7.選択の選択

楊ゼンの三尖刀が、薄暗がりの空気を3つに切り裂く。

縦横無尽に変化する3本の亀裂を軽くよけながら、趙公明は、何を考えているのか、さっきか

らじっと楊ゼンの表情ばかり見つめている。

どれくらいそうしているのか。

臨潼関に近い山間の、崖に囲まれたひとけのない場所で、楊ゼンと趙公明が互いの宝貝を駆使

して戦っている。

(………楊…ゼン……)

それを、少し離れた崖の上で、ただ見守ったままの太公望が、苦しげに息をついた。握った右

手がきつすぎて痛い。しかし、趙公明の描いた円の中から動こうとはしない。そこを出れば、

この先で駐屯している周軍の宿営地が爆破されてしまう。

趙公明の仕掛けで、周の兵士を人質にとられたまま、彼はこの戦いを、ただ見ているしかない

のだった。

(趙公明……。あやつ……何を考えておるのだ)

薄い唇を噛みながら、太公望は、ずっと金髪を翻す派手な男の動きを目で追っている。

周軍の宿営地に突然フラリと現れたこの男は、太公望一人を誘い出し、奇妙な問いをつきつけ

た。

その返答いかんで、今後の戦闘を決める、という。

(だが…わしは…答えられなかった……)

その彼を観戦に回し、趙公明は何を思ったか、太公望を追ってきた楊ゼンを相手に戦いを始め

てしまった。

(それも、わしの答えを聞くためだと言っておったが……)

奇妙な問だった。

けれど太公望には、応えに戸惑う問だった。

『太公望くん。キミにとって一番大切なのは、人間の命だ。キミは……彼らを守るためなら、

仙道を犠牲にしてもかまわないと、思っている。違うかい?』

まっすぐに縛竜索で指しながら、趙公明は、そう言った。

『とりわけ僕らのような金鰲の妖怪仙人は、人間じゃない。だから、いくら殺してもかまわな

い。キミは心のどこかで、そう思っているんじゃないのかい?』

違う。

と、即答できなかった自分が辛い。

太公望は、もう一度、唇を噛んだ。

眼前では、一見、互角に見える宝貝の応酬が続いている。

二人とも、常人の目に映らぬほど鋭く速い。

(だが……あやつ…)

趙公明は、まったく本気を出していない。まるで、太公望に考える時間を与えるためだけのよ

うに、攻撃はギリギリのところでわざと的を外している。それは、いつでも楊ゼンを殺せる余

裕にも見えた。

(このままでは……たぶん楊ゼンが……)

助けにゆくのは、簡単なのだ。別に、縛められてるわけじゃない。

(しかし……わしは……)

