「ねぇ、望ちゃん……」

「ん?」

会議の帰り、いきなり背中を押した声に、太公望はちょっと驚いて立ち止まった。

振り向くと、目の前に十二仙の一人、普賢真人が、いつもの、おっとりした笑顔で立ってい

る。

崑崙山の中央に位置する会議室からの帰りだ。幹部たちがゾロゾロと出ていって、もう、しば

らくたっている。周囲には二人のほか、誰もいなかった。

「普賢か……。なんだ?わしに用でも?」

「うん。ちょっとね」

そう言いながら普賢真人は、太公望を促して細い通路をまっすぐに歩き始める。後を追うよう

に肩を並べた太公望は、怪訝そうに、隣りを歩く大きく開いた衿ぐりのデザインを覗った。

「どうしたのだ?普賢……?」

「うん。ちょっとね……」

相変わらず穏やかで暖かな笑顔だが、どことなく声が冷たい。いつもに似ない妙な雰囲気に、

太公望はやや戸惑って、重ねて聞いた。

「なにか、わしに言いたいことがあるのか?」

「うん。まぁね……」

「会議のことか?わしと同じチームで金鰲島へゆくのが不満とか……」

「そうじゃないよ。ただ……」

「ただ?」

「望ちゃん、あれから………楊ゼンの所へ行った?」

「は?」

突然の話題だ。さすがの軍師も答えに惑う。調子の狂った顔で、とりあえず太公望は傍らを

探ったが、微笑を浮かべた普賢の表情からは何も読めない。それがかえって相手を不安にさせ

ることを、普賢は知っているのか、いないのか。全く他意のない笑顔で、彼はもう一度言っ

た。

「重体の楊ゼンを金鰲島から連れてきたの、望ちゃんでしょ?あれから、どうなの?望ちゃ

ん、容体を見に行った?」

「………いいや。ケガ人や病人は今のところ太乙に任せてあるし……。そのぅ……わしも忙し

くて……つい……」

なんとなく、しどろもどろに首を振る太公望に、普賢は

「ふぅん」

と、特に突っ込むわけでもなく、邪気のない顔で頷いた。

「ま、そうだよね。今は皆が大変な時だし。大勢死んで……しかも、玉鼎真人が封神されたこ

とで十二仙まで熱くなってるし……」

「確かに……玉鼎のことは……残念だった……」

「そっか。だから、望ちゃん、楊ゼンのところに行かないの?」

「へ?」

またしても突拍子もないことを聞かれた顔で、太公望が再び瞳を上げる。と、同じ高さの視線

にぶつかって余計に慌てた。実は、楊ゼンの名を聞いた時からギョッとしている。しかし、い

つものように上手く繕えない。同期のせいなのか、それとも、背の低い太公望と珍しく目の高

さが一緒で、まともに視線が合ってしまうせいなのか。どうも、普賢には何もかも見抜かれて

いるようで、彼を相手にすると、策士の名を返上したくなる。

「普賢いや、その……わしは……」

しかし、そんな彼には一向にお構いなく、普賢は、ゆったり微笑んだ。

「だって、望ちゃん。忙しいから行ってないなんて、嘘なんでしょ?」

「………………」

「どうして、行ってあげないの?」

とうとう、うつむいて黙ってしまった太公望に、普賢は、今度は微笑んだままタメ息をつい

た。

「ねぇ、望ちゃん。やっぱり、おかしいよ」

「おかしい?わしが、か?」

「なんだか、この間から、望ちゃんらしくないよ」

「らしくない…………とは?」

下を向いたままの太公望と並んで歩きながら、普賢は、ちょっと憂鬱そうに言った。

「ねぇ、望ちゃん。崑崙の皆が、このところ望ちゃんのこと、陰でなんて言ってるか知って

る?」

太公望は黙っている。しばらくそうして歩いていたが、ふと、立ち止まってボソボソ言った。

「……………知って、おるよ。…………『あんな、仙人免許もとれない道士ふぜいに、何故

に、元始天尊さまは全権をお与えになられたのだろう!?いくら愛弟子だからといって、十二

仙でもない若僧が十二仙の上に立ち、俺達仙人道士全員に命令を下すとは、どういうわけだ!

