「ダメだ。もうやめだ」

朝、ちょうど二人分の朝食が載る、白いクロスをかけた丸テーブルに二人で向きあい、
冷えた枝豆のスープをすくっていた剣崎が、
突然、カランと銀のスプーンごと放って、言った。

「おめえとは、もうしねえ。夜は別に寝る」

学院の制服のスラックスに襟元のボタンを一つ外した白のシャツを着た彼を、
殉は、驚いて見つめた。

少しして、なんとなく恐々、訊いてみた。
「……どうして?…わたしに、飽きたんですか?」
「違う。逆だ。このままだと……いや今でもすでに…、完全DVになってやがる」

はあ、と珍しく兄が溜息をついた。

「おめえも少しは抵抗しろ。できんだろうが…本当は…オレを殺ることも…」
「そんなこと…できるわけが…」
無理に決まってる。物理的には可能としても。

「はっきり言って、カラダの相性は悪くねえ。むしろ良すぎだ」
「それは…まぁ…双子だから」
性感帯もそっくりだし。
感じるタイミングや好みも似てると思う。
…なんとなく…

ちょっと頬を赤らめて、
でも行儀よく膝をそろえ背筋を伸ばして椅子に座った殉が、
同じ形の椅子に足を組んでふんぞり返った剣崎から、
つい目を逸らす。

その仕草が、剣崎は、とてつもなく愛しいと思った。
どうしようもなく可愛い、
大事にしたい、
自分のものにしたい、
自分だけのものに…

「抑制が効かねえ…。このオレが…こんなこと今まで一度もなかったのに…コントロールできねえんだ。自分が…」

自分で自分が止められない。
どこかぶっ壊れたとしか思えない。
双子の弟を襲ったあげく、一緒にいるといつか殺してしまいそうだ。
でも離れてもいられない。
これは、どうすればいいのだろう。

「じゃあ…」
と殉が、微笑んだ。

透明な、
声と笑顔だった。

怖いほどの。

「…殺してくれても、いいんですよ?」

一瞬、ぎょっとして、剣崎がその顔を見つめ返した。

「何言ってんだおめえ…」
「あなたの腕の中で死ねるなら…それもいいかなって…それが…むしろ、いいと…」

驚くほど、真剣な瞳だった。
「だってそしたら…」

永遠になる。
愛し合った事実のまま。
最高に幸せな瞬間で、時を止められる…

「やめろッそんなのは…!!」

ダメだ。
絶対に。

ガタンと剣崎が立ち上がった。

そのまま出窓のほうに歩いていく。白い窓枠の縁を片手で掴み、壁にその肘をつき、ガラスに突っ伏すようにして、不意に言った。

「そういや言い忘れてたが…この間、おめえに手ぇ出した最後の馬鹿を始末した。首謀者は誰だか憶えもねえどころか、面識もねえ野郎だった。このオレに勝手に嫉妬してキレてやがったって話だ。てめえが望むものを何一つ持てねえくせに、オレがそいつの望むものを全部持ってるからってな。だからオレの大事なもんを奪って傷つけて見せつけてやりたかった。そんなくだらねえ三文記事なみの動機だとよ」

兄は結局、宣言通り、多少時間はかかったが、警察も司法も使わず、全員、自力で見つけだし、そして…

「クズすぎて、どうしようもねえとは思ったが…一応、すべて落とし前はつけた」
「まさか…あなたが…」
「気を回すな。オレは直接手を下しちゃいねえ。コンツェルンは、こういう時のために、そういう連中も雇ってあるんだ」
「……な…」

驚いた殉に、背を向けたまま、剣崎が続けた。自分を初めて犯したときのような、仄暗い声だった。

「おめえ、まさかオレがまっとうな世界のマトモな人間だなんて勝手に思ってんじゃねえだろうな。 裏にも自在に手が回せる。それが剣崎家だ。
これまでだって合法的にどれだけ死人が出たかわかりゃしねえ。今も、これからもだ。
でなけりゃ、こんな大財閥やってられるか。マジメに商売してたらな、中小どまりなんだよ、普通は。

たとえばこれも些末な話だが…闇金や詐欺業者だって影で動かしてたのはウチだ。それも大手の銀行を使ってだ。 無論、最後は腎臓売れ肝臓売れ殺すぞの世界だがな。

人ひとり殺して監獄入ってる奴なんざ、まだマトモなんだ。
ホントに危険な連中ってのはな、国家権力とつるんで合法的に他人の財産を奪い、
大量の人間をまとめて殺すんだよ。そして罪にも問われねえ。

その最大のモンは…戦争だ。もちろん勝つのが前提だがな、戦争ってのァ…国家最大の公共事業なんだよ。 税金使い放題で兵器を造り人を殺す。

もちろん国民は欺かれてる。自由だ民主主義だ正義を守るだのいう戯言で。
マスコミや糞エリートどもの作る世論なんてもんに踊らされてな。 オレが継がされるのは、そういう世界なんだよ…」

