(まったく…カカシ先生は、よくわからない!!)


むしょうにムカムカしながら、イルカは外を睨んでいた。その顔を、オレンジ色の長い陽射しが、低くナナメに照らしている。
放課後の空き教室だ。もう誰もいない。
イルカはさっきから階段教室の一番前の席に座り、まるで生徒みたいに机に頬杖をついている。両手に包んだ頬をふくらませ、むっつり黙りこくっていた。
明日から始まるナルトの中忍試験が、心配でたまらない。せめて、もう一年でも、受験は待ってもらえないだろうか。
そう、わざわざ上忍の職員室まで(今度はケンカ腰ではなく)嘆願に行き、またもや無視され戻ってきたばかりだった。
「たく…あのカカシって男は…!!」
イルカは、つい声に出して独りごちた。
職員室では、互いに「先生」「アナタ」と丁寧コトバで呼び合っているが、今はとてもそんな鷹揚な気分になれない。
「いったい、何を考えているのやら!生徒の命にかかわる大事だってのに!!…それを、あんなカンタンに…」
だいたい…そう、だいたい、だ。…と、怒りのあまり、アタマの中で、さらに文句はエスカレートした。
あのオトコは…自分がえらく優秀なもんだから、他人の痛みなんか、どうでもいいと思っているフシがある。
もう暗部でもないのに、一般教員のクセに謎だって多すぎる。
仲間の前で、あれほど顔をかくしているのも気にいらない!
あの、ほとんど右目しか見えない、クールで整った姿。
いったい、あの下には、どんな素顔が隠されているのだろう?
「フン。どーせ…」
子供みたいに口をとがらせ、イルカは思った。
どーせ、冷たくて強引で高慢ちきで……。
「……あ…れ…?」
ふと。……なぜだろう?
怒りに煽られ次々に考えていたら、急に、長いこと忘れていた、ある重大な出来ゴトを思い出した気がした。
なぜ今、そんな想い出が、突然甦ったのかはわからない。
(でも…)
なんだか急にダブってしまったのだ。あの正体不明な男に、昔の、ある不思議な記憶が。
あれはまだ自分が、この席で、ほんとうに生徒だった頃のこと。確か…あれも試験前。アカデミー卒業試験の前日だった。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆




「おい、イルカ」
「え?」
その日、イルカは授業を終え、学校から家に帰る途中で、たむろしていた数人に声をかけられた。同じアカデミーのクラスメイトだ。成績はいいが、いつも残忍な目をした連中だった。
「おまえってさぁ、イイよなぁ」
イヤミでヘンなトーン。きっとイヤガラセだ。そう直感したから、イルカは黙って通り過ぎようとした。
なのに。
……なぜか、つい立ち止まってしまった。
いつもそうなのだ。水中諜報活動の授業中、皆の前でぶざまに溺れるフリをしたり。屋上から無意味にダイビングしたり。何もない所で、コケたり落ちたり…。
自分のリアクションで、誰かが笑ってくれる。自分を見て、喜んでくれる。それが嬉しいから、一生懸命バカをやる。
だからその時も、せっかく声をかけてくれたから、何かがんばってサービスしなけりゃならないと、反射的に思ってしまったのかもしれない。
イルカはちょっと通り過ぎてから、ワザと首だけ仰け反って、逆さまに、大きな黒い瞳を、もっと大きくしてみせた。
「なんで?オレがイイのさ?」
「明日は、アカデミーの卒業試験だぜ?」
「うん」
「だから、よ」
「だから、なんで?」
「だってよぉ。おまえ、バカじゃん」
「え……」
すうっと背中が寒くなった気がした。
底意地の悪い冷たい声で、ギャハハ、とそいつらが一斉に笑った。
「だぁーってオマエって、人がフツーにできるコトも出来ねーじゃん。今さら焦ったって落第見えてっから、明日の試験も心配ねーだろ?だから羨ましいぜ、って言ったんだよ」
「そーそー。オレらなんて落ちたらどーしよーってドキドキもんなのによー。おまえは毎日ヘラヘラ笑ってばっかで、自分がバカなの気にもしてねー」
「気にするだけのアタマねーもんな」
「いーじゃん?親いねーから落ちても叱られることねーし」
もう一度、そいつらが笑った。
イルカは、頭から冷水をぶっかけられたみたいに、しばらくそこに突っ立っていた。全身が、冷たい痛みでズキズキした。
しばらくして、ぎゅっと噛んだ蒼白な唇から、それでもイルカは「アハハ」と笑った。
「そ。オレってば、バカだからさー」
おもいっきり元気に、楽しそうに笑ってみせた。それが、せめてもの抵抗だった。それから、急いで大股に歩きだした。
「おまえらと違って、オレにはなーんにも悩みなんて、ねーからよー!!すっげェ気楽なんだよ!アハハハ!」
背後で、「バッカじゃん?」と声が聞こえた。




