輝石







「あ―あ………」

仙界の空気は、人間界では考えられないほど澄み切っている。あまりに辺りが

清浄なので、太乙真人は少々嫌気がさしてしまいそうだった。もちろん、仙人の

自分がそんな事を感じるのは間違っている。

「でもなぁ………」

半ばため息をつきながら、傍らの九竜神火罩を見上げる。実物大に戻ったその中

からは、間断なくナタクのわめき声が響いていた。陳塘関から連れ帰って以来ず

っとこうだ。

出せ。殺す。破壊する。

そんな怒声ばかりが、内壁を叩くけたたましい騒音と共に辺りの透明な空気を震

わせていた。

「キサマなんか!」

今もくぐもった憎々しげな声が続いている。

「キサマなんか絶対に許さない!ここを出たら、きっとバラバラにしてやる!」

存外に実直なその罵声を聞くと、太乙真人は不意に居たたまれない気がして、つ

いこの場を離れたくなった。

半ば逃れるように無責任にもナタクを押し込めたまま残し、彼はその足を玉泉

山に向けてみる。同じ崑崙十二仙の一人である玉鼎真人の住む玉泉山。そこに、

玉鼎の愛弟子である楊ゼンが、ちょうど太公望にやり込められて戻ってきていた。

元始天尊の勅命を受け、人間界に降り封神計画を行っている太公望。その、実

力を見てやろうとちょっかいをかけた天才楊ゼンが、すっかり恐れ入って仙界に

とんぼ返りしたらしい。誰が告げて回ったものか、すでにそんな噂が広まってい

た。

(あの楊ゼンがねえ……)

太乙真人は楊ゼンの、いつもどこか人を見くびったような美しい横顔を思い出し、

くっくっと笑った。聞けば、土下座までしたという。

(どんな顔して太公望にひざまずいたのやら…)

一見して有能からは程遠いすっとぼけた太公望を重ねると、余計に可笑しくなる。

太乙真人の同僚にあたる太公望は、見る者が見れば間違いなく楊ゼンに匹敵す

る天才だった。ところが幸か不幸か、全くそう見えない。つかみ所のない素振り

で相手を翻弄するそのやり方が、むしろ計算し尽くされた故意であるのを知って

いるのは元始天尊と十二仙くらいなものだ。一方、目から鼻に抜けるような才気

走った楊ゼンは、往々にして、あまりにもあからさまに他人を侮った態度に出る

ことがある。何でも思い通りに成し遂げる天分を持つ彼には、できない者の劣等

感など思いもよらず、ほとんど無意識からくる彼のそんな言動が、どれだけ相手

を傷つけているのかすら眼中にない。嫉妬やひがみを隠し持つ相手にとって、そ

れが余計に癪にさわる。ところが、その楊ゼンが太公望ごときに負けた。

いい気味だ。

当然、そんな風に思う連中も少なくなかった。

(自慢の三尖刀もカタなしだな)

太乙真人も肩をすくめる。けれど彼が笑っていた理由は、彼らが思うのとは、ち

ょっと違っていた。

(あの女装趣味の天才が…ねえ。五百年に一度の天変地異の前触れかな…)

いつになく、からかってみたい悪戯心で太乙真人はニヤニヤしながら玉泉山に降

りる。すると、岩の一つにぼんやりと腰を下ろしている楊ゼンの後ろ姿が見えた。

その、崑崙の風に吹き煽られる長い髪に、太乙真人はわざと気配を消したまま背

後からそっと近寄る。そしていきなり声をかけた。

「楊ゼン!太公望はどうだった?」

「ええ?」

よほどぼんやりしていたのか、突然の来客に楊ゼンはほとんど飛び上がるように

振り向いた。何でも人の手の内を先読みする彼がこんな風に取り乱すのは珍しい。

とはいえ目前に、師である玉鼎の同僚を確認すると、あっという間にいつもの落

ち着き払った調子に戻っていた。

「なんだ。太乙真人さまですか…。おどかさないで下さい」

楊ゼンは微笑すると、かしこまった態度で彼を迎えた。

「この僕をわざわざお尋ね下さるとは…何か急な御用でしょうか」

実力で、はるかに相手をしのいでいるというのに、どんな場合にも形式的には必

ず目下の者としての礼をとる。考え様によっては手の込んだイヤガラセとも受け

取れる彼のこうした様に、逆に腹を立てる仙人も多い。しかし、宝貝作りや年齢

同様、人をからかうなら太乙真人の方が数枚上手だった。

「別に用はないんだ。ただ…キミがどうしてるかと思ってね」

「……………?」

さすがに相手の意図を計りかねて楊ゼンが戸惑ったように黙り込む。その彼に太

乙真人は先刻のニヤニヤした調子のままもう一度繰り返した。

「この間、太公望に会ったそうだね」

「ええ」

「で、どうだった?」

「どう…とは?」

「太公望のことは、気に入ったかい?」

その途端、楊ゼンの白い頬が珍しく染まる。いつも冷酷なほど涼しげな彼がうろ

たえる姿に、太乙真人は自分の見込みが当っていたのを知って、つい面白がった。

「これは驚いたね。あのマヌケな道士のどこがそんなに良かったのか…?」

楊ゼンはうろたえたまま黙っている。いつも恐いものは元始天尊だけだと思って

いる高慢な天才が初めて自ら膝を折った。太乙はそんな彼にどこか共感めいたも

のを感じて、思わず突っついてみたくなったのだ。

「天才の君を夢中にさせるなんて、見かけによらず、あの男にはよほどの才があ

るらしいね」

「僕も油断してましたから」

慌てたように楊ゼンが否定する。太乙はますます笑った。

「なに、照れなくともいいんだよ」

「…………」

さらりと反論するかと思いきや、楊ゼンはうつむいて再び黙りこむ。案外な反応

に、彼はようやく笑うのをやめた。

(へえ……これは相当重傷らしいな)

