視界が、ぼんやりしている。

明るいのか暗いのかよくわからない。
ただ身体は激痛で苦しい。
自分の息づかいがうるさい。
悲鳴を上げ続けていないと気が狂いそうだ。いくらくいしばっても苦鳴は漏れる。
少しでも楽になりたくて、寝返りをうとうとするが、それもできない。手を伸ばしたいがまったく動かない。

どうにもならずに呻き声を上げると、必ず、肩や頬を抱いてくれる者がいる。
誰なのかよく見えない。
でも敵でないのは確信できる。

両手の革グローブを丁寧にはずされ、素手でしっかり握られた。握り返してみたかったが、まったく力が入らない。それでも、間違いなく心を読んでくれたように、すぐに、もっと強い力で握り返して抱いてくる。そのたびに、
ああ、もう安心なんだと、理由もなく感じる。
ガサついて硬いのに温かい手。
ちょうど自分と同じくらいで形も似ている。同じだから、安心な気もした。
なんだかいっそ自分の手みたいな気もしたが、醜い傷がなく綺麗だ。

意識もはっきりしないくせに、なぜそんなことがわかるのか不思議だったが、
感じる。
これは多分、兄の手だ。
双子の片割れだ。

なんだ、やっぱりあの河原に居たのは兄さんだったのかとも思った。
でも違ったのかもしれない。
自分が今どこにいてどうなっているのかも、わからない。
ただ、すべてが混沌としたまま、
昔、同じ羊水に一緒に入っていた記憶がよみがえった錯覚がした。

「にいさん…」

唇を何とか動かしてみた。
声がすぐさま返ってくる。

やっぱりそうだ。
ずっと呼んでたあの声だ。
同じ声が、また、

殉、殉、と自分の名を口にした。

そのたびに、胸がぽっと暖まり何だか無性に嬉しくなる。
気安く喜んではいけないと思うのに、自制がきかない。
でもそのたびに、気のせいみたいに苦痛が和らぐ。

「にいさん…」

もっと、もっと、呼んで欲しい。
こんな時でなければまったく出ないコトバが、何度も浮かび、
枯れた喉と乾いた唇を震わせた。そのたびに、
兄の声が聞こえる。
そのたびに、わずかずつだが、楽になる。

大丈夫、と声がするから、
多分、その通りなのだろうと思った。







周囲が、外みたいに明るい。
でも電光だ。

「やっとお目覚めかよ。遅ぇ」
フテ腐れた声が、頭上から降ってくる。

ここは、どこだろうと、まず思った。
見たことがない豪奢な部屋。
天井一面を覆うようなシャンデリアの光が真昼のようにまぶしい。
シンプルだが曲線の美しいイタリア製の高級調度に囲まれている。

しかもバスローブ姿の兄がいる。
風呂上りなのか、濡れた短髪にタオルを押し当て、片手に丸めた雑誌を持っている。
どさりと、目の前の椅子に腰かけて足を組んだ。

綺麗な足だ。
自分のように傷がない。

もちろん過激な練習や試合中についた傷は多いが、自分のような痕の残る醜い切り傷じゃないから、治ればほとんどわからない。
顔の輪郭は同じだが、髪型だって違う。
いや、何もかもが違う…

「どうした?まさかオレが誰だかわからねえってんじゃねえだろうな?てめえの名前も忘れちまったとか…」

少し、不安気な声がした。
冗談というより、本気でその可能性も心配しているらしい。
自分が、ぼんやり黙って見つめ続けているからだ、と、
このときようやく気がついた。

「ここは…あなたの…部屋なのか?」
「あぁ?…第一声がそれかよ。他に何か言うことねえのか?オレに対して」

兄は何だか不満気だ。不機嫌だ。しかしそんなことより、
ここがそうなら、こうしてはいられない。

「おい」

泡食ったようなバスローブの両腕が、急に自分を抱いた。
いい匂いがする。
湯上りの、何だろう…淡いスミレの香水のような。
そんなものをつける男じゃないと思っていたが…入浴剤かボディシャンプー?
自分は使ったことがないから、よくわからないなと思う。
桧や丁子湯くらいなら入ることもあるがと惚けたみたいに考えていたら、

