眠い…眠すぎる…

でも…殉が…
でも…今なら…

少し…だけなら…


「…寝すぎた?!…オレが…!?」

目覚めたら、超過してた、
2時間も。

スツールに置いてたクリスタルガラスの置時計を掴んで、思わずソファから飛び起きた。ここに転がったのが約3時間前。やっぱり、目覚ましかけとくべきだった。でも使ったことねえ、そんなもん。そもそも生まれて初めてだ。このオレが、決めた時間を寝過ごすなんて……

角のカウチソファーを飛び出し、中央リビングに設置したベッドまで、恐る恐る戻って覗いたら…やっぱり…酷いことになっていた。さっきまで少しは落ち着いて眠ってたのに…クスリが切れたら…このザマかよ…。

真っ青な顔で、嫌な汗いっぱい浮かべて、呻いてる。息遣いが酷く荒い…

誰か…医者ども呼ぶか…?いや大丈夫だ…まだ…
指にはめさせたコードからモニタにつないだ、バイタルチェックの数値は…正常じゃあねえが…危機的でもねえ。

「…殉…?」

声をかけたら、苦しそうに半分くらい瞳を開いて、こっちを見上げた。

「…起きた…のか?…にいさん…もっと…寝てても良かった…のに…」
「そりゃあ丸々こっちのセリフだぜ。ったく…おめえは…なんで起こさねえんだ、オレを」
「…疲れてると…思って…わたしより…」
「重症患者に心配されるほど疲れてねえよ。とりあえず…あんまし呼吸、はぁはぁすんな。酸欠になる」
「…すまない…でも…息…詰めてるほうが…辛い…」
「だからそういう時は…オレにすぐ言えつってるだろうが。だいたいオレに謝るこっちゃねえだろ。ったく仕方ねえ奴だな、辛えだろうが…ちょっと待ってろ、今、すぐ…」

医者どもに渡された、筋注も靜注もできるこの麻薬を打てば、こいつの歳なら眠ってしまう。また…

そう思って包帯の間に見える腕の素肌をアルコールで拭いて、針刺そうとしたら、

「…いい…。もう少し…このままで…大丈夫、だから…」

珍しく拒否った。

「…なんでだ?…楽になるぜ?そのほうが…いいだろ?」
「…暗くて…何も…わからなくなる…また…。せっかく、あなたと…一緒に…いられるのに…」

だから嫌だと、言った。

同じ空間、
同じ時間に
…一緒にいたい…。
せめて一分一秒でも
同じ空気を共有していたい、
感じていたい。
生まれてからずっと、
ほとんど…そんなことが、
なかったから。
これからも
無いだろうから…
たぶん。


それは…
オレだって、そうだ。
でも…

お前が…
そんなに苦しそうで。辛そうなのを、
ただじっと見てるだけのオレも、同じくらい辛い。

どうすれば、いいんだろうなオレは…と思った。

殉が、はぁはぁ言って呻いてる。
ものすごくこらえちゃいるがホントは転がりまわりてえほど痛むのも知ってる。
骨の痛みにゃ痛み止めも、あんまり効かねえ。
肋骨やられてるから息も苦しいはずだ、ただでさえ。
いっそ大声で叫んでのたうちまわったほうが気持ち楽んなるかもしれねえが…
自分じゃ腕一本も動かせねえ、
声もあんまり大きくは上げられねえ。
それも…
酷く辛えだろう。

だから…
眠らせとくしかねえのに。

…それでも意識を失いたくないなんて…

このオレを眺めていたいなんて。

オレには…
そんなご大層な価値ねえよ。
お前が思うほど、
オレには…
何も…ねえんだよ、殉。

殉の瞳がわずかに開いて、ぼんやり朦朧とした色で、オレを見つめた。
ホントはとても澄んだ瞳だ。
でも今は熱や痛みで曇ってる。
雲に隠れた月みたいに。
小さくかすれた声で懸命に、
いったい何を言い出すんだろう。