そう思うとやや態度を改め、年長らしい口ぶりに切り替える。

「いいことだよ楊ゼンくん。誰かを思って誰かのために戦う。それは、間違った

行為じゃないからね。むしろキミに足りなかったところだ」

「それは…」

「でも、彼のどこが良かったんだい?」

「太公望は…僕とは違います。僕にはないものをたくさん持っている。例えば、

僕は弟子なんかとりたくない。彼もそうです。でも多分その理由は全く違ってい

て、僕はあくまで自分の為にですが……彼は……」

「彼は……?」

つい生真面目に答えようとした楊ゼンの視線の先で太乙がまたもニヤニヤ笑って

いる。楊ゼンはようやく意図を察知し、慌てて我に返った。

「知りませんよ」

そして、いくぶん火照った頬を隠すように付け加えた。

「あなたも人が悪い」

「キミほどじゃないさ」

言いながら、

(我ながら子供じみた悪ふざけをしている)

太乙真人はさほど自嘲するでもなく思っている。しかし年下の楊ゼンをこんな風

にからかうのには理由があった。大人びた楊ゼンはとても年下には思えない。そ

れも気安さの一つには違いなかった。もっとも、人間はある年齢以上には成長し

ない、と太乙は思っている。二十才と三十才ではずいぶん違うし十才と二十才は

もっと違う。けれど八十才と九十才がさして変わりがないように、千才と二千才

など同じようなものだった。ある年齢を過ぎてしまった後は、ただ精神年齢とし

ての大人と子供がいるだけだ。仙道の世界といえどもそれは変わらない。彼らも

エリートとはいえ、結局はトシを食った人間なのだ。

オトナとコドモに大別するなら、楊ゼンは間違いなく実によくデキたオトナで

ある。少々気遣いの足りない開けっぴろげな自信と自尊心の高いところを差し引

いても模範的な道士だった。

だが、自分だってオトナだ。もちろん楊ゼンよりははるかに年期の入った、位

も上の……。ときおり興じる悪戯も、いわば暇つぶしのゲームのようなものであり、

お互いがちゃんと引き際を心得ている。必要以上に関わらず、必要以上に喜怒哀

楽すら見せない。位の高い仙人とはそうしたものだ。

この、自分のように。

少し前までは確かにそう思っていた。

年齢からかけ離れた若々しい顔に珍しく自信を喪失した表情を浮かべ、ふと太

乙はグチのようにこぼした。

「失敗……だったかなぁ」

先刻まで楊ゼンが掛けていた岩石の一つに腰を下ろし、まるで独り言のようにつ

ぶやいてみる。その後ろに立ったまま楊ゼンは怪訝な顔をした。

「何がです?」

「うん……。……ナタクが、さ」

「そういえば太乙真人さまの言う事、まるで聞いてませんね。あれではとても封

神計画には使えない」

先程の仕返しに、楊ゼンはわざと力を込めて本当のことを言う。ところが、

「うん」

と言ったまま太乙は弁解も反論もせず、ただ背を向けている。その背がいつもよ

り頼りなく見えた気がして、楊ゼンははっとした。それで促すように聞いてみる。

「で、そのことで?なにか…僕に相談でも?」

「まあ…それもあるけどね」

「けど………?」

太乙はそれきり答えない。けれど、やはり、その事を話すためにここへ来たのか

もしれない。直感で、楊ゼンはそう感じたが口には出さなかった。太乙真人の肩

が、まるで、雨に濡れそぼったまま萎れているように見え、軽口では済ませない

気がしたからだった。





相変わらずナタクは物騒な言葉ばかりわめいている。久しぶりに九竜神火罩か

ら出したというのに険悪な事態は募るばかりだ。とはいえ、さすがに太乙真人の

宝貝を警戒して、うかつには仕掛けてこない。隙を覗いつつ、赤い腰布をはため

かせ両足に踏んだ火輪の力で宙に浮いたまま、じっときつい視線を投げつけてい

る。太乙は乾元山の岩に立ち、いつもに似ずどこかしっくりしない、半ば投げや

りに近い気分でそれを見上げていた。

(ナタク……か……)

確かに、コレは私が造ったモノだ。その、指先までしなやかな美しい肢体も、

存外に柔らかな可愛らしい頬も、ふさふさした髪も、身に纏った宝貝や衣服さえ、

すべて彼自身が考案し創り出し授けたのだ。そこには、母親が子を生み出す以上

の、作為と叡智と計算し尽くされた「完全」があるはずだった。

(私の造る宝貝に間違いのあるハズがない)

