足が、痛い……。

自分で突き立てた打神鞭が、右の膝に食い込んでいる。手加減したとはいえ、尖った激痛がそ

こを中心にズキズキと全身を苛む。

(だが、おかげで……眠らずにすむ)

己の道服をデザインした専用の黄巾力士の上で横になったまま、太公望は、わざと大声で叫ん

でみた。

「普賢のバカ者が……わしを眠らせて、そのスキに自分だけ犠牲になろーなんて……てんで甘

いわ!」

一刻も早く、一人で聞仲と戦う普賢真人のもとへ戻らねばならない。

(そうだ。戻るのだ……。わしも……戦いに……)

なのに……。一方で、このまま眠ってしまいたい、そう感じている自分に気付いて、太公望は

我ながらドキリとした。

本当は、疲れている。痛むのは、もしかすると足ではなくて、張りつめすぎた神経なのかもし

れない。

(軍師のわしが……皆の命を握っている。味方の命も…敵の命も…)

その責任が、本当は、痛い。

(このわしに……そんな資格があるのだろうか……?)

今更そんなことを考えるのは間違いだと、わかっていても、気を抜くとつい、そう思ってい

る。でも、もし、そんなことが許されるのなら……すべての責任を放棄して、大声で泣きた

い。

………だけど、そんな弱さを、誰にも知られてはいけない。

(……今は……)

もしかすると、このまま切れてしまいそうな神経を、更に張って、彼は、懸命に、今のことを

考えた。

(わしが戻れば、もう少し時間がかせげる。そうすれば、そのうちに、十二仙が来てくれる。

そうすれば……楊ゼンも………)

楊ゼンも、きっと、来てくれる……。

先刻、宝貝デンワを通して聞いたばかりの、元気そうな声を思い出すと、太公望はなぜか急に

力が湧いた。

(あやつが無事で……本当に良かった……)

痛みで血の気の引いた唇にも、つい微笑みが浮かぶ。けれど、同時に切ない動揺も感じてい

た。

(わしの考えが当たっていれば、通天教主は楊ゼンの父。そしてさっきの宝貝の波動は……。

実の父相手に、さぞ辛かろうに……。王天君め……それを狙ってワザと……)

ギリリと唇を噛んで痛む身体を引き起こす。その胸を、ふと今の痛みにも似た不安が横切っ

た。

(……王天君は……封神されたのだろうか?)

そうであってくれればよいと、思う。

そうでなければ、やつはもっと、楊ゼンを苦しめる。

(でも、何故だ?なぜ、王天君は、楊ゼンにこだわる…………?)

とりあえず、慣性力だけでフワフワと頼りなく進んでゆく黄巾力士の操舵をとろうと、這いず

りかけた時、

−−−−−……知りてぇんなら教えてやろうか?よぉ?太公望……−−−−−

「なに?」

突然、アタマの中に声が響いた。





気がつくと、太公望は、暗闇の中に独りで突っ立っていた。

「な…?な………?」

とっさに事態がつかめず、慌てている。

右手には打神鞭を握っていたが、刺したはずの傷がない。痛みも消え、乗っていたはずの黄巾

力士さえなくなって、どことも知れぬ硬い床に立っている。

「ここはどこだ?!金鰲の中ではなかったのか?わしはどーしたのだ?!」

もしや、十天君に謀られて、またもや、新たな八卦図の中に引き込まれてしまったのかと、身

構えてみる。けれど、しんとした空間には、何の気配も読み取れない。ただ、だだっ広い闇だ

けが、不安なほどどこまでも続いていた。

「妙〜だのう……。だいたい、何が起こって、こーなったのだ?一刻を争う忙しい時だという

に〜」

確か、頭の中に声がした。と思うと、次の瞬間には、もう、ここに来ていた。

(やはり、十天君の一人にやられたか……。そう考えるのが妥当であろうが……)

早く普賢のもとに行かねばならない。そう焦りながらも、こうなってしまうと、どうにもなら

ない。太公望は、覚悟をきめた。

(仕方あるまい……。とりあえず……ここの敵を倒して早々に……)

