よく晴れた日の午後。

また…船長が、船首の上に、子供みたいにまたがっている。
ワクワクと、波に突っ込むような、麦わら帽子。その、丸まった、妙に熱心な赤い背中に近付きながら、サンジは、いつものように、スーツの内ポケットからタバコを取り出す。

なァんで……あんなに、好きなのかね。

甲板で、苦い紫煙を吸い込みながら。サンジは、毎日、我ながら素朴なギモンだと思っている。でも彼自身、それについて、ルフィに聞いたコトはない。

さいわい、今日は、ちょうどヒマ。
休憩ついでに、サンジは、声をかけてみることにした。

それは。
なんとなく、だ。淡い気紛れだ。

後で、ちょっと、後悔するなんて。
この時は、思わなかった。




「まァた、そうやって…海、見てんのか?毎日、毎日、飽きねェこったな」
「お?サンジ。お前も、海、見にきたのか」
「まさか」
水仕事に濡れた手の甲を、陽に向けて乾かしながら、サンジは、細い煙をフーッと吐いた。
「ちょうど手ェ空いたから、一服しにきただけだ」
「ふぅん?」
「この辺にゃ何もねェってナミさん言ってたし。ただ、見てたってなァ…?」

このところ、退屈すぎるほど穏やかだ。敵船も来なければ、海軍に出くわすこともなく。キモチのいい風に押され、順調な航海。霧も出ず、はるか遠くまで見渡せる。
今だって、見渡すかぎりの、海、海、海。
それしか見えない。あちこちで、ちょっとだけ白くめくれたように泡立つ、まっ平らな青が、どこまでも広がっている。

「でもさァ。海って、イイよなァ。どんな海でもイイんだよなァ」
見ているこっちが呆れるほど、うっとりとルフィが言う。サンジは一応クギをさした。
「だって、お前。毎日、同じモンだけ見てたって仕方ねェだろ。見張りの仕事じゃあるまいし」
「んん?仕方なくねェよ。おもしれェもんよ」
振り向きもせず、まっすぐ前を見つめたまま、ルフィは楽しそうに応えている。
半分、呆れて。でも半分は敬意もこめて、サンジはタメ息みたいに言葉を吐いた。
「たく……海、好きだなァ、お前は。感心するよ」
「うん。好きだ。とっても好きだ」
「なんだって…こんなモンが、そんなにイイんだよ?」
「お前だって、好きだろ?」
「そりゃ…まァ…。キライじゃァねェけどよ」
微妙なケムリを吐きながら、サンジは、考えるように答えている。
たしかに、子供の頃から海のコックをやっている。嫌いじゃ出来ない。
けど…。

どちらかと、いうと……。

「おれさ、港町で生まれたんだ」
そういうサンジの思考を遮って、ルフィが言った。相変わらず海を見つめたまま、楽しそうに話しはじめた。
「五分でメインストリートを突っ切っちまうような小さな村。そこしか知らなかった。だから、もっと広いトコに行きたくてさ」
「へェ?」
「いつも港に立って、海ばっか見てた。その頃は、ホントにただ見てるだけで…どこにも行けねェから、毎日、海見ては、あの向こうに何があるのか考えてた」
広い広い海原は、まるで、どこまでも続く遠い道のようで。これをたどって行けば、知らない世界と、めくるめく冒険と、壮大な夢が待ちうける、そういう美しく偉大な道のようで。
憧れた。
あの、キラキラ煌めく美しい、蒼い線に、憧れた。
「あれ、さ」
不意にルフィは腕をのばして、まっすぐ前を指さした。
「あァ?」
「水平線っていうんだろ?昔、シャンクスに聞いた」
空の蒼と、海の蒼が、ひとつになるところ。
そこで、いったん海は終わっている。あそこが、きっと、この世界の果てだ。そして、次の世界への入口だ。
幼いルフィは、そう信じた。
だから、どうしても。あの線のところまで行きたかった。あの青の向こうに、何があるのかを見てみたかった。
「で?どうよ?」
ニヤニヤ笑いながら、サンジは聞いた。
「ジッサイ来てみた感想は?」
「うん。そこだ」
ようやく少々不満そうに、ルフィは口をとがらせた。
「やっと、海に出れたのはいいけどよー。やっぱり、水平線しか見えねえんだよなー」
「あー?」
「オカシイよなァ。それって」
予定では、最初の水平線を軽くクリアして、その先の世界と海を、見るハズだったのに。とっくに水平線の向こうを、知ってるハズだったのに。
どこまで進んでも、水平線。
行っても、行っても、水平線。
ちっとも、近付かない。
「フシギ線だ!!」
「不思議セン〜?」
「そぉだっ!フシギ線だなっ!!だから、カンタンには行けねェんだ!!」
「…………」