彼は一種、天才の思い込みでそう信じていたし、この数千年、それでしくじった

覚えもない。ナタクはその彼が、来るべき大戦のために生涯の大半を使って作り

上げた最高傑作の宝貝なのだ。爆発的な戦闘力も非情な戦闘意識も、それが良か

れと植えたものだ。けれど、今自分に注がれている凶悪な視線は彼の予測を大き

く越えており、何故かそれに曝されると矢に射られたような気がしてしまう。

「キサマ……?」

黙ったままの太乙真人をいぶかしんでナタクがわずかに動揺する。その瞳の色が

あまりに深い気がして、思わず太乙は視線を逸らした。彼はあの日以来、どうに

もナタクの目が見れない。陳塘関でナタクの瞳に宿った玉のような滴を見て以来、

何故かそれが恐ろしく、とても正視できないのだった。

「キサマは……」

不意にナタクが言った。陳塘関で会った時に吐いた言葉と同じように、しかしど

こか勢いのない口調で彼は言った。

「キサマはオレのなんなんだ?」

「何をいまさら……。キミを造った……仙人だろう?」

「そういうことじゃない」

ナタクはじっと目の前の口元を見詰めている。居たたまれなくなって太乙は覆い

隠すように顔をそむけ、いい加減な声でつぶやいた。

「………さぁ。知らないよ。私も…」

「ふざけるな!」

途端にナタクの瞳に怒りが走る。その声を聞きながら、いつものように逃げるで

もなく、太乙は大きく息をつくと、ため息と同時に言葉を吐いた。

「ほんとに……なんなんだろうな」

その様子があまりにも悩み疲れたようだったので、思わずナタクは拍子抜けした

顔で黙った。攻撃するでもなく所在なげに両腕を下げ、そろそろと地面近くまで

降りてみる。そして珍しくおずおずとした表情で上目遣いに太乙を見上げ、ぼそ

りと言った。

「答えろ。おまえはオレの何だ?」

「何故そんなことを聞きたがるんだ」

ひどく面倒な顔で、太乙がうっとうしげに言う。ナタクは再びイライラと怒鳴っ

た。

「いいから早く答えろ!」

「困ったものだね……」

太乙真人はナタクに横顔を向けたまま、厳格な声音を装ってみせる。いつもそう

だ。同僚には、とぼけた弱さを暴露する彼も、ナタクの前ではあまり笑わない。

よく出来た教育者であろうと意識するせいなのか、冷たいほどきつくあたるのが

常だった。けれど、この時は、教育以外の何かが入っていたと彼自身も思う。し

かし、なぜか自分でも止められなかった。

「ナタク……キミは……」

抑揚のない声で、太乙真人は言った。

「私が造った最高傑作の……」

食い入るように、ナタクが睨んでいる。その前で、声が続いた。

「…………宝貝だよ」

一瞬、空白のような時間が現われ、無表情のまま二人が向き合う。その静寂を破

って太乙の声が響いた。

「だが私はキミに、そんな行き過ぎた自我は与えなかった。今持っている、いわ

ば感情のようなものは過程の偶然で生まれたにすぎない。もともと私は、魂魄も

ココロも入れなかった。私が造ろうと思ったのはあくまで崑崙教主に忠実な殺人

兵器……つまり、道具だよ」

「オレは…キサマの失敗作というわけか」

心なしかナタクの声が震えている気がする。けれど太乙はあえて無視した。

「わかってると思うが、キミは人間でも仙道でもないんだ。破壊されたら修理す

ればいいし、代わりなんて、いくらでも作れる。でもキミのことは今度の戦いの

為にわざわざ造った。元手だってかかっている。それなりに働いてくれなければ

困るよ。でなければ私も元始天尊様に会わせる顔がないんでね」

徐々に、精悍な、でも存外ふっくらした頬が歪んでゆくのが傍目にもわかる。ナ

タクは、何かが壊れたような顔をした。もっとも、彼は自分の表情が変わったと

は思わない。ただ、体の内がピシリと鋭い音を立て、どこかにヒビが入った気が

したのだ。ナタクの右手がわずかに動き、

(殺される―――?)

とっさに、太乙がそう感じた瞬間、くるりと彼は背を向けた。そして風火輪を一

蹴りすると、あっという間に遠くへ飛び去っていった。

(追わなきゃ……)

そう思いながら、なぜか太乙は動けない。そして、はるか下界へ向け小さくなっ

てゆく赤い混天綾を、半ばぼんやりと見送っていた。

「ナタクに、ひどい事を言いましたね」

「……見てたのかい?いつから?」

ほとんど責めているような楊ゼンの口調に、太乙真人が低い声で答える。いい訳

めいたそれには応えず、楊ゼンは、乾元山上にある形のよい石に両膝を抱えて座

っている太乙の前へ回った。しかし、まるで気づかなかったように彼は続けてい

る。

「まったく、驚いたよ。キミは神出鬼没な道士だからね。私の洞に何か用かい」

「話をそらさないで下さい」

楊ゼンが厳格な教師のようにぴしゃりと言う。

「いくらナタクの師父でも、あんな言い方はありませんよ」

「そうかな」

相変わらず遠くを見たまま、太乙はあいまいな返事をする。とうとう楊ゼンは痺

れを切らして詰め寄った。

「ナタクは自分を知りたがっている。自分の意味を…。あなたにはそれに答える

義務があります。でなければナタクは、どこに行けばいいのかわからない」

「そんなの、あの子だけじゃないさ。人はみんなそうだよ」

その反論に、楊ゼンは少し安堵したように言った。

「では、ナタクはむしろ、より人間らしい人間だと?」

「いや。あれは……あくまで宝貝さ。……だから本当は……」

太乙の、形のよい唇がわずかに引きつる。どうしてもそう信じていたいように、

彼は言った。

「本当は、どこも痛がったりするはずないんだよ」

かたくなな言い方だった。楊ゼンはほとんど気の毒げに、その彼を見下ろした。

「ナタクを仙界に連れてきてから…太乙真人さまは少し変わりましたね」

「そんなはずないよ」

「いいえ、おかしいですよ。とても十二仙の一人とは思えない」

「十二仙とはこんなものさ。めいめい勝手なことばかりしている」

「でも違います」

「なぜナタクの肩を持つんだ?」

やや不機嫌に太乙が言う。楊ゼンはちょっと微笑んで肩をすくめた。

「そんなつもりはありません。ただ…少し気になっていたので。僕もその気持ち、

なんとなくわかりますから」

「気持ち………?」

「………意地を張るのも時によりけりです。お互いのためにもっと素直につき合

ったほうがいい」

「お互い?」

「あなたとナタクのことですよ」

ようやく、太乙は顔を上げた。

「楊ゼン……キミに説教されるとは思わなかった」

「僕は自分の体験から言ってるんです」

「太公望のことかい?」

「僕はそれで上手くいきましたから」

「自分のノロケを聞かせる気か」

「成功の秘訣をお教えしてるんですよ。だって、そのために僕を呼んだのではあ

りませんか?」

「呼んだ覚えはないけどなぁ」

「僕はそう取りました」

急に楽になったように、太乙は苦笑した。

(やれやれ……。世話の焼ける……)

内心つぶやきながら、楊ゼンもようやく笑った。けれどすぐにまた、太乙は憂鬱

そうな顔をする。そしてぽつんとつぶやいた。

「私としたことが……」

「………え?」

「やっぱり………ナタクは失敗だったよ…」







朝歌から西岐に向かう途中には、大陸特有の荒れた大地が広がっている。遮

るもののほとんどない平坦な地面。そこに時折、切り立った山々が、タケノコの

ように生えている。

巨大な岩石にも見えるそれらの一つ、西岐に近い日当たりのいい山頂で、太公望

は、ちょうど昼寝をしていた。

午後の陽射しを浴びながら、無防備を絵にしたような青年姿の胸が、気持ち良さ

そうに上下している。

しかしその頭上を、いきなり黒い影がおおうと、彼もさすがに驚いて瞼を開けた。

「…………?来客か」

あいにく四不象は出掛けており、人家もない高い山の上には、彼らの他には誰も

いない。けれど特に警戒するでもなく、彼はゆっくり起き上がって座り直すと、

相変わらず意図の読めない笑顔で呑気に迎えた。

「久しぶりだのぅ………ナタク……」

「……………」

それまで、何故来た?と聞かれることを危惧していたナタクはややほっとして太

公望を見下ろした。

シンプルな彼は、いつも小難しい理屈をこね回す太公望が苦手だった。どうせ聞

かれても、わからない。太乙の前から飛び出して、気付いたらここにいた。それ

だけだ。

(では何故、キライなはずの男のもとへ飛んで来たのだろう?)