オレにはいつも、
お前の望みがわからない。
望みの意味がわからない。


「にいさん…何か…話して…くれないか…」
「なんだよ、日本昔話か?それとも子守唄でも歌ってやるか?」
「…それで…いい」
「どっちだ。子守唄か?」
「どちらでも…あなたの声が…聴ければいい…」


仕方ねえから…

……歌ってやった。

こいつにかけた、軽くて薄い夏用の羽根布団の上から、
そっと身体を撫でながら。

少し、
楽んなったみたいだった。
息遣いが、穏やかになってる。

なんでだろうな。
科学的にゃわかんねえ。
オレの声なんて…
クスリの足しにもなりゃしねえ、と思うのに。

「もう少し、…我慢できるか?」

そう聞いたら。
かすかだが…
すぐ頷いた。

けど…
懸命にオレを見上げてくるのは…
疲れすぎて何だかよくわかんなくなっちまってる
霞んだ瞳…。

「汗、拭いてやるか?」

とまどってるみてえな、遠慮がちな頬が、小さく頷いた。

「他は?」
「…水…が…」
「欲しいのか?」

やっぱり小さく頷いた。

オレが訊けば…
欲しいものを答える。
ある程度は、要求できる。

たいした進歩で、上出来だ。
前はオレが言うまで…いや催促してさえも…
何も言わなかった。
黙って歯食いしばってるか…
それもできずに独りで苦鳴漏らすか…

だからそれだけでも、オレにはえらくありがてえ。
なんでこのオレに、そこまで遠慮してんのか
よくわかんねえから、
今でも…。

硬く絞った冷たいタオルを、
不自然に白い額や頬、唇、肩の包帯の間から見える肌に、
そっと何度も圧しあてた。
小さな唇は開きっぱなしでカサカサに渇いたまま…
呼吸がずっと不安定だ。
時々こらえきれねえ声が、
やっぱり小さい悲鳴みてえに漏れている。
肌は青ざめて
高熱なのに冷や汗出てる。

このまま…死んじまうんじゃねえかって
何度も何度も不安になった。
首筋の大動脈んとこにタオルあてたら、
びくっと肩が震えてる。

悪い、
冷たすぎたか?

とっさに温めようと
手を置いた。
殉が、また瞳を開いて、
こっちを見上げた。

「どうした?」
「……」

やっぱり黙ってる。
でも、

できればそのまま…触れてて欲しい…。

そう言ったのが、
なんでか知らねえが…
聞こえた気がした。

なんでだろう?

けど、命の拍動が、指先から伝わると
確かに、生きてそこに居るって、感じる…。
オレにも…多分…お前にも…。
ちっとだけだが…ほっとする…。
触れた肌から直に、お前が伝わってくるようで…

とても、
お前に近い気がして。

…もしかして…お前も…そうなのか?

「…じゃあ……起こしてやるか?…少しだけ…」

また瞳が開いた。
今度は、何だか…
嬉しそうだった。

あァ…オレ、少しだけわかってきたぜ?
…お前が言葉にしなくとも…。
意味はわかんねえが…
気持ちは何となくわかってきた。

そう思ったら、
オレもなんだか嬉しくなった…。

「いいか?起こすからな…?」

肩抱いたら、吐息みたいに頷いて、
無理に応えようとして、痛みをこらえる声が零れた。
今はしゃべんなくていいのに…辛えだろうし…。返事なんていちいち必要ねえのに…。
そんなつもりで言ったんじゃねえ。

背中ごと、頭も抱いて、
ゆっくり起こす。
上体は、でもぐったりしてて、
オレの腕に全部、預けたままだ。
こんな重篤な奴、起こしていいんだろうか…
と思うが。
でも殉は、そうして欲しがってる。
決して口には出さねえが。
強く望むことほど、
こいつは絶対に要求しねえ、
言葉にもしねえ。