怒声が響いた。

「バカか、おめえ。いきなり動くんじゃねえ。死ぬぞ。起きてどうするつもりだ。まさか今すぐ帰ろうってんじゃねえだろうな」

言おうと思っていたことは今、兄が言ってしまったので、黙って頷いた。
「ダメだ。ここにいろ」
「…しかし…ここは…わたしの居て良い場所では…」
「ここはオレの屋敷だ。だからおめえの家でもある。わかったな、オレがいいと言うまでここにいろ。勝手に出ることは許さん。食事、トイレ、風呂、洗面その他、全部オレに言え。オレが連れていくし用意する。今までもそうしてたんだ」
「……」

ちょっと、絶句した。
どうしてそうなったんだという気もしたが、
色々と混乱している。
そういえば、自分はどうしてここにいるんだろうか。
兄の腕は、ぽかぽかと熱気で温かい。少し濡れている。濡れるのも構わずに、その腕が抱きすくめてくる。
温かいとは思ったが。こんな恰好では、いつまでも…

「…え…」

身体ががくんと崩れた。
まったく力が入らない。
ほとんど全裸に近い状態で自分の全身に包帯が巻いてあるのが辛うじて見えた。
兄の両腕が、自分を軽く抱き上げ、そっとベッドに戻している。言い方は乱暴だが、やけに気遣っているのはよくわかった。
「言わんこっちゃねえ。……おめぇ、今、麻薬が効いてるから苦にならねえようだが。どれだけ寝てたか知ってるのか?てめえがどういう状態か。……誰にやられた。何でこうなったんだ?」

よく見ると、枕元のテーブルには、注射器の針とアンプルが散乱している。
医療用アルコールの臭いが鼻を突き、脱脂綿や点滴も転がっている。
この家だから出来るのだろうが…概ね違法だ。
兄がそこまでしてくれたことに、奇妙な感慨が浮かんできて、また胸のあたりがふわりとしたが。そう思ってはいけない気がして押し込める。

しかし、ここに至った記憶があまりない。
されたことの概要は憶えているが、相手の顔は目隠しされていてわからなかったし、具体的な一つ一つは詳細には思い出せない、ような気がする。
そもそも意識があまりなかった。ただ、人数はかなりいて、
途方もなく長い間、耐え難い苦痛が続いたのは確かだ。情けないが、
いっそ殺して欲しいと思ったほどに。
「にいさんこそ…」
自分を呼び出したのではなかったのか。
その話をしたら、兄は不機嫌も苛々も突き抜けた顔をした。

「要するに、何もわからねえってことか」
丸めた雑誌をパチンと片手に打ちつける。
「だが、単独じゃねえなら尻尾は掴みやすい。必ず落とし前はつける。今、剣崎コンツェルンを使って徹底的に調べさせている。いずれわかるだろうぜ?オレたちにこんなフザケたマネしやがった屑の正体がな」

相当、怒っている。
それが、なんとなく不思議な気がした。
まるで自分が受けた屈辱のように怒り心頭で、兄が復讐しようと画策するなんて。
そんなことがあるのか?
まったく一緒に育ったわけでもないのに。
生まれてすぐに引き離され、再会して話したのも、そんなに前じゃない。
しかもプライドと自意識の塊みたいなこの兄が。
でも、
だからか?
という気は少しはした。
兄は、自分たちが何か同じものだと思っている、いや感じているのかもしれない。
それは、
どこか自分もそうだ。
初対面のように再会した時も、違和感など何一つなかった。ずっと会い続けていたような懐かしさしか湧かない。

ああ、この人は、同じ血を持つ人間なんだと、漂った空気みたいに体が自然に感じ取った。
今までの周りの違和感など嘘のように。
こういうのが、本当の、血の縁なんだと…
ほとんど本能みたいに…

もっとも見た目は他人が言うほど似てないだろうと自分は思っている。
兄はずっと

光に似ていた。

三代総帥に手を引かれ、初めて兄の姿を遠目に見たときも、そう思った。
自分は生まれた時から、影だ。
立場も生き方も容姿も何もかも。
多分、兄だってそう思ってる。

「殉、」

白いバスローブからまた組み替えた素足が覗く。手にした欧文雑誌を広げて、視界の端をちらりとこっちに投げてよこした。その仕草も、優雅に見える。
やはり自分とは違う人間だと、殉は思っている。