こぶしを握ったまま、太公望は動かない。動けない彼の頭に、趙公明の言葉だけが、何度も響

いている。

『キミは、人間を守る為なら妖怪仙人の命など……』

と、不意に、この金鰲仙人の声で続きが聞こえた気がした。

『その為になら、楊ゼンくんだって当然、死んでも仕方ない。キミはそう思ってるんじゃない

のかい?だって、彼は……』


─……彼…は…………─


「楊ゼンくん!」

風を切り、自在に宙を飛び回りながら、急に趙公明が愉快そうに笑った。

「実に、良いね!キミは」

その蒼い瞳は、ぴたりと楊ゼンの動きを追っている。

「キミは……」

「趙公明!!……戦いの最中に…」

哮天犬と三尖刀を、まるで二刀流のように器用に使いこなしながら、

「敵である僕に、話しかけないで下さい!」

楊ゼンが極力、ぶっきらぼうに突き返す。言葉と一緒に、彼はからみついてくる縛竜索をはね

のけた。

「そう、無粋なことを言わないでくれたまえ。僕らは同じ貴公子どうしなのだから」

「………あなたと一緒にされる覚えはありません」

「つれないね」

別に、からかっているという風でもなく、本当に残念そうに首を振る。

その間も攻防の勢いは衰えない。けれど趙公明は、そのスキのない動きとは対照的に、意外な

ほど優雅な調子を崩さない。終始、彼は戦っているというより、むしろワルツでも踊っている

ようだった。

「楊ゼンくん。キミは、外見も美しいし、技も良い」

「……………」

「それに、なにより太公望くんを強く想い戦っている」

「…………」

「だが、実に残念だ。その想いは一方通行で、太公望くんにとっては西岐の一般人のほうが大

事なのだから!」

楊ゼンの動きが、わずかに鈍った。

けれど、そこにつけこむわけでもなく、相変わらず趙公明は目の前の道士に合わせ、緩やかに

受け流している。

嬲っているというわけでもない。

ただ、素朴な感想のような言い方に、楊ゼンは胸の奥が、ついカッと熱くなるのを感じた。

「いったい……あなたは……何が言いたいんです?」

いつもより低い声だった。時々、楊ゼンは、キレると何をしでかすかわからない不気味なとこ

ろがある。美しい頬が、どこか人間離れした凄みを宿して、暗い影を帯びた。

ところが、趙公明は、それさえも軽く流し、

「いや、怒らないでくれたまえ。僕が思っているのはね……」

と、ティータイムでも楽しんでいるような口調でゆったり微笑んだ。

「キミは……バカバカしいとは思わないかい?妲己にしろ聞仲くんにしろ、太公望くんにしろ

……人間、人間、人間のために!!」

「…………?」

「聞仲くんは殷を守るために仙界を捨てた。妲己たちは人間を操り殺すことに全精力を傾けて

いるし、太公望くんたちは周人を守るために命を捨てている。つまり、だよ」

と、趙公明は妙に生真面目に念を押した。

「金鰲も崑崙も、目的は逆だが、結局は、人間に深くこだわっている。特に妖怪仙人たちのこ

だわり方は並みじゃない」

「…………」

楊ゼンは黙っている。

と、何を思ったか、金鰲の大仙人は、いきなり中空に静止して、縛竜索を操る手を止めた。

「ねぇ、楊ゼンくん」

「趙公明……?」

「君は何故、妖怪仙人の最終形態が人間なのだと思う?」

「え?」

一瞬、状況を忘れたように、楊ゼンも止まった。その彼を、まっすぐに見おろして、趙公明は

続けた。

「だって、不思議だとは思わないかい?妖怪が……バカにしているはずの人間の姿になりたが

るんて!」

「それは……」

しかし、答えようとした楊ゼンを遮って、彼は、いつもにもまして大仰に肩をすくめてみせ

た。

「ふつう、妖怪仙人は人間出身の仙人よりも年寄りが多い。なにしろ、ただの花や石ころが千

年以上も日月の光を浴びてようやく妖精になり……それから、更に修行を重ねて仙人になるの

だからね」

まるで、思い出を語るような顔で、趙公明は薄く微笑んでいた。

「……そう。悲しいかな、人形をとるのは、妖怪にとって気の遠くなるほどの年月と苦しい努

力の証。人は生まれながらに人間なのに、妖怪は何千年も修行して、ようやく人の姿を持て

る」

奇妙な表情だった。

怒りも憎しみも、わだかまりもなく、ただの他人事のような。それでいて、つい引き込まれて

しまうほど真摯な顔。

もはや自嘲すら越えてしまった顔だ、と楊ゼンは思った。

「…だから、妖怪仙人が原形に戻されるのは最大の屈辱。プライドを傷つけられた、なんてカ

ンタンなものじゃない。何千年もの労苦を、踏みにじられるわけだからね。…それも、敵であ

る相手に!しかもその敵は、最初から人の姿を持っている…!!」

金鰲の妖怪仙人は、ごく自然な微笑みを浮かべたまま続けている。彼が、なぜそんな話を始め

