1.楊ゼンのユーウツ


(どーも……気に入らない)

楊ゼンは、この間から、どことなくイラついている。

(これではまるで、欲求不満だ!)

このままだと、またケンカを売ってきたナタクを三尖刀で突き刺したり、気まぐれに爆弾にバケ

て前方の山を吹き飛ばしたりしてしまうかもしれない。

一見冷静そうで、その実、案外、暴走型の彼は、時々己を押さえるのに苦労している。

(だけど……)

実のところ、彼にも何故そんなに自分が焦っているのか、よくわかっていなかった。ただ、太公

望師叔のことを考えると、自分が自分でなくなるようなふがいなさを感じて、どうにもイライラ

する。

(なんとかしなければ……)

そうは思っても、理由がいまいちハッキリしないのだから手の打ちようがない。具体的には、い

くつか、もっともらしい理屈があるのだが、どれも本当は、違う気もする。

一応、理路整然をモットーとする彼としては、それもまた気に入らなかった。

(この僕が……自分の感情を正確に分析できないなんて!!)

そんなことが、あっていいのか?

憮然としたまま黙々と歩いていた楊ゼンは、不意に傍らの武吉に言葉を向けた。

「ねぇ、武吉くん。どう思う?」

「なにがですか?」

「師叔のことなんだけど……」

「お師匠さまが?どうかしたんですか?」

どこか楽しそうに歩きながら、すぐに武吉のまっすぐな瞳が彼を見返す。

太公望の命令で、ここ数日、二人は並んで前軍の最前列、つまり全軍の先頭を歩き続けていた。

彼等の前には、殷の朝歌に向かう途が、後ろには周軍が延々続いている。

楊ゼンは愛用の三尖刀を肩にかけ、依然、むっつりと前方を睨んだまま言った。

「師叔は何を考えているんだろーか?」

「は……?」

「こう…のたのたしすぎだと思わないか?」

「のたのた?」

「行軍がだよ」

「行軍のスピードが……遅すぎると思っているんですか?」

武吉は、ようやく思い当たったように頷いた。

姫発と太公望に率いられた周軍は、今も、のんびりと朝歌に向けて進んでいる。

シ水関の手前で王太子・殷郊の軍を破って以来、太公望はさして慌てるふうもなく、時々軍を休

ませながら呑気に進軍させていた。

連日、何万人もの足音が、乾いた大地に黄色い土埃を巻き上げる。

きれいな縦列を作りながら、周軍は途中で何日も駐屯しては、殷の各村で食料を配ったり、道を

補修したりしながら、うねうねと進んでいた。

無理のない行軍。

(だが、呑気すぎる)

それがどうも不穏な焦りを感じるようで、楊ゼンは気になって仕方ない。

しかし武吉は、一向に構わない様子で、くったくなく笑った。

「そうですね。でも、お師匠さまには、なにかまた考えがあるんですよ」

「それは……そうだろうけど……」

太公望の策を、誰よりも早く正確に読める。

それが、楊ゼンの自負でもある。

太公望が胸中を明かさないのは、いつものことだ。それを先読みできるのが自分であると、楊ゼ

ンは思っている。

ところが、最近どうも読みにくい。それもイライラの一つではあった。

武吉は相変わらず、頓着しない顔で笑っている。

「僕は…お師匠さまを信じて、ついていくだけです」

いつもみたいに。

と、彼は付け加えた。

なんの迷いもない、無防備な笑顔。常人離れした素直さと底抜けに透明な明るさが、ひときわ笑

みを際立たせる。まさに天真爛漫、という言葉がふさわしい。

楊ゼンは苦笑した。

(天然道士ってのは……笑顔も天然なのかなぁ……)

本当ならとでもいうべきこの相手と、どうにも楊ゼンは張り合う気になれない。

あまりにも自分と異なりすぎて、比較の対象にならないせいかもしれない。それで、つい今も、

太公望につながる悩みなどを漏らしてしまったに違いない。

(まぁ、武吉くんにはどうでもいいことなんだろうけど……)