太公望は何も言わない。なのに自分で自分を窮地に追いやる自問自答を始めてナ

タクは混乱した。

「のう、おぬし……」

この時ようやく太公望が立ち上がってナタクを正面から見据える。口調も先刻よ

り少し険を含んでいた。

「もう修行は終わったのか?」

ナタクは黙っている。太公望は重ねて聞いた。

「下山したのは太乙の命令か?」

「違う。オレはヤツの命令など聞かん!」

太乙という言葉に、即座にナタクが反応する。太公望はすべて了解したように小

さく笑うと、急に厳しい声を出した。

「では、なぜここに来た?わしもまだおぬしを呼んではおらぬ」

何故、と聞かれてナタクは動揺した。それを見抜いて、太公望はわざと背を向け

る。後ろ手を組み目を閉じると、大袈裟な素振りで苦々しげに言った。

「未熟なおぬしなど、まだまだわしの役に立たぬ。早々に崑崙へ帰るがよい」

その瞬間、ナタクの瞳に憎悪が宿る。彼はほとんど無意識に乾坤圏を向けていた。

「太公望!!キサマを殺す!」

「……?またやるかのう…。スープーもおらんというに……」

確かに、いつもこの道士を乗せているカバのような霊獣がいない。ナタクは確認

してもう一度照準を定めた。しかし、太公望は不気味なほど余裕たっぷりである。

まだ打神鞭すら握っていない。そして偶然思い出したように言った。

「あれから、父親には会ったのか?」

ナタクが、はっきりとうろたえるのがわかる。そういう点で太乙よりもさらに長

けた太公望にとって、彼のような者を自在に突くのはいとも容易いことだった。

「さっき陳塘関へ行ったが、李靖はいなかった」

ナタクはイライラと答えた。

「ああ…おぬしの父は仙界に行っておる。おまえに父親顔ができるように修行し

なおすと言っておった」

それを聞いてナタクの瞳が驚愕に見開く。なにか得体の知れない衝動が、空っぽ

のはずの体を駆け巡った。まだまるで形を成してはいないとはいえ、それは喜怒

哀楽の喜に、どことなく似ている。しかしせっかく芽生えかけたものを、あえて

無理に踏み潰すように、彼は怒鳴った。

「とにかく、李靖は居なかった!だからキサマを殺す!」

「理由になっておらぬぞ。なぜわしにケンカを売る」

「キサマは李靖と太乙真人の次に気に入らない」

「では、太乙と何かあったのか?」

ギクリとした顔でナタクがひるむ。無理に傷口をこじ開けられ、覗かれているよ

うな気がして、ナタクは羞恥と怒りと動揺の入り交じった収拾のつかない感覚に

苛まれた。

さっさと戦ってくれればいいものを…どうしてコイツはオレの意表をついて脅

かすことばかり言い出すのか。

とうとう限界に耐えかねたように、両腕の乾坤圏が放たれた。

「おぉっとぉ─っ」

すかさず打神鞭でかわしながら、太公望は片手を上げてわめいている。

「これ、ナタク!いきなり何をする!危ないではないか!」

「うるさい!」

見えない答えを叩き出すように太公望に向けて宝貝を打ち込む。そうしていると

何かがわかる気がした。

コイツなら、きっと答えをくれる。

ナタクは無意識にそう思っている。本当はそのためにここへ来たのだ。難しい理

屈は好きじゃない。理解できない。けれど、同じくらい聞きたかった。太公望は

嫌いだ。でも本当は同じくらい頼りたいのかもしれない。

宝貝が空を切る音が辺りに響き渡る。同じB級宝貝同士のはずなのに、持つ者

の性格を反映して威力にはっきり優劣がつく。と、空気の刃が、ざっくりとナタ

クの肩を割り、普通の人間なら即死するほどの赤い鮮血が派手に飛び散った。

「おぬし…力は強いが頭が悪いのう。人間ならもっと頭を使って戦うものだ」

「オレは人間じゃない!その証拠に傷の痛みも感じない」

「そうか?おぬしは人間より人間らしい…まぎれもない人間だと思うがのう」

「あいつはそう思っていない」

「太乙か?」

「アイツはいつも怒っている。オレが言いなりにならないから……」

「それは、そうかもしれぬ」

「だからアイツはオレを失敗作だと思っているんだ。だから…………」

「だから……?」

「あんな奴は殺してやる……!絶対に…黙って命令なんか聞いてやらない!!」

まるで流した血のような声で、必死に彼は叫んだ。

その時。

―――――痛い。

ナタクは思わず悲鳴を上げそうになった。

傷の痛みなど感じない。感じるはずはない。自分には魂魄も神経もないのだ。な

のに体のどこかが痛い。それが胸の痛みであることを、彼は知らなかった。ただ、

体内に埋め込まれた核の辺りが漠然と痛む。しかも、ついさっき太乙の前で音を

立てた場所と同じ気がした。けれど

(そんなはずはない!!)

