4.朝歌の使者



正使一名。副使二名。従者十騎。

目的

周軍の慰労のために、趙公明より、花束贈呈及び管弦演奏




「わけがわからんのう………」

さすがの太公望も、腕組みしたまま、うなっている。

趙公明の使者は朗々と親書を朗読した後、巨大な花環を姫発に贈り、さらに宿営地中央の

広場に設けられた壇上で、従者ともども盛大な演奏に入った。

最前列の中央に姫発と周公旦。二人をはさんで両側に崑崙道士が座っている。典雅な宮廷

音楽を頭上にして、彼らは、めいめい勝手なことを言っていた。

「やはり私は反対です。こんな得体の知れぬ連中を宿営地に入れるなんて。小兄さまにも

しものことがあったら……」

「でもよ、平和的な使者なんだろ?」

「……モグラっち……。慰労って、フツー味方がやってくれるもんさ」

「これは明らかな敵情視察ではないでしょうか」

「それにしては、明らかすぎるのう」

「お師匠さま…。楽器は実は金鰲の宝貝で、いきなり襲いかかってくる……ということで

は?」

「ありゃ普通の楽器だぜ。禁城にゴロゴロしてるのをオレぁ毎日見てた」

「今んとこ、ほんとに、ただ遊んでるだけさ」

「でも……あの使者が怪しいっスね」

「僕もそう思いますが……全員、仙気は感じられません」

「本当にただのイローじゃないの?」

「それにしては、プリンちゃんがいねぇ」

「やっぱり慰労かもよ。趙公明さまはイッちゃってる人だから十分ありえるわ。ただ思いつい

たからやってみただけかも」

「うーむ……」

と、腕を組んだまま、太公望も動かない。

「金鰲出身のおぬしが言うのだから、ある程度当たっているのかもしれぬが……趙公明とは、

そういう男なのか?」

今度ばかりは、太公望も決めかねている。彼は正面に顔を向けたまま、横目で隣りの楊ゼンを

うかがった。

「どうだ?おぬしには本当に仙気が感じられぬか?」

「ええ」

「うむ。実は、わしもだ。だが……」

太公望が首をかしげた時、ちょうど、音がやんだ。

壇から、正使が一人で降りてくる。何の変哲もない文官の衣を着た、ありきたりな風貌の男

だ。彼は姫発の前を通り越し、太公望の前で止まった。

「実は、太公望さま。主、趙公明より、あなたさまにだけ特別の言伝がございます」

「わしに?」

「それで…わずかの間でかまいませぬ、二人だけにしていただきたいのですが」

一瞬、その場の空気が張りつめる。

それを破って、周公旦が声を上げた。

「お待ちなさい、使者殿。周の主は、ここにいる武王です。王をさしおいて、軍師と二人にし

ろとは無礼ではありませんか」

いつも細い目を、更に細くしている。言いながら、彼はヒジで姫発を押し出した。

「お…おい待てよ、旦!オレは別に…」

姫発は慌てている。

「無礼は承知でございます。しかし我らにとっては、趙公明の命令こそが絶対」

「わかった、わかった」

と言ったのは太公望だ。そして、姫発の肩越しに、急いで周公旦に目配せする。使者から少し

離れた所で、彼は旦にささやいた。

「とりあえず、わしにまかせよ」

「しかしよろしいのですか?」

「ここはひとつ、相手の出方に合わせて様子を見ようではないか」

「はぁ。まぁ、私に異存はありませんが」

「いけません!太公望師叔!」

ところが、そこに、楊ゼンが割り込んだ。

「みえすいたワナに決まってます。忘れないで下さい。あなたは今、宝貝が使えない体なので

すよ?」

いつもより、頬が白い。口調も激しく、不機嫌だった。

「そう怒るな、楊ゼン。心配はいらぬ」

「では、僕も一緒に参ります」

「いや、あやつは、わしに用があると言っておる」

三尖刀を握った楊ゼンを、太公望は軽く受け流して笑った。

「では僕はあなたの打神鞭に変化します。持っていって下さい」

「おぬしのう……」

「楊ゼンさん、なんかコワイさ」

後ろの天化が小声で茶化す。それを合図に、道士が皆集まりそれぞれ勝手なことを言い始め

た。

「ええい!うるさいっ」

突然、珍しく太公望が大声を出した。

「よいか、誰もついてくるでない。これは軍師としての、わしの命令だ」

いつになく決然と言いきると、辺りがしんとする。続く戦いのなかで、皆、少しずつ、彼の判

断に無条件で従うようになっている。

使者と太公望は、二人だけで宿営地を出た。

「ま、太公望どのに任せておけば大丈夫だろ」

武成王は案外、素直に彼を信用している。他の者も、黙って見送っていた。ただ、楊ゼンだけ

は、不安げに苛立った右手で強く三尖刀を握り締めている。そして、何を思ったのか、急いで

踵を返すと、その場にいなかった太乙真人の姿を探しにでかけた。







5.いきなりバトルだ?