もっとも、友人になった高嶺たちに言わせればやや違う。剣崎家のお坊ちゃんが、美しい顔に似合わず時折チンピラまがいで、片割れの双子の弟は体中の傷がなければ瓜二つ、とぱっと見た者はよく言うが、人による。第一、総帥は、丁寧。礼儀正しい、大人だよ。と高嶺なら言うだろうし。剣崎の野郎とは月とスッポン。総帥のほうが色男じゃねえか、髪も長えし…けどちょおっとキレーなオネエちゃんみてえかな、あ、いやウソウソ、と石松なら笑う。立ち居振る舞いも綺麗だし、常に一歩退いた感じといい、丁寧で古風な言葉づかいも、違う環境で育ったから、といえばそうだが、付き合ったらまるで別人。と志那虎はマジメに返す。たとえよく似た一卵性双生児でも、総帥のほうが人間的に、格段によく出来てます。と、河井なら毒舌混じりに言うだろう。しかしそれらは、彼ら二人の知らぬ間の話題だ。
剣崎は広げた雑誌の見開き記事に目を落としながら、不遜な態度で言い放った。

「ともかく、おめえはこの部屋から出るな。勝手なことも許さん。外に出たけりゃ、オレが連れていく。ただし屋敷の庭までだ。門外には出さん。使用人には何も見なかったことにしろと言いつけてある。だがなるべく人目にはつくな。わかったな」

「まるで…監禁だな」

「当たり前だ。オレの弟を二度も同じ目に遭わされてたまるか。おめえをやった野郎をとっつかまえてケジメつけさせるまでは…。影道の館にもすでに伝えてある。おめえは何も気にしなくていい」
「伝える…とは…」
「オレがお前をしばらく預かるって話だ。細かい状況まではいちいち教えちゃいねえ」

少しほっとした。いくらなんでも、アレはぶざますぎた。
兄は何も言わないが、どう思われたのか、かなり不安だ。
最初から致死より半死を狙い、わざと少し外して撃ってきたのかもしれないが。とっさの勘で、何とか背後からの空圧をほんのわずかスリップさせた。あれで弾道が、多少は狙いから逸れたはずだ。
そこまではいいとして。
昏倒したあげく拘束されて嬲りものにされた。
両手両足の爪はすべて剥がされ、ライターの火で皮膚を炙られ、重い金属の角材で何度も殴打されたあたりまでも、とんだ恥さらしだが。
身体中をこじ開けられ、アナルに異物を次々に突っ込まれた。もはやセックスですらなく、ただの凶器を使った暴行で、最後は何に貫かれたのかもわからない。
鉄パイプや獣のペニスもあったのはわかる。
腸内がぐちゃぐちゃに突き抜かれ、多分、このまま死ぬんだろうと確信した。
汚い刃物で秘所を刺されて惨殺される。

こんな惨めな姿で死にたくないな、

と、一瞬思ったのを覚えている。
どうせ死んだら自分にはわからないが。
剣崎家の名も、養子先の影道の名も、穢すことになる。

それ以上に、この兄に、そんな姿を見られるのが嫌だった。

もっとも、今となっては、それも何だかうやむやな話だ。
すべてを知っただろうに。べつに、兄の態度はいつもと変わらない。

「もう寝ろ。疲れるぞ。眠れねえならそのまま黙っておとなしくしてろ」
「…あなたは…?」
「オレはここで寝る。ずっとこうだ。この二ヶ月間」
「そんなに…」
経っていたのか。と、
今さら驚いた。その間中、昏睡していたのかと思ったら、ますます信じられない。この兄が、自分にそこまでしてくれた事が。
「どうした?」
「…いや…あなたに…ずいぶん…迷惑をかけてしまったようだ…」

「おめえ、わかってたんじゃねえのか?…」
「え」

「じゃあただのうわごとかよ…他愛ねえ」

そっけない表情と声だが、微妙な感情がかすかに見え隠れする。

他愛ねえな、オレも…。

そういう意味だと、とっさに知った。自嘲した苦笑が、ほんのわずか、兄の口角に見えている。
まさか…自分が何か言ったのだろうか?まさかと思うが…何か頼って甘えるようなことでも…?それで兄が面倒を見てくれた?……いや、そんなことは、ありえない。