家に着くと、イルカは明かりをつけた。部屋がいつもより、いっそう暗く見える。
今夜はたまたまバイトがなかったから、残飯みたいな夕食をかきこむとすぐ、ヒザを抱えて横になった。
薄暗い古ぼけた電燈が一つぶら下がっているきりの、寒々とした部屋。
家具を買う金なんかない。暖かいものは何もない。誰の声も聞こえない。両親も兄弟も、訪ねてくる親友さえ、いない。
あんまり寂しいから……一番になりたかった。
でも、学業も体術も忍術も武器も、自分よりすごいヤツはいっぱいいた。いくらがんばっても、どれも一番になんてなれなかった。どうしようも、なかった。
(だから…オレ……)
誰もいないガランとした部屋で、抱えたヒザに顔をおしつける。結った黒髪が震えていた。
誰も知らないのだ。自分の、ほんとうの心を。
ほんとは…バカで笑いをとるより、すごいことしてホメられたかった。友達が、欲しかった。両親に生きていて欲しかった。誰かに自分をわかって欲しかった。隣で肩を抱いてくれる暖かい手が欲しかった。優しい笑顔が欲しかった。
でも何一つ、かなわない夢だった。
「………う…く…」
嗚咽で、のどがつまる。泣いても泣いても、涙が出る。
昼間、誰よりも大声で笑った自分は、夜になると声を噛み殺し、独りで泣いた。
いったい、どれだけ泣けばいいんだろう?
いつまでこうしているのだろう?……一生?
しゃくりあげる声が、どうしようもなく喉に込み上げてきたそのとき。
バァァン!!
ものすごい音がして、イルカは飛び上がった。
「……な…?!」
部屋中に真っ白いケムリが充満している。何かが窓から飛び込んできたのだ。
「誰だ!?」
目に力を入れた。ケムリの中に、人影が見える。
大人が二人。
「え……?」
ぜったいに夢だ、と思った。
目の前で、死んだはずの両親が優しい声で笑っている。
夢だ、と思ったのに。気がつくと走っていた。ふくよかな甘い匂い。飛び込んで、しがみついて、大声で叫んだ。
ところが。抱き締めた腕のなかで、二人の体がみるみる縮む。イルカは驚いて顔をあげた。
「なっ?!」
自分より、少しだけ高いところに端正な顔がある。歳は…同じくらい?…少年だった。
「だ…誰…!?」
唖然としているイルカの背に両手をまわし、ぎゅうっと抱いて、にこりともせずマジメな顔で、そいつは言った。
「イルカ、私よ?…なんちゃって」
「だっ…誰だよおまえ?!と…とーちゃんは?!……かーちゃんは!?」
「あ。今の人達はね、あれはオレの術。幻術と影分身なの。オレ謹製。オリジナル合わせ技一本」
アッサリと、いかにもフツーに、そいつは答えた。あんまりフツーだったので、本気か冗談かも、わからなかった。何がなんだか一つもわからないまま、イルカは酸欠になったみたいにパクパク口だけ動かした。
「だっ…誰なんだよ?おまえ?!なんでここにいるんだ!?なんでオレにこんなことするんだ?!なんで…」
「質問多いね、あんた」
やれやれ、と大人びたカオで眉間にシワなんか寄せてから、そいつはワケのわからない理屈を述べた。
「まず、名前だけどね。教えない」
「な…」
「ココにいるのは、オレが入りたかったから。で、なんで、こんなことしたかってゆーと…」
「………」
「一度、あんたに抱きつかれてみたかったから」
「な…なァ!?」
「……って言ったらビックリする?」
ニコッと、そいつが笑った。
そのときになって、イルカはそれまでずっと、彼の胸にしがみついていたのに気がついた。
「うわぁっ」
突き飛ばすように離れると、イルカはパニクったまま何度も何度も瞬きした。
そいつは別に消えもせず、目の前にスッキリ立っている。
淡い色の髪。左の瞳だけ…少し色が違う。奇妙な色。薄い唇はキリッと形よくひきしまっている。
全体に、すごくキレイで…カッコイイ。こんな生徒がいたら、絶対に目立つはずだ。なのに、一度も見たことがなかった。
ようやく落ち着いてきて、イルカはもう一度聞いた。
「アカデミーの…生徒なんだろ?いったい何年生の…」
「アカデミー?」
えっとー。と、彼は首をかしげた。
「だいぶ前に出ちゃってるよ。オレ、中忍だから」
「うそ…」
「ホント、ホント」
「何言ってんだよ。まだ子供のくせにィ!!」
イルカは自身をタナにあげて思ったが、
(あれ?もしかして…)
そこで急に思い出した。
たしか、同じ歳くらいなのに、もう中忍やってる天才がいるって…。クラスの先生にハッパかけられたことあったっけ。
「それじゃキミが…その天才…」
彼はまた、ニコッと笑った。笑顔になると、ちょっと見とれてしまうほど、優しい気がする。
それにしても、いったい何しに来たんだろう。両親の姿にバケてまで。少し赤くなりながら、イルカは用心深く思った。
(親のいないオレを、からかいに来たのか?だったら、許せない!)