えこひいきもたいがいにしろ!!』……であろう?」

「なんだ……。知ってたんだ」

ちょっと安心したように、普賢は、笑顔のまま太公望を見つめた。

「それくらいは、見通しておる」

「確かに、望ちゃんは封神計画の責任者だし、一人で趙公明を倒した実績は皆も認めているん

だよ。でも、残念ながら人間はゲンキンな生き物だから、目の前の結果がすべて。……こうも

聞仲に先手をとられてばかりいると………」

「……むろん全員の不満が募ってくる。……で?おぬしも…わしを責めておるのか?」

むっつりと、太公望が、それまで逸らしていた視線を上げる。

「わしのせいで、大勢死んだ、と?」

けれど、その驚くほど暗い瞳の色を、さらりとかわすように、普賢は相変わらず茫洋とした微

笑みのまま続けた。

「通天砲の射程距離を読み違ったのは、望ちゃんだけじゃないよ。僕たちは、誰もみな妖怪仙

人の文明を侮ってたし。だけど……やっぱりね………」

「やっぱり、なんだ?」

「楊ゼン一人を助けるために総司令自らが敵陣へ乗り込むなんて、正気の沙汰とは思えない

よ。しかも、その為の代償が十二仙だなんて。ほかの仙人や道士だって大勢死んでるのに、楊

ゼンだけを助けるためにわざわざ危険を冒して……しかも、十二仙の一人を殺してまで得たも

のが、もう使い物にならない半死半生の道士一人なんだよ?これじゃ、他の皆が怒るのも無理

ないと思うけど……。それは、確かに、楊ゼンのおかげで金鰲のバリアは解除できたけど、冷

淡な言い方をすれば、楊ゼンの役目は、そこで終わっていたわけで……」

「取り消せ」

「望……ちゃん……?」

それまで、一度も聞いたことのないような低く鋭い声に、ビクッと普賢の細い肩がすくんだ。

「使い物にならぬ楊ゼンなら要らぬというのか!?いくらおぬしでも許さぬぞ!!その言葉、

今すぐ取り消すのだ!!さもないと……」

「さもないと、どうするの?」

迫力に気圧されながらも、普賢は笑顔を崩さない。他意のない顔で、彼は、しみじみとつぶや

いた。

「そっか。やっぱり望ちゃんは……本当に、楊ゼンが好きになっちゃったんだね」

「普賢…………」

剣呑だった太公望の気が、その一言で一気に萎む。肩透かしを食らったように怒りは萎えて、

危ない雲行きに、ふたたび晴れ間が訪れた。

「誰にも同じように。それが、望ちゃんだと思っていたけど。楊ゼンは本当に…特別な人に

なったんだね」

少し照れたようにボリボリと頬をかき、うつむいた太公望に、普賢は、今度は満面、にっこり

笑ってみせた。それを眺めて、太公望が、ふぅ、と大きく息をつく。

「やれやれ。さっきから、弄ばれておるな。わしとしたことが」

己の頬を片手でバチンと叩く。ピリリとした痛みで、軍師は、ようやく調子を取り戻した。

「で?普賢。なんなのだ?さっきからおぬしの言動は、一貫性があるようで、なんだかよくわ

からぬ。……結局おぬしは、楊ゼンを心配しておるのか?」

「僕が心配しているのは望ちゃんのことだよ。だって、僕達、子供の頃からのつきあいだし」

そう言いながら、夢見るような瞳で遠くの宙に視線を浮かせる。どうも、また、この仙人の

ペースに飲まれそうだと警戒しながらも、太公望はついつい付き合ってしまう。幼なじみの馴

れ合いなのかもしれない。

「思い出すよねぇ。望ちゃんと僕は、一緒に仙人界に入って、修行して、一緒に道士の試験も

受けたし、仙人昇格試験も受けたよね。十二仙のポストに一人だけ空きがあるからって、一緒

に願書出しに行ったっけ」

「そして、わしは落ちて、おぬしが受かった。まあ、妥当ではないか?おぬしとわしでは、実

力に差があったし……わしはたいして努力もせずに、試験前も遊んでおったし……」

「自分のほうが能力がないから、落ちたと言っているの?」

「その通りであろう?」

「違うよ。確かに僕の力は、それなりにすごいと思うけど。特に物理学は……」

「おぬし……」

「でもね。望ちゃんが落ちたのは、僕よりも力があったからだよ」

「またまた。おだてたって……」

「僕は、ホントのことしか言わないよ?」

相変わらず、本当か嘘かわからない曖昧な顔で、普賢は笑った。しかし、その瞳は、常よりも