趙公明の使者は、先刻から、同じ速度で歩き続けている。宿営地は遠ざかり、もう影も見えな

い。3つ目の谷を過ぎたあたりで、とうとう太公望が音を上げた。

「いい加減、飽きてきたのう。使者どの」

「……………」

「どこまで歩くのだ?わしは疲れたぞ」

「……………」

「のう!使者どの!!」

「……………」

しかし答えがない。ただ前方を黙々と歩き続けている。

不意に、太公望が立ち止まった。

「もうこの辺でよかろう」

「…………」

「そろそろ話とやらを聞かせてもらおうではないか。………趙公明!」

「は?」

そこで初めて、使者は止まった。

「なにをおっしゃられます、太公望さま。私は趙公明さまの召し使いにすぎませぬ」

今度は、太公望が黙っている。滅多に見せないきつい視線で睨んだまま、彼はおもむろに言っ

た。

「よせ、わしに茶番は通用せぬ」

クスリと、使者が笑った。

その瞬間、黄色い砂塵がベールのように舞い上がり、使者の姿をおおい隠す。

一拍おいて舞台の幕が開くように、さっと視界が開ける。

次に姿を現した時、文官は、派手な衣装を光らせた、特異な美をひけらかす男に変わってい

た。

「ほぅ。おぬしが、趙公明か」

「なんだ。気付いていたのかい?キミも人が悪いなぁ。仙気は完璧に消したはずだったのに

ね」

「仙気は感じなかった。だが、敵の道士であるわしとサシになれる自信は、仙道のものだ。仙

道でありながら、仙気を消せるほどの者。だが、妲己や申公豹はわしと会うのに、ここまで回

りくどいマネはせぬ。聞仲なら、問答無用で攻めてくる。とすれば、自ずと限られてこよう」

「なるほどね」

きらびやかな金髪を片手でかきあげながら、まるで喜んでいるように、彼は笑った。

「さすがは元始天尊くんの一番弟子、と言っておこう。太公望クン」

「金鰲三強の一人であるおぬしが、わざわざ何しに来たのだ?」

「怒らないでくれたまえ。他意はないんだよ。ただ、キミたち崑崙道士の顔を見に」

「本当のことを言って欲しいのう」

「嘘じゃないよ。加えて、キミの実力を見るためさ」

「わしの?」

「キミは元始天尊の一番弟子なのだろう?実は彼には、千五百年ほど前に借りがあってね。僕

としてはいまだ非常に気になっている。当然、滅多に直弟子をとらない元始天尊くんの弟子と

聞けば、興味がわく」

「……………」

黙って突っ立っている太公望に向かい、趙公明は、腰から抜いた宝貝、縛竜策をつきつけた。

「ということで、これから太公望くんには僕と一対一で戦ってもらう」

が、太公望は、あっさり回れ右をした。

「………じゃ、そういうことで。わしは失礼する」

「待ちたまえ」

「おぬしの酔狂につきあってるヒマなどないよ」

「そういうわけにはいかないさ。実は、残してきた従者は人間ではないのだから」

ピタリと、太公望の足が止まった。

「……おぬしの手下の仙道か?」

「いや」

「まさか……宝貝人間………?」

「そんなたいそうなものじゃないよ。ちょっと精密な、ただのカラクリ人形さ。ただし、西岐

の兵を全員吹き飛ばすだけの爆弾にはなる」

舌打ちして、太公望は再び、この金鰲きっての仙人に相対した。

「それで結構。さあ、戦闘開始だ」

「残念だが、わしはこの間の戦いで疲労しすぎてしまってのう。道士としての力を失ってお

る。おぬしと宝貝対決などできぬよ」

「ノンノン!」

趙公明は、困ったように両手を広げた。

「僕に茶番は通用しないよ」

わざと同じ言葉を返して、彼は片目をつぶってみせた。

「崑崙の仲間までダマしているようだが、キミの策などお見通しさ」

「……………」

仕方なく、太公望は右手に打神鞭を握る。しかしすぐには使わず、代わりに話を向けた。

「聞くところによると、おぬしはいつも人質をとって戦うそうだが」

「僕のシュミと思ってくれたまえ」

「今度もそのテか。悪趣味だが、理由があろう。なぜ、そんなマネをする」

「なぜって?そのほうがドラマが盛り上がるからだよ」

「ドラマ?」

「人生は筋書きのないドラマだ、とよく言うけれどね」

趙公明は、どことなく嘲るように微笑した。

「僕は、違うと思う。真の天才は、筋書きを自ら作ることができる。まぁ、僕に言わせれば、

人はみな花のようなものだ。だが、花には生まれつき大輪の花と路傍の雑草がある。つまり

……世の中には天才と凡人がいて、凡人のつまらない矮小な人生を華やかに飾る筋書きを作っ

てやることが、天才の役目なんだよ」

「おぬしの言う凡人とは、普通の人間のことか」

「言うまでもない。だが、才能の足りない仙道も凡人に入ると思うよ」

「おぬしは天才、というわけか?」

「もちろんだとも。だから僕は、キミたちの死を飾るにふさわしい、凝ったドラマを演出しよ

うと思っている。さっきも言ったが、最高の演出をしてあげることは、相手のためでもあるの

だよ」

「わしには、おぬしが、ただ命を弄んでいるとしか思えぬ」

「なにがいけないんだい?こんなに楽しいのに」

「…………」

(太乙にはすまぬが…申公豹にしろ妲己にしろ……やはりわしには、こやつらが人間には見え

ぬ)

多分、人は長く生きすぎると、人であることを越えてしまう。

(忘れてしまう、といってもいいかもしれぬ)

あまりにも長い時間を生きることは、人であるための何かを狂わせる。

(正常な人間でいるための寿命というものが、あるのかもしれぬ)