と、闇がわずかに薄らいでいる。

そうして目の前に、幻のように見慣れた影が現れた。




「な?……よ……楊ゼン?!」

「師叔?!太公望師叔?あなたなのですか?!」

「ちょ……ちょっと待て」

互いに顔を突き合せて、まず驚いた太公望が、軽く打神鞭の先を振り、駆け寄る彼を押しとど

めた。

「師叔?」

「おぬし、ホントに楊ゼンか?」

「え?」

「え?ではないわ!この状況で、おぬしが本物だと思うほうがどーかしておるぞ」

「師叔……。いえ、僕も誰かにここへ連れてこられたようなんです。だって…これから十二仙

と金鰲へ向かう途中でしたから。道徳師弟の黄巾力士に一緒に乗って飛んでいたら、急に眠く

なって……気がついたらここに………って師叔、その目は思いっきり疑ってますね……」

「うーむ」

半信半疑で、太公望は依然、警戒しながら打神鞭の先を楊ゼンの胸に突きつけている。

「では、それが本当だとして……どうして、おぬしはわしを疑わぬのだ?わしだって敵が化け

たニセモノかもしれぬではないか」

「それは……」

トーゼンですよ。といわんばかりに、楊ゼンは自信満々笑ってみせた。

「僕が師叔を間違えるはずが、ありません」

「おぬしな〜」

さすがに毒気を抜かれ、ぐぅと詰まった太公望が、焦った顔で返す言葉を探している。その彼

に、

「それに……僕は…」

少しはにかんだような複雑な顔をして、楊ゼンは急いで付け足した。

「僕は……通天教主の息子です。だから十天君のワナになど、易々ひっかかりませんよ」

「……………おぬし……」

前に別れた時よりも、ずっと強く、大きくなった。なんだか、妙にくすぐったい感動で、太公

望も、とうとう、ほっと笑みをもらした。

「そうか……。おぬしは……やはり楊ゼンだな」

「師叔……」

その場を柔らかな空気が包んでいる。

ところが、それを破るように。それまでしんとしていた空間を、急に耳障りなカン高い笑い声

が引き裂いた。






「誰だ?!」

反射的に太公望を背後にかばい、楊ゼンは辺りを見回した。

ふざけた笑い声は、空間いっぱいに広がっている。その声に明らかな聞き覚えを感じて、楊ゼ

ンはぎょっとした。

「おまえは…さっきこの僕が封神したハズだ!なのに、どうして…」

「どうして、ココに居るのかって?王子サマ?」

空間の一点が、絞られるようにゆらめいている。

揺らめきが人の形を成したかと思うと、いつもの血色の悪い頬を歪ませてケタケタ笑う王天君

が現れた。

「よぉ?久しぶり、じゃあねぇな。さっきまで一緒だったもんなぁ?王子サマ」

「王天君……おまえ…いったい……」

「まぁ、待てよ」

先刻の続きで挑みかかる楊ゼンを制して、王天君はジャラジャラと銀の装飾をつけた右手を

振ってみせた。

「ま、この際、オレがユーレイかどーかは置いとこうぜ。オレも忙しい身だ。とりあえず先

に、アンタらがここに来たタネ明かしをしといてやるよ」

「タネ明かし?」

「楊ゼン、おまえの道服探ってみな。中からオレの宝貝が出てくるハズだ」

まもなく、楊ゼンの白い手に、銀色の指輪が転がり出る。ドクロの彫り込まれたそれを指し

て、王天君は

「あぁ、それそれ」

と笑った。

「そいつぁ、おまえらの魂を一ケ所に引き寄せる宝貝だ。さっきおまえにつかまった時に、入

れておいたんだよ。引き寄せるのは魂だけだが、疑似的に感覚もある。おかげで、ホンモノの

再会前にホントに会えて、よかっただろ?」

何が可笑しいのか、この十天君はよく笑う。

と、それまで黙っていた太公望が楊ゼンの後ろを出て、数歩、前に進んだ。

「で?王天君、わしらに何の用なのだ?」

常に冷静な軍師らしい、まったく動じない静かな声で、彼は言った。

「おぬしが生きているのか、それとも魂魄だけが封神台にいきそびれて彷徨っているのか、そ

れはここでは聞かぬ。ただ……わしらも急いでおるのでな。用件は早めに願いたい」

「おいおい…そりゃねぇだろーが。呼んだのはアンタのほーだぜ?太公望」

「わしが…おぬしを呼んだだと?」

「アンタが、オレに聞きたがるから、オレの宝貝が反応したんだぜ?」

「わしが……聞いた……?」

「ああ、聞いただろーが。オレが、なぁーんで楊ゼンばっかり構うのかってな?」

「なるほど……」

つまり、こういうことらしい。

太公望のギモンが王天君の宝貝に反応し、その宝貝の力で、2人の魂魄だけが、この妙な空間

に吸い寄せられて、閉じ込められた。

(ふーむ)

頭で整理しつつ、太公望は考えている。

(だが、なぜ…楊ゼンはともかくとして……。わしを……?)