ずっと強い光を宿している。なんとなく改まった顔で、太公望も向き直った。

「しかし……フツーは、力があれば落ちたりせぬよ」

「そうかなぁ?」

ふふっ。と普賢が笑った。

「たしかに……十二仙は崑崙仙人のトップだけど、結局は一芸に秀でた者の集まりにすぎない

んじゃない?……僕の言ってることが、わかるかなぁ?」

「つまり、それぞれの分野の専門家にすぎぬと?」

「うん。だからね、それらを総括する人間が必要なんだよ。それはただ、一つの仙術に秀でて

るというだけじゃない。全体を見る目がなければならない、ということ。違う?」

「…………………」

「この戦いは、仙人界と人間界の両方の運命を大きく変えてしまう。……だから、もっと、先

を見通す者。人間界と仙人界の両方を愛す者。両方の未来を考えることが出来る者。

望ちゃんには、それができる。だから元始天尊さまは、望ちゃんを十二仙に入れなかったんだ

よ。僕達十二仙の上に置くためにね」

太公望は、答えない。黙っている彼に向かい、普賢は、いつもと同じ調子で笑った。

「望ちゃんは仙人界と人間界の絆になると…元始天尊さまは考えておられるんだと、思うよ」

と、太公望が、妙に重くなった口を開いた。

「わしが仙人と人間の橋渡しなら、それなら……楊ゼンは……」

「……人間と妖怪の橋渡し?」

「え?」という顔で瞳を見開いた太公望に、普賢は目を細めて微笑んでいる。

「おぬし……まさか……知って……」

「さぁ?」と、普賢は細い首をかしげた。

「でも、望ちゃん。そう思うなら、早く行ってあげなよ」

「……は?おぬし、まさか……さっきから、それを言うために……?」

呆れたように、太公望がタメ息をつく。

「やれやれ。誰に似たのかのぅ。その異様なまわりくどさは……」

「望ちゃんじゃないの?だって類は友を呼ぶっていうじゃない。望ちゃん、楊ゼンには沢山、

言わなきゃならないことがあるのに、本当は……」

と言って、普賢はくすりと笑った。

「楊ゼンに会うのが、怖いんでしょ?」

太公望が、もう一度、深く息をつく。とうとう降参したように、彼は言った。

「うむ。実は…………なんと切り出していいのか……わからぬのだ」

「それでも、早く行ってあげたらいいよ。楊ゼンだって望ちゃんが来てくれるのを待ってる

よ?」

「ほんとうに……そう思うか?」

しかし、それには答えず、普賢は相変わらずにこやかに笑ったまま、念をおした。

「でもね、望ちゃん。忘れないで。僕が心配しているのは、望ちゃんのことだよ。それから、

この戦いの行方。望ちゃんが不安定だと……結局、僕らも困ることになる。だから……今言っ

た大きな目的を、頭のどこかに必ず置いといてね」

「え?……あ……うむ」

わかったような、わからないような顔で、太公望が、前を向いて頷く。

視線の先には、楊ゼンの部屋があった。







「おぉっと!」

「わッわわっ」

楊ゼンが休んでいるはずの部屋の扉を開けようとしたとき、太公望は、ちょうど中から出てき

た人影と正面衝突しそうになって飛びのいた。しかし、慌てたのは、相手も同じである。黒い

道服をまとった青年姿の仙人が、尻餅をつきそうな勢いで壁に手をついていた。

「なんだ、太公望か。おどかさないでおくれよ」

「驚いたのはこっちだ。太乙、おぬし…そんなに急いでどこへ行くのだ?まさか……楊ゼンに

何か……」

「いや。あいかわらずさ。すまない、太公望。今回ばかりは私の手におえないよ。もともと私

の専門外だし。……それで、雲中子を呼びに行こうと…。彼の専門、生物学だからさ……」

「では、後でわしが呼びにゆくよ。少し……楊ゼンに話がある」

「太公望…………?」

一瞬、考えている様子だったが、太乙は、すぐに了解したように、白く長い指先で小柄な道服

の肩をポンと叩いた。

「がんばっておくれよ?最近、崑崙一の大ペテン師の名が泣いてるようだからね」

「だれが大ペテン師だ!誰が!!」

足早に次の重傷者のもとへ急ぐ黒衣の背中に、太公望は少しばかり不機嫌な口調を送ってみ

る。

どいつもこつも……。いったい、何をがんばれというのだろう?