殉はなんだか急に頬が火照ってくるような気がして。
彼のいるほうとは反対側のベッドサイドに顔を向けて、急いで目をつぶった。






久しぶりに弟とマトモに話した。

殉の寝顔を見つめながら、剣崎はなんだか気の抜けた気分でぼんやりしている。
やはり極度に緊張していたんだろうと思う。自分も。ここずっと。
寝顔は、今日は穏やかだ。
落ち着いた規則正しい寝息で、苦痛もほとんどないらしい。
あまり痛がってよく眠れていない日は睡眠薬を打ってやっていたが、今日はその必要もない。
麻薬も、人によって目覚める瞬間、悪夢になるか逆になるかわからないと言われたが。
悪夢でなければいいと願った通り、かなりふわっとした穏やかな感じだったように見える。

ともかくもう大丈夫、

そう思ったら、
弟の顔をただ素直に眺める余裕が生まれるほどは、ほっとした。

熟睡している頬に、
そっと触れてみる。
額から頬にかけての古い、細い傷跡も指で辿ってみた。
顔面に、こんな傷をつけられて、いったいどんな育ち方をしてきたのかと思う。
あの影の流派の苛酷な試練は、噂には聴いているが。
自分だってかなりの特訓はやったはずだ。
だが、自分とは違う。
毎日、包帯を取り替えて湯船にも入れてやっていたから、全身に刻まれた古傷の位置も形も大きさも数すら、コピーみたいに覚えてしまった。
こんなだから自分より大人びている、と思い知らされた気もした。
剣崎家を出され、代わりにあんな化物屋敷を継がされて、この歳でもう一族を率いている。
一族の悲願とやらまで背負わされて。
それに、必死に応えようとして。
自分たちとも戦って。

でも、今の寝顔はとても幼い、まだ14の、歳相応に。

吸いこまれたように見つめていたら、

ふと、綺麗だと思った。

睫毛が長い。
それにとても静かだ。
雰囲気も、
持っている力も。

まさかオレも…同じツラして寝てんのか?
と一瞬思ったが。
いや、それは無えな。
と一人納得した。

オレがこんなに美しいわけがない。
こんなに静かなわけはない。
まるで、夜を照らす白銀の月みたいだ。
闇に散りばめられたダイヤのような星々、銀河にも似てる。
身体中の古い傷痕も、生々しい新しい傷も、無数に痛々しいのに、それも切ないとは感じても醜いとは到底思えない。

そっと、また顔の傷に触れてみた。
自分の頬の同じ部分にも同時に触れてみる。
容は確かに似ているが、感触が違う。

これは、オレの顔と同じだろうか?
そんなことはない。

だが、

オレのものだ。

コレは。


不意に、
強く思った。

愛しい。

自分の血を分けた、唯一の者が。

感情の暴走みたいに、
理屈なくそう感じた。

使用人は家族じゃねえ。
カネだけ湯水のように与えて、めったに会わない親すらすでに違う。
だいたいあいつらは、殉を棄てた。
親が子の命をどうしようが勝手だと、自分たちが創ったものをどうしようと自由だと、
そう言い切って捨てたんだ。
あんな奴ら…憎悪しか湧かねえ。
だから今だってこの家の財産も力も、自分が好き勝手に放蕩してやってる。それが権利で復讐みたいに。

だってオレは、

殉の代わりに、
殉の持つはずだったものまで、
すべて奪って生きてるんだから。

その立場を全力で行使しないと、
こいつの犠牲が無駄になる。

本当は、

こんな弟、いなければよかったと最初は思った。
最初からオレ一人なら、何も煩うこともない。
オレの人生はオレだけのもので、
オレは…自由に…
だから
消してやろうと思ったのに。
なのに。
会ったとたん、全部わかってしまった。