その間、王天君は、楊ゼンにした同じ昔話を繰り返していたが、太公望がそう考えたとたん、

話をやめて、また笑った。

「太公望……」

「なんだ?」

「いくら考えたってムダだぜ。これにはアンタお得意の理屈なんかねぇんだからよ」

「おぬし、わしの考えておることがわかるのか?」

「ああ。この空間を仕切ってるのはオレの魂魄だからな。ま、強いて言うなら……ただの親切

さ。オレは、楊ゼンも、それからアンタのことも、大好きだからな」

言うなり王天君は、わざとらしく脇腹を押さえ、身を屈めてまたも大笑いした。

「だってよォ太公望?オレはアンタの、なりそこなった先輩なんだぜ?可愛い後輩が、あのク

ソジジィにどうダマされてるか、知っていたら教えてやりたくなるってもんだろォが」

「わしが……元始天尊さまにダマされている?」

その言葉を聞き咎めたように、太公望は眉をひそめた。

「あぁそうだ。アンタはあのジジィにダマされて利用されてんだよ。可哀相になぁ。せっかく

命がけで戦ってるってゆーのによォ」

身をよじって、王天君はゲラゲラ笑い続けている。笑いながら、彼は、意地の悪い視線で太公

望の反応をうかがった。

「あいつはな、はじめから自分と崑崙山のことしか考えちゃいねぇんだ。なのに、人間界の幸

せだなんだと抜かしやがって、お為ごかしもいいとこだぜ。すべてはキサマを利用する為なん

だよ?えぇ?わかったかよ?哀れな後輩?」

太公望は、黙って聞いている。たまりかねた楊ゼンが、間に割って入るように、怒鳴った。

「いい加減にしろ!王天君!!哀れなのはおまえのほうだろう?」

「ケッここにも殺してぇほどムカつくバカがいやがるぜ。虚栄心と偽善を並べて、それで、親

父殺しから逃避しようってヤツがなぁ?!」

「師叔!こんな薄汚ないヤツの言うことなど聞くことはありません!」

「はっ、オレには見えるぞ?楊ゼン、キサマ動揺してるな?太公望、キサマもだ!てめぇら

は、聞きたくない真実を前にして、うろたえてやがる。はは……いい気味だぜ!」

「聞かないで下さい!師叔!!少なくとも僕は……」

それがなぜなのか。自分でもわからないほど一生懸命に、楊ゼンは叫んだ。

「僕は……後悔などしていません!太公望師叔、あなたについてきたこと、父上を崑崙の道士

として看取ったこと、そして……僕が妖怪であることも……」

「………そう……か……」

そのとたん、太公望が何かを決めた瞳で、うなずいた。

「?!」

目の前に立つ小柄な崑崙道士の、大きな瞳が、じっと王天君を見つめている。何もかも見通し

たような、落ち着き払った瞳。それでいて、何かを悲しんでいるような瞳。その一方で、もっ

と深い思いを潜めたような、底のない瞳。

とっさに、ギクリと蒼い子供の顔が引いている。それを眺める太公望が、微笑んだ。

「のう、王天君?おぬしの親切には実に感じるものがあった。ぜひともお返しをせねばと思う

のだが……」

「はぁ?」

面喰らった青い顔が、明らかにたじろいでいる。それをまっすぐに見つめたまま、太公望は、

もう一歩前に出た。

「王天君、今からおぬしに、一つ、わしの手品を披露しよう」

「手品ぁ?………キサマ何を考えている」