進軍の遅延には、確かに何らかの策があろう。

だが、それだけではあるまい。

(たぶん……師叔は、まだ迷っている)

戦うことに。

と、いうよりも、勝つために戦うことに。

人間を巻き込んだ戦争。どれだけ犠牲を伴うのか予想もつかない、仙道達の激烈な戦い。

それらに勝つ為に、手段を選ばず何でもやる、と言いきるには、まだどこか太公望には、臆病な

躊躇がある。

(それは、わかっている……)

そして、そのことを誰にも打ち明けないのもわかっている。

むろん、自分を頼ってくれないこともわかっている。

それでも最後まで、師叔はこの自分が守ると、決めている。

しかも……師叔はやっぱりある意味、僕を信用してくれていて……。

(それなのに)

そこまでわかっていながら、どうしようもなく楊ゼンはイラついているのだった。

何かが、不安だ。

何かもっと、根源的な不安。暗い深淵を覗き込むような、永久的で取り返しのつかない不安。

(でも、それは一体何だ?)

そこまで考えた時、急に、後方から四不象の声で、全軍停止の命令が届いた。









「ここを、しばらくの間、宿営地とする」

中軍の先頭で馬上の姫発を前に、太公望が言っている。

殷の最後の関所、臨潼関を控えた山間にさしかかった辺りだ。大軍を駐屯させるにはおつらえむ

きの場所ではある。

しかしそれを聞くと、姫発を護って馬の右を歩いていた天化が、すっとんきょうな声を上げた。

「また休むさ?!師叔〜〜」

「天下分け目の大戦争にしちゃあ、緊張感がねぇよなぁ」

姫発もボヤくように太公望を見下ろしている。姫発の左にいた武成王が、急いでとりなすように

言った。

「武王……。太公望どのには、何か考えがあるんですよ」

「案外、自分が休みたいだけかもしれないさ」

思案げな父の言葉に、天化がまぜっかえす。

「何か、ここでやりたいことでもあるさ?師叔?」

からかってはいるが、悪意のない声だ。太公望は軽く笑った。

「うむ。朝歌に入る前に、皆で工作しようと思ってのう」

「工作ぅ─!?今度は何作るさ?」

「戦車」

「な……?」

ちょうどその時、前軍の先頭で指揮をとっていた楊ゼンと、彼を補佐していた武吉が走り戻って

くる。それを見つけて、太公望はまず武吉に尋ねた。

「どうだ?前方に敵影はあったか?」

「いいえ。お師匠さま。僕の目には何も…」

そのために、視力のズバ抜けた彼を先頭に配したのだ。ハキハキとした声に、太公望は自分の読

みを確認するように微笑した。

「よし。では武吉、これから戦車を作るからのう……」

「戦車ですか!?うわぁ……すごいなぁ」

「おぬしは、材料となる木材、獣皮を集めてくるのだ」

「わかりましたっ」

楊ゼンは、飛び出してゆく武吉を黙って見送っている。他の三人も渋々去ってしまうと、先日か

らのイライラが更に悪化した気がして、楊ゼンの白い頬がますます蒼白く引きつった。

「どうしたのだ?おぬし……」

やっと気付いたように、太公望は、ここで初めて楊ゼンに向き直った。

「顔色が、すぐれぬようだが……」

と、唐突に楊ゼンが妙にキッパリ言い切った。

「あなたのせいです」

「なに?」

「僕の顔色が悪いのなら、それは、あなたのせいだと言っているんです」

「また……わからんのう……」

呆気にとられた太公望が何か言おうとする前に、楊ゼンは一気に先手をとった。

「どうも最近の師叔の意向が、僕には読めません」

「ふむ……。それで、おぬしの機嫌が悪いのか?」

「たとえば師叔、今度の駐屯にしても…」