ちょっと身構えたイルカを、しかしそいつは無遠慮にジロジロと頭のてっぺんから足の先まで眺めまわした。それから勝手に背後にまわり、最後に「ふーん」とうなずいた。
「あんたって背中に、いつも一番しょってるんだよね」
「え…」
はっとして、イルカは振り返った。自分の上着の背中には確かに『一番』の文字がある。いつも、それを着ていた。
「でもさぁ」
と、そいつは、ごくごく自然な口調でサラリと言った。
「その一番って、今のところ残念ながら……バカの一番って意味なんだろーなァ」
「な…」
絶句したまま、イルカは何も言い返せなかった。
あんまりハラがたって。なのに、否定も出来なくて。
でもなぜか、イジメで言われたときみたいに、寒気のするような痛みや孤独は感じなかった。
そいつは、まったくイヤミなく、すんなり思った通りのコトみたいに、そう言ったのだった。
「あんたってさ、いつもバカやってるでしょ」
「う…」
「しょーもないイタズラやったり、ワザとコケたり」
「お…オレの勝手だろ!!悪いか!!」
「ま、ね。そりゃー勝手だけどさ」
ポリポリと、ひとさし指で頬をかきながら、そいつは少しキビシイ口調でこう言った。
「でもね、バカはバカだよ。ただのバカ。誰もほんとに認めやしない」
なんて奴だ!!
イルカは、自分でも気付かないまま、今まで誰にも見せなかった怒りと本音を、正直にぶちまけていた。
「だったら、どーしろって言うんだよ!?仕方ないだろ!!それしかないんだから!!おまえみたいなエリートにオレのキモチなんて、わかってたまるか!!」
相手は、しばらく黙っていた。反撃にそなえて、イルカはぐっと拳を握った。けれど、返ってきたのは、またしても何の悪意もない声だった。
「それ、自分で書いたんでしょ?」
「え?」
めんくらったイルカの背を指し、そいつは、あっけらかんと言った。
「一番の、番の字がまちがってる」
「え〜?!」
「『ノ』書いて、『米』書いて…その下、『日』じゃなくて『田』だよ」
カァッとイルカの頬が熱くなった。
そーなんだ。どーせオレは、一番の字も間違うよーな、ほんとーのバカで…。
しかし悔しかったから、「ちょーどそこでインクが切れたんだよっ」とイルカはわめいた。
彼は、「ふーん」と頷いて、親指とひとさし指をアゴにあて、しげしげ眺めている。
「見るなよ!!」イルカが怒鳴った。ちょうどそのとき。
ガッシャーン!!