それを越えて生きてしまうと、怪奇な生き物に変わってしまうのかもしれない。

むろん、人間だけではない。

同じように、物や動植物にも、それが、そのものであるための寿命があるのだ。

ただの石が、気の遠くなる歳月、日月の光を浴びると妖怪になるように、時が、別な生き物に

変えてしまう。

力におごり、本来を忘れる。

きつい顔のまま黙っている太公望の機嫌をとるように、趙公明は柔和な視線で肩をすくめてみ

せた。

「ではキミは、何の為に戦っているんだい?」

「そう言うおぬしはどうなのだ。本当に、ただ楽しいから、か?」

「そうだね……」

少し考えて、趙公明は言った。

「強いて言うなら、目的のないことが目的。ということかな」

「わしには、わからぬ」

「なぜ?」

「おぬしは目的もなく、他人の命を奪い、己の命も危険にさらせるのか」

「目的とは……そんなに大事なものかい?」

「人が生きるには必要なものだと、わしは思っている」

「ふむ……」

存外、考え深げに趙公明はうなずいた。

「まぁ、そんなに言うなら、僕のポリシーととってくれてもかまわないが……一つの例を紹介

しよう。僕の妹の話だ」

「妹……?」

「僕には、3人の妹がいる。彼女らは、自分達のことを美人三姉妹と言っているのだが……」

そこまで言って、趙公明は奇妙な笑いを浮かべた。

「しかしこれが、感動的なほど凄まじい容貌なのだ」

「ほう。それは初耳だのう」

「まぁね。だが…昔は……本当に美しかったのだ。二千年前、彼女らが洞府を開いたばかり

の頃は、あの竜吉公主と並ぶ美仙女とうたわれたものさ」

太公望は、意外な顔で聞いている。縛竜策を手にしたまま、趙公明は淡いブルーの視線を遠く

に投げた。

「ところで、妹たちには一つ欠点があった。何でも自分達の都合の良いように物事を解釈し、

事実をつくり変えてから信じてしまうクセだ。それは、たしかに何割かは真実だったのかもし

れないが……三人は本当に美しかったからね……しかし少々度が過ぎた」

「度が過ぎた?」

「そう。彼女らは、出会った男達はすべて自分達を愛していると思い込んだ。目が合った者は

もちろん、噂に聞いた人間や、果てはただの通行人まで、自分達の姿を見た男は、すべて自分

達にゾッコンなんだと、思い込んだ」

「………………」

「しかしこれは、何も彼女らが特別変わっていたわけじゃない」

「そうかのう……?」

「そうとも。たとえば人は、誰でもそういう部分を持っている。心理学的に言うなら、正常な

人間というのは、自己を、120%の割合で過信しているものらしい。100%、つまり現実通りに

自分を認識している人間は、やや精神異常なのさ。つまり、人間は、常に自分を過大評価し、

良く誤解していなければ生きてはゆけないのだ」

「…………」

「太公望くん、そう考えれば妹たちに罪はないだろう?ところが不思議なことに、千年くらい

経ったとき、少しずつ容貌が変わり始めた」

「変わった?」

「うん。不思議な話だが……。妹たちの功夫が足りないことに仙界の清浄な空気が禍したの

か?それはわからない。少しずつ……本当に少しずつだが……顔が変わり、体が変わり……3