「……にいさん…」

初めて聞く意外な話に、殉はしばらくの間、綺麗な漆黒の瞳を大きく見開いて、ただ黙っていた。

自分が拾われた家、影道が日陰の身なのは、それが殺人的な拳術だったからだ。
自分も、訓練中に同門の徒弟を殺めていた。そもそも正統な格闘技ではなく、無法な真剣勝負。拳を使った白刃の戦い。だから、運が悪ければ死人も出る。簡単に相手を殺傷できる残酷な奥義がいくつもある。それを使って、兄弟子や弟弟子にあたる相手さえ、死傷させた。自分の命を守るためにも…幾人も…自分の体の傷と同じくらいは…

そのうえ、大人たちには性戯まで仕込まれて。どんな相手とも上手に寝れる。そんな穢れた身が、兄と同じであっていいはずないと、ずっと思ってきた。

でも、兄は…

「殉…どうだ?幻滅したか?」

兄が、笑っている。でもとても…寂しい声だった。

「そんなこと…」
全然ない。
何を聞かされても、この兄を愛している。
でもどう言ったらいいのか、わからない。
だから、立ち上がって、兄のそばに行った。
そっと、片手で背中に触れてみる。

びくりと、白いシャツの背がわななき、それから、急に振り向いて。そこに置かれていた手を掴んできた。いきなりだ。でも存外に落ち着いた、静かで真摯な瞳だった。

「おめえ…知ってんのか?…オレだっておめえを見てたこと」
「え…」

幼かった子供の頃、自分そっくりの、でもとても可愛らしい少女みたいな少年を見た。
傷だらけの異様な黒服の大人たちに連れられて、一度だけ屋敷に来た。
応接室で、親たちと、多分、カネの話をしていたのだろうと思う。
養育費を、一族の支援金として支払う話を、そこでしていた、多分、今思えば。
けれど、
そのとき自分が見ていたのは、その、自分そっくりの少女みたいな子供だけだった。

「可愛かったんだよ、おめえ…。誰だろうって思った。でも絶対にオレの身内だってピンときた。だからずっと一緒にいてえって思ってよ…話しかけてみたくて…けど…」

見てはいけないと、執事に怒られた。話してもいけないと、言われた。
あれは…この世にいるはずのなかった子供だから、と。

「ふざけんな、って…今ならそいつをブッ飛ばす。けど…」

そのときは、それが正しいのだと、信じた。

「バカだったな…オレたち…。もっと勝手に会っときゃよかったぜ…あんな、剣崎家の因習なんて狂ったモンにマジメに付き合わねえで。何が相続争いだ。だったら一方に最初から相続権を放棄させときゃ済む話だ。それでも心配なら、そりゃてめえらが、そういう強欲でイカレた連中ってだけの話だ…。たとえそうだったとして…なんで…おめえを…生まれなかったことになんて…する必要が…」

でも反抗するだけの知恵がなかった。
力もなかった。
ただ素直に、すべてを受け入れた。
兄も、弟も…

「間違ってたんだよ、あいつらが。本当は、最初のオレたちが、正しかったんだ」
「………」

どう言っていいのか、わからなかった。
もしかすると自分も、この同じ家で育っていたなら、
この家の資産権を主張して、兄と争うことを択んだだろうか。
兄を陥れて奪ってでも、財と力が欲しいと…思っただろうか。
すべてが自分のものでなければと、強欲を望んだだろうか。

少なくとも、今の自分は違う。

だったらそれで良かったのではないか?
それが…良かったのではないだろうか…。

もちろん、歴史にもしもはないのだから、そんなのは永久にわからないことだ…。

そして代わりに、とても…苦しんだ。
今までも…これからも…。
今も…お互いに…絡んだ気持ちのほどき方すらわからない。
何と言っていいのかも…わからない。

殉は、わからないから、ただ、
片手を掴んでいる兄の手に、
自分のもう片方の手を重ねてみた。

それから、自分と同じ高さにある唇に、
そっと唇で軽く触れた。
啄むような、優しいキスだった。

剣崎は、ちょっと驚いてかたまっていたが、
そういえば…と思いだした。
殉は、いつも自分からは何も求めてこない。
でも軽いキスはしてくれる。
それも欲望のキスではなく…こんなふうな…ささやかで、ただ優しい…
だから、自分も、同じようにキスしてみた。
そっと、優しく、

その頬と額に。

「にい…さん…?」

殉が、やっぱり驚いている。
どうせまた、オレに暴行されると思っていたんだろうか。
それでもいいと思ってしたんだろうか。

空いていた手で、よく似た形の背を抱きしめてみたら、
なんとなく胸の空洞が、
少しだけ、
形のない温かい何かで満たされてゆく気がした。

なんだろう、この、暖かくて優しくて愛しい気持ちは。

本当は、ただ自分は…ホンモノの家族が欲しかっただけだったんだろうか?
そんな気もした。

あんまりよくは、わからなかったが…






◇to be continued◇