ベッドに深く腰かけて
半分くれえオレも中に一緒に入って、
起こした上半身を、
オレの胸にそっともたれさせた。

殉は、短く息を吐いて、
しばらく俯いていたが。
…それから耳を、

オレの左胸にくっつけた。

やっぱり…
またオレの心音を聴いている。

「何が聞こえる?」

って訊いてやったら、
ちょっと照れたみたいに笑って。
でも何も答えなかった。

たぶん…
遠い昔…
互いの心音を聴いてたはずだ、オレたちは……

その記憶がどっかに残ってて…
安心してるのかもしれねえな…
とも思った。

ひどく苦しそうなのに…
なぜか穏やかで優しい表情。

むき出しの包帯だらけの背と肩を、
片手で抱いて。
オレとは違う、
ほとんど腰に届きそうな長い黒髪を…
あっちこっち飛び散ってバラけちまったそれを
指でくしけずり、
そっとまとめて背に流した。
頬や額にかかった乱れた長い前髪も、
指で梳いてかきあげて、
顔が見えるようにした。

すげえ傷痕…

そう思ったら
胸がズキンと痛くなった。
何でだろう…。
オレの傷じゃあねえのに。
…オレの傷より…痛ぇ…。

でも…
傷さえなけりゃ同じ顔、
って他人にゃいつも言われるが、

…そんなことねえ。
お前のほうが…
ずっと優しい…
…オレよりも。

お前は自分を、オレの影だと言うが。
影っていうより…
月みてえだ。
暗い夜を照らす
美しい月の光。

でも殉、知ってるか?…
月影って…
月の光のことを、言うんだぜ?

「影」は、
光の意味なんだよ。
ほんとうは…

だから、オレたち、
ほんとは同じ「光」なんだぜ?

そう言ってやりてえのに。
いつもオレは…ヒネた口しかきけなくて。

ごめんな…。

でもこんな時くらいは…
赦される気がした。
オレたちがこんなに近くて…
暖かい時間があることも…。

「にいさん…」
「なんだよ」
「水、が…」
「欲しいのか?今すぐ?」

腕の中で頷いた。

水、…飲ませて…欲しい…
さっきからずっと…唇、舌、喉の奥が乾いて辛い。
干からびたように…とても痛い。

そう言ってるのが、
やっぱり聞こえた…と思った。

「すまない…迷惑ばかり…かけて…。あなたが…嫌で…なければ…」

嫌じゃねえよ。
迷惑でもねえ。
けど…

だんだんオレはわかってきてんのに…
おめえはやっぱりわかんねえのか?
オレの気持ち

そう思うと…少し寂しかった。

どうしたら…わかってもらえんだよ
オレのこと…?

枕元に置きっぱなしの、
青で縁取りされたカットガラスの水差しと
クリスタルグラスに、
ちょっと考えた。
このまま飲ませてもいいんだが…

…片手でグラスに注いだ水を
自分の口に含んで。
胸にもたれさせた顔を上向かせ、
唇を、
重ねてみた。

抵抗は、まったくなかった。
一瞬、驚いた顔したが、何も言わなかった。
嫌がりもしなかった。

こくん、と喉が鳴る。

カラカラになっていた粘膜が少しだけ和らいだのが、わかる。

もう一度、唇を重ねると、もっと飲みたくて、足りなくて、といってるように。
赤ん坊みたいにオレの唾液までも吸ってきた。

ああ、なんか…キスねだられてるみてえ。

と思ったけど。
なぜかそんな感じも全然しなくて。
とても不思議な感覚…
何だろうな…これは…

そうやってしばらく唇を合わせてたら…
殉は、長いこと止まらなかった酷い乾きが、
やっと落ち着いたようだった。

なんだか…
遠い昔の記憶みたいだった。
まだ、ひとつの袋に
一緒に入っていた頃…。
いやそれよりむしろもっと前、
まだ一つの小さな同じ細胞だった頃のような…
ゆらゆら揺蕩う、
不思議に甘い安堵。

オレも…一緒に、安らいでる。

こんな感覚、お前とだけだな。

って言ったら。

殉が、ちょっと笑った。
なんだかすごく嬉しそうに…

殉もきっと同じように感じてるんだと思ったら、やっぱり…
嬉しかった。
不思議な喜び。
こんな感情、オレにもあったのかって
…オレ自身が一番、意外だ。
オレの中の、オレも知らない引出しが、
一つ一つ、開いていくような…。
おまえと一緒に居ると…。