オイ。
違うだろ。
何でも『不思議』で片付くと思うなよ。世の中ファンタジーじゃ済まねェんだからよ。たまには、てめェの夢みてェなカン違い、気付いて修正しとけよ。

と言ってやろうとして、サンジは、コトバを飲み込んだ。ルフィの、一途にキラキラした瞳を見ていると、どうにも息がつまってくる。
仕方ないので、サンジもファンタジーネタで対抗した。
「そりゃオマエ、永久にムリってモンだ」
「なんで?」
「虹の端つかまえるみてェなモンだぜ」
「んん?」
「追っかけても、追っかけても、届かねェのさ」
「ん……うん?そうか?」
しばらく首をかしげている。それから、あっさり言い切った。
「いや、届くだろ。いつかは」
「なんで、そう思う?」
「フシギ線だからだ!!」
「おまえな」
サンジは呆れる。
でも、いつも言い返す気にはならない。言ってもムダとか、疲れるから、というよりは……
何となく、逆に説得されそうな気がして怖いからだ。
根拠もナイのに。
至極当然な、キョトンとした顔で、ルフィは主張している。
「だって、お前、不思議だって思わねェのか?!あそこに、ちゃんと線が見えてんだぞ?おれ、ずっと、あそこに行ってみてェと思ってたんだぞ?なのに、全然、近付けねェなんて……」
変だ。
とルフィは言う。
イヤ、変なのは、てめェだろ。
と言いそびれたサンジは、その代わり、
「おれは…お前と違って、海上生活、長ェからな」
歳くったオトナみたいなカオで、苦笑した。
「そういう憧れがふくらむ前に、船に乗っちまったから」
「そうか?」
「そうだろ。だって、お前がスイヘイセンに憧れてた頃にゃ、おれァ、もう海に出てたんだ。そこで、働いてた。ドリーム描いてる余地ねェよ」
「ふぅん?」
ルフィは、また少し不満気な顔をした。
サンジは、その後ろで、白い手すりに背を預ける。そうして今度は、空に向ってキレイな丸いケムリを吐いた。
「でも、お前はさ…ルフィ…」
「んん?」
「最期まで、そうやって水平線の向こうを、見る気満々なんだろう」
「そりゃ、そうだ」
「たとえ見れなくとも。死ぬその瞬間まで、見る気満々なんだろう」
「ああ。だって、見てェもん」
それ以外の選択肢なんて、ないように、ルフィが言った。
その様子は、すごくキッパリしていて、そうして、とても楽しそうだった。
そんなルフィが、サンジは、好きだと思った。
でも、コイツに比べりゃ…自分は、かなり、リアリストだ。とも思った。
それは、なんだか淋しい感情だった。

もちろん。自分だって、ありもしない海を信じて、この船に乗り込んだバカの一員だ。けれど。
現実を、多少なりとも知っている。と、思っている。
夢の途中で、夢を見続けたまま死ぬのではなく。
夢を諦めながら、それでも生き続ける人生が、この世には在ることを、知っている。

たしかに…
海上レストランは、クソジジイのもう一つの夢だった。ジジイが後悔なんてしてないのも知っている。
でも。
もしも赫足が健在で。もしも仲間が無事だったら。迷わずオールブルーを目指してた事も、知っている。
自分だって…あの足の事がなければ、もっと早く外に出ていた。