今度はガラスが割れた。何だ!?と思う間もなく、変な霧がモウモウとたちこめる。聞いたこともない鋭い耳障りな声で「キサマ!!ここにいやがったか!!」そう響いた次の瞬間。腕を引っ張られ、イルカの体は宙を飛んだ。
「うわぁ〜!?」
気がつくと、さっきの彼に引きずられ、懸命に走っている。割れた窓を、さらに格子ごと破って飛び下りたのだ。夜の往来を二人で突っ走りながら、イルカはわめいた。
「次は何なんだよ!!いったい!?」
「実はオレ、追われてんの。禁断の巻き物盗んじゃって」
「はあ?!」
呆気にとられたまま、走りながら振り返ると…忍者だ。数名の黒装束の男達が、すごいスピードで迫ってきている。
「くっそー!!だから、たまたま通りかかったオレの家に逃げ込んだってわけなのか!?」
「ま、ね。カンベンしてくれよ。オレの命に免じてさ。実は、ついさっきも殺されかけちゃって」
「木の葉じゃないぞ!!あいつら!!」
「ん。だって、霧の国の巻き物盗んだんだもん。アイツら全員、霧隠れ。つかまったら、ぜったい殺されるよ。賭けてもいい」
「おまえなーっ!!なんで、そんなトコからそんなモン、盗むんだよ!?」
あんまり呆れて怒鳴ってしまってから、イルカはふと思いついた。
「あ。キミって中忍だっけ。んじゃ、極秘の任務?」
「いや。ただの好奇心」
さっきと全然変わらない口調でコイツはあっさりそう言った。
いきなり部屋に入ってきてから、イルカには、サッパリ何だかわかりゃしない。ただわかっているのは、死にもの狂いで一緒に逃げてるってこと…。
「なんで、オマエの好奇心のせいで、オレまで殺されなきゃなんないんだよ!?」
「それは…オレとあんたが、運命の糸で結ばれてるから」
「だ…」
ゴクリと息を飲んでから、イルカは大声で吐き出した。
「誰が運命だあ!?バカヤロー!!」




もう、ずいぶん走った。
街を過ぎて、森に入っている。なのにいくら逃げても追ってくる。とうとう息が切れてきて、イルカは一瞬、目がくらんだ。木の根に足をとられ、バランスを失い、フワリと体が宙に浮く。
「うあッ」
ハデに地面に激突した。
「あ、バカ!!」
ナナメ前を走っていた彼が振り返る。同時に、追いついた霧隠れたちが、クナイを握って飛びこんでくる。
殺される!!
とイルカが思った瞬間、戻ってきた彼が何かを投げた。
キィン!
鋭い金属音が響き、バラバラと黒い装束がハネ飛ばされる。しりもちをついたまま呆然と眺めていたイルカは、引き起こされて再び走った。背後から飛んでくる凶悪な手裏剣をかわしながら、二人はとにかく逃げ続ける。
ときどき、空を切る音が耳をかすめ、かすった髪の毛先を吹き飛ばされる。そのたびに、しなやかな腕がイルカをかばって右へ左へ引っ張った。
(あれ…)
ふと気付いて、イルカはそっと隣をうかがった。
さっきから、左の動きだけ、ちょっとおかしい。
もちろんイルカからみれば信じられないほど素早いが、イルカが彼の左に立つと、ほんのわずかだけ動きが鈍る。
(変だな…)
その時。ちょうど左から手裏剣がきた。
よけた。でも、もう一枚。これもよけた。なのに、もう一枚。
「マズ…裏手裏剣3枚か!!」
初めて彼の、焦った声を聞いた。失敗したんだ、とイルカは気付いた。次はたぶん、よけきれない。思ったとたん体当たりしていた。隣の脇腹をつかんだまま、イルカが飛ぶ。自分の体を盾に、彼の左を手裏剣から隠しながら、右へ、高く、大きく……
(痛!!)
歯を、イルカはくいしばった。気付くと全身を岩や枝に打たれながら、ゴロゴロ転がり落ちている。視界が、上下左右にブレている。
しばらくして凄まじい激痛と一緒に、体が止まった。
「おいっ大丈夫か!?」
すぐに起き上がった体が、イルカの肩を抱き起こした。
「う…うん」
目を開くと、食いつくみたいな顔がある。不安と心配に揺れた瞳が、じっと上から見つめていた。
「ケガ、ないか!?」
「た…たぶん……」
「オレを突き飛ばして一緒に谷底へ落ちるなんて!!ったく……イルカ…あんた、なんてムチャするんだ!!」
怒ってる。
そこでようやくイルカは、一時的にせよ、偶然、追っ手を無事まいたことに、気がついた。
「良かったね。お互い…」
「なに言ってんだ!一歩まちがえば、あんたが死んでたんだぞ!!」
「だって、…左が…」
怒っていた両眼が、はっと見開いた。色の異なる左の瞳に、わずかに動揺が映っている。