「なんだ?」

「戦車は、一応、正規の周軍5万には……隊長クラスに一台ずつ支給されています。彼らは一人

につき、百人の歩兵を指揮していますから、ざっと五百の戦車が既にあるわけですが…それで不

足なのでしょうか?」

「なんか……周公旦のような、もの言いだのう……」

淡々と畳み掛ける論調に、太公望が、たじたじと引きながら今にも逃げ出しそうな顔になる。

途端に楊ゼンは、細い眉をますます不機嫌につりあげた。

「失礼な。この僕を、あんなフケ顔の人間と一緒にしないで下さい」

「おぬしのほうが失礼な気もするが……」

「ともかく。僕には師叔の意図がわかりません。この先、人間の関わる戦闘が大規模に行われる

可能性は少ないと思います。いまさら軍備を増強しても……」

それを制して、太公望は

「4頭立の戦車を作りたい」

とだけ言った。

「戦車に馬を4頭つなぐのですか?」

わずかに興味をひかれた瞳で、楊ゼンが改めて太公望を見る。

その反応を待ってから、彼は続けた。

「今のところ、この国に4頭立の戦車はまだない。殷の王族さえも2頭立であろう?」

「確かに、馬力が上がれば戦力も飛躍的に上がると思いますが……」

「それを並べて、朝歌を無血開城させる」

楊ゼンは黙って聞いている。

「朝歌に対してだけではない。殷の民、そして周軍自身にも見せるためだ。華々しい行軍は、技

術と国力の象徴になる。新しい時代は希望に満ちた豊かなものだと期待させねばならぬ。殷に希

望を、周に自信をうえるのに役にたつ。特に周軍はあまり戦っておらぬからのう」

ようやく楊ゼンの目許が、わずかに和んだ。微笑うと、陽光を反射して美貌が映える。蒼みが

かった紫の瞳が、深い色をたたえて静かに瞬いた。

「そうですか……。そこまで考えて……」

楊ゼンは、どこかほっとしたように、内心苦笑した。目の前にいるのは、いつもの聡明な太公望

である。

(どうも…策では、いつも裏をかかれる)

けれど、悔しいわけではない。むしろ喜んでいる気がする。

(僕にも、そんな感情があったなんて……)

楊ゼンには、それが毎回、新鮮で不思議だった。自分だけが大切だと思っていた頃、いくら修行

し術を極めても、どこか寒々としていた。師匠である玉鼎真人を超えた時も、太公望と共にいる

今ほど感動しただろうか?

いつも、どこかが冷えていた。キリキリと張り詰めた神経を持て余しながら、ただ強くなること

だけを考えていた。

もっと、もっと、強く。

師匠よりも元始天尊さまよりも、仙人界の誰よりも強く。

それは、一人の道士としては華やかな欲望かもしれない。

けれど達成されてしまうと、ただ当然のようで色彩を失う。

(もちろん勝てない相手はまだいるけど)

目的のない強さはつまらない。

自分の為だけでは、満ち足りた幸福を味わえない。

(僕は……寂しかったのだろうか……?)

似合わないと思いつつ、楊ゼンは自分をそんなふうに振り返ってみる。

久しぶりに少し気が静まった気がして、楊ゼンは太公望を正面からまじまじと見つめた。

男の、というより、子供特有の大きな瞳。

まだ少年の、柔かな曲線を描く頬。

幼い顔、というのが正しい。仙道は歳をとらない。とはいえ、太公望は他の道士に比べても、特

に若年な姿をしていた。この小柄な体のどこに他人を謀り殺す力があるのかと疑ってしまう。無

論、「幼い」というのは、外見が、である。実際は年齢相応な表情を浮かべる、周到で用心深い

周の軍師だった。

(師叔が本気を出したら、謀殺できない者はない)

