「おまえと会えて、良かったと思う」
大きくて溶けそうな落日を背にした聞仲が少し笑った。太公望は、まっすぐにその微笑を、口許を、蒼い瞳を、見つめている。
「わしは……本当は、おぬしとは戦いたくはなかった」
「そうだな。本当は……私達が戦う理由などなかったのかもしれない。あるとしたら……ささいな、運命というボタンのかけちがいだ」
「…………」
「でもこれで……やっと……」
言いかけたその唇が、身体が、落日に透けた。


やっと、うっとうしい肉体を脱ぎ捨てられた気がする。
魂だけになって、わかったことがある。
私は…………とても、愚かだった。


「今は……そう、思いますか?聞仲……?」
朝歌の上空を漂いはじめた魂に、話しかける者がいる。一人の仙人、額に黒い点のある白虎に乗った彼が、聞仲の形をした透ける身体を呼び止めた。
「久しぶりですね」
「ああ。久しぶりだったな、道化」
「あなたもこれで、ようやく封神されたわけですか」
またか…という顔で聞仲が笑っている。
「おまえは……そうやって何もかも見届けるつもりなのか?」
「当然です。これは私の趣味であり……義務でもあるのですから」
「…………」
「長い間、私はすべてを見てきました。大きなことも小さなことも。むろん、あなた達のことも」
申公豹は、能面のような動かない笑顔でそう言ってから、
「あなた達とは、年季の入り方が違うんですよ」
と付け足した。周囲に何もない高い空に、不安定に浮かびながら、殷の太師だった彼は少し瞳を伏せている。
「おまえにとっては、ささいな一瞬の出来事かもしれない。だが……私には長かった。飛虎が去ってしまってからは、本当に……とても……長かった……」
「かもしれませんね。あなたは私と違って、いつまでたっても人間でしたから」
「私は……何もわかっていなかった」
「それも、私はよく知っていますよ。なにしろ、ずっと見てきたのですから。『歴史の道標』のようにね。そう、確か、あの時も……」



あの時も……。



夜、聞仲は朝歌・太師府の執務室で、独り仕事を続けていた。夜が更けるにつれて外気がだんだん冷たく重くなる。木簡に書きつける筆の動きが鈍くなり、知らぬ間にポトリと墨が落ちた。
「…………」
字の上だ。修正するには、木を削らねばならない。聞仲はタメ息をついて、筆を置いた。
本当は、倒れてしまいそうなほど疲れている。いかに仙道といえども限界はある。軍務、政治、陛下、妲己……抱えることが多すぎる。
(少し…休むか……)
そう思うと、つい彼は、机上の小さなビンに手を伸ばした。
ふたを開けると、赤い丸薬が半分ほど詰まっている。数粒、口に含んだところで、後ろから声が聞こえた。
「また、そんなものを飲んでいるのですか?」
聞き慣れた声だ。またか、と思いながら、振り向きもせずに、聞仲は応えた。
「これが何か、わかるのか?」
「人間界の薬ではありません」
「ほう?おまえも試したことがあるのか…」
「昔ですね。どのくらい前だったかは忘れましたが」
いつ来たのか、窓枠に申公豹が座っている。表情のない笑顔のまま、彼は、丸薬をいくつも口に放り込む聞仲をじっと見つめていた。
「それを飲むと、優しい夢を見ながら、通常よりも深く眠れます」
「その通りだ」
「しかも、ただの夢ではありません。まるで現実のように、すべてがリアル。そう、眠っているというよりは、まるで、もう一つの別な空間に遊びに行くように……。別な空間で、別な時間を生きるように……」
「よく知っているではないか」
淡々と答える聞仲に、申公豹は、少々、非難の色を浮かべた。
「そんなものに頼らなければ、眠れないのですか?」
「フン。バカを言うな。ただ少しでも体力を温存するためだ。朝歌には、今、私以外に仕事をする者がいないからな」
「確かに現在あなたがこなしているのは、普通の人間なら、とっくに死んでいるほどの激務です」
「わかったら邪魔をするな。私にとっては寸暇を惜しんだ休息だ」
「……………」
何か言おうとした申公豹は、そのまま黙って姿を消した。