しばらく、彼は黙っていた。それから、はぁーっと息をつき「よく気付いたなァ」と感心したように苦笑した。
「今まで、誰にもバレなかったのに…。うまく隠してたんだけどねー。オレの弱点」
「その左目…」
イルカは、おずおず言ってみた。
「よく見えないんじゃ…」
ハハハ、と彼はあっけなく降参したように笑った。
「正解。コレって不良品なの。ずっと前からね。ま、できればいつか、優秀な眼に取り替えたいとは思ってるけど…」
そうして、今度は小さく苦笑した。空にかかった細く蒼い月みたいに、透明な、不思議に寂しい声だった。
「天才だのエリートだのって言うけどさ。オレだってムリしてんのよ。そうとうに…」
しんとした、少し冷たい森の空気。二人の息づかいだけが聞こえている。
と、突然。それまで静かだった辺りに、無数の気配が走った。
「チッ。マズいな。もう来たか」
ザザッと滑り降りる音。もう、背後に迫っている。舌打ちした彼に向かい、イルカは何気ない態度で聞いてみた。
「ところで、盗んだ巻き物は?」
「え?…これだけど?」
無防備に差し出された軸物。それを、イルカはイキナリ奪い取った。
「え?!おい!!」
慌てた彼を置き去り、イルカが霧隠れの方へ走る。
「おまえら!!」
すぐそこまで迫っていた黒い影達に、イルカは大声で叫んだ。
「おまえらが探してんのはコレだろ!!今すぐ返してやるから、とっとと帰れ!!でもって盗ったのはオレだ!!もう一人のヤツは関係ないんだ!!何も知らない!だからオレだけを殺せ!!」
バカ!!と背後で叫ぶ、彼の声が聞こえた。
霧隠れが近付く。足元に転がった巻き物を、彼等が拾う。
今だ、とイルカは思った。
一瞬意識の逸れた忍者たちに向かい、フェイントをしかけて突っ込んだ。が、ひらりと、軽くかわされる。
「うわ…」
勢い余って吹っ飛びながら、アハハ…とイルカは苦笑した。
「やーっぱ、ダメかぁ…。オレごときじゃ…」
後ろから、無数のクナイが飛んでくる。死ぬんだ、と直感した。
でも、その間にアイツが逃げてくれればいいのだ。
だってオレには…こんなことしか…。
「?!」
ところが。最後に必死に振り返ったイルカは、そこで不思議なものを見た。
(なんだ…あれ…)
巻き物は、確かに連中の手に戻った。それから連中は、自分とアイツに襲いかかり、二人をズタズタに引き裂いた。
イルカは、自分自身が殺される所を、確かに見た…ように思った。







「何だったんだ…今の…」
霧隠れの影がすべて去り、すっかり静かになった谷底で、イルカはボーッとつぶやいた。
すぐ隣で、コトもなげにアイツが笑っていた。
「さっきのはオレの術。連中は、オレ達を消したと思ってる。これでもう安心だよ」
「幻術?……得意の、合わせ技一本?」
「そ。オレがあんな奴らから、あんた一人守れないわけないでしょ?」
「…………なんて奴…」
それから二人は、黙って谷を登り、木々を縫い、森を抜けた。
淡い月明かりの街を黙々と歩いていると、不意に隣で彼が言った。
「やっぱ巻き物…惜しかったなァ」
「なに言ってんだか。相手は霧隠れだぞ。取り返して始末するまで、どこまでも追ってくるに決まってる。…殺されたいのか?!」
「いんや」
「……たく…」
「でも、せっかく盗ってきたのになァ。苦労したんだよアレ」
「知るか」
「でも…正直、ビビッた。あんたが、あんなムチャするから」
「………」
それからしばらくして、なぜか急に、真摯な声でポツンと言った。
「なぁ…イルカ…。ホントの一番になれよ」
ギクリと怯んだ頬が、うつむいた。
「無理だよ。だって、オレなんか…」
「大丈夫。絶対なれるさ。あんたなら」
「………」
「一番っていったってさイロイロあるだろ。成績だけじゃなくってさ。あんたは、すごいよ。初対面のオレを助けよーとしてくれたじゃないか。なかなか出来ないよ。フツー」
「でも結局、役に立たなかったし…」
「たったさ」
「どこが」
「オレ…すっごく、嬉しかった。こんなに嬉しかったの、久しぶり」
彼が、笑った。はっとするほど無邪気で優しい笑顔だった。
思わず見とれていたら、ハタと元に戻ってしまった。
「でもさ、やっぱり巻き物は惜しかった」
「まだ言ってるよ」
「あんたが敵に渡したんだから、責任とって欲しいよね」
「あーのーなー!」
「だから代わりに…コレをもらう」
「これって?」
「コレ」
ぐっと、瞳が近付いた。
