早朝の鳥が、さえずっている。


楊ゼンは、西岐城の廊下を、なんとなく歩いていた。崑崙山から避難してきた大勢の仙道たちが寝泊まりしている部屋を、外から眺めては通り過ぎる。

本当は、人を探しているのだ。けれど、相手にこれといった用が、あるような、ないような……。

だから、なんとなく、右側が外に面した長い廊下をブラブラ歩いていた。
片付けねばならない仕事も山ほどある。軍務と政治の雑用を全部押し付けて出掛けてしまった太公望の代わりに、せっせと働く毎日だ。
なんといっても、太公望が帰ってきたときに、一部のスキもなく身替わりが勤まったところを見せたい。

(それは……いいんだけどね……)

一つだけ、喉に物がつっかえたように気になっている。仙界大戦が終わってから、気掛かりな道士が一人。

(あれ?)

ちょうど探していた人物が柱の陰で、遠くの朝焼けを眺めているのを偶然見つけ、楊ゼンは立ち止まった。

(やっぱり、元気がない…)


それは、当然だとは思っている。だから、ずっと気になっていた。






城を支える大きな柱によりかかり、天化は、ずっとあの宝貝をもてあそんでいる。

楊ゼンが手渡した、道徳真君の形見だ。
ふだんなら朝焼けに映えるはずの表情が、どこか暗い。一見して落ち込んでいるようにも見えないが、じっと宝貝に落としている視線が、なんとなく寂しい。
言葉をかけるキッカケに迷って、しばらく考えていた楊ゼンは、ようやく思い切ったように、声を出した。

「天化くん、そこにいたんだ」
「楊ゼンさん…?」

漆黒の、長い前髪が揺れて、しなやかな若者の額がこちらを向く。楊ゼンは会話につまって、つい当たり障りのないことを言った。
「天祥くんは?」
「まだ、寝てるさ」
「そう…」
「楊ゼンさんこそ、こんなに早く。……俺っちに何か用さ?」
「いや…その……たまたま通り掛かっただけなんだけど……元気かなぁと思って……」

見えすいたことを言ってしまってから、楊ゼンは続ける言葉を見つけられずに黙ってしまった。
父譲りのきれいで青い、大きな瞳をパチクリさせて、
しばらく見ていた天化は、急に察しのよい笑顔で、

「俺っちなら、大丈夫さ」

と肩をすくめてみせた。

楊ゼンは、逆にうろたえて、
「うん。でも……」
と言ったまま、視線をしどろもどろさせている。
天化は笑顔のまま、ちゃかすように、くわえタバコの先を突き出した。
「楊ゼンさんこそ、大丈夫さ?」
「うん。ありがとう。でも、僕には……師叔がいるし…その……」
なんだか、かえって余計なことを言ってしまいながら、
それでも、楊ゼンは、どうにか話を続けようとしている。

本当は、ずっと責任を感じていた。
天化の手にある宝貝を、頼まれたとはいえ、自分が手渡すことになってしまった行きがかりに。
最期に天化によろしくと、道徳に頼まれたのは自分なのだ。

「ごめん、天化くん」

いきなり謝ってから、楊ゼンは、まっすぐに言った。
「その…キミが、西岐に来てから、ずっと元気がないもんで……。こんなこと言ってもどうにもなるものじゃないのは、わかってるけど……僕でよければ話くらいは……」
「楊ゼンさん」
「え?」
「だから、俺っちなら、大丈夫さ」
「そ…そう……」
「と、言いてぇとこだけど」
楊ゼンを見つめていた明るい瞳が、そっと翳った気がした。

「やっぱ本音は、こたえたさ。こぅ〜……そろって逝かれちまうと……」
「うん」
うなずいたものの、楊ゼンも、どう答えていいのかわからない。
まだ、はっきりと日の出ない、ぼんやりした明るい朝モヤが、2人の上を漂っている。
少しそれを見上げて、
天化が先に口を開いた。
「でも……」
「え?」
「でも、おやじの最期は…しっかり見届けたから……。最期まで、人間の天然道士として、おやじはがんばったさ」
「うん……。そうだったね……」

言ってから、楊ゼンは、ふと思いついて聞いてみた。
「そういや、キミのお父上…武成王は、スカウトもれだったのかい?キミの家系だったら……崑崙の道士として修行しても良かったのに…」
「いや…自分で断わったって言ってたさ。人間のままで人間を守っているのがいいって……」
「なんだか、武成王らしいね」
「でも、俺っちは……もっとオヤジの力になりたかったから…………。なのに結局………肝心な時に、役に立たなかったさ……」