たのか、楊ゼンにはわからない。しかし、わからないまま、心のどこかがチクリと感じた。皮

膚の奥にしまい込んだはずのものに、小さなトゲが刺さったような……。

「確かに、文明的には、金鰲が進んでいる。だって、人間が生まれるはるか昔から存在してい

た者も多いのだから。しかし、人間たちは妖怪を下等な存在だと非難する。それを、妖怪たち

はさらに否定する。ええと、だからね……金鰲は躍起になって崑崙の技術に勝とうとしたが…

…裏を返せば、妖怪のコンプレックスにすぎない、と僕は思っているのだよ。つまり、立派な

妖怪仙人になることで、初めて、妖怪は人を超えられる……」

楊ゼンの瞳が微妙に翳る。それを眺めながら、フランス王朝風の男は、いつものように、きら

びやかなしぐさで両手を広げた。

「誤解しないでくれたまえ。人間仙人も妖怪仙人も、僕としてはどうでもいいことだ。言いた

いのは、僕らにとって、それほどまでに、人間とは価値のある生き物なのか?ということだ

よ」

「…………」

「太公望くんにも言ったことだが…僕に言わせれば、本当の現実など、どこにもないのだ。真

実という現実が無い以上、大義名分など、かかげても無意味…まぁ、僕はね……」

理屈を並べたことを、ちょっと後悔するように、趙公明は軽く笑った。

「……ただ、美しく戦いたいだけなんだよ。本性に従って……」

急に、趙公明の穏やかな口調に、冷めた殺気が入り交じる。冗談のような、それでいて、妙に

残酷な視線で、彼は目の前の崑崙道士を指した。

「人間などに関わりなく、本性のみに正直に生きる。それこそが、最も美しい。キミもそうは

思わないかい?」

「なぜ、僕に……そんな話を?」

喉の奥が、乾きすぎて痛い。楊ゼンは徐々に高まった動悸が、周囲に聞こえる気がして、うろ

たえた視線を走らせた。

(師叔………)

だんだん濃くなる闇の中、少し離れた場所に、太公望の道服が小さく見える。しかし、細部ま

ではわからない。

(僕らの会話も、聞こえてはいないはずだ)

そう思うと、彼は少しほっとした。

その様子を興味深く眺めながら、趙公明は、再び宝貝を振った。

「さて、休憩は終わりだ。これから僕は少々本気を出そうと思う」

「べつに……かまいませんよ」

再度、三尖刀と気を取り直し、哮天犬を後ろに控えさせながら、楊ゼンが一歩前に出る。

すると、

「いいのかい?」

もう一度、さっきからの続きのように、趙公明が笑った。

「そのままじゃ、キミは僕に勝てないよ」

からかっているような、それでいて真剣に何かを試しているような、意図の読めない笑顔だっ

た。

なぜか恐怖に近いイライラで、楊ゼンは低くつぶやいた。

「やってみてから言えばいい!」

「ふむ。まぁ、このままカマのかけあいを続けてもいいのだけど……天才のキミには、もうわ

かっているだろう?僕が何を期待しているのか?」

「いったい、何なんです!?さっきから、あなたは……」

「べつにキミに悪意があるわけじゃないんだけど……」

と言ってから、もう一度、趙公明は微笑した。それから、あっけないほど、あっさり言った。

「僕と戦うなら、真の姿に戻りたまえ」

息が、止まった。

全身を強張らせたまま、楊ゼンは、地面に突き刺さった棒のように突っ立ていた。

「どうしたんだい?僕がなぜ正体を知っているのか、驚いているのかい?それとも……太公望

くんに嫌われるのが、怖いのかい?ここでバレてしまったら、崑崙にいられなくなると心配し

ている?」

言われて、我に返った。長い髪を翻した端麗な道士は、精一杯、平然と見つめ返した。

「太公望師叔は……そういう人間ではありません」

「でも、彼はずいぶん、一般人を大事にしてるようだけど?」

「当然です」

と返してから、楊ゼンは何事もなかったように続けた。

「師叔は…周の軍師です。だから当然……僕が周の道士である限り、崑崙の道士であるかぎり

……人間の側にいる限り……師叔にとって、僕は必要なはずです!!」

言いながら楊ゼンは、自分が、自分の言葉で傷ついている気がした。

(僕は、きっと、役に立っているハズだから……)

だから師叔が、僕を見捨てるハズはない。

(そのために、僕は今までがんばったのだから……)

なのに、そう思えば思うほど、気持ちが乱れてゆくのはなぜだろう?

(僕は…ただ役に立つ僕、ではなくて、僕という道士個人を見て欲しいのだろうか?)

それは、そうだ。

それも、確かにある。

たとえ何の役にも立たなくてもいいから、そばに居てくれと、師叔の口から言ってもらえたら

……。

(そしたら……僕は…もう……)

でも、それだけじゃない。

それだけじゃない不安が、重りのように圧し掛かってくるのは、なぜだろう?

