「妖怪仙人に受けたキズは、太乙に診てもらえ」

そう言ったのはスースだ。

だから、余化の原型がハラをかすって以来、オレっちは、ちょくちょく太乙真人師弟のと

ころに通っていた。

太上老君を探しに出たスースの代わりに、楊ゼンさんが指揮している宿営地には、仙界大

戦で避難してきた仙道が大勢加わっている。

むろん、太乙師弟もその一人で、あの人は、失ったラボの代わりにテントを一つ占領し

て、宝貝人間の修理やら、ケガ人の手当てやら、そのほか軍の雑多な面倒事の一切を引き

受けていた。

あのテントに行けば、魔法のように何でもなおる。

いつの間にやら、そんなウワサが周軍の中に流れている。それで、人間も崑崙の仙道も金

鰲の仙道も、同じように太乙師弟に助けを求めに行っていた。

確かに、あそこへ行けば、物も人も皆、治ってしまう。

ただ自分は、はじめにあの冗談とも本気ともつかない穏やかな白い顔で

「天化くん、キミの傷はねぇ……少々やっかいだよ」

そう言われていたから、なんとなく覚悟はしていた。

傷は、ずいぶん経っても、良くも悪くもならなかった。じりじりとわずかに血が滲むだけ

だから、包帯をキツく厚く巻いておけば日常生活に支障はない。けれど、確実に何かが、

少しずつ抜けていくのだけは、わかっていた。

天祥と遊んでやるのは、兄として、親父を亡くした幼い弟を慰めるためだろうと、誰もが

思っているけれど、本当は、自分のためなのかもしれない。

いつも皆の前では笑っていた。でも、その実やっぱり不安で、怖くて、そして何だか、と

ても寂しかったのだ。

心の底から愛した人達は、一人ずつ順番に死んでいって、結局、カタキもうてないまま

に、もはや五体満足とはいえない自分が最後に残ってしまった。

なんてことだろう!

そうなってしまうまで、自分はかなりの楽天家だったと、今となってはそう思う。もっと

も、今でも楽天家なのかもしれない。だって俗に言う『悲壮な決意』はあるけれど、ちっ

ともそれが悲しいとも壮烈だとも、思ってはいなかったから。

ただ、やるべきことはやらねばならない。そのためには、おとなしく治療だって受けにい

く。

でも、その夜に限って、太乙師弟はいなかった。









「太乙さん……?」

垂幕で仕切られた深い暗闇に鼻先だけを突っ込んで、一応、そっと呼んでみる。暗いテン

トの中に、人の気配はない。同じ目的でそこに集まってきていた数人も、次々に諦めて

帰ってゆく。

(仕方ねぇなぁ。オレっちも帰るか……)

そう、踵を返しかけた時。

声が、聞こえた気がした。

奥から、ほんの些細な、声みたいなものが響いてきた気がしたのだ。

思わず、足を踏み入れていた。

押し殺しているような、すすり泣いているような、それでいて熱っぽい訴えのような不思

議な音が、確かに聞こえてくる。

(こっちか……?)

闇の中、聴覚だけが過敏になってきて、導かれるように、体が引き寄せられていた。

太乙真人のテントの内部は奇妙な造りになっている。外側からは、八角形のやや大きめ

な、ただの皮張りのテントに見えるのだが、中に入ると、いくつもの部屋に分かれていて

無限に広い。これも崑崙十二仙である太乙真人お得意の発明に違いない。皆、そう思って

いるから、かえって不用意には近付かない。自分だってそれは承知しているはずなのに、

なぜか、今は引き返せなかった。それほどに、その小さな小さな声は、不思議な蠱惑を秘

めていたように、思う。

音が、不意に大きくなった。

黒いドアの隙間から、淡い光が足下に細長く延びている。吸い寄せられるように、そばに

立った。

「………!」

刹那、自分は見てはいけないものを見たと、思った。思った瞬間、すぐにその場を離れる

べきだったのかもしれない。言い訳のようだけれど、のぞくつもりなんて、なかった。で

も、細い隙間からうっかりそれを見てしまって、正直それからどうしていいのか、わから

なかったのだ。

そうしてただ、そこに立ったまま、金縛りにあってしまったように、黙ってそれを凝視め

ていた。

(…………)

くすんだ橙色のランプの下で、白い肌が揺らめいている。漆黒の髪が乱れるたびに、対照

的な肌の白さが浮かびでる。

太乙真人の、しどけなく解けかかった上着の合間に見え隠れする白磁のような肩、腕、

胸。しかし、そのいずれよりも眩いのは、油断して広げられた露な下肢だった。たった独

りでそこに居ると思い込んでいる彼は、遠慮も恥じらいもなく、あますところなく肢体の

艶を放っている。

誰もいないその部屋で、太乙が独り、自身を握り、激しく上下に動かしながら喉を震わせ

ている。虚ろな双眸は、どこか遠くを映しており、半開きの口唇は、身悶えする喘ぎを絶

えず漏らし続けていた。

自分が見ている前で。

彼は、そうとは気付かずに、その唇に、白く長い指を入れた。

くゆらし撫で吸って、一筋の光る唾液の筋を唇の端に残したまま引き抜かれた指先は、自

身の秘所へと誘われてゆく。自ら扱きながら、同時に自分で奥を突く。

「は…アァ…ッ…」

極まった淫らな声が辺りに溢れる。滴った先走りの液が、内股を流れランプの炎を映じて

煌めいている。彼の両手はぬらぬらと輝く淫らな光で一杯になり、自ら腰を上下させ全身

を震わせる姿は、妖しい魔力を含んだように美しかった。

(この人に…こんな姿があるなんて……)