人とも今では見事に強烈な顔と体に変化したよ」

しかし、と趙公明は言った。

「もっと驚いたことには、彼女らは一向に平気なのさ。いや、前以上に、美しいとすら思い込

んでいる。もはや、強力な暗示か仙術のようなものだ。彼女らは、自分達がこの世で一番美し

く、男達がすべて虜であると思い込む術を、自分自身にかけたのだ。そして、そうすることで

今も壊れずに生きている」

「もはや、それが3人にとっての現実、というわけか」

「そう。僕はそこから学んだことがある。現実と虚像に、さして違いはないのだよ。誰でも、

自分だけの現実を見て生きている。だから現実に生き、目的をもってこの世を変えようとする

なんて……そんなことは無意味な事だ」

「のう、趙公明……おぬし……」

「…………?」

「おぬしは……本当は……悲しかったのではないか?妹たちがそんなふうになってしまったこ

とが……本当は、とても悲しかったのではないか?」

薄く微笑みながら淡々と話す趙公明の唇が、この瞬間だけ、蒼く凍った気がする。けれど、

「まさか!」

と言ったときにはもう、もとの自信に満ちた笑みに戻っていた。

「考えすぎだよ、太公望くん。キミの悪いクセだ。僕にはどうしてキミがそんなふうに物事に

意味をつけたがるのかわからないね」

「わからぬわりには、よくわしの策を見抜いているようではないか」

「…………」

初めて、趙公明が黙った。彼は何かを考えているように、黙って暮れかけた空をみつめてい

る。急に冷えてきた空気が、二人の間に、まるで鋭い剣気のように流れ込んでいた。








6.趙公明のテストとイヤガラセ


ようやく楊ゼンが太乙を見つけたとき、ちょうどこの十二仙は、自分の黄巾力士に乗り込もう

としているところだった。

「待って下さい!……太乙真人さま!!」

「楊ゼンくん?」

「どちらへ!?」

「いや……そろそろ崑崙へ帰ろうと思ってさ」

「もう?!」

「うん……まぁね。ナタクの様子も見たことだし……遠くからだけど」

照れたような、それでいて少し落胆したような、読みにくい表情を浮かべて太乙真人は楊ゼン

のほうを振りかえった。楊ゼンに劣らぬ美しい髪と白い頬が、黒衣と知的な瞳によく似合う。

その瞳を伏せ、黄巾力士の巨大な足にもたれたまま、彼は独り言のように付け加えた。

「いや……別にわかってはいたんだ。あれが太公望の嘘だってことはね。でも、ちょっとばか

り期待をしてしまったらしくてさ……私も……」

「え?」

「いや、なんでもないよ。こっちの話だ」

よくわからないが、どうやら落ち込んでいるらしい。

どことなく自分に似た大仙人のそんな姿を見ると、楊ゼンはどうも複雑な気分になる。張り合

う、といえば、楊ゼンは武吉などより、はるかに彼を意識していた。

「ええと……」

一瞬、楊ゼンが言いよどむ。しかしそのスキに、太乙がいつものくだけた笑顔に戻って逆に切

り返してきた。

「何か用かい?……もしかして、太公望のことでも?」

「え?……えぇ……まぁ……」

いきなり先制されて、楊ゼンが珍しくうろたえる。彼のこんな当惑した顔は、太公望に叱責さ

れたとき以外には滅多に見られない。

「おや。当たったかな」