これは、夢。
そんなことはわかっている。あの薬を飲めば、望む世界が現れる。だから今も、平和だった頃の朝歌が見えている。
ただ、わからないのは、なぜいつもこの男が出てくるのか、だ。
(まあいいか)
聞仲はいつもそう納得する。確か記憶によれば、幸せなときは、必ずこの男がそばにいたはずだ。
「聞仲、オメーは、この国が好きだなァ」
風通しのよい高楼に立って、飛虎が笑っている。
「ああ、好きだ。殷は私の子、すなわち私の分身。肉体の一部かもしれないし、自分以上に大切なものかもしれない」
隣で、聞仲は、そう答える。
「飛虎、それは……おまえが一番よく知っているだろう?」
いつものように、そう答える。眼下には、繁栄した街並みが美しく照り輝いていた。
「おまえはどうなんだ?殷が好きか?」
「そーだな。殷は…俺の祖国だし……俺はオメーが好きだから、オメーの大好きなもんをオメーと一緒に、俺が守る!てゆーのが、いいかもしんねェ」
ニカッと飛虎が笑った。
年令のわりに童顔だ。飛虎と付き合うと、誰でもそう思う。顔が、というより表情が、いつまでたっても少年のようなのだ。降りそそぐ太陽のようなその笑顔を眩しそうに仰いで、聞仲は冗談混じりに言ってみる。
「ずっとか?」
「ああ、ずっとさ」
「そう言って、人はすぐに変わってしまう」
「俺は変わんねぇよ」
「でも……」
「しつっこいぞ、テメー!また殴られてーのか!?」
無防備で豪快な笑い声が、なのに耳を優しく撫でる。大口をあけて爽やかに笑いながら、飛虎は隣の背を抱いた。


「聞仲、夢はどうでしたか?」
翌朝、申公豹が、窓辺で聞いた。
「別に……」
目覚めたばかりの虚ろな表情で、聞仲が答える。
「しょせん、ただの夢だ。何の意味もありはしない」
「でも、また次も、同じような夢を見るのでしょう?」
「貴様が、何故そんなことを知っている」
「人が…帰りたくなる想い出の数は、そう多くはないからです。いくら、あなたのように長生きでもね」
「フン……」
うつむいて、聞仲は背を向ける。
そうして、一日の仕事をして、眠って、また夢を見る。
目が覚める。
仕事をして、眠って、また夢を見る。
同じような飛虎の夢を。繰り返し……。





「こんな所にまで持ち込んでいるのですか?」
暗い封印の壁を突き抜けて、呆れた声が響いた。狭い球体の中に監禁された聞仲が、ふと目を上げる。姿はない。けれど、気配を感じる。申公豹の声と気配だけが、直接、体の内側に語りかけてきていた。
「またおまえか。どうやって入ってきたのだ」
「十天君の亜空間も、私にはさほど障害にはなりません。あなたとこうして話をするくらいならね」
「言ってくれるな」
「すっかり、金鰲の元仲間にまで裏切られてしまったのですね」
ピクリと、神経質な細い眉がハネ上がる。それでも案外静かに、聞仲は言った。
「私が…甘かったのだ。油断していた。最初から、信じなければよかったのに」
「昔は、容易に他人を信じるタイプではありませんでしたね」
「平和ボケだな。あの男のせいかもしれん」
それを聞くと、申公豹は急に口をつぐんだ。代わりに聞仲が促した。
「で?こんな所に何の用なのだ?」
「用などありませんよ。ヒマだったから、のぞきに来ただけです」
「フン。おおかたそんなことだろうと思った」
今度は聞仲が黙って、抱いていた小ビンから、小さな赤い玉をつまみだした。
「呆れました。こんな所にまで持ち込んで飲んでいるのですね」
「べつに…。たまたま持っていただけだ。ここに閉じ込められていると、時間をもてあましすぎて退屈なのだ。おまえのようにな」
言いながら、口に放り込む。
「なにしろ、他にすることがない」
「それで、薬で眠ってばかりいるのですか?不健康ですね」
「こんなふうに、何もしないで何もないところに毎日ぼんやり浮いているほうが不健康だとは思わんか?」
「そうですね。よく狂わないものだと感心してますよ。普通なら、とっくに発狂しています。たとえば…王天君のように」
「私には、まだやることがある」
「殷の再興ですか?」
「そうだ」
「本当に?」
面白がっているのか、それとも本当に疑っているのかよくわからない声で、申公豹が繰り返す。なぜか、聞仲は黙った。