打ちのめされるような衝撃で、それを見ている自分の中にも、いつしか熱い何かが頭をも

たげている。

密やかな喘ぎはいよいよ激しくなり、身体の律動がそれを更に追い上げる。

ふと、その濡れた唇が、文字をかたどって動いた。

「………兄……」

え?と思った。

「……師兄……」

やっぱり、え?と思っていた。

「玉鼎……師兄……ッ…」

半ば悲鳴のようなその声が、かすれた息遣いにまぎれて、それでもはっっきり耳を打っ

た。

荒い吐息とともに瞳に浮かんだ光が、汗なのか、それとも涙なのか。ここからではよくわ

からない。ただ、どうしようもなくその姿は、哀れで切なくて、それでいて永久に目に焼

きついてしまうほど美しかった。

誰をも癒すこの人は、誰にも癒されることなく、こうして独り自らを慰めている。

その時。

呪縛されたようにドアの後ろに突っ立っていた自分が、太乙師弟の虚ろな瞳に明らかな影

を投じた。

はっとした。

けれど、向こうも同じかそれ以上に、驚愕していた。太乙師弟の両の瞳が、熱に潤んだま

ま、大きく見開かれている。どうしようもなくなって、いまさら逃げるのも卑怯な気がし

て、自分は、とうとうドアを大きく開け、部屋の中へと踏み入った。




「あの…」

「キミは……」

二人の声が同時にかぶった。何が気まずいのかハッキリしないような、ハッキリしすぎて

よくわからないような、奇妙な沈黙が横たわっている。

「えっと…そのぅ……」

あからさまに不自然な困惑を浮かべて、片手で頭をかきながら、自分は、やっぱりそこに

突っ立っていた。太乙師弟は、一瞬バツの悪そうな顔をして、それから少しためらってい

たが、最後に開き直った口調で明るく言った。

「天化くん」

「え?」

「悪いけど、キミ……この状況、手伝ってくれる気はない?」

「え?……ええ〜〜」

しばらく意味を考えあぐねてからその意図に気付き、思わず突拍子もない声を上げてし

まった。

「そ…そんな…でも……」

「キミも大人なら、無断で見た責任をとってくれるべきだと思うけど」

皮肉というより、逆になだめるみたいに、太乙師弟はそう言った。

「で…でも…」

「だってキミは道徳といつも……慣れてるんじゃないのかい?」

「だってオレっち、自分でやったことないから、よくわからないさ」

あんまりうろたえてしまって、情けないけど、つい正直に、そう言った。太乙師弟ははじ

めて苦笑して、黒髪の軽くかかる美しい肩をすくめてみせた。

「じゃあ、試しにやってみる、っていうのはどうかな」

「太乙さんに…?オレっちを入れる…?」

「そう…」

「だ…だけど……」

「それとも、このまま私に恥をかかせる気なのかい?」

まるで哀願するようなその口振りは、本当に困っているような、それでいて計算された挑

発のような、どちらともつかない色を浮かべている。

さっきから、心臓がバクバク鳴っていた。

気まずいこの雰囲気を、一緒に堕ちることで忘れてしまう、というのは、なかなか良い口

実かもしれない。実際、太乙師弟の手でそこを撫でられると、ジーンズの上からだってい

うのに、ドクンと血管が浮くのが自分でわかった。

してみたい、という誘惑と、やっぱりいけないんじゃないかという短い葛藤にケリをつけ

たのは、それでも最後の微笑だったように思う。

白い頬に美しい疲れを滲ませて目を細めた太乙師弟は、まるですがりつくような、なのに

図星を指して責めるような不思議な声で言った。

「だって、天化くん。キミだって、道徳を亡くしている。本当はキミだって……恐くて淋

しい。……違うのかい?」







ほんとうは、コーチに教わったように、キスするつもりだった。まず額に軽く、それから

耳朶を柔らかく噛んで舌を這わせ、それから口唇を深くむさぼって……。

なのに緊張のあまり、いきなり唇を重ねたら、勢い余って、おもいっきり歯と歯をガチリ

とぶつけてしまった。

「いっ…痛いよっ天化くん!」

「わ…悪いさ…」

「かぶりつくんじゃないんだからさ」

クスリと、形のよい唇が笑った。

「へへっ…」と自分も笑った。

なんだか一気に、張りつめた空気がほどけた。

陶器のように見えていた肌は、意外に暖かくて、甘い密のようなかすかな体臭は、彼が自

分と同じ現実の人であることを少し実感させてくれた。

「太乙さんは……やっぱ、コーチと、こういうコトしたことあるさ?」

「昔ね」

すごく昔。と囁くように繰り返した唇には、想い出を懐かしむ以上のものは見えなかっ

た。

「ん……んッ…」