また、静かな沈黙が流れている。


しばらくして、やっぱり天化が、先に口を開いた。

「でも……」
「え?」
「相手が、聞太師だから……」
「……?」
「聞太師は、おやじが若い頃から、ずっと好きだった人さ」
「………天化くん……」
「おやじは自分で考えて、自分から、あの人のために死んで……何の後悔もしてなかったと思う」
「……………」
「俺っちだって、聞太師が、嫌いじゃなかったさ。小さい頃は、よく遊んでもらった。いつも冷徹で厳しい顔をした聞太師が、おやじといる時だけ本当に楽しそうに笑うのも、知っている。あの人も、おやじのことが好きで……本当に…大好きで……」

そこまで言って、天化は急に、唇を噛んだ。噛んだ唇が、白く引きつっている。
ようやく出た声は、かすれていた。

「……もっと……嫌な奴なら良かったさ」
「………天化…くん?」
「聞太師が…もっと嫌な奴で…ただの…妲己の手下だったら、俺っちが、コーチとおやじの仇を討ってやるって言えたのに…」
「天化くん……」
「なのに……」
これじゃ気持ちを、どこにも持っていけない。

コーチは聞太師に殺されて。
おやじも聞太師のせいで死んで……。
でも、おやじは、
その聞太師のコトが好きで、聞太師の本当の心を守るために、聞太師と一緒に死ぬ道を選んだのだ。

「こんなのって……俺っち、どうすればいいさ……」


ちくしょう…!


と言って、天化は柱を拳で殴った。


何度も、殴っていた。


「ごめん」
いたたまれない気になって、楊ゼンは、また目をそらしてしまった。
「僕なら…少しはキミの気持ちがわかるんじゃないかって……思ったのに。
でも僕には…憎しみをぶつけて仇を討つ相手がいたから……」

うつむいていた天化の顔が上がる。それから、少しして、いつもの声が出た。

「玉鼎さまも、王天君の紅水陣で殺られたさ?」
「うん。その後…僕の父も…僕の目の前で……」
「そっか……」

確かに、似ているのかもしれない。それに、楊ゼンは、道徳真君の形見を持ってきてくれた。
柱を離れ、天化は、おもむろに、楊ゼンに正面から向き合った。

「本当は俺っち、楊ゼンさんに、ずっと聞きたいことがあったさ」
「僕に……聞きたいこと?」
うなずいた天化は、やっと決心がついたように静かに言った。
「コーチは……どうだった?」
「どうって?」
「最期、見てたさ……」
はっとして、楊ゼンは見つめ返した。
それから、どう言おうかしばらく迷っていたが、
結局、見えた通りのまま、話すことに決めた。

「その…驚いたよ。僕は…道徳さまが宝貝持って本気で戦うの、初めて見たから……。道徳さま、すごかったよ。やっぱり崑崙十二仙の戦士だなぁって感じでね」
「ま、俺っちのコーチだかんな」
「でも聞仲は……もっと強くて……あの場にいた誰にもどうにも出来ないほど、強くて……」
天化の瞳がわずかに歪む。
それでも逸らさずに聞いていた。
「道徳さまも、身を挺して食い止めようとしたんだけど……聞仲のほうが全然速くて……」
「聞太師がすごいのは、俺っちも知ってるさ」
「一対一で戦ったら、僕らだって相手と自分の差がどれくらいあるのか、すぐにわかるじゃないか?だから道徳さまだってすぐにわかったと思うんだ。どうがんばっても勝てないって」

一生懸命、道徳の一つ一つをすべて思い出すように、楊ゼンは話した。
天化は黙って聞いている。
本当は、知るのがずっと怖かった。
でも、いつかは聞かなければならないと、思っていた。

だって自分にとって、かけがえのない存在の、生きざまだから。
大切な人の最期は、一番大切だった自分が知っていなければならない。

楊ゼンの声が続いていた。
「でも、道徳さまは、一歩も引かなくて……。ただまっすぐに進んで……。絶対負けないって顔をして…。絶対に、絶対に、勝ってやるんだって顔をして……。その顔が……」