―不安―

少し前から、ずっと感じ続けていた底のない不安……。

「やっぱり、妖怪は……」

と、それまで黙っていた趙公明が、思い付いたように、話を引き戻した。本気とも冗談ともつ

かない顔で彼は言った。

「妖怪は、結局のところ……」

「……?」

「人間に、憧れてるのかもしれないね」

「………え…?」

「だから、人の姿を真似るのかもしれない。仙人になりたいのかもしれない。妖怪にとって仙

人とは、常に人形を保てることなのだから」

急に。

本当に急に、楊ゼンは思い出した。ここに来る直前、太乙真人に言われたことを。

―楊ゼン……キミは自分が人間だと思うかい?―

人間。

そうでなければ、どうだというんだろう?

(確かに僕の出身は、妖態かもしれない。だけど今は、僕も、太公望師叔も、同じ崑崙の道士

で…師叔だって僕が崑崙道士であるかぎり見放すはずはなくて……そして、いずれ、一緒に崑

崙の仙人になる……。不老不死の仙人に。師叔だって、それを望んでいるはずで……)

でも。あの十二仙は言っていた。楊ゼンに対する意趣ではなく、もっと重大で、別な何かを気

にしているように。

―太公望はね……―

と、太乙は言った。

―人間には、定年があると思っているらしいんだ―

人間の……定年って………?

「しかし、楊ゼンくん。僕が思うに……人間と仙人は違う」

相変わらず真意の読めない微笑をたたえた口元で、趙公明が話している。

「人間は……非力だ。宝貝も使えないし、不老でもない。そして何より……すぐに死ぬ。だか

ら……」

「だから?」

「妖怪は、仙道にはなれるが、人間にはなれないんだよ。決して……」

ああ、そうか。

そのとたん、楊ゼンの中で、からんだ糸が解けるように、今まで感じ続けていた得体の知れな

い不安が、すべて一つにつながった気がした。

(………たぶん……)

と、確信に近い感覚で、楊ゼンは思った。

(師叔は……仙人になる気がないのかもしれない。人間の寿命であるうちに、道士すらやめて

………)

仙道をやめて人間に戻ろうとするのが、太公望の望みなのだとしたら、仙道をきわめることで

太公望のそばにいようとする自分は、破綻する。

二つの道は、正反対で……そして……。

(人間になれない僕は、どんなにがんばっても師叔と一緒に歩いていけない。どこまで追って

も、追っても……師叔は……)

だから、不安だったのだ。

いつか、太公望と、永久に別れてしまう気がして。

それは、どんなに努力しても、埋めようのない決定的な隔たりで……。

「ああ、おしゃべりが過ぎてしまった!」

本題を思い出したように、趙公明が大袈裟に叫んだ。

「さて、お互い本気で戦おうじゃないか、楊ゼンくん。せっかくの機会だ」

けれど楊ゼンは、三尖刀を握ったまま動かない。

「どうも、気乗りしないようだねぇ?」

「…………」

「では、こうしよう」

「…………?」

「最初の約束通り、僕が勝てば、太公望くんは僕がいただく。僕は、仙道や霊獣を石化できる

秘薬を持っているのだが……太公望くんを手に入れたら、美しい彫像にして、僕の城に飾って

おくよ。左手は僕がつけて……いや、やはり無いほうがいいね。身体の一部が欠落しているこ

とは、一つの魅力だ。その無い部分が、逆に無限の力を感じさせる」

気味の悪い理屈を並べて、趙公明は笑った。

「………趙公明……あなたは…」

楊ゼンの、青い影が、陽炎のように揺れた。

しかし一向に気にならないように、彼は楽しげだった。

「ちなみに、この石像、五感はあるのだよ。すべて見て聞いて感じることができるのに、自分

では何一つ動かせない。この心の葛藤が………いいんだね。あぁ……とても美しいね」

「趙公明……」

「なんだい?楊ゼンくん」

「僕は、あなたを殺します。たとえ、どんな方法を使ってでも」

師叔を守るためなら……

師叔を守りきれるのなら……

僕は、すべてを捨てても、かまわない。

たとえ、崑崙の仲間に疎まれても。

もしかして、太公望師叔……。あなたに、蔑まれることになったとしても…………。








8.親たちの心配事



太乙真人の黄巾力士が乾元山に戻った時、仙界はとっくに日が暮れていた。仙道たちの住む、

この空に近い世界では、地上よりも早く夜が明け、早く日が沈む。

太乙真人は操縦席から立ち上がると、黄巾力士の頭部から、墨汁をひっくりかえしたような

真っ黒い闇へと降り立った。

独りの足音が、やけに大きく響く。

(もう少し……長居しても良かったかなぁ……)