楊ゼンは本気でそう思っている。しかし、その太公望も恐れる相手と、これから戦い、勝たねば

ならない。

「楊ゼン…」

と、不意に太公望が言った。その頬がいつのまにか翳っている。

「戦車は確かに必要だが……実を言うと、わしはもっと時間が欲しいのだ」

「時間……ですか」

「もう少し、金鰲の仙道が仕掛けてくると思ったがのう……。そうすれば朝歌に入る道々で、わ

しらももう少し、各々レベルアップを図れたハズだが……」

そこで言葉を切って、彼は楊ゼンにだけ聞こえる声でつぶやいた。

「今のままでは、まだ妲己にも聞仲にも勝てはせぬ」

「では、ここで金鰲の道士を待つと?ここに誰か現れるのでしょうか?」

「そうとは限らぬが……。どちらにしろ、朝歌に入る前に妲己、申公豹、聞仲以外の誰かと…も

う少し戦っておく必要があろう」

「この先のメンチ城は最後の塞ですから、その直前で仕掛けてくるのでは?」

「うむ。できれば……いきなり妲己でなければよいと思う」

珍しく、太公望は憂鬱そうだった。

(いや、いつもこの人は憂鬱なのだ)

楊ゼンは思っている。

(これだけ先も裏も読む人が、楽天家であるはずがない)

それでいて、楽天家のフリをする。

太公望の、もう一つの顔を知る者は少ない。

「嬉しいですよ、師叔」

「なにがだ?」

急に笑顔を浮かべた楊ゼンに、太公望は少し驚いたように顔を上げた。

「あなたの、そんな顔が見れて。まるで、僕だけのあなたのようです」

「……また……そういうことを言う」

半分困ったような、それでいてどこか照れた表情で、彼は急いで聞き捨てた。

「いいから万一のときは……頼んだぞ、楊ゼン」

「僕は前にあなたの剣になります、と言いましたが……」

「?」

「盾にもなれますよ。ご心配なく」

「ふざけていないで、さっさと武吉を手伝わぬか」

時折、楊ゼンにだけに見せる微妙な笑顔で、太公望が笑っている。

それを見ると、楊ゼンは連日感じていた得体の知れない不安が、少し薄らいだ気がした。

もっと、もっと強くなりたい。

彼は前にも増して、そう思う。

(僕のためではなく、太公望師叔のために)

すると、不思議に暖かい、豊かな充足に包まれる気がする。

しかしそう強く想うほど、同時にそれを遮る冷たい何かを感じた。

(それがいったい何なのか……)