海は……海に賭ける人間たちの、美しい夢だ。
けど。その夢を、奪い、飲み込んで、暗い底へ沈める。そんな事もある。
夢であり、
夢の…捨て場でもある。
ここには、数えきれない人間たちの、痛みが沈んでる。

そう思いながら、サンジは、少し重くなった口を開いた。

「海は、怖いぜ?」
「うん。知ってる」
「へェ。案外だな」
それでも平然と変わらないルフィの笑顔を見つめて、サンジは苦笑した。
「ま、何度も死にかけてはいるか」
「そういうんじゃねェよ」
「あぁ?」
「怖いけど…好きだ。だから、怖くねェし。おれの楽園だ」
「なんだよ、そりゃ」
「言ったとおりだぞ」
「お前さ……」
ふと、サンジは、思ったことを口にした。
「海に……裏切られることなんて、絶対ナイと思ってるんだろう?」
「ああ」
「海は、いつだって夢の象徴だと、思ってんのか?」
「ああ、思ってる。だから言ってるだろ。おれ、海が好きだって」
「………」

やっぱホントは、コイツ、何もわかってねェんじゃねェのか?
もの知らずな憧れだけで、生きてんじゃねェのか?
そんな気がして。
腹立だしくなってきて。
サンジは、ついと、背を向けると、
「ジジイは…足を、海でなくした」
と言った。

少しだけ、静かになった。
それから、ルフィが答えた。

「んじゃ、一緒だ。シャンクスの腕は、海のヌシが喰っちまった」

―――おれのせいで―――

二人同時に、言っていた。

サンジは、やや長いタメ息を、ケムリと一緒に吐き出した。
これだから。
知らねェくせに。
とは言えない。気付いてない、わけでもない。
ただ信じてる。
本気で。
海ってものを。
それに向かう自分も一緒に。

ついてけねェな。と思うと同時に、この男が、心底怖いと感じる。

おれは、こんなふうに、夢を信じたまま、最期の瞬間を迎えることが、できるだろうか?
誰も。何も。恨まずに。憎まずに。
たとえ夢に、届かなくても。
届かなかった自分を、夢を、信じて許してやれるだろうか。

あの奇跡の海に、心だけでも……還れるだろうか?


と。
思い出したように、ルフィが、言った。
「なあ、サンジ」
「なんだよ」
「こっちが裏切らなけりゃあ、裏切られることなんか、ないんだぜ?」
「どういう意味だ」
「だから言ったとおりさ」
「………」
だってよ。と愉快そうにルフィが続けた。
「向こうがいくら裏切っても、こっちがそう思わなけりゃあ、裏切られたコトになんねえじゃねェか!!」
「…………」
「海なんてさ、とくに、そうだろ?」
「あァ?なんで?」
「だってさ。どんなものでも、最期は……海に還るんだから」
「…………」
「シャンクスが、言ってた。すべてのものは、海から生まれたんだって。だから、みんな最期は海に還るんだって。…だから………

…………シャンクスの腕も、海に、還ったんだって…」

それは…。
あの日、いつまでも泣きやまかったルフィに使った彼の詭弁だったかもしれない。
でも、ルフィは、それを信じた。

シャンクスのためにも。
自分のためにも。
シャンクスの夢のためにも。
自分の夢のためにも。

ただ、それを、信じた。

「だからさ、サンジ」
「あ?」
「おっさんの足も…海に還ったんだよ。おっさんが一番行きたかった海に、還ったんだよ」
「じゃあ……オールブルーに………行ったかな……」
「ああ、たぶんな」
きっと、お前が来るの、先に行って待ってるさ。
そう言って、ルフィは笑った。

眩しい、
この海と空のような、澄んだ笑顔だった。

「そうだな…」
サンジは呟いた。
頷いて、小さく、微笑み返した。
「ジジイの足は、オールブルーに、いったんだろうな」

それを……
どうしても、
信じることは、できないのに。

信じたいと願ってる自分に気づいて、サンジの笑顔が微妙に歪んだ。

Fin.