたのだからやっぱり会話とは文法の解読ではなくイン

スピレーションの世界なのかもしれない。

 さて、30年物のアタッシュケースとワイシャツのおっ

さんはモーレツなワキガの匂いを発散させていたし、そ

の直前に出くわした「アナタを助けてあげたい。ワタシ

は日本人大好き」人間にもうんざりしていたから(こいつ

はホテルを出たところで近づいて来たオヤジで、聞かれ

てもいないのに、考古学博物館に行くなら午前中は団体

客専用で個人のツーリストは入れないようになっている

からなどととんでもないことを教えたあげく、アナタは

時間が余っているはずだからなどと勝手に決め込んで私

を自分の経営するパピルス屋に連れ込もうとした奴だが)

丁重にお断りして道中の馴れ合いを避けようとしたの

だったが、当然そうは甘くない。私達は

「きみ、英語は話せるの?」

「残念ですがアラビア人の英語は発音が難しくて私には

よくわかりません」

「そう。きみはアラビア語がわからないの」

「いや、そーじゃなくって、英語の発音が・・」

「そう。英語もよくわからないんだ」

というちぐはぐな、しかし真理は合っているというブキ

ミな会話を交わしたあと1時間半も目的地を探して一緒

に真夏のカイロをさまようハメになるのだ。






第35話 誰も知らない博物館へ行く方法

Agricaltual Muzium.