太乙はようやく気を取りなおしたらしい。似た性格を意識しているのは、彼も同じである。そ

れを察して、楊ゼンは慌てたように言った。

「いえ、師叔のことというよりは……朝歌の使者。それから……趙公明のことです」

「趙公明……ねぇ……」

妙に含みのある顔で、太乙は頷いた。

「太乙真人さまなら……直接会ったことがあるのでは?」

「趙公明に?」

「ええ」

「……………」

太乙はなぜか黙っている。しびれをきらした楊ゼンが重ねて聞こうとした時、

「キミの聞きたいことはわかる」

と前置きしてから、太乙真人はとんでもないことを言い出した。

「パニックになるから他の者には黙っておいたほうがいいと思うが……あの使者は、趙公明本

人だよ」

「本人!?」

さすがに予測を超えている。しかし太乙は、半信半疑の楊ゼンを無視して続けた。

「変化というより、ただの変装だ。でも心配は要らないさ。彼が何しに来たのかは知らない

が、ここで誰かを殺すようなマネはしないと思う」

「し……しかし、師叔は今、宝貝が……」

使えない。と信じきっている楊ゼンを、少し可愛いと思いながら、太乙はいつもの冷静な調子

で笑った。

「でも、気になるんなら追いかけたほうがいい。実際、趙公明は私達十二仙でも勝てるかどう

かわからないし……。彼の考えは深いのか、それとも本当に何もないのか……私にもよくわか

らないからね」

「よくもそんな……!落ち着き払った態度で!!」

ナタクのことならそうはいかないくせに。

と、内心舌打ちしながらも、それを言う余裕もなく楊ゼンは踵を返す。しかし、その彼をあえ

て引き止めるように、太乙は、更に突拍子もないことを言った。

「ねぇ……楊ゼンくん」

「僕は急いでいるんです!話なら後にして下さい!!」

「君は……自分が人間だと思うかい?」

「え?」

さすがに言葉の意味を聞きとがめて、楊ゼンが振り返る。

「太公望は……」

と、太乙は、誰に聞かせるわけでもないような、あいまいな視線で言った。

「太公望は、人間には定年があると思っているみたいなんだ」

「人間の、定年……?」

ナゾ解きのような言い方に、さすがの楊ゼンもとまどっている。それを気にする風もなく、太

乙真人は、再びもとのように笑ってみせた。

「まぁ、いいよ。早く行きたまえ。太公望なら大丈夫だとは思うが……キミも心配だろうから

……」

傾いた陽が、黄巾力士の影を長く伸ばし、いっそう巨大な姿を地に映している。

我に返った楊ゼンが、太乙を置いて走り出した。走りながら、袖から白い犬を出す。生物宝貝

に飛び乗って、彼は一目散に太公望の後を追った。

哮天犬の上で激しい向かい風に全身を叩かれながら、楊ゼンは今聞いたばかりの太乙の言葉を

思った。

(太公望は………)

なぜかその言葉が、不安と重なる。少し前から、ずっと感じ続けていた得体の知れない不安と。

(師叔はいったい……なにを考えて……)

再び、その疑問を繰り返す。

しかし、今は一刻も早く二人を見つけなければならない。

太公望と趙公明を。

焦る気持ちを押さえて、楊ゼンは努めて冷静に考えた。

(たとえば今、趙公明と戦ったとして……どう戦う?僕は……勝てるだろうか?)