急に読めなくなった不安で、王天君の青い唇が鈍く光る。しかし、それにかまわず、太公望は

斜め後ろを軽く振り返った。

「楊ゼン、さっきの指輪を貸してみよ」

「え……これ……ですか?」

「そうそう」

王天君の銀の指輪を受け取って、太公望は、ひとさし指の先でくるくる回している。それか

ら、打神鞭の先で、軽くコンコン叩いていたが、不意に起こした突風で、指輪を巻き上げた。

「な……に?!」

王天君が気付くより早く、弾丸のように飛んだそれが、狙いのままに銀を飾った黒い衣服の胸

をえぐっている。

「キサマ……なんのマネだ?!」

指輪の埋まってしまった胸を押さえ、呆気にとられた王天君が太公望を睨んだ時、突然、胸を

押さえた青い指の間から一条の光が現れて、何かを映し始めた。






封印籠の中が、見える。

金鰲の奥深く隠された鉄格子の中に、かつての王天君、王奕が居る。

青白い頬。目の下の疲れた隈。瞳はもう、光を失いかけていて、どこかぼんやりしている。所

在なげに細い膝をかかえてうずくまる隣には、妲己の姿があった。

『ねぇん?』

と妲己が媚びた視線を送りつつ、猫撫声を出している。

『辛いでしょう?淋しいでしょう?』

『うん。でも……楊ゼンがいるから。あの子もオレと一緒だから』

独り言のようなつぶやきが聞こえる。空ろな声は、けれどまだ、ほんのわずかに正気を保って

いた。

『辛いけど。オレには楊ゼンっていう仲間がいるから。だって、あの子もオレと同じ立場で…

…やっぱり苦しんでいると思うから……。オレ達は……一緒に捨てられたんだもの……』

『あらん。楊ゼンは、違うわん。十二仙の一人に預けられ、明るい仙界の下で愛されて、大切

に育てられているものん』

『………そう』

ピクンと、細い指が震える。

『あなたは楊ゼンの為に犠牲になったのよん?』

『…………でも、いつか元始天尊さまが、またオレを迎えにきてくれるかもしれないから…

…』

『元始天尊は来ないわん。だって、あなたの代わりを、もう探しているものん』

『…………そう』

また、指が震えた。

『あなたの座るはずだった椅子には、別の誰かが座るのよん。崑崙の誰もが、用済みのあなた

のことなど、もうとっくに忘れてる。皆、自分だけが可愛いから、あなたのことなんて、どう

でもいいのん』

『……………』

『誰も………もう、あなたのことなど助けない。信じて待っても無駄なのよん。だって、あな

たの代わりは、どこにでもいるんですものん』

『………そう…なんだ……』

抑揚のない声。空ろな瞳から、一筋、雫が落ちている。そうして、目の下の隈は、二度と消え

ない文様になった。






「やめろ!!」

すさまじい金切り声で、王天君が叫んだ。

「キサマ……いったい……」

ぶるぶると震えている王天君を、平然と見つめて太公望は笑った。

「だから、言ったであろう?手品を見せると」

「そんな…オレの…昔のダセェ記憶を見せてどうするつもりだ?!」

「ほ〜?なるほど。あれは、おぬしの記憶だったのか」

「キサマは……」

絶句した顔が、更に深く青ざめている。その彼に、太公望は淡々と続けていた。

