(ほんとうに、軟禁状態だな)

やっと降りられるようになった、ベッドから出て、

兄の白い長袖のドレスシャツだけ着た格好で、
部屋中を一人歩きまわってみて思った。

さっきまでは兄がいた。
ベッドサイドに腰掛けた自分の手足に、
丁寧に包帯を巻き直してくれていた。

さすがに手馴れている。
いつもバンテージを巻いているだけあって、素早いうえに仕上がりが綺麗だ。

自然、座ったまま兄を見下ろす位置になり、
日頃見ない角度にちょっと動揺した。

自分の足元に片膝をつき、まるで靴ひもを結んでくれているように、
足の指先まできっちり巻いて、包帯止めで綺麗に止める。
プロなみだ。注射も点滴も「おい、腕出せ」とぞんざいなわりには、器用で巧い。

「にいさん、進路変えたらいいんじゃないか」とからかったら、「バカ言ってんじゃねえよ。おめえ以外にこんなことやってられるか」と不機嫌そうな声が返ってきた。

兄のつむじのあたりがよく見えて、
なんだか不思議だ。
一緒に育っていたら、珍しくもなかったろうに。
もっともこの男のそんな姿を見る者など、今だって多分いない。
自分の靴ひもからシャツのボタンまで下僕にやらせて何もしなさげな男だ、本来は。

もっとも、金持ちだから、しょせんボンボンのくせに、と実力以下に侮られるのが癪で、意外に何でも自分のことは自分でやる。年齢が上がるほど、そうだった。
でもそれはあくまで自分のためだ、他人のために親切心などふりまかない。
そういう男だ。

巻き終わって、立ち上がると、

「2、3日出かける。オレが戻るまで、おとなしくしてろ。自由に起きれるようになったからって、無理して動き回るんじゃねえぞ。食事は置いてある。部屋からは出るな。何かあったら電話しろ」

そう言って出て行った。
行先は言わない。
用事が何なのかも答えない。
訊いてもどうせ「おめえが知る必要はねえ」と返ってくるだけだ。

だいたい、こっちの予定は勝手に決めるくせに、
自分の予定は話さない。
万事それだ。よほど心が広くないと、一緒にやってくのは面倒なタイプだが、
殉は最初からあまり気にしなかった、と思う。
あれこれ指図されるのが、むしろ嬉しい気がして、自分はドМだったのかと我ながら引いたほどだ。
今だって監禁に近いのに、高圧的な兄に細かく世話を焼かれて喜んでいる。

でも、あの相手だけだ…

多分、こんなに嬉しいのは。
だってこんな感覚は初めてだ…

ずっと誰かと一緒にいたい、なんて…

…おそらく、後にも先にもそんな感情、二度と生まれないほど…

兄のこの私室は、屋敷の奥の二階で、バスルームもリビングダイニングもキッチンまでついた、リゾートホテルの最上スイートみたいな、だだっ広い部屋だが、
ドアは、内側からも外側からも鍵がかかっている。
外側には最近つけたらしい。自分のためだろう。
いくつかある両開きの大きな出窓は防弾ガラスで、セキュリティ上なのか、外側に鉄の十字格子がついている。
窓の景色は屋敷の見事な中庭だが、監視カメラがいくつも見えた。確認できるだけでも10ヵ所以上はある。

もっともこの程度なら、今の自分にも…なんとか破壊できる。万全の自分なら簡単に。
あの兄相手にどこまで通用するかわからないが…影道の奥義には相手の運動神経を麻痺させ動きを奪う技もあるから、油断させて隙を作らせ、狙って打てば今でも何とかなるかもしれない。
あの拳は今まで一度も見せたことがないので、いくら兄が自分を上回る天才でも、最初の一度くらいはヒットできる。と思う。
彼のスピードやディフェンス力は、だいたいわかっている。

要するに、

出て、行けるのだ。本気でそう思うなら。
でも、やっていない。

だから、ここに、自分はこうしてずっと居続けたいのだろうか…と思った。

この部屋の家具も、屋敷も庭も、海外ブランドの高価な食器類さえ、本来はすべて自分のものでもあったはず。
とは、殉は思わなかった。
思えない。
相続争いで資産と権力の分散を恐れる剣崎家の因習で、居てはいけない子供として棄てられたから、そう刷り込まれているだけかもしれないが。
そもそも育ち方が、疚しい。
自分を拾った一族は、堂々と人前に出れる家ではなかった。
殺人的拳術を生業とする一門の統領など。
多くの普通の家庭があるなか、なぜあそこだったのかと、本来は疑問に思ってもいいのに、そうすら思えないほど、すでに全身に刻みこまれている。

自分は、生まれながらの影だから当然で、それは仕方ないのだと。

だから、三代総帥亡き後、自分が四代目として跡を継ぎ、今ではある程度、一族を自由にできるはずなのに。
余計に彼らを裏切ることはできない。
ますます重責は募り、組織の頭としての責務に縛られて、身動きがつかない。
無論、兄とも兄弟としては暮らせない。
元には何一つ戻せない。

影道の悲願は、表の世界に出ることだった。
それは、生まれてすぐに葬り去られた自分の運命とかぶるはずだし、
三代目にもそう何度も何度も…言われたのに。

幸か不幸か、自分は兄と違って、争う生き方が好きじゃない。
むろん奪うのも。

こっちの我を通せば、兄の人生から何かを奪うことになり、邪魔になる。
そもそも影道の争いも、兄たち5人の日本代表権を奪うのが目的だった。
たとえ彼らを再起不能にしても殺しても。
そんなのは、嫌だった。
兄と戦うのが、どうしても、嫌だった。
まして殺すなんて、ありえない。
いくら影道の家や皆のためでも。