途中から黙ってしまった天化を見つめて、楊ゼンは少し微笑んだ。


「天化くん、とても…キミに似ていた」


「え?」


「最期の道徳さまは……最期の瞬間、本当に…キミに似ていたよ」


天化の瞳が、大きく見開いている。
どこか呆然としたその顔が、しばらくすると、柔らかな笑顔に変わった。

「楊ゼンさん、それ、違うさ」
「違う?」
「コーチが俺っちに似てるんじゃなくて、俺っちがコーチに似てるのさ」

くす…

と笑って、天化は空を見上げている。
ちょっと前まで崑崙山があった方角に、視線を向けていた。

「俺っちは、何年も……ずっと…コーチと一緒だったから………」
独り言みたいにつぶやいた唇が、そう遠くもない過去を思い出している。

「でも、崑崙山に来たばかりの頃は、よくダダこねてコーチを困らせたさ」
「キミが?意外だな」
「その頃の俺っちは、まだ仙道の生活に慣れなくって…」

崑崙山の生活は、単調だ。
早朝に起きて、修練して、休憩して、また修練して、講釈を聞いて、休憩をして、また修練をして……。
王都朝歌から来たばかりの頃は、それが、なんとはなしに不満だった。
青峯山の紫陽洞の上にある巨大な岩場に立って、下界を見渡しながら、よく天化は隣の道徳に文句を言った。
「仙道は……」
「ん?」
「仙道は……宝貝が造れて、霊薬が造れて、空も飛べる。でも、なんだか、何もしてない気がするさ」
「そうかな」
そんな時、いつも道徳は隣に立って、苦笑しながら天化の話を聞いている。
だからあの時も、やっぱり道徳は天化の隣で苦笑しながら、そう言った。
「でも、とりあえず今は…迫っている大戦のためにって目標がある。金鰲と決着をつけたい、とかな」
「それだけさ?」
「だけ……って?」
「それじゃあ、結局、自分たちのためだけさ」

なんとなく、天化は不満だった。
もっと、仙道というものに夢を描いていたからかもしれない。
道士になれば、何でも出来る。その絶大な力で、もっと自分の周りの人たちを幸福に出来るはずだ、と……。
でも実際は、地上とかけはなれた高い空の上で、ちまちまと自分の修行をするだけだ。
そして、近く、ずっと小競り合いを続けていた金鰲島と戦うことになるかもしれない、という。
天化は、ちょっと失望した。

「だったら、そうだな……」
なんとなくつまらなそうな天化を見下ろして、道徳は、マジメに考え込んだ。
いつも、彼はそうだった。天化の言葉に、それがどんなにささいな事でも、一生懸命に応えようとする。真剣な顔で腕を組み、しばらく下界を睨んで考えていた道徳は、急に思い付いて笑顔になった。

「そうだ」
「なにさ?」
「戦いが終わったら、天化と2人で、世界旅行に行こうか」

は?
という顔で、天化が見上げている。
一瞬言葉を失った彼は、それから気がついて、素直に驚いた。
「えー!?いきなり何言ってるさコーチ…」
「オレと出かけるのが、嫌か?」
「そ…そんなわけないけど…」
「じゃあ、決まりだ」
道徳は、にこにこ笑っている。天化は、妙に照れたような気恥ずかしいような、不思議な気持ちで、道徳を見つめた。
「でも…どうして急に、そんなこと……」
道徳の瞳が、遥か下の人間界を映し、強く輝いている。
遠くをしっかり見通す、はっきりした声で、彼は言った。

「この世界には、いろんな人達のいろんな未来があって………オレたちは仙道だけど、やっぱりそういう人間たちの一部であって……皆と一緒に生きている。だろ?」
「うん」
「だから、そのことを、2人で…実際にこの目で見て、体で感じたいじゃないか?」
「う…うん」
「だからさ、天化。今まで2人で修行したことを使って…旅をしよう。今生きている、大勢の人達の役に立って、困っている事を助けることができるように、2人で、オレたち仙道の力を生かす旅をしよう。逆に、オレたちが皆に助けてもらうことだって、あるかもしれない。でも…そういうすべてが、いいじゃないか?」
ぱっと、天化の瞳が輝いた。
「それ、いいアイディアさ、コーチ」
「気に入ったか?」
「絶対、約束さ」
「もちろん、オレも喜んで」

そう言って道徳は、微笑んだ。


崑崙山を吹き抜ける、爽やかで清浄な風のように、微笑んだ。




「コーチは……」
黙って聞いている楊ゼンを前に、天化は、つぶやいた。
「コーチは、いつも、公明正大で、強くて、優しかった」
「………」
「コーチは、いつも俺っちの憧れで……」
「………」
「俺っちは、コーチのようになりたくて……」
「………」
「だから…一生懸命、コーチの真似をした」