まるでその事を恐れるように、ナタクはもう一度、今度はもっと思い切り乾坤圏

を飛ばした。太公望は難なくかわす。ナタクはもっと、もっと、気の遠くなるほ

ど全身全霊を込めて宝貝を放った。

「そんなに体を酷使すると死ぬぞ」

「オレは死なない。魂がないから死ぬはずない」

「どうしてわかる」

「だってあいつが…太乙真人が…そう言ったんだ!」

叫んだナタクの唇が歪む。頬が震え、まるで今にも泣きそうな目をしていた。







「やはり、ナタクは失敗だった」

抱えた両膝の上にアゴを乗せ、なるべく楊ゼンを見ないようにしながら、太乙真

人はつぶやいた。

「失敗……?」

乾元山の岩の一つに座った太乙の横に立って、楊ゼンはまたもや責めそうになっ

た。

「失敗………って…太乙真人さま、それは…」

「そうだよ。失敗さ。………あの子が…泣くなんて……」

「どういうことですか?」

「あの子には痛みも悲しみも怒りも…喜びすら、必要なかった。ただ戦うために

だけ、私はあの子を造ったんだ。それが元始天尊様のご意志だったから……」

「元始天尊さまの……?」

「キミらが生まれる、ずっと昔の話だよ」

いまから千五百年前。

ちょうど今のように、世界を変える大戦争があった。軒轅(黄帝)という男が、

それまで世界を治めていた一族である神農氏(炎帝)を倒して帝位に就いた。乱

れていた炎帝の世が終わり、新しい黄帝の世がきた。しかし、炎帝の時代が初め

から腐敗していたわけではない。始まったばかりの頃は、平和で、平等を目指し

た住みやすい国だった。

長く続いた王朝は次第に初期の理想や勢いを失って一部の者ばかりが利益する

ダレた政治に没落する。それとともに反対者やそれを鎮圧するための恐怖政治が

現われ、不平等な飢えや貧困から、賊が横行する。ちょうど今の殷王朝のように。

「それは仕方のないことじゃ」

その時も、元始天尊はそう言った。王朝の復興と没落はいわば天命のようなもの

だ。ただ、いつも戦争を起こす彼らは神や仙人であったので破壊力は凄まじい。

地上はその度に致命的な被害を蒙り、とばっちりを食った人間たちが大勢死んだ。

「また……ずいぶん死んだのぅ。なんぞ良い知恵はないもんか」

「はぁ」

側にひざまずき所在なげにうつむいた太乙真人をチラリと見下ろして、元始天尊

はため息をついた。

このさらに五百年ほど前にもやはり大きな戦争があって、世界が崩壊寸前にま

で追いつめられたことがあった。地は割け天は破れ、地上の生き物のほとんどは

死に絶えて、大洪水の後に残った人間はヒョウタンの箱船に逃れた一対の男女だ

け。

「あれも酷かった……」

元始天尊がもう一度タメ息をつく。これ以上被害を拡大しない方法は、神や仙人

と人間の住む世界を完全に分けることだ。しかし現状では難しい。まだ生まれた

ばかりの崑崙組織は弱々しく、元始天尊すら若輩で、戦っている神々は彼よりも

はるかに年長で強大だった。

「じゃが……」

元始天尊は長い髭をしごき遠くを見詰めながら、つぶやくように言った。

「いずれは実現できる時がこよう」

「我々と人間界を分けることが、ですか?」

「うむ。それと……」

「それと?」

「神や仙道の世界から、戦争そのものを無くすことが、じゃ」

「それは……」

仙道は神と違って、不老だが不死ではない。

「今度の戦いでも大勢死んだからのぅ」

太乙真人も、何人か大切な人を亡くしていた。元始天尊は額につけた未来をも見

通す千里眼を瞬かせながら、うなるように続けた。

「これからまだまだ戦いは続く。最近、金鰲列島の仙人達まで力をつけおって、

我ら崑崙山と小競り合いを繰り返しておる始末じゃ。地上ではこれから千年後に

また政権交代の大戦争が起きよう。そしてそれから五百年後に……人間界、仙界

を含めた最大の戦いが起こる」

「その戦いでは誰がどれだけ死ぬのでしょうか?勝敗はどうなるのでしょう」

「そこまでは、わしにもわからぬ。ただ…必ず起きるという以外は……」

大切な者の死は、痛い。悲しい。辛い。苦しい。恐い。けれど戦争は起こる。

「でしたら……」

決して死なない兵士を造る。しかもココロを持たない。

太乙真人の言葉に元始天尊は頷いた。

「実は…頼みたかったのはそれじゃ。おぬしは宝貝作りにかけて天才的なセンス

を持っておる。おぬしなら出来るだろう」

千五百年後、もう一度地上で、神や仙人を巻き込んだ大戦争が起きる。思惑通

りに勝利するためには様々な兵器、つまり宝貝が要る。その一つとしてココロを

持たない宝貝人間を造って欲しい。それが、元始天尊の依頼だった。

「はっ……。お任せ下さい。必ずやご覧に入れます」

疑いのない希望に満ちた顔で、まだ若い太乙は平伏した。とりあえず一体を試作

してみて、成功すれば量産も考えられる。そうすれば戦争は彼らが代行する、半

ばゲームになるだろう。

人間が人間を造る。この法を越えた不自然な行いを、だいそれた、とは思わな

かった。何より元始天尊の勅命であり、太乙の信じる使命のためだ。しかも、発

明家や職人としての崇高で浅はかな興味すら加わっていた。それから彼は暇を見

てはせっせと宝貝、霊珠を造り始めた。

仙界の澄んだ空気が吹き抜ける。楊ゼンは時々蒼く光る不思議な髪をなびかせな

がら、黙って太乙真人の話を聞いている。話はまだ続いていた。

「意志は持たせたさ。一応ね。物を考える…というよりは、こちらの命令を間違

いなく遂行させるためにだよ」

黄巾力士はただのロボットだ。操作しなければ動かない。必要だったのは人工知

能も兼ね備えたより完全な殺人兵器。戦うためだけに作られた。だからそれ以外

のことなど考えない。それ以外のココロは持たない。

「あの頃は私も…若かったからなぁ」

太乙真人は何かを思い出すように、ため息をついた。

「そうすれば誰も悲しまずに済むと思ったんだよ」