「わしは、ここに辿り着くまで、沢山悩んできたから……おぬしの中傷ごときでは動じぬよ。

それより逆に、おぬしに聞きたいのだが……」

「……」

「おぬしは、さきほど、わしが元始天尊さまに利用されていると言ったが、同じ理屈で、おぬ

しも妲己に利用されているとは思わぬのか?それに……わしが逆に、一族の仇を討つために、

元始天尊さまを利用した、とは思わぬのか?」

「はは……、何をバカなことを……」

思わず恐ろしい気味の悪いものでも見るように、王天君は後ずさった。

「わしが思うに……おぬしは、かなり嫌な男。だが、考えようによっては、あまりにも純粋な

のかもしれぬ」

「ふざけてやがるのか?それとも…狂ったのか?オレはなぁ、すべてをブッ壊してやりてぇだ

けなんだぜ?崑崙も、楊ゼンも…キサマもな!!」

「そっか……おぬし……」

「………?」

やはりそうか、というように、太公望は痛ましい笑顔でつぶやいた。

「皮肉でも冗談でもなくて……本当に…楊ゼンが好きだったのだな」

「な……んだと……?」

「おぬしの後釜に座ったわしが憎いのか?だから、わしらをここへ呼んだのか?」

「やめろ!何ダセェこと言ってやがる」

「裏切った元始天尊さまが、それほど憎いのか……」

「やめろって言ってるだろぉが!!」

バランスを失ったカン高い声が響いている。爪を噛む歯が、軋むような音をたてると、太公望

は不思議な顔をした。それは、まるで泣いているような笑顔だった。

「それほど、おぬしは………崑崙が、好きだったのだな……」

「は……ははは……」

突然、王天君は、狂ったように笑い出した。笑って、笑って、止められない悲鳴のように笑っ

て………。そして、不意に黙ると、

「つまんねぇことしやがって……」

とだけ、つぶやいて、現れた時と同じように突然ふっと姿を消した。








「師叔!」

再び戻った静寂の闇をかきわけて、楊ゼンが駆け寄った。

「大丈夫ですか?!いったい、何をしたんです?」

「うむ。心配ない。ただ……王天君の宝貝の力をわしの風で逆流させたのだ」

「では、僕らの心を暴こうとした王天君の宝貝が、逆に自分の心を暴いてしまったと……?」

「…………かもしれぬ」

背を向けたままの太公望に、それでも楊ゼンはほっとして少し微笑んでから、改めて言った。

「それでは……あの宝貝の力は破ったわけでしょう?だとしたら、この空間はいつまで続くの

でしょうか?まさか…このまま………」

「いや、それは大丈夫だ。もうすぐ、ここは消える。わしらも、もとに戻れるはずだ」

ほれ、と太公望は打神鞭の先で、落ちている指輪を指している。

「なるほど……」

確かに、指輪の辺りから、徐々に闇が薄くなり、通常の空間へと戻りつつある。

「かなり前だが、太乙に、これに似た宝貝の話を聞いたことがある。おそらく、ここでは時の

流れも違う。お互い、もとに戻れば、1、2秒しか経っておらぬはずだ……」

「では、無事助かったというわけですか。お見事でした」

「…………そう…だな……」

「師叔……?」

そのわりに声が沈んでいる。楊ゼンは怪訝な顔で、小さな肩に手をかけた。

(………え?)