思いつかないまま、楊ゼンは命令通り、武吉の後を追った。




2.趙公明のこだわり



「ああ……ダメだよ。これでは、まったく話にならない!」

殷の王都・朝歌にそびえる禁城の一室で、いつも大袈裟な趙公明が、いっそう大仰に息をついて

いる。

「こんなことなら、聞仲くんにもっとよく聞いておくんだった」

辺りを威嚇するような、ぴしりと張った肩をそびやかすたびに、ボレロの金具が微妙な音をたて

る。

音に合わせて、いつものグラスをゆっくりとくゆらしながら、高い天井に、物憂げな瞳を漂わせ

る。

それ自体が衆目を意識した過剰な演技であるような、それでいて、己だけが悦に入っていること

を承知の上で楽しんでいるような、一種、独特の雰囲気があった。

金箔や象眼をほどこした豪華な室内をバックにして、なお、目立つ彼が、再び息をついた時。

すぐ近くで、ぞっとするほど妖艶な笑みが聞こえた。

「あらん何がダメなの?趙公明ちゃん」

「おや、妲己。キミ、まだ出かけなかったのかい?」

いつのまに部屋に入ったのか。

趙公明の目の前には、彼と同じくらいハデな装いに、他人を嘲り蔑む、ふざけた笑みを添わせた

殷の皇后が立っていた。

「趙公明ちゃんこそ。太公望ちゃんたちは、敗残した殷の兵を吸収しながら、もうメンチ城直前

まで迫ってるわん。そこを越えたら、ここ、朝歌よん」

「わかっているとも。僕の召し使いも敗れて逃げ帰ってきてるからね」

「わらわのパパも裏切って太公望の揮下に入ってしまったし、継子の王太子も惨敗のうえ死んで

しまったわん。紂王さまは御気分がすぐれず、もうずっと臥せっていらっしゃるし。そろそろ、

わらわ達が直接、太公望ちゃんの出迎え準備に入らないと…」

「そう。それだよ妲己。そのことで僕もさっきから、さんざん悩んでいるのさ」

趙公明は、豪奢な椅子に深く腰掛け、長い足を組んだまま、意味ありげに長いまつげを瞬かせ

る。

「出迎えには、演出が必要だろう?これは、太公望くんたちを迎えるパーティである一方で、僕

らの楽しみでもあるのだから」

「当然よん」

「それで僕は、今度の戦いをモチーフに、太公望くんたちを役者に使った数本のドラマを構成し

ようと目論んでいるのさ。むろん、単なる戦闘シーンだけでなく濃厚な人間関係も入れてね」

「まぁ、では純愛バトル映画のようなものねん。趙公明ちゃんはさしずめ監督かしら?」

「僕は……太公望くん一行という素材を十分活かし堪能するための最高の舞台と脚本を用意しな

ければならない。戦いは…いや、生きているということは、常に、壮大なストーリーでなくては

ならないのだからね」

常人離れした得体の知れない言い分を吐きながら、彼は、複雑な曲線美を描くロココ調のテーブ

ルに手をのばす。

「ところが、だよ」

そこに置かれた報告書を片手でめくり、憂鬱そうに首を振った。

「太公望くんたち崑崙道士のプロフィールを調べてみたのだが……聞仲くんが送りこんだスパイ

の情報は途中で切れてしまってる。彼らの能力は一戦ごとにバージョンアップしているし……呂

岳ごときでは細かい内情まではつかめなかった。ドラマの演出を行おうにも、肝心のキャストが

わからないことには、さすがの僕もプロデュースのしようがないわけだよ」

報告者から手を放すと、何気なく簡単な口訣をとなえ、彼は同じ指先に、手品のようにぱっと花

を咲かせた。不思議な香りの漂う花弁を弄びながら、彼は心底、残念そうに言った。

「こんなことなら、聞仲くんが出かける前にもっとよく聞いておくのだった。彼なら、あのメン

バーに一通り会っていたのに……」

その聞仲は、4ヶ月前に金鰲島へ十天君を迎えに行ったきり、帰ってこない。妲己は艶のある口

元を歪め、からかうように笑った。

「まぁ……趙公明ちゃんったら。言葉が正確じゃないわん。聞仲ちゃんが出かける前に、じゃな

くて聞仲ちゃんを金鰲に閉じ込める前に、でしょおん?」

「嫌だなぁ。何を言い出すんだ。それじゃまるで聞仲くんが帰ってこないのは僕のせいみたい

じゃないか。残念ながら今の僕には、十天君を操って聞仲くんを足止めすることなどできない

よ。キミなら可能かもしれないけれど」

それには答えず、すごみのある陰惨な目つきで妲己は軽やかに微笑み返した。

「それは、ともかく……」

花弁の一枚を散らしながら、趙公明は瞑想するように目を閉じた。