自分の生まれたときからの地位をすべて乗っ取った兄から、全部を奪い返してやりたいなどと、復讐を考えることもできない。
そんな気持ちが微塵も湧いてこない。持てない。
それでも一族を抑えきれず、彼らの悲痛な想いや願望や欲望を止めることもできなくて。
心を棄てて、兄との縁も切ったつもりで臨んだ試合で、
戦った高嶺が、実は自分も殴り合いは嫌いなのだと、でもプロボクサーになって母親を迎えに行かねばならないから、だからやってるんだと後から聴いて。なんだか妙に共感したくらいだ。
あの時、彼の左腕を潰さなくて本当に良かったと思っている。
一族の悲願なんかより、彼の未来を優先したことは、絶対に正しかった。


出窓の鉄格子の向うで、小鳥が二羽、戯れている。つがいのようで微笑ましい。
兄と同じ天才、と言われながら、自分は戦いにはあまり向いてない、と思う。競うのも争うのも奪うのも好きじゃない。どうあっても譲れぬ大義や信念があるならまだしも、無益な血など流すべくもない。できるなら誰かが傷つく戦いなど避けるほうがいい。

それより幼い頃から、いつも…
何だか一族の悲願というものを果たすためだけの、道具のような気がしていた。
そのために、総帥家に拾われたのだと。
総帥、
と高嶺たちも、今では自分をそう呼ぶし、
その務めも実際、果たしているはずだが…
本当は、そんなものになりたくなかったのだろうと思う。
高嶺と同チームだった河井が、実は養子だったと聞いて、本気で同情したくらいだ。
でも彼は良い家で成長したと思う。
自分とは逆だ。別の家に帰るほうが残酷だ。だから彼はあのままがいいと思う。

自分には…帰れる場所が無かった。

本当は、家に、帰りたい。

でもどこへ?

どこが自分の家か、わからない。
顔も知らない両親は違うだろう。
だいたい彼らに捨てられたのだ。
影道の家は…もうそこから逃れたいとは思っていないが。総帥としての務めも正しく果たしているが。悲願とやらに逸る血気盛んな大人たちをも、自分の力で抑えているが。
それでも…どこか…ホントウの家族という真の愛情みたいな何かに、
時々、酷く飢えている気がした。

あそこには、支配と隷属、服属の関係しかない。
服従を、させるのか、させられるのか。
対等の情愛は存在しない。
従わない者は力でねじ伏せる。
その結果、たとえ彼らが喜んで仕えたとしても。
弱味も隙も本音も何一つ曝せない。
過激で暴力的な組織を掌握し、抑え続けるには、常に、独り、威を高くし続けなければならない。

そのことに、本音は、疲れているのだろうかと、思った。
本音は…すべての束縛から逃れて、誰かに…ずっと甘えたかったのだろうか、とも思った。

そんなこと、赦されるはずもないのに。

甘えなど、完全に捨てている。
自分勝手な欲求も我儘も。
物心ついた時から。とっくに捨てさせられている。
なにも残ってなど無いはずなのに、自分の心には。

でも…なぜか兄とは一緒にいたかった。
どんな形でも。
たとえ、幼い頃から大人たちに禁じられても…今でも…
それだけは棄てきれてない…
縁すら切ろうと一度は覚悟したのに…

ただこうやって今、一緒にいられるだけでもいい。
そう感じてしまっている自分がいる。
そんなことすら望んではいけないのに。
そもそもここは本来、いてはいけない場所だ。今回の一件が片付くまでの妥協点、まったく期限付きの、短い一時にすぎない。
それでもいい。
あの兄といたい。
一時でもいいから、
そばにいたい…誰よりも近くに…どんな形でも…

そう感じてしまっている。

否定すればするほど、そうだった。
どうしても…。
理由もなく…。
理由もなく?

突然、兄に犯された夢を思いだして、身体の芯が熱を帯びた。
なぜだろう。
殺し続けた強すぎる想いが募りすぎ狂った結果だろうか。
無意識の一族のプレッシャーに耐えかねて逃げ出そうとしてるのか。
寂しすぎたのか。
それとも…光に…戻りたいのだろうか…生まれたばかりの過去のように。兄と一つになることで。

…しかし、それも望むべくもないことだ。
考えてもいけないはずだ。

兄は、
ギラつく真夏の太陽みたいな、明朗な存在で。
自分のような日陰者が、関わるべきじゃない。
本来は、触れてもいけない。話してもいけない。そう、昔から躾けられている。
初めて彼を目にしたときから、ずっと。

初めて見た彼は、まだ幼くて。なのに、堂々として一片の迷いもなく、まるで自分の理想そのものみたいに、すべての輝く美を持っていた。
自分はそれを、陰からただ見ていただけだ。あまりにまぶしくて。でも目もとじれずに。

綺麗だった…

あまりの力強さ美しさに憧れた…。

でも、あれは、決して自分のような者が、近づいてはいけない存在、そう大人たちに言われて本気で信じた。
その通りだと、今も思っている。

だって自分は…すでに…もう…

兄には、とても言えない、陰惨な秘密が多くある。それを知られたら、多分、愛想を尽かされる。いっそ言えばいいかもしれない…そしたら、きっと忘れられる。
お互いに。

お互いに?…
自分からは、とても言えない。兄に嫌われるのが怖い。捨てられるのが怖い。いつか知られることがあったとしても…。
だから、

…ここを、出ようと思えば、どうとでもなるのに。
今もどうしても出れないのは、

…いまだ残った自分の、未練みたいな弱さだろうかと考えた。



◇to be continued◇