太公望の肩が、小刻みに震えている。

「師叔……いったい……」

「いや……すまぬ。なんでもない」

けれど、その、背を向けた唇から、ため息のような小さな声が漏れた。

「わかってはおるが。嫌というほど、わかってはおるが……戦いが起こると……いろんなもの

が壊れるのぅ……」

「王天君のことですか?それとも、元始天尊さまの……?」

「うむ。いろいろだ」

「でも……あれは……王天君の……」

「ただのつくり事でもあるまい」

「……かもしれません」

それからしばらく、2人は黙っていた。

静かな闇が、時の流れを止めている。どれくらい経ったのかわからなくなりかけた頃。急に、

太公望が口を開いた。

「のう…楊ゼン……」

「はい?」

「おぬしは……わしを、どう思う?」

「え?」

「この太公望という道士を、どう思う?」

「師叔………?」

「わしが…誰も憎まない…誰をも利用しない…聖人君子だと思うか?」

少し考えてから、楊ゼンは正直に答えた。

「わかりません。わかりませんが……でも……」

「でも……?」

「僕は、師叔が……師叔の一族を滅ぼした妲己を憎んでいても、いいと思います」

「……………」

「元始天尊さまを、その復讐の為に利用したとしても、かまわないと思います。その為に例

え、僕らを利用したとしても。それでも僕は………いいと思います……」

「楊ゼン……」

初めて、本当に驚いたように、太公望は振り向いた。少年のままの、大きな瞳が見開いてい

る。それを、楊ゼンは、まるで妖怪とは思えないほど優しい瞳で受け止めていた。

「だって、師叔は……それ以上のものを僕らにくれましたから」

「わしが……何をした…?わしは……何もしてやれぬ……」

楊ゼンを見上げ戸惑った視線が、逃げるように、うつむいた。

「わしは……」

「……はい」

「わしは……妲己が憎かった。妲己を倒す力を得るために……仙人界に入ったのだ……。だが

周りには、ずっと……その心を隠して………」

「だったら、僕も、同じです」

「同じ?」

「僕も……皆に隠し事をして……ダマしてきましたから……」

穏やかな楊ゼンの瞳が、すべての痛みを越えてきた優しい光を放っている。それを見ると、太

公望は一瞬、息がつまったような顔をしたが、それから、ふぅ、と大きく息をついた。

「そうであったな。すまぬ。辛いのは、わしだけではなかった」

「でも……師叔が妲己を憎むのは、むしろ当然です。僕だって……玉鼎師匠を殺された時、本

気で王天君が憎いと思いました」

「うむ。だが、わしは…戦争をしたいわけではなかったのだ。むしろ、そうしないために…

…」

「師叔……」

「わしは…やはり…人が死ぬのはのう…辛いのだ。だから……」

「わかっています。でも……始まってしまいました」

「そうだ。もう……止めることもできぬ。策は限られ、選択の余地すらないまま、ここまでき

てしまった……」

「そうです。今、求められているのは、戦いに勝つことです。そして、あなたはそのための軍

師です」

「だが…勝つために………わしは……皆を殺してしまうかもしれぬ」

それは、暗い瞳だった。これまで、見たこともないような。楊ゼンは、はっとして、その瞳を

見つめた。

「自分の策に……後悔しているのですか?」

太公望は黙っている。しばらくそうしていたが、不意に、崩れそうな、なのに、懸命にそれを

食い止める決然とした口調で言った。

「わしは、後悔などしない。もし時間が戻せたとしても、同じ状況なら、やっぱり、わしは同

じ命令を下すだろう。だってこれは……」

「……………これは……?」

「これは………戦争なのだから……」

闇が、小さな太公望の体を包んでいる。その闇に、必死に、くっきりと輪郭を刻みながら彼は

言った。

「わしは泣かない。後悔もしない。わしが泣いて後悔したら、わしについてきた皆が、もっと

惨めになってしまう。……だから……」

強い声だ。けれど、どこか溶けてしまいそうな細い肩だった。

「……だか………ら……」

「だったら、師叔……」

楊ゼンは、もう一度、そっと小さな肩に手を置いた。

「ここで、泣いて下さい」

「なに……?」

「ここは……誰も見ていませんから……」

「…………」

もう一度、驚いた瞳が、見上げている。その瞳ごと胸に抱き寄せて、楊ゼンは、太公望の顔を

覆い隠すように腕で包んだ。

「ホラ、これで……僕にもあなたが見えません」

小さな体はすっぽり隠れ、長い髪を垂らした暖かい笑顔が太公望の頭の上にある。その下で、

吐息のような声がした。