(わしだって、一生懸命なのだ……)
憮然として部屋に踏み込むと、どこか、むっとするような病人の熱気が身を包む。

楊ゼンは、薄暗い部屋の奥で、横になっていた。うっすらと開いた瞳が、ぼんやり天井を見つ

めている。

「起きておったか?すまんのぅ。つい、忙しくて……見舞いが遅れた」

近付きながら、とりあえず、太公望は当たり障りのない微笑みを浮かべてみた。

「どうだ?具合は……?」

しかし楊ゼンは、熱を帯びた瞳を天井に向けたまま、何も答えない。枕元まで来た太公望が所

在なげに、突っ立っている。

と。とても楊ゼンとは思えないほど、暗くか細い、吐息のような声がした。

「来て……くれたんですね」

「いや……あぁ…うん……」

「……どうですか?」

「え?」

「僕のツノ……ですよ」

太公望は一瞬詰まった顔をしたが、すぐにボケた笑いを浮かべて、大仰に手を振ってみせた。

「うむ。かっちょえーではないか?アールヌーボー的優雅な曲線美でありながら、雄々しい勇

ましさに溢れておる」

「………手は?」

「もう〜ドキドキするのう……。その手に握られたら、どんな仙人道士もイチコロだわ」

「……顔は?目の下の文様は?僕の牙は?どうですか、師叔……?」

「楊ゼン………」

困ったように、小さな体が吃った。静かな空間に、楊ゼンの、苦痛に耐えるような声だけが聞

えた。

「見て見ぬフリはやめて下さい。哀れみではぐらかされるより、事実を言われるほうがずっと

マシです。僕は……すべてを失ってしまいました。僕を愛し育ててくれた玉鼎師匠も、崑崙の

皆を守る力も、そして……あなたの信頼も……」

「そんな言い方はよせ。玉鼎が悲しむ。だいたい、なんで、わしの信頼がなくなるのだ。おぬ

しのおかげで、皆助かったのだぞ?」

「……口ではそう言っていても、ココロはどうですか?この姿を見る前はそう思っていても、

実際見た感想は、どうですか?……あなたほどの人が態度に出すとは思いません。他の仙人道

士のほとんどだって、そうでしょう?だけど……僕は……やっぱり妖怪です……。今まで皆を

欺いて人間のフリをしてきた醜いバケモノです。そして……もう……あなたを助ける力さえ失

くしてしまった役立たずです……」

「そんなふうに言うな。自分の姿をバケモノなどと……。おぬしらしくないではないか。情け

ない。玉鼎を亡くしたショックでそんなことを言っているのか?肉親を目の前で失う辛さは、

わしもよくわかっている。だが……」

「僕の完璧は……壊れてしまいました……。今はまだ人の姿に似せていますが……これ以上力

を失えば……原形に戻ってしまう。そしたら……いかにあなたでも……実際目にしたら、きっ

と気が変ります」

楊ゼンの、かたくなな心が、まるで、決意のように固く閉ざされている。

「師叔……僕は……もう……」

「……だから……」

急に、低く、くぐもった声が、楊ゼンを遮った。

「だから……おとなしく一人で崑崙を守っておれと言ったのに」

うつむいた太公望の表情は、部屋の闇にまぎれて、わからない。ただ、声はひどく怒ってい

た。

「いくらおぬしでも、金鰲の攻撃から守るために崑崙山全体に一人でバリアを張っておって

は、前線に出れぬ。金鰲内部で泥沼の戦いなど出来ぬ。……そう思って……わしは、おぬしに

防御を命じたのだ。なのに、おぬしは、頼んでもいないのに、勝手に一人で金鰲に乗り込ん

で、そんな体になって、勝手に……そんなに傷ついて……」

「……師叔……」

ふと、怒りが消えたように、声が変った。

「……すまぬ、楊ゼン………」

「師叔?」

「……そう言うわしが、実は一番おぬしをアテにしておった……。きっと、おぬしが、金鰲の

バリアを内側から解除して、わしを助けてくれると、誰よりもアテにしておったのだ……。み

んな……わしのせいなのだ……。すまぬ……楊ゼン………」

小さな肩が、震えている。楊ゼンは、はっとした。暗がりに、小さな温かい光が、いくつも、

いくつも、こぼれて消えた。

「師叔は………こんな僕のために……泣いてくれるのですか……?」

その姿になって初めて、楊ゼンの瞳が目の前の太公望を大きく映していた。

「………すみません……師叔。でも僕は…もう……」

「……のう、楊ゼン……」

静かな空間に、太公望の曇った声が続いた。