「やはり…僕が出る前に、一度、有能な使者を送ってみよう」

「太公望ちゃんのもとに、もう一度スパイを送るの?」

「ノンノン!スパイなんて姑息な真似じゃなく正々堂々と使者を送るんだよ。策士・太公望の裏

をかくには策を弄さないに限るってわけさ」

もう一度、妲己が笑う。しかし、彼女の笑声は途中で怪しい微笑に変わっていた。

「さすがは趙公明ちゃん。うがった作戦ね。でも……そんな回りくどいことをするより、いっそ

自分で確かめてきたらどう?百聞は一見にしかずって、よく言うでしょおん?」

それには応えず、趙公明は黙って立ち上がる。そして、状況を楽しんでいるような奇妙な笑いを

浮かべると、持っていた花を、出したときと同じように、瞬時に消した。

「あら。せっかく綺麗だったのに。可哀相だわん」

まったく哀れみなど感じない口調で、妲己は美しい指先を向ける。趙公明は独特の笑顔を崩さぬ

まま、部屋の出口に向かった。

「たわむれに咲いて、愛でられるべき絶頂で消える。これこそが美しいというものだよ」

その背を、部屋の奥から妲己の声が追う。

「でも……趙公明ちゃん。あなたのシュミは知ってるつもりだけど、リアクションはそこそこに

してねん。地上の人間すべてを滅ぼそうなんて考えちゃダメよん?」

「おや?なぜだい?妲己…?」

「だって……花を愛でたがるのは人間なんだから。わらわだって、ダマす相手がいるからこそ…

…」

「キツネでいられるわけかい?」

カン高い笑いを残して、趙公明が部屋を出る。それを、妲己の、残忍な影を含んだ暗い瞳がじっ

と見送っていた。








3.太公望の思惑



晴れた空の下、戦車の部品を同じ型ごとに山積みにして、兵士たちが数人ずつ固まりながら流れ

作業をやっている。

部品は、獣の皮や、武吉が切り出した木を、車のパーツにくりぬいたものだ。

作業をしている各グループを順番に覗きながら、太公望は、ほうほう、だの、ふんふん、だのと

頷いている。

「順調だのう……」

しかし最後に、完成した一台の前で立ち止まった。群がった人々の中央で、試乗していた姫発が

馬に振り回されて転げ落ち、ぎゃあぎゃあ喚いている。

「やい、太公望!てめぇのおかげで、ひでーメにあったぜ」

「どうかしたかのう」

「4頭もつなぐから馬がバラバラになってよ。おまけに見ろ!」

しりもちをついたまま姫発は車軸を指した。2つの前輪をつなぐはずの棒が、あえなくポッキリ

折れている。

「ふむ。4頭の馬力を揃えるのが難しい、か……。それに、馬力が上がったぶん…車体がもたぬ

わけだ」

戦車の周囲をぐるぐる回りながら、太公望は、さほど困ってもいない様子で

「困ったのう……」

と、つぶやいた。すると、

「そんなの簡単だよ。私が作ってあげようか?」

急に、背後で男の声がした。

迷惑な、というより、やや呆れた顔で、太公望が振り返る。

思った通り、長い黒衣をまとった背の高い男が、いつからそうしていたのか兵達に混じって車体

をつついていた。

「太乙……おぬし……。また来たのか?」

「また、はないだろう。これでも心配してるんだよ」

「ナタクをか?」

半分以上、図星をさされて、太乙真人の白い頬がしどろもどろに赤くなる。けれどすぐに彼は、

十二仙の一人らしく威厳を取りつくろって笑ってみせた。

「キミたち全員の心配さ。私だけじゃない。玉虚宮の元始天尊さまも他の崑崙十二仙も…いつで

も力になれる用意はできている」

「それはありがたいのう……。なにしろ元始天尊さまも十二仙も、いるだけで何もしてくれぬか

らのう」

そう言われると立つ瀬がない。

という顔になったが、太乙は事実なので黙っている。埋め合わせのように、彼は車輪の一つをい

じった。

「戦車が要るなら戦車型の宝貝を作ってあげるよ」

「わしが欲しいのは、そういう……仙道が持つ超人兵器ではなく、人間が乗れるフツーの戦車

だ」

「なら、4頭の速度を自動制御できる装置と、特殊合金の車軸を作ってあげるから、それを取り

付ければいい」

「いらぬというに」

「なに、遠慮はいらないよ」

「人が使うものは人が作らねばならぬ。わしは人間が人間のために生きる、人間だけの世をつく

るつもりなのだ」

「相変わらず……案外な几帳面だねぇ」

太乙は感心したように笑った。