「おぬし……少々、優しすぎるぞ……」

「僕は……師叔……あなたのおかげで、仙界一、強くて優しい妖怪になれたと思っています」

「仙界一とは……たいした自惚れだな」

「ええ。あなたのおかげで、自惚れました」

楊ゼンの瞳が微笑んでいる。

「だって、あなたが僕に、くれたんですから」

「何を?」

「本当の顔で、泣いたり笑ったりできる場所を……」

「………………」

「決めました。師叔」

「何をだ?」

「僕は次の戦いの前に皆の前で告白します。僕が、妖怪であることを」

「いいのか?」

「だって、あなたにもらった勇気です」

吐息が、囁くような嗚咽に変わった。

「そう……か。わしでも……役に立つことがあったか……」

「少なくとも……僕は………」

と楊ゼンは言った。

「例え、あなたの命令で死んだとしても、決して後悔なんかしませんよ」

「…………」

「だから………どうか………苦しまないで下さい」

何も、苦しまないで下さい………。

そう言った楊ゼンの体が淡く透ける。指輪の効力が切れて、闇が白い光に塗り変わる。消える

最後の瞬間に、太公望は顔を上げ、そして、少し微笑んだ。

「すまぬ、楊ゼン。だが……ありがとう」









「……ゼン……楊ゼン……楊ゼン!」

「え?……」

呼び声にふと顔を上げると、目の前に、道徳真君の顔があった。

「え?……あの……僕は……」

うろたえた楊ゼンが足許を見ると、その足は、しっかりと道徳の黄巾力士を踏んでいる。一緒

に乗って飛びながら、隣の道徳が、やや心配そうに、のぞきこんでいた。

「大丈夫か?ぼーっとしちゃって……。キミは疲れてるんだから、休んでいればよかったのに

……」

「いえ、大丈夫です。それに……師叔が待っていますから…」

「そうか」

優しい納得と、愛弟子の友人を見る目で、道徳は笑った。

(ホントに……時間が経っていない)

太公望に言われた言葉を思い出し、楊ゼンは苦笑した。その彼に、前方を見つめたままの道徳

が言った。

「楊ゼン、キミは、万一の時は……太公望を守るんだ」

「道徳師弟……?」

「そして……もしオレが帰れなかったら……」

「え……?」

「オレが帰れなかったら……天化と…それから崑崙山に残っている太乙に、よろしく伝えてく

れ。戻れなくて、すまなかったと。でも、オレは精一杯やったから、どうか………怒らないで

くれ、と」

そこで道徳は隣に視線を戻し、冗談めかしてにこっと笑った。

「…………わかりました。でも……」

「うん?」

「みんなで、帰れるといいですね」

「ああ、もちろんだ」

風を切る黄巾力士が、金鰲に向かって飛んでゆく。

(この先に聞仲と……師叔がいる)

そう思うと、楊ゼンの心は、自然、緊張した。

(必ず勝たなければ……。そして、必ず生き残らなければ……)

師叔のためにも。必ず……。

手にした三尖刀を、強く握って、楊ゼンは思った。







足の痛みが、戻っている。

「やれやれ……」

と、太公望は、己の黄巾力士の上で息をついた。まるで大きな戦いを一つ終えて、ようやくこ

こへ戻ってきたようだ。けれど、これまでの戦闘でたまった疲れは、わずかに軽くなってい

る。足の痛みも気のせいか、少し和らいでいた。

(王天君に……感謝するべきかもしれんのう……)

……楊ゼンに会えて、良かった。

いろんなものを壊しながら、ここまで来たのだ。もう、引き返せないのは、わかっている。こ

こで一切を無かったことにして、やめてしまったら、すべてが無になってしまう。

今まで死んでいった、敵も、味方も………。

今までに傷ついて泣いたすべての人間と、仙道たちの思いも……。

(幸せな未来をつくれば……)

壊れてしまった王奕の心も、いつかは救えるのだろうか。

そうであって欲しい、と太公望は思う。

封神台に送られたすべての魂もまた、救えればよいと、思う。

そうすれば、死んでいった自分の父や母や兄たちも報われるかもしれない。

あの時は考えもつかなかったそんな想いを、今の自分が感じることに、太公望は感謝した。

(助けられたのは……わしのほうだ)

皆に。楊ゼンに。

復讐だけを誓う人間にならなかったのは、彼らのおかげだ。

残った力で、太公望は黄巾力士の向きを変えた。

(普賢……今……ゆくから……)

もしかしたら、守れないかもしれない。

(だが……最後まで、わしは……)

諦めない。

どんな悲しい結果を招こうとも。

(最後まで、わしは軍師でいる)

改めて生まれた強い心を抱いて、黄巾力士についた両手を握り締め、太公望は金鰲の奥へと

戻っていった。

【完】