淡い髪が触れる。頬が触れる。息がつまる。唇が重なり、熱い舌が絡みついた。
「う…?うわああぁっ」
事態に気づいて、イルカは悲鳴をあげた。
濡れた唇をはなし、ヤツはハハハと楽しそうに笑った。
それから懐からマジックを出し、イルカの背中に、番の字の足りない一本を引いてくれた。
結局、どこの誰なのか、最後まで名乗らなかった。
「あんたが何かでホントに一番になったら、そん時に教えてあげるよ」
片目をつぶりフザケた言葉だけを残して、風と一緒に消えた。
翌日、アカデミーの試験で、イルカは見事に合格した。
そのさらに次の日、イルカをイジメた連中が誰かにボコボコにされた、と後で聞いた。





◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆





いつのまにか、教室は暗くなっている。うるさいほどの虫の音がカン高く響いている。
ボンヤリ聞いてたら、ポンと後ろから肩をたたかれて、イルカは我に返った。
「何してるんです?イルカ先生」
「え?」
「こんな所でたそがれちゃって」
振り返って見上げると、カカシがそこに立っている。
右目だけの隠れた顔で、彼はニコッと笑った。
「なーんだ。まだ心配してるんですか?ナルトのこと」
「当然でしょう」
先刻の口ゲンカを思い出し、イルカはむっつり言い返した。
「大丈夫ですよ。ナルトなら」
「なんで、あなたにそんなことがわかるんですか!」
「わかりますよ」
クス、と右目が微笑んた。
「だって、ナルトはあなたに似てますから」
「え…?」
「イルカ先生、私の予言は、めったに外れないんですよ」
「よく言う」
「だって、あなただって、ちゃんと一番に、なったじゃないですか」
「えぇ?私が?何の?」
ちょっと驚いて、イルカは面喰らった顔をした。
「冗談はやめて下さいよ。私はあなたとは違う。今だに中忍だし…たかがアカデミーの教官で、窓口の受付で事務仕事やってる身です。ごくごくフツーの…」
「でもあなたは、生徒に強く慕われる良い先生です」
「え?」
「たぶん…この国…いや、世界で一番の、すばらしい先生ですよ。少なくとも、私はそう思っています」
ぼんやりしているイルカに、カカシは何か含んだ声で笑った。
「あ。そうそう。私の名前ね、カカシって言うんですよ」
「何を今さら」
「いえ。約束でしたから」
そう言うと、彼は目の前で額当てをはずし、マスクをはずした。吸いこまれるように、イルカはその顔に見入ってしまった。
「昔から、ほとんどね、どんな時でも他人には見せたことないんですよ。この顔」
カカシが、笑った。
あのとき、最後に見たのと同じ笑顔で。
「どうして……」
とイルカは言った。声がなんだか上ずっていた。
「あの時は、素顔のままで私のところへ…?」
「たまたまね、あなたがアカデミーに通っているのを見たんです。授業を受けてるところも見ましたよ。遠くからですが」
「………」
「一生懸命、バカやってるヤツがいるなーと思って。そしたらね、なんだか行ってみたくなっちゃってね」
ハハハ、とカカシは少し照れたように笑った。
「それじゃあ…最初からそのつもりで…?では、あの巻き物や忍者は何だったんです?」
「もちろん、本物ですよ。ほかに、あなたの家に遊びに行く口実が見当たらなかったもんで。もっとも、追われるときにワザとあなたの家の前を通るように逃げたんですがね」
しばらく、イルカは黙って彼を見上げていた。
すると逆に、カカシが聞いた。
「あなたこそ、どうして、あの時、私を助けようとしてくれたんです?命を捨ててまで…。まぁ、あなたはもともと優しい人ですけど」
「いや…その…」
口ごもったようにイルカは視線を逸らした。頬が、少し染まっていた。
「なんとなく…ですよ。なんとなく…私があなたのために役に立てるとしたら、あれぐらいしかないんじゃないかと思って。どうしてもそうしたかったんです。その…とっさに…」
なんだか妙に嬉しそうに、カカシはそれを眺めて言った。
「今度、遊びに行ってもいいですか?今度はフツーに」
「え?ウチにですか?」
「ええ」
スラリとした背中がかがんで、不意にイタズラっぽい唇が重なった。
「…う…わ…」
あの時のように驚いて、瞳をパチパチさせ、頬を赤らめているイルカがいる。ようやく探していたものを見つけたような、不思議に安らいだ夜の闇が、優しく二人を包んでいた。




■おわり■