私が行きたかったのはそこだ。しかし、いかんせん私が

知っていたのはそれが10月6日橋のたもとにあるという

ことだけで、たもとのどの辺りなのかまでは、さっぱり

だった。でも私はどうせ行けば見えるんだろーとすっか

りナメた態度で歩きだし、そこが名にしおう世界の大河

ナイルの河口にかけられた橋だということすっかり忘れ

ていた。

 とにかく長い。どこまで行ってもまだ続く。やっと対岸

が見えてきたと思ったらその先にもまだ河があり、橋も

続いているのだった。つまり途中に横たわる巨大な中洲

に都市ができており、途中いくつもいくつも橋の昇降が

あって、果たして橋のたもとというコトバの意味がどの

程度のことをさしているのかだんだんわからなくなって

くる。しかも、途中には銃をかまえた兵隊さんたちがある

間隔で立ったままじっと睨んでいるし、橋で写真を撮る

とこの人達にフイルムを没収されるという話だったか

ら、私はそんな物騒な所から早く地上に降りたくて仕方

なかった。

 見知らぬおっさんに出会ったのはちょうどそんな時

だ。彼がAgricaltual Muzuiumを知っているというから、思

いっきりうさん臭いと思いつつも私は道案内を頼むこと

にした。なにしろブロークンとはいえ、アラビア語と英語

を通訳してくれるという価値は大きい。私達はテキトー

な所で橋を降り(これが本当にテキトーだったことが後で

わかるのだが)おっさんが「この辺で道を聞いてみるか

ら」という所を歩きだした。道行くアラビアン達は尋ね

られると「ああ、そこなら・・」というそぶりでいろいろ

と教えてくれているようだったので、私はそのうち目指

す建物が、目の前にどーんと出て来るのだろうと安心し

たのだが。が、これがいつまでたっても出ない。私はすっ

かりくたびれていたので「まだか、この辺のどのあたりな

のか」とおっさんを見上げてみた。「うん、ちょっと聞いて

みるから」とおっさん。つまり本当のところ誰もそんな

博物館など知らないのだった。しかも彼らはMuzuiumは

知っていてもAgricaltualという単語は知らないらしく勝手

にいろんなMuzuiumとまちがえてそこを教えてくれるの

で、着いてみると

Sivilian Muzuiumだったりする。しかしそんな時でもおっ

さんは途中で水屋から水を買い飲みしながら(道端に人が

入れそうな大きなカメを置いて水を売っている。金を払

うとコップ1杯の水をくれる。私はこんな所でハライタ

を起こす余裕がなかったので、試してみることはできな

かったが)倦まずたゆまず歩き続けるのだった。その間、私

は道程中盤からわざと遅れてさりげなく小路に入り、

おっさんとはぐれようとムダな努力をしていたのだが、

(するとそこは小学校だったりして、子供達に囲まれて

写真を撮ってくれとせがまれたりするのだ。ノリはテレ

ビの画面にアピールするひと昔前の小学生のカンジでな

かなか楽しい)おっさんはちゃんと戻ってきては根気よ

く私を探してくれるので結局何分か後にはまた私達は並

んで歩くハメになった。

 これではいかん。さすがにそう思ったのはさまよい出

してから1時間半もたってからだから、私も相当トロい

と言わねばなるまい。しかし、思い立ったらすぐ実行の

私は相乗りタクシーをつかまえて、とりあえずホテルに

戻ることにした。そう、やっぱり問題はコトバだ。ヘタな

日本人の英語がわかってもらえる所・・とりあえずそこに

戻るしかない。








第36話 様々な困難を乗り越えて
     ピラミッドにたどり着く方法



 自分の泊まっているホテルまでようやく帰りついた私

は、そこで、コイツはプロレスラーか?みたいな黒々とし

た巨大なドアマンのオッサンに、恐る恐る農業博物館を

聞いてみた。すると彼はちょっと驚いたような顔をして

いたが、その体に似合わない妙にマイルドな口調で

「へぇ、農業なんかに興味があるの。珍しい人だね」

そのとたん私は、見知らぬ土地でようやく旧友に巡り会


えたような錯覚を起こし、あやうく手を取り合って喜ん

でしまうところだった。

(ここへ来てはじめて農業という単語をわかってくれる

人に出会った・・)

それだけで一気にキボウがわいたのだが、その彼は、目的

地の電話番号がわかっていると聞くと

「じゃあ、自分で電話してみたらいいじゃないの」

とニベもない。

(んなことができるなら、初めっからそうしてるわ)

内心ドクづきつつも、しどろもどろに事情を説明すると、

しかし巨大なドアマン氏は、ちょうどそこに駐車してい

たリムジンの運ちゃんと話し合った末、位置を確認する

ために私の代わりに博物館に電話してくれた。

「彼が連れて行ってくれるそうだよ」

運ちゃんを見ながら、ドアマン氏が言う。

(やった・・)

これでようやくたどりつける。すっかり肩の荷がおりた

ように有頂天になって、私はそのリムジンに乗り込ん

だ。

 10月6日橋をそのまま迷わず途中下車せず、どこまでも

直進し、ほんとに渡切ったそのたもとに、スキやクワのレ

リーフをつけたクリーム色の大きな壁が見える。ヨー

ロッパ調のその大きな建物が、目指す農業博物館だった。 

ところがようやくたどり着いたというのに、閉まってい

る。入り口のイスに掛けている人におずおず聞いてみる



「今日から1カ月休館だよ」

(そんなんアリかよ?!大使館だって観光局だってんなこ

と言ってなかったじゃないか!!)

しかし何度聞いても答えは同じだった。

(こんなトコまで来ておいて・・)

落胆のあまり前後不覚になりながらも悔しまぎれに建物

の写真だけ撮ってすごすごと引き返した私は、そこに待

たせてあったさっきのタクシーに戻り、半ばヤケのよう

に言った。

「ピラミッドに・・行けます?」

もう、こうなったら観光するしかない。カイロに来たらギ

ザのピラミッド。バカのひとつおぼえのようなこの文句

を繰り返し、私は彼に聞いてみた。

「行けるよ。1日で回れるよ。市内観光だって連れてってや

るよ」

「半日回っていくらくらい?」

「そうだねえ・・これくらいでどう?」

そう言った彼の値は、日本のタクシーに比べたらタダみ

たいな額だった。

「そんじゃ、明日8時に。ホテルの前で待ってますから」

「じゃあ、迎えに行くよ。ところで名前は?」

私が名乗ると、彼はほとんどカンドーしたように言った。

「いやぁ、奇遇だねえ。オレと同じ名前だよ。オレ、シ

ミーって言うんだ。キミとは縁があるね」

ところで、私の名はシノという。シノとシミー。

(だいぶ違う)

一瞬思ったが、とりあえずここは思うだけにして、我々は

「いやぁ、同じ名前だ、良かったね」

を連発しながら感激の握手を繰り返し、いったんその日

は別れた。

さて、翌朝、約束通りシミーがグレーのリムジンに乗った

ままホテルの前で待っていた。リムジンといっても、王侯

貴族が乗り回すような観音開きの大仰なモンじゃない。

タクシーよりも一回り、サイズと料金が大きめだが、値段

自体もたいしたことはない。正確には忘れてしまったが、

確か、半日借り切って3千円くらいだったか。とにかく他

の交通機関に比べて格段に安全だし楽なので、女の子一

人で観光するなら、よほど差し迫った経済事情でもない

限り、リムジンを一日借り切るのがいいと思う。

そんなわけでシミーと一緒に走り出した私だったが、も

とが観光目的ではなかったので、エジプトまで来ちゃっ

たよ記念の見物はさっさと切り上げて、考古学博物館で

もゆっくり回ろうという気になっていた。本来ピラミッ

ドよりは、そっちを優先すべきだったが、どうせ、たいし

た距離じゃないのだ。

(1〜2時間もあれば終わるだろうし)

思ってるうちにもう停車。シミーが、さあ降りようと言

う。

ところがそこは、ピラミッドの入り口ではなくパピルス

屋の入り口だった。