亜空間に閉じ込められてから見る夢は、決まっている。
これも、どうしてこんな夢なのか自分にはよくわからない。自分のなかでとっくに切り捨てたはずのものが繰り返し現れるのが、わからない。ただ、やっぱり今もその夢だった。
「聞仲、その仮面、はずせよ。やりにくいぜ?」
軽くウェーブのかかった淡いブロンドの中に大きな手を差し入れ、飛虎が耳元にささやいている。聞仲は、やや不機嫌に言った。
「……いいだろう、別に、このままで。戦場に行くときは必ずつけている」
「今は、戦いじゃあねぇぜ?」
ベッドの上で、軽く耳朶を噛み、顎から首筋にかけて舌を這わせながら、やっぱり飛虎がささやいた。聞仲は神経質な仏頂ヅラで応えている。
「妲己がいる。いわば戦時下だ」
「それでも、俺と2人っきりのときは、いつもはずしてただろ?」
「……………」
「特に、こんな時は……絶対にさ」
「……く……うッ……」
急に下から突き上げられて、白いのどが反った。身体の内に入り込んだ飛虎が熱い。背後から抱きしめられたまま動きが激しくなり、乱れた息が辺りに散った。
やはり、仮面が邪魔だ。
本当は、こんなうっとうしい物は、はずしたい。でも、北海の遠征から帰って以来、はずせなくなってしまった。
誰が敵でも、たった一つ安心できる場所。それが飛虎の隣だったはずだ。そんなことは、わかっている。
飛虎がいれば、何でもできる。
飛虎がいれば、何も怖くない。
私には……飛虎がいるから。飛虎さえいれば……。
でも、もう、その飛虎はいないのだ。
「ま、いいけどよ」
自分よりも白くて華奢な身体を膝に乗せ、後ろから抱き絞めながら、大らかでほがらかな声が笑った。
「俺には…仮面をはずしたおまえの顔がわかっているから」
「なに?」
「仮面をはずしたおまえの顔が、俺には見えているから…………」
耳の後ろで、飛虎がささやく。剃り残した不精髭が、首に当たってチクチク痛む。
「……………なぜ、おまえがそんなことを言う?」
「あぁ?」
「おまえは………」
ただの幻のくせに。そう言いかけた言葉を、聞仲は途中で飲み込んだ。





「夢は、どうでしたか?」
目覚めると、また申公豹がいる。どこかぼんやりしたまま、聞仲はつぶやいた。
「私がここに閉じ込められてから、どれだけ経つかな」
「どうしてです?」
「いや、時々、時間というものが、わからなくなる」
今頃、本物の黄飛虎はどうしているのだろうと、ふと思った。
「道化、太公望たちは今どのあたりだ?」
「そろそろ趙公明と戦うことになるでしょう。武成王も……ちゃんと生きてますよ?」
「武成王は……早く、死んだほうがいい」
「ふーん。そうなんですか?」
「ああ。一刻も早く。だから部下にも、急いで殺せと命じた」
私がどれだけ殷を愛していたのか。それを一番知ってたくせに裏切った。私を一緒に裏切った。あんな男は死んだほうがいい。
私が、早く忘れてしまえるように。私が、これ以上迷わぬように。私には、彼以上のものがあるのだと、信じることができるように。
「本当に?それで、いいのですか?」
「ああ。あんなものが生きているから、いつまでもつまらぬ夢を見る」
言いながら、聞仲は、また丸薬を口に入れる。
申公豹は苦笑して、黒点虎の千里眼を、周軍のほうへと向けさせた。
「あれ?あれが武成王?なんだか、元気がないようだよ。何かショックな事でもあったのかなぁ?」
しばらくして、黒点虎がそう言った。







進軍を続ける周兵たちから、ちょっと離れた所を歩く大小の影がある。
大きな影が、何か迷ったようにつぶやいた。
「太公望どの」
「ん〜?」
「オメーにこんな話をするのも変かもしれねェが」
「なんだ?」
「朝歌を出てきて以来………俺ァ時々妙〜な夢を見る」
「夢?武成王のユメとはどんなユメかのう」
小柄な影が、歩きながらおどけて隣を見上げている。飛虎は、前を向いたまま歯切れの悪い声を出した。
「朝歌に置いてきちまった………聞仲の夢だ……」
「ほほぅ、どんな?」
「なに、他愛もねぇ夢さ。平和だった頃の朝歌で、平和だった頃にアイツとやってたことをやる。それだけの夢だ。でも、それがよォ…その…えらくリアルで……。しかも最近やけに頻繁で、夜眠ってる間だけじゃなく、白昼夢ってゆーか……こう歩いてる時でも、気がつくと…目の前に……」
「おぬしが気にしているからであろう?」
「……かもしれねぇ」
常人よりも太い人さし指でポリポリ頬をかきながら、飛虎は体に似合わぬ所在なげな顔をした。太公望は、マジメな声になっている。
「おぬしは……ずっと……何を気にしておるのだ」
「む?」
「初めて朝歌で会った頃は、もっと威勢が良かった。周に来てからのおぬしには、なんとなく……覇気がない」
「そうかもしれねェなぁ」
大きく伸びをしながら、飛虎は蒼い空を見上げている。
「俺は……聞仲に、負い目を感じてるのかもしれねぇ」
「裏切ってしまったと?」
「でも俺がいなくても、あいつは強ぇヤツだから……。殷のために、裏切った俺を殺そうとするほど、強ぇ奴だから……」
「本当にそう思っておるのか?」
そう言われると、飛虎は黙った。
「…………もし…」
と再び口を開いた時には、口調がきつく変わっている。
「もしも……アイツがおかしくなっちまってたら…その時は、きっと俺がなんとかするぜ……」
「しかし、そのように惑っているおぬしを連れてはゆけぬ」
「だが、太公望どの。あいつがおかしくなってたら、それは俺のせいかもしれねぇよ」
「なぜ、そう思う?」
「夢さ」
「さっきの、夢……か」
「なんだか……ヘンだぜ。夢の中の聞仲が、さ。もしかするとアイツは……何か取り返しのつかねぇことを、やらかしちまうのかもしんねェ」
飛虎が黙ると、足音だけが、やけに大きく響いて聞こえた。