改めてキスをすると、今度はこの人の味がした。生暖かい感触も、ぴったり合わせた唇か

ら漏れるかすかな喘ぎも淫靡な音も、修行の半端な若い身体を誘うには充分だった。

そして何より自分は、この人の身体に、亡くしてしまった一番大切な人の面影を感じ取ろ

うとしていたのに違いなかった。

「……あ…ふっ…」

もう既に勃ちあがって腹まで反り返っているそれを握ると、手の中でビクンと震え、さら

に熱く力を増す。濡れた感触のまま片手で扱くと、華奢な腰が耐えがたいように振動し

た。

「ひ…ッ…あ…あッ…」

白い頬がひきつっている。向き合ったままその頬に空いた手を這わせ、美しい黒髪に指を

差し入れると、自分の両手の中に初めて見る太乙がいる。目の前で動く白い喉が新鮮で眩

しい。

「はッ…はぁ…」

太乙の吐息が、切ない。促されるように、首筋を撫で、乳首をつまむ。親指と人差し指で

つまんだ赤い突起を微妙にゆらしながら静かに揉んで、親指の腹で円を描くようにそっと

圧し潰した。

「アアッ」

敏感に反応し、太乙が体をくねらせる。

自分の手が巧みに、とはいえないかもしれないけれど、太乙自身をこすり、徐々に速めて

強く激しく摩擦した。

「ひあッ」

瞬間、太乙が腰をよじる。その仕草に、つい抱き寄せ、唇を吸い上げ舌を搦め捕ってい

た。

「ンンンッ」

頬を上気させ身をくねらせる太乙が、ビクビク震え、どれだけ感じているかわかる。男根

を嬲られ、口唇を犯されて、一度吐き出したはずの欲望が、もう、すぐに高まっている。

首を振っていた黒髪の動きが止まった。

自分の固いものが太乙の柔らかい秘所に触れたのだ。

「ア……ウ…はッ……はぁ…」

上に乗った身体が、自ら狙いを定め、ゆっくり挿入されながら震えている。一生懸命、動

きを合わせ、深く沈めたまま二人で腰を動かしはじめる。動きに合わせて美しい身体はま

すます乱れた。呼吸は上がり、肩が揺れ、汗が散る。

「アアアアァ----ッ」

激しい抜き差し。愛撫。その一撃一撃に合わせて、自分も彼も腰を振っていた。こする力

がより強力になり、無限の快感が押し寄せる。波に呑まれるように、一瞬我を忘れた。

飛び散った白液のなかで、乱れた息が散らばる。他人に挿入して射精するのは、初めて

だった。それは逆の快感とはまた違ったふうに甘美で強烈な気がした。

「もっと…もっと……ッ…頼む……天化…」

うわごとのような声に誘われて、もう一度太乙の花弁みたいな秘所に指を添えた。両足を

押さえ軽く秘所を撫でさする。

「んッ…ふ…」

まるで嫌々をするように首を振ると、その頬に長い黒髪がまとわりつき、むっとするよう

な色気が漂った。

「やっぱ、誘ってるんだ」

「ま……ね…」

何気なく、ぐったりした両足が投げ出され、大きく広げられたまま、すでに自分を受け入

れている。規則的に腰を動かしながら、もう一度、太乙自身を握った。

ぐちゅ。と精液が音をたて、自分を飲み込んでいる秘所が締まる。

乱れながら、彼は、何度も「天化、天化!」と名を呼んだ。

けれどその声は、たぶん別の何かを追っている。そして、自分もそうだった。

自分はやっぱり彼の感触を通してコーチと、コーチを亡くした自分の寂しさを追っている

気がした。密かな決意と、先の見えない不安を追っている気がした。

にもかかわらず、二人がすれ違うこともなく。傷を舐めあうわけでもなく。ただ優しく充

足しているのが、不思議だった。

互いに別のものを追っているのに、なぜか同じ何かを見ているのかもしれなかった。

太公望の策を、いちいち考え過ぎだと思っていた頃は、まだ無邪気だったと思う。ただ、

強い敵と戦うことが、無心に面白かった。

それから、取りかえしのつかない悲しみを、知った。知ってから、ようやく色んなものが

見えてきたように、思う。

それまで見えなかった、太公望や、太乙真人たちの視線の先にある、寂寞とした悲しみの

ような切ない何かが、見えたのだ。

それらは、生きる悲しみに、よく似ていた。

裏表のある哀しい顔や、これまで積んできた崇高な努力が、何の役にも立たなかった虚し

さ。目の前で大切なものを失いながら、圧倒的な力の差に歯ぎしりして、自分ではどうす

ることもできず、どこへ行くのかも見えず、それでもやっぱり選んで前を向いて、歩いて

ゆかねばならない冷えた悲しみに似ていた。

「太乙……太乙さんッ」

「天化!天化」

「太乙さん」

叫びながら自分は、無知や単純ゆえの幸福を捨てた者達は、一体、どこに行くのだろうか

と思った。

自分たちの、淋しさの行方を、探していた。

(完)