少し寂しい気がして、太乙は足元にある人間界を見下ろした。もちろん、さっきまで彼が居た

周軍の宿営地は、はるか下界の闇にまぎれてしまっている。

(今度、赤外線付き望遠鏡宝貝でも作ろうかな)

半分以上、本気で考えながら、太乙はメタリックな直方体の上を洞府に向かって歩き始めた。

硬い音が、しんとした闇にぶつかって、はねかえる。

「乾元山」とは名ばかりで、ここは、あまり山らしい場所がない。

崑崙山脈の中でも、珍しいハイテク機器ばかりが、ずらりと並ぶ特異な場所だ。メカじみた造

りは彼の趣味だが、賑やかな人間たちの集団から帰ると、さすがに一瞬、冷たい気がした。

(これから誰か…他の十二仙の所にでも行ってみようかなぁ……。いや、それとも元始天尊さ

まに、太公望たちの様子を報告しにでも行くか……)

そんなことを考えながら、洞府の近くまで来たとき、

(あれ…………?)

太乙真人は、ちょっと驚いて立ち止まった。

誰もいないはずの入口から、火影のような淡い灯りが漏れている。

(変だな……。つけっぱなしで出たハズないんだけど…)

やや間の抜けた表情で、頬に人差し指を当てながら彼は肩をすくめた。

と、ランプのような炎の光がユラリと揺れて、背の高いシルエットが現れる。

太乙真人とよく似た輪郭。しかし、衣装の裾が広く長い。まっすぐに伸ばした背筋が武士然と

している。

影が動くと、裾と同じくらい長い髪がふわりとなびいた。

「師兄………師兄じゃないですか!」

思わず叫んで、太乙が駆け寄る。

金光洞の入口に、灯りを背にした玉鼎真人が立っていた。







「いったいどうしたんです?」

メカニックな外装を裏切らないシャープな造りの居間で、太乙は手早く甘露と仙桃を並べた。

しかし、それには手をつけず、硬質な椅子に足を組んで座ったまま、玉鼎は切れ長の瞳をいっ

そう細く睨んでいる。美しいけれど、どこか凄みのある眼光に、さっき別れたばかりのゼンを

重ねて、太乙は内心苦笑した。

(やっぱり……師匠と弟子は似てくるものなのかなぁ)