理不尽なほど。

魂が、完全に重なる気がして。
瞳も唇も毛先の一本まで何もかもが、愛しい。
理由なんてなかった。ほとんど本能で愛していた。

それは、多分、
普通の兄弟とも違う。
ただの双子でもなく。
この家の異常な状況が生み出した、狂った情念だったかもしれない。
自己に執着するみたいに、
執着した。

みんな、しょせんは赤の他人だ。
どう愛し守ったところで、他人に払う感情にすぎない。

だが、この弟だけは、

自分のものだ。

未来永劫、オレだけのものだ。
オレの身体がオレ自身のものであるのと同様に、
殉も、オレの一部であるはずだ。
魂も、体も。
生まれた時に、そう約定された。

オレたちは、一つだった。

そう感じると同時に、ドス黒い殺意が生まれている。

この身体を好き勝手にしたオレ以外の他人がいるなんて、
許せない。
絶対に。
ぶちのめして殺したい。

こいつにそんなことをしていいとしたら、
オレだけだったのに。
こいつを殺すのも嬲るのも許されるとしたら、

オレだけだ。

それは、
今までの正常な兄としての怒りとも違う、
怨念みたいな情念。

実の兄としても決して持つべきではない欲望。
でもやっぱり自己愛の変種かもしれない。

そういう、自分にもよくわからない暗い衝動だった。

ただ、実の両親同様、創造主に生殺与奪の全権があると考えている、とは思わなかった。
この弟は、自分が創ったものじゃない。
ただ限りなく、自分に近い何か。
もっとも愛しい、唯一無二の、自分の運命的所有物であるべきはずの何か。
それがどんな感情なのか。
彼自身にも、よくわからないが、
奇妙なほど確固としていて、絶対的で、譲れない力を感じる。

この強く激しい情動は、いったい何だろう?

確かめるように、
顔にかかった長い前髪をかきあげ、
額の傷に、
そっと口づけてみる。

傷は冷たく乾いて、浅い。

表情は相変わらず、静かで、美しい。

なぜか。

近いのに、

果てしなく遠い気がした。

やはり、
違う。
同じなのに、
なぜか違う。

本来、同一人物であるべきだったのに、
どういう間違いか、別人になってしまった。
なぜだろう…

自分は何でも持っている。
手に入る。
これまでも。これからも。
なのに…
これだけは、
決して得られない。

絶対に、
この世では。

そういう者だ、こいつは…多分。

…それが、
一番、欲しかったのに…
どうしても、欲しかったのに…
なのに、

それだけが、
唯一、どうしても手に入らない…

そんな異様な感情が、なぜか一気にこみ上げた。
まるで、何かの罰のように。

自分が今まで犯してきた罪とか、奪ってきた多くのものの、代償みたいな気さえした。
家の大金を使って強引に手に入れた物もある。
自他ともに天才と認める自分が、今まで得た名声も称号も、奪った相手がいる。
チャンプの称号も、一つしかない。
それを目指したすべてのものを打ち倒し奪い取り、手にする。マットに沈めた多くのものの犠牲の上に、今の自分がいる。

自分と違って、生まれたときから何も欲しがらないこの弟が、
たった一つ、一度だけ得ようとしたものすら、
自分が奪って潰した。
あの時流した自分の涙は、本物だ。
だが、後悔はしていない。

だから、呪われたのかもしれない。
そんな猟奇な感覚さえした。

まるで、魔が差したみたいに、

こいつが、欲しい。

どうしても。

何もかも。

身も心も。

でもどうせ、今生では叶わない。
そう思うほど、狂うように気持ちが募る。

唇にそっと触れ、少しだけ開かせてみる。
「…ん…」
殉は、身じろいだが、目を覚まさない。
軽く唇を合わせ、そっと舌先を滑り込ませた。
同じ、唾液の味がする。

やっぱりコイツはオレのものだ。

とっさに確信した。
こんなに馴染む唇が、
オレのものじゃないわけがない。

自慰に近い欲求で、深く、何度も口づけた。
「ぁ…ぅ…」
少し、殉が反応している。
眠ったままだが、
軽く下半身が反応してる。
そっと手を置いてみた。
雛鳥みたいに震えているのを感じる。

握ったら、このまま握りつぶしてしまいそうで。

恐ろしくなって、
とっさに手を放した。

このまま暴走してしまったら、
多分、こいつを殺してしまう。

そんな自分が、恐ろしかった。




◇to be continued◇