超人的な力を持った仙道を排除し、人間のための世をつくる。

これは、太公望の、一つの信念だ。

「確かにキミは人というものを熟知してるし、こだわっている。私にとっての宝貝のようなもの

だね。まぁ、人間オタクと言ってもいいよ。もちろん進軍がモタモタしてたのも理由があるんだ

ろう?当ててあげようか」

「………」

「殷の民に反感を買わぬよう慰撫しながら進んでいる。違うかい?いちいち一般住民や降伏した

ハズの殷軍に背後から襲われたら、妲己どころではなくなるし、何より周王朝を建てた後、あち

こちで反乱が起こっては面倒だ。実際、上手く手なずけていると思うよ」

決して皮肉ではなく、朗らかな敬意を込めて太乙は言った。

「食料を豊富に配ってくれる強くて優しい軍隊が、悪行三昧の皇后を倒しに行くなんて……今の

殷の人々には、キミらが神に見えるさ」

「天上のカミサマが何もしてくれぬからのう」

誉め言葉には関心がないように、太公望は、あてつけがましく太乙をチラリと見上げる。太乙は

困ったように笑った。

「だって、仙道は神様じゃないよ。キミは人間には詳しいけど、仙道については少々誤解してる

んじゃないのかい?」

「誤解?」

「私たち仙道も人間だってことさ。もちろんキミも含めてね。我々だけじゃないよ。金鰲の妖怪

仙人だって、魂魄が宿った以上は人間さ。宝貝人間だって、もちろん……」

ちょっと驚いたように、太公望は、太乙の笑顔を覗いた。

たしかに最近のナタクには、目を見張るほどの人間的成長がある。しかし、同じくらい太乙自身

も変化したような気もする。

人の親になってはじめて、人間が更に成長してゆくように。

(だが……仙道は、人間だろうか?)

太公望には、一つ、疑問がある。しかしそれを言う代わりに、

「さてのう……どんな誤解かのう……」

トボケたように空を見上げ、いかにも頭の悪そうな、だらしない顔をした。そして、

「おお、そういえば……」

急に思いついたように、話を変えた。

「太乙。ナタクがおぬしを探しておったぞ」

「え?」

途端に、太乙真人の頬に、うろたえた喜色が浮かんだ。

「ほ…ほんとかい?何の用だろう」

「さあ?」

「困ったなぁ…。親離れできない子でさ」

「子離れできぬのは、おぬしのほうだと思うがのう」

最後のほうは、いそいそと遠ざかる太乙真人に聞こえぬように、小さくつぶやく。ナタク

が探しているというのは、もちろん、でまかせだ。

もっとも、彼には、素直になれない親子の仲を取り持ってやろうという気がある。

(やれやれ……やっと行ったか)

しかし、そう思うと同時に太公望は、少しほっとした。ナタクを前にした太乙は、確かにひどく

人間らしい。

(あれでは……ただの母親だのう……)

もう一度、空を見上げると、雲一つない、静かな青空が広がっている。

(仙道も人間……か)

そう思った時、

「太公望……。今度来るときは、義手を作ってきてあげるよ」

(まだいたのか?)

やや、ぎょっとして太公望は視線を戻した。気配を消して相手に近寄るのが、宝貝製作と並ん

で、この仙人の得技かもしれない。

「そのままじゃ不便だろう?」

「それはそうだが……。変な宝貝じゃあるまいな」

太公望は、疑わしげに警戒している。

「まあね。楽しみにしてておくれよ」

やけにニヤついた顔で太乙が手を振った。心配しているのか、単なる興味本位か、わかりにく

い。宝貝オタクらしく、変わった腕を製作してみたいだけかもしれない。黒い、ひらひらした道

服が見えなくなると、太公望は嘆息した。

(どーも仙道は、ヒトが良いのか悪いのか、わからぬ奴が多い)

自分も、かなりわかりにくい道士のくせに、ふと、そんなことを思った。 周囲では、人間の兵士

たちが同じようないでたちでガヤガヤと右往左往している。

が、突然、それをかきわけるように、紫の道服が近付いてきた。風もないのに、長い裾が大きく

翻っている。

「楊ゼン?」

「師叔!」

「どうした」

「妙なことになりました」

珍しく楊ゼンの息が上がっている。尋常ではない気配を感じて太公望は緊張した。

「金鰲の道士でも出たか?」

「はい」

と言ってから、わずかに思案して楊ゼンは訂正した。

「……いえ、正確には__趙公明の使者と名乗る者が、護衛の兵を引き連れて、師叔に面会を求め

ています」

◆ to be continued ◆