だから…

ずっとずっと、
こうしていたい。
おまえと…できるなら。

でも、

…時間がきちまう。
お前とオレの間には、いつも…。
冷たくて暗い巨大なカーテンに仕切られちまうみてえな…
…どうしても飛び越えられねえ深い溝みたいに横たわる…
タイムアウトの時間。

殉の身体が痙攣したみたいに短く喘いで。
胸に抱いた頭が、
苦し紛れに撥ねて滑り落ちた。

「にい…さん…」
「クスリ、打つか?」

殉が、今度は、頷いた。
ほんとは嫌なのに。
もうこれ以上は、こらえきれねえって顔で…。

短い間しか…一緒にいられねえんだな、
オレたち…今生では…。
って、なぜか思った。
さっき置いといた針のキャップ外して、
わずかでも遅れればいいと願って
足から靜注した。

意識が完全になくなるまで、
ずっと、
殉はオレを見てた。

最後は何だか…
とても寂しそうだった。

「また、逢えるじゃねえか目覚ましたら…。そんな顔すんじゃねえ」

そう言ったら、
こくんと頷いた。

その頬に手を、
そっと包むみてえに、あててやった。
殉は…
なんだかほっとした顔で、オレの手の中に頬を落として…
顔を半分だけうずめた。
摺り寄せるみてえに…。
ああ、こいつも不安なんだなって…わかった。
伝わってくるようだった。
その感触と、息遣いと、体温から。

「大丈夫だ。心配すんじゃねえよ。必ずまた会える。少し眠るだけだ…必ずまた目、覚めるから…このまま別れたりは絶対しねえ。オレもずっとここにいる」

また…
こくんと頷いた。
オレの手の中で。

「ずっとそばについててやる、だから…一緒だ、今も…お前が眠ってる間も…」

また、頷いてる。
今度はホントに安心したみてえだった。
…淡くぼんやり霞んだ月みてえな瞳も閉じて…
ああ、もうすぐ眠っちまう……また…

だからずっと…こうしててやるよ
…眠りに落ちるまで。
お前が望むなら…
今はそうしてやれるから…
オレが…


でもいつか…


永遠に別れるとき。


それ、オレが先ならいいと思った。
ホントは…
オレのほうが寂しがり屋だから。
見送るのは、絶対に嫌だ。
多分、耐えられねえから、

先がいいと、思った。

兄さんは全部わたしに押しつけて勝手だ、
って…もしかするとこいつは…泣いて言うかもしれねえけど。
それとも
そう思いながら、
やっぱり黙っているんだろうか…お前は…。
たぶん…そうだ…。
すべての辛い心も想いも…
心の奥の奥の…誰にも見えねえところに深くひそめて、
ひっそり隠して、
オレの代わりに耐え続けて。

…それでもオレは…

先がいい。

ごめんな、殉。
って多分オレは心の中で謝るだろうけど…
口に出してすら言えねえだろうけど…
…やっぱり…
オレがお前に見送られるほうがいい…


兄貴なのに…
勝手でごめん。
わがままでごめん。
何もしてやれなくてごめん。

それ多分、オレが寂しくて弱ぇからだな、
って思うけど。

認めるのが癪だから。

オレはきっと強気のままでいるだろう。

これまでも、これからも…


でももしも、

生まれ変われることがあるのなら…

今よりも…

ちっとは関係、変わってりゃいいなと思う。
もっと…幸せに…変わってりゃいいと思う…

そして人生で、
一番最初に、お前に出逢えればいいと思う。

そして素直に言えたらいいと思う…

お前は…
オレの唯一無二の存在で。

…お前のなにもかも…
お前のすべてを…

オレは…


…殉、愛してる…


たとえばオレたちが生まれ変わったその後で、
互いの過去すら、何もかも…
すっかり忘れちまったとしても…



オレは…きっと愛してる…




◇Fin.◇