戦って傷つくのがただの道具なら、当人もそれを見送る者も、苦しまない。死ん

でもそれは壊れたにすぎず、本人も苦痛を知ることなく、ただ無意識に破壊を繰

り返すだけだ。

だから、あの子は…泣かないハズだったのに。そんな機能は入れなかった。あ

らかじめインプットしたのは崑崙仙界への絶対的な忠誠と創造主である自分への

服従。そして殺戮を好み飽くなき闘争心を持ち、戦いにのみ快感を覚える。強い

敵と戦うその瞬間だけに幸福を感じ、必ず敵を倒す。それだけが、組み込まれた

意志だった。

「甘かったよ。本当にそんな人間が造れると思っていたなんて」

太乙真人は笑った。けれどそれは自嘲を含んだ、悲しんでいるような笑いだった。

「だからバチがあたったんだな。あの子は泣くし…それに…こんなに…」

「え?」

「こんなに、私も……あの子が可愛いなんてさ」

「太乙……真人……さま……」

それは、楊ゼンが始めて見た、崑崙十二仙の人間としての顔だった。

「私は宝貝作りが仕事だから、造った宝貝はみんな子供だ。どれも自負している

し愛着もある。だから戦いで試したいとも思う。でもあの子が戦っていると痛い

んだ。理由なんかないよ。ただ、あの子が泣くと私も…」

「泣きたくなるんですか?太乙真人さま…あなたが?」

「らしくないね。そんなのは」

「………照れなくとも、いいじゃないですか」

楊ゼンはふと、この間言われた台詞を思い出し、それをそのまま返した。太乙は、

さすがに苦笑した。

「そんな感情が残っていたなんて我ながら不思議だよ。仙人になってもうずいぶ

ん経つってのに…まだまだ功夫が足りないな」

少なからず人間の感情を思い出してしまった事に動揺しているのかもしれない。

だから、このところずっと仙界の澄んだ空気を吸っていることが、後ろめたかっ

たのだ。

「だったら……どうしてさっきナタクを追わなかったのですか?あんなことを言

って……」

「あの子が……人間ではなく、ただの宝貝だと思いたかった……。じゃないと、私

が辛いからさ。でも本当は追えなかっただけかもしれない。なんだかそんな資格

がないような気がして」

「太乙真人さま……でも……。今からでも遅くありません。やっぱり……」

追うべきです。楊ゼンがそう言おうとした、ちょうどその時、突然白鶴童子がけ

たたましい音を立て飛び込んできた。

「大変ですよ、お二人とも!実は……」

彼は白い大きな羽をばたつかせ叫んでいる。聞いて楊ゼンが顔色を変えた。

「ナタクが太公望と戦っているって?!」

「行くのかい?」

太乙は座ったままで楊ゼンを見上げた。

「当たり前でしょう!」

「でも多分……ナタクに太公望は殺せないよ」

「それとこれとは話が別です。もし…太公望に万一のことがあったら…」

「よほど……入れ込んでいるようだね」

「封神計画のためですよ。と、ここでは言っておきます」

「じゃあ、私もそういうことにしておこう」

「……………?」

「私がナタクを待っているのも封神計画のためだと、伝えてくれないか」

楊ゼンは細い眉をひそめた。

「太乙真人さま…それでは……」

「何も伝わらない、か?でもいいんだよ、それで」

「言ってあげなければナタクにはわかりませんよ。彼にあなたは複雑すぎます」

「親の心、子知らず…ってやつかなぁ」

「そんな呑気な事態じゃありませんよ。とにかく僕は行きます」

言うなり、楊ゼンは得意の変化で白鶴に化け、一目散に飛び去った。

「太乙真人さまは……行かなくていいんですか?」

後に残った本物の白鶴童子が、膝を抱えた太乙に長いクチバシを向ける。太乙は

諦めたように笑った。

「いいよ。私が行っても、あの子を怒らせるだけだ。どうせ殺しに向ってくるに

決まってる。私が行って余計にこじらせるより、太公望と楊ゼンに任せておこう」

はぁ。と、白鶴がため息をつく。

「やはり……太乙真人さま……」

と、彼は言った。

「ナタクはどうも……問題があるのでは?」

「なに、私の造った宝貝に問題などないよ」

太乙はもう一度笑った。けれどそれは、どこか気の抜けた、ひどく寂しい笑いだ

った。

「私の造った宝貝に欠陥はない。あるとしたら、私のほうさ」








体が、痛い―――――。

ナタクは宙に浮いたまま胸を押さえて、うめいた。丸めた全身が苦痛に歪んでい

る。体の奥に埋め込まれた核がズキズキと締め付けられ、時が経つにつれてひど

くなる。もう攻撃もできず、ナタクはイライラと大声で怒鳴った。

「何故だ?!なんで痛いんだ―――――?!」

「さあのう…わしにはサッパリ…」

太公望のトボケた声が応える。ナタクはとうとう悲鳴を上げた。

「どうすれば治る?!知っているはずだ!言え!!」

「その痛みは薬では治らぬ」

「キサマ道士だろう!」

「仙道にできることなどタカが知れておるのだ。わしも…無論、太乙もな」

「太乙真人……」

その名を聞いて、ナタクは唇を噛んだ。

「おぬしの苦痛…。それは……太乙も誤算だったのではないか?」

「どうせオレは失敗作だ。母上を悲しませ、李靖に憎まれることしかできない。

太乙真人もオレを邪魔にしている」

「そんなことはあるまい」

「アイツがオレにかまうのは、封神計画とやらのためなんだ。オレは…そのため

に作られたのだから……!」

「だが……太乙ならその痛み、止めることができるぞ」

「アイツが?何故―――――?」

太公望は、そんなの簡単なことだと言わんばかりに笑った。

「おぬしが、一番好きな人間だからだよ」

一瞬、ナタクは息を呑んだ。硬直した真っ青な頬が震えている。そして、カラカ

ラに乾いて引きつった喉で叫んだ。

「そんな……そんなはずない!」

「ある」

「ない!!」

「ある!」

「うるさい!うるさい!!」

その途端、ナタクはいきなり太公望めがけ急降下した。

不意をつかれた太公望が上体を崩す。上空から、何の準備もなく思い切り体当た