その「師匠」は、黒く光る四角い卓を前に、じっと動かない。

ややしばらくして仏頂面のまま、まるで詰問でもするように彼は言った。

「太乙……おまえこそ、何をしているのだ。元始天尊さまの許しも得ずにちょくちょく人間界

に降りてるらしいではないか」

一瞬、うっとつまったような顔をして、太乙真人が吃る。けれど、すぐにこの仙人独特の憎め

ないリアクションで言い返した。

「……道徳だって降りてますよ」

「道徳は戦闘に参加してるわけではなかろう?」

「私だって、してませんよ。ただちょっと…新しい宝貝を渡すついでに様子を見てるだけで

す。ナタクが皆と仲良くやってるかどうか……」

最後のほうは小声になりながら、太乙は、ほとんどグチでもこぼすような顔で、上目使いに玉

鼎を見た。

そこではじめて玉鼎が笑った。一見繊細そうな容姿のくせに、存外、男っぽい表情をする。

「弟子が気になるのは皆一緒か」

「まぁ、そういうことです」

「お互いにな」

しかし、その笑顔が妙に沈んでいるのに、太乙は気付いている。気付いてはいたが、だまって

いた。ただ、相手が話してくれるのを待っている。

と、玉鼎が、独り言のように言った。

「あの子を……封神計画に入れたのは間違いだったのだろうか」

「楊ゼン……ですか?」

わざと何気ない素振りで、太乙は答える。玉鼎はじっと目の前の甘露のグラスをみつめてい

る。グラスの淵にたまった水滴が一筋流れたとき、再び唇が動いた。

「まるで…親を殺せと言うようなものだ」

「師兄………」

その複雑な心境が、しばらく前にナタクのことで悩んでいた太乙にはよくわかる。しかし、わ

かるからこそ、あえて素っ気ない言葉を返した。

「そんなこと、私にはわかりませんよ。もちろん、師兄にも」

「太乙……?」

「産みの親をとるのか、育ての親をとるのか?金鰲をとるのか、崑崙をとるのか?妖怪なの

か、人間なのか?……。それを選ぶのは楊ゼンです」

「あの子は、我々を選んだ、と思っていいのだろうか」

「我々と……太公望を選んだ、と言ったほうがいいかもしれません」

「太公望……か」

「私は……ナタクを太公望のもとにつけて良かったと思ってますよ」

「楊ゼンもか?」

「たぶん。意味は違いますけど……」

「太公望……か……」

思案と不安の入り交じった顔で、玉鼎はうつむいた。

「太乙…おまえは、太公望が初めて崑崙に来た頃を覚えているか?」

「え?……ええ」

一瞬怪訝な顔をしたものの、すぐに太乙は、昔を懐かしむように笑った。

「そういえば今と違って……ただじっと我々を睨んでましたっけ。親兄弟を、仙道に殺された

ばかりで……」

「確かに彼は逸材だ。だが……」

「…………?」

「仙道を憎んでいる。特に妖怪仙人を…」

「……玉鼎…師兄……?」

(太公望は……)

玉鼎は直感で思っている。

太公望は、トボケた笑顔の裏で、崑崙仙道の我々をも信用してないのかもしれない。誰も信じ

ていないのかもしれない。

もしかすると、道士である自分自身のことさえも…………。

「あの子は……楊ゼンは…人間出身の仙道ではない。それを知ってもなお…太公望は………あ

の子を受け入れてくれるだろうか?」

「太公望は優れた軍師です。あえて戦力を削るようなマネはしませんよ」

「それは、わかっている。私が言いたいのは……」

端正な頬をそむけた玉鼎の声が、心なしか震えているように聞こえる。

「太公望は……ずっと楊ゼンのそばにいてくれるのだろうか。この戦いが終わったら……彼は

どうするつもりなのだ」

「師兄、それは………」

答えようとして太乙真人は、ふと口をつぐんだ。

(私にも…わかっているわけじゃない。言ってもどうせ推測にすぎないし……)

代わりに彼は、やや、話題を変えた。

「それはともかく……前々から気になっていたのですが……」

「…………?」

「楊ゼンは……かなり能力主義なところがありますねぇ。才能のある者とない者を即座に差別

しようとするし……天才にもこだわっている。……自分の時間を惜しんで弟子もとらないのは

利己的にもみえるし……。子育て教育に何かトラブルでも?」

「うーむ……」

と、玉鼎も、痛いところを突かれた顔で考え込んでいる。

しばらくして彼は、おもむろに言った。

「確かに、そんな所もあるだろう。ただ……あの子はいつも一生懸命なのだ。自分にも他人に

も完全を求める。役に立たない者を蔑んでいるのは……自分が役に立たなくなった時のことを

恐れているからだ」

「…………」

「あの子は十分にがんばった。今度の戦いに楊ゼンはなくてはならぬ道士だろう。崑崙の誰も

が、あの子の能力に絶大な信用をおいている。ただ……」

「ただ?」

「あの子に必要なのは能力に対する信用ではなく、存在すべてを預けてくれる信頼だ。それも

……永遠に続く信頼……」

「師兄………それは贅沢な親バカですよ」

さすがに太乙は苦笑した。

「永遠に続く信頼……。それはもちろん理想です。でも……そんなものは、この世の、どこに

もないのかもしれません」

玉鼎は、うつむいている。そして、そのまま、つぶやいた。

「この世の……。しかしそれは……、人の世のことではないのか?」

「師兄……?」

「人間よりも、人間以外の生き物のほうが、一途に生きている気はしないか?」

楊ゼンのように、とは言わなかったが、玉鼎は、そう思っているのかもしれない。

「確かに、太公望は、今のあの子の支柱だろう。だが、太公望は……」

もう一度、玉鼎は繰り返した。

「太公望は、最後まで楊ゼンのそばにいてくれるだろうか?この戦いが終わっても……?人間

界に、楊ゼンの力が必要なくなったとしても……?」

◆ to be continued ◆