戦局が、押している。
十天君は、もうすぐ全員封神されるだろう。これで事実上、金鰲島は壊滅する。あとは崑崙山を落とせば………。
そう思いながら、暗い操縦室の中で、聞仲はやっぱり赤い玉の入ったビンを開けた。
ここしばらくは、誰も来ない。
丸薬を口に入れると、すぐにまた、この男が現れた。
「飛虎……?どうした?」
怪訝な顔で、聞仲は待っている。いつもまっ先に駆け寄ってきて笑う男が、今日は黙って突っ立っている。
「何をそんなに怖い顔をしている…?」
聞仲は近付いて、背の高い頬に触れた。
「………飛虎……?」
バカでかい男の、食いしばった歯がギリギリ鳴る。深く刻まれた眉間の皺。怒りに満ちた暗い瞳。その瞳から、一筋、涙がこぼれ落ち、そのまま、姿がすうっと消えた。
「おい、待て!勝手に消えるな!!飛虎?!」
何故だ?幻のはずなのに。
それとも、私の心がそう望むとでもいうのだろうか?
それとも……まさか……
「夢見は……あまり、よくないようですね」
不意に、申公豹の声が届く。どこからともなく突然やってくるこの声には慣れている。聞仲は、眠りから覚め、我に返って苦笑した。
「道化……こんな所にまで、よく来るな」
「もちろんですよ。私には楽しいイベントですから」
「おまえは……楽しいのか」
「あなたは、楽しくないのですか?すべてがあなたのシナリオ通りに進んでいるのに」
「うむ。そうだな。そうだが……」
うなずく聞仲の瞳が、なんとなく宙に浮いた。
「この頃、自分はどれだけ正気なのかと、よく疑う」
「どれだけ正気?あなたが?」
「ああ。もうだいぶ前から、私は……狂っているのかもしれない」
殺して、破壊して、殺して、破壊して、殺して……。
殷のために。私のために。
殷の未来のために。私自身の幸せのために。
(嘘だ!)
心のどこかが、そう、悲鳴をあげている。
本当は、こんなことしたくない。
幻の飛虎が、怒って泣いている。
「でも、私には、もう……殷しか……ないから……」
聞仲はそう言って、微笑した。今にも声を上げて泣き出しそうな顔で、微笑した。
本物の飛虎は死んだのだ。
私を裏切った時から、私の心の中で、死んだことにした。
「私は強いはずだ。私は……誰がいなくとも、たった独りで生きていける。殷さえあれば。私は……そう思ったから……」
だったらどうして、こんなに苦しいのだろう?
どうして、飛虎の夢ばかり見るのだろう?
今にも血を吐いて倒れてしまいそうなのは、何故だろう?
苦しくて。あんまり苦しくて、狂ってしまうのは、何故だろう?
聞仲は、どこを見るともなしに、ぼんやりとつぶやいた。
「まるで、迷宮だ。真っ暗な……出口のない……」
「武成王に……会いたいのですか?」
聞仲は黙っている。申公豹がつぶやいた。
「あの薬……」
「?」
「マニュアルにない奇蹟を引き起こしていますよ。あなたは気付いているのかもしれませんが…」
「なんの話だ?」
それには答えず、申公豹の気配は消えた。