りされた彼は、ナタクと一緒に山頂から空へ吹っ飛んだ。

「わわわっ―――――っ」

さすがに慌てて、手足をバタつかせながら太公望が叫ぶ。霊獣のいない彼は、ナ

タクと違い目も眩むような高さから、まっ逆さまに転落した。

「師叔―――――!!」

と、落ちてゆく太公望の目の前にさっとヒモのようなものがぶら下がる。思わず

彼は両手でそれをつかまえた。

「危ないところでしたね」

「なんだ白鶴か。よく来てくれた。ものすごいタイミングだったぞ」

彼がぶら下がったのは白鶴童子の足だった。しかし

「ふうむ」

と言ったきり太公望は、じろじろと羽のあたりを見上げている。

「どうしました?師叔」

「白鶴よ……おぬし最近太ったのでは?」

「そんなことはありませんよ」

「いいや、太った。もしや元始天尊さま秘蔵のアレを盗み食いしているのではあ

るまいな」

「な…なんです?アレって…」

「アレとはアレだよ。元始天尊さま側近のおぬしが知らぬわけはあるまい」

「ああ…アレですか」

思わずうなずいた瞬間、白鶴はしまった、と思った。太公望がニヤニヤ笑ってい

る。

「そうか白鶴…。そんなものがあったとは知らなかったのう。こんど食う時には

わしも呼んでくれ。あ、それから…」

「なんでしょう?」

「さっき太ったと言ったのはわしの見間違いであった。おぬしは相変わらず、か

っこいーぞ。楊ゼン」

「もう……。あなたという人は……」

多分、初めからバレていたのだろう。その余裕に舌を巻きながら、楊ゼンは鶴の

翼で、もとの山頂に運ぼうと上昇し始める。

その時。

ナタクが、いきなり乾坤圏を突きつけて目の前に浮かんだ。

「よ…よせ!ナタク!!」

さすがに楊ゼンが度を失う。今攻撃を受けたら、自分はともかく太公望は助から

ない。しかし、その太公望は案外に平然と構えていた。

「これ、ナタク……。いくら大好きな太乙とケンカしたからといってヤツ当りす

るでないぞ。わしらだって迷惑………」

「やかましい!!」

「ナタク―――――?」

乾坤圏が火を噴いた、と思った時だった。うっ、と呻いたナタクの顔がみるみる

苦痛で強張り、動きが止る。同時に内部で、大きな亀裂が入り何かが砕ける音が

した。

「いかん!」

太公望が叫ぶのと、ナタクが落ちるのがほぼ重なる。まるで人形のように落下し

てゆく彼を、楊ゼンは唖然と目で追った。太公望を連れている今、白鶴の力でこ

れ以上は運べない。

「霊珠が……」

太公望が唇を噛む。

「霊珠が壊れる音がした………」

「ではナタクは……死…」

「楊ゼン、ナタクを追え!」

「無理です!」

「では、わしを落とせ!」

「僕にそんなこと出来るはずないでしょう!!」

「しかし、それではナタクが………」

と、モメている二人の横を、何か巨大な物が猛烈なスピードで駆け抜けた。

「黄巾力士?!」

特異な形をしたロボットの、黄色のスカーフの下に太乙真人の文字が見える。

「太乙……。とにかく追え!」

太公望の言葉に、とりあえず楊ゼンは降下した。

どんどん落ちてゆくナタクを、太乙は黄巾力士を巧みに操作しながら追いかける。

虫の知らせのように、得体の知れない胸騒ぎがしたのは、楊ゼンが去って間もな

くのことだ。彼は巨大宝貝ロボに飛び乗り、全速力で彼らのもとに向った。そし

て。

「ナタク―――――!」

太乙は凄まじい形相で急降下する。こんなアクロバットな操縦を、日頃の彼なら

できるはずがない。けれど今、彼は自分が高所恐怖症であることもすっかり忘れ

ていた。

ナタクはまだ落ちている。しかし地面はもうすぐだ。激突したらバラバラに吹

っ飛んで、このいまいましい苦痛も消えるだろうか、とふと思う。痛みは激痛の

まま凍ってしまった。固まった体は指一本自由にならず、黙って真っ直ぐに落ち

てゆく。そして彼は、ただじっと、誰かを待っていた。

誰か。この痛みを止めて、壊れた体を受け止めてくれる誰かの手を。

「ナタク!!」

不意に聞き慣れた声が響いた。耳を裂くような風の音にまぎれて、確かにその声

がする。

「太乙……真…人……」

体は動かない。視界も届かない。けれど、そこに彼がいるのがわかった。腕を、

ナタクは動かそうとした。その手で、そこにいる者をつかみたい。なぜかわから

ないが、そうしたかった。

太乙は自分の手のように上手く操って、黄巾力士の不格好な手を、ナタクに差

し伸べる。

(もう少し……!)

しかし、そう思った時、あまりの猛スピードに耐え切れなくなったロボットの腕

が、付け根から見事に吹っ飛んだ。

「――――――――!!」

(運が……悪かったな)

ナタクはぼんやりと思った。これで太乙真人も諦めるだろう。あの臆病な仙人が、

身不相応な危険を絶対に冒さないのは、よく知っている。

(オレも……もういい……か…)

ナタクは目を閉じた。思えば、どうせ死んでも誰も悲しまない。そのために作ら

れたのだから。母は悲しむかもしれないが、李靖がいる。ただ、太乙真人に突き

放されたままで別れてしまうのが、心残りだった。

(でも、もういい……)

死んだらどうせ、もう二度と、どこも痛まない。

そう思った時、

「ナタク―――――!つかまれ!!」

耳元で、ものすごい声がした。すぐ隣に何かいる。仙服が絡み付いて、しぼんだ

袋のようになったそれが、金切り声を上げながら手を伸ばしている。次の瞬間、

温かな衝撃がナタクの全身を包んでいた。

「太乙真人……キサマ……飛べたのか?」

「んなわけ、ないだろう!!」

「じゃあ、おまえも死ぬぞ」

「ええいっ私をナメるな!このまま着地してみせる!!」

黄巾力士からとっさに飛び降りた太乙が、ナタクを抱いて一緒に落ちる。秘策な

どなかった。でも、そうせずにはいられなかった。地上はもう目前に迫っている。

保ってあと数秒だろう。

(助けなければ………。この子だけは……。私は死んでもいいから……この子だけ

……は………)