黄昏の色が、空に最後の輝きを投げている。

「さて、僕の話はもう終わりだ」

趙公明は、仕切りなおすように、太公望に向き直った。

「今度は、僕がキミに質問しよう」

「わしに……?」

「妲己や聞仲くんに聞いた話では……キミは仙道のいない安全な人間界を作るために戦ってい

るそうだが……」

「…………」

「それでいくと………仙道の命はどうなってもいい、ということなのかい?」

「なに?」

太公望の大きな瞳が、わずかに翳る。趙公明はムチのような宝貝を手の平でもてあそびなが

ら、凛々しい眉根を寄せ、ゆっくりと歩き回った。

「君の言動を総合すると僕にはどうもそう聞こえる。キミは……人間は誰一人として傷つ

けたくない。でも、仙道なら、そのためにいくら犠牲が出てもかまわない。人間を守るためな

ら、金鰲の道士も崑崙の道士も、いくら死んでもかまわない。違うのかい?」

「そうは……言っておらぬ」

少し苦しそうに、太公望はつぶやいた。

「人間は守らねばならぬ。だが、そのための犠牲は最小限にしたい。もちろん仙道も、なるべ

くなら封神したくない」

「そう…そうだね。そうかもしれないね」

頷きながら、趙公明は笑った。落ち着いた、なのに嘲笑している声だった。

「つまり……」

と彼は、縛竜索で目の前の太公望を指しながら言った。

「キミにとって、一番は人間だ。その次が崑崙の仙道。そして、最後が金鰲の仙道。これが、

キミのなかでの命のランキングだ。違うかい?」

「………………」

「とりわけ僕らのような……金鰲の妖怪仙人は、人間じゃない。だから、いくら殺してもかま

わない。キミは心のどこかで、そう思っているんじゃないのかい?」

─ 違う ─

と、太公望は言わなかった。ただ、黙って唇をかんでいる。彼自身、本当に迷っているよう

に。けれど、顔は蒼白だった。

「どうだい?太公望くん。……なぜ黙っているんだ?」

攻守逆転したように、趙公明は高く笑った。まっすぐに縛竜索を突きつけて、彼は言った。

「答えたまえ。それによって僕は、キミとの戦い方を決めようと思っている」

戦いを、どう決めようというのか。

太公望にも、そこまでは、わからない。ただ、趙公明の瞳が、思っていたよりも、ずっと静か

で純粋だった気がした。妲己も、王貴人も、魔家四将さえ……本当は皆、こんな目をしていた

のではないか、という気がしていた。

(それでもわしは許すことができぬ。父上や母上や村の皆を殺した妲己を。人間を苦しめ

る仙道たちを。過ぎた力を持った者はもはや、人間とは言えぬのだ)

それでいてなお、殺傷することに、ためらいがあるのも事実だった。

人間はもちろん。崑崙の仙道も、金鰲の仙道も、できれば誰一人、死なせたくはなかった。

(命のランキング……か……)

確かに、そんなものを心の中に作っていた気もする。

(趙公明の推量は、正しい……か)

いずれにしろ、今の彼の中で、最も大切で優先すべきことは、一般人の命を守ることには違い

ない。

(仙道の力は、この世には必要ないのだ。わしも含めて……)

しかし、彼がそうと言う前に、

「おや」

と趙公明が手をかざした。

「何か、飛んでくるようだよ」

急に空を見上げて、彼は目を細めた。濃紺に染まりかけた中天を指して、趙公明がもう一度何

か言おうとした時、

「師叔!!」

ほとんど金切り声のような叫びが、空から、白い塊とともに降ってきた。

「楊ゼンおぬし……」

哮天犬に乗った紫の道服が、突風と共にふわりと太公望の後ろに降りる。太公望は、思わず趙

公明に背を向けたまま、怒鳴っていた。

「おぬし……!?なぜ来たのだ!!」

「あなたこそ!!何もできないくせに、僕を出し抜こうなんて……」

「出し抜くとは…なんだ!!わしの命令を、おもいっきり無視しおって!!少しはわしの立場

も考えよ!おぬしがそんなことだから……皆、わしの命令を軽んじる……」

(ふぅむ……)