薬で現れる夢は、とても優しい。
優しいハズだ。だって、そういう仙薬なのだから。
もうこのまま、何も考えずに溺れてもいいとすら思う。どうせ、一番望むものは手に入らない。
だが私の、一番望むものとは、何だろう?
「………ッ…」
いつもよりも乱れた肢体で、聞仲は自分を抱いている男を見つめた。今日は、いつもの飛虎だ。大きな両手で聞仲の顔を挟み込み、深い口付けを繰り返している。ただ、違うとすれば、いつもより、いっそう優しい気がした。
「聞仲、明日こそ会えるぜ。たぶん」
急に、飛虎が言った。聞仲は、驚いて見返した。
「何を言う。今、会っているではないか」
「そうじゃねぇ」
自分よりも明るいブロンド。自分よりも大きくて青い瞳が、まっすぐに見つめている。あまりに明るくて、まっすぐに蒼いので、聞仲はつい視線を逸らした。
「飛虎……おまえは飛虎だが、あれは武成王だ。私を裏切った……裏切り者の武成王という名の男だ」
「だから?」
「私は……おまえがいるからいい」
フッ…と、飛虎の唇が微笑んだ。
「俺がここに来るのは、今夜が最後だ。俺はたぶん……明日、封神される」
「何を言っているのだ、おまえは?おまえは……」
はっとして、聞仲は、視線を戻した。
「おまえ……まさか……」
「やっぱ命を賭けなきゃあ……オメーは気付いてくれそうにねェかんな」
微笑んだ飛虎の姿が、淡くなる。空気に溶けるように消えてゆく。
「待て!飛虎!!」
独りきりの声が反響し、気がつくと誰もいない周囲を、飛虎の温もりと、陽の光のような残り香だけが、包んでいた。
「おまえは……」
飛虎の魂だけが、大切なことを伝えに来ていた。
なのに、私は……本当にそうなってしまうまで、わからなかった。
自分が、何を望んでいたのかを……。





本当は、殷を守りたかったなんて、ただの口実だ。
私は……ただの、もろくて弱い人間なのだ。
守りたかったのは、殷の幸せではなく、他愛ない私の幸せ。
私は……私と同じ未来を見て、私と一緒に歩いてくれる誰かが居てくれなければ、ダメなのだ。
その人がそばに居てくれさえすれば、他には何もいらなかった。
なんて、愚かで、ちっぽけで、バカバカしいほど単純な自分だろう。三百年も生きていたのに、考えていたのは一つだけ。
朱氏を失った寂しさを忘れること。その後に、それ以上の幸福を手に入れて。もう一度、それを失ってしまった寂しさを忘れること。でも…。二番目の孤独は、あまりにも大きすぎて、忘れることが、出来なかった。
「私は……ただ、淋しかっただけだ。飛虎がいなくなってしまって……」
こんなにも好きだったのに。
こんなにも大切だったのに。
これほど大切な相手と、自分自身を裏切ってしまった。
多くの人々すら傷つけて。
裏切り者は、きっと……私だ。







巨大な落日の、最後の輝きが消えようとしている。
夕陽の、残った最後のひとかけらが、まるで、それが最後だと知っているかのように、ひときわ強く光っている。
朝歌の空に浮かんだ聞仲の姿が揺らめいて、微笑んだ唇が、オレンジ色の大気に溶けた。
「あとは太公望に任せようと思う。勝手かもしれないが…」
「勝手でしょう。でも、それもいいと私は思います」
申公豹が、頷いた。
「もう時間だ。飛虎のところへ行く。………飛虎は、待っていてくれるだろうか?」
「さぁ?いなかったら、どうします?」
生前には聞けなかった素直な聞仲の言葉に、申公豹は、からかうように言った。聞仲は、まっすぐな視線で、穏やかに笑っている。
「今度は背を向けないで、追いかける。追って、私を待って欲しいと自分で頼む」
微笑んだ瞳が、潤んだような光を宿した。
「こんな簡単なことに気付くのに、こんなに遠回りをしてしまうなんて……。やはり、私は愚かだった……」
「人間が狂うきっかけも、幸せになれるきっかけも、実は、とても単純なものかもしれません」
聞仲の姿が封神台の方を振り返った。
魂が、その姿を目指して飛んでゆく。
生きていた時には浮かべることのできなかった、透明な美しい笑顔をたずさえて。最後にそれを、申公豹の言葉が見送った。
「聞仲……。迷宮の出口は、見つかりましたか?」
ああ。光が見える。
光の中に、一番会いたかった人が、見える……。
飛虎が、あの、いつもの優しい顔で、笑っていて……

(完)