殉に手を出した連中は片づけた。首謀した奴らも始末した。つまり…これで、この屋敷に引き留める理由はなくなった…

それを言ったら、きっと出て行ってしまう。それが嫌でしばらく黙っていた。けれどあんまり自分の歯止めが効かないので。それで終わりにできたらいいと、半分以上は本気で思って、そう言った。
なのに…

気持ちはまったくだ。
久しぶりに学院に出てみたものの授業も何もない。
何も頭にも耳にも入ってこない。
話しかけてくる同級生も目に入らず、
このままあいつがいなくなったらどうしよう、
そればかり考えている。

じりじりと時間が経つにつれもう気が気でなくて。
結局、昼を待たずに全授業ボイコットして屋敷に戻った。
どうせ剣崎家がカネを出してる学院だ。しかも自分は元々ボクシング部の練習でほとんど授業になど出ていない。しかもキャプテンの仕事は部長の教諭と事務に丸投げしている。
学院生活など、あってなきごときだ、そもそもが。

送り迎えの車も待てず、焦ってタクシーを拾い、
屋敷に飛び込んだら、使用人たちが「これは坊ちゃま、お早いお帰りで…」と驚いている。
そのまま奥の自室に駆け上がる。
カギはちゃんとかかったままだ。
でもわからない。
今のあいつなら窓からだって出ていける。
ドアを開けたら、

やっぱり殉が、いない。

「どこだ、殉!?」

思わず大声で怒鳴ったら、

「あ…おかえりなさい、にいさん」
キッチンのほうから長い黒髪がひょこっと顔を出した。

拍子抜けして脱力した。

「オレを…待ってたのか…おめえ…」
「そんなに、待たれたくなかったですか?」
「…可愛くねえ、言いぐさが」

思わず、強引に引き寄せるみたいに捕まえて、両手で胸にしっかり抱きしめた。
「どうしたんだ…あなたは…いつも、突然…」
片手にミトンを握ったまま、殉が驚いている。
「うるせえ。黙ってろ」

殉の頭の後ろに片手を回し、そっと唇に口づける。
そのまま舌を入れ、強く吸って抱きしめて、
舌を絡めてみた。
妙に熱くてぬるついた感触が生々しくて…

ああ、こいつがここにいる、
って気がして…すごく安心した…

やっぱり…オレは…このほうがいい…
これがいい……オレは…
…優しい家族のキスなんかより…

「…ぁ…」

湿った水音がしばらく響く。
互いに舌を絡めあい、胸や背やわき腹をまさぐりあい、
抱き合っていると、なぜか初めて、殉からも求められている気がした…

しばらくして、
息を弾ませ合い、床にもつれたように座り込んだまま、
殉が、半ば呆れた声で言った。

「もう、わたしとはしないって…言ってなかったか?今朝…」
「ああ、言った。言ったが、忘れてた」
「…まだ昼前なのに…」
「飯食いに戻っただけだ。いや今日は午後から自主休校だ」
「つまりズル休みか?…じゃあグラタン…」

言いかけた頭上で、ちょうどグリルの終了音が鳴った。




二人で、一流シェフが作ったみたいな素晴らしくマトモなグラタンを食べた。

「おめえが作ったのか?…ひとりで?」
「あなたの持ってた本に書いてあった通りだが…?」
「それ多分オレのじゃねえ。メイドの誰かのだ」
「そうなのか…」

そういや何か買物してくれって頼まれたメモを、執事に渡した記憶があったな…
と、剣崎は思い出したが。
それもすっかり忘れてた…
今日は…ほんとに…殉のことばかり考えすぎていたから。

にしても器用な奴だ。
初めてで。
いやしかし、一度見たブローは、見ただけで全部その通りに打てる奴だから。
これくらい…

「…おめえ、まさか影道で飯炊きまでやらされてたんじゃねえだろうな」
「いえ。それは雑兵がやってくれる。だいたいあそこは麦飯だし…洋風の食事なんてないし…。ここで食べたものは、生まれて初めてのものばかりだった…」

……ああ、だからか。

最初の頃、わりと長い間、ベッドに寝たままの殉に、
自分が口にスプーン運んで食わせてやってたが。
なんだか口に入れるたび、いつも恐々だったのは…
何を緊張してるのかと思ってた。

そういや…ほぼ現代人ぽくねえ生活してやがるもんな、あそこで。
…今時、明かりはろうそくだわ、毛筆で巻紙に、かっちりした楷書の筆跡で手紙書いてくるわ…

でも存外、生活パターンは似てる気がした。
ヘルシーだし。規則正しいし。暇さえあれば、
自分はソファで本読んでるが…殉はいつも正座して書見台に向かってる…。
初めて弟の筆跡を見たときは、自分が書いたと勘違いした。
あんまり似てて驚いた…

「どうしたんですか?やっぱり…口に…合わない?」
「いや…美味ぇよ。…すごく」

良かった。

と笑った顔が、なんだかとてもあどけなくて。
可愛いらしくて。
剣崎は、今までの、思い込んだ思念の澱みや毒気みたいなものが、
どこか抜けてくような気もした。

…なんか…こういうの、いいかもな…。

ホワイトソースの軽い甘みに絡まった、銀杏の葉みたいなパスタを口に放り込みながら、ぼんやり考えている。

…こういうの、もしかして幸せ?…っていうんじゃねえのかよ…?…

あまりに些細でどうでもいいような瞬間なのに。
べつに世界一になるためなんて、ご大層な夢でも野望でも、
長年の一族の悲願なんて重苦しいものでもなく。
ただ、なんでもないことが…こんなに暖かいなんて。

初めてだ。

メシ食ってるだけなのに…。

初めてだった。

…ほんとうは…ほんの少しでも何かが違っていたら。
オレたちは…ずっとこうなっていたのかもしれない…

そういう…甘い一炊の夢のような空気に包まれている。

こうだったら…

オレは満足だったんだろうかと、


ありえない夢のように、ふと思った。





◇to be continued◇