と言いながら、趙公明は、動転しているらしい楊ゼンと慌てた太公望のやりとりを、何か珍し

いものでも見るように見物している。

やがて彼は、急に思い付いたように、縛竜索を軽く振った。

「およっ!?」

「師叔!!」

ムチの鳴る音がした、と思った時にはもう、楊ゼンの前から太公望が消えている。気がつく

と、山吹色の道服をつけた小柄な体は、何かロープのようなもので縛られて、趙公明の手許に

いた。

「師叔!!」

もう一度、楊ゼンが叫ぶ。あまりのことに一瞬自失しそうな彼だったが、案外に太公望が元気

なのを見て、ほっと息をついた。その太公望は、ぐるぐる巻きにされたまま、わめいている。

「これっ趙公明!おぬし……わしを何だと思っておるのだ!?しかも、後ろから不意打ちとは

卑怯ではないかっ」

「それはそうだけど…。油断するキミが悪いよ。太公望クン」

「いいから、このナワを解けっ」

「ナワ……というか……一応、僕の宝貝なのだけど……」

縛竜索とは、その名の通り、竜をも縛る大縄である。意思で自在にそれを操る趙公明は、いつ

も剣ほどの長さに縮め、腰に下げている。それを今、伸ばして太公望を捕らえたのだ。

「予定変更だ。名案を思いついたよ」

と、趙公明は言った。言いながら、白い犬を連れた道服のほうに視線を向けている。

「楊ゼンくん……」

「…………?」

「これから僕と、太公望くんを賭けて闘おうじゃないか」

「な……!?」

と驚いたのは太公望だ。糸巻きのような姿で、彼は大声を出した。

「悪シュミな冗談はやめぬか!だいたいおぬし、わしと戦いたがっていたのではないのか?

さっきの質問とやらはどうした!!」

「だから、そのために変更したのさ」

何の問題もない顔で、趙公明は、縛竜索をもとの長さに縮めて手許に戻す。急にあっさり解放

されて、太公望は尻餅をついた。

「おぬし……いったい……」

趙公明は縛竜索の先で、地面に、腰を押さえ当惑している彼を囲む円を描いた。

「太公望くん。その円から出てはいけないよ」

「へっ?」

「もし一歩でも出たら……僕は、宿営地に残してきた従者を全員爆発させる」

太公望の顔色が変わった。事の成り行きを察して、楊ゼンも思わず三尖刀を握りなおす。趙公

明は、微笑んだまま続けた。

「つまりこれでキミは、目の前で何が起ころうと、ただ見ているしかないわけだ。たとえ楊

ゼンくんが僕に殺されてもね」

「趙公明……おぬし……」

「まぁ、ゆっくりそこで鑑賞していてくれたまえ。……さて」

と、ここで彼は再び楊ゼンを見た。

「これで、準備は出来た。一応ルールを説明しておくと……」

「僕が勝てば済むことだ。師叔も周軍も救うことができる」

怒りで、楊ゼンの影が青く揺らめいている。趙公明は肩をすくめた。

「なかなか怖いね。察しの良いキミならもう全部わかっていると思うが……実は周の人達を人

質にとられているため、太公望くんはキミに加勢できない。もちろん、逃げることも仲間を呼

ぶこともできない。最悪の場合、太公望くんは人間を救うために、キミを見殺しにせざるを得

なくなるわけだ」

「加勢なんて要りませんよ」

わざと太公望に聞かせるように、大きな声で楊ゼンは言った。

「あなたを倒すくらい、僕一人で充分だ」

「いいね。その意気だ。では……」

ちょうど、そこから見える遠い地平線に残光が消えようとしている。

赤い光が沈んだ瞬間、二人の仙道が地を蹴った。

◆ to be continued ◆