「なぜ……おぬしは妖怪なのに、崑崙に預けられたと思う?」

「それは……」

しかし、答えようとした楊ゼンを、太公望の声が蓋った。

「通天教主は、本当は崑崙との和平を望んでいた。……とは、思わぬか?おぬしは、その証。

そうは、思わぬか?少なくとも……わしは、そう思っておる」

「……師叔……」

「いつの頃からか、人間と妖怪は憎みあうようになった。互いを蔑んで、殺し合うようになっ

た。……だが、いつかわかりあえる日がくることを祈って、教主は、自分の子を崑崙に預けた

のではないのか?崑崙仙道たちの愛情をうけて、崑崙仙道たちを理解できる金鰲仙人になって

もらいたくて、おぬしを……」

「………………」

「わしはずっと、良い人間界を創ろうと考えてきた。だが、同時に、良い仙人界をも創らねば

ならないのだ。金鰲も崑崙もない、いがみあう境界のない仙人界を……。偽善で言うのではな

いよ。ただ……わしは……」

伏せていた少年顔が上がる。涙の跡を残したその頬は、泣いているような微笑を浮かべてい

た。

「おぬしには、そんな顔をして欲しくないのだ。……だから今でも、わしは誰一人死なずに、

金鰲と和解できれば良いと思っている……。………なのに……すまぬ。結局、わしは……」

小さな体が、崩れるように、つっぷした。

それは、楊ゼンが初めて見た太公望の涙かもしれない。道士・太公望は、決して人前では泣か

ない。そう思っていたというのに……。

「師叔……」

思わず、楊ゼンは手をのばし、太公望の髪に触れそうになった。ほんとうは、このまま、抱き

しめたい。しかし、そんな力がない。そんな勇気もない。

朽ちた木の、巨大な枝のようになってしまった手が、太公望の上で震えた。

その時。

「……え?」

慣れた柔らかさが、ふわりと、楊ゼンの手を包んだ。

とっさに引こうとした腕を、太公望は、しっかり捕らえて放さない。そして、その手を、自分

の頬に押し当てた。

「師叔………!?」

太公望の頬をつたった温かい滴が、楊ゼンの枯れ木のような手をも濡らした。

「楊ゼン……。わしは見て見ぬフリなどせぬ。本当のことを言う」

「…………」

「おぬしのこの手は、硬くて冷たくて、わしには大きすぎて……だが……これで、いいのだ。

この手でいいのだよ。これが、おぬしの手ならば……」

そうして太公望は、そのままその手に口付けた。

(暖かい……)

こんなに、太公望の唇の温もりを強く感じたことはない。凍った心さえ溶かしてしまうほど、

それは、優しく暖かだった。

(ここに……帰ってきて……よかった)

その為に命をくれた師、玉鼎にとりすがって、ありがとうと言いたい。そう思えた時、やっと

自分の声が出た。

「師叔……すみません」

「え?」

「せっかくのお誘いなのに……今の僕には体力がなくて……。これじゃキスもできませんよ」

「な?……なにを言っておるのだ、おぬしは!!」

いきなり耳まで赤くなりながら、太公望は顔を上げた。

「ご心配を……おかけしました……」

「楊…ゼン……」

「今は無理ですが……でも必ず、僕は師叔と一緒に戦場に戻ります。だって天才道士の僕がい

なければ、皆が困るでしょう?……そして、また、あなたを守ります。きっと……」

「おぬしは……」

近付いた太公望の頬に、精一杯顔を向けて、楊ゼンは、そっと口付けた。

「のう、楊ゼン……」

互いの息を近くに感じながら、太公望がささやいた。

「妖怪の見てくれに惑わされる者も、確かにおるだろう。だが………魂のかたちを見るのだ。

ココロのかたちを……」

「………ココロの、かたち?」

「わしには、おぬしのかたちが美しく見える。そういう者は他にもきっといる。だから……」

「……師叔……やっぱり、僕は……仙界一の幸せ者ですよ」

いつの間にか、楊ゼンの瞳にも温かい滴が溢れている。

優しい、優しい時が、二人を包んでいる。

「でも、師叔……」

「ん?」

急に、楊ゼンの頬に悪戯っぽい笑みが浮かんだ。

「そんなセリフ、自分で言ってて……恥ずかしくありませんか?」

「だっ…………だったら、わざわざ言わすな!ダァホ!!」



これから、何が待っているのか。どんな運命が手をとるのか。

でも、今は……。今だけは、しばしの休息を。

安らかな時間が、二人の間に、ほんの少し停まっていてくれますように…………。

《ココロのかたち・・・終》