それが無理とわかっていながら、太乙は最後の奇跡を祈る。その胸に抱かれなが

ら、ナタクは今まで感じたことのない温かな霊気で、痛みが癒えていくのを知っ

た。母の腕よりも、誰よりも、それは大きく深く、どこまでも優しい気がする。

と、その瞬間、壊れた核が見る間にもとに戻っていくのがわかった。全身に力

が漲り、風火輪が再び火を噴いた。

「ナタク―――――?」

急にふわりと体が浮き、太乙が驚く。

間一髪。二人はナタクの力で、無事、草原に着地していた。

「死ぬかと…思った…」

太乙真人が今頃になって震え出す。情けなく青ざめた頬を伏せがっくりと手をつ

いた彼を、そのすぐ側でナタクは黙って見下ろしている。そして、おもむろに口

を開いた。

「キサマ……何故オレを助けた?」

「理由は…ないよ。ただ、助けたかったから……」

「嘘だ。封神計画とやらのためだろう」

「……ナタク………」

太乙は、立ち上がってナタクを見た。

(正直なほうがいいですよ)

どこからか楊ゼンの声が聞こえた気がした。ナタクは目の前に突っ立っている。

太乙は歩み寄ると、その肩に手を置いた。

「昔話をしよう」

「?」

「むかしむかし仙界に、一人の若い新人道士がいた」

「キサマのことか?」

「ある道士だよ」

「キサマだな?」

ナタクが念を押す。太乙は咳払いをすると、そのまま続けた。

「その道士は宝貝作りが上手かったので、ある日、元始天尊に宝貝人間の製作を

頼まれた。大きな戦争の後だった。だから魂魄のない戦士が必要だと思ったんだ。

その日から道士はせっせと霊珠と呼ばれる宝貝を作り始めた。気を練って、命を

注いで、大事に大事に作っていった。毎日親鳥が卵を温めるように、その道士は

自分の霊気で、その珠を温め、命を吹き込んでいったんだ」

ナタクは黙って聞いている。太乙は一語一語、噛み砕くように話し続けた。

「それは気の遠くなるほど根気の要る仕事だった。だから、初めは道士も、それ

がただの宝貝だと思っていたが、そのうち何よりも誰よりも、自分よりも大切な

珠だと思うようになったんだ。そうして、ようやく完成した霊珠は、とっても美

しい光を放っていた。どんな珠より輝く宝石のようだった。道士はとても感動し

た。そして、たとえ仙界が滅んでも、人間界が消滅しても、その珠だけはずっと

美しいままでいて欲しい、と思ったんだ」

そこまで話すと、太乙は、ナタクの瞳を覗いた。あの時の輝石の光が、そこにあ

る。彼は、そのまま、ナタクを胸に抱きしめていた。

「ごめん…。ごめんよ……ナタク…。私は本当は……おまえに戦って欲しくない。

泣いて欲しくない。笑って…いつも……この世に生まれたことを、幸せだったと思

っていて欲しい……」

ナタクは、黙って抱かれていた。痛みはもうない。代わりに暖かく、とてつもな

い懐かしい心地よさに包まれていた。

「おまえは……」

しばらくしてナタクが言った。

「おまえは、全然強くない。宝貝がなければ何もできない奴だ。でも……」

「でも?」

「オレの痛みを治してくれる」

そろそろと、ナタクの腕が上がる。そして、わずかに、太乙の背に触れた。

暖かい。

お互いがお互いをそう思った時、それまでのわだかまりは消え、ナタクは生まれ

て始めて心から満ち足りた気がした。千五百年の間、ずっと待っていたのは、こ

の瞬間かもしれない。それはまだ霊珠だった頃、いつも感じていた霊気だった。

そしてあの頃、太乙に感じていた思慕と、今もやはり同じ気がした。








「やれやれ…。一時はどうなるかと思ったがのう……」

少し離れた場所に降りた太公望が、かたわらの楊ゼンに言う。彼はすでに鶴から

もとの姿に戻っていた。

「良かったですね。師叔も苦労したかいがあったでしょう?」

「うむ。ところで…」

太公望は急に思い出したように微笑した。

「あやつ……なんで笑わぬのかな」

「ナタクですか?それは…太乙真人がそういう感情を与えなかったからでしょ

う?」

「ふうむ。では…今度、大爆笑大会でも開催するかのう」

「なんです?それは……」

「人を大勢集めて、ナタクを最初に笑かした者を勝ちとする。勝者には景品をだ

してな」

「師叔……。本気ですか?」

「うむ。あやつ、笑ったら、きっと……」

「可愛いだろう、なんて言わないで下さいよ。オヤジじゃあるまいし」

とたんに楊ゼンは、やや嫉妬を含んだ不機嫌な目で太公望を睨んだ。

「何を言う。わしはトモダチとしてだな……」

そこまで言って太公望は、ふとまた、ひらめいた顔をした。

「うむ、そうだな。トモダチが要るな。そのうち、あやつにぴったりの親友を紹

介してやろう。あやつに似ておって、気持ちを汲んでくれる、人間出身の仙道を」

「誰です?」

「この間、偶然見つけたのだ。いずれ会うことになろう」

「でもナタクは…相当変わってますよ?」

「大丈夫だ。相手は、コウモリだからな」

楊ゼンは笑った。きっと、また秘策があるに違いない。そうやって様々な人間に

囲まれて、いつかナタクも笑う日が来るだろう。








「こらあっ!私の宝貝を返せ!!」

「うるさい!だったら取り返してみろ!!」

乾元山では今日も相変わらず、太乙真人とナタクの空中戦が続いている。あれか

ら仙界に戻った二人は照れのせいか、それともあれが一時の気の迷いだったのか、

またもとに戻ってしまった。ナタクの頬に笑顔が浮かぶのはまだ随分先らしい。

けれど、太乙真人はもう憂鬱なため息をつかない。そして少し優しくなった。ナ

タクもちゃんと手加減している。そのせいか自慢の九竜神火罩も最近は大分出番

が減ったようだ。

(終)