コーチに近付けるように、真似をした………。………だから俺っちは、コーチによく似ていて………

「あれ?変だな。どうして、涙が……」

ポタ…と、一滴、熱い雫が落下して、握った宝貝を濡らした。
「いっけねぇ」
天化は、焦ったように、慌ててガシガシこすっている。照れ隠しかもしれない。でも、道徳の最期を見取った宝貝の前で、泣きたくなかったのかもしれない。

ところが。


円筒形の宝貝が、突然、真ん中からパカッと二つに割れた。



「え?」
驚く天化の手の中に、丁寧にたたんだ小さな紙が落ちてくる。
「……?これは……」
一緒にのぞきこんだ楊ゼンの目の前で、紙はひとりでに大きく広がり、そこから明るい光が現れたかと思うと、見る間に一人の人間の姿を立ち上げた。
「コ…コーチが出たさっ」
「天化くん落ち着いてっ!こ……これは、たぶん立体映像だよっ」
と叫んだ楊ゼンもあまり落ち着いてはいない。紙から現れたスポットライトのような光の中に、
その紙を踏むようにして道徳真君が立っていた。
いつのも冗談めかした明るい道徳だ。手にはめた大きなミトンを、額のあたりにかざして笑っている。

『よっ天化!元気だったか?』

「しゃべったさ!」
「だから、何かの仕掛けだって……」
天化と楊ゼンは、同時に固まっている。そんな2人におかまいなく、道徳の映像は一方的に流れていた。

『実は、十二仙が戦いに出る前に、太乙に頼んで作ってもらったビデオレター宝貝を、入れておいた。驚いたか?オレに万一の時は、これが無事おまえの手に渡ることを願うよ』

「そうだったんだ……」
「知らなかったさ……」
呆然としている2人の前で、道徳は明るく苦笑した。

『オレたちはこれから聞仲を倒しに行くんだが……今ちょうど、隣で慈航が、絶対死にたくねぇっとか言って騒いでる。確かに、全員が生きて戻れる可能性は、かなり低い。でもな、オレは、自分でも不思議なほど落ち着いてるんだ』

いつものくだけた快活な調子だ。けれど、瞳がとても真剣だった。

『なあ、天化…』
と彼は言った。

『それはきっと、おまえがいるからだと思っている。オレの気持ちは、天化が知っていてくれる。たとえオレがここで死んでも、オレの目指したことは、天化がわかってくれている。
だからオレは、何も怖くなんか、ないんだよ』

「コーチ……」

天化は、向き合った道徳を、食い入るように見つめている。道徳の瞳は、じっと、彼に注がれていた。

『おまえの父上の親友と戦うのは、実はオレにとっても……勝っても負けても、辛いことだ。本当に心の底からの悪人なんて、多分いないと、オレは信じてる。だから、天化………』

道徳の真剣な瞳が、ふっと笑った。

あの時の、崑崙の風のように微笑んだ。

『どうか、おまえは……敵を憎まないで、戦ってくれ。憎まないで、いつか2人で見に行くと約束した、世界の大勢の人達のために戦うのだと、思ってくれ。オレの天化は、オレに似て、強くて優しい男だから、きっとそうしてくれると、信じている。…最後に……』

そう言って道徳は、最後に、すまなそうに小さく笑った。

『約束を……守れなくて、すまなかった……』


宝貝を握りしめた、天化の手が、震えた。

「せっかく修行したのに……」

それなのに……。
せっかくコーチの弟子になって、いっぱい教わったのに……。

「どうして俺っちは……俺っちの一番大切なものを守れなかったんだろう…?」

道徳の形見を、指が白くなるほど握っている。
うつむいた天化の肩に、楊ゼンが、そっと手を置いた。

「だから、さっき言ったじゃないか。似てるって…」
「………」
「道徳さまの気持ちは、キミが受け継いでる。だから……」
「だか……ら?」
「道徳さまが守りたかったものを、代わりにキミが守ればいいじゃないか。それが、道徳さまの……キミに宛てた、最期の言葉なんだよ」

「…最期の…ことば?」

そう、天化が繰り返した瞬間。

茜色の雲間から、一気に明けの光が現れて、天化の顔いっぱいに降り注いだ。


清浄で爽やかで、力強くて美しい…。


まるで、

天化を迎える道徳の笑顔のような、

眩しい朝の導きで……。





(完)